July 22, 2004

国境を越える3つの方法

ソフィア・サコラファ 女子やり投げ・元世界記録保持者
 7月21日の夕刊に、国境のことを考えさせる興味深い記事が3つあった。
 曽我さんの夫のジェンキンスさん、縄文遺跡、そしてアテネ・オリンピックの記事だが、もちろんみんな別々の記事である。ジェンキンスさんのことは誰でも知っている話だが、とりわけ縄文遺跡とオリンピックの話には常識を覆えされる快感があった。

 縄文遺跡は津軽の大平山元遺跡である。ここの土器が16,500年前のものだと分かったが、ロシアのアムール川流域から出土した土器が、同じように分析するとやはり16,000年前頃のものであるという。同じ時代に、広い領域にわたって土器が使われるようになったというわけだ。言いかえれば、同じ文化が日本からロシアにおよぶ広い範囲にわたっていたことになる。
 アテネでは、いま47才の元世界記録保持者、女子やり投げ代表として2回のオリンピックに参加したソフィア・サコラファが、テロの可能性をはらんだアテネオリンピックを前にして平和のために何かできないかと考えた。その結果、パレスチナ人としてオリンピックに出ることを考えついて実行に移した。すでにパレスチナの市民権を取りアラファトとも会ったという。平和の祭典を謳いながら、オリンピックは国家の求心力の向上に利用されている状況にあって、ソフィアは国家の境界を突き崩そうとしている。

 ぼくたちは国家や国境というものの枠でものごとを考えてしまいがちだと、これらの記事によって我々の了見のせまさに気付く。ぼくたちが古代を考えるときにも、現在の国や文化圏をそのままに重ねて考えてしまうのだ。自分の国家には固有の文化が昔からあって、自分たちのものが古くすぐれたものであってほしいと思う。しかし、現代の国家、現代の文化圏そして古代の文化圏が、それぞれに全く異なる範囲をもっていたとしてもそれはむしろ自然なことだということに、つい気づかない。
 ソフィア・サコラファの行動は、こういうメッセージを伝える「国籍なんて所詮は人間が決めたことじゃないの。数十年前に強引に作られた国家によって追い出されたパレスチナなんて、その最たるもの。パレスチナをイスラエルやアメリカとおなじアテネのスタジアムにつれてくるわ」と。
 ジェンキンスさんは、戦争という国家公認殺人ゲームの最中に国境を越えて敵の領域に行ってしまった。国境を否定したはずの彼の行為は、並はずれて強固な国境を構築した国家に飛び込む結果になった。そして今ふたたびもうひとつの国境を越えようとしている。

 国境は空間を不連続に分離して国家を限定するものだが、文化は連続的に変化しつながり重なっている。国境や国家は、分離するのものだが、文化はむしろ結ぶものなのだ。国境は力によって作られたものだが、文化はできてくるもの、伝えられるものなのだ。
 建築とは、ウチとソトをつくり領域をつくる。ある種の建築がつくる領域は力が国家と国境をつくることに似ているかもしれない。
だが、ぼくたちにはほかの可能性がある。建築の境界をもっと大きく拡げて、線でなく面にすることができるからだ。境界を連続的、あるいは段階的に変化し重層する空間とすれば、排他的でない境界ができるはずだ。もしかすると、同じように国境を線でなくある幅をもった領域にすることで、国家間の不連続な境界をなくすことができるのではないかという望みを捨てきれない。

投稿者 玉井一匡 : 04:56 PM | コメント (0) | トラックバック

July 20, 2004

アメリカ再読

 click image to pop up.
 大きな街路樹がならぶ住宅地:右から2軒目が妹たちの家
 

 カフェ杏奴を教えてくださった「いのうえさん」からつぎのようなメールを頂いた。
「玉井さん、おはようございます。 杏奴ファンのいのうえです。貴Place Runner を掘り起こしましたら、ニュ−ジャージー州リッジウッドの住居について書かれていましたので、偶然とはいえびっくりしました。小生も家族と共に1986年から1992年の足かけ7年、リッジウッド村の北端に住んでおりましたので。世の中本当に狭いというか、これも何かの縁ですね。」

 ニュージャージーは、ニューヨークに勤務する日本人が比較的多く住んでいるところだから必然性がないわけではないけれど、そのなかでもリッジウッドという小さな村だということになると、何かの縁だろうとぼくも思ってしまう。

 「前に書いたものをBlogで公開すればいい」と、秋山さんからも何度かアドバイスを受けていたのだが、他にも書きたいことがいろいろとあったので、なかなかできなかった。この機会に読み直してみると、今年は日米修好150年でもあるし、いまでも通用する話だと思ったので、いのうえさんのメールを機会に、Blogにのせることにした。これは、リッジウッドの家の「ベースメント」で目を覚ました明け方、ノートに書いたものだ。

 1998年秋、アメリカに住む妹たちの家をぼくははじめてたずね、およそ1週間そこに滞在した。13歳も年齢のはなれたただひとりの妹である理子と夫のスティーブは14年前に日本で結婚し、その後、日本とアメリカで何度か住まいを変えたのちに、ニューヨークの郊外、ハドソン川をはさんだ対岸のニュージャージー州のリッジウッドという町に家を買って3年ほどになる。3人の子の親となったスティーブは、ほんとうは田舎に住みたいんだと言いながら、毎朝のように前庭の芝生の上に投げ込まれるビニール袋入りの朝刊をもって車に乗り込み、駅からは電車とフェリーを乗り継いで1時間たらずでニューヨークのワールドファイナンシャルセンターにあるオフィスまで通勤している。

 3月に生れたあたらしい孫ソニアの顔を見がてら、ぼくたちの両親は新潟をはなれて3週間ほどかれらのところに滞在することになった。家族そろって相談したいことがあったので、両親の迎えをかねて最後の1週間をぼくも東京から合流したのだった。
 両親と一緒だったから、いずれにしろあまりうごきまわることはできないし、その1週間を、ぼくは主にこのまちに腰を落ちつけてアメリカの日常的な場所に接することにしようと思った。わずか1週間のあいだだったけれど、地下室に寝起きして、この町とこのいえの住人たちを通じ、アメリカについて実感をともないつつさまざまなことを考えることができた。アメリカについて考える時には、いつも日本のことを考えないではいられなかったから、アメリカを考えるということは実はアメリカという鏡に写した日本をみているのだった。

 この家の面積は地下を除いても屋根裏を含めると延べで40坪ほどだから、日本ならけっして小さいとはいえないけれど、まちを一巡りしてみると、ここでは一番小さい家のひとつではあるようだ。とりわけ、外から見れば小さく見える。玄関ドアの左右に窓がひとつずつならんだ上に平家のようにつくられた屋根に、屋根裏の子供部屋のドーマーウィンドウ(屋根窓)がふたつならび、横にガレージが加えられただけのかわいい家とみえる。
 しかし、ちょっと目をこらしてみれば、この家がただかわいいだけの家ではないことが、いたるところから読み取ることができる。建てられてからすでに50年以上の時を経ていながら外壁も内側の壁もきれいに塗装を施されているので、さながら雪におおわれたまちのように一様に美しく見えるのだが、家に加えられた手の痕跡がそこここにとどめられているからだ。なによりこの家を魅力的に感じさせるのは、古いことを誇らし気にして建っていることだ。とはいえ、骨董品のように古さそのものが価値を持っているわけではまったくない。けれども、使いこまれ大切に手入れされてきた痕跡を感じさせるもののもつ美しさや好ましさがあるのだ。この家だけではなくまわりの大部分の家たち、それらが集まって作られているこのまちそのものにも、同じような好もしさが感じられる。

OLSONDACT.jpg 上の部屋を暖めるダクトはベースメント天井を走る。断熱はない。

 日本でつぎつぎと建てられる家の多くは、作られた当初の輝かしさは時とともにみるみる失われ、粗大ゴミへのみちをひたすらに歩み続ける。土地とともに住宅を売ろうとすれば建物の価値はゼロだと評価され、ときには解体の手間の分だけのマイナスの評価を受けるというぼくたちの社会では、売買の市場に出されたとたんに古い住宅の価値はゼロになってしまう。 けれども、このまちの家たちは時とともに価値を上昇させ、現在の住み手である妹たちも、買ったときよりも高くこの家を売ろうと考えてあちらこちらと手を加えて、よりよい家にしようと努力を惜しまない。終の住処としてひとつの家に住みつづけようと考える日本人よりもむしろ、家族が増えたからここを売ってもう少し大きい家を買おうと気軽に考えるここの人たちのほうがじつは家を大切にしようとしているという逆説はすこぶる興味深い。
 最も私的な建築物である住宅も大きく見れば社会全体の財産だと考えるなら、日本のあり方では、作られた当初に最大だった財産が時とともに減り続け、数年で他者にとってはゼロになる。けれど、100年たった住宅でもそれがちゃんと商品として売買されるこのまちでは、社会の財産は時とともに蓄積されてゆく。あのバブルの時代に日本が世界中からかき集めてきた富は、ただ空しく土地の価格を上昇させ、ゴルフ場を増やし住民に君臨する庁舎をつくり、森を減らしここちよい小さな漁港を埋め立てて終わった。社会に蓄積されたものは少ない。
 そして、今頃になってストックとしての住宅だの100年住宅などと住宅メーカーや役人が口では言いはじめた。もう、大組織や役所の言うことを額面通りには信じない。すくなくともそれを学ぶことができたのがバブルという愚かな時代の残したささやかな財産だ。量から質へというスローガンで新しいマーケットを作ってゆこうというのが最も重要な目的に違いないのだから、モノとして長もちするだけの家がつぎつぎとつくられてゆくのだとしたら、それはもっと悲惨なことになりかねない。シリコンを注入した美貌や肉体のように、年を経てもいつまでも変わらないということが100年持つ住宅なのではないはずだ。    

 だが、紙袋や紙皿やプラスティックのフォークを1回使っただけでゴミ箱に放りすて、冬にはふんだんに暖房をきかせた家の中でアイスクリームを食べ、夏には冷房を効かせた室内でスーツとネクタイをつけるというアメリカの生活を、ぼくたち日本人はあこがれてあとを追ってきた。われわれを大量生産と大量消費の泥沼に誘い込んでおきながら、ここのひとたちは背後にこんな堅実な世界をしっかりと大切に残している。日本にもちこまれた道具や映画からぼくたちは彼らの生活の断片を知ったけれど、それだけではよみとれなかったものがあまりにも大きい。単語をひとつひとつ日本語に置き換えることによって英語ができるかのようにしてぼくたちの英語教育はなされてきたけれど、それが英語という言語体系の全体からかけはなれたものになってしまうように、ぼくたちの読み取った道具や生活の断片という単語は、この国の生き方という言語体系とはかけはなれていたのではないか。

 アメリカのきわめて強い影響のもとに日本人のひとりひとりの生活も社会も作られてきたのは、けっして戦後民主主義の世代だけではない。ペリーが浦賀に押しかけてきてこのかた150年にもわたって、良きにつけ悪しきにつけあるときは進んで模倣をし、あるときは力ずくで従わされながら、くり返しくり返しアメリカのやりかたや在りかたを受け容れてきたのだ。西洋のまねをしたいばかりに、仏教寺院を破壊し仏像を売り飛ばし、古いものをないがしろにして、ほかならぬアメリカ人をはじめとする外国人にたしなめられて、あるいは、ドイツ人にほめられてはじめて桂離宮を見直す始末だった。

 アメリカではおそらく平凡なものである理子たちの家と、そのまちのあちらこちらに、われわれ日本人にとってはきわめて興味深いものが見つかる。外の文化からみて真に興味深いものは、内にとってはあたり前のことにある。モノの集積としての「家」と、そこに作られる場所を読み解くことから、アメリカという、ぼくたちには矛盾に満ちたと見える存在を読み解くカギが見つかるのではないか。進歩と信じて絶え間のない変化を続け、一方ではかつて持っていた世界を壊し、自分たちの世界観を見失おうとしているぼくたちの社会を、アメリカという鏡に自らを映すことで見直して、立ち直るすべを発見することが今から欠かせないだろう。

投稿者 玉井一匡 : 04:31 PM | コメント (6)

July 12, 2004

殻々工房

karakarafront.JPG
 7月9日から10日にかけて那須の殻々工房(からからこうぼう)体験に参加した。
 LANDshipBe-h@usのシステムを使って、若い野沢さん夫妻がみずからの手で店と家つくりをした。現場の隣にテントを張って那須の寒い夜をしのぎながら、駆体や設備工事はプロにやってもらって、進行に応じてさまざまなかたちで、みずからの手でつくっていった。壁を塗り家具をつくり塗装をして看板をつくり木を植えて、5月の連休のころに開店した。いま、屋上緑化に取りかかっている。

 Be-h@usは集成材の柱梁を金物でつなぐ。その骨組みに屋根、床、壁と断熱材を入れた合板のパネルをはめ込めば、高精度で気密と構造強度にすぐれた躯体ができあがる。システムがシンプルで分かりやすいし、ウェブサイトには部品も作り方も公開されているから、セルフビルドはBe-h@usの得意技のひとつである。
 それにインターネットが結びつくと、世界がとてもひろく豊かになってゆく。インターネットの得意技は、はなれた場所にいる人がひとつの時間と場所を共有できることだ。那須を訪れたとき、すでにぼくたちは野沢さんたちのBlogサイトKARAKARA-FACTORYを去年から見ていたし、お互いのサイトにコメントを書いたりメールをやりとりしていたから、ぼくはすでに殻々工房という場所をちょっとだけ共有していた。はじめて訪れたのに、ぼくは殻々工房を見学するというより参加するという気がした。

 野沢さん夫妻がこの店に「工房」という名を選んだのもいろいろなわけがあったにちがいない。普通の言いかたなら「レストランの一部がギャラリーになっている」ということになるだろう。しかし、ただ食べ物や飲み物を提供するだけの店ではない。食べものをつくり、飲み物をつくり、店をつくり、そして人と人の共有する場所をつくる。ふたりはそうこころざしたのだろう。
 店の軒下に、遠くから見たときには犬小屋と思われる木の箱がある。燻製つくりの箱なのだ。この日のために豚のバラ肉とと合鴨とラムの骨付胸肉の燻製がつくられる過程も見ることができた。手作りの板張りの箱の底に電気コンロを置いて、小さな鋳物のフライパンに木のチップをのせて煙をだす。箱の中に塩をした肉を吊るし、その煙に浸すこと2,3時間。それだけで、とてもうまい燻製がつくられた。この日は豚肉と合鴨とラムだった。今日のメールによれば、このあいだの豚肉がイマイチだったので、肉屋に頼んだらもとのうまい肉になったと書いてある。ぼくは十分にうまいと思っていたのだが、こんどの機会にはもっとうまいベーコンがたべられるわけだ。
smoke1.JPG smoke2.JPG
click the right image to pop up:何度見ても「旨そう」と溜息をつくSmoked合鴨

 「store」は商品を蓄えておいて売るみせだが 「shop」というのはつくって売る店なのだという。ぼくたちのまちのまわりからは、shopがつぎつぎと姿を消していった。storeというカテゴリーで店をつくれば、大きいほど商品構成はゆたかになるし安く売れる。大きければ大きいほどいいというアメリカ型、グローバリズムの世界になってゆく。しかし、ひとが集まる場所である飲食店には、その場で「つくる」要素が多く残されている。だから大きいほどいいという堕落には陥らずに頑張る余地がある。

 まだかまだかと思いながらやっとたどり着く。ここは、ふつうなら店をつくる場所ではないのかもしれない。しかし、軽井沢や清里とおなじように、大小をとりまぜたあらゆるテーマパークの寄せ集めと化した別荘地で自分たちの世界をつくるには、この場所は正しい選択だった。まわりの風景を壊すような過剰な自己主張はしない、大きな看板もつくらないということにしても、周囲に埋没しないですむ。
 殻々工房はとてもよくできている。「ハーフビルド」でこれほどのものが作れるのは、野沢夫妻の生き方、デザイン能力、そしてつくる力が卓越しているからだ。その力によるところがとても大きいから、Be-h@usなら、だれでもこんな風にできるというわけではないだろう。

 野沢夫妻は、この土地に店と家をつくり、料理をつくり、訪れる人たちとともに場所をつくる。BlogサイトKARAKARA-FACTORYには、店ができる前から、訪れない人も共有できる場所をつくった。セルフビルドの建物には、いつまでも完成はない。だからふたりは「工房」となづけたのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:02 AM | コメント (1) | トラックバック