October 24, 2006

The Little Girl Giant

  まず、写真をクリックしてみてください。友人、石上が送ってくれたもので、彼もまた友人から送られたメールで知ったものです。
Little Girl Giantというタイトルそのものが逆説的だが、このムービーの内容は技術の逆説がたまらなく面白い。人間の技術は人間の能力を拡大することにある。その大部分が、身体の能力を対象にしたもので、できるだけ少ない力でできるだけ沢山のものを生産する、沢山のものを移動する、地球の向こう側の音を聞く、空を飛ぶ。そして、とうとう指一本を動かせば何十万何百万の人間を殺すことができるようになった。破壊と殺戮のために洗練させた技術は、つかうことができない莫大な無駄だ。

 ところで、このビデオだが、あやつり人形を巨大にしてクレーンをつかって人間がうごかす。しかし、人形を制御するには、コンピューターをつかわない。人間の身体を制御する臓器である脳の能力を拡大する技術、コンピューターは、いま、あらゆる機械の上に立って支配しているけれど、それを排除するという不合理な条件をもうけながら、巨大で力持ちだが、このうえなく不器用な手であるクレーンの助けだけを借りて、たくさんの糸と多くの人間の手で巨大な人形を動かすのだ。
 テクノロジーとスキルをむだに費やしているのかもしれない。これはお祭りなのだ。「お祭り」と「戦争」は、むかしから現在まで続けられて来た無駄の双璧というべきものだ。しかし、滅亡を約束する核兵器の無駄、戦争の無駄とくらべると、祭りの無駄はいかにゆたかなものであることか。

追記1:Chinchiko Papaのコメントにある「ガブ」の説明はこのサイトにあります
追記2:コメントをくださったkadoorie-aveさんも、Blog「ONE DAY」に、この人形のことをエントリーしてくださった。
「The Sultan's Elephant」について、つぎのサイトにリンクされている。
*wikipediaの記事
*The Sultan's Elephantホームページ

投稿者 玉井一匡 : 07:14 AM | コメント (6)

October 22, 2006

ゴムのカボチャ

 先月行ったビエンチャンの最終日に「カイソン記念館」に行った。ラオスの独立は1975年、ベトナムのサイゴン陥落の数ヶ月あとのことだ。ベトナム戦争のときにホーチミンルートとよばれた補給路は、ラオスを経由してハノイと南ベトナムを結んでいたから、ベトナム以上の爆弾を落とされたという。いまでも国土の80%に不発弾があるので、土木工事をするときにはまず不発弾をさがしてから取りかからなければならないのだと、土木エンジニアのアポロ君が教えてくれた。ベトナムと同じように、フランス→日本→アメリカと、ひとつ撃退すればまたひとつ、次から次へとやってくる招かざる客をあいてに戦い続けたラオスの独立戦のリーダーで、独立後に大統領になったのがカイソンだ。この国はおだやかで、あまり国家権力が強くなさそうなところがいいなと思っていたが、巨大な銅像が建っていて、やはり社会主義の国だったのを思い出させる。けれどそれでもどこか金正日の像とくらべればユーモラスに感じるところがあるように思う。「面白いものがあるぞ」と若井が言うのでついていくと、前庭の端に、なにやら黒くて大きなカボチャのようなものがある。

フタを上にあけてみると、カボチャはゴミ箱なのだった。さらによくみれば古タイヤで作られている。本体は、タイヤを切ったものを裏返しにして後ろでつないであるようだ。四本の脚、フタ、取手、台座、どれもがすべて古タイヤで作られている。だれが考えついたものなのだろう。それまでは気づかなかったが、町をクルマや三輪車で移動していると、ところどころに、これと同じものが置いてあった。ビエンチャン市またはラオスの標準デザインのようだ。カボチャはカンボジアから日本にきたものだったとか、シンデレラの馬車になったのがカボチャだったのはカボチャと乗り物のあいだになにか関係があるんだろうか。
そういえば、木のスポークのついた荷車の車輪をふたつに切って背当てにしたベンチを見たことがあった。沖縄でも、米軍の飛行機の翼の先端についていた燃料タンクを縦に二つ割りにしてボートに改造してあるのを博物館で見たことがある。のりものというのは子供が好きなのは想像力を刺激するところがあるからなのかもしれない。
新しい町はたいくつだし、近代的な大きなホテルはちっとも面白くない。どこに行っても変わりばえがしない。それにひきかえ小さなホテルや古いものの再利用は、それを見るぼくたちの想像力も豊かにしてくれる。

投稿者 玉井一匡 : 05:19 PM | コメント (2)

October 15, 2006

メコンの小さな橋


メコンは、その多くの部分で国境をなす。ヴィエンチャンでは向こう岸はタイという河の岸から、その中州までわたる橋がある。ぼくは、それをもう一度見たいと思っていた。決して短い橋ではないのに幅がせまくて、歩行者か自転車、せいぜいバイクやリアカーが渡れるくらいの、すこぶるチャーミングな橋なのだ。これほど魅力的で、いまもちゃんと使われているのは、それほどないだろう。
以前に、「夕日のレストランと橋」というタイトルでエントリーしたことがある。もういちど夕日を見たいと思っていたのに昼間に行くことになったけれど、おかげで日暮どきには見えなかった橋の様子がよくわかる。レストランはブッフェ形式だからぼくは途中で席を立って店を抜け出し橋を歩いた。この橋とレストランをじっくりと見て、ぼくはあらためて好きになった。橋からレストランを見ると、木造をそのままコンクリートにしたような華奢な柱に支えられたデッキの上に、白いテントが浮いている。あんなところで飯を食っていたのかとあらためて気づいた。

 ユーモラスな形をした橋脚はコンクリートなのにとても細いトラスでつくられている。4本の柱を立てた前後に、河の流れに耐えるよう1本ずつの柱を加え、それらを結んでつくられたトラスは、柔らかい地盤のうえをカンジキをはいて歩くようにしている。地盤は、乾季には土が見えるが雨期には水没するおそらくやわらかいところだから、すそ広がりにして底面積を大きくしてあるのだろう。その上に載る橋そのものは、幅がおよそ2mで、アングルをつかって高さ1mほどのトラスを架け渡してそれを手すりにしている。床は3cm×20cmほどの厚さでふぞろいな長さの板を釘止めしている。釘がゆるんでいるからなのだろう、バイクや自転車が走るとビブラフォンさながらにカタ・カタ・カタと音をたてるのだ。
橋の下では、耕耘機をつかって畑を耕していた。雨期になると河が運んでくれる栄養豊富な土で覆われているのだろう。橋のたもとには軍鶏を放し飼いにしている。いまにして思えば、これはいい農業だと思うが、むかしは日本だって石油や金を費やすのではなく、大部分がこんな風に頭をつかって自然を利用して働いていたはずだ。
この近くの中洲にある、ヴィエンチャンにしては高層の大きなホテルは中国資本でつくられたそうだが、あたりの景観にまったく合わせようという気がない。意識をしたわけではないのにぼくは一枚も写真を撮ったことがなかった。この橋とそのたもとのレストラン、そして中国資本のホテルを見ていると、現在のラオスの状況が思い浮かぶ。しなやかに、環境にあわせておだやかに生きる人々と国を、力まかせに大きさと経済の力を見せつける大国が、それを変えてしまおうとしている。

*  *  *  追記   *  *  *

・左の写真:前後のトラスが重なって分かりにくいが、橋脚の上でトラスが分かれている。上弦材の高さの中央より少し高いところをアングルで水平につないでいる。手すりが低くなっているのだ。
・左中央寄りの写真:床の板が釘止めしてある。右のトラスの外を走るパイプは給水管だろう。橋脚の上には、電柱が立ち電線を支え街灯がついている。電気、水道、人、物資、みんなこのすてきな橋の上をわたるのだ。
・右中央よりの写真:トラスの下弦材の上にチャンネルを直交方向に向けて乗せ、少し飛び出させている。その先端の上端を一部切り落とし、そこにアングルの斜め材を取り付けて、トラスが倒れるのを防ぐ。さらに、このチャンネルの上に木製の根太を乗せて、床の板を釘止めしている。
・右端の写真:注脚の真上から、手すりの外で下を見た。コンクリートの角がきれいに直線になってそろっているのを見ると、これはプレキャスト・コンクリートだろうと思われる。
*AKiさんから、レストランも軽そうだがなんで作られてるんだろうという疑問があり、写真をすこし大きく見られるようにした。ぼくにはRCに見えるのだが。
橋脚の、上流側つまりはじめの写真でいえば右側は、水とぶつかる、船でいえば舳先にあたるところだが、ここだけはトラスのもっとも低いところの三角は穴が開いてなくて、コンクリートの面が作られている。水をスムーズに流そうとしたのだろう。
ビエンチャンの水道局に勤務するアポロ君という土木技術者と仲良しになったので、橋とレストランの構造と工法について、近いうちに質問をしてみようと思う。彼は、佐賀大学の大学院で5年間学んで、いまは公務員だが、先日は通訳をしてくれた。五十嵐さんの注目された給水塔についても彼なら面白い話をしてくれるかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 12:36 AM | コメント (21)

October 12, 2006

「住む。」 秋号:タイニーハウス・ゲーム

 
「住む」秋号/農山漁村文化協会 季刊/1200円
日々めまぐるしく進んでゆく時間を、ときに季節として感じることができるのはうれしい。季節は自然のもつ時間だから、季節を感じると、どこにいても自分が自然の一部であることを感じることでもある。「住む」は、季刊の雑誌だ。ぼくたちが書店で目にする雑誌で、季刊の雑誌は「暮らしの手帖」くらいしか思い浮かばないが、発行する期間をひろげれば、小さなチームでも余裕をもって質のいい仕事ができるし、長い間書店に置いてもらえるわけだ。
「住む」の秋号は、たまたまぼくのいない間に届けられたので、ぼくが読んだころには秋山さんがとうに紹介してくださっていたから、それに甘えてエントリーがおそくなった。おかげで、季節はすっかり秋らしくなった。

「タイニーハウス」について、あるいはタイニーハウスをネタにイエの本質にふれることを書いてほしいという注文だった。1ページだけ、1000字ほどだというので気軽に引き受けた。小さな家は、そのなかに生活のすべてがおさまりきらないから、生活が外にこぼれだす。だから、ほかの人たちの生活と重なり合いまじりあう。そこがいいんだということを言いたかったから、小さなページから、内容がこぼれだすようなものを書こうと思った。1ページしかないということが、タイニーハウスというテーマにちょうどぴったりだ。
 そう考えたもので、ぼくはかえって大きなものを書こうとしてしまったようだ。字数もぴたり1000にして送ったら、平易に本質にふれるような書き方がいいと、編集長の山田さんに注文をつけられた。もとよりそれはぼくが本当はこころざしている書き方だ。20戸たらずの小さなまちの計画をぼくがつくって、その上に建つ住宅の基本設計をしているところがある。そのまちに住むひとたちに、「かきの木通りのこどもたちへ」というタイトルの小さな絵本のようなものをつくって各家族にお配りした。それを、たまたま山田さんにお見せしたことがあった。「あれみたいなスタイルで書けないだろうか」とおっしゃるのだ。
 成文化した住民協定とか住民憲章のようなものでなく、住むときの心構えをゆるやかに共有できるようなやくそくごとのメディアにしようと考えてつくったものだった。「住む」の1ページをそういう形式にすることに、ぼくは、もちろん異論はない。むしろそうさせてと、こちらが言うべきだったくらいだ。というわけで、「タイニーハウスゲーム」というタイトルは、こどもたちにゲームを説明するというスタイルで小さな家について語るということにしたのだった。「サイダーハウス・ルール」と重ねたつもりのタイトルだ。

投稿者 玉井一匡 : 07:08 AM | コメント (4)

October 04, 2006

草家

草家/写真 黄憲萬(ファンホンマン)/文 金鴻植、朴泰洵、林在海/翻訳 李仁貞/日本語版監修 金京希/ワールドフォトプレス/3600円/237ページ

 韓国の藁葺きの家とその集落に生きる人たちを撮った写真集を日本語訳したものだ。巻末の解説には、建物としての側面、集落の生活の側面、そして宗教的な側面が書かれている。
 茅の収穫は農繁期と重なるのだが、藁は米の収穫のあとにできるから藁葺き屋根は農閑期に集落の共同作業で行われた。藁葺きは2年ほどしかもたないが、そのあとで家畜の飼料や敷き藁に使い、最後は田畑に鋤き込んで肥料になったと書かれている。
環境との共生という現在の側面から見ればこのうえなく理にかなった住居と農業の関係だ。しかし、2年ごとに葺き替えるのだとすれば、とても大変な作業だ。30年くらいもつという茅葺きの方が合理的だろうにと思うのだが、他にも何かわけがあるんだろう。
 草家の写真は美しい、けれども、家が集まり集落となって人が住む写真は悲しげだ。人が少ない。笑顔がすくない。若ものがほとんどいない。若者のわずかな写真は、まわりに不似合いなスリーピースのスーツが、たまに帰省したときに撮った写真だともの語っている。

 ファン氏の短いあとがきによれば、1970年代はじめから1980年代なかばまでコツコツと撮り続けたもので、原著「チョガ」の出版は1990年12月25日。ソウルオリンピックはいつだったっけと調べてみたら1988年とある。その直後なのだ。このときにすでに、草家はなくなろうとしていたと書かれている。
 江戸時代の日本では瓦屋根は富や権力をもつものにだけ許されたように、韓国でも、もともと藁葺きはそれらから無縁のひとびとのものだったらしい。だから、経済的な成長をめざす時代の草屋は貧しさの象徴でもあったようだが、写真家は草家と集落の生活の中につらぬく力強さを見抜いている。すこし距離を拡げて上空から集落を撮った写真を見れば、生命と意思を持ったような家とその集落は、一転してふてぶてしいほどの力強さをもつ原生動物のようだ。根源的ないえ根源的な生活は、ぼくたちの中心を構成するものを直かにゆすぶる。縄文土器がそうであるように力強く、民族をこえる普遍的な力をもっているのだろう。

 この本は、ワールドフォトプレスから送ってくださった。すべてモノクロの写真で、こんな地味で厚い、こんな高い本を売り出すなんて企画は、K社では絶対に通らないよと、K社にいた友人は言った。monoマガジンのように新しいモノ大好きという雑誌などをつくる一方で、こんな本やアメリカインディアンの本などをつくってしまうなんて、感心してしまうが、ぼく自身どっちも好きだ。社長の今井さんが気に入ると、先頭に立って大胆な企画を一気にやってしまう。彼自身がカメラマンで、サイゴン陥落のときには現地に残ったそうだが、いまも自分の写真を雑誌に使う。レイアウトまでやっちゃうことも少なくないんだと、数年前にきいたことがあるが、いまはどうなんだろう。

目 次
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 写真/黄憲萬
   原型
   生
   神様

 the Culture of Choga(英語によるsummery)

 草家の仕組み/金鴻植

 民族の生活様式と「悲しい近代化」 
   消えてゆく草家に送る言葉/朴泰洵

 草家の儀式、その信仰と奉祀の世界/林在海

 写真作家の文/黄憲萬

この本は、なぜかamazonには出ていない。・・・なんて書いちゃったけれど、そういえば「ちょが」っていうんだから、「草屋」じゃなくて「草家」じゃないか、と思って本を見たら草家だ。amazonで検索したら、ちゃんと出ていました。

投稿者 玉井一匡 : 12:45 AM | コメント (12)

October 01, 2006

としょかん と もんしぇん:おわりとはじまり

 9月は30日までしかないことに気づき、MyPlaceの更新が10日にしたきりになっていたことも思い出してあわてたのだが、結局10月になってしまった。
 この週末、9月29日には「もんしぇん」の一角座での上映が終わった。ブログ仲間のたくさんの方々が「もんしぇん」のことをいろいろと書いてくださり、そして映画やPsalmのライブを見てくださった。さらにまた、改めて映画のことをエントリーしてくださったりチケットの販売まで協力してくださった。応援団も結成された。ほんとうにありがとうございました。辛口をもって鳴る諸氏も、補助輪を外したばかりの自転車乗りには、まずは拍手を送って激励してくださった。ぼくも応援団の一員でもあるけれど感謝にたえません。
 ちょうど、「もんしぇん」の上映が終わった日に先立つこと一週間。9月22日には、基本設計をした小規模な図書館+ホールが自治労からヴィエンチャン市に引き渡された。建物の工事が終わったとは書きたくないのは、図書館が、さまざまな意味でままだまだ未完。ようやく動き始めたところで補助輪は外せないからだ。
写真は、図書館の入り口に張り渡された花たち。引渡式でビエンチャン市長がいらしてテープカットをするというから、ぼくは布のテープを想像していたのだが、行ってみると入り口には花のテープが張ってあり、花屋さんが飾り付けをしているところだった。

 この図書館には、まだ本が十分にはない。ラオ語で書かれた本は年間の出版点数が50から60といわれる国だから、多くの図書館員さえ、図書館とは何かをあまり体験していない。建物は必要最小限しかこしらえていない。いずれも、資金がたっぷりあれば、形の上でははじめから解決できる問題かもしれない。しかし、出版とは何か図書館とはなんだろうということから出発して、これから構築しようとしている。しかも、ラオスの子供たちは本を求めている。現在のメディアは、そうしたラオスの状況を、むしろアドバンテージにしてしまえるところにあるのかもしれないと、ぼくは思う。
 本が少ないから、本棚には、背表紙ではなく表紙を正面に向けてならべてある。おかげで本の顔がよく見える。建物と本が手渡されたが、開館はまだ3ヶ月先に予定されているので、隣にあるヴィエンチャン高校、中学の生徒たちは、昼休みには図書館に興味津々で窓の中をのぞきに来る。
「子供のいえ」へ放課後にやってくる子供たちは活気にあふれている。利用者も図書館員も、図書館とは何なのかさえ、まだわからない。情報というものならインターネットによって得ることができるし、本そのものもインターネットで読むことができるようになろうとするこの時代に、図書館の概念をつくることからはじめるのだから、固定観念から遠い彼らはむしろ自由に時代の変化に適応できるだろう。子供たちは、知的好奇心と適応力のかたまりなのだ。

もんしぇんは、作り手のひとりが天草の海をおとずれてその語りかけるものを映画というかたちに表したいと思いつづけ、さまざまな力を蓄え、少しずつ共犯者を増やし10年もの時間がかかったが、その間に世の中では映像を伝える技術がめまぐるしく変化した。時間も空間も遠まわりをしてつくられた小さな映画そのものは、デジタル技術からもっとも遠いところにあったのに、劇場公開と同じ日にウェブ上からダウンロードして映画を買える、日本で初めての映画に「もんしぇん」はなった。さまざまに宮崎駿から学んだろうが、「映画は、ひとこまごとの間に闇がはさまれていることが大切なんだ」といわれていたことも、その重要なひとつなのだと思う。その理由をどう説明されたのか、ぼくはよく知らない。だが、それはこういうことだろうと思う。映画のフィルムは1/24秒ごとに点滅して静止画像を映し、くりかえしくりかえし残像として人間の記憶の奥に刻み込み、ときにそれらが意識の表に浮かび上がってくるのではないか。アニメーションを作るひとは画像の一画面ごとを丁寧につくってゆかねばならないから、ことのほかそのことに意識的であるにちがいない。
 一冊の本とスクロールして画面で読まれる情報の違いを、ぼくたちはどうしても感じないではいられないのだが、それはぼくたちの育った時代のせいではなくて、映像の場合のように記憶の蓄えられ方がちがうからなのではないだろうか。

そんなことを考えると、本と映像というふたつのメディアの、誕生に近いところに接することができたのは、幸運なことだったと思う。

投稿者 玉井一匡 : 11:59 PM | コメント (0)