August 21, 2005

海馬

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*「海馬」/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス) 池谷 裕二 糸井 重里 /¥ 1,785 新潮文庫¥620

 「海馬は読んだ?」ときかれて、読みましたよと答えたが、内容について話をききながら、どうも記憶から掘り出せない。ひところ「ほぼ日」で話題になっていたから、そのころに買ったはずのが本棚に並んでいる。akiさんの電話を切ってから、本棚から手に取ってみたがどうもはじめの方くらいしか記憶にない。昼飯を食べながら読み始めると、おそろしくおもしろいんだ。こんな本を途中でやめるってのはいったいなにがあったのか不思議だ。tacにそう言ったら「玉井さん読んでいないですよ。本の端がきれいだもの」と物的証拠を突きつけられた。そのとおり、ぼくが読むと、本のページの下の部分がかならず汚れるのだが、こいつにはそれがない。

 ぼくたちは、一日中さまざまなものを見たり聞いたりさわったり、とてつもない量の経験をしているけれど、それらのうち、どれを自分のものとして記憶に残しどれを捨てるかという判断をするのが海馬の働きなのだという。
 脳は一生のうちに2%くらいしか使われないんだと言われている。生まれてから、1秒にひとつくらいずつのいきおいで脳細胞は死んでひたすら減ってゆき再生産されることがないのだが、海馬の神経細胞だけは増えてゆくのだそうだ。つまり、暗記のような単なる記憶は若いときの方がいいけれど、年齢を重ねてゆくほどに賢くなるということじゃないか。うーん、そうだったのかとにわかに覚醒してきた。

  世の中には、すでに限りないほどの沢山の事象がある。それらを選別して法則性をみつけることが発見であり、集めたものごとの一部を膨らませたり縮めたりしてつなぎ変えることが発明や芸術というものではないか。発明も発見も芸術も、「すでに世の中にあるもの」を編集することなのだ。海馬の役割は、脳の受けとった莫大な量の刺激と経験の中かから何かを選び出し組み立て直すという編集作業にほかならない。そして、その能力は、使い続ければ衰えないばかりか成長しつづけるというのだ。
 さまざまな事象の関係や、脳細胞をむすぶシノプシスがつくりだすシステムのことを糸井が「つながり」ということばで言っている。脳細胞の一つ一つだけをみれば大したことを記憶できるわけじゃないのにそれらのつなげかた次第で、素敵なものができる。 まちや建築のつくりかたのこともぼくは思い浮かべた。すでにあるものをつなぎあわせ組み合わせて新しい価値を作り出すというしごとは海馬のようだ。

 池谷はこんなことも言っている。このごろはインターネットのおかげで、研究の成果を仮説の段階で公表することがある。それを見た人があとを引き継いで証明してくれるというぐあいになってきた。オープンソースなんだ、脳というやつが固定したものではなくて、その時々のプロセスであるというのと同じなのです。・・・・blogというメディアそのもののいいところも、そういうところだ。まずはエントリーして、違っていたら訂正して徐々によくしていけばいい。それに、ほかの人が手を加えたり口を出す。そうやっているうちに、やがて洗練されてゆく。

  ところが、日本の国道や県道沿いの町では、それまでにあった田んぼや古い商店や住宅を一掃してしまう。「すでにあるもの」に蓄えられたものを選んでつかうのでなく、それらを無視して一掃し何もない状態にしてから、前よりもいいところもあるにはあるが、多くの場合には悪いところをたくさん秘めたもので置き換える。どこでも同じ大型店を大きな看板といっしょに並べる。そして、ちょっと離れたところにある古くからの商店街には、閑古鳥の群れを入れた籠のふたを一斉に開く。本当はいろんなものがもっと蓄積されている古い町は風化し腐敗してゆく。そういうまちのつくりかたは、効率と利益を行動の規範にしてインターネットで大儲けをたくらむ奴らと同じやりかたなのだ。数量しか気にしない。

shinkablane.jpg  この2人の話を読んでいると、つぎつぎにいろんなことを考えてしまう。この人たちはそもそもそういう資質にあふれたひとだろうが、対話という形式がとてもすぐれた表現の方法であることがわかる。ひとりで書く文章は、どうしたって文字を順番に並べるという形式にならざるをえない。線形、一次元なのだ。ところが、すぐれたくみあわせすぐれた人による対話では、それが一変して平面にひろがり立体に膨らむ。そのふくらみを、読者であるぼくたちもまたさらに膨らませたくなってくるのだ。
 かつて朝日出版社がレクチャーシリーズというのを作っていたことがある。ある分野の専門家ひとりと、門外漢の聞き手ひとりを組み合わせて精神分析や相対性理論などのテーマを一対一で講義するというもので、ちょうど海馬と同じ形式をとっていた。とてもすぐれたシリーズだったが、今はもうなくなってしまった。朝日出版社は、伊丹十三責任編集の雑誌「モノンクル」を出していたところでもあるから、レクチャーシリーズにも伊丹がからんでいたのだろう。伊丹が死んだ現在、かれの代わりをするひとは糸井重里だと、この本を読んだあと、ぼくは確信した。そして、会ったこともないが池谷さん糸井さんのふたりにありがとうといいたくなった。そういえば、池谷さんの「進化しすぎた脳」を、ぼくはまだ読んでいないけれど朝日出版から出ている。

 脳の話をきいていると、いろんなものごとが脳とおなじようにできていると思った。あれも、これも。
しかし、それは当然のことなのかもしれない。ぼくたちはものごとを脳で理解して脳に記憶するのだから、世界は脳の形式にしたがって整理されるはずだ。だとすれば、それらが脳のありかたに似ているのではなくて脳の構成に則ってぼくたちが世界を認識しているということなんじゃないか。

投稿者 玉井一匡 : August 21, 2005 06:38 AM | トラックバック
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