August 14, 2010

それでも、日本人は『戦争」を選んだ

SoredemoSenso.jpg『それでも、日本人は『戦争」を選んだ』/加藤陽子/朝日出版社
  昨年末に本屋で見つけたが、そのときにはやり過ごしたのだがひと月ほど前に新潟のジュンク堂で見つけてレジにもってゆくと、時節柄だろうかすぐわきにたくさん平積みしてあった。
朝日出版社は、かつてレクチャーシリーズというシリーズをつくっていた。あるテーマについて、ひとりの専門家にひとりの聴き手を組み合わせて話を立体的に展開するというものだ。前後関係については定かでないが、この頃、朝日出版社は伊丹十三責任編集の雑誌「モノンクル」を出していた。あまりに手を掛けすぎたからかもしれないが短期間で休刊になってしまったモノンクルと「レクチャーシリーズ」は、形式と分野と顔ぶれが重なっていたから、レクチャーシリーズにも伊丹十三が関わっていたのかもしれない。
 朝日出版社のつくった「海馬」などのペーパーバックスはあきらかにこの流れを継承している。すぐれた話し手と、それと同等のすぐれた聴き手のふたりによるセッションという話の進め方の形式、もうひとつは、人間の根幹をなす思想や先端の研究をテーマとしてとりあげている。

 しかし、この本では話し手と聴き手はけっして同格ではない。前者が日本の歴史の気鋭の研究者であるのに対し後者は高校と中学生徒たちなのだ。ちょうど「海馬」の池原祐二が「進化しすぎた脳」で中高生にレクチャーをしたのと同じ形式だ。話し手は東大の教授だが、自身が歴史に名を連ねて学会の要職に安住するような人ではなくイキがいい。問題を投げかけられる生徒たちは、栄光学園の歴史研究会の部員だるから鋭い反応を返す。

 リンカーンのゲティスバーグ演説をとりあげて、 彼が何を意図してこの演説をしたのかを生徒たちに問いかけることから歴史とは何かについて切り込んでゆく。「government of the people, by the people, for the people 」というくだりが日本国憲法の前文にある「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とほんど同じであることを示す。このレクチャーの生徒たちはすでに知っていたようでさほど感心しないが、ぼくにとっては初めて知った事実だったから戦後の日本とアメリカについて新しい視点を手に入れた気がする。

 加藤氏は、歴史は、数字や名前を暗記するものではなく、かつてある状況で人間がどのような行動をしたのかを読み取って、行動の拠り所にする科学だという。日清→日露→第一次大戦→満州事変→日中戦争→太平洋戦争と続けざまに戦争をしてきた近代日本の、政府・政党・軍・大衆が戦争をどう見ていたか戦争にどう関わったかを、生徒たちにときに問いかけときにみずから空間と時間を自在に駆けめぐり新しい資料を提示して解きほぐしてみせる。さながら時間のGoogleEarthを手に入れたようにして、歴史の「構造」を見つけ出す。
 
 ぼくたちは、ある行動や言葉が、いつ、誰によって、どんな状況でなされたかによってまったく別の意味をもつことを知っている。いまのできごとについては、それを忘れないようにしているつもりだが、時間が経つにつれてミイラのようになった解釈をそのまま受け取ってしまいがちになる。しかし、つぎつぎと新しい資料がみつかれば、背後にある構造がよく見えてくるものだということを、加藤氏は教えてくれた。
 日本の近代を「戦争」というツールを駆使して生きたものにしてして見せるという逆説が、何よりおもしろかった。松岡洋右についての再解釈も印象深い。

■関連サイト
リンカーンのゲティスバーグ演説/wikipedia日本語版
>リンカーンのゲティスバーグ演説/wikipedia英語版
日本国憲法

投稿者 玉井一匡 : August 14, 2010 08:30 AM
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