January 15, 2007

ワインとパンと雑煮


 年末に「わがやのお雑煮大会」への参加をよびかけたのに応えてたくさんの方がそれぞれのブログでエントリーしてくださった。
 まちには大型店が道の両側を埋めて地元の商店を閉店に追い込み、日本中のどこもかしこも同じ町並みにしてしまうこの時代にあって、雑煮には「場所の力」がいまもって健在であることが確認された。それには、いまでは生活慣習となっている正月が、もとは宗教的な行事であり雑煮がその重要な一部であることが大きな影響を及ぼしているのだろう。
「石川県加賀のシンプル雑煮」のエントリーに「この雑煮は神饌のお下がりを戴く正月の儀式の一部なんでしょうね。」とiGaさんがコメントを書かれたので、僕はカトリックの聖体拝領について触れた。いささか軽卒で乱暴な書き方をしてしまったので、後日その部分をすこし書き変えたのだが、それにはつぎのような経緯があった。

 「わがやのお雑煮大会」におさそいしたkadoorie-aveさんから1月6日にメールをいただいた。三が日あけに締め切りというしごとが3つも入っていたので遅くなったけれど、やっと雑煮エントリーをしたというおしらせだった。だが、そのメールには次のような件りがあった。すこし長くなるけれど、大切なことだと思いkadoorie-aveさんの了解をいただいたので引用する。
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「それで...あの...。
先程、玉井さんの「石川県加賀のシンプル雑煮」のエントリーを感心しながら拝見していたのですが
コメント欄の「カトリックの聖体拝領は、キリストの血として赤ワインと肉の代わりの種無しパンを食べるわけだから、キリストを食べちゃおうっていうずいぶん野蛮な宗教だと、よく思います。」というところに、少々悲しい気持ちになりました。
私は、その野蛮なカトリック信者です。
「キリストの血として...キリストを食べちゃおうっていう」というのは
すっかり間違いとはいえないのですが、なんだか少々違う。
「好き・嫌い・肌に合わない」ということならば、誰でも好みは自由だから構わないと思いますし、なるほど的を射た指摘だ...と思えることは、批判的な内容であっても
考えるきっかけになるのですが。。。
「野蛮」というのは、なににつけ、相手への無理解と軽蔑の意味を含んでいて、同意できる大多数のお仲間の間では問題がないのでしょうが、それ以外の人々を疎外する、寂しい言葉だと思うのです。
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 これは抗議というようなものではなかったが、そのとおりだと軽卒を反省してぼくはつぎのように書き替えた。「カトリックの聖体拝領は、キリストの血として赤ワインと肉の代わりの種無しパンを食べるわけだから、キリストが肉体を分け与えることを思うたびに、肉食文化の神であることを実感します」と。
最後の晩餐で、キリストが弟子たちに別れを告げながらワインとパンを与え、わたしの血と肉だといったのを儀式化したのが聖体拝領だ。けっしてぼくはカトリックに否定的なわけではないのに、それをもって「キリストをたべちゃう」「野蛮な宗教」なんていう書きかたをしてしまった。ぼくはカトリック系の幼稚園にゆき、母方の祖父が長崎県の出だったから平戸出身でフランシスなんていう洗礼名をもつ農家出身の学生が身近にいた。井上ひさしによれば、カトリックはじつは異教に対して寛容なのだと書いていたのを読んだことがある。南米や日本での布教にあたっては、既存の神の形式を残したままでキリスト教との共存を認めていた、日本のマリア観音などのように・・・というようなことだった。カトリックのそういう在りかたをぼくはすきなのだ。だからかえって友人のことを荒っぽい調子でいうような感じでこう書いてしまったのだった。

 「一神教の奴らのせいで戦争が起こるんだ」というようなことをいわれることもあって、神経質になってしまったかもしれないと、kadoorie-aveさんはおっしゃってくださった。そうした荒っぽい理解と論理でひとの根源に関わるようなことをことばにすること、さらに否定することこそ、じつは「一神教」であること以上に対立を引き起こすのかもしれない。ぼくの書き方もそのひとつだった。「一神教」を信じる人の意思を尊重することをせず、勝手に「多神教」の神のひとりとして祀り上げてしまうということを、ぼくたちの多神教の国がやった歴史がある。だとすれば、ことは神の数ではない。
 宗教にかぎらす、たがいに異なるもの同士が接することはかならず生じる。だとすれば、それらのあいだを分離するような壁をつくることで問題を避けるのではなく、混在しやすい領域を、その間にもうけて共存をはかることで、解決に近づくことができるのではないだろうか。
kadoorie-aveさんは幼児洗礼をお受けになったから聖体拝領がすでに身についていらっしゃる。そのときの気持についてこう書いていらした。「聖体拝領は、週一回、日常から切り離されてキリストを『思い出す』ための嬉しい『しかけ』です」と。聖体拝領のときの気持ちを、ひとにたずねたことは、これまでぼくは一度もなかった。しかし、そういわれれば分かるような気がする。

それぞれに別々のルーツをもつ人々の共存する家庭という場所にあって、さまざまな形式と歴史をもつ雑煮が、あるいは日を分けあるいは融合しつつ共存していることが分かったのは、なにはともあれ目出たいお雑煮大会であった。

投稿者 玉井一匡 : January 15, 2007 08:20 AM
コメント

fuRuさん ぼくは、うかつにも、お雑煮が宗教的な発生をもつ食べ物であるとは考えていませんでした。しかし、べつの見方をすれば、お正月は宗教的レイアのかさなったお雑煮を、みんなで楽しむことができるわけですね。

Posted by: 玉井一匡 : January 17, 2007 09:16 PM

kadoorie-aveさんと玉井さんのお気持ちが
よく煮込んだ大根のおでんのように
おいしく頂かせていただきました。

Posted by: fuRu : January 17, 2007 07:32 PM
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