January 08, 2005

真綿のお供え餅と大連

 先日、新潟で母を歯科医に連れて行った帰りに親戚の経営する食器店「大橋洋食器」の前をたまたま通りかかった。どういうわけか、これまで一度も店には寄ったことがなかったので、店の前のパーキングメーターにクルマをとめて中に入った。1,2階が店で4階に社長の夫人の母上がひとりで住んでいらっしゃる。子供のころからぼくたちは「あっちゃん」と呼んでいる社長の父とぼくの父がとりわけ仲の良い従兄弟同士だった。この日はたまたま、あっちゃん夫妻と母上が在宅で、食器のならぶ1階と、合羽橋のように調理道具がいっぱいの2階を見ると、商品を素顔で並べているプロ向けの店が僕は好きなのにこれまで寄らなかったことを悔やみながら通り抜け、店の奥にある階段をのぼって4階にたどりついた。

 座敷の床の間に8寸ほどの大きなお供え餅があったが、大きなみかんの重さに耐えかねて中央が沈んでいる。近づいてよく見ると、それは餅ではなく真綿でできている。

 ちかごろのプラスチックのお供え餅は餅型のなかに小さな丸餅が詰められているという半ニセモノが多いが、それとはちょっとちがう。新年とはじめての訪問の挨拶が終わると、待ちかまえたようで恐縮だが「お供えが真綿なんですね」と、さっそく質問にうつった。
無教会派のクリスチャンでおられる母上は、うれしそうに説明してくださった。
 「むかし、うちに出入りしていらした方が、毎年、年末になるとそうやって真綿でお供えをこしらえて届けて下さったんです。いつからだったか、お年も召されたから、届けられなくなったんですが、ありがたいお気持ちを思い出して最後の真綿のお供えを出して来て飾ることにしたんですよ。ほんとは、上に乗せる橙も真綿でつくって色をつけてくださったのがのっていたんですが、橙がなくなっちゃったんで、本物のみかんをのせたら真ん中がへこんでしまう。ですから、下に小さな箱をいれてあります。」
お供え餅が記憶の箱の蓋をあけるカギになったのかもしれない。むかしの話へ、つぎつぎと広がっていった。
「父がディーゼルエンジンの研究をしていたものだから大連汽船に勤務して、わたしは大正14年に大連で生まれました。20才で終戦になって23ではじめて日本に来ました。大連は放射状の道路に洋館風の家でしゃれたまちでしたから、はじめ新潟が窮屈でした。」
「戦後に大連にいらした3年間はずいぶんご苦労なさったんでしょ?」
「帰るときの船に乗るのは大変で、行列をはなれたらもう席がなくなるというんで、お手洗いにいくのも我慢してとても長いあいだ待たされました。でも、むこうに住んでいるときはいいひとにめぐまれました。はじめは、父が外出するときには、娘3人でしたからいざというときにはここにあるから飲みなさいと、天井裏に隠した青酸カリの場所を教えてもらっていました。でも、ひとりだったら怖かったでしょうけれど、姉や妹も一緒でしたからちっとも怖くありませんでしたよ。
 ご近所に製粉所をやっていたお友達がいらして、その方は働いていたシナ人にもとてもよくしていらしたから、終戦後はその人たちがむしろ守ってくれました。戦後にはその工場で占領軍に納める粉をつくっていたので、父もいっしょにやっていました。
 ソ連軍の将校が、住まいとして家を貸してくれないかといってきたんですが、その人がとても純朴な夫婦だったから、うちの部屋を貸してあげることにしました。でも、家賃はいらない。そのかわり、私たちを守ってほしいと父が言ったんですよ。ときどき軍隊からもらう食べ物なんかも分けてくれたし、赤ちゃんもうちで生まれました。ほんとうにいい人たちでした。」
写真を見せていただいたが、たしかに、カラー写真だったら頬の赤いような、見るからにロシアの農民という風情の夫婦だった。
「ひどい目にあったという話はいっぱい聞きましたが、そういういい話は、ぼくははじめてうかがいました」
 その後ふたたび家族みんなで大連を訪れたときの話やら、大連にはライトが設計したきれいな病院があったことなど、それからしばらく、アルバムを見せていただきながらむかしの話をうかがった。その日の夜には東京にもどる予定なのに、いつまでも興味深い話はつきなかった。来年は真綿の橙を持っていってあげようと思いながら店の前のパーキングメーターを見ると、赤いランプが気ぜわしく点滅を繰り返していた。
 デジカメを持っていかなかったので携帯のカメラで真綿のお供えをとったら、写りが悪いお蔭で、かえって本物のようにみえる。

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投稿者 玉井一匡 : January 8, 2005 10:37 PM | トラックバック
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