May 24, 2008

「時差ボケ東京」を開く

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 昨日の昼前、たまたま矢切にいるときにmasaさんがぼくの携帯電話を鳴らした。
LOVEGARDENに「時差ボケ東京」を納品にいくところなんだという。矢切から飯田橋に帰る途中で電車はLOVEGARDEN最寄り駅の曳舟を通るので、近いうちに寄りたいと思っていたことだし、「時差ボケ東京」を早く見たくもあった。LOVEGARDENで落ち合っていっしょに京島で昼メシを食べようか、ということになった。もちろん主題は昼食ではなく、本と、そこに写された写真だ。
 ぼくが店について少しあとにmasaさん、いやフォトグラファー村田賢比古が現れた。滅多にクルマを使わないmasaさんは、案の定、フレーム付きのバックパックに本を詰めて来た。フレームを開くとスツールになる仕掛けだが、masaさんはそれを写真撮影のときの脚立として使う新兵器。
さて、写真だ。かねてから、masaさんは写真集をつくることにしたと言っていたが、kai-wai散策の路線ではないという。今までだれもやったことのない手法の写真なので、事前に知られてマネをされたりすると台無しになるから、それを避けたいということもあって出版の方法をさぐっていた。が、結局は自費出版という暴挙に踏み切った。昔から、どの世界でもあることだが、何食わぬ顔で他人の苦労してつくったネタをパクる輩が絶えないのだろう。著作権などという金の問題とは別の、人間の誇りにかかわることだ。
デザイナー安田喬氏とふたりでコツコツと作業を進め。印刷や製本もデザイナーの人脈で依頼、ISBNコードさえ個人で取得した。
masaさんによれば、誰が見ても何が違うのかが分かる写真だということだったが、どんな手法で撮っているのか、ぼくは何も知らなかった。ただ、まちを撮ったということだけ。
できた本を見て、ようやく、どんな写真なのかがわかった。

LoveGarden-yukimasa-S.jpgClick to PopuP
 表紙のふしぎな写真を見ただけでは、どうやって撮ったのか、ちょっとわからない。けれども、いくつかの写真を見るうちに謎が解けてくる。周囲の建物や景色がボケているのに、動いているはずのもののどれかにピントが合っている。まちの中を移動するものたち・・・ひと、クルマ、バイク、電車、舟・・・それらの動きに合わせてカメラを動かしているのだ。だから、動くものが静止し、地上に固定したものの画像が動いているという逆説。

 しかし、被写体の動きは一様ではない。あるものは速く、あるいはゆっくり。移動する方向は・・カメラと平行に、斜めに。遠ざかるもの近づくもの。カメラの視線は、あるときは上から見下ろし、あるいは見上げる。フォトグラファーは、あえて難しいさまざまな被写体と動きと位置を選んで、カメラを手持ちして早さ向き方向をそれに合わせて動かす。三脚は、固定された軸を中心に回転するしか能がないから、こういう被写体に使うわけにはゆかない。難易度はきわめて高いのだと、日頃はあれほどに謙虚なmasaさんが言い切るのももっともだ。カメラをきわめて複雑に動かさなければならないのだ。
走るF1を撮るような写真はあるが、F1はどんなに速くても、方向も走る道路もあらかじめ分かっている。三脚を置いて軸の上で回転させるだけだ。こんな複雑な動きを止めた写真を、ぼくたちはこれまでにみたことがない。村田賢比古はそれに気づいて、それに挑戦し、捕らえたのだ。

 もちろん、その結果がすてきな写真になっていなければ、何の意味もないことだが、この写真たちはどれも美しい、魅力に満ちている。動かし方の前に、構成を光の分布を読み取って長方形の枠の中に切り取らなければならない。見開きに並べられた写真は、デザイナーの周到な配慮のもとで組み合わせられているんだと聞いて見直すと、なるほどと思う。本のデザインにかかってから撮り直した写真も少なくないそうだ。
モノとしてのまち東京はボケて抽象のなかに潜み、動くものたちはくっきりと画面に刻み込まれることで、都市はかえって様相を明らかにし美しくなる。ぼくたちは、じつはまちをこんな風に見ているのだ。だから、混乱をきわめる都市にも耐えられるし、ある日空き地になってしまった土地に、それまでどんな建物があったのか思い出せないことが多いのだ。

 この写真たちには、繰り返し繰り返し見てもそのたびに発見がある。しかもそれは、子供でもお年寄りでも素人でも理解し納得できる。なんとなしの気分だけのものがもてはやされる近頃の写真とは一線を画す写真という、masaさんの思いは見事に実現されている。だれにも理解できるが村田賢比古にしか撮れないという写真だ。さらに、いまの一眼レフ・デジタルカメラがなければつくれない初めての価値ある写真集でもある。高い感度(ISO6400、増感すれば25600にもなるんだからとんでもない)、早い連写(9コマ/秒)、短いタイムラグ(0.03秒)、もちろんフィルムを消費することもない。デジタル一眼レフの到達した、そういう能力を使い尽くしている。それらの性能のどれかひとつが欠けても、この写真集(写真の集合体)はできなかっただろう。
おいNikon!村田賢比古のひげ面に熱いKissを贈れよ。
もちろん、ぼくたちは勇気づけられる。ちょっと視点を変えると、この世界にはまだたくさんの発見が身近にあるんだと。

 写真のことをエントリーするというのに、またしてもぼくのデジカメはつづけざまに故障した。だから、このエントリーの写真は、PHOTOSHOPをつかってkai-wai散策の写真を加工したものだ。無断だが、もちろんいいよと村田賢比古さんは言ってくれるだろう。
そうそう、印刷会社の人たちは、「時差ボケ東京」の写真を見て、PHOTOSHOPでつくったものだと思っていたそうだ。
村田賢比古は、デジタル技術をつかって人間が楽をするのではなく、それを徹底的に使い尽くし、人間の手と頭と時間をそれに惜しみなく注ぎ込んで、あえて難しい撮りかたに挑み、美しい画像に沢山の発見を盛り込んだ、しかも集合となってさらに意味を深めるという写真集につくりあげた。ぼくの胸の高鳴りは、まだとまらない。

投稿者 玉井一匡 : 11:53 PM | コメント (18)

May 23, 2008

来た来た・・・「時差ボケ東京」だって

JisabokeTokyo.jpgClick to Jump 「時差ボケ東京」/村田賢比古/3,600円
ずいぶん待たせてくれたが、とうとうmasaさんの写真集ができた。22日の午後にできるときいていたから、どうしたろうと気になっていた。
そういえば、kai-wai散策に何か書いてあるんじゃないかと思って開いてみると、案の定。  出ているではないか。「masa」でなく、「村田賢比古」になっている。

 なにやら仕掛けのある写真なんだと聞いていたが、歩いている人間だけにピントが合っていて、背景も前景も、人間と同じくらいの距離にあるものもボケていて、杉本博司のサヴォア邸のようだ。が、画像の後処理は一切やっていないという。・・・なるほど・・・マネをされる危険を防ぐために、経済的な危険の大きい自費出版に踏み切ったのも納得する。
と、夜半に書きかけているうちに眠ってしまった。

朝になって、寝ボケ眼でもう一度写真を見る。背景から人間たちが湧いて出てきたように見える。どうやって撮ったのか、まだ、ぼくにはわからない。本人に聞こうとも思わない。とても楽しい不思議な写真だが、なぜなのだろう?

エントリーの中で、masaさんは「海馬」について書いている。ぼくたちは外界を見ているとき、意識を向けているものしか見えないし聞こえない、記憶に残らない。ふつうに写真をとったように何もかも公平に見ているわけではない。この本(海馬)には、海馬はぼくたちの脳に入ってくる情報の取捨選択を、つまり情報の編集と加工をするのだということも書かれていた。表紙の写真は、ぼくたちの脳の中を撮ったようなものだ。脳の中を見ているわけだ。

はやく他のページもみたい!品不足を心配しなきゃならないかもしれないぞ、masaさん。コメントを書けないようにしているのもいい。ぼくたち、自分のブログで、急いで書きたくなってしまうから、自動的に同時多発エントリーになってしまうもの。

投稿者 玉井一匡 : 01:50 AM | コメント (4)

May 16, 2008

塔状住居

NagamihinageshiHouse2S.jpgClick to PopuP
数年前にフランス人がすてきな塔状住居を発見した。タンザニアの森林と切り立った崖地の間にできた平地に並んでいる。といっても、それまで存在しなかったかのように、よそから来たやつが発見した発見したと騒いでいるに過ぎないのであって、この住居は何百年も前からこんな具合につくられているのだ。
1)ユーカリの一種に、直立した幹から水平に何段も枝を広げる木がある。その枝を、ほどよい高さに様々なかたちと大きさの扇形になるように残して、その他は切り落とす。下から上にすこしずつ高くしてゆく。F.L.ライトの設計したニューヨークのグゲンハイム美術館の螺旋の床を水平床の連続にしたようなスキップフロアだ。
2)水平の枝のうえに竹を組んで扇形の床をつくる。
3)この地方の崖に張り付いているツタを、左右に伸びているのをできるだけそのままはがし、葉をおとすと、絡み合った蔓が網のようになっている。それを、多くの場合は6枚ほどにわけたものを上から地面まで吊り下げる。つなぎ目は重ねて編み込むようにし、床に固定して提灯型の網の筒をつくる。
4)その上から、乾燥したハスの葉に油を塗ったものを数枚張りかさねてゆく。最後に、ゴムの一種の樹液を塗って数日のあいだ乾燥させれば、膜はピンと張ってできあがりだ。葉を張るときには、蔓の網の目に足をかけながら進めてゆき、最後には地上に立って作業をする。
*最上階だけはパノラマ展望台のように360度の見晴らしがあるが、他の階には窓がない。でも、床は竹を組んだザルのようなものだから、光は上から下に、空気は下から上に流れる。壁をつくる膜からも光が差し込む。屋根は椰子の葉を重ねたものでそれがおだやかに漉された光を通すのだ。

NagamihinageshiHouse3S.jpg・・・なんていう想像をぼくはしてしまったが、じつはナガミヒナゲシの実なのだ。昨年、この花のことをぼくは「ナガミヒナゲシ:生き残るための美しさ」というタイトルでエントリーした。その花が、この初夏の時期になると花を終えて実をふくらませ、それが緑色からしだいに枯れた褐色に変わってゆく。ぼくは、この種子を持って行ってどこかにふやしてやろうと思って、信号待ちのあいだに立っていたところの脇の植え込みに生えているやつの褐色になった実を選んでポケットに入れてきた。
事務所についてポケットをさぐると、「芥子粒のような」と言われるとおりのちっちゃな種が無数こぼれている。緑色の時はこういう形をしているのだが、てっぺんのフタのような部分がすこしずつ上に押し上げられ細い隙間がつくられて、そこからタネが外に送られるのだ。なんという精妙な仕掛けだろう。
「ナガミヒナゲシ」と「種子」でGoogleを検索すると、ちゃーんとこまかい観察と記録を残している人がいるのだ。
「野草雑記 ナガミヒナゲシ」というサイトがあった。ここには、フタが徐々にひらく様子をとった興味深いムービーまである。ひとつの実で1600個平均のタネができるのだという。

投稿者 玉井一匡 : 01:35 AM | コメント (0)

May 14, 2008

紙の一輪挿し


Ichirinzashi1S.jpgClick to PopuP

夜おそく自宅に帰ると、テーブルの上に瓶のかたちをしたものが載っていた。
紙を材料にしているのだが、それがかっこいいのだ。
どうみても一輪挿しのようだ。
プラントボックスから、開きすぎたチューリップを一輪切り取って入れてみる。
夜中だが、すぐに試してみたくなったのだ。
なかなか、よく似合うぞと、満足してしばらくながめた。

大きな一輪挿しはランニングコスト対効果がすこぶるいいのだといって、友人の陶芸家のつくった60cm角ほどの大きな一輪挿しを、高級旅館の女将が買っていったというはなしを聞いたことがある。旅館じゃあ、花をきらすことができないから、はじめに一輪挿しに投資するほうが安いというわけだ。これも、一輪だけの花がとても大きく感じられる。

かたちもいいが、それ以上につくりかたがかっこいい。言ってみれば、こんなぐあいに作られているのだ。
・ペーパーバックの本の、紙を貼り合わせた背表紙の側はそのままにして、反対側を自由な曲線で切り落とす。もっとも、じっさいに厚い本をすっぱりと切り落とそうとすれば容易なことではないだろうが、あくまでも頭の中の話だ。
・その切り口に色をつける・・・端を裁ち落とされた本を開き、ほぼ360°開いて、表の表紙と裏表紙をぴったり貼り合わせる。
・そんなふうにすれば、こういうものができる。ぼくたちが子供のころ、七夕の飾り物に、そういうしかけのものがあった。
そうすると、背表紙の面が円筒形の穴をつくり、そのまわりにCADでいう回転体ができるのだ。翌朝、あれはどうしたんだと娘にたずねた。
Ichirinzashi3S.jpgIchirinzashiAxisS.jpgちえこが誕生日プレゼントにくれたもので、本屋さんがつくったのだという。誕生日はもう半年以上も前の7月のことだからそれをいまごろになってくれるというのもおもしろい話だが、デザインはもっと面白い。半年遅れの誕生プレゼントにしたくなるほど面白いと思ったのだろう。ちえこは、Psalmのこのサイトをデザインしてくれたデザイナーなのだ。
だれがデザインしたのかは、娘は知らなかったが、やはり本から発想したものだった。中央の穴にアルミの試験管のようなものがさしこんであって、そこに水を入れて花を生けるようになっている。

 段ボールの箱も手作りで、細長い箱の底とフタの中央に円筒形の白い軸が固定されている。一輪挿しの上下の穴を、ここに合わせてフタを閉じれば、箱の中で移動することはない。白い軸は、よくみると厚いトレーシングペーパーを固く巻いたものだ。あくまでも、紙の二次元を三次元にかえてしまおうとしているところに、ふかく好感を持った。
CADソフト(Vector Works)で「3D多角形」をつくり「配列複製」してみると、3Dの一輪挿しができた。こいつはまだまだプロポーションが気にいらないけれど、似たようなものは簡単にできた。これを見ると、紙でできた実物は一枚ごとの紙がきちんとした平面でなくてヨレヨレなところがいいのだということがよくわかる。

投稿者 玉井一匡 : 07:40 AM | コメント (2)

May 11, 2008

「ゴシップ的日本語論」は、何度読んでもおもしろい

GossipJapanese.jpgゴシップ的日本語論/文春文庫/丸谷才一著

 スポーツの放送につきものである解説者の話は、おどろくような事実を話してくれることも、なるほどと感心する見方を教えてくれることも滅多にない。だから、できれば何も言わずにじっと座っていてほしいと願わずにいられない。
 けれども、丸谷才一の講演と対談という話し言葉をあつめたこの本には、その両方がたくさん入っている。つまり、ここでは「おどろくような事実」とは「ゴシップ」のことで「なるほどと感心する見方」は、さまざまな「日本語論」だ。
aki'sSTOCKTAKINGにこの本のがエントリーされたとき、すぐに買ってすぐに読んだ。読み終わったあとで、どの章をひとつ取り出しても繰り返し読んでも、そのたびに面白いんだ。

 連休の数日のあいだ、日本国憲法や昭和天皇を理由にした休日がつづくし、映画「靖国」が話題になったので、この本のことをぼくは何度か思い出した。とくに表題となった章「ゴシップ的日本語論」は、30ページにすぎないけれど、その中にはたくさんの事実と視点が詰まっている。

 昭和天皇が教育の失敗によって言語力のはなはだ乏しいひとになったということが2つの本(「昭和二十年」「昭和天皇」)に書かれているという指摘はこの中で最大のゴシップだが、さらには小林秀雄と中村光夫の評論の比較がおもしろい。明治憲法の文章は「立派で、なんだかドスーンと肝にこたえる」のに意味が分からないけれど、新憲法は「文章は本当に下手へたであるけれどもよくわかる」という対比を小林の評論と中村の評論の比較に重ねて、「私はこれでいいんだと思う」とする。明治憲法には不備があって、天皇が最終的な決断をしなければならない事態が生じるシステムだった。ところが、昭和天皇は言語によるコミュニケーションをとることがほとんどできなかったために、さまざまな事態に対処できず軍部の暴走をゆるし、日本と日本人それに周囲の諸国(これは書かれていないが)にとって悲惨な結果をもたらしたというのだ。

 明治維新と第二次大戦敗戦の二回、日本には、いっせいにヨーロッパとアメリカから近代文明と文化が押し寄せて、それを受容するために日本語はさまざまな方法をつくして対応した。しかし、その結果として生じた混乱を、いまにいたるまで脱していないどころかさらに混乱は深まっていることを指摘する。最後に、教育なんていう面倒くさいことは、たいへんな情熱をもってやらなければならない。だから教科書の検定をやめて、学校別に、できれば教師ひとりひとりが情熱をいだけるような教科書を選べるようにしなきゃあならない。言語教育は国運を左右し文明を左右するから、おろそかにしてはならないんだと結ぶ。

 この時代に生きるぼくたちの身に染みついた性で、ついつい積み重ねられた言語の層のもっとも新しいところだけをつかっているように思ってしまうけれど、丸谷はつねに日本語を古代から現代に至るまでの言語の長い流れと層の積み重ねとして考える。そのような意味で、丸谷は保守主義者である。しかし、同時に制度として形式としての伝統に固執しようとはしないから、天皇や明治憲法を神聖にしておかすへからさるものとはとらえない。
もし、生物の発生以来ぼくに至るまでのどこか一匹の動物が、ちょっとした気まぐれで別の行動をとっていたら、あるいはひとつの気まぐれがなかったなら、ぼくのかかえているDNAはいまここにはない。つまり、ぼくはここに存在しない。ぼくたちは、積み重ねられたDNAの層によってつくられた存在なのだ。ゆっくりと環境の変化に対応して書き替えられてきたDNAのように、ことばというものは少しずつすこしずつありようを変えてきたはずだ。しかし、環境に大変化が生じたときに、言語を制度として大変化させることによって対応せざるをえないときがある。そのときに間違いをおかすと、とんでもない結果になるぞということを丸谷は言いたいのだ。制度としての言語とは憲法であり、教育である。
数々の丸谷の発言を読んでいると、そのまま日本のまちあるいは都市のありように重なる。ゴシップから日本語論にみちびかれ、もういちど空間的ゴシップにもどり、終わることがない。だから、何度読んでも、この本はおもしろいのかもしれない。

■excite辞書にはgossipはこう書かれている
gos・sip /gsp|gs‐/→
1a [具体的には ] (人の私事に関する)うわさ話,世間話.
b (新聞雑誌にのる名士などに関する)うわさ話,ゴシップ.
2 人のうわさをふれ回る人,おしゃべり(女), 金棒引き.
動(+前+(代)名)
1 〔…と〕〔…について〕うわさ話をする 〔with〕 〔about〕.→
2 〔…について〕うわさ話[ゴシップ]を書く 〔about〕.
古期英語「名づけ親」→「親しい人同士のむだ話」の意; gossipy

投稿者 玉井一匡 : 09:28 AM | コメント (0)