April 01, 2009

自由学園明日館

Myonichikan1S.jpg.jpgフランク・ロイド・ライト 自由学園明日館 /谷川 正己 著・宮本 和義 写真 /バナナブックス/1,600円

 この本を読んでいるうちに、ぼくは明日館に行きたくなった。
この建築がぼくたちにとって身近な場所にあるからなのだが、ただ近くにあるというだけではない。明日館は講堂と校舎の敷地の間に4mほどの公道があるので、表紙のように満開の夜桜が見える場所にいつでも立つことができるのだ。
芝生の庭を前にして中央奥にホール、左右から教室棟の腕をのばしてその庭を懐にかかえこんでいるようだから、ぼくたちは道路に立ったままこの建築のつくる「場所」のなかに加わることができる。そして、しかるべき時間には中に入って見学することもできる。

 なろうことなら、帝国ホテルの現場事務所を中年の日本人夫妻がライトを訪ね学校の設計依頼を切り出したところに僕も立ってみたいと思う。谷川正己氏による解説に書かれている具体的な時間経過によれば、学園設立の進み方の早さといったら尋常ではない。

 創設者羽仁もと子は、1920年に女子教育のために学校の設立をこころざすと、翌1921年1月にF.L.ライトのもとを夫の羽仁吉一とともに訪れて設計を依頼するや、2月15日に設計が完了、3月15日には着工して4月には校舎の一部が完成した状態で開校してしまう。初対面からひと月で設計完了、それからひと月で着工、さらにひと月で開校してしまったのだ。

 こんな離れ業ができたのも、羽仁もと子とライトが教育に対する思想で深く強く共鳴したからだろうし、これほどの集中力をライトにもたらすだけのものが羽仁の教育理念にあると理解されたからだろう。母の手作りの教材による独自の教育を受けていたライトと、身近な生活のなかに教育(世界とおのれの見方と生き方をつたえること、だとぼくは思うが)の本質があるという思想を抱いた羽仁もと子の間にどんな議論が交わされるのか知りたいではないか。
 たとえば村山知義がここを本拠地とした婦人之友社から絵本を出版し絵画を教えていたことなどを思いながらこの建築の中にいると、大正の時代が、明治と昭和にはさまれた影の薄いあるいは浮ついた時代ではなく実は短いが豊穣の時代だったのだと思う。Google Earth的に見れば、ロシア革命があり、大戦後のドイツにワイマール共政が成立しバウハウスがつくられた時代。
芸術であれデザインであれ、現代の人間はいまだこの時代の遺産で食っているようなものではないか。

 ライトにとって自由学園は、いつものように設計したむしろ質素な建築のひとつにすぎないのかもしれないが、羽仁もと子とその教育その学校は、建築と同じように日本にとってかけがえのないものだと思う。しかも、それほどの情熱をこめてつくり育てた学校でありながら、ここが教室として使われ文字通り学園であったのは、10年ほどにすぎない。このキャンパスの広さでは不十分だと考えた羽仁は、1927年にこのキャンパスの建築が完成されたあと、こんどは1930から1934にかけて、遠藤新の設計で現在のひばりヶ丘に新たに南沢キャンパスをつくり思い切りよく移転した。しかも、このとき新キャンパスの周辺に住宅地を開発してそれを学園の父母などに購入してもらうことによって費用を作り出した。

 以来、現在にいたるまで、自由学園は生徒・先生・卒業生と父母だけで学校を運営しながら独自の規範によって教育が続けられ、明日館は婦人之友の本拠地と一体で使われている。明日館には大きな手を加えられることなく現在まで来た。おかげで、ここは建築の剥製のようなものにされるようなこともなく、重要文化財となった今も呼吸をし言葉をかわし続けているのだ。

 ライトの残した タリアセン:TALIESINも羽仁もと子のつくった自由学園も、創設者の残した思想を忠実に受け継いでいるおかげで、ぼくたちはそのままに知ることができるのだが、半面ではそれが強いゆえに呪縛のようなもので人が限定されてしまうところがある。アントニン・レーモンドは、ライトの強烈な影響から抜け出すのに苦労したと、wikipediaにも書かれている。

■関連エントリー
*自由学園明日館/aki's STOCKTAKING
*自由学園明日館で/MyPlace
■関連ウェブサイト
*自由学園明日館 公式ウェブサイト
*山邑邸 公式ウェブサイト
*帝国ホテル/明治村公式ウェブサイト
*自由学園の公式ウェブサイト
■地図
*明日館:Googleマップの航空写真

投稿者 玉井一匡 : April 1, 2009 08:43 PM
コメント

Chinchiko-Papaさま
なんだか志ん生を思い出させるエピソードですね。
とはいえ、むこうは、たしか遊郭に繰り出したんだったと思いますが、さすがにクリスチャンとしてはそこまではやらないにしても、結婚という形式や制度によって自分を位置づけるというということが、どうにもいやだったんではないでしょうか。制度や社会的規範に挑戦すべき芸人や芸術家として、せめてそんなことでもやろうとしたのでしょう。
それに対して、羽仁吉一・もと子夫妻がどう反応したのか、興味深いですが、花嫁は、あとで夫を張り飛ばしたのでしょうね。
マヴォ(Wikipedia):http://ja.wikipedia.org/wiki/MAVO

Posted by: 玉井一匡 : April 9, 2009 08:48 PM

先日、面白い記事を読みました。
自由学園明日館で結婚式を挙げた、村山知義と岡内籌子ですが、村山は花嫁を置いたまま「南洋の歌」を大声で歌いながら、マヴォの連中と下落合を抜けて上落合の三角アトリエまで帰ってしまい、明日館にはポツンと花嫁の籌子だけが残されていた・・・という話です。
1924年(大正13)のエピソードを記述した、『演劇的自叙伝2』の43章にも書かれていたことのようですが、一度読んだはずなのに記憶がありませんでした。明日館の披露宴会場では、羽仁夫妻をはじめ唖然としていたのでしょうね。

Posted by: Chinchiko Papa : April 9, 2009 06:01 PM

AKiさん
卒業年度からすると、その方はぼくと同年ですね。ひばりヶ丘にも、高校の上に最高学部というのがありますが、文部省の法的な規定から外れているので大学ではなく各種学校扱いなのだそうです。
 大学に行く年齢になってから寄宿舎生活で、しかも40人では「好きくない」とお思いになったとしてもあたりまえですね。とくに、ご本人が望んだのでなければ、なおさらでしょう。

 うちの次女は小学校だけ自由学園に行きました。小学校は、やはり1学年1学級ですが、とてもいい教育だったと思います。
しかし、傑出した創立者のあと、何を受け継ぎ何をどう変えて継承していくかというのは、いつの時代もどの分野でも難しいことですが、自由学園は羽仁もと子氏を尊敬するあまり神格化して、なにもかも当時のままでやろうとしすぎるところがありました。社会的な環境がすっかり変わったのだから、今の時代に彼女が生きていらしたら、そんなやりかたはしないだろうというようなことがいろいろとありました。それで、ぼくは父母会で質問をしたことがありましたが、どうも変わりそうもないと思い、本人も望んだので小学校でやめたのでした。
 でも、明日館の保存をもとめる会をつくるときに、発起人に加わるよう日大の浅野さんが声をかけてくださったことがありました。そのときには、「ぜひ明日館の建築を残したいと思うけれど、建物よりも自由学園の教育の方が、もっと大切だとぼくは思っている。そういう立場でよければ参加したい」と言いましたが、浅野さんは、それでいいんだと言ってくださいました。

Posted by: 玉井一匡 : April 3, 2009 06:31 PM

自由学園生活学校についてもっと知りたいと思い、従妹に電話してみました。

彼女は1964(昭和39)年に入学し、二年の過程を経て1966年に卒業したそうです。自由学園生活学校17回生で、25回生をもって学校自体が無くなったようです。生徒の数は40人で学校全体で80人の小さな学校だったようです。
全員が寄宿舎生活で、学校の教室が明日館だそうです。体操はスエーデン体操.....それは「婦人の友」の裏の講堂でという話でありました。

レポートして.......と言ったのですが、彼女はあの学校は.....好きくない....と言っておりましたです。

Posted by: AKi : April 3, 2009 01:00 PM

AKiさん
ありがとうございます。そうだったんですか。
Googleで探してみましたが、直接に知っている人による情報はなさそうですね。北京の自由学園生活学校なるものについての英語の報告があるようですが。
自由学園のサイトにも「1934年(昭和9)に自由学園が南沢(東久留米市)に移転してからは、明日館は主として卒業生の事業活動に利用されてきました。」としか書かれていません。

Posted by: 玉井一匡 : April 2, 2009 09:38 PM

この自由学園明日館は、戦後、自由学園生活学校という形で校舎の機能を果たしていました。私の従妹が生徒であったのを覚えています。

Posted by: AKi : April 2, 2009 06:43 PM
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