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地図の表示がほとんど役に立たなかったのでちょっと興味をそがれ、行き帰りの途中で思い出してiMapMyRideを動かして起動させた。
しかし、そうしているうちにあたらしい発見が昨夜もひとつあった。
バージョンアップしたことはないから、もともとあったのに気づかずにいたのだ。いずれは加わるに違いないと思っていた機能だったから、ちょっと得をした気分になった。
うちに帰り着いてから「STOP」ボタンを触れて速度や距離を確認し保存する。そのときに「View Elevatio」と書かれている赤い文字にきづいたので、それをさわってみるとグラフが出て来た。
小さなグラフなので細かい数値は見にくいが、行程の上り下りを表示している。elevationていう言葉は、ぼくたちは立面図のことだと思いこんでいるので、こういう使い方があるのかと今更だが知った。起動した地点が標高12mほどで自宅のあたりは40mほどだという。ぼくの自転車通勤ルートは、妙正寺川に沿って走ろうとして試行錯誤しているうちに落ち着いたものだから、行きは下り、帰りは上りになるのは当たり前で、同じ程度の力で走って行きと帰りでは実感で時速5km/hほどの違いのあるところが多いとは感じていたのだが、それをグラフで視覚化されるとまた別の実感が生じた。
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ひとつの画面には入りきらないので2つの画面を貼り合わせて標高の変化と走行ルートをならべてみた。いまのところ、走行ルートの表示はこんなぐあいで山手通りの外は地図さえないうえに、拡大もできないからほとんど役に立たないけれど、標高の変化は、この小ささでもたのしめる。
もうひとつ、面白い機能がある。
音声で走行データを伝えてくれるのだ。
「Time,2minute21seconds. Speed, 21.7kilometres per hour. Current speed,24kilometers per hour.」
という英語の声が、設定に応じて一定の時間あるいは一定の距離の間隔で聞こえてくる。
自転車では走りながらiPhoneを取り出して見るわけにはゆかないから、これは必要な機能だ。英語だからちょっと聞き取りにくいが、それもかえっておもしろい。
ぼくは、英語の聞き取り、とりわけ数字の聞き取りが苦手で、いちいち頭の中に数字を描いてから数値が思い浮かぶのだ。だからこの機能をリスニングの訓練に使おうと思っている。
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さきごろ友人が設計した住宅に「ヴィラのようなもの」というタイトルとつけたと知って、そういえば、去年つくったこの仕掛けのことは「水琴窟のようなもの」といえばいいのだと思った。なかなかいい音を出しているし姿もまあうつくしいと思うから「のようなもの」というのは、卑下しているわけではなく、水琴窟のあるべき条件を満たさないから、これが水琴窟だとは言えないのだ。
「窟」とはほらあなである。洞穴であるからには地中に空洞をつくりひそやかに水と大地がひびかせる音をたのしむものでなければならない。が、これは甕を白日のもとにさらしている。水琴窟はあそびである。あそびであるからこそ、本来のありようをまもることには忠実でなければならない。地中に埋めていないという一点で水琴窟と名乗ってはならないのだ。
「日本水琴窟フォーラム」という、水琴窟好きのあつまるNPOがあって、西に古い水琴窟があるらしいときけば調査におもむき、東で土が溜まって音が出なくなったものがあれば洗浄して復活させる、北から水琴窟をつくりたいのだがときかれれは指導に出かけるというような活動をしている。ぼくはその門前の小僧のようなものなので、ひとのすなるすいきんくつのようなものをつくらむとするなり、というわけだ。
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水琴窟のしかけは、地中に空洞をつくり中に10cmほどの深さで水が溜まるようにしておいてそこに水滴を落とし、音をひびかせるというだけのものだ。そのために底に穴をあけた甕を伏せて埋め、水に一定の水位を保たせる水抜きをつくる。「日本水琴窟フォーラム」のサイトに、歴史や構造についての説明があり、音も聞くことができるので、開いてみてください。
しかし、土に埋めてしまうと試行錯誤がほとんどできない。いったん作ってしまえばもうちょっと水を深くしてみようかとか甕のかたちを変えてみようなんてことを思ってもあとの祭り至難の業だ。
だからぼくは、研究者がそうしているであろうように土の中に埋めずに水位の調節も可能な仕掛けをつくることにした。ぼくのやつの材料は、まずは紹興酒の甕、そして平型の大型の植木鉢、素焼きの植木鉢、内径10mmほどの銅管、浴槽のゴム栓、それに緋扇貝の貝殻をつかった。
紹興酒の甕の底に電動ドリルで穴をあける。それを大きな平型の素焼きの植木鉢の中に伏せて水を張るのだが、植木鉢の底には穴があるから、それをふさがなきゃあならない。で、ぼくは風呂のゴム栓をつかうことにした。それで水を溜められる。
しかし、水位を一定に保たなければならない。ゴム栓の中央に穴をあけて銅管の一方の端を差し込んで、甕の下をくぐらせて甕と植木鉢のあいだにもう一方の端を出した。水が増えればその管から外に流れて水位をその位置に保つことができる。エルボーのところを回転させれば水位を調節することもできるのだ。
・紹興酒の甕の上に乗せた小さな植木鉢の中には布とシュロ縄をいれて、その上に花びらにみたてた緋扇貝を重ねた。甕を露わにしているだけに水をかけた後にすぐに反応するのではあまりにおもしろみがない。だからしばしの時間をおいて音をだすようにするための仕掛けだ。貝殻のたくさんついている溝にも水がしばらく留まる役に立つだろうとも思った。
・脇に漬け物の甕にためてある水を貝殻を柄杓にしてすくいとり緋扇貝の上にそそぐと、乾いたときにはこんなに色の褪めていた貝殻が、たちどころに鮮やかな色をよみがえらせる。だから、水をかけるたびに、ぼくは水がいとおしく思うのだ。
少し時間をおいて水が下から流れるとそれが甕の穴から内側に回って、水面に落ちる。
水滴がおちたとき甕の中で音を響かせる。その音がふたたび紹興酒の底の穴から戻ってきて、上にのせた植木鉢と甕の間からきこえるのだ。
・水滴が水面に落ちて音をだすというメカニズムについては、上記の日本水琴窟フォーラムのサイトの「水音研究所のページ」に詳しい論文が掲載されています。
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ひさしぶりにApp storeを開いて見ていたらiPhoneを自転車用のトリップメーターとしてつかえるというアプリケーションを見つけた。平均速度、瞬間速度、走行距離を表示する。しかも無料だ。
その名をiMapMyRideという。
おおかたの自転車のメーターは、車輪の寸法のデータを打ち込めば、あとは走行中の回転数から距離と速度をコンピューターが計算する。もちろんぼくの自転車にもそれをつけている。iPhoneには、もともとGPS機能があるのだから、それを利用して現在位置を把握すれば、それをもとに速度や走行距離を計算できるわけだ。
さっそくダウンロードした。シンプルで美しい画面ではないか。
数々の設定をしてから帰り道で試してみた。
iPodを開いて音楽を流してみた。iPodと両立するかどうかを確かめるためだ。
つぎにiMapMyRideをひらいて「スタート」ボタンにふれると時間が進みはじめる・・・はやくしないと平均速度がおそくなるなどとさもしくもあわててペダルを踏むのがなさけない。左手にハンドルとiPhoneの両方をもって表示の変化を見る。スピードの変化になかなか敏感に反応する。同時に、iPodの音楽は切れることなく流れている。
ホイールの回転から速度を計算するんだったらあたり前のような気がするのだが、人工衛星とぼく+自転車+iPhoneの位置を認識して、のべつ移動を確認しながら速度を算出することを思うと、なんだかうれしくなる。走りながら画面を確認。もともとつけているメーターの表示と較べれば反応が遅れるが、欠点というほどではない。途中で一度、操作を間違えて計測を中断させてしまい、以後はiPhoneを見ないことにした。
うちについてからの楽しみがある。走ったルートを地図の上に落としてくれるはずだ。だからiMapMyRideというのだ。自転車を停めてSAVEボタンにふれ、それまでの走行記録を保存する。My Trainingというボタンをふれるとおだやかな褐色の地図に赤い線でルートが示された。地図が小さすぎるし、地名がローマ字だから、ここが日本なのだろうかと一瞬疑がった。親指と人差し指で拡大しようとしたが反応がない。それよりも、環6のちょっと外は地図がない。「Map data not yet available」と書かれている。
GoogleMapsを使うのかと思っていたがそうではないのだ。いずれおこなわれるであろうバージョンアップに期待しよう。
設定は、こんな具合にする。
・運動の種類:Run, Bike, Walk, Other から選ぶ
こいつが測定するのは自転車のスピードではなくて、iPhoneの移動速度なのだ。だからそれが自転車に乗っていようと歩いていようとジョギングしていようと、構いはしないということなのだ。
・距離の単位:mi, km
・バックライトの点灯時間:スライドスイッチで選ぶ
あまり長いあいだ画面を開いていたら、すぐに電池がなくなってしまう
・Voice Feedback Setup:間隔を時間か距離で設定すると音声でデータを知らせる。
・アカウントとパスワードの設定
MapMyRideというサイトに飛ぶと、もっといろんなことがありそうだ。
■追記
さらに調べると、iMapMyRideの有料版iMapMyRide+というのがあった。600円である。(責任上、有料版のiMapMyRide+をダウンロードしてみたが、いまのところ違いがわからない。)そのほかにもMapMyFitnessのシリーズには、有料無料をふくめてこんなにいろいろあるのだった。じてんしゃだけではないのだ。
漱石の絶筆となった「明暗」のつづきを文体そのままに書いた「続 明暗」を読んで大胆さにおどろかされたが、それ以後この人が小説を書いたことは知っていたものの読んだことがなかった。
日本語の乱れについての嘆きと腹立たしさについて書かれたエッセイだろうかと読み始めると、日本語論でもエッセイでもなく、普遍語としての英語と、その他の言葉の関係の現在と遠からぬ未来のありようを真正面から論じたものだった。ここ数年で、もっとも刺激的で面白い本だと思った。図書館で予約しておいたのがしばらく経ってから届いたのを読んだのだが、返却したあとに本屋で買ってもう一度読みかえし、あちらこちら存分に付箋と鉛筆の書き込みを加えた。
この本では、ことばを意味する語がはなはだ多くつかわれている。それらをざっとあげてみると、拾い落としもあるだろうが、それでもこんなにある。
<普遍語><国語><公用語><現地語><方言><書き言葉><読まれるべき言葉><聖典><話し言葉><外の言葉><図書館><大図書館><母語><ボゴ><「蓋付きの大箱」に閉じこめられた言葉><自分たちの言葉><口語><俗語><口語俗語><非西洋語><学問の言葉><母国語><多重言語者><三大国語><文学の言葉><数式><国語の祝祭><自国語><出版語><聖なる言語><書き言葉><言文一致体><真名><仮名>
これら、言葉に関わることばの数々を組み合わせれば、この本の全体像ができあがる。さながらそれはジグソーパズルのようでもあるが、ジグソーパズルはどういう結果に至るのかがはじめから分かり切っている。ぼくは、それを面白いと感じられることが理解できないのだが、その点ではこの本はジグソーパズルとは、むしろ対極にあるのかもしれない。
著者がどのような立場に立っているのかについて、「續明暗」を読んだだけのぼくには前もっての知識が皆目なかったおかげで、どんな結論に導こうというのか最後まで分からないから、推理小説を読んでいるようだった。帰りがけにこの本を読みたくて、自転車を置いて電車で帰る途中、乗り換え駅のコンコースで紙面から目を離せず、靴の底で黄色いタイルをたどりながら歩くくらいなのだ。
さらに、この本の論理の軸をなす「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン/山口隆、白石さや訳)という本について知らなかったことも好奇心を刺激したのだと、あとで思った。
空腹は最良のソースなのだ。
著者は12歳のときに父の転勤で両親と姉と自身4人の家族としてアメリカにゆくが、ひとり部屋にこもって日本文学全集で漱石、鴎外、一葉、二葉亭四迷、谷崎ら日本の近代文学小説を読みふけり英語の世界あるいはアメリカ世界になじむことがない。たいそう偏屈な少女なのだ。「続 明暗」のころに初めて著者の写真を見たとき、だれかの目つきに似ていると思ったが、不思議の国のアリスだ。生きのいい悪意を秘めている。
このひとの二つ目の小説である「私小説 from left to right」には、大学院でアジア系学生として生きる主人公の目がこの間に読み取ったものを書いている。日本語の文章に英語による会話を混じえるため横書きというまれな形式を選んだ。だから「from left to right」という副題を添えたのだと、本書に書かれている。
長じて日本に戻ったときの、このくにの文学の世界についての印象をこう書いている。
「いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしいものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。『あれ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。」
辛辣きわまりない書きようだが、外の世界から見ているぼくたち読者には痛快このうえない。
日本の文学に対する、こうした嘆きと怒りを燃料に、「想像の共同体」という概念をエンジンとして搭載した乗り物で、日本語の世界に単身で乗り込んだのが本書なのだ。ひとの見方の影響をうけたくないので、ぼくは書評をまだよんだことがないけれど、批判的な指摘として「想像の共同体」の論理そのままではないかという人がきっといるだろう。だが、それでいいのだ。エンジンだけでは世界を変えられないのだから。それでどんな乗り物を作りどこに行き、何を見るのか何を伝えるかが問題なのだ。
本書の論旨は、およそつぎのようなものだ。アイオワにおける国際ワークショップ、パリの国際会議での経験によって生じた認識をもとに、「想像の共同体」による理論を駆使して日本の文学と日本語の歴史そのありようについて論じている。
・日本は、非西洋にあってほぼ唯一、自国語による近代文学をもつことができた。中国文化圏にあって、さまざまな幸運な条件のおかげで独特の文化受容をなしとげたこと、そしてやはり幸運のはからいで西洋の植民地となることを免れた。
・さらに、戦争の過程でアメリカは日本研究のためにきわめて優秀な人材を投じ、その結果、戦後にドナルド・キーンやサイデンステッカーのような人たちがやってきて源氏物語や明治の日本文学を英語で紹介した。おかげで、日本語は主要な文学をもつ言葉のひとつとして認識されるようになった。文学とは、自分の母語として身につけた言葉でしか書くことができないものであるから、そうやって伝えられ評価を受けた日本の文学と言葉はきわめて幸運な立場にある。
・しかし、明治以来、日本の政府は日本語をないがしろにしつづけた。初代文相の森有礼は英語を国語として採用しようとしたし、戦後に定められた「当用漢字」とは、いずれ表音文字化すべき日本語で当面つかいつづける漢字として定められたものだった。
・一方、英語は、アメリカの経済力・軍事力のおかげで、「普遍語」の地位を獲得した。
普遍語とは、かつてラテン語があるいは中国語(漢文)やフランス語がそうであったように、周辺の国々のある階層の人々のみが書き、それを読むことができるのだが、それによって人間の「叡智」が蓄えられうけつがれ磨かれてゆくものだ。
「ある階層の人々」は、自国語と普遍語のふたつを自在に使う人のことだが、インターネットの出現によって、英語は普遍語としての地位をますます強化してとどまるところを知らない。
・それでは、これから日本語はどうすればいいのか。というのが、本書が最後に掲げる命題である。推理小説の謎解きを書いてしまうことになるが、著者の結論は、公教育において英語の教育を強化するよりもむしろ日本語の教育を充実せよというのだ。英語の勉強を深める機会など、この時代はその気にさえなればどこにでも無料でころがっているのだからと。
この結論そのものは、かならずしも独自のものではないかもしれない。しかし、本書の価値は結論に至るまでのところにあり、そこに持ってゆくまでの著者のものの見方の大部分にぼくは同意するし、著者の憤りにも価値観にも共感した。