October 31, 2010

THE COMPLETE HISTORIC MOCAMBO SESSION'54

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 二つの写真は、いうまでもなくCDのジャケットだが、LPのジャケットのデザインをそのまま再現しているようだ。おもてには主な演奏者の名前が並び、裏面にはジャズピアニスト守安祥太郎の写真、そしてセッションとレコードについての解説がならんでいる。油井正一がそれを英語で書いているのは、なにもカッコをつけているのではなく、敗戦後まもない日本でこれほどの奏者がおり、かくも熱いセッションを繰り広げていたということを、外国にも知ってほしいと考えたからにちがいない。

 このセッションの行われた1954年7月、ぼくは8才にすぎないが、やっと二枚組のLPがつくられたのは1975年。セッションから21年が経っているが、僕はセッションそのものもレコードがつくられたこともそれがCDになったことさえ知らなかった。「野毛にちぐさがあった!」という催しで復元されたちぐさの椅子に腰をおろして一時間足らずのあいだレコードを聴いたあと、店主だった高田衛の「横浜ジャズ物語・ちぐさの59年」 「そして、風が走りぬけて行ったー天才ジャズピアニスト守安祥太郎の生涯」、秋吉敏子の自伝「ジャズと生きる」を読んで聞きかじったにすぎない。それだけに、こういう記録が残されたことの奇跡に感謝しながら演奏に胸躍らされた。

この解説で、油井正一はセッションの事情についてもふれているのが興味深いので、以下にそれを日本語訳しておく。

  * * ジャケットの解説の日本語訳 * * 

日本のモダンジャズの世界が黎明期にあるころの音を記録したものはほとんどない。当時、どのレコード会社も見向きもしなかったからである。
もし、岩味潔という当時19才の大学生が、自分で組み立てた機械を持ち込んでスコッチの紙製テープにこの歴史的セッションを録音するということが起こらなかったとしたら、このシーンは永久に記憶の霧の中に忘れ去られたわけだ。岩味は、いまNTVのスタジオでベテラン音響ディレクターとして活躍している。
この、三回目のモカンボ・ジャムセッションは、トップドラマー清水閏(じゅん)が長い病気治療から戻ってきたのを祝って、あのコメディアン ドラマー、ハナ肇がよびかけて、ベーシスト井出忠とギタリスト澤田駿吾の協力を得て実現したものだった。
さあ、なにはともあれ、音楽みずからに語ってもらおう。

驚くべきことに、このレコードで聴くミュージシャンたちは、いずれも現在なお健在で日本のジャズシーンの重要な一翼を担っている。とはいえ例外もないではない。鈴木寿夫はすでに第一線をしりぞき、守安祥太郎は1955年9月にみずから命を断った。

このアルバムには、秋吉敏子が「It’s Only A Paper Moon」でベースを弾くというサプライズがある。「It’s Only A Paper Moon」のセッションの始まろうとするときに非常事態が生じた。ベーシストがいなくなったのだ。そこで急遽、彼女がベースを弾くということになった。このセッションのあいだじゅう、ひどく緊張している様子を感じとることができるだろう。演奏中にきこえる女性の声は、ほかならぬ敏子である。

油井正一 “the Hot Club of Japan”代表

録音は1954年7月27〜28日,横浜のクラブ「Mocambo」オールナイトセッションで収録された。

   * * * 以上 * * *

 音楽は、時間に大部分を依存し支配される表現芸術だが、そのおかげで一本のテープがあれば表現の大部分を保存し再現することができる。もし、このテープが残されていなかったら、多くのひとはこのセッションの演奏をなにも知らずにいると思えば、慄然とすると同時に記録し残した岩味氏とその技術情熱には感謝せずにいられない。
 しかし、そう思うそばからもっとたくさんのことへと想像はひろがる。自然やまちや建物というテープに書き込まれている記録を、これまでぼくたちはこともなげにブルドーザーに手渡して、その一方ではテーマパークのわかりやすいが薄っぺらな表現に書き換えてきた。壊されたものは、もうほとんど復元が不可能だ。いや、自然も建物も記録を書き込まれるメディアであるまえに、それ自体が音であり演奏者なのだ。ぼくたちはそれをつぎつぎに消している。

 このレコードのレーベル「ROCKWELL」は、岩味潔、油井正一両氏が設立したもので、レーベルの名称は岩味の「岩」と油井の「井」を合わせたものだとmasaさんにおそわった。「そして、風が走りぬけて行った」には、著作権の切れる20年を待ってレコード化を実現させたことが書かれている。このレコードのためにROCKWELLを設立したのだとぼくは思いこんでいたが、ROCKWELLの公式サイトのプロフィールによれば、1956年すでにROCKWELLレコードは設立されている。
また、このセッションは清水が塀の向こう側から帰ってきたお祝いであったことや、このときヒロポンがたっぷり用意されていたことなども書かれている。今の時代なら大きな汚点としてマスコミの袋だたきにあうだろうが、かのサルトルもかつてはヒロポンを愛用したとインタビューで話しているドキュメンタリーをぼくは見たことがあるくらいだ。それもまた時代の背景を物語るエピソードだ。

 それにしても、だれかこの一夜を映画にしてくれないだろうか、関係者がまだ元気なうちに。日本のジャズ界を挙げての大事業だろうけれど、どうですか上海バンスキングの串田和美+斎藤憐コンビでも。

投稿者 玉井一匡 : October 31, 2010 08:29 AM
コメント

iGaさん
 朗報コメントありがとうございます。さすが、iGaさんですね。私だったら、よくて数年後にみつかって、そのときにはもう何のために探していたのかもわすれてしまうかもしれません。ありがとうございます。
ところで、「コージーカルテット」という名称のコージーというのは、どうも秋吉には似合わないような気がするのですが、世間ではどう受け取られているんでしょう。そうとうメチャクチャな生活をしている男どもの中にあって、のべつ頑張っていたであろう秋吉自身にとって、このカルテットそのものがcozy(居心地がいい)ということなのだろうと考えれば分か気がしますが。その真相も、インタビューで分かるのかも知れませんね。

Posted by: 玉井一匡 : November 4, 2010 01:41 AM

>秋吉のテープ

見つかりました。akiさん推奨のコストコで買った段ボール箱に片づけられてました。2004年の放送で、25分番組8回分を三倍速でVHS1本に録画してます。ちぐさに通ってレコードから採譜したエピソードは話してますが守安の話は出てきませんですね。ちょっとノイズが入ってますが郵送します。
この番組より大分前に...コージー・カルテットとかモカンボの事を話していたのはテレビで見聞きした事はあるけど...それが何だかは...記憶が...

Posted by: iGa : November 3, 2010 03:10 PM

iGaさん
 高田衛著「横浜ジャズ物語」には、MOCAMBOのオーナーは植木さんというひとで、植木等が息子と間違えられたというはなしを書いてありましたが、植木さんは話のわかるひとで、あのセッションのときも店が終わったあと自由につかっていいいと無償で場所を使わせたそうです。エリザベスサンダースホームはどうだか知りませんが。
 どうも世の中の人がばかに清く正しくて、本当にそうならいいのだけれど、むしろ偽善的な今の世の中は、どうもなあ。
もし、秋吉のテープがあったら、よろしくお願いします。「ジャズに生きる」には、ちぐさとそのオヤジの話は出ているけれど、守安のことは全く書かれていません。テレビではなにか言ったのでしょうか。

Posted by: 玉井一匡 : November 2, 2010 08:00 PM

>チャブ屋
へぇ〜「横浜ホンキートンクブルース」と云う唄がありますが、妄想ではなく、ニューオリンズにあったようなホンキートンクを真似た店が本当にあったのですね。チャブ屋に娼婦では演歌だけど、ブルースにはホンキートンクが似合うと云うことですね。パンパン目当ての米兵とくるとエリザベスサンダーホームまで、話が広がってしまいそうですが、その銀行支店長も、案外とエリザベスサンダーホームに寄付していたりとか...。
そういえば、秋吉敏子の自伝「ジャズと生きる」の元になったNHK教育テレビのシリーズを録画してあったのですが、そのビデオテープが見つからない。消してはないと思うけれど...行方知れずで...見つかったらお貸ししようと思っていたけど...残念。

Posted by: iGa : November 2, 2010 04:08 PM

Niijimaさん
 映画にしてほしいですね、証人がいるうちに。じつは関係者がいなくなってからのほうがやりやすいでしょうが。
ミントンズハウスは、昼間の写真で見ると、そういっては失礼だけれど立派なというかきちんとした建物ですね。ジャズの立場がアメリカと日本じゃあ大違いだからでしょうが、MOCAMBOは、いまどうなっているのか、桜木町に行ったらさがしに行こうと思っています。
加島さんはなんでも自分でやってしまうひとだから、てっきりかわいい高校生かなんかでダンスの教師をやってしまったのかと思いました。

Posted by: 玉井一匡 : November 2, 2010 09:26 AM

裕吾さん
 コメントを、はじめにザッと目を通したので、裕吾さんがダンスの教師をしたことがあるという話だと思い、さすがなんでもやってのける裕吾さんだと敬服しましたが、ちゃんと読んでみれば引用だったので、がっかりしたような安心したような気分でした。
 masaさんと再現ちぐさに行ったあと足を伸ばして川沿いに黄金町の少し先まで行きました。あの高架線下あたりを横浜市が「きれいに」したという話を以前に裕吾さんにうかがっていましたから、このあたりがそれだなと思いながら見ました。しかし、つい数年前まで、あぶない商売が営まれていたとは思いませんでした。
 本によれば、セッションの行われたMOCAMBOのオーナーは本業の銀行支店長のかたわらチャブ屋(今回、初めて知ったことばですが、1階が踊る場所で、2階にあやしい宿泊施設のある店だそうですね)も経営していたという人で、もちろん時代のせいでしょうが横浜というところは、さまざまなレイアがあって面白いところですね。高台には動物園と音楽堂や図書館がならんでいるし、みなとみらいなんていう人工のまちもある。
 いまだって、野毛の飲食街の猥雑さはなかなかのものですね。まちの真ん中に、黒塗りの車が止まっているビルがありますが、ビデオカメラを設けた1階のサッシを開け放って、奥にあるソファには目つき鋭い男たちがこちらを睨みつけていました。
 美空ひばりのうしろに山口組組長がいたように、芸能の世界は薄暗いところがあったんですね。彼らが極道というのも、芸の道を極めるのと通じるところがあるのでしょうかね。

Posted by: 玉井一匡 : November 2, 2010 04:14 AM

玉井さん、
このセッションの日のことが映画化されたらと想像すると、それはとても素敵な、夢のようなことですね。
また、ご経験からの生きた戦後横浜の様子を加嶋様の佳文によって知ることができ、滅法興奮させられました。

ビバップは、喰うための仕事として演奏していたスイング・ジャズに飽き足らなかった先鋭的な黒人ミュージシャンらが、ライブハウスや飲食店の閉店後(すなわちアフターアワーズ)に集まってセッションを繰り返すうちに発展発生したと、どのジャズ解説書にも表されています。
ところで、伊勢佐木や福富のキャバレーで、或いは本牧のダンスホールで演奏をしていたであろう日本人のミュージシャンらが夜更けのモカンボ・クラブに集まってきてセッションを繰広げたのは、本家米国でのビバップの誕生時と瓜二つのように(ビバップそのものを生み出したか、それを習得したのかの差はありますが)思えてなりません。
モカンボ・クラブは横浜に在った「ミントンズ・プレイハウス」
http://en.wikipedia.org/wiki/Minton%27s_Playhouse
だったのかもしれませんね。

Posted by: M.Niijima : November 1, 2010 06:53 PM

玉井さん
僕も横浜で生まれ、横浜の元町を出たところで暮らし、途中松本で小学校を出た後戻り、大学をでて10年ぐらい暮らしました。ちぐさのあった野毛は、昭和39年まで京浜東北線の終点で、東横線もここまででした。横浜の入り口だったのです。桜木町の山側、ちぐさ側不二家の前にタクシー乗り場があり、伊勢佐木町や元町,本牧の人々はここからタクシーかバスでかえって行きました。  
 そのタクシー乗り場の裏に飲屋街があり、それに続き日ノ出町、黄金町、日ノ出町の東側に福富町、そしてその先に伊勢佐木町の商店街が延々と続いていました。その伊勢佐木町の反対側海側に関内があり、接収された横浜公園にかまぼこ兵舎があり、それを過ぎると中華街、そして川をはさんで元町、元町のトンネルをぬけて1キロぐらい行くと本牧です。地図をご覧になればおわかりになります。しかし、その頃の時代の光はじつに暗かった。昭和30年代は始め頃、野毛から都橋をすぎ伊勢佐木町の入り口まで来ると,吉田橋にアークライトをつけて行商のひとが針金細工の自転車を売ったり、バナナを売ったり。中華街は怖くて夜は歩けませんでしたし、福富町もヤクザがうようよでした。高校を出る昭和40年後半まで僕たちの将来だってどうなるんだろう、と思っていました。
以下にそれぞれの町の歴史があります。
若葉町根岸屋の話
http://isezakiwakaba.hama1.jp/d2007-10-09.html
根岸線 39年5月 桜木町—磯子間開通
黄金町
http://ja.wikipedia.org/wiki/黄金町
福富町
http://ja.wikipedia.org/wiki/福富町_(横浜市)
本牧
http://ja.wikipedia.org/wiki/本牧
 ちぐさも生意気に18の頃勇気を出して入ってみました。それまでダウンビートやファーストにすこし出入りしていたのですが、誰も客がいない店で吉田さんは一瞥するとそれっきりだったような気がします。おそるおそるコーヒーを飲んで帰ってきました。
 当時の野毛は決して品のいい町ではなかったと思います。そして、福富町や伊勢佐木町に大きなキャバレーがあり,そこにはかなりのバンドマンがやとわれていました。元町の裏にはクリフサイドというダンスホールがありました。同級生の親父だと思いますが、杉島三郎さんが「学生だった昭和20年代はじめは、これといった娯楽がなかったのでダンスが大流行しました。私も大学に通いながらダンスを習い、代官坂にできた本格的なクラブ、クリフサイドでダンスを教えるアルバイトをしていたことがあります。東京から映画俳優などがやって来て、楽団の演奏をバックにフロアでステップを踏む。館内には寿司や天ぷらを出す店もあり、毎夜、にぎやかで華やかな光景が繰り広げられていました。小学校の同級生の妹がダンスや飲食で来店する客を迎えるダンサーで、クローク係も中学校の同級生の妹でした。ダンスの先生役は家に内緒でクリフサイドに出かけるのですが、翌日には彼女たちの報告で女房や家族がそのことを知っているという有様でした。」元町ヒストリーに書いています。
 このようにダンスが盛んでそこにバンドマンも流れてきた。そして、外は暗いのに、ホールの中は女性がいて、大変にきらびやかな「男の歓楽」でした。関内にもクラブがあり、そこには有名な歌手が出演していました。もちろん,本牧の米軍のオフィーサーズクラブもバンドマンの稼ぎを支えるところだったとおもいます。当時大阪の新地にも同じように150ほどのジャズバンドがあったとも聴きます。
 生意気にも横浜でそのようなクラブの裏側も徘徊しましたが、バンドマン達のスレた様子も目に残っています。もちろん、レコードで海外のジャズを聞き、それに浸る私たち世代とは違うかもしれませんが、当時そのような社会状況の上にジャズがあったような気がします。

Posted by: 加嶋裕吾 : November 1, 2010 01:56 PM

masaさん
コメントありがとうございます。
ほんとうに、いろいろなことを考えさせられました。こちらこそ、吉田衛さんの本を読んで、はじめてあの時代の日本に熱くモダンジャズに打ち込んでいた人たちがいたことを知りました。
1954年といえば、もうぼくの記憶も疾うに意識の層に残されているころですが、モダンジャズだのビバップのことなんてもちろんきいたこともない。むしろ広沢虎三や相模太郎なんて人たちの方がずっと身近だったんだから。

Posted by: 玉井一匡 : November 1, 2010 03:15 AM

玉井さんにお声をかけていただいたおかげで、再現したちぐさに触れ、守安祥太郎の演奏とその録音源について知り、それにも触れることができました。そして、それらもろろもろを支えた、ひとの熱い思い...というものに感動します。
が、そこから「自然やまちや建物というテープに書き込まれている記録......ぼくたちはそれをつぎつぎに消している。」と展開なさる玉井さんの感性には大いに驚かされ、さらなる感動を覚えます。
本当に映画か舞台になったら素敵ですね。ところで...秋吉敏子役は決まったようなものです! あのひとしか居ません!(^^;

Posted by: masa : October 31, 2010 10:47 PM
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