June 23, 2009

「天空の草原のナンサ」と「Whole Earth Catalog」

 Nansa1.jpg 
 アジアンスマイル「シリーズ・二十歳の挑戦:愛して伸ばせ」
の放送を見てモンゴルへの関心がふくらんだが、うちには「天空の草原のナンサ」のDVDがあるのに、ぼくはまだ見ていなかった。次女が、姉の誕生日にプレゼントしたもので、遊牧民の家族:父と母+娘二人と小さな息子という5人の家族の生活を撮った映画だ。ナンサは、主人公である女の子の名前である。

 見はじめてほどなく、とてもきもちのいい映画であることがわかる。子供たちの表情や振舞いを見ているだけで、自分の表情がすっかりゆるんでいく。双眼鏡で鳥たちを見ているだけで楽しいように、この映画のなかのこどもたちを見ているだけで楽しくてしかたないのだ。
 こどもたちとそのふるまいをかわいいと感じるからであるのは事実だが、もっと深いところでうごかされる。遊牧する家族という最小単位の社会の中にぼくたちも立っていて、ゆるやかな山並みという自然が遠くにある。その間のはてしない草原に羊と馬があそぶ。世界と空間がそんなふうに明快に構成されていることで、ぼくはひとつの世界ひとつの小宇宙にいるということを実感して安心感をもたらされるのだ。ぼくはそこにすっかり浸りこんで心地よくなった。

WholeEarthCat.jpg 百科事典や図鑑・辞書・地図・歳時記のような本が、ぼくは大好きだ。数冊ときにはわずか1冊の本のなかにすべての世界が詰め合わせになっているからだ。
かつてホール・アース・カタログは、道具によって「全地球」の詰め合わせをつくって見せてくれた。そのとき、数ある項目の中のひとつに「Nomadics」(遊牧民の)というのが含まれていたが、この映画はそのことを思い出させた。 
 ナンサは、おさない子供でありながらたった一人で馬にまたがり自然と対峙する。遊牧民の子供たちは、自然のもたらすめぐみや潜む危険にも、季節の変化のよろこびやきびしさを通じて自然というものを理解するだろう。羊の子が育ってゆくさまも、それをたいせつに愛情をこめて育てた人間が羊のいのちをうばう様子も見て、生命とは何であるのかを知るのだろう。父、母、兄弟のように簡潔な人間関係は人間についての理解を助けるだろう。何度となくすまいを組み立て解体するのをみては、家とは何だろうと考えるだろう。
 ホール・アース・カタログにNomadicsという項目を設けたのは、遊牧民の生活と世界観にはすべての世界を身近に引き寄せるところがあると、編者スチュアート・ブランドが見抜いていたからなのだろう。

 最小限のコミュニティを思う一方で、限界集落という言葉についても考えずにはいられない。住人の数がどんどん減って、社会生活が成り立たなくなる寸前の集落のことだ。この遊牧民の家族、ナンサの家族は、最小限のたった一家族だけで遊牧をしている。しかし、本来の遊牧民の生活はこんなふうではないはずだ。かつては複数の家族が集団をつくり遊牧していたのだろうが、いまやモンゴルでも遊牧生活はなくなろうとしているのではないか。
 にもかかわらず、この映画は消えようとしているコミュニティよりも、むしろ発生しようとしているコミュニティを感じさせる。
すくなくとも、ぼくにはそう思われた。

■追記
The Last Whoke Earth Catalogでは、Nomadicという項目のひとつまえにCommunityという項目がある。

■関連エントリー
Whole Earth Catalog/aki's STOCKTAKING
Whole Earth Catalog(ホール・アース・カタログ)/PATINA LIFE in LoveGarden

投稿者 玉井一匡 : 08:26 PM | コメント (0)

June 13, 2009

モンゴルの20歳の校長先生:「シリーズ 20歳の挑戦 第1回 愛して伸ばせ」

20SaiKoCho.jpg 先日の朝、BSでモンゴルを撮ったドキュメンタリーを放送していた。見始めたら興味深くて最後まで見てしまった。「非電化工房」の非電化冷蔵庫をモンゴルに行ってつくってきたという話を思い出したから見はじめたのだが、すてきな話だったので録画しておけばよかったと気づいたのはあとの祭り。「NHKオンライン」で検索すると、「シリーズ 20歳の挑戦 第1回 愛して伸ばせ」という番組で、もう一度6月14日の日曜日午後11:40から12:00まで再放送がある。たった20分しかない番組だったのだ。さっそくぼくは録画予約したが、できるだけ多くのひとに見てもらおうと思い放送前に駆け込みのエントリーをすることにした。

 モンゴルでも近頃は経済が自由化されたので、たくさんの私立学校ができるようになった。
そのひとつに20歳の校長先生の学校があるというのだ。モンゴルにも格差社会が始まったというのかと見ていると、そんなつまらない話ではなかった。

 ずいぶん若い校長だとだれしも驚くだろうが、彼は16の歳でこの学校をつくって、すでに4年が経っている。彼はとび級で大学に入り16歳ではもう卒業した。自分で考えてみつけた方法をこどもたちに伝えたくて学校をはじめたのだという。天才でありながら、それをたとえば自分自身の利益や出世という世俗的な目的のためではなく、自分の研究のためにですらなく、こどもたちのために使いたいと考える若者がいるところに、この国が若く健全な時代にあることがわかる。そうするに値する国だと、少なくとも彼に思わせるほどの国なのだ。GDPや経済成長率などというものは国の健康や質を示す指標ではなく、ただ体重のようなものなのかもしれない。日本という国だって、いまでこそこんなデブになってしまったが、かつては空腹だが健康で意欲にあふれ未来を信じていた時期があった。
 彼はエリート教育を受けたわけではない。それどころか、まだ小さい頃に母が病気になり、のちに父親が家を出て行ってしまう。学校をやめて母と弟たちを養わなければならなくなり、独学で学ばざるをえなくなった。そのときに見つけた学習方法をふまえて学校をつくったのだった。

 小学校から高校までの生徒がいる彼の学校では、学科にわけて授業をしない。既製の言葉で言えば総合学習だ。かつて「ミュンヘンの小学生」という本を読んで、ぼくたち夫婦はシュタイナー学校の教育にひどく感動した。こういう学校をつくりたいとぼくたちは思ったのだが、彼は小学生にしてそれを自分自身の力でみつけたのだ。
 ぼくたちの受けた教育は、国語、数学、理科、社会科などという学科に刻まれていたが、じつは世界というものはひとつであって、それをさまざまな切り口から別の見方をしているにすぎない。だからそれをひとつの授業のなかで見つけさせることで、世界はひとつのものなのだと理解してもらおうという考え方なのだ。
しかし、この教育方法は容易なことではない。まず先生自身が、おなじ一つのものごとについてあらゆる方向から考えることができる能力を身につけていなければならないからだ。さらに彼は、他の先生の教育もしなければならないのだ。

Nansa.jpg このドキュメンタリーを見るうちにモンゴルへの思いがふくらんで、ぼくは「天空の草原のナンサ」を見たくなった。うちには、次女が姉にプレゼントしたDVDがあるのだが、ぼくはまだ見そびれていた。
 今朝はそんなことを娘と話していたら、午後にはこんなこともあった。
「玉井さん何でも好きですか?」と、クライアントの娘さんが突然に言った。
「ぼくは、嫌いな食べ物はひとつもなくて、何でもすき。」
「だったら、巣鴨にある「シリンゴル」というモンゴル料理屋さんの、羊肉に塩をしただけで蒸したのをタレにつけて食べる料理がとてもおいしいんです。
玉井さんきっと好きだと思うから、行ってみてください。正確には場所を憶えていないけど」
「じゃあ、インターネットで調べて行ってみますよ」

投稿者 玉井一匡 : 01:15 AM | コメント (9)

June 09, 2009

ラジオパープル

RadioPurpleS.jpg「NPO法人全国女性シェルターネット」は、DV(ドメスティックバイオレンス)の被害者の生活と生命を直接にまもりながら、そのための制度の確立などによって不条理からの解放を目的として粘り強く熱心に活動を続けている。
その事務局長である遠藤智子さんからメールが届いた。「ラジオパープル」というインターネットラジオが、6月3日から開局する(いまでは「開局した」だが)という知らせである。また一歩を進めたのだ。
シェルターを運営して生命の危険にさえさらされる被害者たちの身体と生命をまもる。国会に働きかけて立法化した。それを報告する「女性たちが変えたDV法―国会が「当事者」に門を開いた365日」という本や「デートDV」という本を発行した。国際会議を企画して実現させた。そして、今度はインターネットラジオを開局した。
 メールによれば、シェルターネットが主催だが、ほかに3つの団体が参加している。女性のためのカウンセリングをする団体、働く女性の抱える問題を解決しようという団体、「セクシャルマイノリティ」のひとたちに対する偏見をなくそうという団体だ。

というわけで、毎週1回水曜日に更新されるというラジオパープルを聴いてみてください。
メールには、もっとくわしく書かれています。(われわれAppleファンには評判が悪いマイクロソフトも、この活動の支援団体に名を連ねています。)

以下、メールから転載
   *   *   *   *
皆様  NPO法人全国女性シェルターネットが主催いたします
インターネットラジオ放送がようやく開局の運びとなりました。
女性への暴力根絶に向けた運動
「パープルリボンプロジェクト」の一環の事業です。
ご協力いただいた皆様に深く感謝申し上げます。
6月7月までは隔週の放送となりますが、
それ以降は毎週水曜日の午後9時にオンエアを予定しております。
準備不足もあり、不十分なところも多々あろうかと思います。
皆様からのご意見をいただきながら
女性たちのエンパワーとなるべく
努力してまいりますので、末永くお付き合いをお願いいたします。

女性が必要な情報を手にすることができる
インターネットラジオ放送が6月3日より始まります。
毎週水曜日(6,7月は隔週)更新。
まずは是非サイトまでお越し下さい。開局記念として番組を公開しております。
http://radiopurple.org 

●放送の目的○
 「ラジオパープル」は、女性に対する暴力根絶に向けた「パープルリボン・プロジェクト」の一環として開局します。第一義的に目指すものは「情報提供による女性たちのエンパワーメント」です。

 情報の氾濫する現代に生活しながら、女性たちの多くは必要とされる情報を持っていません。例えば、DVに被害に遭ったときの対応の仕方を教えてくれる身近な存在はいませんし、レイプなど性暴力に遭ったときにも、どうしたらいいか知っている人はほんの少数です。学校を卒業し、就職しても、働く人に保障されて いる権利についても学ぶ機会がなく、セクシュアルハラスメントに遭ったときの対処法も情報提供されていません。セクシュアル・マイノリティに関する問題も同様で、性自認や性的指向について間違った情報ばかりが飛び込んでくるのが現状です。

 こうした、ジェンダーバイアスに基づく「情報格差」によって、女性たちは被害に遭っても適切な支援を得らなかったり、自らを心身ともに傷つけたり、抑うつに追い込まれたりしています。さらに、暴力を訴えることで、警察・司法そして社会から「二次被害(セカンドレイプ)」を受けることも決して珍しくはありま せん。また、女性に対する暴力が人権問題であるということも、啓発が遅れていると言わざるを得ません。

 そこでインターネットというすべての市民に開かれた媒体を通して、「無料で、女性にとって必要不可欠な情報にアクセスできる」場の保障に取り組み、女性自身のエンパワーメントを図ります。


●主催団体紹介○
【NPO法人全国女性シェルターネット】
 1998年、DV被害当事者の支援に関わる民間団体の全国ネットワークとして設立。2005年法人化。現在64団体が参加。年1回の全国シェルターシンポジウムを開催し、当事者・支援者・行政担当者・学識者等多くの参加を得ている。
 設立当初から、DV根絶に向けた法制度整備に取り組み、2001年「配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律(DV法)」の制定と2度の改正に取り組み、被害当事者.支援者の声を反映してきた。2006年からアジアにおけるDV被害当事者支援の民間草の根団体とネットワークし活動の領域を広げている。

●参加団体紹介○
【NPO法人フェミニストカウンセリング東京】
ジェンダーの視点に立った「女性のための女性によるカウンセリング」に取り組むNPO法人です。

【ACW2:働く女性の全国センター】
働く女性の様々な悩みに応える仕組みを作ろうと2007年に発足したNGO。

【“ 共生社会をつくる” セクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク】
セクシュアル・マイノリティへの根強い偏見の解消と真の共生社会をめざして、国政レベルに働きかける当事者のみならず、家族や友人などの支援者からなる全国ネットワークです。

●主催:NPO法人全国女性シェルターネット
●後援:内閣府(申請中)、厚生労働省
●支援団体:コミュニティITスキルプログラム(マイクロソフト株式会社) 他

投稿者 玉井一匡 : 10:18 PM | コメント (0)

June 08, 2009

ディビザデロ通り

Divizadero.jpg「ディビザデロ通り」 (新潮クレスト・ブックス)/マイケル・オンダーチェ著/村松潔訳/新潮社

 この小説を読みながら、ぼくは何度か星座のことを思い浮かべた。
昔の人たちは、数知れぬ星たちの中からいくつかを選び出して、 そこに動物や神話の生き物、人物や物語を読みとった。しかし、それらの星は、じつは空間もたがいにはるかに離れているし、同時に見る星の光は、それぞれ別の時間に放たれたものだ。
 さながら、そのようにして星座を構成する星たちのように、互いに離れた時間と空間に散在している複数の物語によってこの小説はつくられている。
 ひとりをのぞいて、たがいに血のつながりのない3人の子供たちと父親、娘がふたりと男の子がひとり。カリフォルニアの田舎で生活を共にしていたこの家族が、あるときビッグバンのように飛び散ったのだ。

 小説や映画について書くとき、ぼくはストーリーを書かないようにしているのだけれど、こればかりはストーリーについても書かないわけにはゆかないようだ。断片となった物語は、因果関係も時間の前後関係もたがいに知らない。読者は物語の結末を手にすることはできない。多くの物語は、混沌から一つの世界の構築に向かうものだから、フィルムを逆転しているようだ。にもかかわらず、ぼくは気持ちよく読み続け、読みおわっても満たされない思いを抱くわけでもなかった。ひとつには、それぞれの断片につくられる世界には痛切な思いが流れ続けながら、とても美しいからだ。

これまでに読んだ村松潔訳の小説は、以前にエントリーした「ヒストリー・オブ・ラヴ」も、「旅の終わりの音楽」も、いずれも悲しく美しい物語だった。それぞれ別の著者の書いたものだから、じつは村松さんの文章によるところが大きいのかもしれない。その中で、ただ「ディビザデロ通り」だけは物語の結末を読者に置いていってくれない。

 しかし、結末よりも大きなものを残されたとぼくは思う。ぼくたちはこの世界の全体像をどうやって構築しているのかをつたえるのだ。
 三人の若い登場人物の世界が断片となってからの物語を生きるとき、彼らはたがいの世界を知らないが、生き方にある共通点をもっている。いずれも、手元にない時空の断片を探し出して組み立てるという仕事にたどりついているのだ。
 娘のひとりは、ある小説家の生涯を掘りおこす研究に没頭している。もうひとりの娘は裁判のために必要な資料を探し出す調査員としてすこぶる有能なひとになっている。そしてかつての少年は天才的なギャンブラーとなった。ギャンブラーは、カードという断片からある秩序を構築するものではないか。
かくしてぼくたち読者と登場人物は、同じようにふるまうのだ。しかし、推理小説であれば最後に約束されるはずの謎ときやハッピーエンドというカタストロフィーもない。

 この三人のように、そして読者がそうであるように、ぼくたちひとりひとりはこの世界について断片とさえ言えないようなわずかなことを、一生をかけて知るにすぎない。にもかかわらず、それぞれに世界の全体像を作り上げることができる。あるいは世界のすべてを把握したと思うことができる。これまでぼくたちは、神や運命や科学の力を信じ、そして想像力を動員することによってそれを実現してきた。

 しかしいま、断片化された物語がかくも大量かつ瞬時に、出所があいまいなまま世界に届けられるようになった。ぼくたちはそれらをもとに大きな世界像を作り上げる想像力をそなえておかなければならなくなった。その一方では、それらが断片に過ぎないこと、ときには偽物の世界像さえ完成されて届けられるかもしれないということに意識的でいなければならない。さもないと、宅配される情報がたちどころに人間を危険な行動に導く時がくるかもしれないからだ。
 きわどい時代をぼくたちは生きることになったものだが、どのみちここに遭遇したのなら、せいぜいそれを面白がってやろうと思う。

投稿者 玉井一匡 : 10:56 PM | コメント (0)