August 31, 2006

まろいまろいたま

 夏の終わりを心地よくすぎてゆく風が、けさは、もどることのない時間の流れのように感じられた。そのせいなのか、ついこのあいだのことを、歌と一緒に思い出した。新潟の母の家の近くに大きな、けれども今では誰も住んでいない古い屋敷がある。そのまわりをmasaさんと歩いた時に、からたちの生垣に緑色の実がなっているのを見つけた。3cmほどの直径の球形の実で、きめの細かい表面にはこまかい産毛が密生している。

「からたちの歌」の何番目の歌詞だったのか憶えていないが「からたちの花が咲いたよ」「からたちの棘はいたいよ」の次くらいだったろう、「からたちのたまはまろいよ」で始まって、「まろいまろいたま」と続いた。からたちは、棘のおかげでどろぼうよけとして生垣に使われたんだろうが、白い花が咲くこともアゲハチョウの蛹が棘に糸を掛けて変身の場にすることも知っていたのに、からたちの実を目にした覚えはなかった。「まろいまろいたま」というのはきれいな球をなしているということなのだと知って、なんだかうれしくてひとつを手に取ってひねると、うぶげのせいで手のひらとたまの間にちょっと距離があるように感じられる。それをポケットに入れて、ときどき感触を楽しんだり、「これ、何だと思う?」なんて人にきいたりしているうちに、どこかになくしてしまった。先日、それを思い出してもう一度とりにいった。そのたまの中身がどんなふうになっているのか知りたくて、まな板の上にのせ包丁を両手で持って転がらないように慎重に刃を押した。いかにもかたそうな様子だったのに思いのほか抵抗なく、すっと包丁を通した。切り口を見ておどろいた。花や葉のようすを見れば容易に想像のつくことなのにまぎれもない柑橘類だ。手に取ると、ほとんど弾力を感じないくらい固く感じられたのは、こんなに皮が厚かったからなのだ。
ところが、こんな切り口を見たのに、ぼくとしたことが味見をしなかったことに、あとになって気づいた。今度はかじってみようと思っている。

投稿者 玉井一匡 : 10:39 PM | コメント (22)

August 24, 2006

ハノイ・タクシー ドライバー

 ラオスへの行きがけにトランジットで寄ったハノイ空港は夕方で閑散としていたから、鉄板のベンチがなかなかかっこよくて気に入ったので、それを根拠地にしてあちらこちらの写真を撮ったりして2時間ほどのヒマをつぶした。
 4日後の帰りがけのハノイでは一泊するので空港を出ると、客を求めて数人のタクシー運転手が出口に待ち構えている。タクシー乗り場まで行ってからにしようとぼくたちは決めていたので乗り場に行くと、整理係のような男が「オーイ」と運転手を呼んだ。やって来たのは、なんのことはない、さきほどやり過ごしたうちの一人だ。がっちりした体格に髪を短く刈った体育会系の風貌である。
荷物をトランクに入れて座席に腰を下ろし行き先のホテルの名をつげるやいなや動き出す。
「ピピ、ピピ、ピピ」  車寄せで前に並ぶタクシーを一台追いやった。たて続けのクラクションだ。
しばらくの間は自動車専用道路を、片側2車線の左側、分離帯よりの車線をひた走った。前方にクルマをみつけると「ピピ、ピピ、ピピ」 猛然と追撃して襲いかかる。可能な限り車間距離をつめると「ピピ、ピピ、ピピ」 とクラクションを鳴らすから、草食動物のようなおとなしい車であればすぐに右に寄せて進路をゆずる。

 前方に空間があくと、またしても前の車まで猛然と車間をつめる。もちろん「ピピ、ピピ、ピピ」である。
もちろん、そんな脅しに屈しないやつがいる。つぎの手は、「カチ、カチ、カチ、・・・・・」 左向きにウィンカーを点滅させつつさらに車間を詰め、「ピピ、ピピ、ピピ」。それでもがんばるやつには、次の段階のメッセージ。
ヘッドライトを上下させる。
ここまでやっても、中にはしばらくがんばるやつもいる。
前のクルマの左側に、無理矢理入り込もうとするけれど、隙間が足りない。
「こんなやつには、ぼくだったら意地でも絶対に道をあけないですよ」・・・・と、堂々と日本語でしゃべれるのが便利だ。
すると、さらに車間距離を詰めヘッドライトを上げ、ウィンカーを出したまま「ピピ、ピピ、ピピ」 「ピピ、ピピ、ピピ」
とうとう根負けして、獲物は右によけた。前のクルマが右によけることができるなら、右車線が空いているわけだ。自分が右車線に進路を変えて追い越せば何のことはないのに、とにかく前のクルマをどけようとする。
「なんてやつだ。もしも一人だけだったらちょっとこわいですね。でも、ぼくが運転してる時に、こんなやつが来たら後ろにまわってやってヘッドランプを上げて付いて行きますよ」
「うむ」と、黒岩さんはおだやかなものだ。
そんなふうにして2,30分走り続けた。
やがて橋をわたったので、地図を思い浮かべながら、おおかたの方向は合っているようだとささやかな安堵にひたる。と、思ううちに道は急カーフを繰り返して、どっちに向かっているのか分からなくなった。不安をかかえながら走るうちに、川を左手に見て走るようになった。これでいい。
やがて、なんと、タクシードラーバーが口をきいた。英語だ。

 「バイクがやたらに沢山いるから、いつも ピピ、ピピってやらなきゃならないんだ」 
「バイクだけじゃないじゃないか。クルマでも何でもみんなピピ、ピピ、ピピだろ」と、すこし安心したぼくは、冗談のようにして本音を言う。モヒカン刈りでもないし銃を持っているわけでもなさそうだ。
「YES!」と得意そうに言う。
ピピ、ピピ、ピピ    またしばらく、同じように爆走する。
「オールドタウンだよ」
「オールドタウンか」とオーム返しに返事をする。
ピピピ、ピピピ    ピピピ、ピピピ
「これがメトロポールだね」 「建築のハノイ」にもFigaro Japonで見覚えのある、ここで最上級ホテルの前まで来たのでほっとして僕の方から話しかけた。
「もうすぐだよ」

目指すホアビンホテルに着くと、トランクから出した荷物を、彼はベルボーイに渡した。
そして、こちらに近づいて来ると、なんと右手を差し出す。
握手を求めているのだ。固い握手。
「荒っぽいけど、いいやつだったのかな」
走ったのは40分ほどの間だが、前にいるクルマはことごとく隣りの車線に追い払った。
つねにクラクションを鳴らし続け、ウィンカーを点滅させ、ヘッドライトを上げっぱなしだった。
にもかかわらず、終わってみれば、すこぶる面白かった。もしかすると、これは外国人のためのサービスのつもりだったのかもしれない。翌日、まちを歩いていても、たしかにバイクの洪水とクラクションがあたりを満たしていた。しかし、ひとりでこんなにクラクションを鳴らし続ける攻撃的なやつは一人もいなかった。じつは、ぼくたちは運が良かったのかもしれない。・・・・・・・おっと、写真を忘れていた。慌ててシャッターを切った。(車体の横に書かれていた数字は、握手に免じてPhotoshopをつかって消しました)

 あとになって、ここは沢木耕太郎のベトナム旅行記「一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編>」で彼の泊まったホテルであることを知った。小ぶりで、なかなか雰囲気のいいところだった。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 PM | コメント (4)

August 21, 2006

ハノイと「建築のハノイ」


「建築のハノイ」写真 増田彰久 文 太田省一/白楊社/2800円
 日本からラオスには直行便がないので、バンコクかハノイを経由してゆく。今回ははじめてハノイ経由でラオスに行くので、同行のEFAジャパンの黒岩さんがメールで「建築のハノイ」という本を教えてくださった。彼は司書なのだ。間際になってamazonで調べて注文、出発の前日に届いたのをパラパラとのぞいただけでハノイの建築の写真たちはぼくのベトナムに対する見方をすっかり変えてしまった。
ベトナム戦争のころ、マスコミはハノイのことを「アジアのパリ」などと安っぽい表現で書いていたから、日本中のいたることろにある「なんとか銀座」という商店街の延長線上に、ぼくの想像力は導かれていたのだが、この本の写真はフランスのアジア統治にとってベトナムが特別なものであることをつたえる。とはいえ表紙にはあいかわらず「ベトナムに誕生したパリ」などと書いてあるし、腰巻きにも「東洋のパリ」とある。

 ベトナム戦争のころ、おおかたのマスコミはベトナム贔屓だったけれど、じつは彼らもアメリカの側から北ベトナムを見ていたのだろう。パリのようだなんていう表現をほめ言葉としてつかおうとするのはベトナム文化を過小評価していたわけで、解放戦線の力を見くびったアメリカと似たようなものだ。
 あるアジア通の友人は、「ベトナムはラオスの3000倍くらい・・・」といってその後の言葉をためらって呑み込んだように感じられたが、ぼくはあえてその先を訊ねなかった。自分でそれを感じたいと思ったからだが、ハノイに行ってみると、ことごとにその言葉が思い出された。何がどう3000倍くらいなのかを言葉で言うことは、たしかにむずかしいが、たとえばハノイの建築と都市に対するフランスの力の入れようをラオスのそれとくらべるとかけ離れている。ここをフランスがいかに特別な場所と考えていたのかが、残された建物の出来と規模や数、広い歩道、大部分の道路にある大きな街路樹にあらわれている。歩道の縁石と側溝の蓋にすら、なめらかな石が使われてたところがあるほどだ。とはいえ、フランスが植民地として重視したことと、そこの人びとの能力や価値とは別のはなしだ。
 かつて植民地だった都市は、そこが解放されたのち、統治し支配するために作られた建築、都市と統治システムが時間と本来の住民によって融解され変化熟成する。宗主国は、支配するしかけとして自分たちの文化をそのまま持ち込むけれど、植民地はそれを自在にすり替えて、いずれその土地に適応させてしまうのだ。
ところで、宗主国といういい方に対して支配される国のことはなんていうんだろうかと思ったが、そもそも自治権のないところは「国」ではなく植民「地」にすぎない。ベトナムが19世紀末から1970年代まで戦い続けたのは、「地」から「国」になるという志がささえていたのだ。
 ハノイは、残された建築やまちの変質熟成のしかたが格別で、「東洋のパリ」などという枠にはおさまりきらないなにものかをつくり出している。かといって、フランスの持ち込んだものを消し去ろうとはしていない。ぼくたちは革命博物館を地図にみつけて入ったが、フランスの過酷な支配を示すギロチンの実物や手枷足枷をされたベトナム人の写真、処刑された人たちの辞世の漢詩などが生々しい。にもかかわらず、フランス支配のしるしである建築からフランスらしさを消し去ろうとはしないしたたかさ、あるいは加減のほどよさが、このまちにはあるのだ。

 本屋の集まる一劃があった。小さな本屋が数軒ならび満員の盛況で、その近くにも4階建てで紀伊国屋ほどの大きな本屋がある。日本の本屋でもっともにぎわいを見せる雑誌や文庫は、ここには置いていないのに、たくさんの客がひしめいている。それを見て黒岩さんは、20万点くらいの本が流通している感じかなと言った。年に60点というラオスの出版の状況と比較すると、200.000÷60=3,300。ベトナムはおよそラオスの3000倍の・・・・という表現説が数値として実証される。

ハノイを考えながら、一方ではラオスのことを思う。フランスの残した遺産もこれほど多くない、残されたフランス時代の建築は小さく少ない、そして開発の「進んでいない」ラオスは、どうすればいいのか。ラオスは、「ない」ということをむしろアドバンテージに転換する道をとるのが最善の方法だろうと結局は思う。たとえば本が年に60点しか出版されないという状況は、デジタル化への転換に利用することができる。過去にさかのぼって出版された書物の全点をPDFデータ化することもさしたる手間ではないし、これからはすべてデジタルデータの提出を求める。出版が少ないという現状を逆手にとって全点デジタルデータ化で、自由に閲覧できるようになれば世界のトップランナーになるだろう。
開発が進んでいないということは、破壊されていない自然が豊かであることだ。住宅のとなりにいきなり超高層が立ち上がって生活を台無しにしているところもない。ルアンパバンの路地はとても心地よく美しかった。路地は、そこに住むひとりひとりの住民がつくり育てる場所だから住民のありようが反映される。人間同士、人間と自然の共存する方法を心得ている。おだやかな人と自然という資源、資産がラオスにはある。

投稿者 玉井一匡 : 06:59 PM | コメント (9)

August 04, 2006

「子犬のカイがやってきて」

「子犬のカイがやってきて」 清野恵里子・文、スソアキコ・絵 幻冬社刊 1300円

イラストを描いたからと須曽明子さんが送ってくださったこの本は、なかなか難物だった。とはいっても、難解なわけではない。犬との暮らしを綴った本なのだから、犬党のぼくにとってはのんびりひなたぼっこをしながら読むにはもってこいのはずなのだが、とんでもない。

ぼくが勝手に思い描いている晩年の生活には犬がいる。たとえば以前にエントリーしたヴィエンチャンのDAY INN HOTELの人なつこい犬のように穏やかな犬が一匹、そしてMacが一台あれば、あとは自分でいくらでも幸せな晩年をつくり出せるなんて思っている。
ところが、この本には、どのページも犬との暮らしの大変さであふれていて、この人たちは全盛期には7匹の犬と生活をともにしていたという。そいつらがつぎつぎと引き起こす苦労の数々。ところがそれに対して得られるはずの幸せな報いについてはほとんど書かれていないので、好き好んでの茨の道に胸が痛んでしまう。スソさんとはときどきお会いするが、著者やプーさんとは一度ぐらいずつしかお会いしたことはないのに間接的にはとても近いところにいらっしゃるので、なおさら大変さに実感が伴う。しかし、犬を愛する人にとってみれば、かわいさについてはあえて言うまでもないのだ。だから、ここにもあまり書かれていないのだろう。読み終わったあとでそう気づいた。
いつもの須曽さんのイラストの人物は、どこかに意地悪さや毒をひそめていて、ムーミン村のミーのようなところがあるのだが、この本のイラストには毒が少ない。ここでは、むしろ悪戯の証拠のイラストさえどこかにかわいらしさがひそんでいるようで、いつもとは逆だ。スソさんのサイトには、写真を添えて、この本の裏話も書かれている。

こういう話を聞くと、ぼくはミヒャエルエンデのことばを思い出すことがある。友情や愛や勇気という、だれもが肯定するようなものは、「・・・ゆえに」ではなく、「・・・であるにもかかわらず」持つことができてこそ、尊いのだと。

投稿者 玉井一匡 : 10:22 PM | コメント (13)