July 17, 2005

「宮本常一 写真・日記」展


 「宮本常一 写真・日記」展の最終日の前日、それも19:00までの開場時間もあと1時間ほどというころに会場についたらパーティーをやっていた。新宿御苑の入口近くの古いビル、3階にある小さな会場には、人がいっぱい詰まっていて、となりに立つ人との間には4,50cmほどしかないくらいだ。新宿駅から少なからぬ距離を歩いてきたから、断られたくはなかったし、宮本常一の写真展で排他的になることはあるまいと勝手に決めこんで、だれにともなくちょっと目礼をしただけで許可をえずにもぐり込んだ。「宮本常一 写真・日記集成」という本が写真の会賞を受けたお祝いの会だったらしい。立派な装丁の本が受付に置いてある。

 そんなわけで、立錐の余地もないというくらいの人がいるのに写真を見ているのはぼくの他にはほとんどいないという不思議な状況で写真を見つづけた。それ以前の写真は残されていないからという理由で、すべて昭和30年代から50年代にかけて撮影されたものである。この時代は、ぼくにとっては小学校の後半以降にあたる。すべてモノクロの写真が、すべて同じ大きさで撮影時期の順に淡々と展示され、短い説明がある。
 大部分の写真が、このころの日本はまだこんなだったのかと思わせる。それは、多くが地方のまちであり、その当時すでになくなりかけていたものや風景を撮っているからではある。しかし、古いけれどまだ残されているというものは、それが民俗学者の目を通してすくい上げた風景であればなおさらだが、時間を超越して日本の本質的なものをあらわすと宮本は考えたはずだ。これらは表現のためにではなく、記録として撮られたものだ。しかし、多くの写真がそうであるように、これらも宮本常一を通したある種の抽象の結果なのだ。たとえば昆虫図鑑の絵は、厳密な写実によってある昆虫の個体のありかたを描写したものであるけれど、図鑑の中の絵となった瞬間に、それはある昆虫の種についての抽象になるのだ。
 宮本常一にかかわる本がこのごろ相ついで出版されるのは、われわれが日本という場所、あるいは日本という生き方を見失いかけていることに気づいたからなのだろう。

 念のために書き加えておく。招かれてもいないのにもぐり込んだパーティーの場だったから、中央テーブルに並べられた質素だが豊かな食物や飲物にはいっさいふれませんでした。積極的に探しはしなかったけれど、ひとりくらいは知り合いがいるかと思ったが、だれも見つからないので、とうとう潜入者という資格のままだった。

投稿者 玉井一匡 : July 17, 2005 07:32 AM | トラックバック
コメント

 ぼくも、間際になって友人からの電話で知ったので、エントリーが遅くなってしまい残念でした。もっと広く早くお知らせしたかったのですが。
すべてモノクロの写真でした。表現形式を持続することで記録の連続性をまもろうとしたのでしょう。同じところを同じアングルで撮り続けたらどうなるのかという興味もありますね。「スモーク」という映画は、そういう話でしたけれど。

Posted by: 玉井一匡 : July 20, 2005 12:14 PM

この本は池袋のリブロに置いてありました。
手にして見ていたら欲しくなりましたが
いのうえさん同様、値段を見ておとなしくもとの場所に戻しました。
それにしても、こんな展覧会が行われていたなんて・・・・。
一歩、遅し、でした。

Posted by: fuRu : July 20, 2005 11:49 AM

本日 新宿に見に行ってきました。 昭和30年代から50年年代までの日本各地の普通の人々の生活の様は、まだそんな昔ではないはずなのにほとんどすべてが消え去ってしまったものばかり。 食い入るように 一枚一枚を見て回りました。 六万円の写真集は手が出ませんが(ギャラリーにおいてあったのも借り物で売り物ではないとの事) あの中の何枚かは、持って帰りたい衝動にかられました。

Posted by: いのうえ : July 18, 2005 12:55 AM
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