October 31, 2005

杉本博司展 をまだ見ていないのに


このひと知ってる? すごいから行ってみて。きっと大好きになるよ、と娘がチラシをよこした。六本木ヒルズ森美術館の「杉本博司:時間の終わり」だった。おもての写真は、装飾的だが禁欲的な空間、客席に誰もいない奥行きの浅いステージ。モノクロの写真は、布の襞に縁取られた奥にある白い面が柔かな微小な光の粒を放ちあたりをひたしている。「言っちゃうとおもしろくないかもしれないけど」といいながら「映画館のうしろの方にカメラを置いて、一本の映画のはじめから終わりまでシャッターを開きっぱなしにして撮ったんだって」と言っちゃっている。
一枚の写真に映画一本分の映像と時間が残されている。シャッターを開け続けて動きを撮るのはよくあることだが、開き続けることで、これは逆に動きを消してしまい、時間を撮ったのだ。たしかに、なんと形容すればいいのかむずかしいが、とりあえず「すごい」としか思いつかない。

かつて、映画館には上映中の映画のシーンのモノクロの写真が張ってあるコーナーがかならずあった。それらはスチール写真と呼ばれていた。子供の頃の語彙にはスチールという言葉は盗塁か、さもなければ鉄しかなかったから、スチール写真の意味が判らなかった。それが、動く映像にたいするSTILL(静止)映像なんだと気づいたのは、ずーっと大人になってからのことだ。映画の世界では動く映像があたりまえだから、動かない写真にはSTILLとつけなければならない。動く映像と静止画の間には、越えがたい深い溝と距離があったのだ。とりわけ映画の世界では、ふたつの画像の間には、身分の違いのようなものがあったにちがいない。杉本博司は、あえて動く画像の世界に踏み込んで、映画の一本分を1枚のスティル写真に閉じ込めて帰還した。これは英雄的な行為だ。
 この写真のほかにも、チラシの裏にはひどいピンぼけのコルビュジェのサヴォア邸やライトのグゲンハイム美術館の写真がある。これには何が秘められているのか、実物を見るまで説明は読むまいと思った。 ところが先日の「アースダイビング大会」の帰り、masaさんとふたりで遠回りの大江戸線に乗ると、彼は杉本博司展が開かれていることを知らなかったにもかかわらず、いつのまにか杉本の話になった。じつは、masaさんのblogの写真についてエントリーして「かすかな弱い光のもとで見ると、ものが光を反射しているのではなくて物体が光を放っているように感じられる」と書いたとき、ぼくは杉本の写真を思い浮かべていたのだから、ぼくにとっては偶然ではなかった。写真の歴史上初めての天才と言われているんだと、masaさんは杉本の確信犯的ピンぼけ写真の方法を熱く話してくれた。限りない空間と未来を映したのだ。

 スティル写真はシャッタの開く一瞬を切り取るから、つねに現在を記録する。したがって、何を写そうともスティル写真は常にモダンであらざるをえなかった。だが、現在が一番・未来はもっといいという進歩を信じてきたモダニズムに、杉本はこの写真で反旗を翻したのだ。すぐには効果が表れないかもしれない、けれども時とともに少しずつダメージを及ぼし致命傷を与えるボディブローだ。

 ぼくたちの身体はだれでも、それどころがあらゆる生物はすべて、数十億年にわたってとぎれることなく伝えられてきたDNAの記述に基づいてつくられて、いまこの時間この場所にいる。数十億年をずーっと遡る途中でどこかの個体がひとつ欠けていても、ぼくたちはいまここにいない。ひとめ見ただけではわからない、時間の痕跡の集積である杉本の写真は、数十億年の間の数知れない命の結果としてここにあるぼくたちの身体と同じではないか。モダン=現在とは、一枚の膜のような時間が自立しているのではなくて、幾重にも過去の累積された層に支えられて、それが一番上にあらわれているにすぎない。
  ぼくが、杉本博司展を見る前に、彼の本を読まないうちに、杉本のことを書いてしまうことにしたのは、見ることと書くことの時間上の順序を入れ替えようと考えたからだ。

 森美術館の最初の企画は、たしか「モダンてなに?」を副題にしたM0MA展だったが、ぼくはそれを見なかった。見たくなかった。森ビルのような大規模な再開発は、計画に取りかかった時と完成する時の間に、経済や生活のスタイルなどの様々な環境がすっかりかわってしまう。計画にとりかかったころのモダンは、それが完成する頃には、かれらの物差しでは時代遅れという寸法を読み取る。その矛盾を克服しようという、あるいは正当化しようという試みのひとつが、「モダンてなに?」であり杉本の「時間の終わり」の開催だったのではないか。
しかし、一筋縄ではいかないぞ。すでにそこにあるものを読み取ることを知らず、すでにあるものを破壊することでつくられた現在には何の意味も価値もないと杉本の写真は言っている。それを確認すべく、まずは「時間の終わり」のために「M」に行き、そのあとで「苔のむすまで」を読むことにしよう。

■関連エントリー
「時間の終わり」 に片目を閉じて/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 12:51 AM | コメント (13) | トラックバック

October 24, 2005

「アースダイバー」とアースダイビング大会

 アースダイバー/中沢新一/講談社 左図はアースダイビングマップ
 中沢新一が「アースダイバー」に持ち込んだ道具は、縄文海進期のEARTH DIVING MAPただひとつなのに、ぼくたちの東京の読み取り方をすっかり変えた。アースダイビング探検隊で、その思いを新たにしたのだが、出だしでぼくは躓いた。タクシーに置き忘れたデジカメの代わりを何にしようかとあれこれ悩んだ末に、kawaさんがblogに書いていたリコーCaplioGXのコストパフォーマンスに抗いがたく注文したのがギリギリで、届くのをまっているうちに集合地点の六本木バーガーインには間にあわずに、ノアビルから合流したのだった。アースダイビング大会の隊員は、原、、松、井、それに。ことごとくわれらの風景あるいは風土を形成する文字だ。力士の醜名ならずとも、日本人の姓は地と分ちがたく結びついている。

 歩いているとゆるやかな傾斜にはなかなか気づかないのに自転車では上り下りに敏感だ。ぼくの自転車通勤ルートは、川沿いの道には上り下りが少ないだろうと考えて、新井薬師から神楽坂までの妙正寺川から神田川にのほとりをなぞっている。できるだけ川のそばを走りたいと始めたが、気持ちよく走りやすいところを探しているうちに、ちょっと離れた高台の足元の道を走るようになった。その高台は南斜面だから緑が多いし、道から川までの平らな土地は、上流から川が運んだ土砂で作ったものだろうと思いながら走るのはきもちいい。縄文時代にはまだこのあたりは海の底だったという想像はたのしさを倍加した。そういう高台のひとつに林芙美子の住んだ家がある。

 探検隊は六本木から緩やかに坂を下り、狸穴をへて白井晟一のノアビルの前を通って東京タワーにのぼり、上空から東京の地形を確認。芝丸山古墳を見たあと、増上寺の大門をくぐって焼きトンの秋田屋に漂着した。縄文地図をみれば、自転車通勤のルートは海岸のおおきな形に添って平行に海底を走っているのだが、探検隊は東京湾に触手のようにのびている岬を上り下りしてあるいた。海と陸地がたがいに食い込むフィヨルドのさまを実感するには、自転車より徒歩がいい。それほどに細かく海と陸が入り組んでいる。いいかえれば、陸地と海の接する波打ち際は、今よりもはるかに長い。ぼくたちが海を好きなのは当たり前なんだ。  東京タワーの上から見下ろすと、高層ビルのおかげで地形はほとんどわからない。ただ、樹木の多いところがあると、あそこは何だろうかと気づく。その多くは、公園でなければ神社、寺、皇室の住まいのどれかだ。モダニズムは「いま」にしか価値を置かないから、古いものに未練を持たない。上から見れば緑があるばかりだが地図をたよりに行ってみると、思いのほか前方後円墳はちゃんと残っているものの、円形の頂は容赦なく平らに削られている。公園にするからといっても、平らである必要はあるまい。おい、元の地形に恨みでもあるのか。広大な土地に巨大な構築物をねじこんでいったアメリカ文化の荒っぽいところをコピーして、変化に満ち緑豊かなこの島に貼付けたのだ。 古墳とプリンスタワーホテルの礼拝堂とおぼしき建物のあいだに、立派な看板があった。「管理責任者東京プリンスホテルパークタワー支配人」なるものによってつくられているのをみてmasaさんと苦笑した。「土地の形質を変更すること」を禁ずるという。アメリカが、大量破壊兵器の所持を他国に禁ずるようなものだ。傷つけられた古墳と裸にされた由緒ある寺と名前だけの王子さま、そして形だけのチャペルでつくられる王国の樹立宣言。やはり、アースダイバーのように泥にまみれてつくらなければいい国はできない。
「アースダイバー」とは、アメリカインディアンの建国神話のひとつ、水の中に潜ってくわえてきたもので国をつくったカイツブリあるいはアビなのだという。中沢ダイバーは、もちろん東京タワーの展望台から地上にダイブしようというのではない。意味の海にのんびり浮かんでいるとみるや、クルリと身をひるがえしては水面を切り裂いて、つぎからつぎへと嘴にくわえて水面に飛び出し、波打ち際に獲物を並べてゆく。それらは、新しくつくられたものではなくむしろありふれたものや古くさいものでさえあるのに、ちょっと並べ方を変えただけで、すっかり意味を変える。
 すでにあるものを壊そうとはしない。ただ、すでにあるものの組み合わせを変え意味を変え価値を変えるのがアースダイバーのやりかた。「縄文海進」さえ、意味の海の底にすでにあったのを見つけてきたものだ。中沢ダイバーは、最後にはこともあろうに天皇制すらくわえて浮上してきた。それを「森、縄文、南方、女性」というカテゴリーに置くと、天皇制は女性天皇の誕生をもって近代天皇制に別れを告げ、グローバリズムに対抗するアジール(あらゆる権力のおよばない避難所)として天皇はこう宣言するのだという。「わたしたちの日本文明は、キノコのように粘菌のように、グローバル文明のつくりだすものを分解し、自然に戻してゆくことをめざしている、多少風変わりな文明です。そしてわたしはそういう国民の意思の象徴なのです」と。

投稿者 玉井一匡 : 01:33 AM | コメント (13) | トラックバック

October 22, 2005

ナイトホークス

 nighthhawks.jpg ナイトホークス/ マイクル・コナリー/古沢 嘉通/扶桑社

 漂泊のブロガーを見たら「エドワード・ホッパーの描く民家にちょっと似ていませんか?」なんてことがかいてあるので、おやと思ってしまった。ちょうどその日、ぼくは文庫本2冊の推理小説を読み終わったのだが、そのタイトルが「ナイトホークス」だったからだ。「Nighthawks」は、エドワード・ホッパーの中でも、ぼくたちにいちばん馴染み深い絵のタイトルで、人通りもなくなった深夜の街、バーのカウンターの向こう側に男と女がならびこちら側に男が一人腰掛けているやつだ。

 原作も同じタイトルなんだろうかと思って本の扉を見ると「THE BLACK ECHO」というのだった。そのままだってべつに悪いことはないと思うけれど、この絵が小道具として登場するのでナイトホークにしたかった気持ちはよくわかる。なにしろ主人公の名は愛称ハリー、正式にはヒエロニムスでファミリーネームはボッシュ、人間や社会の表層の奥にひそむものを表にださないではいられない画家ヒエロニムス・ボッシュと同じ名前を作者は主人公に与えたのだ。画家と同じように、そこまでしなくてもいいだろうにというくらいに真実を掘り出してゆく。NighthawksがあるのはThe Art Institute of Chicagoだが、小説の舞台はロサンジェルスだ。組織の中に収まりきれない刑事を主人公にするハードボイルドで作者のデビュー作だが評判がよくてシリーズになった。構成力、人間を描写する力、すっかり世界に取り込まれてしまった。推理小説は、さまざまな事象とそれらを結びつける因果関係を発見する過程を楽しむものだとぼくは思うが、その必然性を疑わせるところがない。重層するのに無駄な事象がほとんどない。ぼくは推理小説ファンのつもりなのに1992年に書かれたこの本をまだ知らなかったことがうれしい。シリーズの残りが、これから書くものも含めればまだたくさんあるのだから。

投稿者 玉井一匡 : 12:22 AM | コメント (2) | トラックバック

October 19, 2005

エッセンシャル タオ

 「エッセンシャル タオ」加島祥造著 講談社

 ぼくたちの住む島は、地球上のもっとも大きな大陸の東のはずれにある。船をはこぶ帆のように、魚をとらえる網のように膨らんで、いつも西から新たにやってくる風やものたちを受け止め、選別し加工して取り込んできた。
 そうやってとらえたものの中でも最も重要な獲物のひとつである漢字を手に入れると、それを自分たちのことばに利用する調理法を考えた。文章の文字の配列をそのままに日本語として読みくだす。表意文字を変化させて仮名という表音文字をつくりだす。漢字と仮名を混合させるという三つの方法だった。

 しかし、つい二世代ほど前までは当然のものだった漢籍の素養、つまり中国語の表記をそのまま日本語として読み替えるという能力は、もうわれわれの世代にはほとんど消滅して、その立場は英語に取って代わられ、それと一緒に漢籍によって伝えられた思想や文化も遠ざかった。
 ぼくたちには、老子の説く思想「道」を西欧文化が「TAO」と呼んでも、すでに違和感がないほどだ。この本は漢文の老子でなく、英訳された「老子」の81篇がそれぞれ加島氏の中に呼び起こしたものと、それに加えられる解説である。かつては中国から東に向かって日本に来た老子の思想が、逆に西に向かってアメリカ大陸に渡り、さらに海をこえて東から日本に届いたのだ。漢文を中国語という外国語として受けとるアメリカの大学で学んだ加島祥造氏がそれを運んだ。きわめてわかりやすく平易に書かれている。原文の読み下しと英訳をくらべると、日本人にとっても英語訳の方が分かりやすい。そして、英訳をもとにした、加島老子はさらにわかりやすい。加島氏には老子の著作がすでに数点あり、ポー、イェーツ、フォークナー、アガサ・クリスティなどの翻訳者でもある。
たとえば、冒頭の一編を、読下し、原文英語訳と比較すると興味深い。

「エッセンシャル タオ」はこう書かれている。

道(タオ)だといっても
それは本当のタオでもない
初めは名のない領域だったのだ
そこから出たものに、人間が名をつけたーー
天、地、そして万物
このように人間が名をつける以前の、根源の働きーー

玄の向こうにある玄、それを
かりにTaoー道ーと呼ぶのだ
入り口には衆妙の門が立っている
森羅万象のあらゆるもののくぐる門だ

 漢字を受け継いだ日本では老子の言葉を切り分けて、いまでは酒の銘柄や断片的な名言として生きているにすぎない。それにひきかえ中国から漢字のない西に向かった老子は、断片ではなく全体を受け取って、宇宙を包む大きな思想として受容した。スターウォーズの、善と悪は表裏一体であるとする考え方は、あきらかに老子の影響をうけている。ためしに「TAO,STAR WARS」とgoogleしてみたら、「The Tao of Star Wars」というサイトがはじめに出てくる。F.L.ライトは老子を引用して「壷の本質は、壷そのものにではなくその内側のからっぽにあるんだ」と、建築を語っている。といっても、ライトはかっこいい壷を作っているし、スターウォーズは戦いを続けるんだが。

 自然界のあらゆる生物は、徹底的に自然環境に合わせて生き方と身体の構造すら変化させてきた。にもかかわらず、人間だけが環境を作り替えあるいは破壊して自分の生活のやりかたに合うようにして、それをみずから文明と呼び人類の証しとしてして誇りにしてきた。このまま行けば、人間のありかたが環境もろともみずからを滅ぼすときが来る。
 「365日世界の旅」のエントリーに書いたことだが、かつてニュース23にゲストとして出演したビヨークに驚かされたことがある。「日本にはシントーという宗教があって、自然を神としているそうですね」と言ったのだ。いまでこそ自然を神とする宗教と先進技術を同時にもつのは少ないことかもしれない。しかし、かつて自然を神としたのは日本だけではなくて、大部分の人間が別々のところで同じものを畏敬の対象としていたに違いない。老子と仏教の根源にある「空」は、「自然」と同義語といってもいいくらい近い所にあって、その思想は古い時代にまで届く根を今も残しているはずだ。その層では、地表の分断や亀裂とはかかわりなく、宗教や文化以前の古い層がひろくつながっている。そこまで降りてゆけば、宗教は対立ではなく共生のための力になるだろう。
 
塚原がこの本を定年前の最後のしごとに選んだのはよかったなと思う。加島祥造氏は、「碁のうた碁のこころ」の表紙の水墨画を描いたひとでもある。

関連エントリー:駒ヶ根の桜

投稿者 玉井一匡 : 01:59 AM | コメント (7) | トラックバック

October 16, 2005

夕日と北朝鮮レストラン

 明日はバンコク経由で帰国だが、午前中に「ラオス子供の家」に行ったあとで、どこか行きたいところがあるかと尋ねられ、きのう話題に出た、メコンに沈む夕日を見たいとお願いした。星の王子さまは夕日が好きで、小さな星にいたときには椅子の位置を移動させながら何度も夕日を見たのだったが、ぼくも夕日がすきだ。水辺では水面に反射する光と空の色が刻々と変化する。新潟では海に日が沈むので夕日に向かって泳いでゆくと太陽にとけた海に浮かぶ気分になるけれど、ヴィエンチャンではメコンがまちの西側を流れるから大河に日が沈んでゆく。波がないだけ、水面に反射する太陽が長く見える。遠くから見ると流れていないように見える水も、そばに行くと渦を巻きながら早く動いている。大きな水の固まりが、音も立てずに移動している。いつの日か、メコンをカヌーで下りたいと思っていたが、そう簡単なことじゃなさそうだ。かつてタイを目指して川に飛び込んで、命をなくした人たちがたくさんいたというのだ。
今の季節には太陽は水面でなく対岸のかなたにしずんでゆくが、この日は低い空に雲があったのであと一息というところで雲に隠れた。じゃあ腹ごしらえに、近頃できたばかりの北朝鮮レストランに冷麺でも食べに行ってみないかと提案があった。

北朝鮮が外国に窓を開き外貨もかせぐために、まずはカンボジアとラオスに北朝鮮レストランというのを作ったというのだ。一も二もない、もちろんすぐに賛成した。店に着いたが、道路にむかって20mほどの間口が全面ガラス張りの店に、まだひとりも客がいない。ラオスと北朝鮮の旗が並べて描いてある看板には、ラオス・北朝鮮青年友好の家と書いてあるそうだが、英語ではKOREAN RESTAURANTとある。清潔感に満ちた店内の窓際に鉢植えのヤシが並び、タイトスカートにピンクのブラウスという制服の若いお嬢さんたちがやや硬い表情で奥の壁際に立っている。と思ったが、もしかすると堅いのはぼくたちのほうだったかもしれない。全面ガラスのファサードといい、なるほど「北朝鮮の窓」という風情だ。日が沈んですぐに移動、5分ほどで着くので、まだ6時にもならないからでもあるが、100席を越える店内に客は一組も一人もいない。なんだろうこれはと、わずかに緊張するのがうれしい。大きな写真入りのメニューには、冷麺が6ドル。普通の店なら麺が1ドル前後、空港の3階にできた食べ放題のレストランはビール飲み放題で5ドル弱なのだから、すこぶる高い価格設定をしている。だれを客に想定しているのだろう。

 ひと月前から始めたという韓国朝鮮語で、大胆にもメニューを見ながら吉川さんが注文する。学生時代から難民キャンプに行っていた人の行動力というものであろう、臆することがない。6人ほどいる若いお嬢さんたちは、雑談などはせずにきちんと立っている。容姿端麗にして賢こそうだ。「コーヒーのほうです」なんて馬鹿なことを言いそうにない。ビアラオの瓶を持ってきてくれたので、グラスを持とうとすると、テーブルに置いてというしぐさ。グラスのへりに瓶の先をすこし引っ掛けてグラスをかたむけ、ビールを注いだ。

 店の奥には、壁のむこうに折り返しの階段が4つもある。「2階は何をするんだろう?」なんていうことを話題に食べていたが、料理はうまい。国家の威信にかけて腕のいい料理人を連れてきたにちがいない。一同は、4つの階段の疑問が気になって仕方ない。しかし、これはあきらかに4軒のテナントのために作られた2階建てのビルなのだ。その戸境の壁を取り払ってひとつにしたから、ひとスパンごとに奥に階段がある。ぼくがそう説明しても、疑惑は払拭されないらしい。
そのうち、韓国人とおぼしき6人ほどの一行が来ると店の一部では言葉の障壁が取り払われたので、空気がにわかに和らいだ。この一行はフルコースを予約していたらしい。朝鮮人参酒や各種の料理が、すぐに運ばれた。

 一方の端にドラムセットとヤマハのキーボードと大型のディスプレーが並んでいる。あれで何をやるんだろうというのが、第二の疑問だった。八木沢さんは、踊りや歌は何時からやるのかと、英語でたずねると、あなたが歌いたいのかと聞かれているようだ。そうじゃないんだとあわてて手を振ったりしながらなんとか聞き出したところ、どうも8時かららしいという。 8時少し前になると、初めて男が登場してアンプをいじりだした。やがて、カラオケが鳴りはじめ、ウェイトレスだったお嬢さんたちのひとりがマイクを片手にして登場した。八代亜紀のような伸びのある美しい声。そうやって、次々にすべてのお嬢さんたちが歌い続けたが、いずれも甲乙つけがたい。韓国チームは、マイクを持っていっしょに歌う。やはり彼女たちはただ者ではなかった。美声美貌、しかし国営放送のアナウンサーのように怖いわけじゃないが毅然たる態度。一本気なサッカーチームの代表選手たちや「半島を出よ」の美しいエリート将校たちを思いだした。ベサメムーチョをうたうときは、思いなしかうれしそうで、若い娘らしさが見えた。ほかにはアリランしかぼくの知っている歌はないのに、知らない歌でも飽きさせることのないだけの力を持っていた。

 外に出ると、韓国人とおぼしき一行の車があった。同じ数字が四つ並ぶ大型のベンツと黒塗りのプレジデントだろうか、これもすこぶる切りのいいナンバーで、運転手が二人で立ち話をしていた。客もただものではないらしい。なにはともあれ、こうやって直接に接することで北朝鮮にたいする印象はおおいに変化した。図書館には小さいホールもつくるので、そこにこの人たちを呼んで演奏してもらったらどうですかと、川村さんをそそのかした。国家同士はともあれ、生身の人間がじかに接触するのは、とにかくいいことにちがいない。

投稿者 玉井一匡 : 02:49 AM | コメント (0) | トラックバック

October 15, 2005

道路からワープ

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 夕食を食べてホテルに戻り、散歩をする前にちょっとblogをみようなんて思い、kai-wai散策を開いて「白山のプチガウディ」を見た。それに刺激をうけて採集の意欲に燃えたのだろう、外に出るとまずはホテルの夜景を撮っておこうと思ったぼくは、距離をとるべく道路の向かい側に行ってデジカメの液晶画面をのぞいた。
・・・・と、突然ワープして、右の向こうずねをしたたかに打った。気がつけば道路面はぼくの腿の中間くらいの高さにある。側溝の蓋が取れているところを踏み外したのだ。出発地点から近かったのを不幸中の幸いと考えよう。

 水はないかとホテルの若者にいって泥だらけの靴とズボンを見せると洗車用の水道の蛇口に連れて行ってくれて、ビニールホースでざっと泥を落とした。幸い、黒っぽい泥だけで有機物のゴミはなかったらしく、すこしも臭くない。バスルームでズボンと靴下と靴をシャワーで洗ってパイプに引っ掛けた。やれやれ、散歩は取りやめにして部屋に戻り今夜は足の痛みを友にiBookを開こうと決めた。
 気がつけば、いつの間にか明かりを点けたままでベッドの上に眠っていた。シーツの上に点々と血痕がついてしまった。ごめんなさい。バンコクのホテルでは、部屋でインターネットにつなげられるアダプターが450バーツ/日だが、ここにはそれがない。ロビーのウィンドウズマシンは壊れている。部屋の電話からつなげればいいと、ホテルは言う。NGAのSVAヴィエンチャン事務所の空いているアクセスポイントがあるからそれを使っていいと言っていただいたので、ホテルから外線につなぐ「9」をあたまにつけてアクセスポイントの電話番号をいれれば、電話回線だが客室からつなげられた。プロバイダーの、海外のアクセスポイントを調べておけばよかったのか、とも思って調べると、海外ローミングサービスは40円/分くらいする。だとすれば、市内の電話代だけですむこのやりかたが得らしいと安心した。
 翌15日朝になって現場検証をしたら、写真のように、コンクリートのふたのある部分さえ草に覆われて見えず、穴の部分に草が伸びて隠している。これでは照明があったとしてもとても分からない。完璧な落とし穴だと、妙に納得した。

投稿者 玉井一匡 : 07:36 AM | コメント (7) | トラックバック

DAY INN HOTELの人なつこい犬

 
 デイイン ホテルのロビーと続く食堂に人なつっこい犬がいる。ときにドアの外にも出てゆく。日本で大流行りの長毛のミニチュアダックスのようでもあるが、それにしては足が長いから雑種なのだろう。客が階段を下りてくると、ゆっくりとそばにやってくる。愛想を振りまくわけでもなくえさをねだりもしない。すこぶる自然に客のかたわらにやってくるので頭をなでてやると、冬の日ざしのような穏やかなよろこびをあらわす。ほかの客にもひとしく挨拶に行くが必要以上になれなれしくしない。

 朝食は、ブッフェ形式ではない。パンとサラダ、もしくはおかゆの4種類の中から選ぶのだが、ぼくはチキンのおかゆをたのんだ。メニューの写真には、参鶏湯のように一羽分の鳥が胸を張っているが、まさか朝から鳥一羽じゃないだろうなと心配していたら、塩味のスープのおかゆにトリの胸肉の細切りが浮かび、水面下に卵の黄身が潜んでいた。迷った末に、ぼくは卵を崩さずにそのままにしておいたから、最後に半熟になった。
 大きなマグカップのコーヒーを飲みながら、ぼくは本を読みつつときどき彼を観察していた。大理石張りの床に長くなって寝ている様子は、南国でのタイルや石の床の心地よさを背中で語っている。客室の床はやはり人研ぎのタイルがはってある。ぼくは裸足がすきだから、ひんやりした床がことさらに気持ちいい。
 やがて、ひとり若い女の客の朝食がくると、彼女はパンをちぎってやった。もらえばよろこんで食べるが催促もせずガツガツ食べることもない。よその犬ながら珍しく思想のある犬に会って、ひとに伝えたくなったことがなんだかうれしい。ぼくは犬党だから、猫のことをエントリーする人を、これまでうらやましくながめていたのだ。

投稿者 玉井一匡 : 01:02 AM | コメント (6) | トラックバック

October 14, 2005

ラオスのソバ


 6:00にバンコクの空港に行って8:30に出発、10:30ころには宿についた。実施設計をするラオスの事務所との打ち合わせの前に昼飯。
「なにがあがりたいですか?」「なんでも好きだから、何でもどこでも」「ホテルが手っとり早いですが、現地の人たちのいく店とどちらがいいですか?」もちろん「現地の人たちの店です」
 ここの一番大きな、そしてたぶん最も高級なホテルに車だけ置いて道路をわたる。前回はこのホテルをとってくださったのだが、今回はこの近くのDAY INNというホテルにしていただいた。小さいけれど清潔で従業員もきもちいい。
このまえのそばはフーというのですが、ここのはちょっと麺が違うんです。モチモチしているんですよ」今では日本でもすっかり有名なベトナムフォーの発音は、ここではむしろ「フー」に近いという。どんぶりの上にはネギ、ウズラの卵、鶏肉、パクチ(コリアンダー)、油で揚げたニンニク、唐辛子が浮いて、麺はスープに潜んでみえない。ナンプラーをひとさじかけて、アルミ打ち出しのレンゲを左手に箸を右手に食べる。川村さんの奥さんに聞けば鶏ガラでとったスープなのだという。さっぱりしていてうまい。日本の「こだわり」のラーメンの、蘊蓄とよけいな手をかけすぎたスープに比べると、簡潔にしてさわやか。やや太めのそばは餅米でつくったんだろうか、たしかにモチモチである。量は少なめだし味は旨いから、スープまですっかり飲み干した。


打ち合わせで遅くなった。「もう遅いんで、夕食はホテルにしましょうか」といわれてそれもいいかと賛成する。大きいホテルに、こんどは車を停めるだけじゃない。ブッフェスタイルだが、ラオス料理からスモークサーンなどの西洋料理、寿司まであってデザートはケーキも果物もある。
何でも好きなぼくは、ブッフェでは少しずつ、大部分のものを食べてしまう。
ソバもあったから注文した。ガラスのケースの中に、4種類の麺とトッピングが6種類ほどある中から選んで注文生産である。麺は、いわゆるラーメンのような、小麦のやつにする。フーやモチモチは米で作った麵なのだ。トッピングには魚のボールを頼んだ。もやしとサヤインゲンは標準装備らしい。たのんだわけではないが、さっと湯に通してのせてくれる。さらに、自分で刻みネギと揚げた刻みニンニクとナンプラーをかけた。やはり、鳥のダシとおぼしきスープは飲み干してしまった。
ラオスの料理は、どれも野菜が豊富で油が少ない。タイほど辛くない。

投稿者 玉井一匡 : 06:59 AM | コメント (1) | トラックバック

October 13, 2005

実物googleマップ


 ぼくが子供のころ、電車に座るときには「くつを脱ぎなさい」というのが大切なこどものマナーのひとつだったような気がする。電車子供でも、電車そのものの好きな子は先頭の車両にいって、運転手のうしろから進行方向を見ていた。運転手の動作と運転席の計器のならびかたと線路の続く様子が見たかったのだ。今思えば、ぼくは運転席派よりも客席派に所属していたようだ。客席派は座席にうしろむきにひざまづいて外を見る。「くつを脱ぎなさい」は、隣にすわる客に汚れた靴があたらないようにしなさいということなのだった。マナーその2は「顔をださないように」だ。「電柱にぶつかって顔のなくなった人がいるのよ」という補足条項はおそろしい光景を想像させた。そういう格好をして座るのは子供っぽいぞと、すぐ思うようになってしまうし、小さいときには電車に乗る機会も少なかったから、後ろ向き乗車の機会はさほど多くなかったにちがいない。そして、ふだんとはまったく違う風景を見たり、目の前をすれ違う電車のスピードを実感したり、駅で止まると窓から熱い空気が入り込むのを知った。

 いや、空からの景色の話のつもりだったのだこれは。
おおよそは決まっていたものの急にラオスに行く日が具体化して、12日の11時発で成田を出発した。窓際の席を選んだけれど、隣の2人分の席には人が来ない。天気はいいし実物googleマップにはもってこいの条件が整った。googleマップと「東京の原地形」に「アースダイバー」の知識が加わったから、空からみる日本がさらに新鮮だ。あれはなんだろう、これはどこだろうと思い、インターネットにつなげられないもどかしさを隣の席に座らせて、アクリの板の窓にぴたりと額を押し付けて下を見ていた。せめて、地図がほしい。飛行機のディスプレイにはgoogleマップを写してほしい。
熱中しても、開かない窓から顔を出す心配はないし、となりの席は空いているから「ぼくも外をみたいな」なんてうらやましそうにする子供に「代わってあげるよ」なんて言わなくてもいい。
 そのうちに高度も上がり天候も変わり雲越しのgoogleマップになった。バンコクの空港が近づいて、ふたたび地上が見えてくる。1年前にひさしぶりにバンコクに来たら、高層ビルが林立してすっかり様相変わってしまった。空港のあたりの郊外も、かつては農業地帯だったところが住宅地やおそらく工場などに開発されている。
 河口にできた広い平地に直線的に水路を通し、農地は長い長方形の区画に分けられている。長方形の端に家が建ち背後に農地が長くのびる。そして水路をはさんで背中合わせに農地があり家ー道路ーそしてまた家とくりかえしている。それが、開発される前の農業地帯の構造なのだろう。
 その区画をまるごと住宅地として、ところどころ開発しているのだ。この写真の開発では写真に120戸ほどの住宅がある。短冊の長手方向に道路を2本はしらせ、それを間にしてふたつの住戸の区画が向き合う。少なくとも空から見れば、美しいし興味深い。美しいのは、屋根が土色の、おそらくはセメント瓦で揃えられているし、今のところは、緑のなかにその色がほどよくちりばめられているからだ。極端に細長いのもグランドデザインとしてはかっこ良く感じられる。中央には、遊水池かプールがある。日本の住宅開発とくらべれば、空からはきれいだ。僕が電車を思い出したのは、飛行機の窓から外を見たせいだけではなくて、細長い開発が電車を想像させたからかもしれない。
 とはいえ、地上を想像せずにはいられない。農地の所有形態はどうなっているんだろうか?排水の処理はこんな長くて勾配がとれるのか?これがいっぱいになったら交通渋滞はどーする?いまは雨水を吸収している農地がなくなったらどうなる?等々、疑問と心配はいろいろとわいてくる。いちど、地上から見に行きたい。しかし、写真がぼやけているのがもどかしい。

投稿者 玉井一匡 : 05:35 AM | コメント (2) | トラックバック

October 10, 2005

kai-wai散策と 微かな光

kaiwaisansaku.jpg click Image to jump to 「kai-wai散策」
「kai-wai散策」の写真がとてもいいなとずっと思っていたのだが、先日の「COFFEE こころ」で、いっそうにその思いを深めた。ここは自分の目で何度もみたことのある場所のはずだが、ぼくにはこんなふうに見えたことがない。
 かすかな弱い光のもとで見ると、ものが光を反射しているのではなくて物体が光を放っているように感じられることがある。月が光を反射しているにすぎないと知りながら、ぼくたちは月の光といい月明かりという。何でもいつでもそういうふうに感じられるわけではないけれど、kai-waiの写真にはよくあるのだ。「こころ」の写真は、とりわけそう感じられた。

 水琴窟がつくる音は、かすかでひそやかな音でありながら空間を満たすようにさえ感じられるのもおなじことなんだろう。光が少ないこと、音が小さいことが、むしろぼくたちの感覚を目覚めさせて、ちいさなものにも感じやすくなるのだ。写真のばあいには撮る人と、それを見るがわのぼくたちの感覚が磨かれる。
 masaさんの写真は、もうひとつのかすかなものに対してきめこまかくやさしい。kai-wai散策の共通テーマである、ほろびようとしてるものたち、大きな顔をしているやつらの狭間にひそやかにあるいはたくましく生きているものたちの、おだやかないのちと控えめな自己主張に対してだ。
もしも、まちにおだやかな光や音やいのちや息づかいを感じられるレイアがなくて、コンビニやヨドバシカメラやドンキホーテや自動販売機のようなものだらけになったら、ぼくたちをひどく鈍感にしてしまうだろう。
だからといって、かすかに残された自由を、息をひそめて大切にしなければならない世界には、けっしてしたくないが。

投稿者 玉井一匡 : 12:30 PM | コメント (5) | トラックバック

October 05, 2005

彼岸花1:両義的な偏屈


 自転車をとめて電柱に寄りかからせ、西武新宿線に沿って並ぶ彼岸花たちにカメラを向けた。ぼくはこいつらが大好きだ。第一線を退いた古い線路を地面に立て、スチールパイプを水平に通してつくった柵の足下、華やかに秋をたのしんでいる。秋分の日のころになると必ず花をつける律義者でもあるけれど、その数日前からするすると芽を伸ばしはじめるまでは、地上にいっさいの生命の兆候を見せない。ときに球根が集合となって盛り上がり地上に姿をあらわしてるが、ただそれだけだ。そのくせ冬のさなかには細くて長い葉を豊かに茂らせる偏屈ものでもある。最も日照の豊かな季節には葉をつけず、弱々しい冬の光に葉をつける好き好んでの非効率。
 こいつが顔を出すのは、田舎なら田んぼの道の脇、墓地の墓石のあいだ。そして、ここのように線路や道路沿い。ことごとく時間・空間・死生の、いずれも境界に花を開かせる。両義性を花群れにしたようなやつだ。それに加えて炎のような紅と線香花火の軌跡のように四方に散る花弁。これを劇的といわずしてなんと言おう。

田んぼの中を抜ける道の路肩は田と道の境、生産の地であり移動の地でもある。墓地はいうまでもない、死者と生者の棲む空間の接点。線路脇は道路でもない線路でもないところに、かつて線路だった鉄や枕木だった木材が立てられて線路でありながら柵でもあるゆるやかな境界をかたちづくる。
そして、開花する季節は夏と冬の中間。「暑さ寒さも彼岸まで」は、この時節が夏でもあり冬でもあると教えた。お彼岸には、三途の川の彼岸から懐かしい人たちが帰ってくるとき。生きる人と世を去った人たちとの共生のときなのだ。多くの植物が春に新芽や花をつけて生命の復活を思わせるのに、この季節に突然のように開く花。

 彼岸花は球根で増えてゆくが、何の手入れもせずに毎年花をつける。次々に隣に球根が増えてゆくとびっしりと固まって、中央は横にひろがることができないから上に盛り上がってくる。かつて凶作のときには、有毒な部分を取り去って球根を食べたという。それもまた生死の境を分けるという食べ物ではないか。しかも、毒を抜かなければ死への道を早めさえするから、二重に生死を分ける。ユリがうまいんだから、これも結構うまいのかもしれない。だとすれば、たくさんの彼岸花が咲く年は豊年のしあわせな秋だったわけだが、そのたびに昔の飢饉を思い出させるしるしでもあったろう。
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彼岸花3:窮屈な成長

投稿者 玉井一匡 : 03:06 AM | コメント (14) | トラックバック