May 05, 2009

「日本語が亡びるとき」

NihingogaHorobiru.jpg日本語が亡びるとき/水村美苗/筑摩書房

 漱石の絶筆となった「明暗」のつづきを文体そのままに書いた「続 明暗」を読んで大胆さにおどろかされたが、それ以後この人が小説を書いたことは知っていたものの読んだことがなかった。
 日本語の乱れについての嘆きと腹立たしさについて書かれたエッセイだろうかと読み始めると、日本語論でもエッセイでもなく、普遍語としての英語と、その他の言葉の関係の現在と遠からぬ未来のありようを真正面から論じたものだった。ここ数年で、もっとも刺激的で面白い本だと思った。図書館で予約しておいたのがしばらく経ってから届いたのを読んだのだが、返却したあとに本屋で買ってもう一度読みかえし、あちらこちら存分に付箋と鉛筆の書き込みを加えた。

 この本では、ことばを意味する語がはなはだ多くつかわれている。それらをざっとあげてみると、拾い落としもあるだろうが、それでもこんなにある。
<普遍語><国語><公用語><現地語><方言><書き言葉><読まれるべき言葉><聖典><話し言葉><外の言葉><図書館><大図書館><母語><ボゴ><「蓋付きの大箱」に閉じこめられた言葉><自分たちの言葉><口語><俗語><口語俗語><非西洋語><学問の言葉><母国語><多重言語者><三大国語><文学の言葉><数式><国語の祝祭><自国語><出版語><聖なる言語><書き言葉><言文一致体><真名><仮名>
これら、言葉に関わることばの数々を組み合わせれば、この本の全体像ができあがる。さながらそれはジグソーパズルのようでもあるが、ジグソーパズルはどういう結果に至るのかがはじめから分かり切っている。ぼくは、それを面白いと感じられることが理解できないのだが、その点ではこの本はジグソーパズルとは、むしろ対極にあるのかもしれない。
著者がどのような立場に立っているのかについて、「續明暗」を読んだだけのぼくには前もっての知識が皆目なかったおかげで、どんな結論に導こうというのか最後まで分からないから、推理小説を読んでいるようだった。帰りがけにこの本を読みたくて、自転車を置いて電車で帰る途中、乗り換え駅のコンコースで紙面から目を離せず、靴の底で黄色いタイルをたどりながら歩くくらいなのだ。
さらに、この本の論理の軸をなす「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン/山口隆、白石さや訳)という本について知らなかったことも好奇心を刺激したのだと、あとで思った。
空腹は最良のソースなのだ。Shishosetsu.jpg 著者は12歳のときに父の転勤で両親と姉と自身4人の家族としてアメリカにゆくが、ひとり部屋にこもって日本文学全集で漱石、鴎外、一葉、二葉亭四迷、谷崎ら日本の近代文学小説を読みふけり英語の世界あるいはアメリカ世界になじむことがない。たいそう偏屈な少女なのだ。「続 明暗」のころに初めて著者の写真を見たとき、だれかの目つきに似ていると思ったが、不思議の国のアリスだ。生きのいい悪意を秘めている。
このひとの二つ目の小説である「私小説 from left to right」には、大学院でアジア系学生として生きる主人公の目がこの間に読み取ったものを書いている。日本語の文章に英語による会話を混じえるため横書きというまれな形式を選んだ。だから「from left to right」という副題を添えたのだと、本書に書かれている。
 長じて日本に戻ったときの、このくにの文学の世界についての印象をこう書いている。
「いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしいものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。『あれ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。」
辛辣きわまりない書きようだが、外の世界から見ているぼくたち読者には痛快このうえない。
 日本の文学に対する、こうした嘆きと怒りを燃料に、「想像の共同体」という概念をエンジンとして搭載した乗り物で、日本語の世界に単身で乗り込んだのが本書なのだ。ひとの見方の影響をうけたくないので、ぼくは書評をまだよんだことがないけれど、批判的な指摘として「想像の共同体」の論理そのままではないかという人がきっといるだろう。だが、それでいいのだ。エンジンだけでは世界を変えられないのだから。それでどんな乗り物を作りどこに行き、何を見るのか何を伝えるかが問題なのだ。
 
本書の論旨は、およそつぎのようなものだ。アイオワにおける国際ワークショップ、パリの国際会議での経験によって生じた認識をもとに、「想像の共同体」による理論を駆使して日本の文学と日本語の歴史そのありようについて論じている。
・日本は、非西洋にあってほぼ唯一、自国語による近代文学をもつことができた。中国文化圏にあって、さまざまな幸運な条件のおかげで独特の文化受容をなしとげたこと、そしてやはり幸運のはからいで西洋の植民地となることを免れた。
・さらに、戦争の過程でアメリカは日本研究のためにきわめて優秀な人材を投じ、その結果、戦後にドナルド・キーンやサイデンステッカーのような人たちがやってきて源氏物語や明治の日本文学を英語で紹介した。おかげで、日本語は主要な文学をもつ言葉のひとつとして認識されるようになった。文学とは、自分の母語として身につけた言葉でしか書くことができないものであるから、そうやって伝えられ評価を受けた日本の文学と言葉はきわめて幸運な立場にある。
・しかし、明治以来、日本の政府は日本語をないがしろにしつづけた。初代文相の森有礼は英語を国語として採用しようとしたし、戦後に定められた「当用漢字」とは、いずれ表音文字化すべき日本語で当面つかいつづける漢字として定められたものだった。
・一方、英語は、アメリカの経済力・軍事力のおかげで、「普遍語」の地位を獲得した。
普遍語とは、かつてラテン語があるいは中国語(漢文)やフランス語がそうであったように、周辺の国々のある階層の人々のみが書き、それを読むことができるのだが、それによって人間の「叡智」が蓄えられうけつがれ磨かれてゆくものだ。
「ある階層の人々」は、自国語と普遍語のふたつを自在に使う人のことだが、インターネットの出現によって、英語は普遍語としての地位をますます強化してとどまるところを知らない。
・それでは、これから日本語はどうすればいいのか。というのが、本書が最後に掲げる命題である。推理小説の謎解きを書いてしまうことになるが、著者の結論は、公教育において英語の教育を強化するよりもむしろ日本語の教育を充実せよというのだ。英語の勉強を深める機会など、この時代はその気にさえなればどこにでも無料でころがっているのだからと。

 この結論そのものは、かならずしも独自のものではないかもしれない。しかし、本書の価値は結論に至るまでのところにあり、そこに持ってゆくまでの著者のものの見方の大部分にぼくは同意するし、著者の憤りにも価値観にも共感した。

投稿者 玉井一匡 : May 5, 2009 05:00 AM
コメント

Gatta Italianaさん
コメントありがとうございます。masaさんのおかげでいらしてくださったですね。
このひとは、日本語と日本の近代文学を深く愛し、しかも日本語を客観的に見ることのできる、数少ない人のひとり、じつはただ一人ではないかと、ぼくはひそかに思っているのです。
しかも、漱石の遺作の書かれなかった部分を書くなどという大胆きわまりないことやってのける。大学院を終えるくらいまでアメリカにいて、文壇などという閉鎖的な社会とのかかわりをもたなかったおかげだろうし、女であることによる自由のおかげもあるのでしょう。
このひとの存在は、日本にとってすこぶる貴重だと思うのです。
「続明暗」を含めてまだ三つしか発表していない小説のうち、二点しかぼくは読んでいませんが、とてもおもしろいと思いました。「本格小説」は、取り寄せたのが昨日届いたばかりで、まだパラパラとしか見ていないのですが。

いただいたコメントは、同じものが二つあったので、差し出がましいかもしれないけれど、はじめの方を削除しておきました。

Posted by: 玉井一匡 : June 2, 2009 03:19 AM

Kai-Wai散策さんでときどきお名前を拝見していましたが、
こうして来てみましたら、本のお話もあり、
とても参考になりました。
「続 明暗」が出たというので数年前に注目したのですが、
作家についての評価がちょっとわからず、
読まずにそのままにしてしまいました。
それが後悔されました。
「エンジンだけでは世界を変えられないのだから。」というご指摘、その通りですね。

Posted by: Gatta Italiana : June 1, 2009 10:05 PM

iGaさん
そうなんです、この本の中で「ベネディクト・アンダーソン、グローバリゼーションを語る」についても書かれていましたから、ぼくも気になって本書のあとに「私小説」を読み、そのあとで読みました。
そのつぎに「想像の共同体」を買って読み始めましたが、「・・亡びる日」を読んだあとの興奮がしずまって来はじめたので、これはまだ読み終わっていないのですがエントリーすることにしたのでした。「グローバリゼーションを語る」は、アンダーソンが日本に来たときに早稲田でおこなった講演を収録したものと、それについての解説なので、アンダーソンを知らなかったぼくには分かりやすくすこぶる面白かった。もちろん反グローバリゼーションの立場で書かれているのです。

Posted by: 玉井一匡 : May 7, 2009 04:15 AM

昨年11月、新聞の読書欄で知って、Amazonをチェックしたら納期一ヶ月で断念。その後、週刊誌や新聞の文化欄でも話題となり、何となく読んだ気持ちに...。今年になったら本屋で平積み、手に取ってみたものの、いつでも買える分かると今度で良いと思うようになり...今日まで至りました。
玉井さんが書評を読むのを避けていたのは正解かも...知れませんですね。このエントリーを読んで「想像の共同体」を先に読みたくなりました。その前に同じ著者の新書「グローバリゼーションを語る」を読んで見ようかなとも思います。ところでカテゴリーを越境にもしてますが、カズオ・イシグロとかリービ英雄とか母国語でない言語で小説を書く作家が台頭してきたことも興味深いことです。

Posted by: iGa : May 7, 2009 02:19 AM

fuRuさん
すごい本なのかもしれないけれど、読みにくい本ではないと思います。
本屋では平積みにしてあるそうですからね。しかし、ゆとり教育批判が進む中にあって、これからの英語の時代に対処するために日本の英語教育はいかにあるべきかという立場で読まれているのではないかと思います。
いいたいことをいいつつHOW TOモノのようによく売れるということになれば、著者としてはさぞかし気分のいいことでしょう。
まあ、とにかくおもしろい。

Posted by: 玉井一匡 : May 6, 2009 11:55 PM

何んだかすごい本ですね。
時間はかかりそうですが
ぜひ、読んでみたいと思いました。

Posted by: fuRu : May 6, 2009 09:23 PM
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