June 23, 2007

平底船:ナローボート

 いま、masaさんがオクスフォードに滞在して興味深いイギリス便りが送られてくる。その中に、ボートの浮かぶ水路の写真があった。ぼくはイギリスにはたった一度しか行ったことがないけれど、推理小説を読んでいると、水路とそこを行き来する船の描写に出会うことが少なくない。船は平底船という名で書かれている。masaさんの写真は、小説で思い浮かべていた通りの風景だ。
 推理小説では先を急ぐ勢いに負けてしまうから、いくつかの疑問を抱きながらぼくは何も調べないままに通り過ぎて読み続けていた。たとえば船が人力で動いた時代には、水路を上る時は両側の土手の上を人間や馬がロープで引っ張るのだったと思うが、橋と交差するところはどうしたんだろうかという疑問は小説の中に残したままだった。

 masaさんの写真は、その疑問に対する答えのひとつを示してくれた。橋がはね上がるのだ。もうひとつ、土手の上を人が通れるほどの高さの橋をつくるという手もあるはずだ。インタネットで調べてみると、平底船は英語ではnarrow boatというらしいと知ってwikipediaを開いてみた。川が浅いので船の底を平らにしているのだろうと思っていたが、水路が狭いので船の巾を小さくしているということなのだろう。たしかに、水路を人工的につくるなら巾を小さくして、深さで水量を調節する方がつくりやすいにちがいない。橋も短くてすむし、両岸の距離が近いから、心理的にも川が分断することもない。
 スエーデン出身でイギリスで仕事の多かった建築家ラルフ・アースキンが平底船を事務所に改造して製図板を並べていた写真を見て、とてもうらやましく思ったことがある。その船の事務所にあった美しい階段については、AKiさんのブログで「水無瀬の町家」というエントリーで言及されている。かなしいことに日本の都市の川に係留されている船たちが粗大ゴミと化しているさまをぼくは思い浮かべてしまうから、アースキンの事務所も動かない船だろうと思っていた。narrow boatの大方は観光のために動いているのだと思いつつさらに探してみると、ちゃーんとボートの売買のサイトの一部をnarrow boatのカテゴリーが占めているのだ。長さ60ft前後、巾7ftくらいの大きさが大部分で、価格は40,000から80,00ポンド(今日は247円/1ポンド)ほどで売りに出ているものが多い。たとえば冒頭の写真の船は45,000ポンド、このサイトには船の内部やエンジンの写真も用意されている。これを見れば、ボートのおおよそは分かってきた。ここで生活している人もいることだろう。うらやましいことだ。

 ぼくたちの日本では、都市の川の多くは暗渠に埋葬してしまい、その亡骸の上を勝者たるクルマたちが行き来している。川として都市に残されているとしてもコンクリート三面張りの索漠たるものだし、アルミ製の不細工な手すりが胸の高さまでふさいでいる。農村地帯でさえ両岸をコンクリートや鉄板の壁で支える情けないありさまだ。それにひきかえオクスフォードの写真をみれば雍壁はレンガで橋は木製のままで使われている。
 こうした豊かなイギリスのインフラストラクチャーは、アフリカやアジアやアラビアそしてインド、中国でも、そこに長い間生きて来た人たちの犠牲のもとにつくりだした財産をイングランドの島に注ぎ込んだおかげであることは、どうしたってぼくたちの頭と心の中から消えることはない。それでも、これらがそうやって他者の犠牲のもとにつくられたものであればなおさらのこと、車を速くたくさん走らせたいなどというたったひとつの理由で、すでにあるものたちを簡単に壊してしまうといことはしないのだとこの国のひとたちを思う。

投稿者 玉井一匡 : 09:13 AM | コメント (6)

June 10, 2007

路地と火事:神楽坂


この春、たまたまぼくが東京にいないときに神楽坂で火事があった。わざわざ知人が電話をくれて報らせてくれたけれど、けが人もいないというのでそうなんですかと返事するにすぎなかった。
 もどった翌日の昼休みに寄ってみると現場は思いのほか近く、歩いて2、3分。八十代のおばあちゃんの店が火元で、一間ほどのせまい路地に面するその店のほかに周囲の一帯が焼け落ちていた。焼けた椅子やカウンターを引き違いの格子戸ごしに見ると、漂う焦げ臭さで時間の動きを止められたようで、にわかに火事が身近になった。
 ここに立ってみると、そこからもう永久に消えてしまったもの、ぼくたちから失われてしまったものがはっきりと感じられた。ぼくはその店のことを知らなかったからインターネットでしらべて得たわずかな断片が、炭化した店の中でふくらんでひとつになった。かつて芸者だったという87歳のおかみさんの毒舌、飲んだ帰りに食えないほどの焼きおにぎり、客のもたらすざわめき。皮肉なことだが、それらが失くなって初めて、ここが少しだけぼくの場所になったのだ。

 
焼けた一画は2M足らずの石畳の路地に面しているから、日が落ちてからひとりふたりで歩くにはすてきなみちだ。神楽坂にはこういう路地が縦横にあって、かつて料亭だったところや住宅として使われていた建物が、誰でも入りやすいみせにかわったり、若い人たちが手作りで店に変えたりしている。おかげでここ何年か、神楽坂はいいまちとしてテレビや雑誌に取り上げられることが多くなっていた。そのうえに、倉本聰の脚本のテレビドラマ「拝啓父上様」が神楽坂の料亭を舞台に、板前修業の若者を主人公にしてつくられたおかげで、人通りが3倍ほどに増えたようだ。
 古くからの商店街が日本中でことごとくさびれてゆく中で、人通りがふえることは商業的には歓迎すべきことだが、まちを消費してしまおうとする力としてはらたらくこともまちがいない。日常的な人出と、それがもたらす土地の経済価値の上昇は、路地というみちの形式とあいいれない。土地の値上がり→地上げ→建物の高層化と進む。古い住宅を生かしておそらくは安い家賃で魅力的な店を開いているひとたちは、家賃の上昇に耐えきれず、かわりにチェーンの店がはびこって日本中のどこのまちともかわりばえのしないところになってゆく。そうやって、ひとの来る日本のまちは消費されてきたのだ。「拝啓父上様」は、ビルへの建て替えで揺れる古い料亭を題材にしたドラマだが、志とは逆に、この町の消費を早めるにちがいない。
 この火事で、あるひとは・・・だから路地は消防活動の障害だからなくさなければならない、建物を不燃化しなければならない・・・といい、一方では、災難にあった人たちにつけこんで、火事にあった一画を手にいれようと動き回るディベロッパーがいるだろうと思っていたが、一昨日、ひさしぶりに火事の現場にいってみると、もう工事の「お知らせ看板」がでている。火事から2か月ほどしかたっていないのだから、火事は偶然ではないのだろうかと思うほどに手回しがいい。
 ペコちゃん焼きで有名になった不二家神楽坂店など、この界隈でいくつかの商店を経営する平松南さんは「神楽坂まちの手帖」という小冊子の編集長でもある。そのひとが、この火事の火元になったおばあちゃんの、生々しい言葉をブログに書いている「まちづくりエディターの神楽坂定点観測」は、日付を見ると4月5日。火事のあとの間もない時期だ。
 神楽坂の浸食は裏通りの路地に面する一画だけではない。狭義の神楽坂、つまり早稲田通りの一部である神楽坂通りでも計画は着々と進行している。そういう力に抵抗できるのは、自分で土地も建物も持って店を経営する平松さんのような人たちで、受け継がれて来たよさを生かしてまちを活気づけようとしているところに、神楽坂は希望がある。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 AM | コメント (4)