October 26, 2011

カマキリと研ちゃん

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 朝日が心地よくあたるようになってきた頃、シャガの葉にカマキリがくっきりと影を映していた。
彼女たちは昆虫の世界では恐れるもののない存在であるからだろう、カメラをいくら近づけても逃げようとしないどころか、「蟷螂の斧」を振り上げて威嚇する。この強気、見上げた根性が、ぼくは好きだ。まだお腹が大きいからこいつが生み付けたわけではないだろうが、数メートル離れたサカキの枝にはカマキリの卵が産みつけられていた。

 カマキリの卵を見ると、ぼくは去年の夏の「研ちゃん」こと海津研の個展を思い出す。
 原稿用紙一枚にセピア色の文字で書かれた「カマキリの卵」という題の作文とおぼしきものがあった。なんというヘタクソでひどく読みにくい字だろう、カマキリのカマをペン先にしてセピアのインクで書いたものででもあるのだろうか・・・・と思いながら、目を近づけるとセピアのインクと思ったのは大間違い。ぼくは爆笑してしまった。右の写真をクリックするとクローズアップ写真が見られます。
 クローズアップを見ても、すぐにはなんだか分からないかもしれない・・・無数のカマキリの幼虫を並べて文字にしたものなのだ。とはいえ、幼虫は研ちゃんの大量虐殺で死んだわけではない。作文のわきに並べられていたこの文章のプリントアウトを読むと分かります。

 このひとは人気のある派手な虫よりも、「虫けらのごとく」ひとびとにないがしろにされるやつら嫌われる虫、あるいはちっぽけなやつらに興味をひかれる。そういうムシたちを、よーく見て拡大したりするとじつはとても美しかったり愛すべき表情をしていたりするのを発見することによろこびを感じるのだ。多くの昆虫好きは、虫を捕まえて標本にするのだが、研ちゃんはそのちっぽけなやつを大きくて細密な絵として描いたり、アルミ箔でハエをつくったり、あるいは紙を切り込んで小さなカニをつくる。小さな生きものを虫眼鏡で大きくしたりつくったりしてみると、その意味も大きくなり意味が変わったりするのだ。

 KamakiriYodakaS.jpg そういうやつだから、彼は宮沢賢治の「よだかの星」がすきだ。鳥やムシをいくつかの部分にわけた平面の切り絵をつくり、それをガラスの上に置いて少しずつ動かしながら撮影する方法で「よたか」というアニメーションをつくった。個展には、その切り絵と撮影の仕掛けが展示されていた。
 ヨタカは口を大きく開けて昆虫の群れのなかに飛び込んでムシたちを捕らえて食べる。名前の一部に「タカ」という名をもちながらちっぽけなやつらを食べる、弱くて不細工な鳥と、いつもいじめられている。そのヨタカがあるときムシたちを食べようとしているとき、自分自身もたくさんの虫のいのちを奪って生きているのだと気づく・・・というものがたりだ。
 
「よだかの星」は、あらゆる存在が他者に依存し他者を傷つけずにはいられないことを描く。それは同時に、あらゆる生きものは他の生きものがあってこそ存在できる自然という精密なシステムがあるということでもある。食物連鎖の最上位に君臨する人間をつねに捕食する種はいないが、その代わりに人間自身の中に同じ種である他の人間を食べはしないにしても犠牲にしたり利用したりする連中がいる。そういうやつらは、何万年もなくなることのない有毒物質をつくり、自身をも含むあらゆる生きものを傷つけ精密なシステムそのものをこわそうとしている。
 

投稿者 玉井一匡 : October 26, 2011 08:20 PM
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