January 10, 2006

「ペンギンの憂鬱」


 ペンギンの憂鬱:新潮社/アンドレイ・クルコフ 著/ 沼野 恭子 訳
 だいぶ前に本屋で平積みになっている表紙とタイトルに目をつけていた。その後にNumber plusで、ACミランとウクライナ代表のフォワード、アンドレイ・シェフチェンコの長いインタビューを読んだ。バロンドールを受賞した2004年のNumberのインタビューよりも、生き方やウクライナとの関わり方にまで踏み込んで、ユーシェンコが毒を盛られた話や、シェフチェンコがその対立候補ヤヌコーヴィチ首相を支持したことにもふれていた。その中にこの本の著者のことが話題に出ていたので、ぼくは読みたくなって、tacが図書館で借りてきた本を読んだ。日向でのんびりコーヒーを飲みながら、小説の作る世界を味わうのがたのしい。と、はじめは表紙の絵の通りだが、それだけではない。

 キエフの動物園が餌代にも事欠くようになってペンギンをもてあました。それを引き取った小説家が家の中で共同生活しているという意表をついた設定がすてきだが、それは、物語が事実にもとづくものではありませんよという宣言でもある。 
ソ連動物園の経営不振に乗じてウクライナは檻の外に出たが、動物園は、ウクライナを放し飼いにしてでもなんとか園内にとどまらせかっただろう。wikipediaでウクライナを読んでも、天然ガスをネタの国家的脅迫をみても、黒海へつながるこの国の重要性が読み取れる。ロシアにとってウクライナは、動物園にとってのペンギンよりもはるかに重要な存在で、ただ約束事の国境で区切られただけのヨーロッパの小国がアイデンティティをまもるということは容易なことではないのだと見てとれる。天然ガス問題がかえってアイデンティティを強化してくれただろうがシェフチェンコの重さは、われわれにははかりしれないほどのものがあるのだろう。
 弱者の受け継いできたものを強者が勝手に塗りつぶすという構図は、日本のあちらこちらの灰色の男たちの振舞いといささかも違いがない。憂鬱症とされているこのペンギンは鬱病のことなのだろうが、南極から動物園に連れてこられれば鬱病にもなるさと思っていた。しかし、映画の「皇帝ペンギン」を見れば、もともと南極にいたときさえ彼らの人生は甘いもんじゃない。にもかかわらず、何百万年もの時間をかけてみずから選び取った環境のなかで獲得した生きかたは、かけがえのないものなのだ。

投稿者 玉井一匡 : January 10, 2006 10:40 AM | トラックバック
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