June 01, 1972

コモリガエル、カモノハシ・・・異常論 

Click Flog to PopUP 30年以上も前のものを読み返すと、気恥ずかしい書き方があったりあちらこちらに難点が見つかったりするけれど、いじりだしたらきりがないし、あのころ何を考えていたのかを記録することに意味があるのだと思って句読点を少し直すにどとどめた。

<「建築」1972年6月号100pより>

コモリガエル、カモノハシ・・・異常論

妙にひとを魅きつけるものがある。
自分のものにしたいというーーーたとえば惚れた女、漁船が甲羅星をする小さな湾、革命直後の精神の昂揚といったたぐいのーーー感情によるものではなく、その在り方が異常であるという点で魅力的なものだ。

コモリガエルは異常である。
それは、卵を生みっぱなしのはずのカエルが体内で卵をかえすという点においてではない。タツノオトシゴが父親の腹の中で卵からかえるのはさして異常ではないし、少なくとも、キモチワルイものではない。
科学の事典でコモリガエルの挿画を見た秋山*は、その話をするとき肩をすくめてとびあがり、さながら自らカエルになったようにキモチワルがる。
ぼくはこどものころもっていた動物図鑑で見たのだが、それは色つきで右のページの下の方に、赤いツノの生えたカエルと一緒に載っていた。

モゾモゾと蠢く子ガエルのかたまりが、その異常さなのではなく、それが親の背中に掘られた穴ボコの中にいるということであり、あるいは、背中にビッシリと穴があいていること自体なのだ。その光景は、見ているいこちらの背中に穴があいて、そこを無数の蛆がはい回っているというようなことを想い起こさせるからに違いない。蓮の実にある穴ボコの中に、種子がつまっている有様は、コモリガエルに似ていないではないけれど、それはさして異常ではない。むしろあのカエルは、アメリカの兵士がぶら下げているベトナムの子供の肉体のちぎれた片割れに似ている。

カモノハシは、やはり妙な興味を引き起こす。
彼は、ケモノでありながらくちばしがあり、ビーバーのような尻尾がありながら卵を生む。そんなやつがいるのか!という驚きは、コモリガエルのものとは異なる異常さである。
コモリガエルはその形態をぼくらに投影したときに異常さをつくりだす。カモノハシの異常さは、その形自体から来るのもではない。彼の形は愛らしくさえあるのだから、それはむしろ、彼が、ぼくらのもっている体系の中からはみだしてしまう存在だという点において異常なのだ。ああいう毛皮に覆われた動物は、卵を産んだりしてはならない、ましてや、くちばしなどは断じて所有してはならない。
カモノハシの存在は、いわば犯罪である。なぜなら、体系を外れているからだ。

カモノハシがとびだした体系は、われわれの(独断と偏見にみちた)生物学的分類の体系だったが、われわれをとりまく体系の典型は言語と法律である。

言語は表現の体系であり、法は行動の体系である。表現は行動の一部であり、同時に行動は表現の一部であれば、ふたつの体系は不可分のものとなる。

さて、ことばは不連続である。ぼくらが、あるイメージをもっている、それを表現する(ことばによってでも、行動によってでも)ーーーその段階では、イメージとことばは、1対1に対応している。だが、つぎにそれを受けるとき、そのことばのつくりだすイメージは、その人の中では1対1に対応しているものの、はじめのひとのイメージとは必ずずれが生じる。約束ごとは、「もの」を媒体としているので、ものの連続性のもつ限界は、イメージの連続性に対応しきることができないのだ。
約束ごとのもつ不連続を超えるには、約束ごとそれ自体を超えなければならないのだが、その連続性を獲得する手段が文学であり、芸術であり、冗談であり、皮肉である。約束ごとを超えるとは、約束ごとにない表現を行なうことであり、約束ごとをやぶることだ。ところが、約束ごとを破るとき、それが何かを表現しうるには、更に高次の、といってわるければ、新たな約束ごとが必要になる。陳腐さと醜さを賞揚するとき、それが新たな何かをを表現し、伝えるには、彼が陳腐でもなく醜くもないものを作ることができる必要があるし、ぼくがニクソンの肖像を壁に飾ったりすることが(もちろん、単に、たとえばの話だが)冗談として通用するには、ぼくが彼をできるならオリの中にいれてかざっておきたいと思っている、ということをひとに知っておいてもらわなければならない。でなければ、それは約束ごとに組み込まれ、親米愛国の表現になってしまう。
そんな、約束ごとの多重構造は、それこそ「連続的」に連続性を追求することになって、永遠にくりかえすことになる。

表現(表現としての行動を含めて)の体系に対する連続性を求めての反抗が芸術であり、行動の体系に対する反抗が犯罪である。
カモノハシはおもらいくんである。それは、姿はかわいらしく、けれども、存在自体が犯罪であるからだ。

第二第三のカモノハシを*!

   

投稿者 玉井一匡 : 12:00 AM | コメント (0)