July 26, 2011

「終わらない悪夢」をYouTubeで

OwaranaiAkumu.jpgClick→YouTubeを開く

 BS1で海外ドキュメンタリー「終わらない悪夢」というフランスで制作されたドキュメンタリーを見た。できるだけ多くのひとに見てほしいと思い、すぐに再放送の予定を探したが、この放送がすでに再放送なのだった。ためしにYouTubeで探すと、7本に分けて全てをアップしてある。遠からずNHKのクレームで削除されるだろうから、いまのうちに多くの人に見てほしいと思う。しかし、これは今年の5月にアップされてまだ残されているようだ。

 これは、アメリカ・ソ連(ロシア)・フランスの3国を行き来して核廃棄物による汚染を現場の線量を測定したり住民や行政府、企業の責任者のインタビューなどで構成したものだ。アメリカとソ連は、核兵器をつくるための原子炉から出た放射性廃棄物の垂れ流し、フランスの場合は電気をつくるために生じる放射性廃棄物の再処理と呼んでいるものである。これら、原子力先進国のしていることが、いずれも隠蔽と欺瞞につつまれていることにあきれ、腹立たしさが、ぼくには元気の素になる。

ドラム缶を船に積み込むシーンから、このドキュメンタリーは始まる。中身は放射性廃棄物だ。海洋投棄は1993年に、やっと禁止された。現在も、海洋投棄は禁止されているが、パイプで沖に導いて廃液を捨てるのは禁止されていない。合法なのだというのだ。

 「核兵器の廃絶」は、配備をなくすということにぼくたちは目を向けてしまう。しかし、兵器に搭載された放射性物質は廃棄しなければならないし、核兵器をつくる段階で原子炉が廃棄物をつくる。
 アメリカは、マンハッタン計画のために、コロンビア川のほとりワシントン州のハンフォードでプルトニウムをつくり、その放射性廃棄物を川に流した。ここは長崎の原発の生まれ故郷なのだ。川の河口にはポートランドがあるのだが、今もここには廃棄物が沢山たくわえられており、ハンフォード核施設からの川の汚染は今も続いている。(英語版のwikipediaは説明も詳しく写真も多い)

 ロシアは、ソ連であった1950年代に核兵器のためのプルトニウムをつくる工場の廃棄物の問題だ。原子炉から排出される放射性廃棄物が、周囲にたくさんある湖や川に捨てられた。wikipediaにも、そこで起きた「ウラル核惨事」が書かれている。貯蔵した廃棄物が爆発事故を起こして周辺を汚染したが、ソ連政府はそれをひた隠しにした。ここには、いまも生活する人たちがチェルノブイリなみの汚染した環境の中に牛を育て牛乳を飲み、日々の生活を続けている。政府は残留放射能と住民の健康について調査を続けているが、結果は住民に公表していない。インタビューに対し当局は「放射能とガンの発生には因果関係があることが分かった」と答えるものの対策をしない。

 フランスでは、いまや日本人になじみ深いアレヴァ(Areva)社の再処理工場が登場する。
使用済み核燃料は、工場で再処理してプルトニウムなどを取り出したあと、高レベル放射性廃棄物は地中の縦穴に保管される。その上の床は厳かに、さながら大聖堂の大理石の床下深く聖人が眠るところのようだ。
 ここで話はロシアとつながる。残りの廃棄物はロシアに送られ、ロシアはシベリアに保管するが、コンテナのようなものに入れて野積みしている。そんなので大丈夫なのかという質問に保管の責任者は「問題はありません。屋根も掛けていないくらいなんだから」という奇怪な論理で答える。アレヴァ社のラ・アーグ再処理工場には、地下貯蔵の廃棄物を攻撃から守るために地対空ミサイルさえ設置して、万全であるという。しかし、ミサイルが敵の爆撃機を撃ち落とす確率はどれほどのものだというのだろう。

OwaranaiAkumu2.jpg ←フランス原子力庁長官ベルナール・ビゴ Owaranaiakumu3.jpg

 さまざまな立場の人々がインタビューに登場する。最後から2番目がフランスの原子力庁長官ベルナール・ビゴ。この人物は、サルコジが事故後の日本に「雨の夜の友人」としてやって来たときに同行したようだが、ものの言い方や表情それに話の組立て方が、なぜか日本の原子力安全委員会・委員長の斑目春樹東大名誉教授と似ている。日本の委員長・東大名誉教授は、「結局はお金でしょ!」と言い放ったが、フランスの長官は、二十万年も廃棄物を保管できるのかという質問に対して「大事なことばがあります。それは『信頼』です。政治指導者、科学者、経営者の責任感、物理の法則・・・そうしたものを信頼しなければどうしようもありません・・・」と薄笑いを浮かべながらぬけぬけと語る。こういう人物やアレヴァのCEOやサルコジを信じて、これからの20万年を託せというのか。

 あきれるほどの愚かなことが今も行われいてる事実を知り、さまざまな発言を聞くにつけ、われわれはどうすべきなのかについて確信を深める。・・・核エネルギーの利用は、やめるよりほかに、すべはないのだと。
 それにしても、現在抱えているこれまでの廃棄物を20万年間も隔離しておかなければならない。これから、どういう生物が生きているかさえわからない未来の20万年間ずっと「これは危険だから、決して開けてはいけない」と伝えなければならないのだ。
 もし、このドキュメンタリーを見てもなお原発を続けるべきだと言うひとがいるとすれば、彼あるいは彼女は、群衆をめがけて自動小銃の弾丸の雨を打ち込むやつと違いはない。ひとのいのちに何の価値も認めないのだから。

■GoogleMap
ハンフォード・サイト/ワシントン州/アメリカ:近くを流れるコロンビア川を河口までたどるとポートランドに行き着く
オジョルスク市/チェリャビンスク州/ロシア:あたりには無数の湖沼がある
ラ・アーグ再処理工場(アレヴァ社)/フランス:ドーバー海峡に突きだした半島

投稿者 玉井一匡 : July 26, 2011 07:38 AM
コメント

Tosiさま
 ベンヤミンが、フクシマ以降のヨーロッパで引用されるようなったということを、私はまったく知りませんでしたし、彼が進歩をカタストロフによって位置づけているということさえ知りませんでした。その引用は、原発に見切りをつけたドイツ政府の決断をふまえて、核エネルギーの利用に対する否定的な立場からなされることなのでしょうか。あるいは、メルケル自身もしくはドイツ政府がベンヤミンを背景にして決断したということなのでしょうか。そうだとすれば、日本の行政府の構成員(暴力団を指すようなことばですが、意図的です)とは、どうも程度がちがうようで、日本の一員としては残念というかうらやましいかぎりです。
 たしかに、原子核の分裂がさらに他の原子核の分裂を引き起こし、それが際限なく繰り返すというエネルギーのつくりかたは、それ自体が「こんなことが"こんな仕方でさらにもっと遥かに"続いて行くということが、カタストロフなのだ 」と思います。その「遙かに」という時間が20万年を意味するのだから、人間の物差しで測れば、核エネルギーは遙かにどころか「永遠に」繰り返すというべきですね。
 
 前川さんが、このような発言をしていらしたことも、わたしは知りませんでした。好んでいらしたという「人間は亡きものとなるはかないものである。・・・」もしりませんでした。それは、第二次大戦という大殺戮の時代を経験したあとで、個体としてあるいは人間の構築した国家や社会を「亡きものとなる」のだと意味していたのではないでしょうか。しかし、核の及ぼす力の大きさを現実として感じるようになった私たちにとっては、「亡きものとなる」のは、むしろ種としての人類だと考えざるをえません。

 学生の時代に多少はものを考えるようになってからというもの、「進歩」と「近代」は、わたしにとって常に頭の中から消えない概念だったように思います。進歩を信仰する時代が終わったのだと、ぼくが考えた頃にアポロは月に人間を届け、翌年に大阪万博は「人類の進歩と調和」をテーマに掲げました。もっとも、進歩のわきに調和を並べたところに、進歩の内包するカタストロフや不安定を忘れまいとする意見があったことを示していたのでしょう。

Posted by: 玉井一匡 : July 31, 2011 10:25 AM

核エネルギーの利用が「続けられていく」ことについては、フクシマ以降欧州で引用される頻度が高まった、ヴァルター・ベンヤミンの(『歴史哲学テーゼ』と同時期に書かれた)最後のボードレール論 Zentralpark (1939)の一節を思い出します:
「進歩の概念はカタストロフの観念に基礎付けられるべきだ。こんなことが"こんな仕方でさらにもっと遥かに"続いて行くということが、カタストロフなのだ。 (Der Begriff des Fortschritts ist in der Idee der Katastrophe zu fundieren. Dass es "so weiter" geht, ist die Katastrophe.)」
前川國男は、『建築の前夜』所収の『文明と建築』という題の1964年に書かれた重要なテクストのなかで、このような「進歩の概念」をベンヤミンと共有しているように私には思われます:
「進歩とは、より大なる「自由度」を意味するということは、裏がえしていえばより大なる「不安定」ということである。人類全滅の可能性をも考え出した現代人は、前代未聞の「自由」、前代未聞の「不安」、そして前代未聞の「進歩」をかちとったといえるのではないか。そういう意味において、人間が近代をかちとったのはやはり進歩なのである。そして、そのなかで多彩な運命の選択を自己の責任において遂行してゆくよりほかないのである。[...]機械文明は、果たして期待されたとおり、人間の救世主であったかどうか。[...]資本はますます結集されて国家資本、国際資本と、その強大さをまし、国家権力はますます強大となって、その官僚機構を強化してゆく。そして人間環境は、今日われわれの眼のあたりにするとおりに、非人間化の一途をたどっている。」
オーストリア、ドイツ、スイスなど、脱原発を決めた諸国がロマン主義に深く刻印された文化をもっているのはけっして偶然ではないと思いますが、前川國男がロマン主義の先駆者エティエンヌ・ピヴェール・ド・セナンクールの代表作 Obermann (1804)の一節(アルベール・カミュによって引用されたことでも有名であり、レジスタンスや実存主義と関連付けられることも多い)を非常に好んでいたことはよく知られています:
「人間は亡きものとなるはかないものである。それはありうることだ。しかし抵抗しながら亡びよう、そしてたとえ虚無が我々に割り当てられているのだとしても、そんなことが正当であるようにはするまい!(L'homme est périssable. Il se peut ; mais périssons en résistant, et si le néant nous est réservé, ne faisons pas que ce soit une justice ! )」

Posted by: Tosi : July 30, 2011 04:45 AM

今朝の新聞によれば、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)は今年の世界大会を福島で開催し脱原発を会議のテーマにするそうですが、日本原水協は「原子力平和利用」には賛成の立場なので、脱原発には乗らないのだと書かれていました。
 しかし、放射性廃棄物のことを考えれば、核兵器と原発の間には違いがないということは、容易に理解できるでしょう。その意味で、このドキュメンタリーや「1000,000年後の安全」は、ぜひ見てほしいとおもいます。
 もっとも、電力会社の組合との関係が、ほんとうの理由であって、ことは容易ではない。したがって、既存の組織は役に立たないのかもしれませんね。

Posted by: 玉井一匡 : July 30, 2011 12:46 AM
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