February 24, 2006

送還日記

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監督キム・ドンウォン(金東元) 配給シネカノンシグロ 3月4日から渋谷シネ・アミューズ
今日、映画「送還日記」の試写会があった。韓国のドキュメンタリー映画、北からの工作員として入国して捕えられた人たちが、以後の長い年月を独房に入れられて拷問を受け転向を迫られながら耐え抜いた。韓国の政策の転換で自由の身になったこの人たちを12年にわたって記録したものだ。彼らは青年時代に捕えられ、わずか3/4坪の生活空間で40年前後を過ごして自由の身になった時にはとうに老人になっていた。旧知の神父に頼まれて、キム・ドンウォンの住む村で非転向長期囚の二人を受け入れることになり、彼は二人と支援者や村人、ほかの非転向長期囚たちとの交流などの生活を中心にして、北に送還されるまでの12年間を記録した。

 上映に先立ってキム氏の挨拶が、上映後にはドキュメンタリー作家の森達也氏も加わってトークショーが行われた。キム氏は、見るからにおだやかで篤実な人柄がしのばれる。彼らの世代は、北のスパイには角が生えていると教えられていたという。だから、不屈の北スパイであっても、じつは同じ生身の人間なのだということを知ったことは、韓国人にとってとても大きな意味があったのだという。北に対する韓国人の気持ちはぼくたち日本人には想像のおよばないものがあったことを改めて思う。
キム氏は、ドイツのような吸収合併型統一がいいとは思わないと言った。たしかに、南北の経済格差を抱えたままひとつの国家になるには、どういう経過を経て金正日はどういう立場になれば統一が可能なのかを考えると、気が遠くなるほど道は遠く心は重い。しかし、具体的で個人的な関係を積み重ねてゆくことが、じつは確実な道なのではないだろうか。南北はかならずしも統一してひとつの国家にする必要はないのではないか。ゆるやかで親密な連合という形式で、むしろ世界に先駆ける二国間関係を築くことができるのではないか。微妙な問題であるだけに、キム氏はそうした発言はできなかったのだろうが、彼自身もそう思っているのだろうとぼくは思う。そんなことを考えていると、この映画は国家のありかたについて、希望を抱かせるものだと感じられた。

この映画とトークショーの中に、ぼくにとっては新鮮なこと、あるいは古い記憶に深く残されていたことがいくつかあった。
 韓国の拉致被害者の家族たちは、北に対して強硬な姿勢を求める右派と同調して、彼らの言う「未転向長期囚」の北への帰還に反対する。どうもそれは、韓国全体の思いからは突出しているようだったこと。 sokanbook.jpg 
朝鮮半島で南北は休戦状態にあるのであって、朝鮮戦争が終わったのではないということを、多くの日本人は分かっていないという会場からの指摘。言われればそうだと気づくのだが、ぼくも、つい忘れているような気がする。
あるテレビ番組が取材に来て、キム氏はとてもよろこんだが、質問は映画のことではなく、拉致実行犯として手配されたチェ・スンヨルのことばかり聞かれるのでがっかりしていた。しかし今日はTBSラジオが来ているという森氏の冒頭の報告。ある看板番組というのはテレビ朝日だと言っていたから、報道ステーションのことらしい。日本人とマスコミの一極集中する想像力の乏しさは、戦時報道のようだ。
「彼らが韓国に来た時には、北朝鮮の状況は最もいいときだったから、北に帰った彼らは、じつは現状に驚いているのだはないだろうか」という森氏の発言。かれらが30年をこえる年月の拷問と投獄に耐えられたのは、深く心から信じるものがあったからであるはずだ。それが到達した現実を知ったときの空虚を思うと、痛々しい。
そして、もうひとつ。かつてスパイ容疑で逮捕され、十数年間も投獄された在日韓国人徐兄弟の名を映画の中に見つけて、たちまち時間をさかのぼった。その当時、公開された顔の火傷の写真に拷問のあとが残されていることに、ぼくたちは衝撃をうけた。
 この映画は結論を提示するわけではない。しかし、帰りがけに井ノ口さん五十嵐さんとコーヒーを飲みながら話し、そのあと帰りがけの電車でこの映画の本を読むうちに、韓国と北朝鮮にとどまらず、ひいては日本と韓国・北朝鮮について、アジアと日本について、アメリカと日本について考えるための沢山の糸口が、ここにはあるように思えてきた。

投稿者 玉井一匡 : February 24, 2006 12:25 PM | トラックバック
コメント

いのうえさん  見にいらしてくださいましたか。先日のニュース23の特集で、この映画のことを取り上げていましたが、どうも映画のことというよりも拉致事件で指名手配されたシンガンス容疑者が映っている、というようなことの方が注目されていました。そういう立場を出さないと企画が通らないという背景があるのでしょう。
じつは、この映画は2時間半もあったんだと後になって知りましたが、すこしも長いとは感じませんでした。ボディブローだといのうえさんがおっしゃるように、どこかに特別な美しいシーンや衝撃的な映像があるわけではないけれど、おおきな影響が残ったように感じます。つまり、不屈の北のスパイだった老人たちにも、日常的な生活ぼくたちと共有できるよろこびが存在するということをこそ、この映画は伝えたかったはずです。

Posted by: 玉井一匡 : March 20, 2006 02:34 AM

玉井さん こんにちは。 本日 渋谷にて「送還日記」 みてきました。 ボディー・ブローのように効いて来る映画ですね。 主人公である老人達の顔が目に焼き付いています。 素晴らしい映画を紹介して頂き 有り難うございました。 

Posted by: いのうえ : March 20, 2006 12:34 AM

わきたさん  おっしゃるように、人間の根源に近いところでは、人間としての普遍的に共有できる価値があるはずだとぼくは思います。
力のあるものが弱いものを支配すること、勝者の価値の網という普遍性を上からかぶせることをもって、安定と平和を築いたと歴史では記述されてきました。しかし、その過程で生じる殺戮や破壊を幾度も繰り返させるほどの余裕は、もうこの地球にはあまり残っていないでしょう。異質なものがそれぞれに互いを尊重しながら共存できる世界にすることはわれわれにとって欠かすことができないはずです。だとすれば、根源に近いところにある普遍的な価値を共有することは、十分ではないとしても大きな力になると思いました。この映画で不屈の北のスパイたちがすごしたひとりの人間としての日々を見たあとでは、北朝鮮のパレードの映像にも、そらおそろしさよりむしろつらさを憶えるようになったのだから。

Posted by: 玉井一匡 : February 26, 2006 12:00 AM

aiさん  上映前の挨拶でキム氏は、悪い時期にこの映画が上映されることになったのかもしれないと言いました。しかし、その時のぼくにはそれが何を意味しているのか分かりませんでしたが、上映後の森達也氏の話で、チェ・スンヨルの騒ぎのことを意味していたのだと知りました。彼は、日本人が北朝鮮に対する敵対心に満ちていると思っていたようです。そんなことはない、むしろ、つらい思いをしているのは北朝鮮の人たちなのだから彼らの力になりたい。経済制裁をされて苦しむのはもともと苦しんでいる人たちであるとすれば、かつて民家も軍事施設ももろともに空襲した絨毯爆撃とおなじことじゃないか、そう思っている日本人はいるんだといいたかった。
 正直なところ、そう思っている日本人は少数派なのかもしれない。だから、むしろこの映画はいいときに日本に来てくれた。映画にとっては難しい時かもしれないが、日本にとってはむしろいいときに公開されることになったと、ぼくは思いました。だから、映画にとっても、じつはまたとない、いいときにやってきたのじゃあないでしょうか。

Posted by: 玉井一匡 : February 25, 2006 11:59 PM

玉井さん、こんばんは。地球上、どこにいっても、暮らしぶりは違っても、人びとは、その文化なりに幸せに暮らしたいと考えているわけだから、「たがいの国に生活するひとりひとりの子供たちや家族のよろこびを知」ると、「なんだ、基本は同じだよ」とすぐに仲良くれるはずなんですよね・・・。こんなことを書くと、一見素朴のような感じがするから、笑う人がいるかもしれないけれど、ところがどっこい、じつは深くて普遍性をもった実感のようなものが多くの人びとに「共有」されることが、根本のところで重要なわけで、玉井さんのお書きになったことよくわかります。「アメリカのアジアにおける影響力をまもるために・・・」というのは、「ジュンはジョージのポチだ」という意味ですね、これ。「パッチギ」という言葉に敏感に反応してしまいました。TBさせてください。よろしくお願いします。

Posted by: wakkyken : February 25, 2006 08:48 PM

このエントリーを拝見して私も徐兄弟のことを思い出しました。力ずくで個人の思想を変えられると思っているうちは国としての国民に対する対処の仕方が間違っていると思えて仕方がありません。あの日本国憲法のなかでも憲法は国民が国におしつけてしかるべきものと意見をいう方さえいましたから…。
どの国も問題を抱えていないところなど無いのだと時々こういうエントリーを読ませていただくと過去の思いに戻ります。
それにしてもマスコミの姿勢はいけませんね。結論を出してからの取材ならもっと掘り下げてからにしてほしいです。

Posted by: ai : February 25, 2006 06:18 PM

わきたさん  敵のイメージを恐ろしく醜悪なものとして植え付けるのは、むかしから戦争の必須の手法ですね。いいかえれば、そういう敵の顔を意図的に作り上げなければ、国家公認で人間を殺す戦争なんていう行為は持続できない。それほどの不自然な行為であることの証しなのでしょう。だとすれば、たがいの国に生活するひとりひとりの子供たちや家族のよろこびを知り、それを共有することができれば、排他的な力を崩してゆくことができるはずですね。
 パッチギの時代を思えば、日韓関係が個人レベルで劇的に変化したことは可能性を信じさせてくれます。パッチギのような映画を作れるということ自体が大きな変化ですが。
嫌がらせのようにこれみよがしの靖国参拝をくりかえす人物がいなければもっといいのにね。アメリカのアジアにおける影響力をまもるために、あえて中国韓国との関係を近づけないようにしているのだと指摘するむきもあります。

Posted by: 玉井一匡 : February 25, 2006 05:20 PM

玉井さん、こんにちは。このエントリーを拝見して『敵の顔』という本のことを思い出しました。国家の立場からすれば、戦争をするためには、敵の恐ろしい邪悪なイメージをつくりだし、「国民」をそのイメージのなかに巻き込んでいく必要があります。そのような国家の枠組みが生み出すイメージのかなに回収されないための実践とは。「具体的で個人的な関係を積み重ねてゆくことは、じつは確実な道」とお書きになっていることに、そうだと思いました。関西でも上映されるようですから、見てみたいです。それにしても、映画のメッセージとは正反対のようなTV局の取材ですね。最初から、おとしどころとストーリーが決まっているから、その枠組みのなかでしか取材をしない。この映画や監督からなにか新しいことを発見しようという発想の欠片もないのですね。がっかり。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9940684916

Posted by: わきた・けんいち : February 25, 2006 11:22 AM
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