October 17, 2009

牛を屠る

UshiwoHofuru-S.jpg牛を屠る/佐川光晴著/解放出版社
(左の、本の表紙をクリックすると作業の流れ図が見られます)

 先日エントリーした「内澤旬子と三匹の豚」へのコメントで、AKIさんが朝日新聞の書評を読んでこの本を注文したと書いていらしたのを見てぼくも読みたくなってしまった。その後、AKIさんは自身のブログaki's STOCKTAKINGで「牛を屠る」についてエントリーをされた。どうしたって、ぼくはこれを内澤旬子の「世界屠畜紀行」と比較せずにはいられなかったが、著者自身も「世界屠畜紀行」について文中でふれている。
 内澤が「屠殺」でなく「屠畜」ということばを使いたいと言っているが、佐川は自分の実感としては「屠畜」ではなく「屠殺」なのだという。それが、佐川と内澤との立場の違いをあきらかにしているのだ。

「屠」を訓読みすれば、この本のタイトルのとおり「ほふる」だ。このごろはあまりつかわれない言葉だが、かつてスポーツ紙の相撲の見出しなどで相手を「ほふった」という言い方をすることがあった。iPhoneの国語辞典「大辞林」に相談してみるとつぎのように書かれている。
<①鳥や獣の体を切りさく「牛をー・る」 ②試合などで相手を打ち負かす「優勝候補をー・る」>
 内澤は、全体の工程からすれば殺すという行為はほんの一瞬のできごとであるから、屠殺より屠畜のほうがふさわしいと、まえがきにも書いているのだが、これに対して佐川はまったく別の感じ方をしている。死んだ牛たちの体は、しばらく体温を持ち続けるから作業場はとても暑くなり、作業に関わる人たちは体を動かすからでもあるが、体を牛たちに密着させていて体温を受けつづけると汗びっしょりになり、佐川の長靴の中には汗がいっぱいたまってしまうほどだという。それは、二人の立ち位置の違いによるものであるのはいうまでもない。内澤は各国の屠場をめぐってイラストルポを書いたすぐれた観察者であるが、佐川は浦和の屠場の中で10年近く働いてみずからの手で牛を屠り、その結果として屠殺がふさわしいと思うようになったのだ。

 作業の中にいた佐川は、毎日ていねいにナイフを研ぎ何百という数の牛に密着して皮と肉の間にナイフを入れる。この作業が、牛の解体の中で、もっとも熟練を要するしごとで、刃の微妙なあつかいしだい、それがもたらす表面の状態しだいで、あとの作業のしやすさも肉のできも左右される。一頭ごとに千差万別である牛の状態を敏感に読みとりらなければならないはずだ。だとすれば、牛たちを、死んで食材と化したものにすぎないと感じることはできないのだろう。機械が額を叩く一瞬を境に生命が終わるのではなく、まだ生命はありつづけるのかもしれない。
皮肉なことに、いや、もしかすると当然のことなのかも知れないが、佐川をはじめとして同僚たちは、ぼくたち消費者がもっぱら調理と食べるだけで牛豚に接しているよりもはるかに牛たちの生命を感じ大切にしているように感じられた。

 ぼく自身の感じかたにも思いがけないところがあった。たしかに、一頭の牛を食材に変えるまでのさまざまな過程を読むと、つらい思いをさせられるところがある。だが、それよりもはるかに感覚的にこわさを感じてぞくっとするようだったところがあった。著者が、ナイフを握る手を滑らせて指を深く切ってしまうくだりで、ぼくは読みたくなくて途中でページを飛ばしてしまった。たまたまそのあとにAKIさんから電話があった。ぼくはそれを話題にしたわけではないのだが「ナイフで怪我をするというようなのは苦手なんだ」とAKIさんもおっしゃる。
だとすれば、人間の指の一部を切るという怪我が、牛を殺すことよりもはるかに強く想像力を刺激するという反応は、人間が自分をまもるために身につけた大切な仕掛けのひとつなのかもしれないと思った。そのあとで気を取り直して、ぼくはもう一度もどってそこを読み直した。

■関連エントリー
「世界屠畜紀行」/MyPlace
「牛を屠る」/aki's STOCKTAKING
「内澤旬子と三匹の豚」/MyPlace
生活の設計/aki's STOCKTAKING
 
 

投稿者 玉井一匡 : October 17, 2009 05:06 PM
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?