November 14, 2005

「時間の終わり」 に片目を閉じて

 2005年11月12日11時55分六本木ヒルズ森美術館。ようやくやってきた「杉本博司展:時間の終わり」は期待を裏切らなかった。エスカレータをのぼりきったところで閉じた推理小説に、山場の10数ページを残していながらぼくはすっかりそのことを忘れてしまった。
チラシとサイト上で見ていた写真で、分からなかったのはジオラマとポートレートだった。会場に書かれた説明によれば、ニューヨークについて間もないしばらくのあいだ、あちこちを見物するうちに自然史博物館に行き、ジオラマを見ていて杉本はあることに気づいたという。片目をつぶって見るとジオラマの立体が写真の画面という二次元になるのだと。画家が片目で見てみるように、あるいは箱にあけた針穴を通った画像を映してなぞったカメラオブスキュラのように、それ自体は新しい発見ではない。しかし、そこはジオラマという特別の場所の前だった。


ジオラマでアザラシを仕留めたシロクマと景色を見るときには、見せるものと見るもののあいだに約束事がある。平面の上に透視図法で描かれた背景と、実物だがすでに生命を失った剥製というニセモノの自然を許容する。しかし、ある一点に立って片目をつぶってみると、背景と剥製という環境が一体化してリアリティをもって見える点があるはずだ。平面と立体(空間)、実物とにせ物(リアリティ)、現在と過去(時間)、明と暗(光)、沈黙と声(音)。彼のすべてのテーマが、ジオラマの前のある一点で片目をつぶったときに見つかったのではないか。片目で見て撮った写真なら、ぼくも片目をつぶって見ることにしようと思った。すると、片目を閉じてジオラマや蝋人形を見ると、立体感がたちまち息を吹き返した。はじめてランダムドット3Dの図を立体視しようと苦労しているときに、やっと焦点が定まると突然、それまで紙に残された印刷だったのが実体のあるものに見えてきたときの驚きがよみがえる。
カメラは、ひとつのレンズで見ているのだから、それを両目で見ると平面の上にのせられた画像にすぎないことを、ふたつの目が見破ってしまうのだが、片目を閉じて視ると、そのむこうの3次元を脳がえがく。 画家のアトリエからぼくたちの見る写真までに繰り返されたイメージの変換は興味深い。モデル→絵→蝋人形→撮影→現像→プリントという伝言ゲームは、3次元と2次元のあいだを行き来しながら、どの変換の過程でも可能な限り忠実に対象を写し取っている。そして、最後にぼくが片目で見ると、忠実な3次元と生命感を回復するのだ。
杉本の写真をみるとき、じつはぼくたち、片目を閉じる前にあらかじめ網膜の一部を閉じている。色彩をなくしているのだから。

片目を閉じてみると、薄暗い展示室に照明を凝らした海たちは波が動きだし、三十三間堂の仏たちの写真を張り合わせた25mにおよぶ仏の海は、光背に光をうけておだやかにうねる波になる。映画の1本分を撮ったスクリーンは、片目を閉じるとますますみずから光を発しているように見えた。無限遠より遠くに焦点を合わせたピンぼけ建築写真は、建築が実現される過程にあったもの、あるいは消えてゆこうとするときに洗い残されるものが見える。三次式を立体にした石膏模型たちだけは、片目を閉じてみなかったのがちょっと心残りだ。ジオラマの説明がそのあとに書かれていたからなのだ。

会場のプロジェクターの映し出す杉本のインタビューは英語で話して日本語の字幕が出る。化石が好きなのだといって、電気オーブンのような、おそらく調温調湿箱の中からアンモナイトをとりだした。ぼくは職人なんだ、ちょっとだけアートをしてる、と言う。「すこしだけのアート」は、時間と光とイメージの変換という目的の設定。「職人」は、人工照明をつかわない光、コンピューターをつかわない画像処理、克明な写実、無限遠よりもっと遠い焦点距離。厳密な技。
 実物を見る前に書いたエントリーで書いたこと「モダン=現在とは、一枚の膜のような時間が自立しているのではなくて、幾重にも過去の累積された層に支えられて、それが一番上にあらわれているにすぎない。」を杉本は表現したいのだと、今もぼくは思う。だから、「時間の終わり」とは、堆積した時間の層のいちばん表面にあらわれているもの、それが現在、それがシャッターを切る時間なのだ。

■関連エントリー
杉本博司展 をまだ見ていないのに/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : November 14, 2005 07:44 AM | トラックバック
コメント

 あんな神社まで設計しているとはおどろきました。地下の石室から上にのびているガラスの階段が、光だけを通すけれど人間は決していけないというのには、やられたって感じがしました。会場に置いてあった資料に地元の住民の話があって、「まわりの砂利敷きのところに入っちゃいけないといわれる。おかげでお百度参りができなくなった」というようなことが書かれていました。
 神社には鏡がおかれているくらいだから光はとても尊いもので、光のためのガラスの階段も、人は入れない砂利敷の聖域も、神を演出するにはすてきなことだと思います。それと、人間の領域とがどう接するかというのは、なかなか難しいけれど、興味深い問題ですね。
 

Posted by: 玉井一匡 : December 8, 2005 03:02 PM

こんにちは。
僕も昨日仕事の合間を縫って行ってきました。

片目での熟視で浮かび上がった実像は、玉井事務所で「マジックアイ」をして見えた時の喜びと似て楽しかったです。

>無限遠より遠くに焦点を合わせたピンぼけ建築写真は、建築が実現される過程にあったもの、あるいは消えてゆこうとするときに洗い残されるものが見える。

杉本氏は「溶ける」という言葉で表現していましたね。
力のない建築物は「溶けてしまった」とも。
非常に印象的な言葉でした。

ピンぼけ写真を出来る限りはなれてみると、あたりまえだけどピントがに合ってくる。(浮かび上がってくるかな)
すごーーーく、遠く離れたところから「アインシュタイン塔」を眺めた時、逆にものすごく「写真」の力を感じました。また近くで凝視すればまさに溶けていてそれも「写真」力を感じた。

脱帽でした。

会場の構成にも、最初の照らし出されている「ただ白い壁」や右に体を振った時に視界に飛び込む「列柱のような白い壁」。
常にその視線というものに注意を払った会場の構成も楽しかった。


>神社の模型
「建築」もうまそうだな、ト思ってしまいました。

Posted by: osm : December 7, 2005 12:13 PM

masaさん ぼくは、片目の立体感をみつけて夢中になったのでしょうが、他の人がそうやって見ていたかどうかを全く気づかなかったので、masaさんが同じことやったってのはうれしいなあ。写真が大きいってことも立体感を増しているようですね。ぼくも、他の写真でためしたけれど、小さいとほとんど変わらないから。

Posted by: 玉井一匡 : November 15, 2005 11:17 AM

玉井さん、片目で写真を見たのは、僕も、玉井さんと同じ経緯です。あのジオラマの説明文を読んだからです。それで、自分で撮った写真も同様に見てみたのですが、やはり立体が浮き上がります。これはとても面白い発見でした。
レンズの焦点距離ですが、ポートレートのシリーズでは、玉井さんご指摘のように、35mm換算で50mm程度では?と想像します。

Posted by: masa : November 15, 2005 03:23 AM

masaさん
そうでしたか、ぼくは片目を閉じて写真をみたのは初めてだったんで、ほかの写真の場合はどうなんだろうなんて思いながら見ていたのですが、もしかするとジオラマやポートレートを撮るときには、人間の目に合わせてレンズの焦点距離を選んでいるのかもしれませんね。

Posted by: 玉井一匡 : November 14, 2005 02:09 PM

 iGaさん
そうですね。いわゆるイタリアンデザインの派手な色づかいは、古い石のまちの中にあってこそ、その対比で互いの魅力を引き出すのだと、はじめて行ったときに実感しました。
 新宿区は、比較的古い町名が残されているので、まちを歩いていても町名の表示がレイアを感じさせます。永六輔が町名変更と尺貫法に抵抗していたときには、正直なところぼくはあまり実感を もっていませんでしたが、多少、範囲が変わったとしても、町名は残すべきですね。このところ市町村合併がはやりで、地方都市でも、ふるい地名がなくなっていきます。

Posted by: 玉井一匡 : November 14, 2005 01:57 PM

片目をつぶってご覧になられたとは驚きました。実は、僕も同様にしてあの作品群を眺めました。彼の作品に限らず、写真というものは片目で見るものか?とさえ思いました。

Posted by: masa : November 14, 2005 01:00 PM

>モダン=現在とは、一枚の膜のような時間が自立しているのではなくて、幾重にも過去の累積された層に支えられて、それが一番上にあらわれているにすぎない。
都市や建築もそうですね。イタリアの都市が魅力的なのはそうした様々な時代のレイヤーを感じられるからでしょうね。アースダイビングは一番下のレイヤーを巡る冒険だけど、その上の累積されたレイヤーとの相対的な時間や空間を巡る冒険でもあるんでしょうね。

Posted by: iGa : November 14, 2005 09:21 AM
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