October 24, 2007

やせがえる・後日譚、というよりも先日譚

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 スソアキコさんが著書を送って下さった。まずは読んでからエントリーしようと思っているうちに時が経ってしまい、遅ればせだがお礼のメールを送り、「ぼくのblogのカエルのエントリーを読んでみてください」と書き添えた。じつは、スソさんはこの部屋を仕事場として借りていたことがある。
これを読んだ彼女から、すぐに返信が届いた。とてもおもしろいのだがコメントに書くには少々長いので、新たにエントリーすることにした。もちろん、公開することは、ご本人から了解を得ている。
このイラストは、いまの日立の掃除機のコマーシャルで使われている、ゴミーズと呼ばれるキャラクターたち。スソさんのしごとだが、彼女のイラストに登場するのは、こんな風にちょっと屈折したやつが多い。

   *  *  * 須曽さんからのメール *  *  *
カエルの写真大変驚きました。実は、ほぼ同じことが私がいるあいだにも起きたのです。
あまりに状況が似ているので、もしや私が掃除をしないで放置したのではと一瞬思ったくらいです。

わたしもあの障子はめったに開けなかったのですが、
あるとき大家さんのところにお邪魔したあと、部屋に戻る際になんとなく目にはいったのです。
ガラスの向こう側にジャンプするカエルがいたのでした。
後ろ足が伸びきっていて、瞬間冷凍保存されたような姿でした。
ガラスにもたれかかって立っていたのです。
しかし生気なくひからびていました。
なんだかすぐに部屋の中から取り出す気になれず、そのまま見てみないふりというか、
知らなかったふりをして、たぶん半年以上そのままだったように思います。
とうとう引っ越すことになり、意を決して取り出し、土に還してあげました。
はじめに見た時よりもちょっと小さくなっていたような気がしました。

わたしは光をもとめてジャンプした瞬間に死を迎えてしまった様子に
恐怖を感じていたのかもしれません。
それに比べて、送っていただいた写真はなにか穏やかな感じがします。
わたしはカレともカノジョとも思わなかった気がします。
話はそれますが、道を横断するカタツムリを見付けたことがあります。
車に轢かれてはかわいそうだと思い、また
その先には植物もなかったので、気を効かせたつもりで
逆側の紫陽花の葉に乗せてあげました。
翌日、同じ場所、道のまんなかでカタツムリの殻がこなごなになっていました。
再度道を横断しようとしたのかどうかはわかりませんが
鳩のはなしを読んで想い出しました。
              *  *  *  *  *  *  *  *  
ぼくが見たやつは、眠るように即身仏のごとく蹲踞の姿勢を保っていたが、スソさんの時には、ジャンプしたまま凍り付いたように乾いていたという。
どうして生きているときの瞬間を保存したような姿勢でいたのか、それに、どうやってこの隙間に入り込んだのか、不思議な話だ。
メールを受け取ったあとに、もっとくわしく話を聞きたくて電話をかけた。
スソさんは、写真を撮っておかなかったことを、ひどく後悔していたので
「スソさんはイラストを描けばいいじゃない」と言った。

投稿者 玉井一匡 : 08:04 PM | コメント (8)

October 18, 2007

やせがえる

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 サッシを開けたときには全部が開いて、できれば室内側からサッシが見えなくなるようにしたいときがある。そういうときには、引き込みサッシにする。壁の外側にサッシをつければ、開いたときには壁の外側に隠れる。さらに障子も必要なら、開けたときには障子は壁の内側に引き込むのだ。そういうときに障子とサッシをいずれも閉じると、その間に壁厚とおなじ奥行きの空間ができる。
あるいえで、引き込みの障子を開けた。すると、サッシとの間の細長い空間に、痩せた、けれども大きなカエルが一匹うずくまっていた。

 つやのない身体にそっとさわってみると固い。カチカチに乾燥したガマガエルだ。どうしてこんなところに閉じ込められることになったのだろう。・・・・・たまたま掃き出しのガラス戸が開いている。人気のない部屋に上がり込む。やがて奥の方に窓をみつけて近づいて外を見ている。そのうちに、それときづかない住人が、帰って来るなりピシャリと障子を閉めてしまった。カエルは逃げ場を失った。・・・とでも考えるしかない。
そのあと彼(なぜか彼女ではないと思いたい)は、向こうの世界になんとかして戻ろうと、精一杯の跳躍を試みてはガラスの壁に頭をしたたかに打っただろう。じつは彼の背後には、むこうが見えない白い面があるけれど、そちらに向かって一跳びしてみれば、白い壁はたった一枚の紙にすぎない。大きくて濡れた彼の身体をもってすれば容易に破ることができたはずだ。
自分がどういう状況にいるのか、どう行動すればいいのかを、彼は正しく判断することができなかったのだ。しかし、わが身を振り返ってみれば、ぼくたちは同じようなことをしょっちゅう何度もしているにちがいない。それどころか、社会や国家のレベルでも、そんなことがたくさんあったではないか。無謀な戦争に突き進んでいった数十年前も、バブル経済をふくらませたときも、エリートと見なされた人々の判断と行動は、彼が置かれた状況と判断とからさほどかけ離れてはいない。

 このカエルは、追いつめられながら疲労困憊して這いつくばるでもなく自暴自棄になるでもなく、落ち着いて想いをこらしていたかのような姿勢のままでいる。状況に抗わず、従容として死をむかえたようだ。情報の収集と行動という「インテリジェンス」から、おだやかに生きるという「哲学」に、テーマを切り替えたかのようだ。
 しかし現実には、そういってはカエルに失礼だが、彼にそんな意識はないだろう。人間でも苦痛を和らげる物質が脳内に生じるように、おだやかに最期を迎えられるような仕組みが生物にはもともと備わっているのかもしれないと考えて、いささか安堵したい。環境に対する生物の適応能力は、とてつもないものがある。我が身を省みるためにこのカエルは座右に座らせようかとも思ったが、彼の不運を思うとやはりつらい。安らかに眠るように土に還してやった。
あとになって、ぼくは彼の目を見たことがなかったことに気づいた。見るに忍びなかったのかもしれない。
関連エントリー:やせがえる・後日譚

投稿者 玉井一匡 : 08:53 AM | コメント (44)

October 12, 2007

防水ケータイ:G'zOne W42CA

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道路を歩きながら電話をかけようとしてウェストポーチから携帯電話を取り出した。
とたんに手を滑らせて、携帯はアスファルトに落ちた。
 この道路は、なにさま狭くて、車がくると人は端によって立ちどまり車をやりすごす。こういうとき、電柱は歩行者をまもってくれる頼りになるやつだ。ぼくも、ここは時々クルマで通ることがあるけれど、すれ違うたびに歩行者に頭をさげる。電柱は、クルマを運転する側にとっても邪魔というよりは歩行者をまもってくれるのがありがたい。それくらいだからここに用事のあるクルマしか通らないので、ある意味ではクルマと歩行者がたがいの存在を意識しながら共存するいい道路なのかもしれないとぼくは思う。
 そんな道でアスファルトの上に転がったのがケータイの運のつき、ぼくは一方通行のクルマと同じ方向に歩いていたから、後ろからタクシーがやってきていたのに気づかない。拾い上げるいとまもあらばこそ、そしてタクシーもブレーキを踏むこともなく、右の前輪で狙ったように踏みつけた。
それでもタクシーは止まらない。
念入りに右の後輪も同じ轍を踏んだ。

 前輪で轢くときには死角に入っていたのだろう。でも、折りたたみ式のやつだから薄くはない。踏みつけたら気づかないことはなかろうに、客を乗せていたので面倒だとばかりにそのまま行ってしまったに違いないと気づいたのは、実をいえばあとのことだ。
 しかし、ぼくはタクシーに怒りはしなかった。ケータイの身の上を心配するよりも、ケータイがどうなっただろうかという興味に心をうばわれていたからだ。クルマが通り過ぎるや駆け寄って拾い上げ、開いてみた。
外傷はない。
短縮のキーをひとつ押して電話をかけた・・・・・ちゃーんとかかるではないか。
車の重量を1トンとしても、タイヤひとつには平均で250kgかかることになる。

 こいつの身を案ずるよりも好奇心に動かされてしまったのは、ぼくが防水と丈夫というセールスポイントだけに惹かれて選んだので、それを検証したかったからだ。シカをはねる機会などありもしないのに大袈裟なバンパーをつけた四駆みたいに、ガキっぽい大袈裟なデザインも我慢した。買ってしばらくしてから、カシオがつくっていることを知り、Gショックと同じデザイン路線に則っていたのだと分かった。
 一代前のやつは、美術館に入る前にとりだして電源を切り、帰りにクルマに腰掛けて使おうとしたら、なくなっていたことに気づいた。すぐに見つかると思ったが、こちらからケータイにかけても反応がないので、閉館後の静かな美術館でも見つからず、とうとう捜索を打ち切った。その前のやつは、胸のポケットに入れておいたら、かがんだ時に転げ落ちて、ご丁寧に自分の足で踏んづけた。液晶が割れた。
 この2台は、いずれもauが企画してデザインを売りにした「コンセプトモデル」の「インフォバー」と「タルビー」だったが、今回の選択にあたってはデザインでなく丈夫を最優先した。来年には日本でも発売されるiPhoneまでのワンポイントリリーフにすぎないと多寡をくくっていたからでもあった。ぼくが注目したのは水面下1mまでOKという防水性だったから風呂に浸してみたことはある。頭を洗いながら電話をかけたこともあった。しかし、対衝撃性能は気にしていなかったから実験もしていなかったので、評価をあらためた。
発売時の記事はまだサイトに残っていても世間では販売終了したが、カシオのサイトを見たところ法人向けタフネスケーターイとして生き残っているようだ。

 もう少しこいつの強さを試してやりたいと、ぼくは思うようになった。もういちど自分のクルマで轢いてためしてみたらどうだという周囲の声もあるが、まだ躊躇している。
 

投稿者 玉井一匡 : 07:25 AM | コメント (22)

October 04, 2007

Z-1グランプリ:直線109m雑巾がけレース

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先日の朝、NHKのテレビを見ていると、かつて朝ドラの主役を演じていた女優が木造の小学校の教室前とおぼしき廊下で雑巾がけをしていた。ひたすら長い一直線の廊下を全力疾走の雑巾がけの半ばにして彼女は力を失って転倒した。あれくらいのことでと、ぼくはその挫折を嗤っていたが、聞けばその廊下は全長109m。ただ走るだけでも僕は息絶えるかもしれないと、すぐさまみずからの軽率を恥じた。
 廊下は1間ほどの幅で、それと同じ長さの土間が、やはり1間の幅で建物の端から端まで続いている。引き違いのガラス戸が教室の両端にあって、その間は腰壁のうえにガラス入りの引き戸。廊下からは、そのガラス越しに教室の中が見える。教室から廊下が見えるという、かつての小学校の廊下の王道だ。それがひたすら一直線だから、登下校時には廊下にあふれる子供たちの豊穣を一望にすることができたのだ。
1.82×60=109.2。尺貫法でいえば60間だ。ひとクラス5間ずつの教室が一学年2教室ずつで、合計12教室がならぶということなのだろう。

 かつて宇和町小学校だった建物が、いまでは移築されて「宇和米博物館」(愛媛県西予市宇和町卯之町二丁目24番地)となっているのだという。このサイトには内外を360°回転して見られる写真があって、廊下の様子がよくわかる。GoogleMapで見れば、山を背後に控えたひたすら一直線がいかにも潔い。
蓮華王院三十三間堂の2倍もあろうかという長さ、サッカーのゴールからゴールまで走るより少し長い。

この廊下を使ったすてきな催しがある。
今年は10月14日に決勝が行われるZ-1グランプリ。Zは、いうまでもなく雑巾の頭文字だ。109mの雑巾がけのタイムレースで、参加者には専用の雑巾と膝当てが支給され、小学生以下・一般シングルスの男女・それにダブルスという4種目。
 賞品として米が贈られるのは、現在の建物の用途からして当然。協賛にはラジオ・テレビの放送局の他にダスキンが名を連ねている。

 これまでの最高記録を聞いて唖然とした。・・・・・18秒38。ただ走るだけでも、ぼくは完走できないかもしれない。この記録は遠く及ばないだろう。レースの様子を記録したビデオがないかと探してみたら、これがみつかった。ふたりずつでこんな具合に行われるのだ。(movie)
ここに行けば、いつでも雑巾がけをすることができるらしい。価値の数量化を、ぼくは気に入らないことが多いけれど、誰もがここでやって時間を計ってみれば、たちどころにZ-1レースの一部を共有する参加者になれる。
記録保持者とこの企画を考えたひとを、ぼくは尊敬したい。

投稿者 玉井一匡 : 11:13 PM | コメント (9)

October 01, 2007

東京たいやきめぐり

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東京たいやきめぐり/くいしんぼ倶楽部/バナナブックス/1000円
18のたい焼きと、その店がでている。ぼくもかつて行列するたい焼きというエントリーをしたことがあるから、たい焼きはすきなのだ。「ウィンナを入れたのがたい焼きかよ?」「あそこのたい焼きは入っていないのかな?」なんて、勝手なことを言いながらページをめくる。しかし、この本は「たいやき」のガイドブックであるより、「たいやきの世界」の本あるいはガイドブックなのだ、きっと。どのみち誰もが満足するように店を選ぶことなどできやしないことなのだから、「たいやきの世界」を伝えるには、邪道といわれようが外道と非難されようが、こんなたい焼きもあるんだということを言わなければならない。邪道の存在は、むしろたい焼きという概念と世界の大きさと力を物語るのだ。

日本の文化にあって、鯛という魚は特別な位置を占めている。地鎮祭に生で供え、婚礼に飾り、えびすさまが抱え、正月の食卓の主賓となり、初詣で売られる飾りものにも酉の市の熊手にも鯛は欠かせない。海の幸を代表する鯛という文化の存在を、ぼくたちは無意識のうちに了解してたい焼きを食べる。
バナナブックスには、いまのところ名建築シリーズとジャポニカシリーズがあって、これはジャポニカシリーズの一冊だ。いずれのシリーズも「ひとつの完結した世界」をテーマにしているとぼくは勝手に思いこんで、それを評価している。それを小さな器の中に詰め込めば、なおさらぼくは好きだ。
辞書、図鑑、夭折した詩人の詩集、歳時記コルビュジェの「小さな家」、列車時刻表、地図帳などがそうであるように、本の中にひとつの世界を詰め込んであるものが、ぼくはすきだ。それをまるごとポケットにいれて外に出るのは、こころ浮き立つことだから、それが小さくて軽ければもっといい。この世界はかぎりない数の小さな世界が入れ籠になっている。それを感じる楽しさを、このシリーズで育てていってほしい。このシリーズは英語でも解説と文章が書かれていて外国人に見せることを意図した本でもある。たい焼きを入り口に鯛と日本文化について豆を甘くして食べるアジアの文化について、西欧文化圏の外国人に語ってやりたいと思いながら気づいた。メキシコのお寺で合気道を教えるアレハンドラが、1年近く前にルイス・バラガンのすてきな作品集を送ってくれた。そのお礼としてこのシリーズをことづけよう。

投稿者 玉井一匡 : 10:31 AM | コメント (8)