March 30, 2006

馬スジ肉のシチュウ:桜を食べる


 iPhotoを見ていたら、サクラの季節だからなのか馬肉のシチュウの写真を見てお腹がすいて来た。もう、ひと月ほどがたってしまったが、2週間くらい天草に行っていたあとで生月をまわって夕海が帰って来たとき、手に提げた発泡スチロールの箱には、刺身とレバサシ、そしてスジ肉、いずれも馬肉が入っていた。天草からおみやげにいただいたのを友達に分けるんだと言っていたが、2日後の夜おそくに帰ると、スジ肉だけが冷蔵庫に残っていた。いたんでしまってはならじと、12時頃になっていたが僕は馬スジ肉のシチュウをつくりはじめた。スジ肉のような固いものを煮込んで柔らかくするのは圧力鍋の得意技だ。この日は、アーセナルとレアル・マドリードのサッカーのTV放送があったから、その間に煮ればいい。

 さっと肉を炒めて、きつね色に炒めたタマネギ、月桂樹、胡椒、酒などと一緒に圧力鍋にほうり込んで強火にする。蒸気を吹きはじめたら火を弱めて30分、その間に冷蔵庫をあると人参と大根のややひからびたやつ、ジャガイモは大きいのがひとつがあった。イモは、くずれないように皮のまま二つに切る。野菜は適当に時間をおいて加える。チキンコンソメ、水煮のトマト、牡蠣ソースなどを加えてしばらく煮込んでサッカーが終わる頃には完成。サッカーでは霜降り肉のように高価なマドリードが負けた。

御所浦町は、熊本県で唯一の離島の自治体だった。映画「もんしぇん」をつくるために、さまざまな方にお世話になったのだが、ことし町村合併で天草市となって町がなくなる。そこで、「閉町記念式典」をおこなうことになって夕海にその企画演出をする機会をくださり、監督をした草介に記録映像をつくらせてくださった。その帰りにおみやげとして馬肉をいただいてきたというのだ。そうか、と言って聞いていたが、ふと疑問が浮かんだ。
「天草のあとで生月(いきつき)にまわったんだろ、馬刺を持ち歩いたのか?」  天草は熊本県、生月は長崎県の平戸の脇にある島だ。ちなみに、ぼくは平戸の向かいの田平というところで生まれた。
「いや、車を貸してもらって生月まで行ったから、それを返しに天草に戻ってお土産をいただいちゃった」 御所浦町から、合併の準備のために天草本島にしばらく前にのりこんだ知人に車をお借りして、そのうえ帰りにはお土産までいただいてきたというわけだ。(ニュアンスとしては、「友達にクルマを借りてお土産までもらっちゃった」という感じなんだが) 市場原理なるものからすれば甚だしい逸脱だが、構想以来10年もかかって映画ができたのも、ひとえにそういう密度の濃い人間関係のおかげだ。
いまのぼくたちは、滅多に馬肉を食べないけれど、明治以前に肉をたべる機会は、きっと牛や豚よりも馬の方が多かっただろう。「桜なべ中江」のサイトには、桜という呼び方の諸説が書かれているが、馬を喰うようになった由来は、牛鍋を水増しするために使われたなんてことが書かれているばかりだ。建前はそうかもしれないが馬刺なんて、戦国時代の戦場ではきっと非常食だっただろうし、喰うもののない時代に食べないわけがないだろうなんて思いながらも、なんだか馬を喰うのはかわいそうな気がしてしまう。でも、シチュウはうまかった。

投稿者 玉井一匡 : 12:05 AM | コメント (11) | トラックバック

March 28, 2006

回遊美術館というこころみ

IkebukuroMontparnas.jpg
「洋館に綱が:刑部人アトリエ」のエントリーにChinchiko Papaがトラックバックをしてくださった。そこへ跳んでみると、行き先は「椎名町のみなさん、ありがとう」というエントリーだった。「以前に紹介した新池袋モンパルナス西口まちかど『回遊美術館』が、きょう最終日を迎える。」と書いてあるので、あわててこれをエントリーした。
chinchikopapalogは、毎日のように渾身のエントリーが続くのだが、それだけにちょっと目を離すと、しばらく学校を休んだあとに教室へいった子供のように、なんだか取り残されたような気がしてしまい、ついついChinchiko Papalogに寄りそこなってしまうものだから、ぼくはこの回遊美術館のエントリーを読んでいなかった。池袋西口の、かつて「池袋モンパルナス」と呼ばれ画家などが多く住み、立教大学を中心とする学生街といっしょに魅力的なまちができていたという。それを掘り起こしてみようという催しなのだ。こののChinchiko Papaのエントリーを見ると、いつものように密度が高い。しかも彼のブログが、この地域にあったものをいかに丁寧に掬い上げてきたかを示すように、自身のブログ内へのリンクがすこぶる多い。
回遊美術館というのは、独立した施設としての美術館ではなく、まちのなかの銀行、学校、美術館、画廊、カフェ、地下鉄のコンコースなどで一斉に美術展などの催しをやろうというこころみ、つまりモノでなくデキゴトなのだ。まちをみんな美術館にしてしまおうよというわけだ。

googleを探したら、「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」を開催しますというサイトがあった。この催しは立教大学や豊島区などが協力したイベント。Chinchiko Papaが椎名町のみなさんにありがとうとおっしゃるのは、豊島区の椎名町のひとたちが「池袋・椎名町・目白/アトリエ村散策マップ」というのをつくったが、そこには新宿区にある佐伯祐三や中村彝のアトリエなどがちゃんと掲載されていて、豊島区がなんてケチなことをいわずにそんな枠を踏み出しているからなのだ。それにひきかえ、新宿区の体たらくは自分の区のことさえ・・・・と言わずにいられない。「池袋モンパルナス」ということばは、今になってみるとちょっと気恥ずかしいが、それは大正から昭和にかけての日本の気分を伝えてくれる。トップライトのあるアトリエに小さな寝室がついている家をたくさんつくったというのだから、本気だったのだ。近頃のデザイナーズマンションというものが、デザイナーの住むマンションではなくデザイナーが設計したマンションを意味するのとはそもそも話が違う。

大きな箱モノをドカンとひとつだけつくるよりは、むしろ小さなものを点在させる方が、大きな影響をまちに及ぼすことができると僕は思う。そうすれば、点在するところを移動する間に、訪れたひとはまちと接し、まちに生活するひとと接することができる。
これまで日本では、モノが作られるときの経済効果ばかり考えて、作られたあとの使われ方・デキゴトはろくに考えてこなかったけれど、使う側からの行動がこうやってブログといっしょにひろがれば、面白いことになるかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 02:50 AM | コメント (4) | トラックバック

March 26, 2006

神田川沿いの桜


明治通りから江戸川橋までの神田川の両岸には桜が並ぶ。岸の側には建物があるので存分に枝を広げられないぶん、川のうえには精一杯に両側から枝を伸ばしている。関口芭蕉庵前の駒塚橋のたもとには白い桜が毎年のように一足早く花を咲かせる。少しずつ花を開きはじめた対岸から芭蕉庵を見ると、斜面のしだれ桜が満開に近い。
たまに雪が降ると町の景色が一変して、乱雑をきわめる街並さえ静けさにつつまれるように、さくらは、春にとって長続きのする雪景色のようにまちを変えてしまう。花が咲くと、それまではまだ息をひそめていた新しい季節があたりを満たす。神田川のこのあたりも、桜がはなをつけるこの季節にはすっかり景色が変わる。あすにもそうした時が来そうなこのごろは、川の石の上で亀が日差しをせっせと蓄えている。
「歴史の足跡」というサイトの「歴史を留める東京の風景」というところにある関口芭蕉庵と神田上水についての記述が、地図や広重の江戸百景の絵も添えて丁寧だ。

投稿者 玉井一匡 : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

March 24, 2006

洋館に綱が:刑部人アトリエ


 西武新宿線中井駅の近くには、高台の足下を、地形をなぞるようにしてゆるやかな曲線を描く道が走っている。ぼくは毎日のようにここを自転車で走るのだが、今朝、通り過ぎてから気づいたことがあって自転車を止めた。林芙美子記念館をすぎて2軒目のいえの、大谷石の擁壁に切り込んだ階段の下に、黒と黄色で立ち入り禁止を伝える綱が張ってある。奥に見える玄関ポーチに木の円柱が一対立っているのに目を凝らすと、その柱は螺旋状のリブでおおわれ、ポーチの上のファサードは滑らかな曲線を描き銅の笠木の緑青に縁取られている。

いつかはこうなると思ってはいたが、とうとう始まるのだろうか。南向きの傾斜地に緑濃い大きな区画の住宅がならんでいたこのあたりは、山手通りに近い所から徐々にかわってゆく。よく変わってゆくならいいけれど、区画は小さく、緑は少なく、崩された大谷石の壁の代わりにコンクリートの壁とシャッターが並んで、すっかり排他的で味気ない表情になってゆく。

林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館というエントリーにも書いたことだったが、記念館と、坂をはさんだ隣家、そのつぎのこの家と3軒のならぶ斜面は、とても心地よい道をつくりだす。2軒の洋館は住宅だから、外から見て想像をふくらませるよりしかたないのだが、なかにどんな空間があるのかを考えずにはいられない、時間と記憶をゆたかにたくわえている。上記のエントリーで、林邸の隣人とおっしゃる方にお話をうかがったことを書いた。「母が亡くなって相続税が発生すると私の家も維持できないだろうし、新宿区も今では買い上げるだけの金がない」と言われた。その方が刑部さんとおっしゃったが、林邸の隣の家は画家の刑部人(おさかべじん)の家だったのだと、いのうえさんに教えていただいたことがある。今回、立ち入り禁止の綱の張られた家には、かつて絵画教室の小さな看板がかけられていた。もしかすると、ここは刑部さんの身内のかたの住まいだったのだろうか。・・・・・そう書いたら、すぐに井上さんからメールをいただいた。それによれば、この家がまさしく刑部人の家で、「日本の洋館」(藤森 照信 著、増田 彰久 写真、講談社刊)の表紙の写真はこの家なんだと教えていただいた。だとすると、ぼくが2軒の住宅だと思っていたのは、いずれも刑部邸だったというわけだ。
中井-落合-目白と続くこの一帯には、かつて堤康次郎がつくった落合文化村があったことを、あきれるほど克明かつ愛情を込めてChinchiko Papalogに書かれているが、そこには佐伯祐三中村彝などの画家が住んでいたことも、さまざまな角度から記されている。「文化村」という名称を僕はあまり好きではないけれど、文人画人が住んでつくられた緑ゆたかな新しいまちは、金を操作するだけで巨万の富を築いたひとびとがあたりを見下ろす塔よりは、比較にならないほどいいまちだ。六本木ヒルズの塔をつくり、古くからのコミュニティをこわしたのと同じ「市場原理」が、このまちをさらに踏みにじってゆくのだ。

一目見ておきたいとお思いの方は、今のうちに刑部邸を見にいらしてください。西武新宿線中井駅のすぐ北側、林芙美子記念館もすぐとなり、季節の花がいつもきれいです。

投稿者 玉井一匡 : 02:52 PM | コメント (12) | トラックバック

March 19, 2006

アメリカの原罪

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 ワールド・ベースボール・クラシックでアメリカは、なりふりかまわず自分たちに優位な環境とルールをつくりながら2次予選で敗退した。この大会でのアメリカの振舞いはブッシュUSAそのままだった。審判の多くにアメリカ人を選んだ。反米意識が強く大リーガーを揃えた南米チームのならぶグループを避け、メキシコ、日本、韓国のグループを選んだ。そうやってさまざまなアメリカ優位の仕掛けをつくったが、そのことは、かえって相手チームをやる気にさせ、アメリカの選手たちはやる気をそがれていったようだ。
 日本とアメリカのゲームでの誤審に批判的だったニューヨークタイムズは、アメリカの敗退をどう書いているかが気になって、ニューヨークタイムズのサイトを見た。ここでさえ、この期に及んで未練たっぷりな記事を書いている。「もし、メキシコがビジターだったら、彼らがアメリカに2−1で勝っても韓国と一緒に準決勝に進んだのはアメリカだった」と。はじめは、これが何のことか僕には分からなかった。
二次リーグで勝ち負けが同じチームができた場合には、失点率という指標で比較することになっている。失点数をイニング数で割って、それに9を掛けるから、一試合あたりの失点数を示す。ピッチャーの防御率の計算の自責点をチームの失点でおきかえたものだ。日本は17イニング2/3で5失点、アメリカは17イニングで5失点だった。メキシコとの試合では後攻のメキシコが勝ったので、9回裏がなかったけれど、もしメキシコがビジター扱いで9回表の攻撃をしたら、アメリカは18イニングで5失点になるので、失点率が日本より少なくなっていたというのだ。ニューヨークタイムズさえ、もともとアメリカ有利の条件がつくられていたことを批判しない。
 しかし、かつてアメリカの野球は、外国人に対してむしろフェアだと、ぼくは思っていた。

 かつて王がハンク・アーロンのホームラン記録を更新したときに、球場の広さやピッチャーの力が違うということを問題にせず、アメリカは世界記録として評価した。もし、王の記録を台湾や韓国のバッターが破ったとしたら、日本の野球界は素直に評価することはしなかっただろう。野球だけではない。日本は滅多に難民を受け入れないが、アメリカは多くの移民を受け入れてきた。しかし、フェアなアメリカと世界中を自分の国のようにして干渉するアメリカは、実をいえば同じひとつの根から生じたものだとぼくは思う。

それは、国作りにまつわる原罪。アメリカは盗んだ土地の上に国を作ったという事実だ。土地の所有という概念すら持たなかった遊牧民を相手にして協約という一見したところ正当な手続きで、あとからやってきた連中が土地を取り上げた。この行為を正当化するには「本来、土地はだれにでも開放されている。自ら開拓すれば、そこは彼のものだ。」という論理をつくるしかないだろう。
 「だから・・・」というその先の結論で二つに分かれる。ひとつは、外国から来る者に対しては「自由にこの国においで」というフェアな態度として表れることが多いが、他方、アメリカが外に出てゆく時には「ほかの国も我々のようであるべきだ」と、未熟でローカルなルールを他者に押しつけ、ときに軍隊すら投入する。アメリカ国内で開かれはしたが、国際大会という外の場で行われたこの大会で、二つ目の振る舞い方をあらわにしたのだ。自分たちに合うように世界を書き換えるという、いつもながらのスタイル。

アメリカで一番のチームを、これまでワールドチャンピオンと呼んできた。この大会を真の世界一を決める大会だと位置づけたが、アメリカを一番にするために強いチームをつくることに力を注ぐよりも、アメリカ有利のルールをつくりあげようとした。にもかかわらず、それは失敗におわった。ブッシュUSAと同じく、アメリカ基準にすぎないものを世界基準と言いくるめようとしたが失敗、アメリカ嫌いの感情を参加国に残した。アメリカのグループからは日本が、もう一方のグループからはアメリカの大嫌いなキューバが決勝に進むことになった。ぼくは、アメリカが負けたことだけで満足だったが、日本が勝って大満足になった。

投稿者 玉井一匡 : 03:30 PM | コメント (1) | トラックバック

March 15, 2006

真夜中 学習院下でタヌキと


昨夜、といっても午前0時をとうに回った頃だから日付けは今日になっていたのだが、学習院の馬場の下を、自宅めざして自転車を走らせていた。この時間、この道はほとんどクルマも人通りもないし、街灯もないから自転車で走るには快適このうえない。道路の向こうよりに黒っぽい犬が座っている。丸顔をこちらに向けているのを目を凝らして見ると、犬ではない、タヌキだ。ぼくはすぐに自転車を停めて向かいのテニスコートのフェンスに立てかけると、バッグからカメラを取り出した。いつもは切ってあるストロボをセットするものもどかしく、慌てて振り返るともう道路にいない。しかし、格子の扉のむこうに座ってこちらを向いている。格子の間にカメラを入れてズームを目一杯の望遠にしてシャッターを押すと、一瞬ストロボの光がタヌキの瞳孔をオレンジ色にした。ディスプレイを見るとタヌキは入っていない。今度は、画素数を最大にしてもう一度。ディスプレイをみると、また映っていない。

 そのとき、うしろから車のヘッドライトが光った。ちらっと振り返ると、パトカーがやってきて停まった。またカメラを格子の間に入れて構えた。む。狸はいなくなっていた。夜中に、格子の間にカメラを入れている怪しい行為を棚に上げて「おい、お前たちが明るくするからだぞ」と、鬱憤を晴らそうとして振り返ると、パトカーもいなくなっていた。不満をぶつける相手も写真を撮る相手もいない。彼らもタヌキだったのか、またタヌキに会った奴が一人いるよと思ったのか、何も言わずにいなくなった。トリミングをできるように画素数を最大にしたけれど、そのときに広角にするべきだった。望遠にしたから、視界から外れてしまったのだ。液晶ディスプレイは真っ暗でなにも見えないが、ファインダーを見ればよかったのにと、あとになって数々の反省をした。タヌキに化かされたというのもかえっていいか、と思うことにしよう。自転車をまたいで時計を見ると、0:40だった。

 落合のマンションの計画地のあたりにはタヌキがいると、ひところ話題になったけれど、それがこのあたりにもやってきたのだろうか。それとも、このあたりは樹木が多いから、独立の生計を立てているのかもしれない。しかし、人間の生活環境すら壊されてゆく東京のようなまちにタヌキがいるということを自分の目で確認できたのは、とてもうれしいことだった。
 かえりがけ、あるクライアントを思い出した。彼は、夜中に伊豆の山中を車で走っているときにタヌキをはねた。車を降りて見てみると、すでに死んでいる。どうせ死んだのだからと、彼はなきがらを車に乗せてきた。家に帰ると、ご亭主が腕をふるって解体し、タヌキ汁をつくってくれと奥さんに料理を頼んで食べちゃったのだそうだ。タヌキを食おうと思う亭主も亭主だが、そんな要望に応えてタヌキ汁をつくる奥さんも人物だなと、その話を聞いて、ぼくはひどく感心した。後日、親しい獣医さんに話したら、タヌキには寄生虫がいるからあぶないんですよと心配していた。虫がいたとしても、そのときにはもう手遅れだったろうが今も家族そろって元気だ。
 今朝、道路の写真を取り直した。はじめは、格子戸の前の道路にちょこんと座っていた。そのすぐあとに、格子戸の下をくぐって中に入ると右手奥に座って、こちらを見ていたのでした。

追記 060317 / Chinchiko Papaと妾番長さんの書いてくださったコメントに関わることを追記しておこう。このあたりのような河岸段丘の地形を「バッケ」あるいは「ハケ」ということばがあって、それは縄文語あるいはアイヌ語(頭、突端)由来の言葉とされているんだと、chinchikopapalogに神田川流域に残った「バッケ」と、もうひとつ世代で異なる「バッケが原」の位置というエントリーで書かれていて、このことばは「お化け」につながると結ばれている。もし、タヌキが昔からこの辺りに住んでいたのだとすれば、そのことが「ばける」あるいは「ばかす」ということと、何かのつながりがあるのかもしれない。
chinchikopapalogにはもうひとつ、「ハケの下落合」というエントリーに、バッケについての詳しい記述がある。

投稿者 玉井一匡 : 12:00 PM | コメント (13) | トラックバック

March 12, 2006

路地 と 「路地の再生」

先日、わきたさんが東京にいらして佃を歩いたときのこと、ここはすばらしい路地があるんだというmasaさんにさそわれて、すでにみんなから遅れをとっていたのに屋根付きの路地に入っていった。kai-wai散策には、いつものように路地に潜んでいる魅力を呼びさます写真が記憶された。masaさんが書いているように、路地の向かいの超高層のマンションの足元に「路地の再生」という看板があった。それには、ほこらしげにこう書かれている。
「この街に古くから残る風情豊かな路地空間。その空間を未来に残すため敷地内に四本の路地を再生しました。
道草の路地  雨上がりの路地 渡しの路地 雑木林の路地
当マンションは環境共生住宅の認定を受けています。」
これを路地といっていいのか、プリンスタワーホテルの立て札と同じじゃないか、という憤りに近いmasaさんの思いはぼくもおなじだ。しかし、ぼくには純粋な腹立たしさに浸りきることができない。板張りの歩道、いずれは豊かになるであろう植物、水辺の歩道など、それなりに考えてつくられているのはたしかなのだ。再生路地の前にたって看板を見ていたぼくが、やれやれという表情でmasaさんと顔を見合わせたあとで、「もし、おれが頼まれても、こんなふうにいろいろと考えるかもしれないけどね」と言ったのもあながち冗談ではなかった。インターネットで調べると、ここには1万数千本の樹木が植えられ、地元から感謝状を受けたと書かれている。
それでも、しかし、とぼくは思う。

 路地には家の中から光がこぼれる。話し声が聞こえる。何かをつくる機械が音をたてる。いえといえの間にある路地は、両側に住むひとたちの場所、そこを通りがかる人のものだ。
ところが超高層マンションの足元の再生路地と家々のあいだには、ホテルのロビーのような玄関ホールがあって、路地を通る人とのあいだを遮る。再生路地とマンションの入り口は不連続なのだ。かつてあった路地は、決して再生されていない。高層マンションは排他性にもとづいてつくられている。住人以外を排除する。人間の動線もエネルギーの供給ルートも集中するから、それは犯罪のための好条件をつくる。それを防ぐには、超高層マンションでは他者を排除せざるをえないのだ。超高層ビルは地上に谷間をつくるだけではなくコミュニティを分断する。環境共生というが長屋とは、けっして共生などしていない。それとも、まわりのまちは環境ではないというのだろうか。問題は高層であること自体にあるのだ。
地震で電気が止まれば水もなくエレベータも止まり、上り下りもできなくなる。ヨーロッパではすでに、高層の集合住宅があまり作られなくなっているというのに、日本ではまだつくり続け、売れているらしい。「市場原理」のなすがままに、まちが委ねられているのだ。
かつてこの一帯に肩をよせあっていた長屋や路地を一掃して超高層マンションをつくりながら、路地を再生したと誇らしげに宣言する仕組みは何かに似ていないだろうか。空襲で爆弾を撒き散らし、まちを破壊し人を殺しておきながら、ふんだんに支援物資を届けて英雄を気取るアメリカ軍のようではないか。

とはいえ、ひとつむずかしい問題が残されている。一昨年、二十数年ぶりにバンコクに行ったときに、超高層ビルが立ち並びすっかり近代都市になったのをみてぼくは落胆した。飛行機を乗りつぐあいだの8時間ほどの炎天下にひとりでまちを歩き続けて、古い建物のびっしりと立ち並ぶあたりにたどりついて、ぼくはやっと安堵した。
そのそばから、ここに住んでいる人たち、じつは好き好んでここに住んでいるわけではなくて、できるものなら新しい高層の集合住宅に住みたいと思っているのではないかとも考えた。それは、日本でも同じことかもしれない。(左の写真が表、右の写真が裏)
だからこそこの日本で、古い建物の魅力を見つけて、みずからそれを住まいや店として使おうという若い人たちが増えているということに、可能性を感じるのだ。

投稿者 玉井一匡 : 11:30 PM | コメント (17) | トラックバック

March 04, 2006

薬王院の枝垂れ梅 と 落合のみどり

YakuoinShidareume2.jpg
 通勤途中に牡丹の花で知られる落合の薬王院の前を通る。2月28日、道路から見ると参道の奥の山門前にしだれる樹があわい紅色の花をつけていた。桜だったろうかとおもいながら自転車をおりて近づくと、やはり梅だったが淡くて品のいい桃色が春の気配の中に浮かんでいる。枝はゆるやかに下りてゆきそこに花を点在させる姿はとても品がいい。山門から中をうかがえば、そこにも梅が春をつげている。やっとこのとき、もう3月だと気づいた。

高台の尾根を目白通りが走り、その足元を、かつて十三間道路とよばれた新目白通りが並走する。その間にある傾斜地は東西に長く続き、林芙美子記念館などのある西よりの一帯から、東には学習院の馬場などを経て椿山荘のあるあたりまで樹木のゆたかなところが点在して江戸川公園に至る。さらに、神田川と支流の妙正寺川が流れる。無論、高台があり足元を川が流れ斜面は樹木におおわれるという地形がはじめにあって、道路はそのあとにつくられた。この梅のあるあたりでは薬王院、野鳥の森、お留山公園などの緑がゆたかで、そのつらなりの一部に大きな住宅の建つ屋敷林がある。それをディベロッパーが手に入れて低層のマンションを計画しているのに対して、みどりを残そうと周辺の住民たちが決起した。

下落合みどりトラスト基金をつくり、実に2億3000万円をあつめた。新宿区長東京都知事あての要望書を提出、基金を一部として土地を購入し、環境を保全するよう求めた。このあたりに狸が出没することが新聞にも掲載されて話題をあつめたこともある。

にもかかわらず、ディベロッパーは購入価格をつりあげ、新宿区は予算がないといい、業者は説明会で声を荒らげて恫喝さえしたと、chinchikopapalogに書かれている。確認申請はすでに出されている現在、状況は厳しい。今月中にも樹木の伐採がはじまるかもしれないそうだ。

もしも新宿区が本気でここを守りたいと考えているのだとすれば、すべて買い取るか諦めるかの二者択一以外に方法をさぐることできないのだろうか? たとえば区が負担できる以上の費用は借り入れをおこして土地を購入し、建物の計画を縮小して借り入れ分の金額を回収できる規模で森と共存する集合住宅をつくる。集合住宅にとっても周囲にとっても、きもちよい場所がつくられるだろう。当初は、この土地にあった古い邸宅そのものを含めた保存を目指していた。森と古い屋敷を残そうと考える側としてはそういう案は計画の容認でもあって賛成しがたいところだが、時間が過ぎていって計画がなしくずしに進められていきそうなのだとすれば、そういう方法も選択肢のひとつとしてあるのではないかと、このごろは思う。

投稿者 玉井一匡 : 10:50 PM | コメント (6) | トラックバック

March 03, 2006

わきたけんいちというできごと

earthdiningDen8.jpg
 わきたさんの盛岡出張の帰りがけに東京に寄っていただいて、アースダイビングわきた版の下打合せをすることになった。AKi、iGa、masa、わきたさんとその研究者仲間の萩原さんがいらした。初対面だというのに待ち合わせは「江戸東京博物館で」というだけのおおまかな約束に、なにか混乱が起きないかと内心おもしろがっていたのだが、AKi、iGa、tamは一見地階のようなミュージアムショップの前に、wakky、nuts、masaの3人はエレベーターを昇った空中に別れたものの携帯電話のおかげで大過なく集まることができた。(初対面の方々がいらっしゃるので、肖像権に配慮して、クリックしても大きくならない写真にしました。ほんとは、わきたさん、なっちゃんの表情もつたえたいのですが)
摂州から移り住んだひとたちがまちをつくった佃島の路地で椎茸をみつけ、先日、masaさんのkai-wai散策に魅力的な写真たちがあった築地魚河岸の余命数年の短さを思い、AKiさんが内装を設計された三原橋の傅八で作戦会議というルートはiGaさんの提案と資料のおかげで、アースダイビングの助走というおもむきとなった。晴海通りを挟んで建つふたつのモダニズムの建築は、学生時代から気になっていたのだが、土浦亀城の設計によるものだと初めて知った。いや、この日ぼくの第一の命題は「わきたけんいちとは何か」だった。

 はじめは、kai-wai散策へのコメントを読んで興味をおぼえ、wakkykenという名前をクリックした。跳んださきの「大津まち歩記」には、琵琶湖周辺のまちの古いたてものの写真がエントリーされていた。一昨年、ぼくは近江八幡に行ったのだが、そこでは、掘割や古い通りに新しくつくられたものが周囲の古いたてものに合わせるだけの保存でなく、積極的に新しいものをつくりながらとてもうまく解け合っているし、あけすけな観光化をせずに商業的にも成功しているようで、そのことがとてもきもちよかったので、あるときぼくはそんなことをコメントして自分のところに戻ると、丁度わきたさんのコメントが書かれていたので驚いてしまった。それが偶然だったのか、ぼくのコメントを読んだあとの素早い反応だったのかまだうかがったたことはないが、wakkykenはその後ぼくたちの周辺というよりはkai-wai散策の界隈のblogだろうがwakkykenやわきたけんいちの名をあちらこちらで目にするようになった。そして「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」のサイトを運営する環境社会学の研究者で教職にあることも知った。
 興味を持ったblogには、あたかも自分のサイトであるかのように、時と文字と思考をおしまず、すぐさまコメントを書き込んでゆくわきたけんいちは、ぼくにとってみれば、漂泊のブロガーのいのうえさんと同じようにMyPlaceのテーマに共鳴するたのもしい同志だと思われた。
その後もさらにコメントを重ね、おかげでこちらも手強い相手に返事を返さなければならぬと頭をしぼる。それがblogを深化させるようになるのだと思う。

 これまでのわきたけんいちは、さまざまなコメントそのものや、その書き方という証拠物件の累積という存在だった。ふつうのコメントであれば、わきたけんいちは一人のヒトになったかもしれないが、彼はヒトである以上にwakkyken+わきたけんいちというできごととなっていた。それが、この日を境にして一人の男として集積された。その実物は、なんとはなしに思い浮かべていたよりも寸法が大きくて、ヒゲさえたくわえた男だった。けれども彼はとてもひとなつこくて、やさしく、やはり頭の回転の速いひとだった。その男のありかたをぼくたちは歓迎した。これからもよろしく、わきたさん。南部鉄の銀河鉄道を、ありがとうございました。なっちゃんようこそ。

投稿者 玉井一匡 : 06:35 PM | コメント (9) | トラックバック