November 30, 2004

僕の叔父さん網野善彦

mononcle.jpg 「ぼくのおじさん」といえばジャック・タチの映画をだれもが思い出す。伊丹十三の責任編集で朝日出版が出した「モノンクル」は、この映画の原題mon oncleからとったのだろう。岸田秀、小此木圭吾、山口昌男、蓮實重彦、南伸坊などといっしょになって精神分析や映画や文化人類学を遊んでしまおうという雑誌で、ぼくは毎号愛読していたのだけれど、わずか6号ほどで夭折した。
 中沢新一の書くものに、ぼくはこのごろとくに共感することが多いので、新聞の広告に「僕の叔父さん網野善彦」をみつけると、モノンクルのような知的で楽しい本を期待して、すぐさま新聞を切り抜いて手帳にはさんだ。たしかにモノンクルと通じるところがないではないが、想像とはまったく性格の違う、しかしひどくおもしろい本だった。

 中沢の少年時代、叔父と甥という斜めの関係をもつ位置に、父の妹の配偶者として登場した背の高い若者は「悪党」について研究していた。社会の枠から逸脱する悪党というフィルターから日本の歴史に新しい視点を持ち込もうとしている若い歴史学者なのだった。
 少年は直感的に、このあたらしい叔父さんに好感をもつ。叔父さんの方は知的好奇心に満ちた少年に対してきちんと正面から接したから、子供の視点の中に実は本質的な問題意識がひそんでいるということを知る柔軟な思考のひとであると、少年は感じ取ったにちがいない。
 好感をもって網野善彦を受け容れたのは、少年だけでなく父やその兄弟も同じだった。かれら自身も民俗学や技術史の研究者だったし、その父つまり少年新一の祖父も生物の研究者という背景があって、ここは家族の中で歴史や天皇についての議論がかわされるような場だった。父は大学のような機関に所属せず、したがって制度や組織の小社会政治には巻き込まれない立場にあって、みずからを「農民」だといいながら民俗学の研究をつづけた。

 少年の父は研究者としては制度や組織から自由だったが、一方では共産党の熱心な活動家だったから、大学や学会とはべつの、固い組織にあった。構築されつくした組織をもつ党などに、流動的知性を受け容れる器量などあるはずもないから、のちに父はそこからも除名され、より自由になる。
 中沢は、「わたしはコミュニストであったことは一度もない」と言いながら、敬愛する網野を「終生コミュニストだった」といい、みずからを「コミュニストの子供」という。それは、コミュニストを親に持った子供という意味にはとどまらない。個体発生が系統発生を繰り返すという生物の発生の原則のように、「コミュニストの子供」は、コミュニズムの発生の根源に近いところにいるということでもある。
 かつて権力を手にするや抑圧者に堕落した、制度としてのコミュニズムではなく、組織に属するコミュニストでもない。自由に動き自由に発言できる共同体と普遍的な価値、そしてそれ自身のうちに持っている力を信じるのが「コミュニストの子」なのではないか。
 網野史学の立場から「もののけ姫」をつくった宮崎駿は、「風の帰る場所」で、インタビュアー渋谷陽一が宮崎さんはコミュニストだからというのをあえて否定はしない。しかし、 網野善彦も宮崎駿も、コミュニストより普遍的根源的であるという意味では、むしろ「コミュニストの子供」なのかもしれない。

 こういう豊かで深い家族という最小共同体に置かれた「僕の叔父さん」が次々に生み出してゆく研究と、さらに叔父さんとその成果をも加えた土壌に育った少年。この本の歴史的生態学は、網野史学と中沢世界の重層的なガイドブックとしても興味がつきない、元気の出る本だ。  
中沢新一著 集英社新書780円

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秋山さんにこの本を薦めたら、読み終わるとすぐに電話が来た。おれもそうなんだが、きみはコミュニストの子供なんだ、というのだった。意識してそう読みはしなかったが、たしかにそうかもしれないと、「コミュニストの子供」がことさら気になって来た。

投稿者 玉井一匡 : 05:35 PM | コメント (2) | トラックバック

November 23, 2004

「ブログの力」出版記念ミーティング

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 ぼくは小さい頃から人見知りだったのに、何がきっかけだったのか、いつからなのかおぼえていないのだが、ひとに会うこと、とりわけ初めての人に会うことがとても楽しみに思えるようになった。はじめて会う人だったらたいていの人は、ぼくが心底から興味深いと思えることを何か持っていて、それを聞かせてくれるからだ。
偶然のもたらす出会いというものはもっと魅力的だが、それぞれが思い思いの形に編んだ網を張り巡らせていると、そこを通りかかった思想や生き方、そして表現などさまざまなものをかかえた人がひっかかって、それが大切なたからものになることをいうのだと、ぼくは思う。だとすればBlogは、偶然という網の目をとても細かく、しかも広く張ってくれるから、たくさんの魅力的なものと出会う機会をゆたかにするものなんだなと、今日、カフェ杏奴から家に帰って来てぼくは思った。

blogpwerbook.jpg 本来は定休の火曜日なのにママが店を開けてくれて、20人ほどの人たちがカフェ杏奴に集まった。ジオデシックの栗田伸一さんによる企画編集で九天社が出版した「ブログの力」の出版記念ミーティングだ。このBlogで書いた「漂泊のblogger」というエントリーを、この本にとりあげていただき、それにちなんでこのカフェ杏奴が会場になったのだった。
 今日は、ここに来た人たちが価値を共有できるようなものを誰もが持ち寄って来た。ひとが持っているものなのに、それがうらやましくなんかない。と、書くそばから、ミネくんがiPodminiを懸賞で当てたのはうらやましかったのを思い出しましたけどね。
 今日の網の目は、どんなかたちをしていたのかと、ぼくは風呂につかりながら考えていた。きっと、ほかにもいろいろあるに違いないが、ひとついえることがある。「・・・であればあるほどいい」という単調増大の価値観から自由であることだ。大きければ大きいほどいいもの、上がれば上がるほどいいもの、権力、地位、財産や階級などがそうであるように、世界を悪くしているのは、ことごとく単調増大の価値観なのだ。 Blogの力には、単調増大でないさまざまな価値をすくいとるという力があることも、もうひとつ付け加えければならないと思う。

ひとつの同じ場所と同じ時間を共有した人たちがそれぞれになにを書くのか楽しみです。

投稿者 玉井一匡 : 11:59 PM | コメント (3) | トラックバック

November 22, 2004

エファジャパンのBlogができた


吉川健治さんから、ラオスのLuang Phabangの表記について「ルアンパバン(Luang Phabang):世界遺産」というエントリーに丁寧なコメントをいただいた。その吉川さんが事務局長をつとめるエファジャパンのBlogができた。エファジャパンのホームページもそうだが、このBlogも吉川さんが自身が作り上げたらしい。

エファジャパンというのは、自治労の国際局が中心になってつくったNPOで、国際的なボランティア活動の支援をおこなう。かつてアムネスティで積極的な活動をしていたイーデス・ハンソンさんに理事長をたのんだら「エファジャパンなんて名前、なんのことやら分からへんやないの」なんてことを言いながらも、こころよく引き受けてくれたそうだ。彼女はアメリカ人宣教師の娘としてインドで生まれたことが、その後の生き方に大きな影響を及ぼしたのだという。
ちなみに、エファとは「Efa:empowerment for all:すべてのひとたちに力を」である。
 つい2週間ほど前に1週間たらずのあいだだったが、ぼくは吉川さんとラオスで行動をともにした。そのあいだに、インドシナについていろいろな話をうかがいながら、ラオスでの活動の様子をいっしょに見せていただいた。そのときにBlogを勧めた。外国からでも、その日のうちに現地からの報告を吉川さんが書くことができるから、見ている人も身近に活動を知ることができると言ったのだが、さすがに行動がはやい。すぐさま吉川さんは実行に移した。
 今はまだ、エファの発足についての報告が多いけれど、いずれ現地からのエントリーが楽しみだ。組織としての活動については、時期と状況を見はからいながら書かなければならないだろうけれど、吉川さんは国際関係論の研究者でもある。「ルアンパバン・世界遺産」に書かれたコメントのように、さまざまなものごとやできごとや歴史などについて思うところは興味深いことがたくさんあるにちがいないと、とても楽しみにしている。

投稿者 玉井一匡 : 09:51 AM | コメント (2) | トラックバック

November 15, 2004

チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記

GebaraBook.jpgエルネスト・チェ ゲバラ 著/棚橋 加奈江 現代企画社/2,000円che002.jpg
  何年か前に娘が買ってきた本を自宅の本棚からさがしだした。ロバートレッドフォードがなみなみならぬ熱意を込めて「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画にしたとaki'sStocktakingで知ったからだ。 チェ・ゲバラと年長の友人アルベルト・グラナードがモーターバイクに二人でまたがりアルゼンチンを出発し、ほどなく壊れたバイクを捨ててヒッチハイクに乗り換えチリを経て南米を縦断する。そのときのゲバラ自身による記録がこの本である。
 読み進むうちに、ぼくはかつてこの本を途中でやめたわけを思い出した。

ありていに言えば読みにくいのだ。正直に言えば翻訳が下手だ。なにしろ「チェ・ゲバラと聞けば、胸が熱くなるおじさんもいる」と、Aki's Stocktakingには書いてあってこのBlogにリンクしてあるから、今度は最後まで読もうと決めていたのだが、それでも途中で5冊ほどほかの本を読んでしまった。ゲバラの原文が修辞的な表現が多いせいもあるのだろうが、それ以上にゲバラへの想いがあまりないせいだろうと婉曲に言っておくが、彼が言いたいことが伝わらない。

 こういうことを言いたいのだろうと読者の側が想像力を補いながら読んでいくと、当時の南米の国々のありかたやそれらとアルゼンチンの関係について、ゲバラがどう感じていたのかがわかってくる。今でも、サッカーを見ているとアルゼンチンには白人の選手が圧倒的に多く、他の南米チームが先住民やアフリカ系選手の多いのとは明らかに違いがある。まして、この時代のペロンとエビータがいたアルゼンチンは、他の国々からは理想の国のように見られていようだ。
 ブラジルが大きさで南米において特別な存在であるなら、アルゼンチンは人種の構成とそれがもたらした社会のありかたが特別だったらしいと、のちにチェ・ゲバラとよばれる若者の目を通してぼくたちにも理解される。 ブラジルを除く南米の国はすべて共通の言語を持つから、国による違いよりスペイン語という緯のつながりが強いらしい。スペイン語を話す人たちの下には、その地に受け継がれて来た本来の言語を話すインディオ(ヨーロッパ人が、この大陸をインドだと思い込んだから、先住民をインド人と呼んだんだ)が置かれる。スペイン語をしゃべる人たちの上には、安く労働力を買いたたき資源を吸い上げて富を拡大するアメリカ合衆国の大企業という模様が織りなされている。

 若い医学生と駆け出しの医者の二人づれは、南米縦断の旅をつづけながら、ハンセン病の病院で働いていたおかげで過剰な敬意を払われ、それによりかかり羽目を外し続ける。しかし、それは同じ基盤に立つスペイン語をはなす白人という身内に対してであって、いつも奪い取られるばかりの先住民へのまなざしは共感に満ちているし、奪い取る者たちへの義憤は熱い。南米におけるアルゼンチンの特別なありようとスペイン語が作り出し、アメリカ合衆国の力への反感が育てた南米の連帯感が、このころのゲバラに肉体化されたのなら、のちにキューバ革命に加わり、さらにボリビアでのゲリラ戦に命を賭けたのは自然なことだ。
 ふたりは、行く先々でサッカーチームの助っ人となって、アルゼンチンの若者らしく活躍するのだが、ゲバラのポジションがキーパーであるのが、ぼくにはちょっとした新発見だった。フォワードかトップ下くらいのような気がするのだ。

 多くの場合、本を読んだあとで映画を見ると不満に思うことが多いけれど、これはあとで映画を見ると大いに満たされるにちがいないと、ぼくは期待し確信している。

関連エントリー
「モーターサイクルダイアリーズ」

投稿者 玉井一匡 : 11:40 PM | コメント (2) | トラックバック

November 09, 2004

ラオス・タイでBlog

(1)バンコクのホテルで:click image to pop up
  今回のラオス行きは、土曜日の夕方17:20に出発してバンコク着は深夜、翌朝にヴィエンチャンに向かうので、空港前のホテルに泊まった。駅前ホテルと多寡をくくっていたのだが、日本の水準なら高級ホテルだった。翌朝の6:00にフロント前に集合すると同行の二人と約束したからすぐに寝なければならないが、部屋に着くと、インターネットの状況がまずは気になった。電話機はモジュラージャックがないから、ここにつなぐことはできない。机の上に便箋などとならんで「Super Fast Internet Access」と書いてある紙を見つけた。いま、ぼくはその紙を読み直してドキリとしてみずからをちょっとののしった。幾重にも愚かだったことに気づいたのだ。

 その1:ホテルでそれを読んだぼくは、wireless facilityというところに目がいった。利用料金は、客室での使用は12:00から12:00まで450バーツ(1バーツ2.5円くらい)、会議室での使用は6000バーツとある。そりゃあホテルにすればワイアレスの方が設備費用がかからないだろうなと納得。まずは風呂であたたまる。出てくると、よしBlogを書くぞとベッドに腰をおろしたが、すぐに気づいた。・・・・ぼくのiBookはAirMacをいれていない。
 その2:疲労のせいだと考えたいが、あわてて読んだのだろう、いま読み返すと、「use your laptop and get on-line with our "plug and play " broadband connection」と書いてあるではないか。もっと探せばどこかにあったはずだ。しかも「In addition,we have a wireless facility enabling you to get connected in all meeting areas without plugging into a phone line.」というくだりがある。ワイアレスなのは会議室であって、個室ではないということになる。個室でワイアレスを使わせるにははどうやって金をとるのだろうか、金を払うとパスワードをくれるのだろうかなどと考えていたのだが、そうではないということなのだ。どういうシステムなのか、メールで調査のうえ報告します。

(2)ヴィエンチャンのホテルで
ヴィエンチャンで泊まったのは、国際的なチェーンのホテルだった。ここにも何か書いたものがあるかと客室を探したがインターネットについてはなにもない。ロビーにおりると、「business center」というのがある。コンピューターが3台置いてあって、利用料金は10セント/minというけれど、3回使っていずれも3$だったから1$/10min. である。小さなアンテナのついた無線LANのカードなら15$/dayだと出してくれたがiBookにはスロットがない。ビジネスセンターの利用時間は、7:00〜21:00。
 翌朝、食後に「ビジネスセンター」のガラスのドアを開いて中に入ると若いお嬢さんがひとり受付に座っている。インターネットをつなぎたいというと、コンピュータの置いてある準個室のような一画に案内される、ぼくはiBookを抱えていったから、これをつなげたいんだとiBookを見せた。LANケーブルを外してiBookにつなげてくれる。safariを開くと、すぐにつながった。メールチェックをしたあとでMyPlaceにエントリーする。写真をアップロードする時間がちょっとかかるのがもどかしい。出迎えのひとたちが来ていたのでまた時間が足りない。
 個人的な旅行ではなく、予定されたスケジュールの中でうごくから時間がゆっくり取れない。そのうえに接続が無制限ではないというのが気になった。でがけに現金で支払う。ここは、まちのちいさな店でもドルで支払うことができる。自国の通貨が弱いということでもあるんだろうが、旅行者にとっては、かえって便利だ。
 まちなかでは、ところどころにインターネットカフェを見かけたが、クルマで移動中なので見られない。

(3)ルアンパバン
LPschoolPC このまちにしては大きいホテルだったけれど、インターネットの設備はありませんと、フロントはあたり前のように言った。ここは観光地なのだから、しかたないさとみずからを納得させる。しかし、観光地であることは外国人が多いことでもある。まちの中を歩いていると3カ所のインターネットカフェに出会った。それぞれに客は入っている。iBookをそのときは持っていなかったので、店の中に入らなかったのを今はちょっと後悔している。中学校の教室でも、生徒たちがコンピューターに向かっていた。きっと、あの子たちはインターネットに利用することが多いに違いない。

 (4)バンコクのまち
帰りに半日を歩き回ったバンコクでは、意外にインターネットカフェが少ないのにおどろいた。6時間ほど歩いていて気づいたのは1カ所だけだった。地域の性格にもよるのだろうが、それは一般の家庭やオフィスにインターネットが普及していることを示すのだろうと思った。1軒岳みつけたところに入って、「ぼくのコンピューターにはつなげる?」ときいてみたが、「NO」とにべもない。

 つぎに出かけるときには、かならずAirMacを装備していこう、そしてもっと注意深く訊こうと、みずからに言い聞かせた。

投稿者 玉井一匡 : 09:45 AM | コメント (4) | トラックバック

November 04, 2004

ルアンパバン(Luang Prhabang):世界遺産のまち

LuangLibS.jpgClick to PopuP
朝:ルアンパバンの図書館と子供のいえを見る。佐賀の自治労が集めた資金で、古くからあった建物を図書館にしたものだ。小さいけれどきれいな施設をていねいに使っている。世界遺産のまちなので建物の改修にはさまざまな制約があって、窓を付け加えるのにも苦労をしたというけれど、そのおかげで古い建物がこわされず、きれいな図書館に変わったのだ。向かいの中学校から、休み時間に生徒たちがやって来て本を読んでいる。館長さんにたずねると、休み時間は20分だという。
 現在と前の館長さんに話をきいても人柄がよさそうだったから、石上からのメールを思い出した「もう10年もまえのことだが、フランス人の友人が、『ベトナム人より人柄がいいんだ』といっていました」と書いてあった。
ヴィエンチャンの「こどものいえ」では、こどもたちに会うことができなかったから、ここの子たちの学校のようすをのぞいてみたくなった。館長さんに許可をえて道路を渡り教室を見ていると、フランス人なのだろう、フランス語で地理とおぼしき科目の授業だった。

LuangprhabangPalaceS.jpgClick to PopuP まもなく、王宮は11時まででしまるというので、博物館、かつての王宮にむかった。昨夜は、あんなに道の両側を店が埋めていたのに朝には何もない。やはり、夜にはきれいに店をたたんで、また夕方になるときれいに店と商品を広げるのだ。
小国だったからでもあるんだろうが、王宮にしては建物が小さい。そのぶん庭園が広くて、周囲の自然と連続している。門の正面の高台には金色の仏塔があって、まちのどこからでも屋根のあいだにうつくしく輝いている。そこまで昇れば、このちいさなまちは空港さえ一望にすることができる。王宮を俯瞰すると、背後に流れるメコン、建物の落ち着いた色、おだやかなすまいは、権力を見せつけるところがすくない。中国が贈ったというビエンチャンの国立ホールの威圧感とは対極にあって、うつくしくここちよい。
メコンは、中国の雲南からの水路として中国が大いに期待しているのだが、途中に船が走りにくいところがあるとドンドン邪魔なものを爆破しているので、水の流れや生物相が変わっているそうだ。
大国というやつは、アメリカといい中国といい、ロシアといい、みんな無神経なものなのだろう。国家というシステムのいちばん上に乗っているのが皇帝から大統領や主席やもしかすると労働者に替わっても、大国としての他国に対する振舞いは一貫している。日本は、間違って大国のつもりにならないでもらいたいものだ。

tamtam 午後:王宮の近くのTAM TAMというカフェで昼食をとった。30センチほどのバゲットに鶏肉をはさんだサンドイッチそしてレモングラスティー、レモングラスを薄く切ったやつにお湯を注いだだけのものだが、なかなかうまい。
LPguesthouse 高い天井の古いカフェでしばらく涼んだあと、このあたりを探検に出発。メコンと支流が合流する地点なので、ふたつの川に囲まれて半島のような地形ができている。川に平行して3列ほど、道が等高線をなぞるようにして並んでいる。それらを結ぶ細い道は尾根と川べりを結ぶので坂道になる。それが、ゆるい勾配でゆるやかにまがっている。漁村の集落のような道の網ができている。
その道に、あたらしいレンガの舗装がなされ、足下を照らす素焼きの照明が置かれていた。裏道を、こんなふうに気持ちよくつくろうという視点を持つことができるのはとてもすてきなことだ。こんな道路の整備をする経済的な余裕はルアンパバンにはとてもなさそうだが、UNICEFからの補助でもあるんだろうか。そういう道のところどころに、寺院や学校、みせやカフェ、それにguest houseという民宿が編み込まれている。みんなどれも、木造の平屋か2階建てのたてものだから空が広い、足もとには背の低い植物がレンガのみちにこぼれ、見上げれば高いヤシの木が大きな実をつけている。

LBlight ここでは王室の菩提寺さえ、やはり小じんまりとして品がいい。ウロコ瓦葺きの屋根の下には天井が張ってないから、見上げると屋根の下地が見える。3カ所ほど、瓦がなくなっていて、その穴から数条の束になった光が室内を照らしている。穴の下の床を見たが、さして傷んではいない。外に出てそこを見ると、外した瓦のかわりにちゃんとガラスが差し込まれていた。
LPstoopa この建物の前に建てられている仏塔の、たおやかなかたちもプロポーションが美しい。
ヴィエンチャンをあるいている時には、バンコクとどう違うだろうかと考えていたが、この町を歩いてみると、世界遺産になったわけがぼくにも分かってきた。巨大な遺跡や豪華な埋葬品があるわけではない、しかしゆるやかに流れる南国らしい川、ヤシの木、みち、坂、民家、控えめな王宮や寺院、そしておだやかなひとびと。世界遺産になったおかげで、これからの乱開発が防げるにちがいない。またたく間に清里をばかばかしい漫画のような町に堕落させてしまったようなことは、ここでは起こらないですみそうだ。多くの人々がきてラオスを経済的にも豊かにしてほしいと思う。しかし、できるなら語尾上げ茶髪の日本人たちが群れるところにはならないでほしいものだ。

夕方7:00の飛行機に乗って、8:00ヴィエンチャンのホテルに戻った。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 PM | コメント (11) | トラックバック

November 03, 2004

ヴィエンチャンからルアンパバンへ

plane  ルアンパバンは、ビエンチャンの北隣にあって、世界遺産に指定されているうつくしいまちだときいたが、ぼくはまちの名さえ知らなかった。町なかでルアンパバン行きのバスの看板を見かけたから、あとになって、どれくらいでで行くんですかと吉川さんにきくと「7ドルくらいだったと思いますよ。1回だけバスで行ったことがあるけど、10時間くらいかかるし玉井さんが思うようなバスじゃないですよ。椅子は固いしすごく混んでるし、山の中で盗賊がでることがある。外国人が被害に会うとマスコミが伝えるけれど、地元だけだと全然伝わらないんです。」ぼくが何を考えているか分かったらしい。大丈夫、さすがにイラクの事件のあとだと、盗賊に遭うのもちょっとおもしろいなとはぼくも思えなくなっている。
今回は予定通り、ヴィエンチャンから双発の小さなプロペラ機に乗って40分ほどでルアンパバンに着いた。

ホテルについて一休みすると、外はすでに暗い。夕食をとりにレストランンい行くとテレビの前の席をとった。アメリカの大統領選挙の様子を流していた。空港にあったテレビを見たときにはブッシュの優勢を伝えていたが、まだ変わりそうにもないので、料理を前にしても一同なんとなく盛り上がらない。
 来る途中に長ーい露天の列があったのが気になっていたので、宿に戻る途中で寄ってみた。そこは、いまは博物館になっている旧王宮の建物へむかう道で、地面にじかに布を敷いて商品をならべた列が左右に、それも往復だから合計4本になる列が200mほども続いていて、平日というのに客もなかなか歩いていて活気がある。お祭りなのかと尋ねたがそういうわけではないらしい。
 山岳民族の、大部分は女のひとたちが、織物をきちんとたたんで、それもきれいに並べている。大変な手間をかけてつくり、これだけの競争相手の中から客に買ってもらい、帰りには商品をしまって、この道路をもとどおりにしてゆくのだとすれば、気の遠くなるような手間の数々を考えると、商品の豊かさ道のうつくしさを楽しんでばかりはいられない。あしたは、この道路がどうなっているのかを見に来ようと思った。

投稿者 玉井一匡 : 11:03 PM | コメント (0) | トラックバック

November 02, 2004

アジア子供のいえと図書館・ヴィエンチャン

otukai いま、ぼくはラオスの首都ヴィエンチャンのホテルのベッドで2日目の夜にiBookのキーボードを叩いている。自治労が資金を出して、ヴィエンチャンに多目的小ホールつきの図書館をつくるという計画のお手伝いのためだ。
 自治労は地方公務員の労働組合だが、自分たちの権利の獲得の組織にとどまらず、よりよいコミュニティをつくるための研究や活動をしてきた。そのなかに途上国のコミュニティ作りの支援があるが、そのひとつとして、これまで8年間にわたりラオス、カンボジア、ヴェトナムで「アジア子供のいえ」という施設つくりと運営を資金と人で支援してきた。というはなしをきいてからヴィエンチャンに来てしまうまで、さほどの時が経っていない。

たとえばヴィエンチャンの子供の家は、おそらくかつて住宅として作られた建物を借り、裏庭の一部に鉄板の波板でボールトの屋根をかけて、壁のない小さな体育館のような場所をつくった。
 家の中には小さな図書館がある。壁に鏡を張った部屋がある。民族楽器がある。ぼくがそこを見せてもらったときには、まだ学校が終わっていないから、こどもたちはいない。だが、そこに子供たちがやってきて活気にあふれたときの様子を思い浮かべることは難しいことではない。なぜなら、くりかえし読まれた本や使い込まれた楽器、床のモルタル、チークの寄せ木は、どれもがおだやかにつややかな光を反射しているから、そこで本を読み、楽器を鳴らし、丸屋根の下で踊るこどもたちの様子を思い描かせてくれるのだ。
 本棚には、ぼくの娘たちが小さかったころに読んでやった「はじめてのおつかい」などの日本の絵本が何冊もならんでいる。日本語の文章の上に、ラオ語の文字を書いた紙が貼ってある。自治労の人たちがラオ語に訳した文章を貼ったものだ。ラオ語の本は1年に5、60点ほどしか出版されないので、こういう本がこどもたちには貴重なのだ。

 先日、若井から電話が来た。「自治労がラオスで図書館を作ろうとしている。相談に乗ってほしいことがあるんだが、いま時間はあるか」という。いいよというと、すぐに自治労本部国際局局長の井ノ口さんといっしょに事務所に現れた。
 他の地方に、自治労の支援で独立した図書館を2つ作ったが、来年、ヴィエンチャンに図書館をつくる計画を進めている。ラオスでは多くの施設が設計施工でつくられるので、縁のある施工会社に頼んで基本設計と概算見積をしてもらったんだが、それをチェックしてくれないかというのだった。資料をあずかり、後日、関係者があつまった会議で、このままつくったのでは、せっかくの機会がもったいないからこちらから提案した方がいいということになった。
 そんなわけで、敷地などさまざまな環境を知ること、これまでに自治労の協力で作られた施設の様子を知ること、ラオス側の関係者に計画を説明して協力を求めることなどを目的に、ここまでぼくはやってきた。
 同行者は井ノ口さんともうひとり吉川健治さん。EFA(empowerment for all)の事務局長である。今回の図書館建設を機会に自治労の人たちによってこういう活動を支援するためにつくられたNPOである。彼は学生時代からインドシナ難民の支援のためにタイに渡り難民キャンプなどで活動した。その後、NGOであるSVA(sharanti Voluntier Association)でタイ、やラオスで活動しラオスにも6年間ほど住んでいたから、タイ語もラオ語も使える。

 子供の家を運営するのは、そのSVAである。所長の八木沢さんと川村さんの日本人スタッフが駐在して、ラオス人のスタッフとともに活動して長いから、二人ともすっかりここにとけ込んでいる。そのヴィエンチャン事務所には、やはり小さな図書室があって、こどもたちや若者がやってくる。移動図書館も走らせている。
  あちこちの施設を見たり活動する人や利用者たちや役所のひとたちの重層的で立体的な背景が、ぼくにも実感として分かって来た、ようやく。自治労を通じて日本からの資金や本などの支援をEFA-japanが担い、現地での運営をSVAがおこなうという役割についても把握できるようになった。

投稿者 玉井一匡 : 11:19 PM | コメント (4) | トラックバック