September 24, 2007

ioraのライブを カフェ杏奴で

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もう一昨日の夜、またしても一斉エントリーに乗り遅れた。
通常の営業をとりやめて、カフェ杏奴でiora(アイオラ)のライブが開かれるドアを開けると、ぼくの顔見知りの一団は、すでに中二階の天井桟敷を占めていた。小学校から高校まで、学校の遠足などでバス移動するときには、いつもなぜか最後尾の席に陣取っていた。
演奏を生で聴くこともデュオの二人に会うことも初めてのことだったが、ぼくは杏奴においてあったCDを1年ほど前に買って聴いていたから音楽は知っているつもりだった。が、ききはじめるとギターの助っ人がひとり加わっただけで電気の力は何も借りていないのに、演奏はCDとは比べようもないくらい厚みと力があって心をさわがす。
どこからも見えるように聴けるようにするために選んだ結果、ステージは入り口のすぐ脇にある。ギンレイ会館地下のポルノ映画館「くらら劇場」の、スクリーンのすぐ横から客が入ってくるという非常識を思い出した。
外を走る車たちがひっきりなしに背景を横切る。ガラス越しに歩行者がのぞき込む。
こういう夾雑物が、演奏のためにつくられた場所にはないたのしさを増幅する。
ioraの音楽は、カフェ杏奴のありかたと近いところにあるのだ。
毎日のように、ここにやってきては作詞をしているそうだから、それも当たり前なのかもしれない。

「今日は、かなり年齢の上のかたもいらっしゃるので、カバー曲を歌います。」と、われわれに配慮をしめして歌ってくれた久保田早紀の「異邦人」を聴いて、彼らの音楽の方向が分かるような気がした。
市場、ざわめき、移動。

アンコールの2曲目、最後の最後に杏奴のママに一曲が贈られた。 「カフェ杏奴」
こんな歌詞ではじまる曲は、シンプルなメロディの繰り返しと、おだやかに漂うような間奏がここちよい。
歌詞に描かれる店の様子とそれぞれの記憶を重ねあわせて、共感の笑いがこぼれる。
思いがけぬ贈り物に涙ぐんでいるママの様子も伝染した。

11時を過ぎた頃に
少し早めのランチタイム
おてんとさまとご一緒に
カフェ杏奴にでかけましょう
カランコロンとドアベルが
鳴ればママさんお出迎え
好きなお席にどうぞどうぞ
地下と1階、中二階
カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴
詩:Momo/iora

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ioraの女声ヴォーカル、「桃ちゃん」には、もうひとつ特筆すべき特技がある。フェルトでいろんなもののミニチュアをつくってしまう。写真は、箱に入ったピザ、直径2cmくらいのサイズにトッピングはきっとサラミだろう。ピザケースの右下にはグリーンの瓶にはいったタバスコもある。切り取った一切れは、チーズが溶けてすこしこぼれようとしているのだろう、台よりもすこし大きい。芸がこまかい。こういうミニチュアが、杏奴の店のあちらこちらにたくさんおいてある。

じつは演奏の間ずっと、ぼくは音楽と胃袋の誘惑に引き裂かれていた。いや、両方の誘惑に身を委ねていたというべきかもしれない。小野寺さんから、少し遅れそうだという電話があったときいてわれわれが浅ましくも期待したとおり、両手にたくさんの料理を抱えて彼女は演奏開始直後に到着していた。そのメニューは、小野寺さんのブログに書かれているが、手作りの塩玉子の月をいれた手づくりの月餅を初めてごちそうになった。そこに写真のない酔鶏(酔っぱらい鶏)、それに椎茸のエビ餡詰めの写真を、ちょっとピンぼけだがぼくの記憶のために加えておきたい。

投稿者 玉井一匡 : 09:16 AM | コメント (8)

September 16, 2007

世界屠畜紀行

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世界屠畜紀行  内澤旬子/解放出版/2200円
家畜の解体と加工にかかわるひとたちが、どうして差別されなければならないんだという義憤、動物の解体はどのようになされるのかという好奇心。そのふたつが、著者にしてイラストレーターであるこのひとをつき動かして世界の屠畜の現場を回らせた。内澤旬子は、「印刷に恋して」「本に恋して」のイラストを描いている。出版社や印刷会社の多い神楽坂の本屋には、かつてこの二冊が平積みされていた。このひと、じつは革を使って装丁もするそうで、本から装丁、装丁から革へとつながってこの本のテーマにたどりついたというわけだ。ぼくは、イラストレーターとしてしか知らなかったから、masaさんにこの本のことをきくと、読みたくて仕方なくなった。さっそく近くの大きな本屋を2軒まわったが見つからずamazonに注文した。

 芝浦、沖縄、韓国、エジプト、モンゴル、チェコ、インド、アメリカなどを巡って、規模の大きいあたらしい屠畜場から個人の家での昔ながらの屠畜と解体にいたるまで、食用にする動物の解体を観察し話をきく。ときに作業の一部をやらせてもらう。そのときに、どこでもかならず質問することがある。「家畜を解体する人が差別を受けることがあるか」ということだ。差別は日本がもっとも強く、儒教の国韓国や、カーストの国インドでもある。しかし、その他の国では差別されることはあまりないようだ。
豚、牛、羊は言うに及ばす駱駝などのめずらしい動物を食べるときの解体の方法が、具体的なイラストとともに書かれている。写真では正視できないだろうが、描写がことこまかで具体的であるにもかかわらず、イラストであることで、かわいそうな気持ちはずっとやわらげられる。とはいえ、つらいことには変わりがないけれど、うまいといって食べるからには、生物の命を奪って、そのおかげでぼくたちは生きているのだということを、せめて自覚していたい。

 この本を読んで、屠畜がどのようになされるのかをぼくは初めてくわしく知ったのだが、それだけではない。動物の、ひいては人間の身体のしくみについて、とても明快に理解できるようになった。人間は、食べ物を口から入れて肛門から出すチューブのようなものだという言いかたをされることがよくある。三木成夫の本にも、そんなことが書かれていたと思うが、それが実感としてわかるのだ。
 肉を汚さずうまくたべられるようにするために大切なことがふたつある。ひとつは血を抜くこと、もうひとつは消化器の中に入っているものが外に出ないようにしておくことだ。身体のシステムでいえば循環器系と消化器系の2系統。あとは情報系(そういう言い方はないのかもしれないが)と呼吸器系の内蔵だろうが、これはよごすことはあるまい。
 血を抜くには、たとえば豚が身体は動かなくなり意識もなくなったけれど心臓は動いているという状態のうちに頸動脈を切る。すると、内蔵されたポンプつまり心臓が、その切り口から血を送りだしてくれる。心臓が動きにくくなったら、さいごには前足をふいごのように動かして、手動で心臓ポンプを動かせば残りの血が出てゆく。なるほど、じつに理にかなっている。
消化器系の中身を閉じ込めるには、肛門の周囲を丸く切り抜いて腸を分離し、それを縛っちゃう。入り口側は、食道の途中から切ってこれもしばってしまうと、長い袋の中に、食べ物のさまざまな消化段階のものを閉じ込めることができる。あとは、消化器系を傷つけないように腹を切って、その袋を取り出せばいい。これも、試行錯誤の末のことだろうが、鮮やかだ。
なんと明快ではないか。こうして取り出した消化器系はシロモツになり、循環器系はアカモツになる。血は、ちゃんと受けておいて、それがソーセージになるのだ。

 子供たちのイジメが問題になるたびに、昔はこうじゃなかったという大人たちが多い。しかし、その「昔」という時代には、個人として社会として部落出身者や韓国・朝鮮人を差別していた。いまの子供たちの大部分は、おそらくどちらの差別意識ももたない、あるいは希薄だ。だとすれば、社会をあげてイジメを構造としていたひとたちが現代の子供のイジメを、自分は別のところにいるかのようにして批判する資格はないはずだ。イジメは、だれもが自分自身のなかに抱えている何ものかがあって、それが社会的な仕組みや刺激によって増幅することによるものだということを、自覚することから始めなければならないだろう。
 殺生を禁ずる仏教の教えが、それを生業とする人たちに対する差別を生んだのだろうという仮説のもとに著者はこの取材をはじめ、途中さまざまに考え続ける。何年もかけたこのルポルタージュを、著者は自費で取材した。彼女は企画を出版社にもちこんで、雑誌の連載になり単行本になった。雑誌は「部落解放」、単行本も、この雑誌を出している解放出版から出版されている。おそらく、彼女は立場を明確にするために、この出版社をえらんだのだろう。つよいひとだと思う。彼女のブログ「空礫日記」を読むとその思いを強め、とてもおもしろく魅力的であることを再認識するのはいうまでもない。

■関連エントリー:内澤旬子と3匹の豚

投稿者 玉井一匡 : 12:48 PM | コメント (6)

September 15, 2007

違うものがたくさん:Psalmライブ 新潟

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 玄関にたくさんの履物が雑然と脱ぎ散らかされている様子が、ぼくは好きらしい。
だからといって、整然としているのがきらいではないし、散らかっている玄関ならどれでもいいというわけではない。人間の生き生きしているざわめきのようなものが残されているのが感じられるのだろう。同じものはひとつもない履物たちがたくさん、さまざまに並んでいる。一組ずつは同じ方向を向いているから、そのひと組ずつが露天で、玄関が市場であるかのようだ。

 8月28日午後6:30平日の雨上がり、母の住む新潟のいえでPsalm(サーム)のライブをひらいた。 家は、50年と少し経った古い家を縮小、曵き家で屋敷林の中に移動して改造した。8畳の正方形が三つL型をなしてならんでいるから、その間の襖を外すとのひとつづきのスペースになる。さらに障子をとりはらえば両側の廊下も、さらに雨に洗われた樹々のみどりも硝子越しに続いて、なかなかすてきなライブスペースに姿を変えた。

  Psalmは25弦の箏とヴォーカル、かりん夕海。子供たちの多くは箏という楽器そのものを目にするのが初めてだし、舞台の高さのない同じ畳の上にいるから、目の前の演奏に少しずつにじり寄っていく。暗くなり始めたしずけさにかすかな弦の響きが浮かぶ中を、歩き始めたばかりのチビが、みんなの前をことばにならない音声をあげながらトコトコと歩いて横断したりする。それも音楽のひとつとして取り込もうとしていた。仕事を終えたご近所の家族、たまたま昼間に立ち寄ってこのことを知った夫妻が母上を伴って、また夜に再訪、前日に娘を連れてアメリカから帰ってきていたぼくの妹、その友人夫妻と多彩な顔ぶれになった。祖母のご近所の方々に、日頃の感謝のしるしに開きたいと夕海が言い出して、となりの杉山さんが広報役を買って出てくださった。そんな具合で、とてもいいライブになった。 (photo by masa)

 Psalmのふたりは、8月15日から北海道の二風谷から天草まで、かりんの運転するステップワゴンを駆って日本を縦断するツアーの途上にある。ライブと、ところによっては映画「もんしぇん」を上映する。
ポリネシアの先住民は空の星を読む伝統航海術を駆使して太平洋を自在にわたった。その航海術と血を受け継ぐ冒険家、ハワイのナイノア・トンプソンとそのチームが、ホクレアという双胴の帆船で世界を一周する航海をしていた。STAR NAVIGATIONというその航海のことを読んで、夕海はツアーをやりたいと思い立った。日本を縦断しながらそれぞれの場所で「うたになろうとしているもの」を見つけ、うたを作りながらライブをしてゆく。そしてそれをリアルタイムにウェブサイトに公開してゆくことでひろく共有する、というのだ。計画は、かなり壮大なものも立てたけれど、現実的なところに落ち着いて、ふたりの発掘とうたづくりと演奏の旅は、いま、その途上にある。
このツアーのために新しい曲をつくり、費用を捻出するためにそのうちの数曲を選んでCDをつくった。
多くの仲間が、仕事の時間の合間や深夜をやりくりして音やデザインやサイトをつくり、思いにすぎなかったものを現実につくりあげた。そうやってこのツアーのサイトPsalm-PsalmやCDができた。サイトの音もデザインも、とても美しい。ただ、サイトの更新が、なかなか人間の移動に追いつかないので、masaさんの写真は一枚だけひと足先にこちらでエントリーしました。

関連サイト
*kai-wai散策:Psalm ライブ@新潟
*Aross the Street Sound:Star Navigation(8)(kai-wai散策の常連のNiijima さんはStar NavigationとPsalmに興味をもち、これまでに何度もエントリーしてくださった)
*mF247:CDの中の一曲「時間を乗せた船」がダウンロードできます。一時総合ランキングで2位になりました。

投稿者 玉井一匡 : 03:03 AM | コメント (13)