June 08, 2009

ディビザデロ通り

Divizadero.jpg「ディビザデロ通り」 (新潮クレスト・ブックス)/マイケル・オンダーチェ著/村松潔訳/新潮社

 この小説を読みながら、ぼくは何度か星座のことを思い浮かべた。
昔の人たちは、数知れぬ星たちの中からいくつかを選び出して、 そこに動物や神話の生き物、人物や物語を読みとった。しかし、それらの星は、じつは空間もたがいにはるかに離れているし、同時に見る星の光は、それぞれ別の時間に放たれたものだ。
 さながら、そのようにして星座を構成する星たちのように、互いに離れた時間と空間に散在している複数の物語によってこの小説はつくられている。
 ひとりをのぞいて、たがいに血のつながりのない3人の子供たちと父親、娘がふたりと男の子がひとり。カリフォルニアの田舎で生活を共にしていたこの家族が、あるときビッグバンのように飛び散ったのだ。

 小説や映画について書くとき、ぼくはストーリーを書かないようにしているのだけれど、こればかりはストーリーについても書かないわけにはゆかないようだ。断片となった物語は、因果関係も時間の前後関係もたがいに知らない。読者は物語の結末を手にすることはできない。多くの物語は、混沌から一つの世界の構築に向かうものだから、フィルムを逆転しているようだ。にもかかわらず、ぼくは気持ちよく読み続け、読みおわっても満たされない思いを抱くわけでもなかった。ひとつには、それぞれの断片につくられる世界には痛切な思いが流れ続けながら、とても美しいからだ。

これまでに読んだ村松潔訳の小説は、以前にエントリーした「ヒストリー・オブ・ラヴ」も、「旅の終わりの音楽」も、いずれも悲しく美しい物語だった。それぞれ別の著者の書いたものだから、じつは村松さんの文章によるところが大きいのかもしれない。その中で、ただ「ディビザデロ通り」だけは物語の結末を読者に置いていってくれない。

 しかし、結末よりも大きなものを残されたとぼくは思う。ぼくたちはこの世界の全体像をどうやって構築しているのかをつたえるのだ。
 三人の若い登場人物の世界が断片となってからの物語を生きるとき、彼らはたがいの世界を知らないが、生き方にある共通点をもっている。いずれも、手元にない時空の断片を探し出して組み立てるという仕事にたどりついているのだ。
 娘のひとりは、ある小説家の生涯を掘りおこす研究に没頭している。もうひとりの娘は裁判のために必要な資料を探し出す調査員としてすこぶる有能なひとになっている。そしてかつての少年は天才的なギャンブラーとなった。ギャンブラーは、カードという断片からある秩序を構築するものではないか。
かくしてぼくたち読者と登場人物は、同じようにふるまうのだ。しかし、推理小説であれば最後に約束されるはずの謎ときやハッピーエンドというカタストロフィーもない。

 この三人のように、そして読者がそうであるように、ぼくたちひとりひとりはこの世界について断片とさえ言えないようなわずかなことを、一生をかけて知るにすぎない。にもかかわらず、それぞれに世界の全体像を作り上げることができる。あるいは世界のすべてを把握したと思うことができる。これまでぼくたちは、神や運命や科学の力を信じ、そして想像力を動員することによってそれを実現してきた。

 しかしいま、断片化された物語がかくも大量かつ瞬時に、出所があいまいなまま世界に届けられるようになった。ぼくたちはそれらをもとに大きな世界像を作り上げる想像力をそなえておかなければならなくなった。その一方では、それらが断片に過ぎないこと、ときには偽物の世界像さえ完成されて届けられるかもしれないということに意識的でいなければならない。さもないと、宅配される情報がたちどころに人間を危険な行動に導く時がくるかもしれないからだ。
 きわどい時代をぼくたちは生きることになったものだが、どのみちここに遭遇したのなら、せいぜいそれを面白がってやろうと思う。

投稿者 玉井一匡 : June 8, 2009 10:56 PM
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