January 30, 2009

クルド人のまち:イランに暮らす国なき民

KurdTown.jpg「クルド人のまち」/写真・文 松浦範子/新泉社/2,415円 

「クルディスタンを訪ねて」につづく、松浦範子さんのクルドの本ができた。
前作の舞台はトルコだったが、これはイラン。ふたつの本の違いは国のほかにもうひとつ、そのタイトルにこめられていると、読み終わって気づいた。
「クルディスタンを訪ねて」では、著者と友人は別の目的で写真を撮るためにトルコを訪れ、たまたまクルド人たちの住む地に行く。まっとうな知的好奇心に満ちた旅行者として、二人の日本人女性は、日常生活をいとなむ人たちのできるだけ近くに視線を寄せて異文化を見ようとしていたが、ある出来事によって、そうした旅行者の好奇心が生活者の思いとはかけ離れたところにあったことに気づかされる。
 クルド人たちが古くから生きてきた場所が複数の国に切り分けられ、そのひとつであるトルコという国家の中で生きるのがどういうことであるかを感じ取った。以来、彼女はクルディスタンについてできるだけ深く知り、それを伝えようと踏み込むことのできるぎりぎりのところにゆき写真を撮り続ける。あの本の表題が「訪ねて」という動詞だったのは、初めて訪ねたときの行動で知ったことを深く受け止めて、それが後の行動を決めたからだ。

 この本のタイトルは名詞だ。「まち」だ。「町」は、制度として行政区画としてのニュアンスが大きいが、「まち」は、そこに生活するひとりひとりの人間や積み重ねられた歴史、文化、といったものの堆積があるように感じる。意識的に「クルド人のまち」と名づけたのだろう。イランでは、トルコのクルド人よりもアイデンティティを表に出せるだけの歴史があり、生活のスタイルも生活する場所も受け継がれのこされているらしい。

Mahabad.jpg 表題にまちという名詞を選んだわけが、おそらくもうひとつある。
「クルディスタンを訪ねて」に、イランでクルド人が独立国家を樹立したことがあったと書かれていた。それがどんなものだったのか気になっていたのだが、この本でその疑問が解けた。

第二次大戦直後の1946年、わずか11ヶ月とはいえクルドの国、「マハバド(Mahabad)共和国」が存在していたのだ。その共和国の大統領となったガジ・ムハンマドの秘書として近くで時間をともにした彼の甥ホマヨーン氏に松浦さんは会う。共和国が倒されたときにガジが従容として敗北を受け容れる話に、ホマヨーン自身の松浦さんに対する接し方に、短命だった共和国の記憶が清冽によみがえる。クルド人が、文化や生活としてだけでなく国を持ったことがある徴(しるし)として、国をつくるもとになるはずの「まち」ということばを、松浦さんは選んだのだろう。

 この本が出たら、読んだあとに松浦さんに会おうと岩城さんmasaさんと話していたので、秋山さん五十嵐さんにも声をかけて、先日、神楽坂のキイトス茶房に集まった。
いろいろ聞こうと思っていたことがあったのに、ぼくはいろいろ忘れてしまった。
しかし、クルドの文化はペルシャと共通するところが多いのだと松浦さんはおっしゃる。いまもイランにはコルデスタンという州の名称が残されている。トルコとくらべればイランのクルド人には、自分たちの文化を表現する自由がある。それは、共有する文化的背景があるからなのだ。

 クルドのために立ち上がるべきだと言われることがあるけれど、それはちがうように思うと彼女は言う。たしかに、かつてひどい仕打ちを受けたユダヤ人たちが、ガザにおいてパレスティナ人にとった行動を見れば、もしもクルド人が物理的な力で自分たちの国家を作り上げたとしても、それはまたいつかは暴力となって返ってくる、絶えざる応酬がつづくだろうと思う。
世界中、そういう苦しみがつづいているのだ。だとすれば、ほかのみちがどこかにあるのではないかとぼくは夢想する。たとえば、複数の国に分けられたクルド人はふたつずつの国籍を持ち、自由に複数のクルド分配国家を移動できる特権を与えるというようなことはできないだろうか・・・などと。

投稿者 玉井一匡 : 11:31 PM | コメント (10)

January 25, 2009

知られざる豊かな国キューバ

cuba1s.jpg
 「知られざる豊かな国キューバ」という催しを、当日の土曜日になって中野区の掲示板で知った。今年は、キューバ革命50周年チェ・ゲバラ生誕80周年だ。
 キューバについてのぼくのさまざまな知識は、時間も場所もあちらこちらに点在しているので、ひとつに結ぶとその像はぼやけてしまう。40年以上も前に心動かされたフィデル・カストロやチェ・ゲバラへの共感と敬愛。 娘や友人などがキューバに行ってきたときに聞いた、具体的だが断片的な話。 キューバ危機とアメリカのキューバ侵攻作戦。ヘミングウェイ、「老人と海」。野球やバレーボールチームの躍動と力強さ。「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」のひとびとと音楽の魅力。ボートで脱出してカリブ海を渡る人たち。都市でも進められる有機農業。

 いまのキューバはどうなのかを知りたくてぼくはこの催しに行くことにした。
現在、世界中が陥っている経済危機は、きっとアメリカ史上最低の大統領が、ぼくたちの国の首相などの協力でもたらしたこの状況だが、いずれいつかは来る必然的なものでもあった。
成長させ続けなければならないという経済の構造が、資源も廃棄物の捨て場も有限な、地球という場所につくられている事実をあわせれば、いつまでもこのまま続けるわけにはいかないという答えが出てくるのだ。
 すると、ソ連の崩壊とアメリカによる経済封鎖で危機を先取りしたキューバが、うまくやっていければ、これから目指すべきモデルになるのではないかという期待がぼくにはあるのだ。

第一部 講演とパネルディスカッション、第二部 ダンスと音楽という構成の、第一部だけにぼくは参加した。パネラーは、写真家でカーニバル評論家という白根全、ジャーナリスト・NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表の工藤律子キューバの有機農業などをよく知る長野農業大学の吉田太郎ゲバラについての著作の多い戸井十月の4氏。

冒頭に駐日キューバ大使が話した。儀礼的な挨拶を予想していたぼくには、さすがカストロの大使と思わせる饒舌と情熱。白根氏は、キューバの人々のカーニバルにかける熱さについて写真を背景に、工藤氏はキューバの生活は楽じゃないんだということを具体的な日常生活から、吉田氏は統計や歴史の視点からやはりキューバの困難や矛盾を話した。おかげで、やや会場が沈んだ。
そこで戸井十月が登場。フィデルとゲバラの志の高さを語り、いろいろ問題を抱えているけれど、それでもこうやってみんなキューバを応援しようという気持にさせる魅力があるんだという発言で会場に元気をとりもどした。(この会場では、カストロとは言わずフィデルと言った。弟のラウルと区別するためなのだ・・・と思っていたら、キューバではカストロのことをファーストネームで呼ぶらしい)こうして振り返ると、この四人による構成はよくできていたのだ。

 カストロの個人崇拝はないし肖像などもほとんど掲げられていない、ゲバラの壁画があるだけだとキューバに行った人たちは言う。まっとうな社会主義なら個人崇拝を否定するのは当然のことなのに、北朝鮮はもちろんソ連中国をはじめとする社会主義諸国はあのざまだから、キューバのありようは稀なことなのだ。
教育と医療はもっとも重要なことだとしてとくに力を注いで顕著な成果を上げ、いずれも無料で受けられるが、国内には受けた教育を生かす場が少ないし、ソ連の崩壊とアメリカによる封鎖がもたらす物資不足で、とても苦しい生活をしている。優秀な医師たちを南米をはじめ各国に医師たちを派遣して、なんとか外貨を獲ている。物資の足りない生活をしながら国民がかろうじて耐えてきたのは、カストロをはじめ幹部が特権的な生活をしていないからだろう。
 物質的な満足よりも精神的な満足が大切だと言われても、国民の我慢にも限界があると工藤氏はいう。だが、物質と精神という対立概念だけではない。べつの切り口をみれば、他者より優位に立つことに価値を置く立場と、他者と分かち合うことに価値を見出す立場・・・つまり競争と共生という対立概念がある。フィデルやゲバラは、物質であれ精神であれ、他者より優位に立つことによってではなく、他者とよろこびを分かち合うことで満足を得られる世界をつくろうと出発し、それを持続してきたのだ。

Che.jpg「チェ 28歳の革命」・「チェ 39歳別れの手紙」を監督したスティーブン・ソダーバーグは、戸井氏によれば、はじめゲバラのことをほとんど知らなかったし、さまざまな障害もあった。しかし、ブッシュがあまりにひどいので、この映画を作らなければならないと思うようになったという。だとすれば、この映画ができたのはブッシュのおかげというわけだ。経済封鎖も、むしろキューバを持続させ結束させる効果があっただろう。
 イラク戦争や金持ち優遇政策にしても、じつは現代の世界の経済システムがいかにひどいものであるかという本性をあきらかにするという役割を果たした。オバマの登場も、ブッシュがいたからこそ実現したのだろうし、ブッシュのおかげで多くの人間の生命を失い、あるいは苦しい生活を強いられることになったが、それによってカストロやゲバラが目指したものの価値に気づくことになれば、結果として人類が救われることになるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:55 PM | コメント (4)

January 18, 2009

池田学:「予兆」

IkedaYocho1S.jpg「予兆」の全図:図録から

 きのうの朝、娘がぼくの携帯電話を鳴らした。
「池田君の個展行った?」
「いや」
「今日が最終日だから、ぜひ行ったほうがいいよ。何かをひとつ越えたみたい。」
「ああいう情熱がいつまでもつづけられものなのかと、はじめの時に思ったけど、どうだった?」
「いや、もっとすごくなっているよ」まだ興奮が持続している。
ぼくが初めて彼の個展を見たとき「存在」という絵の緻密に、2年というのだったか毎日毎日ペンで描き続けて構築したことに、しかもそれを誇らしげでもなく楽しかった旅のことのように語る池田君に、ぼくはなかばあきれひどく尊敬した。しかし、これほどの情熱は時とともに揺らいでゆくものなのかもしれないと、なおのこと「世界」と化したその巨樹のあやうさを貴重なものだと思ったのだ。

昨年、ぼくにも個展を知らせるメールが届いていたのに、11月から長い期間やっていると油断していた。午前中の用事をおえてから、昼すぎに個展を見に行くことにした。

IkedaYocho2S.jpg「予兆」の部分:図録表紙 もとはA4見開き、A3の大きさだから、これではペンのタッチは見えない。

 iPhoneを片手にGoogleマップとストリートビューを見ながら中目黒の駅から川沿いに歩いて4,5分、駒沢通りに出る角の建物だ。
「ここだ、ここだ」とばかり、iPhoneに満足。
ちっともギャラリーらしい建物ではないがMIZUMA ART GALLERYと書かれている。

ドアを開けると正面の壁に、3.4m×1.9mという大きな絵がただ一点、これは 北斎の「神奈川沖浪裏」の、大きな波。
 このひとの絵は、ヒエロニムス・ボッシュペーテル・ブリューゲルがそうであるように、絵はがきほどの小さな部分を切り取っても、それだけでひとつの絵としての密度とストーリーが詰まっている。
だから、だれもが近づいて眼を寄せたくなる。すると、遠くから波と見えたものは、じつは流動化した大地が波のように盛り上がり崩れ落ちようとしている。
白い波頭と見えていたのは、近づけば雪なのだ。

 彼の描いたこれまでの絵は、小さな物語の集合が船となったもの(再生)であり、あるいは大地のような巨大な樹木(存在)だった。見方をかえれば、人間と物語が船や樹木に寄生していた。もうひとつのありようは、城(興亡)やビル(方舟)が無数に集まって九龍城のような巨大な集合体をつくるものだった。

 村上隆、会田誠、奈良美智らは漫画をアートにした。池田学は、その方向を担う作家とされているらしい。しかし、宮崎駿の世界のつよい影響をうけてきた池田学の今回のしごとは、宮崎の呪縛からの自由を獲得しようとしているように思う。
宗達ー光琳ー抱一は時代を共有することも直接の師弟関係もなかったが、彼らが前の走者とその作品を意識して描き続けることで琳派なる一派を形成したのだということを、じつは 昨秋の「琳派展」で、ぼくははじめて知った。彼らも、先行者を追ってゆき格闘し、乗り越えていったのだろう。
 物語がたくさんつまっている池田の絵を見ていると映画が思い浮かぶ。すると、一枚の絵というものがいかに時間から自由であったのか、映画はいかに時間に支配されているかに気づく。映画は、つねにひとつの方向に流れる時間から決して離れることはできないのだ。

 所詮、人間が自然を壊すことなど、できはしない。むしろ自然が人間をほろぼすのだ・・・流動化して波となり人間の文明を呑み込もうとしている大地は、そう言っているのだとぼくは思う。もしかすると池田君は、そういう大きなテーマを意識しないようにして描いているのかもしれない。下書きをせずに毎日毎日丸ペンの細い線を重ね、そのときの思いその時の関心そのときに獲得したものを書き込んでいって2年間を積み重ねた。
これまでの絵は宮崎駿の一部を語るものであるように感じるところがあったけれど、「予兆」では宮崎の影響を受容し肉体化し熟成させて、みずからを乗り越えたのではないか。樹木や船に凝縮していた方向を転じて、小さなよろこびや日々のできごとの向こうにある空間と時間を限りなく広くとらえようとしていると感じられるのだ。

■「予兆」を展示している壁の奥にも小さな絵が二点と彼のしごとが掲載されている本や雑誌があった。その中のひとつによれば、はじめ「予兆」は3枚の「フスマ」で構成していたが、11月に始まる個展をひかえた10月になって4枚にしたくなった。そんな時になって変えたとすれば、それははどこだろうかと絵を見ると、いちばん左の部分しかありえない。だとすれば、それは、北斎の波をほぼそのまま描いているところだ。たしかに、実は大地である右側の大波を、一瞬のあいだ海の波に見せるのには大きな効果がある。

■ART ACCESS INTERNET VERSIONというにサイトにインタビューが掲載されています。
 ART ACCESS INTERNET VERSIONというサイトの、'Round Aboutという、インタビューのコーナーがあって、その第60回が池田学。「予兆」について、下絵についてなど話しています。

■関連エントリー:Psalm of the sea:「池田学」と「満島ひかり」と「北井あけみ」

投稿者 玉井一匡 : 11:58 PM | コメント (6)

January 04, 2009

遅配エントリー:年末玉ノ井ダイブ

TamanoiDivMasaS.jpgClick to PopuP
 年末の、kai-wai散策の「JED-iPhoner's@東向島」というエントリーでつかわれた写真の大きなサイズのデータがmasaさんから送られてきた。ぼくだけが、このエントリーをしそびれたので、みなさんの写真と対になるやつを年明け早々に書いておくことにしよう。

 左の写真は、kai-wai散策のその写真をmasaさんが撮っているところだ。
こんな鋭角の三角形の、いまでは空き地になっている敷地には、かつてどんな建物があったのだろうかと思いながら、デジカメを低く構えてmasaさんをパースペクティブの土地に載せて撮った。Googleマップで見ると、航空写真には、まだ三角形の建物が残っている。じゃあストリートビューをと思ったが、残念ながらこちらではもう空き地になっていた。
 iGaさんのMADCONNECTIONの「放課後...みたいで...」の写真では二人のオヤジがなにやら一心に眺めているが、彼らの身体が邪魔をして肝心のものが見えない。右の写真を見れば、オヤジたちの興味をひいたものが何なのか分かります。

TamanoiDivCafeS.jpg 隅田川の水面をなめていっそう冷え切った北風が吹きぬけるまちを、おだやかな陽の光をあびているとはいえオヤジが五人、せまい商店街や路地を歩いているとすっかり身体が冷え切って、ひとやすみしようということになったが、下戸のぼくとmasaさんにはさいわいなことに、まだ日が射しているからアルコールではなく珈琲屋になった。その店内でiPhoneをつかって撮った記念写真を、秋山さんが「JEDI @玉ノ井」というエントリーで、怪しい写真に加工してエントリーした。ここは不思議な店だった。古いレンガ塀に囲われ田店の入り口の前には小さなお稲荷さんの社、その背後にはウィンドウサーフィンのボードが横たえられている。中に入ってみれば、小さくてすこぶるふつうだがやや古めかしい喫茶店だった。全員ホットコーヒーを飲んで心身を温めたあとに、もうひと歩きして冒頭の記念写真となったのだ。

その後、東向島から東武伊勢崎線に乗って隅田川を渡り浅草で下車、浅草寺裏のプロのための注連飾り市を覗く。4つめの写真は、車中で少年のごとく一心にデジイチのディスプレイを見る環境社会学者のほほえましい姿である。(画像の一部に不穏当な表現がありましたので改正いたしました)この座席の向かいの様子が、「MacBook」なるエントリーの一部に加えられた。
おじさんたちは体内に液体燃料を注入すべくホッピー通りに繰り出したのだが、ぼくは歯医者さんに行かねばならなかった。治療中の仮歯のとれちゃったのを処置するために、年末の週末に診察時間のあとなのに時間をとってくださったのだった。

投稿者 玉井一匡 : 12:30 PM | コメント (11)

January 01, 2009

あけましておめでとうございます


Nenga2009Slim.jpg
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ブログとEメールの年賀状は味気ないといわれることがありますが
ほんとうに年が明けてからおめでとうございますと書いて
それがすぐに相手に届くのが、むしろきもちいいとぼくは感じます

先日、ある少人数の忘年会に飛び入り参加させていただくことになり
同世代の人たちだったので、何歳まで生きたいか、何歳まで生きるかというのを
それぞれが申告するということをしました

ぼくは、82才希望で82才満額達成という申告をしました。
いままで、あまりそういうことを考えたことがなかったので
時間に限りがあるのだということを、すこし感じるようになったようです。
あとになってみると、なかなか新鮮な気分になりました

あけましておめでとうございますといって気分がリセットされる風習はいいものですね
西行は、みずからの歌に詠んだとおりに花の頃に世を去ったそうですが
それは偶然ではなく、意図的なものだったという説がありますが
それは、最後まで意識的に生きたということだったのだろうとぼくは思うのです。

そんなわけで、リセットされたところで今年一年大切に生きようと思いをあらたにしています。

投稿者 玉井一匡 : 12:01 AM | コメント (24)