April 27, 2006

「立花隆が探るサイボーグの衝撃」

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 4月24日の22:00からNHKで放映された「立花隆が探るサイボーグの衝撃」は、文字通り衝撃的な内容だった。昨年末に放送された「サイボーグ技術が人類を変える」という番組を再編集したものらしい。人間の脳について、つまり「人間とは何か」について、これまで立花隆は探求して来た。人間の脳と身体を技術と結ぶ接点にあるのがサイボーグ技術である。さまざまなサイボーグ技術とサイボーグになろうとしている人たちと、その研究者たちに立花がインタビューをしてまわる。この技術が人間に何をもたらすのかを考えようというのだ。かつて、SFの世界のことだと考えていた技術が現実になろうとしているのがわかる。
 サイボーグとは、身体の一部を機械によっておきかえた人のことだから、現在でも、入れ歯や心臓のペースメーカーを使っている人は広義にはサイボーグなんだとアニメーション作家押井守は言うが、手足を動かすこととのあいだには大きな飛躍的な違いがある。心臓や入れ歯とはちがって、腕や足は人間の意思によって自在に動かさねばならない。したがって人間の脳から信号を送るのに加えて、脳に信号を送り返す技術を必要とする。コンピュータの指示で機械が動くことは、限定された範囲でロボットたちが実現した。もうひとつ先へゆくことが、遠からずできるというのだ。これらの技術が実現しようとしていることは、SFの想像力の世界ではとうに語り尽くされたことかもしれない。しかし、それが小説や映画のなかにあって、いつかはできるだろうと思うことと、近い将来に現実に可能性をもつこととは、はかりしれない違いがある。ぼくたちはだれもがいずれは死んでしまうことを知っていることと、ガンで余命を告知された現実の死ほどに違うだろう。

BrainMachine3.jpg BrainMachine4.jpg事故で両腕を失った人がでてくる。切断された腕や手に代わって機械仕掛けの腕を肩に取り付けて、脳から肩の筋肉まで届けられた電気信号を拾って指と腕を動かす。人間の身体的な障害をおぎなってくれる感動的な技術だ。
 身体を動かす信号の授受をさらに進めて、神経や筋肉を介在させずに脳の電気信号そのものによって、人工的な身体を直かにコントロールすることもできる。たとえば、眼鏡に取り付けたビデオカメラの映像を脳に送って、眼球を失った人に視覚を復活させることが、不十分ながら実現している。ここまでは神の技術だ。
しかし、脳と機械をじかに電気信号でむすぶという技術は、別の目的に使えば、目で敵をみつけ、銃を構え狙いをさだめ発射するという動作を、脳からの信号をじかに機械的な腕に送り、武器を発射するまでの時間を極端に短縮することができる。
 情報を遠隔地に送ってサイボーグを制御する実験も見せる。ラップトップ・コンピューターからインターネットを通じてネズミの脳に電気信号をおくり、右折左折を指示して自在に行動させるのだ。ネズミの頭の上に取り付けたビデオカメラが取り込んだ画像を、やはりインターネットを介して逆にコンピューターに送り、ネズミのいる場所の画像をディスプレイで見る。たとえば、遠い国のどこかの部屋の中を、リアルタイムの映像として盗み見ることができるわけだ。脳の信号をうけとってそれをインターネットで送り、地球上のどこにあるのもであろうと、機械を思うように動かすことができるとすれば、どこかの超大国の大統領が考えるだけで、「ならず者国家」の「抵抗勢力」を殺すことができる。SFで見慣れた、ロボットによる代理戦争まで、あと一歩のとろころまで来ているのだ。「われわれがやらなければ、どこか他の国がつくるだろう。そうならないために、われわれはこういう研究を続けなければならないんだ」と米軍は言う。

 技術が存在すれば、かならず発達し使われる。ひとつの技術に、障害者や高齢者のためのやさしいつかいかたと、人を殺し街を破壊する使い方の対極があるのは、あらゆる技術に共通することだ。サイボーグ技術は障害者のハンディキャップをなくすだろうが、もっと多くの障害者や死者をつくりだすだろう。そう思うと、番組を見終わって、ぼくはひどく無力感に教われた。
こういう未来と技術に対して人間はどうあるべきかについて、立花が河合隼雄に意見を求めるが、軍事利用の危険を語るものの、これに対して人間がどう向き合うべきかについては、ユング派心理学の権威すらまだ何も言えない。だとすれば、まずは気を取り直して僕たちは、現在あるもの今ある生命をよく識り大切にすること、生きることがすてきなことだと、だれもが思えるようにするということか。
東大立花隆ゼミのつくるサイト「サイ」(SCI)には、サイボーグ技術など、先端技術についての詳しいレポートがある。

投稿者 玉井一匡 : April 27, 2006 11:00 AM | トラックバック
コメント

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780-0870 高知市 本町 504-23 平田病院 平田陽三
電話:088-875-6221 Fax: 088-871-3801
E-mail: : hphirata@mb.inforyoma.or.jp

Posted by: 平田陽三 平田病院 : December 10, 2009 03:38 PM

わきたさん  個人的な好みはよくわかります。とはいえ、大きな問題をチャットのようにして論議するのは結構しんどいですが、いい問題提起ありがたくかかえています。20日を楽しみにしています。

Posted by: 玉井一匡 : May 3, 2006 12:39 AM

玉井さん。こんばんは。長文で読み応えのあるコメント、ありがとうございます。個人的には、こういうのが大好きです。コメント欄で書くのは、難しいですね。19日・20日の両日、東京にいきます。うまくお会いできたらなと思っています。20日は、多摩ダイブをするつもりです。

Posted by: わきた・けんいち : May 2, 2006 08:20 PM

新潟でiBookが故障して、コメントがおそくなりました。娘が来たのでそのiBookをかりて書くことにしました。さっそく、「無痛文明」のサイトを開いて項目に目を通し、一部を読みました。全部を読んでからでは、もっと時間がかかりそうなので、この時点でコメントを書くことにします。
 話題になった本でしょうに、ぼくはこの本の存在すら知りませんでした。技術の「やさしい」側面にこそ根源的な問題があるということでしょうね。
無痛文明は、じつは今に始まったことではなくて、いつの時代にも支配を強化した末の到達点には無痛文明と退廃があったのではないでしょうか。これまでは、その地点に達するとひとつの文明は滅び、あらたな文化文明がそれに取って代わるという権力あるいは文明の新陳代謝が行なわれたはずです。しかし現代の問題は、無痛文明がかならずしも少数のものでなく多数のものになったために、それに浴する人々と除外されるひとたちの間が遠く隔てられ、遠く隔てられたところでは日常の食料にさえ事欠く人々があふれている。
個体としての人間が生命でなく身体だけが生き延びるように、滅びるべき文明もいたずらに死を引き延ばされ、無用な消費が拡大し続けるのですね。
 グローバリズムというのは、強いものが世界中を自分のルールで支配しようということだと思いますが、同時に、それとは正反対の意味で国境をなくそうとする価値観が生じていると思います。国境をこえたあたらしい文化が無痛文明にとってかわることを、目指したいものです。

Posted by: 玉井一匡 : May 2, 2006 10:58 AM

玉井さん。こんにちは。新潟にいらしゃるのですね。お疲れのところ、思いつくままに、きちんと整理せずにコメントをしてしまい申し訳ありません。玉井さんのエントリーを読んでいて思い出した本があります。森岡正博という人が書いた『無痛文明論』という本です。まだ、私も全部読みきっていません。森岡さんのサイトのなかで、部分的に内容を読むことができます。韓国でも翻訳されたようです。

http://www.lifestudies.org/jp/mutsu07.htm#8

Posted by: わきた・けんいち : April 30, 2006 01:11 PM

わきたさん  早朝に東京を発って新潟に来た夜にしては大きなテーマで大丈夫かな。ぼくは、このサイボーグ技術のもたらす、身体的ハンディキャップの回復という恩恵の対極には戦争のため、人間を傷つけるための技術があると考えていました。
 技術というものをもう少し広義の捉え方をして、人間の能力を科学的あるいは機械的に拡大することだと考えるなら、技術とは環境に適応するための手助け、あるいは環境の方を人間に適合させるということでしょう。それがもたらす悪しき側面は人間が環境に適応する能力を弱めてしまうのですね。これは、対極よりも表裏一体の関係にあると。
幸福とは欲望の充足、あるいは競争における勝利であるなら、満たされるたびに新たな欲望や競争相手を創り出すという循環に陥り、幸福を消費しつづけることになる。しかし、それを続けている限りは人間の未来はそろそろ終わりが近い。それを抜け出すには、幸福とは、人間を含めた環境への適合のようなことだと考えなければならないのでしょうね。

Posted by: 玉井一匡 : April 30, 2006 01:28 AM

玉井さん、こんにちは。残念なことに、私はこの番組を見ることができませんでした。技術とは、人びとの様々な「生への欲望」をもとにどんどん肥大していきます。あるいは、そのような欲望を捜し求めて、それを根拠にして、様々な資源が動員され、開発が推し進められていくと言い換えることもできるかもしれません。技術開発と欲望と資源が、ひとつのシステムのようになっており、そのシステム自体が自ら肥大していこうとしているようにも思えます。このような技術の革新は、福祉への技術の応用のように人間に「幸福」をもたらすと同時に、「不便さ」「不幸」そして、「死」を受け止める人間の力をどんどん弱めているように思います。人類の歴史では、宗教がその部分を支えていたように思いますが、その機能が弱体化しているように思います。危険な部分を含んでいることを承知で書きますが、「不便さ」「不幸」そして、「死」を受け止める人間の力は、人間にとっての「幸福」とメビウスの帯のように正反対でありながら、どこかでつながっていると思うのです。

Posted by: わきた・けんいち : April 29, 2006 10:41 AM
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