May 30, 2010

「想像の共同体」とiPad

SozoKyodotai.jpg「想像の共同体 」/ベネディクト・アンダーソン 著/ 白石隆 白石さや訳/

 ぼくは自分ではまだiPodを買っていないし、TVや印刷メディアで取り上げたものもあまり見ても読んでもいない。日本での発売前に、打ち合わせでお会いした人のものを触わったことがあるだけだ。秋山さん五十嵐さんのiPodについてのさまざまなエントリーを読みながら、世間のメディアがiPadを本を読む道具としてばかり取り上げているのは、彼らはiPadがこわくて仕方ないからなんだろうと思いながら、ちょうどいま読んでいる途中の「想像の共同体」のことを思い浮かべ日本語について思った。

「想像の共同体」は、以前にエントリーした「日本語が亡びるとき」の議論で主要な拠り所としている本だ。そのときに、ざっと目を通したり拾い読みしたりしたままだったのだが、いまごろになって読みたくなった。
 「想像の共同体」の軸をなす論理は、国民国家という形式が作られてゆくにあたって「出版語」というものの存在がきわめて重要であったということだ。ここでは共同体とは国家のことを意味している。かつてはアジアであれヨーロッパであれ、地方によってさまざまな言語が使われていたが、印刷という技術と出版という事業が広まることで共通言語が確立してゆき、それによって国民国家という概念が作られていったのだとしている。反グローバリズムとしてのナショナリズム評価に取り上げられているようだ。
 そうした立場から見ると、iPadは出版というビジネスの形式にとっては脅威にもなり変える力にもなるだろうが、同時に日本語が滅びようとする流れを変えるかもしれないとぼくは思いはじめた。

 「日本語が亡びるとき」の論旨を荒っぽく縮めてしまうと、こうだ。
もともと英語は現在の世界語となっているが、インターネットによってますます力を増すとともに、放置すれば日本語は滅びてゆくというのだ。いや放置ではなく、学校教育で国語の時間を減らして英語を増やして日本語の滅亡に国家が手を貸している。しかし、自分で英語を学ぶ機会や方法などいくらでもあるのだから、むしろ母国語をきちんと教育するべきだ。文学は母国語でなければ書けない。書かれなければ読まれない・・と。「日本語が亡びるとき」では、もう少し丁寧にせつめいしてあります。

 空間がかぎりなく拡がること、つまり最新の世界中の情報と過去の情報が、画像や映像や音楽もふくめて拡がることをぼくたちはすでにパーソナルコンピューターで知っている。そこに「本」が置かれることになるのだ。
 iPadでは、日本の古典文学がインターネットの情報と同じポジションに置かれる。しかも青空文庫を開けば、漱石などの大部分とかなり多くの古典さえすぐさま読むことができる。むしろ、蓄積された自国の文学や思想といまの文学、いまの外国の本や新聞を同じ大きな机の上に拡げるようにして読むことができるということだ。
もし、Googleが考えているように、世界中の図書館の本をスキャンして読むことができるようになったときには、情報は空間ばかりでなく時間も広がる。さらに、各国の言語でそれがなされるようになれば、むしろグローバリズムが世界を均質化するという問題に立ち向かうための重要な武器になるのかもしれない。


投稿者 玉井一匡 : May 30, 2010 07:25 AM
コメント

加嶋裕吾さんの言語に関するご指摘、興味深いです。
「スピードが言語形成より早い」「頭で作った言葉が腑に落ちる前に時は次に移っています」
・・・・と言う訳で 私達はどんどん 言語を失って行っていますね。
言語を失うというのは 文化を失う事でもあるから、当然の結果として アイデンティティを失い、自身の存在が希薄になるという事なんだなと 感じます。
言語は便利なツールであると同時に 危険をはらむ諸刃の刃だと言う事から考えると この変化のスピードの速さは 危ないとも思うのです。

大国が植民地化するのに言葉を強制して来たかと思いますが、現代はちょっと違う。
そんな強制や抑圧でなく 「楽しさ」や「ワクワク」と言う形で 新しい「文化」が入り込んできます。ipadもそうです。
グローバル化という言葉の怪しさに気づいて来ているとはいえ、ipadのようなワクワクの形で 統制が行われて行っている事に気づかないと ちょっと危なく思います。

世界中が その文化に取り込まれて行く危険を感じます。

私の大好きなスティーブ・ジョブスは プレゼンテーションをするときもジーンズですね。
そんな主張ではない所でも 文化が変えられて行っています。静かに。
ヨーロッパで或は 色々な国で 長年にわたって積み上げられた文化が 一瞬にして壊れて行くだろうと思います。


それに対抗しようにも 加嶋さんがおっしゃるように「スピードが言語形成より速い」と言う事に どのように抵抗できるのか・・・・・。
私のボンヤリ頭で考え得る事は何でも色々やってみようと思う昨今です。歌う事も含めて。

こんな私が ipadを手にしたいんですからね、その魅力は大したものですね。

Posted by: 光代 : May 31, 2010 02:59 PM

加嶋さん
 いつもながら充実したコメントをありがとうございました。
汗顔の至り、僕自身も日夏耿之介を読んだことがありません。飯田に記念館があることも知りませんでした。裕吾さんが、講演に際して日夏耿之介と加嶋祥造の比較論からはじめようとなさったという裕吾さんの正攻法を見習わねばと思いつつ飯田の人たちをうらやましく思います。おりあらば、裕吾さんがお書きになった解説を読ませてください。ぼくにとっては、日夏耿之介の理解にもまして「加嶋祥造」の理解という結果になるのかもしれませんが。

 ご指摘の通り、地学的な物差しでいえばわずかな時間にすぎない人類の時間でさえ、空間と時間の広がりのなかで積み重ねられたものの膨大さを思うと、ひとりの人間の触れることのできるところがいかに小さなものであることか、それを思うと気が遠くなりそうです。子供のころに星を見ているとあれは何年も前の光なのだと思い、死んでしまったら自分は永遠になにもなくなってしまうのだということを想像すると気が狂いそうになってしまうのでした。以来、この気持ちを再生しないようにしていますが、自分の知りうることの微少たることについては整理をつけてているつもりです。

 世界中の図書館の資料をインターネットを通じて読むことができるようになるとしても、それはわずかな部分をわずかな人が利用できるにすぎないでしょう。もちろん、ぼく自身ができるわけではない、しかし、だれかがそれをしてくれる。それをしようとすればできるということに意味があるのではないでしょうか。
「日本語が亡びるとき」でも、普遍語(ラテン語のことを言っていたのですが)の資料をつかえるのは一部のエリートである人間だけだったということが書かれていたと思います。とりあえず、ぼくはそう考えて整理しておこうと思います。

 ふつうの人間にとって、日常のそして未来に向けての人間の活動にとって重要なことは、現在を理解し現在を伝えることですね。現在を知るにあたって、メディアの何をどこを信じるべきであるかという方法を僕自身が身につけたいと思うし、若い人たちに教えてほしいと思いますが、だとすれば誰の教えることを信じればいいのかという終わりのない疑問が生じます。
まさしく情報の過剰こそが問題の根源であると、いう声も自分の中からきこえます。

Posted by: 玉井一匡 : May 31, 2010 09:57 AM

玉井さん、こんにちは。先日はありがとうございました。さて、私たちと古典について、昨年の経験をお話ししたいと思います。加島祥造が飯田で話をしてくれということになりました。彼の早稲田での先生だった日夏耿之介についてです。この人は明治の生まれで、戦前に早稲田で教え、晩年は生まれ故郷の飯田市に戻り、飯田市唯一の名誉市民となった人です。そこで私は実行委員に日夏の詩や文章を読んだことがあるかと聞きました。ほとんどの人は難しくて読めないし、読んだことが無い、との返事でした。そこで事前に私が日夏と加島の比較解説を新聞に書き、それをもとに勉強会を開き、加島の講演となりました。
 そこで私は日夏の第一詩集『囀身の頌』の長い序文を現代語に翻訳し、そのメインテーマである「詩人の霊感」を解説しそれに関連した詩を翻訳しました。
 前置きが長くなりましたが、ここでの重要なことは明治期の言葉を現代語に「翻訳」したのです。
 通じないという意味では、明治期の文語体でさえ通じない、日本語ではないとまでは言いませんが、私たちは現代語のように直接感じることはできないのです。語感を既に失っています。そして、日夏の文章の中の言葉は新古今に初出した言葉や、平安期からの言葉、もちろんそれ以前のものが多く使われていたのです。日夏は当時でさえ、文語文は難しいが親しめばわかると言っています、すでに伝統は少しの人々のものだったのです。明治から戦前までに伝統との断裂は起こっています。これをどのように解釈しましょうか。
 専門外なのでかなり想像が多いのですが、日夏の言葉と私たちの言葉の違いを読みながら、家制度の崩壊がこの言語の断裂のバックグラウンドにあるように思いました。明治以前の言語は全体国家の成立のために長い時間が背後にあって作り上げられたものではないか。その共感がずっと続いてきた。極論を申せば、長く政治や文化の背骨にあった天皇制です。これがゆるんだために家制度の崩壊につながり、戦後の核家族化へつながった。と同時に現代日本国家ができたと考えられるように思います。日夏を読みながら、あまりに長い伝統とそれと通じない私たちの原因がこれではないかと思ったのです。かっての言葉が説明を加えないと心にしみてこない。
 これらを考えあわせれば、源氏や漱石などかっての言語に根ざした文学を中心に言語を語ったり、かっての文化を軸に言語を考えている様子が見えるように思います。
 日夏のように言葉に血を通わせることの出来ない私たちは既に次の時代に来てしまっていると思います。
 それよりも大きな問題は、今までの言語で表せない現在のものをいかにして新しい言葉で表すかではないでしょうか。今は英語を使っていますが、このような説明で表すのではなく、直接一つの言葉で現在の日本の状況を表す言葉を創りだせていません。スピードが言語形成より早いのです。頭で作った言葉が腑に落ちる前に時は次に移っていますね。
 昨日友人のIpadを使ってみました。まだよくわかりませんが、便利ですが何かが薄まっていくようでした。それはテクスチャーなどの直接的な感触がさらに減って行く感覚だと思います。ipadのなかで読まれる古典も同じように同時代でなく、英語と同じ翻訳語ということになります。
 それから空間が無限に広がるについて、キャリーマリスという科学者が「人類の触れることの出来ることは地球のほんの少し一部分の感触だけだ」と言っています。グローバリズムとはもっと複雑なものなのではないでしょうか。ただ、個人の場合、無限の空間と感性と感触はあり得ないもので、個人はその限定されたものを十全に生きたいと言う願望はありますよね。その点、現代は頭が先に行っているように思い、感触もそれにバランスするようにのばしたいものですね。

Posted by: 加嶋裕吾 : May 30, 2010 01:55 PM
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