January 29, 2012

「シャルロット・ペリアンと日本」を探る

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 ぼくはシャルロット・ペリアンが好きだ。とりわけ、切り紙細工でつくったようなダイニングチェアの歩き出しそうなユーモラスと、パリにあるちいさな自宅アパートメントの、いかにもおだやかな心地よさが。

 神奈川県立近代美術館は昨年、開館60周年記念の展示として「シャルロット・ペリアンと日本」を開催した。この美術館を設計した坂倉準三がコルビュジェの事務所でペリアンと数年を共にした縁がある。「ペリアンと日本」をテーマにするからには、彼女が初めて日本にやってきた頃の日本とフランスの困難な状況のなかで来日した意味を掘り下げるべきではないか。
 しかし、初詣の人々で歩きにくいことを分かりながら鎌倉まで行ったのに、新しい発見がほとんどないまま帰ってきた。とはいえ「展示されていなかったこと」についての好奇心が膨らんできたことを収穫と思うことにして、すこし調べてみた。

 ペリアンが日本に来たのは1940年、坂倉準三らの尽力で日本の商工省に招かれて輸出品のデザインの指導をするという公式の立場だった。とはいえ、この年は真珠湾攻撃の前年だ。どういうわけで好きこのんで、こんな時代の日本に来たんだろうという疑問がわく。
 ぼくは「シャルロット・ペリアン自伝」を図書館のサイトで予約したが、本はまだ来ない。そこに何が書き残されているのか知らないうちに、まずはwikipediaなどネット上の情報から推理してみよう。

 この1940年には、フランスは年始めからのナチスドイツ侵攻に屈服して6月にパリを明け渡し、親ナチスのヴィシー政権ができた。日本は、それまでの長いあいだ中国と戦争を続けている。
 wikipedia(仏)によれば、ペリアンが日本に来たのは1940年の秋。日本では、1月から7月まで米内光政が首相で、彼は三国同盟に反対していた。ペリアンが訪日を決めたころのフランスはドイツに侵攻されているが、日本では米内が首相の地位にいたはずだ。そういう時であれば、ペリアンを日本に疎開させようと坂倉たちが考えて仕事と立場をつくり、ペリアン自身も、もともと興味のあった日本に行こうと考えるのは、むしろ自然なことだ。

 しかし、ナチスドイツを避けてやってきたのに、ペリアンが着いた頃には日本の首相は三国同盟推進派の近衛文麿に代わり、日本はすでにドイツと同盟国になっていたはずだ。ところが、母国フランスを代表する政府は、形式上は親ドイツのヴィシー政権というねじれた状況のおかげで不本意ながら同盟国の人間なのだ。日本本土では、まだ戦闘がないから「輸出工芸指導の装飾美術顧問」という立場で京都や東北までめぐり、河井寛次郎や柳宗悦らと交流し、腕利きの職人たちも知った。41年には「選択・伝統・創造」展を開いて竹のシェーズロングを発表した・・・おそらくこういうことだったろう。

 アメリカとの戦争まで手を広げた日本の政府は,翌1942年になると“undesirable alien”(好ましからぬ外国人)だとしてペリアンを日本から追い出す。(Charlotte Perriand/wikipedia(英))海路帰国する途中に、こんどは、日本支配下にあるベトナムで足止めを食ってしまう。それ以来、彼女は足かけ5年にわたって*ベトナムですごす。その間に二度目の結婚をして娘をもうけ、ハノイの芸術展のパビリオンを設計したという。(Charlotte Perriand/wikipedia(仏))上のチケットの写真をクリックして「ペリアンと日本」展の「報道用資料」を開くと、年譜には「第二章 日本発見 1940-1946」とされていて、ベトナム滞在のことはふれずにこの時期も日本にいたかのようだ。
PerriantAptS.jpg 日本に滞在していたときには、戦時下で苦しむ人たちや、ときには外国人に排他的な振舞いをする日本人に接することもあっただろう。ハノイに足止めを食らっていた間には、ベトナムと日本とフランスの争いに居あわせたはずだ。この間にペリアンは何を見て何を考えていたのか興味深い。スケッチや日記が、どこかにあるのではないか。「シャルロット・ペリアンとベトナム」展あるいは日本も含めて「シャルロット・ペリアンとアジア」展も、いつかやってほしいものだ。

 誰でも知っていることだったのかもしれないが、切り紙細工のようだとぼくが思っていた合板の椅子は「オンブル(ombre)」、つまり影という名称で、文楽の人形遣いの黒子から着想したのだと、この展示で知った。影が立体になって立ち上がったということなのだろう。
 彼女の住むアパートメントのことは、1984年の「GA HOUSES 15」(ADA EDITA)の、写真やフリーハンドで描かれた平面図とともに巻頭インタビューで知った。部屋はメゾネットの2層で、木でつくられた螺旋階段を昇った上の階にはパリを見おろす窓際の食卓とルーフテラスがある。こぢんまりしたスペースにモノたちが棲みついていて、窓から見るパリのまちと風を分かちあうようで、なんとも気持ちのよさそうな、彼女の生活と人柄を写しとったような住まいだ。影が、その本体とピッタリよりそっているように、このアパートメントでは住まいが住み手の生活のしかた生き方と寄り添っている。この住まいには,日本を偲ばせるところが少なくないから、「ペリアンと日本」を伝えるにはいいと思うのだが、なぜか今回の展示にはない。
 ぼくは時々この本を出しては、気持ちよい住まいというものを確認する。インタビュアーの発言にはGAと書かれているのだが、解説の文末に(Y.F.)とある・・・インタビュアーは写真を撮った二川幸夫さんなのだ。後記には、その二川さんがめずらしく言葉をつくしてこの住まいに賛辞を送っている。
「都市生活のアパートとして第一級のものであり、こんなにエレガントなインテリアは見たことがない。ここには近代建築が素晴らしい形で生きている」と。
 
■この「シャルロット・ペリアンと日本」展は、秋岡芳男展を開いた目黒区立美術館でも4月14日から開かれる。
 秋岡芳夫は日本の工芸との関わりが深いし、秋岡のデザインした合板と鉄板のハイブリッドの折りたたみ椅子はジャン・プル-ヴェの影響を受けているのは間違いないだろう。プル-ヴェとペリアンは、やはり木材と鐵をつかった棚のデザインと制作などで協同関係にあった。

投稿者 玉井一匡 : January 29, 2012 11:24 PM
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