February 26, 2005

浴書


 トイレで本を読むのが好きだという人がいるが、ぼくはお風呂に入って本を読むのが好きだ。
 水と湿気のあるところに紙を持ち込めるようないい発明がなにかないかと思いつつ、長い間、同じやりかたを続けている。浴槽の中に身体を沈めて首だけを出し風呂のふたをする。正確に言えば、ふたの上にあごをのせて手をやはりふたの上に載せる。そうすればふたの上に載せた手で本を持ち、水と湿気から本をまもることができる。

 たまには居眠りをして手から本を滑らせて、一緒に入浴させることがある。そういうときは、すばやく救出すればページの端から1センチくらいしか濡れない。すぐに、水をバスタオルで拭き取ったあと新聞紙を持ってきて、1/4か1/8くらいに新聞紙を切って、それをすべてのページの間にはさんでゆく。もちろん、2枚はさんだ方が吸水する容量はふえるのだが、そうするとページ数が3倍になるわけだから本には無理な状態を強いることになるので、はさむのは1枚ずつがいい。つぎに、本の上に辞書などの重しをのせて押さえておく。翌日に開いてみれば、紙はよれよれになることはない。
 こういう読書は、本を大切にしないといわれるのか、それとも本を愛してると言えるのか、自分でもわからない。紀伊国屋が、本の川柳のコンテストをやったことがあった。ぼくは5つほど送ったが、何の音沙汰もなかった。
・さらし首を思い浮かべつつ・・・・・・・・・湯の蓋に 首と手の載る 読書かな

投稿者 玉井一匡 : 08:00 AM | コメント (11) | トラックバック

February 22, 2005

早稲田商店街の火事

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 かつて「座り続けるおばさん」というエントリーを書いたのだが、いつだったかと探してみると2004年1月25日、ほぼ1年まえのことだった。毎日毎日、寒い雨の日さえ傘をさしてビールケースに腰をかけ、日がな一日座り続けていたおばあちゃんが、しばらく前から姿を見せなくなっていた。なんでそんなことを続けるのか、いずれ話を聞きたいと思っていたのにいつの間にか見なくなったから、ぼくはしばらくこの道を走らなくなった。

 おばあちゃんの家の向かいに、左官や金属板張りの古いファサードの残された4軒の商店が並んでいて、わずかな距離だが古い町並みがあったのだが、数日前に前を通りがかると、そのうちの3軒の2階が、火事で焼けていた。焼ける前の写真を「座り続けるおばさん」のエントリーに添えてあったのを思い出してそれを見ると、ファサードには鉄板の切り文字で「戸塚軒」「西洋(支那)御料理」「喫茶 アイスクリーム」と書かれている。「支那」の文字は、切り文字がはがれて跡だけが残されている。とれてしまったのか、「支那」という表記をきらって外したのか知りたいところだったが、そんなものたちがあとかたもない。
 Click to pop up. 焼け残った様子からは、この1軒がはじめに焼けて、それが両隣に移ったようだ。もう修復することはありえないんだと思うと、なんともやりきれない。きっと、遠からず解体されてしまうのだろう。自分の写真を撮られるのをいやがっていたおばあちゃんのために、かつては場所を書かなかったのだが、そうしているうちにおばあちゃんがいなくなり、建物もなくなってしまう。写真をみれば、うしろには太陽を独り占めしようというように高層のマンションがそびえているのが見える。
 ところは新宿区早稲田1丁目、新目白通りの都電の終点「早稲田駅」の前にある信号の角を早大の反対側に入り、神田川の橋を渡るとすぐ左側。

投稿者 玉井一匡 : 09:11 AM | コメント (2) | トラックバック

February 21, 2005

小唄と舞台


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 小唄の演奏会があるんだが、おれはちょっといけなくなったから行ってみないかと、石上から電話があった。石上の傾倒しているひとも出るらしい。こんなことでもないとなかなか行く機会もないから、茅場町の証券会館ホールに足をはこんだ。飯田橋からは東西線一本で行けてしまう。JASDAQなんていうのが主要なテナントであるビルの6階だかのワンフロアを占めている。扉をあけたらこぢんまりとして落ち着いたなかなかいいホールだが、舞台のつくりが意外な形式で、まずはそれに興味をそそられた。

 舞台には、横長の額縁のようなのがふたつ、横並びになっている。左で演奏しているが、右のもうひとつは幕が引いてある。客席にはあちらこちらに空きがあるのに座席の一番後ろに立っている人が数人。演奏が終わるまで待っているらしい。まだ目が暗さに慣れないうちに演奏が終わったので、ぼくはちょっと腰をおって通路を小走りに前に行くと、腰を下ろすか下ろさないかないかのうちにこんどは右側の幕がひらき、左は幕が閉じられた。かならず唄い手が左に三味線の奏者が右に座る。誰だろうなにをやるんだろうとプログラムと舞台を見比べれば、ふたつの「額縁」のあいだに演目と演奏者が書かれている。寄席のように誰かがめくりに来ただろうかと考えているうちに、もう右の演奏が終わって、また左が開いて右が閉じる。
 その変わり目を、よーく見ていたら演目の書かれた紙を張った板が、タテ軸を中心にくるりと回転すると、つぎの演目が現れる。ちょうどむかしの野球のスコアボードに、イニングの変わり目に「1」などと白く書いた板を回転させるのと同じような仕掛けなのだった。演奏者の入れ替わりも、これにおとらずすこぶる能率的なしくみができていて、片方で演奏されているうちに反対側の幕のかげには、つぎの演奏者が座って準備している。幕の隙間から人の移動が見えるのだ。そういう仕組みがわかって好奇心を納得させると、やれやれ、やっと唄に耳を傾けられるようになった。

 こう申し上げるのはちょっ憚られるが、男女の情をうたう小唄というものの色っぽさを美しい高音できく心地よさと、目に入ってくる演奏者のお年、それらの間のギャップがちょっと痛々しい気がすることが多く、ぼくは唄の冒頭をちょっと見て、あとは目をつぶって耳にゆだねるようになった。そのことをメールに書くと、おれはそのギャップをむしろ楽しむことにしていると、石上からの返信が来た。
 本来は、お座敷で膝を接して香りや空気やひとの気配までも感じながら小唄を聞いて、しかも「ギャップ」のない状況に昔の旦那衆はいたのだから、文化というものが今とはずいぶん様子の違うものであったわけだ。祈りの対象とされていたのと美術館のケースに収められた彫刻になりはてた仏像のようなものだ。
 床の間がそうであるように、舞台のフレームはひとつの結界をつくる。それは、観客席にすわるわれわれとは違う非日常の場所があるという約束事を表現しているのでもあり、別のせかいのもつ魔性をあの向こうの筺の中に閉じこめておくための仕組みでもあるのだ。舞台というものが元々そういうものであるうえに、ここではその舞台の上に二重に筺をふたつ並べている。それが、演奏を滞りなく進めるための仕掛けでもあるのだと気づくと、二重の入れ籠がまたおもしろく感じられる。なにしろ、この演奏会では12時から午後6時まで続けられて60組の人々が演ずるのだから、効率よく進めるということは、とても大切なことなのだ。

投稿者 玉井一匡 : 01:54 AM | コメント (2) | トラックバック

February 16, 2005

真綿のお供え餅と橙

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新潟に打ち合わせで行ったので、吉田さんのつくってくださった真綿の橙を親戚の家に届けた。母上には、前もってお知らせしてはいなかったから、いっそう喜んでくださった。一度はしまわれたお供え餅をもういちど床の間に出して、上に橙を載せた。上のお餅を持ち上げると、下に段ボールで台がつくられていた。本物の蜜柑をのせれば真綿はつぶれてしまわないようにという工夫である。くぼみに橙をおくとへこみのなかに落ち着いた。でも、写真を見るとへこんでいるぶん小さく見えて損をしているようだ。

 まゆの中にいる蚕のサナギが成虫になるときには、繭に孔をあけてでてゆく。生糸をつくるには、たった1本の糸でできている繭を解いてゆかなければならないから、孔をあけられた繭からは生糸をとることができない。生糸をつくるには中にサナギがいるまま繭を煮て糸を柔らかくするので、殺生をしなければならないのだ。
けれども、真綿は糸を引き出すわけではなく、繭をひらいてほぐし、それを紡いで糸にする。だから、サナギが成虫になって孔をあけたものでもつかえるのだ。そういう理由で殺生を嫌って真綿で織物をする人もいるのだそうだ。そんな話はみんな、ダイダイをうけとったときに吉田さんにうかがって、ぼくは初めて知ったのだった。真綿のダイダイを近くで見ると、もう一度真綿がまゆに戻ったようだ。くすんだ色が、昔の真綿のお供えもちとおなじように古びて感じられる。
 お供えを載せた漆塗りのお盆には信濃川の絵が描かれていた。昨年、コンクリートの万代橋が重要文化財になったが、それがまだ木造の橋で、このいえの家紋を帆につけた船が河口に浮かんでいる。古いお盆を見たら、こんな絵が描かれていたんで、お供えをのせることになさったのだという。
先日、うかがい忘れたことがあった。むかし、真綿のおそなえを年末になると毎年届けてくださったのは、どこのかただったのですかということだ。
 「道の向かいで古着屋をしていらした方でした。いまでは店をお移しになって、結婚式などの貸衣装をしていらっしゃいます。主人の父は内村鑑三から直接に教えを受けて、無教会派のキリスト教を新潟で最初に広めたひとでしたから、毎週の日曜日には自宅にみなさんがあつまって聖書を読む集まりをしていました。向かいの店の方も、そこにいらしていたので、そのかたが真綿のお供えをとどけてくださいました。べつに、どこかの地方の風習というわけではなかったようです。」
 「内村鑑三は、北越学園という、いまはなくなった学校の教頭として新潟にいらしたのですが、天皇の絵に最敬礼などする必要はないというようなことをおっしゃるものだから、校長先生と大げんかをされて学校をやめてしまいました。学校にいらした頃、近くの松林の中などで人を集めてキリストの話をしていらしたのですが、義父はその集まりに行ってとても感銘を受けたので、無教会派のキリスト教徒になったそうです。」

関連エントリー
真綿のお供え餅と大連
真綿の橙
真綿の橙-2:完成

投稿者 玉井一匡 : 10:02 PM | コメント (1) | トラックバック

February 10, 2005

くらら劇場の映写機

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 ギンレイホールの「映画ポスタースチール写真展」の終わった翌日、加藤さんから電話があった。明日、くららの映写機を取り外すそうだから、映写室を見に行きませんかというのだった。くららというのはギンレイホールの地下にある「大人の」映画館で、この館主は加藤さんではない。本当は、ここもギンレイホールにして、インディの映画なんぞを細々とでもいいからやるところにしたいというのが加藤さんの望みなのだが、なにさま施設が古いものだから館主がかわると、もうあらためて許可をとるのがむずかしい。名目上の館主は現在のままでいいから演しものをウチに任せてくれないかと話をもちかけたが、こういう映画館が少なくなってフィルム屋さんも苦労しているから、昔からのつきあいを考えるとこれをやめるわけにはいかないんだと言われたそうだ。
 毎日、この映画館のすぐそばにいながら、ぼくは一度も入ったことがなかったので、二つ返事で加藤さんにお願いして見学させていただいた。

 階段を下りてゆくと、突き当たって左に切符売り場、「料金900円7時以降600円」とある。せんべいは、ひと袋100円だ。
「ご注意」と書かれた額には「つぎの行為を禁止しております」として3項目が書かれている中に「女装の方」とあるのをみて笑いがこみ上げる。ちなみに、他のふたつは「猥褻な行為をしている方」と「他のお客様にご迷惑をおかけする方」だ。
切符売り場の向かいにある客室への入り口を入ると、そこはスクリーンの脇なので、いきなり観客たちに正面から向かい合うことになる、意外なレイアウトにおやと思う。でも、上映中はきっと観客の顔はみえないんだろう。
暗い、古い、しかし観客も映画もないのに、とても魅力的な空間だ。
工事中なので灯りがついているにもかかわらずそれでも暗いから、そこここに反射したささやかな光がとてもたいせつなもののように感じられる。映画館は光を貴重なものに感じさせる仕掛けなのだ。
    奥には廊下を挟んでトイレの向かいに映写室があって、機械の解体の準備に余念がない。ここには2台の映写機がならんでいる。教訓の書かれたカレンダーや世界地図が壁にある。
 廊下には積み重ねられたフィルム。廊下のさらに奥は床が2mほど低くなっていて古い鋳物のボイラーが、かすかな光をうけて黒く光っている。
突き当たりのドアをぬけて階段を上ると、ビルの裏口に通じるはずだ。ニューヨークだったら命の危険を感じないではいられないようなこんなあやしい、しかし魅力的な空間が、日頃しごとをしている場所のすぐ下にあったことに、ぼくはちょっとした感動をおぼえた。

投稿者 玉井一匡 : 04:32 PM | コメント (0) | トラックバック

February 05, 2005

映画ポスター・スチール写真展:看板絵

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 映画ポスター写真展のいちばん奥に、看板絵のコーナーがある。大小およそ100枚が、板、コルクボード、あるいは菓子箱のフタなどに勢いのある筆で描かれている。すべて、銚子在住の斉藤さんが描かれたもので、大部分がこの展示会のために描かれた。

「銚子は漁師町だから、映画とパチンコがいちばんの娯楽でした。映画の全盛期には、人口3万人くらいのまちに映画館が10軒もあって、それがみんな繁盛していたので、1週間くらいで看板を書き替えるから大変な忙しさでした」
「今思えばもったいないけれど、それを残しておこうなんて思ったことはないんです。もちろん2本立てがふつうだったけれど、なかには10本立てなんていうのもあったんだから、大変ですよ」
「ここにあるのは、看板そのものじゃなくて、大部分はこの展示会のために新しく描いたものです」
Mrsaito.jpg「ポスターのままのデザインで描くわけじゃなくて、構図はじぶんで勝手に描いちゃいました。とにかく、似ているってことが大事なんです。近くから見ると似ていなくても遠くから見て似ていればいいんです」
「マリリン・モンローは、かわいかったですね。情婦マノンをやったこのひともかわいかった。逆さになって男の肩に掛けられて行くラストシーンは、当時は衝撃的だったんですよ。私は5,6才くらいだったけれど、ませてたから洋服の上から胸がうっすらと見えた。このころの人たちのようにきれいな人は、今はいないです」

投稿者 玉井一匡 : 05:07 PM | コメント (2) | トラックバック

February 04, 2005

映画ポスター・スチール写真展:アーク灯の映写機

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 なかのZEROの廊下で、前日に函館からワンボックスを連れて大洗にフェリーで到着していた移動映画館の西崎さんとすれちがった。
初めて会ったというのに、こちらは以前から写真を見ているので顔はわかるので、つい「こんにちは」と挨拶をしてしまった。
すると、西崎さんの方もずっと昔からの知り合いのように、うれしそうに「こんにちは」と返してくれた。 
西崎さんの映写機を見ると、熱を逃がすための煙突がついて、さながら「ハウルの動く城」みたいなようすをしているから、これはなんですかどう使うんですかと、西崎さんが組み立てている最中なのに機械について聞きたいことがいっぱいある。ちょっと質問をすると、西崎さんの胸の中にも伝えたいことがいっぱいにあるものだから、次から次へと気持ちをつれてことばが溢れ出てきてとどまるところを知らない。
いかにも映画への愛情がほとばしるのを抑えきれないという様子だ。

 映写機のうしろ半分を占める蒸気機関車の胴体のような部分のふたを開けて、仕掛けを説明する。
銅で包まれた炭素棒を2本近づけて、その間に50~70ボルトの低い電圧をかけて放電させる。それが放つ光で映画を映すのだ。炭素は、徐々に焼けて短くなってゆくので、のぞき窓を見ながら手動で2本の棒の距離がはなれすぎないように調節するのだ。1本が、およそ2時間保つ。ギンレイでも、15年くらいまでは炭素棒を使っていたがその後クセノン電球を使えるように映写機を改造した。その映写機もすでに次代にゆずって、ここに展示されている。
 西崎さんは映写機を1台で映写するから、フィルムの1巻が終わっても他の映写機に取り替えるということができない。だから、映写しながらフィルムをつながなければならない。残り少なくなったフィルの終わりの方をリールからはずして、つぎの1巻の頭を貼り合わせるのだ。前に進んでゆくフィルムがなくなる前につぎのフィルムの準備をおえなければならない。その時間をかせぐために、のこりのフィルムを床の上に広げておく。それが写し終わる前につぎの1巻を前のフィルムに貼り合わせリールを映写機に取り付ける。なんという大変な作業だ。

 北海道は広いから毎日いえに帰るわけにはゆかない。一切の機械と道具を積んだワンボックスの中で泊まるけれど、機械がいっぱいのせてあるし、そばで眠る方がずっと安心なんだと言う。どれもこれも大変な苦労だろうが、それでも映画の話をする西崎さんの顔は、とにかくうれしそうだ。
現役のこの映写機はこれ一台だけ、だから使っているのは西崎さんただひとり、「炭素棒は、私の持っているものしかない。あと10年ぶんは保つよ」と笑った。
10年後、西崎さんは87才になる。
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投稿者 玉井一匡 : 12:31 AM | コメント (0) | トラックバック

February 02, 2005

真綿の橙-2:完成

 吉田さんから、真綿の橙ができたというメールが届いた。早いほうがよければ郵送しましょうかと書かれていたけれど、カフェ杏奴をすてきなことの起こる場所にしたいから、ブツの受け渡しはカフェ杏奴でしようということにした。
 「真綿の橙」のエントリーに書いたように、ぼくが吉田さんに送ったメールには「作り方を相談したいのだけれど、もし興味があるようだったら注文します。」と書いた。
吉田さんが材料を探してみたら、資料としてとっておいた真綿がすこしあるし、染料もスオウの赤とヤマモモの黄色が出ている。じゃあやってみようかと思ってくれた。しかし、もともと染色と織りをしているけれど、こんなモノをつくったのは始めてだし、真綿を染めたこともなかったそうだが、おかげでたいへんな苦労もかけてしまったが、おもしろそうだとも思ってもらえたらしい。

  できあがった橙は実物のような鮮やかな色ではない。けれども、内側からじんわりと色がにじみ出しているようだ。たとえば柑橘類の実をひと月ほども乾燥した部屋の中においていたら、表面の皮が乾いてこちこちに固くなる。そういうやつを念のためにと思って包丁でまっぷたつに切ると、皮はとても薄くなって、中には水気がたっぷりでむしろ甘みを増した実がつまっている。表が乾いて堅くなったのは、内にある甘さとみずみずしさを護るためなのだと気づく。これは、割ってみなくてもそういうやつだということがわかる橙のようだ。

*真綿の橙のレシピ
(植物の写真はすべてBotanical Gardenによる)
材料
・実の材料:真綿、スオウ、ヤマモモ、アルミ媒染
  
・葉の材料:ヤマモモの枝、経糸(クサギ染)緑の緯糸(藍とカリヤス染)
    
・実の芯材:針金
調理法
 という具合にならべると、とてもすいすいとできちゃったように見えて、話に聞いた大変さがちっとも感じられないけれど、さまざまな試行錯誤がなされたそうだ。
 真綿を染めて乾かしてからその芯を真綿で包もうとしたが、ちいさなかたまりになってしまってちっともまとまらない。→針金で球形の芯をつくる。→もう一度染め直して、まだ乾かないうちにひろげて芯をくるむ。→やっと橙の本体ができる
 なんと葉っぱまでわざわざ織ったものなのだ。:ちょうど機に、クサギ(臭木)で染めた経(たていと)がかかっていたから→それに藍とカリヤス(刈安)で染めた緑の緯(よこいと)を通して織ったというものなのだ。こう書いているだけだって大変なことだ。

 この橙の作り方を聞いただけで、ぼくはたくさんの新しいことを知った。スオウの花やヤマモモの木と実は知っていたが、延喜式の時代から連綿と使われている染料なのだということはまったく知らない。しかも、樹皮を使う。クサギもカリヤスとなると、植物さえ知らない。
 繭は、蚕がはき出した1本の糸でつくられているから蛹ごとそれを煮て、柔らかくしたものをほどいて一本の糸を取り出すというのも知らなかった。そうやって取り出したひとつの繭の糸の長さは1500mもあるんだが、出荷できない繭でつくったのが真綿なのだ。できそこなった繭や、蛹が羽化して破った繭などを煮て、それをほぐしてつくる。真綿を撚った太く不揃いな糸を緯にして、自家用につくったのが紬だということも、知っている人からすれば当たり前のことなんだろうが、ぼくはとても感心してしまった。

新潟に持って行くまでのあいだ、真綿の橙はカフェ杏奴に置いて、みんなに見てもらうことにした。

関連エントリー
真綿のお供え餅と大連
真綿の橙
真綿のお供え餅と橙

投稿者 玉井一匡 : 11:04 PM | コメント (4) | トラックバック

February 01, 2005

映画ポスター・スチール写真展

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 昨年の12月、ギンレイホールで数年前まで使われていた映写機が、トラックに積まれて成田に運ばれた。これが現役の当時は、映写室には2台の映写機が並んでいて、1台が動いているあいだ、もう一台はつぎのフィルムをかけたまま待機していて、1巻が終わると瞬時につぎの機械に交代したのだ。それと気づかせずに取り替えてみせるのが映写技師の腕の見せどころだったのだろう。 現在では映写機の出す熱がすっかり少なくなったし、フィルムが長くなって1巻が1本になったので、映写機は1台だけですむようになった。この古い機械は、ギンレイホールの上、4階の事務所に置かれていたのだった。この日、いかにも映画の職人という雰囲気を漂わせた人物が現れた。いまでは残り少なくなったという、この映写機をいじれる技術者のひとりなのだ。

彼が分解した映写機を、エレベーターのない古いビルの4階から大の男が3人がかりで階段を下ろし、厚い無垢のタガヤサンの台に乗せた。こともなげにもう一度組み立てて名人が去ったあと、ギンレイの社員があつまってトラックに踏み込んだ。
 これは一旦成田に運ばれたあと、ギンレイホールの開業30周年を記念して開かれる「映画ポスター、スチール写真展」に展示するために、会場の「なかのZERO」に戻ってくる。
 ギンレイホールのオーナーである加藤さんが、このところかかりっきりになっているこの催しは、会員のための映画会をひらきたいというところから始まった。それに加えて、これまでに上映した映画のポスターとスティル写真の展示会もいっしょにやろうということになった。あちらこちらと会場を探した結果、収容人数と施設の利用料金、交通の条件などから、中野駅の近くの中野ゼロホールとそれに隣接する中野文化センターの美術ホールを借りることになった。

 加藤さんというひとは、やり始めると次から次へとひろがって深みにはまっていく。にもかかわらず、赤字に苦しんでいたこの名画座を引き継いでからギンレイ・シネパスポートという会員制のシステムを発明して改装も重ね、いまではすこぶる順調な状態に立て直すという商才の持ち主でもある。もともと映画には素人だから、わたしは映画には口をださないと言って、演しものの選択は支配人の潮見陽子さんにまかせている。ポスター展のポスターは、1990年以前の作品からポスター500スチール写真500枚を潮見さんが数百点を選びまとめた。
 そういえば、かつて僕はスチール写真というのはなにか鉄と関係があるんだと思っていた。あとになって、動く映画に対して動かない(still)写真という意味らしいと気づいた。気づかなかったのがお馬鹿さんだったのか、あとになってからでも気づいたのはお利口さんなのかわからないが。

 「ちょっとうちの事務所に来られますか」という電話がきたので、階段を4階まで駆け上がってゆくと、会議室の壁の一面にびっしりと、合板に描かれた映画看板が掛かっている。加藤さんはちょっと得意そうににこにこしている。「銚子に、こういうのを描く人がいるんで会ってきたんですよ。」
ちょっとどぎつい黄色や赤の色と荒い筆づかいのために、オードリー・ヘプバーンの表情さえ近くで見ると演歌調を帯びているけれど、シネコンの映画館のこぎれいなデジタルの世界より、むしろこの方が古い名画座には似合っている。青梅には、まちのあちらこちらに古い映画の看板があって、町おこしの一端を担っているという様子も、加藤さんは見てきた。青梅の写真もこれと一緒に並ぶことになった。

 こんなぐあいに、時がたつとともに加藤さんは「これもやろうと思うんだけど、どうだろう」といいながら、すこしずつ企画を加えていった。ポスターをデジタルカメラで撮って、プロジェクターで映そうかなと言っているうちに、キャノンのデジタルEOSを買い込み、三菱のDLPのプロジェクターも用意してしまった。サウンドトラックといっしょに、ポスターとスティル写真のスライドショーが加わった。

 同じ部屋で、「旅先が映画館」というビデオを見せていただいたことがあった。函館に住む西崎春男さんという人が、ワンボックスに映写機を積んで北海道中を走り回って、学校の体育館などで映画会をしているのを記録したドキュメンタリーだった。「あのビデオも上映しようと思っているんですよ」と聞いてからしばらくたつと「あのおじさんを車ごと呼んで実演してもらおうと思うんですよ」と言うから、「それができたら最高ですね」とぼくは言っていたが、週末には加藤さんは函館に渡った。数日後に会ったときには、2月2日にクルマごと大洗までフェリーで来てくれることになったという。西崎さんの映写機は、カーボンの棒で発光させて写すというもので、今ではこれを使っている人は他にはいないらしい。

fromstairs.jpg こんな具合に振り返ってみると、映写機、看板絵師、移動映画館主、それに支配人の職人気質の展示会でもある。それを動かしている加藤さんにも、商売気よりは職人気質がまさっている。 先週、もう開催まで1週間に迫った夜に、広報を請け負う会社の担当者がギンレイの事務所に来た。「これだけの企画がありながら、今から数日間でメディアに伝えるのは、限られた範囲にしかできません。もったいないなあ」と彼女は残念がった。「はじめは、こんなつもりじゃあなかったんだから、しょうがないんです。それは、分かっていますからやれるだけのことをやっていただければ結構。」と、加藤さんは割り切っている。そういうぼくも、この話をずっと相談をうけながら、いままでblogに書いていない。もう明後日が搬入になってしまった。
4,5,6日に中野ZERO、美術ギャラリーで開かれる。入場無料。

投稿者 玉井一匡 : 06:51 PM | コメント (8) | トラックバック