May 02, 2004

季語

saijiki.jpg 草木花 歳時記・朝日新聞

 Blogの更新をしたら、「Blog査察委員会・秋山さん」から電話があった。「これからは、Blogには、季語をいれましょう」ということばは、いつものように半分本気半分冗談だとぼくは受け取ったが、「とれたて」がひとつの売りであるBlogにとっては、季語という概念は無関係ではないなと思った。
 たった一度だけ参加した連句の会でぼくは季語を入れ忘れて素人の恥をさらしてしまったことがある。初心者にとっては、季語や枕詞というものは義務のように思われるから不自由を感じてしまうけれど、俳句や短歌のように17や31と、少ない語数という制限のなかでなにかを伝えようとすれば、季語という約束ごとは、むしろ心強い味方なのだ。
 「歳事記」は、言ってみれば季語のカタログ、言葉を季節というカテゴリーによって整理した辞書である。「花の歳事記」という本があるのをみつけて、2、3年まえに、ぼくは誕生日、母の日、敬老の日、クリスマスに一冊ずつ母に贈ったことがある。季語というカテゴリーで植物を整理した写真による図鑑で、春夏秋冬の4冊に分かれている。写真といっしょに、それを季語として詠んでいる俳句が数首添えられている、とても魅力的な図鑑だ。
 今も昔も桜という花が特別あつかいをされてきたおかげで、ぼくたちは沖縄から北海道までの春を期待したり名残りを楽しんだり、時間と場所の2重の背景を感じとる。桜という花、それを話題にするという文化のおかげで、春という特別の季節をたのしく長く幾重にも楽しむことができる。南北にわたる花のたよりから葉桜までの時間は、きっと3ヶ月間にもなるのではないか。葉は、水羊羹やくず桜を包んで夏になってからまたやってくる。

かくもこまやかな時間と場所の世界を受け継いでいるはずのぼくたちが、定規で州の境界を定めたような国の感覚と文化を、迂闊にも、しかも嬉々としてそのまま受け入れてしまい、今も進行している。あれは、彼らの風土のためのやりかた、一地方の方法なのに。
 どこの国にも、どのまちにも、受け継がれてきた時間と場所と記憶が重層している。それを、全国共通、全世界共通の荒っぽいマニュアルで整理してしまおうとしているのは、とんでもない間違いだと、日本中の都市の郊外いたるところに大型店のならぶ街並みが教えてくれる。
 それどころか、9.11の出来事にもアフガニスタンの子供たちの顔にも、イラクの瓦礫の山にも同じことが書いてある。その荒っぽい時間と場所の感覚で、2000年も昔になくなった国の回復を、力ずくでやってしまったことのツケが世界中に、そしてだれよりもそこに敵と味方として生きなければならない人たちに最も重く回って来ているのだ。

 本の写真を探そうと思ってamazon.comのサイトで「花の歳時記」と検索したら86件もある。ぼくたちがいかに花と季節が好きなのかを実感してびっくりしてしまった。手元に本がないので、どれだったのか定かではない。おそらくこれだろうと見当をつけた「花の歳時記」は発行が2004.4と書いてある。母に電話をかけて確認したら、それとは別物で朝日新聞刊・ 草木花 歳時記という本だと分かった。

投稿者 玉井一匡 : May 2, 2004 09:06 AM | トラックバック
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