July 06, 2005

シトロエンC3プリュリエル

 「ニッポンプロダクトの一つとして」の会場になったウィメンズプラザの前にあるオーバルビルの1階にシトロエンのショールームがある。7月2日の午後、講演と懇親会の間の時間にちょっと抜け出して見てきた。ぼくにとっては、久しぶりに好奇心をそそられるクルマ、シトロエンC3プリュリエルの現物が置いてあるのを行きがけに見つけたからだ。長いあいだ、CITROENのホームページの上だけでしかみられなかったやつだ。
 クルマというものは、もうとっくのむかしに基本的な部分は完成してしまったと、ぼくは思う。その点では、建築によく似た状況なのかもしれない。屋根と壁と開口があればそれは建築だというのは紀元前から変わらない。このところのクルマたち、とりわけヨーロッパのメーカーのクルマが新しい方向に変わり始めていると、ぼくは感じていた。とりわけそれが顕著なのがプリュリエルだと、ぼくは思う。

 iMacがアップルを救ったのも、パーソナル・コンピューターが同じような環境に達したときだった。パーソナル・コンピューターというものの基本的なありようと性能がおおかたできあがったころ、そしてアップルが青息吐息だったころにスティーブン・ジョブズが帰ってiMacを企画して発表した。コンピューターの概念とデザインを一変して、うしろからも見てほしいようなかわいいヤツになった。フロッピードライブがない。USBなんていうものがついた。インターネットがあるからこれでいいんだというのも、そのときは実感がないまま、ぼくたちはMacへの思いを新たに深めた。パーソナルコンピューターとコミュニケーションのあいだが切っても切れない関係になるときだったのだ。

 4つのタイアに人間の腰掛ける空間を載せて、エンジンを回して移動させるという、クルマの基本的な概念は、発明されてから現在まで変わらない。しかし、大きな物体が人をのせて道路を移動するという性格上、安全という特別なそしてもっとも重要なハードルを常にこえつづけ、排気ガスという障害物も加わった。それでもクルマは、本質的にはほとんど変わらないまま現在に来た。
 このところのクルマたちの変化は、車内の人間をどうきもちよくさせるかということを、考え始めたことにある。プジョーが、屋根のほぼ全面をガラスにしたら。ホンダもさっそくエアウェイブをつくる。その前に、ホンダはフロアシフトをやめてコラムシフトに変えることで、ふたつの前席の間に隙間をつくろうとした。車内の空間が連続した。シートのレイアウトのパズルには、トヨタさえ熱を入れている。
 プリュリエルは、はじめは雑誌で見たのだったと思うが、5つのタイプがあるのだとぼくは思った。シトロエンのホームページを見ると、そうじゃないんだ。サルーンと言っている状態からキャンバストップ(正確にはキャンバスではないし、4層で構成される)が電動で開き、リアウィンドーを回転させてトランクの下におさめ、キャンバストップのガイドであるアーチを外せばすっかり開放的な状態(スパイダー)になる。リアゲートを後ろに倒すとそこに腰掛けることもできるぞというのだった。ディテールも魅力的につくられているし、色もちょっとくすんでしゃれている。クルマの写真をみてぼくは久々に胸を躍らせ、ブックマークをつけた。それから1年以上が経った。(いまでは本家のサイトよりも、むしろシトロエン・ジャポンのサイトの方が、説明が充実している。もちろん日本語で書かれている)
 こいつは、最高速度やゼロ4加速なんて数字であらわす性能にはなんの頓着もない。たのしい、気持ちいいということが、なにより大切なのだ。そういう価値を重視する時代の車なのだ。十年以上のながいあいだ、ぼくはクルマに惹かれるということはなかったけれど、こいつは違うと思った。
 ショールームでほんものに触ってみて、屋根も開閉してもらったし運転席にも座った。予想と違ったのは、思いのほかしっかり重厚につくられていたことだ。シトロエンは、エンジンの大きさの割に体がおおきくて、だから軽くてちょっと薄くつくってある。でも、中に入るときもちいいというやつだったとぼくは思うが、ドイツの車のようにしっかりしている。ユーザーというのは全くわがままなものだ、ぼくはシトロエンらしくないなと、ちょっと肩すかしを食った気がした。しかし、こんなに可動や取り外す部分があっては、いい加減な精度ではすまされないのだろう。
 乗用車は、とにかく速くしずかに移動するという基本性能は当たり前のことになって、気持ちよく車内にいられることにとどまらずに、開放的であることによって周りの世界へ溶け込もうとするようになったようだ。でかいほどいい、黒ガラスで中を見られないようにしてバーまで付いているぞなんていう車とは、正反対の方向にある。
そこで、建築を思う。Be-h@usが50年間の88ひとつだとされたのは、そのシステムに基本性能をあずけて、きもちよくまちに開くすみかを考えることに力を注ぐんだよという意味なのかもしれない。

追記0708
ところでplurielってなんだろうかと思って仏和辞典を調べたら「複数の」とあった。フィアットのムルティプラも僕はとても好きだけれど、これも英語でいえばmultiple「複数の」という意味に違いない。同じく「いろんな使い方ができる」ということなんだろう。「世界の自動車」という本が毎年出ていたのを子供のころに愛読していたが、その中の数々の車でも好きな車のひとつがフィアット・ムルティプラだった。それはフィアット500の兄貴分というかんじのやつで、ワンボックスの後ろが緩やかに低くなっているようなのがかっこいいと思った。ぼくも元々そういうくるまが、すきらしい。
いろいろ言うわりには、十万で譲り受けた黒塗りのセドリックやゼロ査定のローレルを外国に行く友人から引き継いだりして、いまは、死んだオヤジが十年も乗ったのにメーターに3万キロ台の数字が残されていたプリメイラに乗っている。だから、「きみも思想のあるクルマに乗ったら」なんてことを言われたりする。
でも根底には、車は道具だという思想を持っているつもりなのです。

投稿者 玉井一匡 : July 6, 2005 12:50 AM | トラックバック
コメント

同意してくれる人は思いのほかすくなかったのですが、栗田さんの賛同を得てうれしく、パンダ、パルケッタ、356という遍歴をながめてニヤリとしました。ぼくはパンダは大好きなクルマだったけれど自分の車にすることはなかったし、パルケッタ、356もいいと思うけれど自分では選ばないだろう。にもかかわらず、手に入れてしまうと同じ使い方をしてしまうという栗田さんに、ぼくは好感と共感を覚え、それはなぜなんだろうと考えました。
屋根がなくなるというのは、完結しないということなのではないでしょうか。完結しないことがきっとすきなんだ。で、そのクルマをこまめに使い分けたりしたら、それはむしろ設計者の意図の通りに完結しちゃうことになる。そうならないところに、なおのこと、共感するのです。
 プリュリエルの現物を見て、ちょっと想像と違う気がしたのは、できがよくて、だから完結してしまっている。そこにちょっと食い違いを感じたのではないかと思いました。好きですけどね。
 

Posted by: 玉井一匡 : July 8, 2005 02:13 AM

玉井さんと同じタイミングでこの車を知り、私もずっと気にしてきました。
自分では「何でまた?」と思うのです。
最初のFIATパンダ・ダブルサンルーフ、バルケッタ、そしてハードトップの付いた356と、ルーフが外れて使い方に自由度が設けられている車を好きになる。
しかし、ものぐさの私は、手に入れてしまうとワンパターンのモードのまま過ごす時間が多いのです。
所有した車のユーザーズグループに参加し、同じ車をまめに使い分けている若者を羨ましく見ていたりします。
あと、個人的にはスペースに余裕のあるガレージがないと、この種の車をしっかり管理することができないことを学びました。
もしもご検討であれば、Be-h@usでできたガレージとセットでお考えください。

Posted by: 栗田伸一 : July 7, 2005 01:40 PM
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?