June 04, 2006

「福祉史を歩く」


福祉史を歩くー東京・明治/河畠修著/日本エディタースクール
 neonさんの装丁された「福祉史を歩く」は、ぼくがかなり長く住んでいたところから5分足らずのまちから始まり、同じまちについての記述で終わっている。ぼくはこの本をまだ読んでいなかったのにneonさんのエントリー「装画の仕事 2」にあつかましくもコメントを書いた。「福祉史を歩く」ということができるのは、福祉が具体的な場所や特定の人とむすびついているからなのだろう、したがってそれは特定の人や特定の施設の献身的な活動に支えられていたのだろうと想像した。制度にたより、場合によっては福祉を金儲けのタネととらえている連中さえいる現代の日本よりも、むしろ志は尊い。そういう事実があったことに、ぼくは、それまで思い至らなかった・・・・と気づいたからだ。

 この本のはじめとおわりに取り上げられているのは四谷鮫ケ橋である。下谷万年町・芝新網町とともに、明治期に東京の三大貧民窟といわれたという。「日本の下層社会」松原源之助著・岩波文庫から多くの引用があって、同時代の目で見た具体的な記述がある。日本で初めての私立幼稚園二葉幼稚園が、この鮫ケ橋につくられた。現在は二葉南元町保育園となっている。こどもたちの労働力さえあてにしなければならなかった人たちのまちでは、とても教育などしてやれない。子供たちの将来のためには、何より教育が必要だと考えて、このまちに飛び込んで幼稚園を作った人たちがいたのだ。
 kai-wai散策で注目されていたころ荒木町の谷戸地形を見に行った数日後、若葉町の丸正のあたりに長屋があったはずだから見に行ってみようと思った。行ってみると、ちょうど新宿通りをはさんだ荒木町の向かいがわの坂道を下り、谷を道なりにたどれば自然に鮫ケ橋にゆきつく。現在の地名は若葉3丁目と南元町。権太原から四谷に抜ける広い道の向かいには東宮御所の門がある。その少し手前右側に、路地をはさむ2組4列の長屋が残っていた。入り口の前には今年の秋に工事に着工するという集合住宅のお知らせ看板が立てられている。この長屋も、この秋でつぶされてゴミになるのだ。
 この本の表によれば、鮫ケ橋は江戸時代にはむしろ景勝地で、落語にでてくる長屋の住人たちのまちだったようだ。それが、明治に入って日本の中央集権が進み、戦費調達のための増税や物価の上昇のために仕事や、その手段を失った人たちで高密度の「貧民窟」になったのだという。近くで育ったおばから、幼少時代にはここに入ることを固く禁じられていたというはなしを聞いたことがあった。
 国家の向上は、必ずしも個人の向上をもたらすわけではなく、むしろ個人の犠牲のもとに国家の成長が実現するのだとすれば、欧米列強に肩を並べようとしていた明治の日本も、「国民の痛み」のもとでの「改革」によって経済を回復し格差を生み出し、税金で助けられた銀行が空前の利益をあげる現在の日本も、基本的な構造は変わらない。

投稿者 玉井一匡 : June 4, 2006 08:03 AM | トラックバック
コメント

neonさん また、コメント遅くなっちゃいましたが、ひとつ余分にコメントが入っていましたから消しました。いい本の大部分は、売れないかもしれない「ロングテール」に属することが多いから、amazon.comの存在は、こういう「売れないかもしれないがいい本」にとっては、とてもありがたいことですね。とにかく、まちを見る視点にもうひとつのレイアができました。

Posted by: 玉井一匡 : June 6, 2006 09:54 PM

朝、TBと一緒にコメントもお送りしたのですが、入っていないようで、私のミスかと思います。(入っていたらこれは削除して下さい)

エントリーとTBを大変ありがとうございました。展示会期中に、著者の河畠修さんがいらして下さり、少しお話しできたのですが、「これが僕の最後の仕事になるかもしれない。売れないかもしれないけれど、誰かが書いておかねばと思って・・・」とおっしゃっておいででした。一応現代までの三部作になる予定ですが、お元気で続きを書いて頂きたいものです。

玉井さんのかつてお住まいになっておられたところに関連しているのですね。現代の福祉のあり方についても、本当に再考させられる気がします。

Posted by: neon : June 5, 2006 01:31 PM
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