September 16, 2004

碁のうた碁のこころ

gonouta.jpg 碁のうた碁のこころ 秋山賢司著 講談社

 ぼくは一度も碁を打ったことがない何も知らない門外漢なのだが、読み始めたら思いがけずおもしろい。友人が企画編集した本をくれたおかげだが、さもなければ自分で買って読むことはなかったはずの本だ。
 囲碁の本とはいえ碁そのものについてではなく、碁のことをよんだ俳句や短歌や詩について書いてある。紫式部、清少納言、子規、菅原道真など、だれもが知っている人たちの短歌、俳句や漢詩をとりあげる。対局の観戦記を長年書いてきた著者の雑誌連載が単行本になったものだ。
 詩は、直接に囲碁そのものを語りはしない。普遍的な真実をかたり、多くの人に共有されている歴史を背景にしているから、素人でも分からないというところがない、むしろ、そこから逆に囲碁の何たるかについて読み取ることができる。頭の悪い著者が書くと、そういう人はシロウトには何が分からないのかという想像力がないから、わかりにくいつまらない本になるものだ。しかしこれはシロウトでもおもしろい、きっと碁を知っている人にはもっとおもしろいのだろう。
 読み進むうちに、さらにもう一度、急におもしろくなった。

 囲碁の盤面は、そもそもそれ自体が定型詩なんだと気づいたのだ。1行に19文字で19行という制限の中で、白と黒というふたつだけの文字で書かれる詩ではないか。別の言い方をすれば19行19列の2進法、石のないところも含めれば3進法による行列(マトリクス)である。その文章は、上から下に右から左に書かれるのではない。どこからでも書き始めることができるから、文字のなすパターンは時とともに変化する。もしかすると、そんなことは囲碁を打つ人にとってみればあたり前のことなのかもしれないが、ぼくにしてみればちょっとした新鮮な発見だった。
 定型詩のさまざまな約束事は世界を小さくするのでなく、むしろ大きく深くする。枕詞や季語は制約ではなく、むしろ語数の制限を突き抜けるためのツールとしてつくられたにちがいない。
 約束事はかたちを制限して秩序立てるものだが、その制限があってこそ、そこからの逸脱という創造行為が可能になり、むしろ表現がゆたかになる。豊かな逸脱を生むものがすぐれた約束事、いいかえればよくできたあそび、すてきな世界なのだ。
 おそらく囲碁の世界では、勝ち負けだけではなく、そこに内在する白と黒という文字のおりなす「うた」を大切にするのだろう。時とともに、勝負という結果より「うた」が輝きをおびてくるのだろう。まだ打ったこともない囲碁の世界について、ぼくはそう思うようになった。

投稿者 玉井一匡 : September 16, 2004 07:08 PM | トラックバック
コメント

 おはるさん、インターネットで外国の人たちとも囲碁を楽しんでいらっしゃるという父上のことは、いいはなしですね。インターネットのはじめのころに、どこでしたっけアメリカの大学の研究室のコーヒードリップをカメラで常時うつしているというのを見て、遠くはなれたところと時間を共有できるインターネットというものの力を実感して胸躍る気がしました。同じように、知らない国知らない町にいる、それまで知らなかった人と同じ時間おなじ気持ちを共有できるというのは囲碁ならではのことで、コーピードリップのときのよろこびがよみがえります。
囲碁ほど、本物のゲームとインターネット上のゲームとが近いものはないということもありますね。そういうときにはわきに碁盤を置いて石を置きながらうつのでしょう。それに、ネット囲碁なら完全な記録がのこるから、なんどでも喜びや悔しさを再現できるという点では、本物よりもむしろいいところもあるわけだ。
 楽しむためなら、いまからでも、十分に間に合うらしいですよ。ぜひ、囲碁を再開するといいですよ。父上に教えを乞えば大喜びで、インターネットで教えてくださるでしょう。ぼくには、残された時間がもう足りないですが。

Posted by: 玉井一匡 : September 21, 2004 11:26 AM

実家の父は囲碁狂で、家でも外でも、定年後はネットでも世界中の人と碁を打っています。
私も子供のころ少し教わりましたが、ハマるまでいかず、
今になってやっておけばよかったな、なんて思っています。

石のひとつひとつが一手一手により生きたり死んだり。
あの小さな囲碁の盤上に無限の宇宙があることは確かなようです。
打つ手によってその人の品格もわかる。
父によるとプロの碁は「次元が違う」とか。

「うた」を感じながら打っているのか、今度帰省したら聞いてみようかなと思いました。

Posted by: おはる : September 20, 2004 03:06 AM
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