August 21, 2006

ハノイと「建築のハノイ」


「建築のハノイ」写真 増田彰久 文 太田省一/白楊社/2800円
 日本からラオスには直行便がないので、バンコクかハノイを経由してゆく。今回ははじめてハノイ経由でラオスに行くので、同行のEFAジャパンの黒岩さんがメールで「建築のハノイ」という本を教えてくださった。彼は司書なのだ。間際になってamazonで調べて注文、出発の前日に届いたのをパラパラとのぞいただけでハノイの建築の写真たちはぼくのベトナムに対する見方をすっかり変えてしまった。
ベトナム戦争のころ、マスコミはハノイのことを「アジアのパリ」などと安っぽい表現で書いていたから、日本中のいたることろにある「なんとか銀座」という商店街の延長線上に、ぼくの想像力は導かれていたのだが、この本の写真はフランスのアジア統治にとってベトナムが特別なものであることをつたえる。とはいえ表紙にはあいかわらず「ベトナムに誕生したパリ」などと書いてあるし、腰巻きにも「東洋のパリ」とある。

 ベトナム戦争のころ、おおかたのマスコミはベトナム贔屓だったけれど、じつは彼らもアメリカの側から北ベトナムを見ていたのだろう。パリのようだなんていう表現をほめ言葉としてつかおうとするのはベトナム文化を過小評価していたわけで、解放戦線の力を見くびったアメリカと似たようなものだ。
 あるアジア通の友人は、「ベトナムはラオスの3000倍くらい・・・」といってその後の言葉をためらって呑み込んだように感じられたが、ぼくはあえてその先を訊ねなかった。自分でそれを感じたいと思ったからだが、ハノイに行ってみると、ことごとにその言葉が思い出された。何がどう3000倍くらいなのかを言葉で言うことは、たしかにむずかしいが、たとえばハノイの建築と都市に対するフランスの力の入れようをラオスのそれとくらべるとかけ離れている。ここをフランスがいかに特別な場所と考えていたのかが、残された建物の出来と規模や数、広い歩道、大部分の道路にある大きな街路樹にあらわれている。歩道の縁石と側溝の蓋にすら、なめらかな石が使われてたところがあるほどだ。とはいえ、フランスが植民地として重視したことと、そこの人びとの能力や価値とは別のはなしだ。
 かつて植民地だった都市は、そこが解放されたのち、統治し支配するために作られた建築、都市と統治システムが時間と本来の住民によって融解され変化熟成する。宗主国は、支配するしかけとして自分たちの文化をそのまま持ち込むけれど、植民地はそれを自在にすり替えて、いずれその土地に適応させてしまうのだ。
ところで、宗主国といういい方に対して支配される国のことはなんていうんだろうかと思ったが、そもそも自治権のないところは「国」ではなく植民「地」にすぎない。ベトナムが19世紀末から1970年代まで戦い続けたのは、「地」から「国」になるという志がささえていたのだ。
 ハノイは、残された建築やまちの変質熟成のしかたが格別で、「東洋のパリ」などという枠にはおさまりきらないなにものかをつくり出している。かといって、フランスの持ち込んだものを消し去ろうとはしていない。ぼくたちは革命博物館を地図にみつけて入ったが、フランスの過酷な支配を示すギロチンの実物や手枷足枷をされたベトナム人の写真、処刑された人たちの辞世の漢詩などが生々しい。にもかかわらず、フランス支配のしるしである建築からフランスらしさを消し去ろうとはしないしたたかさ、あるいは加減のほどよさが、このまちにはあるのだ。

 本屋の集まる一劃があった。小さな本屋が数軒ならび満員の盛況で、その近くにも4階建てで紀伊国屋ほどの大きな本屋がある。日本の本屋でもっともにぎわいを見せる雑誌や文庫は、ここには置いていないのに、たくさんの客がひしめいている。それを見て黒岩さんは、20万点くらいの本が流通している感じかなと言った。年に60点というラオスの出版の状況と比較すると、200.000÷60=3,300。ベトナムはおよそラオスの3000倍の・・・・という表現説が数値として実証される。

ハノイを考えながら、一方ではラオスのことを思う。フランスの残した遺産もこれほど多くない、残されたフランス時代の建築は小さく少ない、そして開発の「進んでいない」ラオスは、どうすればいいのか。ラオスは、「ない」ということをむしろアドバンテージに転換する道をとるのが最善の方法だろうと結局は思う。たとえば本が年に60点しか出版されないという状況は、デジタル化への転換に利用することができる。過去にさかのぼって出版された書物の全点をPDFデータ化することもさしたる手間ではないし、これからはすべてデジタルデータの提出を求める。出版が少ないという現状を逆手にとって全点デジタルデータ化で、自由に閲覧できるようになれば世界のトップランナーになるだろう。
開発が進んでいないということは、破壊されていない自然が豊かであることだ。住宅のとなりにいきなり超高層が立ち上がって生活を台無しにしているところもない。ルアンパバンの路地はとても心地よく美しかった。路地は、そこに住むひとりひとりの住民がつくり育てる場所だから住民のありようが反映される。人間同士、人間と自然の共存する方法を心得ている。おだやかな人と自然という資源、資産がラオスにはある。

投稿者 玉井一匡 : August 21, 2006 06:59 PM
コメント

玉井さん、こんばんは。「日本が『進出』したおかげで東南アジアの国々は西欧から独立できたんだ」という大東亜戦争肯定論を主張する人たちの立場からは、玉井さんが「にもかかわらず、フランス支配のしるしである建築からフランスらしさを消し去ろうとはしないしたたかさ、あるいは加減のほどよさが、このまちにはあるのだ」なんて主張は、さっぱり理解できないのでしょうね。

Posted by: わきた・けんいち : August 25, 2006 12:28 AM

わきたさん よそ者で若者となれば、ますます行動しやすいわけですね。おかみさんたちが町づくりの牽引車になるというばあいがありますが、あれも嫁いで来た「よそ者」という一形式だし、サッカー日本代表の監督を外国人にするのも同じことなんでしょう。だから、日本を「改革」しようとすれば外のなかの外である極道から出て来た「変人」をもって来なければならなかったということも、容易に分かります。
論理というものは際限なく拡大すると、どこかで冗談になるもので、上記の変人の話は半分冗談の域に達しています。しかし、日本が「進出」したおかげで東南アジアの国々は西欧から独立できたんだという大東亜戦争肯定論がありますが、日露戦争とは事情がよほど違うのだから、ずいぶんと拡大した論理だと思いますが、一部では本気で主張されているのですから、理由と結果の評価というのは興味が尽きませんな。

Posted by: 玉井一匡 : August 24, 2006 08:52 PM

地域づくり、まちづくりにおいては、地元に漂っている常識という名の、ある種の“停滞感”や“無気力さ”に染まっていない、①若者、②よそ者、③地元の変わり者(行動してあとから考えるようなタイプ)が変化のきっかけを与えるとの指摘があります。③などは、地元では「馬鹿者」なんていわれたりするのですが、こういう人たちの動きが、地域づくりやまちづくりに必要な「地域の再評価」(外部からの尺度でない、自らの尺度をたちあげる)を始めるきっかけをあたえるのです。そういう点からすれば、夕海さんや「またたび」の活動っていうのは、重要だなと思いました。白亜紀資料館に夕海さんが勤務されたお話しは、以前のコメントでも(どのエントリーだった忘れましたが・・・)教えていただきましたね~。

Posted by: わきた・けんいち : August 24, 2006 08:47 AM

わきたさん またしても速攻コメントありがとうございます。御所浦は、ひところ養殖漁業で景気がよかったそうですが、このごろは経済的な困難にぶつかっているようです。合併も、まちの財政がなんとかなるという期待から行なわれたようです。なにしろ、一昨年だったか、核廃棄物の処理施設の候補地に手を挙げたことがありました。水俣とは海をはさんだ対岸にありながら、正気の沙汰ではないと思いましたが、県知事もびっくりするわマスコミも大騒ぎになるわで、町もあわてて翌日には撤回するというお粗末でした。人口からいえば当然のことですが高校がないということも、おそらく高齢化に拍車をかけているでしょう。
 そんな具合ですから、島は適切な対策をとっているとは言えないのかもしれません。そんなこともあって、夕海が白亜紀資料館で嘱託として半年お世話になったとき、本来はホームページ作りという目的で行ったのですが、島起こしについて考えずにはいられなくなったようで、そのひとつとして「こどもガイド」という活動を夏休みの間に企画しました。モーターボートを借りて観光客を乗せ、小学生に島のガイドをしてもらうというものでした。まずは自分の島を知り、そのよさを伝えることを考えるのですから、それに参加したこどもたちには、いい記憶を残したようです。もんしぇんの公開に際して、数人の子どもたちが東京に招待されました。
また、御所浦の島を横断して活動する住民の組織「あらよっこいしょ」ができました。このメンバーの人たちは、映画つくりや公開にあたっても力になって下さいましたが、島のことを考え行動するための組織です。さらに、子どもたちのためのワークショップをひらくために東京の芸大などの学生たちが中心になって「またたび」というチームがつくられましたが、その後は活動の範囲をさらに広げています。
http://mata-tabi.net/cotents/member/index.html
島には、さまざまなつらい出来事もありましたが、これらの活動は、一過性のものではなく、根付いてきていると思います。じつは、映画も、そうした活動の重要な核のひとつです。多くの人が映画を見て、御所浦に行ってみたいとおもってくださることも期待しています。

Posted by: 玉井一匡 : August 24, 2006 02:59 AM

こんばんは、玉井さん。離島と橋の話し、よくわかりますよ。「橋」が自動的に自分たちの幸せを約束してくれると思っていると、橋が高速道路などと同じように「ストロー効果」のような現象を引き起こしてしまうとも限りません。これまた、記憶が曖昧なのですが、離島振興につくした宮本常一さんが同じようなことを主張していたように記憶しています。橋をつくること自体が即時的に島の発展を約束するような幻想をもってしまうことに対する危惧でしょうか。ところで、おそらくは御所浦においても過疎や高齢化の問題が生じていると思うのですが、島の皆さんは、それについてはどう認識され、どう対応しようとされているのでしょうか。この春に合併して天草市になってからの動きも気になります。離島はもちろん、中山間地域などの地域社会の過疎と高齢化の問題は深刻ですからね。
話しは変わりますが、ヴェトナムで、パンは召し上がりましたか?昔ながらのフランスパンをつくる技術がきちんとヴェトナムには残っていて、パンが美味しいということを聞いたんだすけど。写真も追加されましたね。ギロチンは、少しゾッとしますが、街並みの枯れ具合(変質成熟)はよろしいですね~、ほんとに。

Posted by: わきた・けんいち : August 23, 2006 11:08 PM

はずかしい話ですが、ぼくはGNHということばも概念も、もちろんブータンの国王が宣言したということも知りませんでした。おすすめのサイトも見てみましたが、他にもいろいろと調べてみます。国王がこういうことを言って、国民がそれについてくるのだとしたら、彼が敬愛されるすぐれた国王なのでしょうね。
こういうことは、日本の過疎地や島でもおなじことがいえますね。もんしぇんを撮った御所浦は、熊本県で唯一、橋のない島(自治体として)でした。先日、映画の公開イベントの歓迎会で島の人たちと話しました。「御所浦は島がないことを売りにしたほうがいいでしょう。外の人間だから勝手なことをいうけれど」というと、大工を生業とするひとは「そりゃ、橋がないといちいち材料を舟で持って来にゃあならんですけんね」といいます。橋ができたら、材料だけじゃなくて、工務店も入って来ますよ、ということを言い忘れました。

Posted by: 玉井一匡 : August 23, 2006 12:31 PM

玉井さん、こんにちは。玉井さんのコメントを呼んでいて、ブータンの「国民総幸福量(GNH)」のことを思い出しました。この「国民総幸福量(GNH)」については、何かの文章を書くときに言及したような記憶があるのですが、いろいろ調べてみましたが、さっぱりわかりません。最近は、思い出せなかったら「まあ仕方がないな…」と思うようになってしまっていて、若い人たちからは、「それはね、脳の老化を防ぐためにも必死になって思い出したほうがよいですよ」と忠告されています。でも、思いだせんもんは、しかたがないやん、と思ってしまうのです。さて、「国民総幸福量(GNH)」ですが、ネットにいろいろ記事が出ているし、玉井さんもご存知でしょうから、ここには書きませんが、玉井さんのおっしゃる宣言を、この国はしてしまっていますよね。外部の者が、過剰にロマンチックに評価することには注意が必要だとは思いますが、やはり関心をもってしまいます。以下のサイト、詳しく説明されていますし、『GNH』の穴というブログもみつけました。
http://www.gnh-study.com/
http://blog.canpan.info/tadanori/

Posted by: わきた・けんいち : August 23, 2006 10:18 AM

わきたさん ぼくも、それを考えました。韓国に行ったことがないので実際にどうなっているのか知りませんでしたが、ハノイのまちを歩きながら、韓国と日本の場合について考えずにはいられませんでした。総督府が破壊されたのは、日本の統治の仕方や振舞い、それまでの歴史、そして韓国の文化そのものの性格、建築が残すに値するものであったかどうかということも関係があるでしょうね。ハノイがフランス支配の痕跡に対してとった態度は、フランスの統治の姿勢の巧妙さのおかげでもあるのでしょう。
 単純な統計的な処理を物差しにすればラオスは「最貧国」のひとつに過ぎなくなってしまいますが、実感としてはけっして貧しい生活だとは感じられません。自国で多くの食料を生産し、輸出するほどの電気をつくっているからでしょうが、グローバル経済の列車に跳びのって、「先進国」なるものやベトナムに追いつこうとすれば、ラオスはただの「遅れた国」になってしまうことでしょう。わきたさんのおっしゃるような「先進国にキャッチアップすることを国の幸せと考える尺度ではない、もっと別の尺度」を提示して、どういう方向をとるのかを宣言すればいい。たとえばエネルギーの消費を減らすことなどは、全ての国がいずれはやらなければならないことなのだが、まだエアコンが少ないし、バイクに複数の人が乗って走るのだから、はやく言ってしまった方がいいと思うのです。

Posted by: 玉井一匡 : August 23, 2006 02:29 AM

玉井さん、こんばんは。植民地支配-被支配の関係のあいだには、それぞれの国ごとの特殊の事情が反映すると思いますが、ヴェトナムのばあい「にもかかわらず、フランス支配のしるしである建築からフランスらしさを消し去ろうとはしないしたたかさ、あるいは加減のほどよさが、このまちにはあるのだ。」というところに、ググッと惹かれました。たとえば、韓国のばあいだと、日本がつくった朝鮮総督府の巨大な建物は取り壊されました。ヴェトナムではそれとは違った動き方をしたのですね。どっちがどうだというわけでもなく、また簡単には比較・評価することなどできないのですが、上記のヴェトナムに関するご指摘は、おもしろいな~と思いました。その一方で、「人間同士、人間と自然の共存する方法を心得ている」というご指摘も興味深いですよ。これは、ある種、社会が持続していくための根本原理のような部分ですから。先進国にキャッチアップすることを国の幸せと考える尺度ではない、もっと別の尺度が共有できて、それが見えないフィルターとなって外国からの援助や干渉をうまく賢くコントロールできたらなと思います。玉井さんは、その潜在的可能性をラオスの社会・歴史や風土のなかに見出されたわけですね。

Posted by: わきた・けんいち : August 22, 2006 08:06 PM
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