July 15, 2005

パッチギ

pacchigi.jpgギンレイホールでやっている「サマリア」「パッチギ」はあと2日になってしまった。ぜひ「サマリア」を見てくださいと潮見さんに言われたし、草介は「パッチギ」は今シーズンの日本映画の一番だといっていた。最終回しか時間がないのでパッチギを見た。ギンレイは二本立てだからその組み合わせには毎回なにかの共通項をもたせている。支配人の潮見さんがいろいろと頭をひねって共通項をさがしながら演し物を選んでいるのだろうが、こちらは毎回それをみつけるのも楽しみのひとつ。今回は分かりやすくて、コリアンがそれなのだが映画の性格はまったくちがう。片方だけを見て、もうひとつは予告編とポスターだけでそう言ってしまうのだが間違いはないだろう。コリアン(韓国と北朝鮮をいっしょにそう書くことにする)が共通項だといってもパッチギは日本人と在日朝鮮人の関係が主題の日本映画で、「サマリア」は韓国で作り韓国を舞台にしている。

 もう、中国映画とか韓国映画とかいうくくりで映画を見るのはやめてもいいんじゃないか、民族や国という枠を超えた普遍的な意味をぼくたちはみなければならないのではないかと思いながら見始めたが、日本と韓国・朝鮮の関係は特別な意味があることを、この組み合わせはかえって際だたせると思い直した。先日の朝日新聞には、日本でいくつかの映画館を持つ在日韓国人が、韓国に造った映画館のこけら落としにこれを上映するというはなしがあった。1960年代の末頃、京都を舞台にした在日朝鮮人高校と日本人の高校生の対立と、それをこえようとする恋。
 先人たちが作りだしてぼくたちに残した負の遺産、隣国へのひどい仕打ちと差別の中の共生。個人と集合と国家による暴力についての、そしてそれを乗り越えるためにたいせつなものについての物語だ。どっちみち受け継いだこの状況が、ぼくたちの目の前にある。だとすれば、それをいい方向に利用してしまおうという思いをふくらませ、小さいかもしれないが希望を残して終わった。ありふれた論理かもしれないが、それを受け入れることを不自然には感じさせないだけの力をもっていた。
大友康平の情熱も空回りせずに物語を動かしたのが、なんだか印象深く、ぼくたちの学生時代末期のことだったからメロディにとってぼくの中の居心地がいいのか、いまでも「イムジン河」と「悲しくてやりきれない」が、かわるがわるに頭の中でまわってとまらない。

投稿者 玉井一匡 : July 15, 2005 02:25 AM | トラックバック
コメント

玉井さん。こんばんは。『パッチギ』の設定は、1968年。青年であった当時の玉井さんのお話しも、たしか「THE PLACE OF HOUSES」のコメントで少しお書きになっていましたね。一番最後の「いまでも『イムジン河』と『悲しくてやりきれない』が、かわるがわるに頭の中でまわってとまらない」という部分、当時子どもでしたが、なんだか心にしみこんできますね~。私、最近、この68年前後の時代のことが、気になって仕方がありません(^0^)。

Posted by: wakkyken : February 26, 2006 12:21 AM
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