August 15, 2005

バベルの塔

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千葉糺さんから郵便物が届いた。バベルの塔について書かれたものの抜刷り、「バベルの塔考察 =ニューヨークから古代バビロニアまで=」という小冊子が同封されていた。ニューヨークのバベルの塔とは、もちろんワールドトレードセンターのことだ。バベルの塔について旧約に書かれている記述そのものと、それについてのさまざまな人たち(中野孝二、若桑みどり、犬飼道子、石田友雄、三浦綾子、フラティウス・ヨセフスなど)による解釈を示し、それをふまえて最後に千葉さんの視点が示されている。

 多くの日本人には、聖書とりわけ旧約の物語は、ところどころが部分的に知られているにすぎない。バベルの塔の話は、日本人にもノアの方舟の物語についでよく知られたもののひとつだ。人間が神に近づこうとして天にも届こうという高い塔をつくり、それが神の怒りにふれて壊されてしまうという、傲慢を戒める話として受け取られている。
 ところが、具体的には旧約聖書にどう書かれているのか、ぼくは読んだことがなかったが、読んでみれば、おどろくほど短い記述だ。しかも、そこには塔を作ったことを神が憤ったとは何も書いていない。塔をつくりはじめたひとびとは、ひとつのことばを話し、ひとつに団結し、なにごともできないことはないと考えるようになった。だから、神ヤアウェは、ひとびとが別々のことばを使うようにし、別々のところに散らしたというのだ。

 新宿の超高層街や幕張の新しい町は、ひとりひとりの人間が歩いても、心地よいとか楽しいとかいうまちではない。人間を、統計的に抽象化して、そのままそれを反映する建築にしたにすぎないからだ。けれどもマンハッタンのまちは、ひとつには時間の経過による熟成のおかげだが、あれほどの高層ビルの集合でありながら、歩く人間のスケールを逸脱しない。にもかかわらず、ワールドトレードセンターは、新宿や幕張のように、歩く人間を拒否する作り方をしていた。だから、ぼくはあのツインタワーが嫌いだった。日本の超高層ビルはワールドトレードセンター、あるいはそのタイプを踏襲してつくられたものだ。
 ツインタワーがなくなったからなおさらなんだろうが、普通のアメリカ人の発言を聞いたり読んだりすると彼らにとってワールドトレードセンターは、アメリカの経済的な勝利の象徴だったことがわかる。マンハッタンの先端に立ち、かつては世界で最も高い建築。あらゆる手段を使い、不可能なことをなくしてしまう国家の、経済という単一の共通言語で世界を支配しようとするアメリカ。その偶像なのだ。だから、あるいてあそこに行くことが不愉快であってもかまわなかったのだ。
旧約聖書が戒めたことを今も堅くまもり続けるイスラムにとっては、ホワイトハウスにまさる偶像ととらえられたとしても当然ではないか。

ユダヤ教は、ことばを、地のものからはなれた抽象としてなにより大切にし、したがって偶像も否定したが、じつはむしろさまざまな言語は地と不可分なものであるという矛盾を説明するために、旧約の作者は古代バビロニアのツィグラッドに着想を得てバベルの塔の物語を書いたのではないかと、千葉さんは結論づけている。

千葉さんが最終的に引用された、バベルの塔の記述は以下のとおり。(ドンボスコ社版旧約聖書による)


 さて、全地はおなじ言語とおなじことばをつかっていた。人間は東のほうから移動して、センナアルの地の平原につき、そこに定住した。かれらは、「さあ、れんがをつくり、火でやこう!」といい合った。かれらは、石のかわりにれんがを、しっくいのかわりにチャンを使いだした。つぎにかれらは、「さあ、町をつくり、その頂が天にまでとどく塔をつくろう。全地のおもてに分かれないように、われわれの名を高くあげよう!」といった。しかし主は、人間の子らがつくろうとしている町と塔とをみようとして下り、「なるほど、かれらはみな一つのことばだけをはなす団結した国民で、その大事業をはじめたばかりだ。どんな計画も、完成できないはずはない、とかれらは思いこんでいる! さあ、われわれは、かれらのことばを乱しに行こう、そうすればお互いにことばが通じなくなるだろう!」とおおせられ、主は、かれらをそこから全地のおもてに散らされたので、かれらは町をたてるのをやめた。バベルと呼ばれたのは、そのためで、そこで主が全地のことばを乱し、かれらを全地のおもてに散らされたためである。

千葉さんは、数学の先生で、いまは学習院高等科の校長先生である。みずからもテンペラ画を描く人だから、バベルの塔というテーマは、ブリューゲルの絵がきっかけになったのだろう。文中でも取り上げられている。ぼくのところに送ってくださったのは「学習院高等科紀要 第三号別刷」である。
学習院高等科の、大学への推薦入学の決まった生徒たちのための体験学習が行われたと、今年7月20日の朝日新聞に紹介されていたが、これは千葉校長の発案によるものである。昨年、もう1年ほどまえに送ってくださったのは「フラティウス・ヨセフス考」という、「ユダヤ史」についての論文だった。ふたつの文章の全文がどこかのサイトに掲載されていいないかと探したが、まだみつからない。千葉さんにうかがってみようと思う。

投稿者 玉井一匡 : August 15, 2005 04:15 AM | トラックバック
コメント

千葉さん、コメントありがとうございました。
おっしゃるとおり、ぼくも仏教寺院の塔や、ヨーロッパのキリスト教教会の塔について考えました。仏教寺院の塔は、釈迦の骨をおさめる、いわば釈迦の墓標・卒塔婆ですから人間がのぼってゆくためのものではなく、内部空間を持ちません。また、キリスト教会のドームは、むしろ空まで続くはずの空間を、途中でさえぎって低く限定します。教会の中に立つ人を包む擬似的な天空をつくり、もっとも高いところから、光という恩寵を降り注ぐものであって、人間が高いところに上ってゆこうという目的でつくられたものではないと思います。
だとすれば、仏教寺院もキリスト教会も、その高さには複雑な逆説が込められているわけで、そのことを、ぼくはきわめて興味深いことだと思います。
 しかし、仏教寺院にせよ教会にせよ、むしろそこから離れて姿のうつくしさを見れば、高さそのものにも意味があることは間違いありません。まわりの風景との相対的なかかわりかたによって高さを求めるとき、目指すものは美しさであると思います。しかし、絶対量としての数値、たとえば世界一の高さを目指そうとしたとき、目指すものは美しさではなく力あるいは支配にとってかわられるでしょう。
ブリューゲルの描いたバベルの塔は、かれの描いた多くの絵と同じように、争いや怒りなどの寓意に満ち、小さな家や樹木そして海に囲まれる環境の中にあります。しかも、天にとどくにはほど遠い高さで建設半ばあるいは壊れかけた姿を見せています。土を焼いた煉瓦を積み重ねた塔は、土に還るときに美しいでしょう。ブリューゲルは、塔が完成するよりも廃墟のほうがむしろ美しいという逆説を語っているのではないでしょうか。自然の生物の生き方ありかたがそうであるように、美しさの原則はまわりの世界のことわりに適応することにあるはずだと思うからです。

Posted by: 玉井一匡 : August 18, 2005 12:03 AM

論文作成中に、玉井さんの建築家の観点からの「塔」についての見解はどうだろうかと、意識しなかったというと嘘になります。では、私が触れなかった日本の仏教の塔はどうなのか、とかヨーロッパの塔は敬虔に祈るために上に向かっているのではないかとかという疑問が湧いてきます。何かをキーに打ち込めば、確率的には数値が出てくる経済学を信じるこの世の中で、少し離れたことを議論しあうのもいいのではと思います。来年の論文の準備に入らなければと思いつつ。

Posted by: 千葉 糺 : August 17, 2005 05:19 PM
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