July 18, 2006

新潟の田んぼと長屋

 7月14日金曜日、やがて日付も変わろうという深夜、私のところにこんな電話がかかって来た。
「急な話だから笑ってくれていいけれど、これからいっしょに新潟に行きますか? ぼくはまだ事務所にいて、これからうちに帰ってクルマでここにもどってから行くけれど、ウチに泊まるから交通費宿泊費は不要」
「行きます」即座にこたえる。
「ほんとかい。じゃあ、事務所にもどったらまた電話するよ」
1:30になろうかというころになって、電話をよこした男からやっと連絡があった。彼の事務所から私の自宅までは、この時間なら5分もあればおつりが来る。
・・・・・・・・という具合にことははじまったのだが、kai-wai散策「月夜の京島で」のコメントにこの事情をすでに書いたので、ここではそれとは逆の側から書くことにした。もちろん、「私」はmasaさんで、「電話をよこした男」はぼくだ。

土曜日は仕事とご近所ワークだったが、翌日は自由時間ができたものの雨ときどき曇り。近くの田んぼの景色をmasaさんに見せたのだが、あいにくの厚い曇り空でこんな具合だったからふた月ほど前の田植えの作業中の写真を、ぼくはアップロードした。水を張られながらまだ田植えの済んでいない水田は、まるでどこまでも続く池のようだ。農道に並んでいる四角い緑色は、田植機にのせるために四角いパレットにのせられた苗たちだ。田植機で往復して来ると、空になったパレットとこれらを交換する。これほどの広いところに、あまねく水をゆきわたせる技術と労働が何百年も続けられたことを思うたびにぼくは胸を打たれる。なにしろこの一帯は標高1mほどで海から10kmほどのところにある。斜面にしたら1/10,000の勾配ということになるのだから。
そのあとで、新潟市の旧市街、下町(しもまち)といわれる信濃川の下流一帯に侘び錆び建築を探しに行った。予想をはるかにこえるほどのmasa好みの家屋があった。新潟島ともいわれる旧市街は、周囲を海と河に囲まれ、海沿いには高台がある。それに、信濃川河口の一帯は、かつて内陸から水路を経て運ばれて来た米の集積地として栄えた。長屋や町屋の豊富な環境は整っているのだ。川の上流の森が河口の漁業資源をゆたかにするように、新潟では上流の豊かな水田が河口の一帯に低層高密度のまちをつくったのだろう。
ふたつめの写真は、すでに空き家になった二階建て二軒長屋。玄関のわきに張ってあるタグには「新潟市 水洗便所」とあるのが、潮風で風化した表面からはすっかり塗装が剥げおちて、それがとてもうつくしい。そういえば、neonさんが表紙をお描きになった「福祉史を歩く」に、明治中期から後期の日本の県別の人口統計表が掲載されていた。これには、ぼくはいまだに半信半疑なのだが、明治中期には新潟県が日本でもっとも人口が多かったことが記されている。このまちの密度の高さと古い水洗便所のタグのやや誇らしげな表情は、そういう歴史と何かの関係があるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : July 18, 2006 04:31 PM | トラックバック
コメント

わきたさん そうですね。ものの書き方には気をつけなきゃなりませんね。こころにもないのに、ひとを傷つけてしまうこともあかもしれない。でも、それを気にしすぎて不自由になっちゃあしかたない。まずは、思うことを書く、のが大事だと、いうことにします。異論、疑問にはなにとぞ反論をお願いします。ご指摘の箇所は、ちょっと考えて修正します。それにしても、とうとうiBookは回復不能、というか、新品の4割近くの治療費がかかりそうです。というわけで、うちに帰ると、ぼくは娘のiBookを借りてBlogの読み書きをしています。

Posted by: 玉井一匡 : July 20, 2006 11:01 PM

玉井さん、こんにちは。↓にお書きになったコメントの「この国も人間という種も、もう長いことはないでしょう」という部分に、ちょっとドキッとして、そこばかりに目がいってしまったものですから、少しズレた解釈になってしまいました(^^;)。むしろ、「この、根本的な問題を乗り越えなければ」というところに、より力点があったわけですね。そうすると、「けしからん状況を見ると『この野郎め』という気分がアドレナリンを発するのです」とお書きなっていることにストレートにつながってよく理解できました。それから、もちろん私も「今はまだ、焼け跡にはなっていないように」思っています。まだ、自分なりのスタンスから、やるべきことは山ほどありますから(^0^)。

Posted by: わきた・けんいち : July 20, 2006 03:08 PM

かしこまりました。
場所はLGのすぐ近くです、先方の方と連絡をとりましたので、近々に一度伺ってきます。
その後、ご報告をまた致します。

Posted by: cen : July 20, 2006 10:33 AM

cenさん ぼくも見せていただきたいと思っています。べつの機会でもかまいませんが。

Posted by: 玉井一匡 : July 19, 2006 11:17 PM

わきたさん ぼくの元気のもとは実のところ単純なはなしで、けしからん状況を見ると「この野郎め」という気分がアドレナリンを発するのです。この場合の相手は農機具のメーカーであり、その協力者だった農協であり、見境のない輸出に走った日本の産業システムです。農家は被害者にすぎないのですから、ちょうどあの戦争で、軍事システムや権力システム、経済システムの膨張する力が、男たちを平凡な日常から戦場に運び、結局は、それらの人たちにツケを払わせたのと、おなじ道を辿って来たのではないでしょうか。今はまだ、焼け跡にはなっていないように、ぼくは思います。たしかに、だれもが同じ焼け跡からスタートするということになれば、ある種の清々しさがあるだろうとはおもいます。

Posted by: 玉井一匡 : July 19, 2006 11:00 PM

またまた元気のでる情報をいただき、ありがとうございます。早速確認をとらねばと、あわてふためいております。京島ツアーに組み込めればと…。
わきたさんを含め、かなり深~いお話しが展開されて興味津々です。とってもいい話だと思います。

Posted by: cen : July 19, 2006 12:50 PM

玉井さん。お書きになったコメントの最後の部分、「この、根本的な問題を乗り越えなければ、この国も人間という種も、もう長いことはないでしょう。というふうに考えると、なぜかぼくは元気がでてくるのです。」というところは、なんだか深いですね~。これは、解釈が難しいな~。たとえば、私が生まれる前、戦争(第二次世界大戦)が終わった直後、みんな国中がスッテンテンになってしまい、何もかも失ってしまったわけですが、そのような社会状況のなかで(そのような状況だからこそ)生まれてくる人間や社会に対する「理想」や「希望」のようなもの・・・そんなのに近いのかな~・・・、ふとそう考えました。

Posted by: わきた・けんいち : July 19, 2006 12:37 PM

cenさん Wakkyと同じようにcenさんという名前も頻繁に登場しましたから、片時もわすれることはありませんでした。(yukiりんもね)cenさんのコメントでもうひとつ元気が出ました。
ところで、メールでお知らせしようと思っていたのですが、先日、「住む」という雑誌(74ページ)に屋上緑化についての興味深い記事がでていました。京島にある木造の古い家の瓦葺きだった切妻の屋根に、芝生を四層に重ねるというのです。しかも、下の三層は裏返しにして土の代わりにする。6年をかけてこれを実験開発した「けんちく工房邑(ゆう)」は、施工のノウハウを惜しみなく提供すると書いてあります(03-3611-7864)。この家はけんちく工房邑が借りている家だそうですから、見学できるのではないでしょうか。

Posted by: 玉井一匡 : July 19, 2006 11:43 AM

玉井さん、僕もかなり久しぶりのコメントになりますが、気合をいれて飛んできました(^^;
そのばかばかしい循環と元気がでてくる玉井さん、僕も元気がでてきました。
じわりじわりと、“ある気づき”が日本をうめつくすとき、代々受け継がれてきた田や畑が、よりいっそう美しく輝くのではないでしょうか。

Posted by: cen : July 19, 2006 09:17 AM

わきたさん お久しぶりの長いコメントのはずですが、あちらこちらでお姿をお見かけするし、masaさんとの会話にもしばしばwakkyが登場するので、あまり久しぶりを実感しません。ところで、ぼくが新潟に「住んで」いたのは6歳くらいまでで、以後はよく行き来してはいましたが定住はしていませんでした。それでも、ぼくにとっての原風景は、はてしない水田と夕日の沈む海であるように思います。とても心安らぐ風景なのです。
このあたりの水田は、おっしゃる通り土地改良が終わり、毎年つくらなければならなかったあぜ道はコンクリートの板に代わり、あぜ道際の細い溝は片側が同じコンクリートの板になりました。
前に「水辺の花」というエントリーをしたことがありましたが
http://myplace.mond.jp/myplace/archives/000188.html
かつて子供たちが入って魚やザリガニを捕った2,3メートル幅の小川は、コンクリートや鉄板の垂直な壁に守られる、愛想のない用水路になり、農道やあぜ道の際に立っていたハザ木で稲束を干すことはなくなって、電動の乾燥機が活躍するようになりました。→そうやって増えた機械類や農薬のおかげで生じた時間をつかって企業のもとではたらき給料をもらい、それで機械のローンを支払う。→企業は、生産を増やし輸出をふやす。→外国からの圧力で農業の自由化を迫られ減反を強いられる。→生産しないことに対してお金が払われる。
というばかばかしい循環に陥ってしまいました。
しかし、そういう理不尽が、日本だけでなくどの国でも生じているだろうし、農業だけではなくあらゆる分野でひろがっていることです。この、根本的な問題を乗り越えなければ、この国も人間という種も、もう長いことはないでしょう。
というふうに考えると、なぜかぼくは元気がでてくるのです。

Posted by: 玉井一匡 : July 18, 2006 11:37 PM

玉井さん、おひさしぶりです。お元気そうですね。masaさんとの「やや枯れ気味(^^;のスタンバイミーな匂いのする旅」(←masaさん)、エントリーを読んでいるだけで、そのときの気持ちが伝わってきましたよ~。一番上の写真、よい感じですね~。新潟平野ほどではありませんが、滋賀の近江平野も田んぼがひろがっています。田植えの頃、空から撮影した写真をみるとわかるのですが、一面が水のある世界になります。集落が島にみえます。おそらく、新潟平野のばあいは、その何倍もの広さですから、かなりの迫力なのではないかと思います。新潟平野は、信濃川や阿賀川が土砂を運んで産み出したものらしいですが、治水技術や土木技術のない時代にまでさかのぼれば、田んぼがなくても、雨が多くなる梅雨の季節、川が増水・氾濫して、一面が水のある世界になっていたのでしょう。稲は、雲南や揚子江下流の湿地に自生していた植物を、長い年月をかけて、人間の側の都合で品種改良してきたと聞いています。田んぼというのは、そういう稲を作るのに必要な環境を、人為的に作り出してきたわけですね。そういう意味では、この風景の基本は、平野ができた頃から、ず~っと続いていると考えてよいのかなと思っています。ところで、写真では、ある意味当然なのですが、すでに土地改良や圃場整備事業をすませて、用水路も整備されているようです。玉井さんがご幼少の頃とは、少し様子が違っているのではないでしょうか。想像するのですが、用水路もU字溝ではなくて、素堀に近いもので、エビや小魚、水生昆虫の類もたくさんいたりして・・・、そんな環境だったのではないですか?玉井少年は、この新潟で、この自然環境のもとでどのようにお育ちになったのでしょうね(玉井さんの原体験は如何にです(^^;))。ひさしぶりに『MyPlace』へコメントをさせてもらって、ついつい長文になってしまいました。

Posted by: わきた・けんいち : July 18, 2006 08:22 PM

masaさん ぼくもmasaさんを案内して侘び錆び検索歩行をしたおかげで、あらたな発見ができました。ほんとうは、ひとりで歩き回った方が面白いし、まちのひとも構えないで接してくれるでしょうから、masaさん独特の会話術も発揮できるでしょう。次回は、おたがいに自由気ままに移動して、最後に、どこかに集結するというのがいいかもしれませんね。面白いし気楽だろうし、情報の交換もできるでしょう。ずっと泳いでるやつがいたりするかもしれませんがね。
誘ったやつも誘ったやつですが、乗ってくるやつも乗ってくるやつですですね。

Posted by: 玉井一匡 : July 18, 2006 06:31 PM

玉井さん、「あいつ、冗談半分で言ってみたら本気でついて来ちまったよ」(電話をよこした男談)、なんてところでは?なんて思いますが、深夜のお誘い電話にもかかわらず、何の迷いもなく、「あ、ご一緒させていただきたい!」と即反応してしまいました。とても楽しく、かつ決して堅苦しくなく意味のある、充実した空の時間を過ごすことができました。何かが、ちょっとだけ、フッ切れたような気さえしています。しかし、本当にお世話になりまして、ありがとうございました。
しかし、玉井さんが2ヶ月前にお撮りになった写真は、一昨日見た同じ場所の景色とは全く異なる印象です。どちらの表情もそれぞれに美しく、実に、またあの空間に立ってみたい…と思わせます。

Posted by: masa : July 18, 2006 06:06 PM
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