September 21, 2009

「生物と無生物のあいだ」

Seibuts-Museibutsu.jpg「生物と無生物のあいだ」/福岡伸一/講談社現代新書
 近隣のブログでこの本が話題になっていたころ、ぼくはなにか他の本をよんでいて話に加わることができなかった。以来そのままだったのだが先日になって読みたくなってしまった。
福岡氏の本は初めて読んだが、なるほどおもしろい。おもしろいというだけではない、生命とは何であるかという、すくなくともぼくにとっては何よりも重要なことについて、明快な答えが示されている。
ひとがものごとを理解するには、まず、知りたいという好奇心が必要だ。好奇心があってこそ、ある事実を提示されたときにそれを貪欲に吸収し理解することができる。それよりもさらに激しい知的な飢餓感があってこそ、まだ誰も知らない事実の発見という地点に到達することができるのだ。
 福岡氏が文章にすぐれているという定評があるようだが、ここでは門外漢である読者さえ知的好奇心を抱くように導いて、研究者たちの知的な飢餓感を満たされたときのよろこびの一部を共有させるのだ。

 ここに書かれているルドルフ・シェーンハイマーの実験は、ネズミに重窒素を含むアミノ酸のある餌を与えて重窒素がどこにあるかを追跡する。体外に排出されるのは、その3割ほどにすぎず、7割ほどがすぐに別のかたちのアミノ酸として体内のあちこちの部分に取り込まれ古いものと置き換わることを発見する。アミノ酸は、つねに新しいものによって置き換えられつづけるのだ。この実験と発見は1935年という昔のことで、きわめて重要なことであるにもかかわらず、この実験そのものもそれがあきらかにした事実も、ぼくは知らなかった。
・・生物というものは、つねにそれを構成する分子が、体内に摂取された新しいものとごく短い時間で入れ替わり続け、古いものは捨てられる。・・・この「動的平衡」状態(つねに一部が替わりながら、同じ状態を保ちつづけること)と、DNAによって自己複製できることをもって生物を定義するというのだ。
wikipediaを探してみたら日本語のwikipediaには「ルドルフ・シェーンハイマー」の項目はない。英語に切り替えてみるとRudolph Schoenheimerの項目はある。あるにはあるが、この指摘の重要性からすれば書き方はけっして丁寧に書かれているわけではない。あまり重視されていないのかもしれない。しかし、ぼくには、とてもわかりやすく自然の根幹を理解させてくれた。

Seibt-MuseibtIse.jpgClick to Jump to 伊勢神宮website
 これを読みながら、ぼくは伊勢神宮の式年造替(しきねんぞうたい:伊勢神宮のサイトには「式年遷宮」と書かれている)を思い出した。式年造替は、20年ごとにまったく同じ社殿をとなりに建て、あたらしい建物ができると古いものを解体する。物体としての神殿を定期的につくりかえることによって、様式やそれをつくる技術などを維持し続けるという逆説的なありようがとてもおもしろくてぼくはすきなのだ。じつは、生物体内の分子レベルでも、それと同じようなことがはるかに短い時間で、つねにおきているというわけだ。
 そういう思いがけない一致にも、ぼくは神の存在を感じるわけではない。けれどもこの事実は、ぼくたち人間が、文字通り自然という大きな流動的なシステムの一部分であるということを証明してくれる。
 生物の個体であるぼくという人間が、分子のレベルでは他の生物の部分と共通のものからつくられ続けている。ぼくという生物は、文字通り自然の一部として存在するこの瞬間の状態のことなのだ。

 「生物学と有機化学の年表」/wikipediaによれば、シェーンハイマーの実験は1935年に行われた。
この同じ年には、コンラート・ローレンツによる「刷り込み」理論も発表されている。
なんという輝かしい年なんだろう。

■追記
 このエントリーを書いたとき、日本語のwikipediaには「ルドルフ・シェーンハイマー」の項目はなかった。久しぶりにこの本のことを思い出して、自分のブログを読み直した。自分がどう考えたかを忘れてしまうときに、とても役に立つから、本についての記述は、自分自身のための記録なのだ。ついでにwikipediaで検索すると、、ルドルフ・シェーンハイマーの項目がつくられているのをみつけた。英語版を翻訳しただけの内容だが、もう少し丁寧に書いてくれればいいのにと思う。

■近隣エントリー
生物と無生物のあいだ/aki's STOCKTAKING
生物と無生物のあいだ/MADCONNECTION
生物と無生物のあいだ/ CHRONOFILE

投稿者 玉井一匡 : 11:03 PM | コメント (0)

September 12, 2009

カスク

casque1S.jpgclick to PopuP

 もうだいぶ前のことだが、父の日に枕をくれるという。しかし、ぼくはすこぶる寝つきがよくて寝相がよくないから、せっかくだけれど枕というものがあまり役に立たないのだ。はじめの数分だけ頭を乗せているけれど、気がついたときには、とっくにどこにあるか分からなくなる。だからぼくは頭のためのものなら自転車用のヘルメットの方がいいと希望した。東急ハンズでみつけてたのがあるので、それをもらうことにした。フランスの三色などの鮮やかな色が多いが、ぼくは目立たない方がいいと思っていたので黒を注文した。

 いつ頃からあんなふうになったのか知らないけれど、いま使われている自転車用のヘルメットというのが、ぼくはどうにも気恥ずかしくてかぶる気がしない。だが、あれはおかしくないかという話をきいたことがないのはどういう訳だろう。あんなに後ろの方に頭を伸ばして、まるでエイリアンのようじゃないか。
頭のうしろに空気の渦ができないから空力抵抗が少ないんだという理屈だろうとは想像がつく。レースではエイリアン型(ぼくのつけた個人的な名称です)のヘルメットでないと認められないのだというが、いい歳のオヤジが日々の通勤につけるにはあまりに大袈裟で無粋だ。ぼくは60km/hで隣の自転車とコースの取り合いをするわけじゃない。

 ハンズで見つけたやつは商品名のように「カスク」と呼ばれていた。「カスク」というのは、フランス語で「ヘルメット」のことだよと村松潔さんに言われたとAKiさんにきいたことがある。スペルは「casque」で、自転車のヘルメットはcasque de veloというそうだ。veloは、自転車のことだ。
 「カスク」には、いくつもの長所と、ぼくにいわせればとるにたらない欠点がある。
長所は、①かさばらない ②しかも、こんな風に折りたたむことができる ③柔らかいので頭の形に馴染む ④だから帽子をかぶって、そのうえに「カスク」をつけることができる ⑤皮でできているから質感がいい・・・頭蓋骨をまもるには、エイリアン型におよばないのが欠点だけれど、エイリアン型だったらぼくはヘルメットを使わない。だから、多少はカスクのほうが着用したときの保護性能が劣るとしても、結果としては保護性能も優れていることになる。

 自転車ヘルメットの変遷については、wikipediaの「自転車用ヘルメット」という項目に懇切丁寧に書かれている。ここには、ヘルメット義務化と安全性についての項目もあって興味深い。歩行者の死亡事故のほうが、走行距離あたりにするとやや多いくらいだから、歩行者にヘルメットを義務化しないなら自転車だって義務化することはないという意見があることを紹介している。
 ところでボクシングの練習用のヘルメットのことを「ヘッドギア」というが、あれは正しい英語なんだろうかと気になった。wikipediaによれば、帽子からヘルメット、カツラや王冠にいたるまで、頭に載せるものはみんなHeadgearに含まれるようだ。これを日本語化したら「頭具」とでもいうのかな。

「casque de velo」/wikipedia(フランス語)
「Bicycle_helmet」/wikipedia(英語)
「カスク」取扱サイト

投稿者 玉井一匡 : 11:34 PM | コメント (10)

September 10, 2009

ルー・タバキントリオ+岩城里江子

LewTabakin1.jpgClick to open this Jacket.
 昨夜、ルー・タバキン トリオのライブを聴いた。場所は、柏のライブハウス「studio WUU」だった。
  昨年の秋にも同じ場所で同じトリオの演奏を聴いた。そもそも去年このライブのことを、わたしが前座で演奏するといって教えてくれたのは岩城里江子さんだった。
ひどく感動したのに、エントリーしなかったのはなぜだったんだろうか、iPhoneしか手元になくていい写真が撮れなかったし、masaさんがすてきな写真といっしょにkai-wai散策にエントリーしていたから、もうそれで充分だと思ったのかもしれない。今年は、写真をとらないでほしいというのでまた写真がない。
 ところが今年は、思いがけぬ素敵なできごとが起きたので、エントリーをせずにいられなくなった。だから、昨年の演奏のあとに買って三人のサインをもらったCD「Lew Tabackin Trio Live in Paris」のジャケットを使うことにした。(このCDの演奏がまた、とてもいいんだ)
 去年と同じく演奏の前に、ぼくらが学生時代に「スイングジャーナル」の編集長だった児山紀芳さんがマイクの前に立って解説をした。

 「アメリカのジャズ雑誌が毎年、各国のジャズ批評家百数十人の投票によって楽器別に演奏家のランキングを発表します。ぼくは、日本からひとりだけ投票したんですが、ルーは昨年のフルート部門の二位でした。一位は90才の人だから、ルーは現役で実質一位ということになります。夕方に、彼らのリハーサルをこの会場で聴いているときに、まさしく『Soud filled the room(だったと思うが・・・)』という感じがしました。」
 一年前、ぼくたちが聴いたときにも、同じように感じたのだった。ぼくはルー・タバキンのことを秋吉敏子の夫君だという思いばかりが強かったので、演奏を聴くやその認識不足を即座に撤回した。テナーサックスの音の断片のひとつひとつが、身体に沁みこんでぼくたちをゆさぶるのだ。ステージと客席が同じ高さにあるうえに、ぼくたちはドラムのすぐとなりにいたからなおさら、あたかも空気を間にしないでじかにぼくたちのところに音がやってくるようだった。

 7時、演奏開始・・・「ルーが、どこかにいってしまって、まだ戻らないけれど始めます」といって岩城里江子さんがアコーディオンをかかえて椅子に腰をおろした。楽しげにゆるやかに自分自身の曲から入って、4曲が終わる頃にあわせたように、入り口の近くにちゃーんとヒゲの男が現れた。

 去年は驚きに圧倒されていたけれど、今年は、はじめはウォームアップのような気持ちで入っていった。曲が進んですっかり血のめぐりがよくなったところで休憩に入ったあと、後半戦の前にふたたび児山氏が登場した。前半はみなさんの拍手が少々控えめだったように感じたから、後半はもっと盛大にと誘導したあとで
「はじめに演奏した岩城里江子さんが、さいごにルーと一緒に演奏することになりました。ジャズの世界では、そんなふうにして若い演奏家が育ってきたんです」と締めくくった。あとから来る人たちをそうやって育てるのだとすれば、ステージはとてもすてきな学校なんだ。来年はルーと一緒にやってよと、昨年のライブのあとに言ったのが本当になった。

 後半戦にはいって、ぼくたちはテナーのサウナにどっぷりと浸されたり、フルートの涼しい風に吹かれたりしてすっかり心地よくなったあとに、里江さんが加わった。
曲は「枯葉」、ジャズではスタンダードナンバーだし、もともとアコーディオンにもぴったりだ。このひとは、初めてジャズのセッションをやるというのにいささかも動じない。
いつものあふれんばかりの笑顔で、サクス、ドラムを相手にかけあいを演じて楽しんでいる。
そういうところが、里江さんはほんとうに素敵なのだ。
最後に、ルーが里江さんのひたいにKISSをしてくれた。よくやったね、というしるしなのだろう。
 急にいわれたんだと言っていたが、リハーサルはやったんだろうなって思いながら岩城里江子さん自身のブログ「う・らくん家」をよんでみたら、この夜のセッションのことが内側から書かれている。それによれば中休みのときに児山さんから話を持ちかけられたんだそうだ。彼女の親友の松浦さんは「涙が出そうだった」と言ってた。ぼくたちは新たな満足でポケットをふくらませて、とっても得をした気分で人気の少ない電車のベンチを占有して帰った。
駅を降りていえまでの道で、「里江さんがルー・タバキンと一緒に演奏して、掛け合いまでやったよ」と携帯で娘に報告、よろこびを分かちあった。
■Lew Tabackin Trio
 Lew Tabackin : Tenor Sax/Flute
 Boris Kozlov : Bass
 Mark Taylor : Drums

投稿者 玉井一匡 : 11:59 PM | コメント (2)

September 07, 2009

差別と日本人

SabetsuJapan.jpg「差別と日本人」/野中広務・辛淑玉/角川oneテーマ21(新書)

 野中広務氏と辛淑玉氏というふたりが、「差別と日本人」というテーマで対談をするとすればおもしろくないはずがないと、広告を見てすぐに読みたくなった。
野中氏は自民党の実力者でありながら、イラクへの自衛隊派兵に正面切って反対したし、いわゆる被差別部落の出身者であることをみずから公言、複雑なレイアを重ねている人であることは知っている。しかし、ぼくは辛氏については著書を読んだこともなかったしテレビで見たこともなかった。
 読んでみると、案の定とても刺激的で、たちまち読み終わった。自分自身と周囲の人たちの受けた差別、それに対していかに戦いどう克服して来たかを、一方がきき手となり他方が語る。伝聞ではなく自分自身の体験を、同じような体験を共有するもう一人が引き出すのだから、言葉は強く重い。

 野中は、差別される人たちの状況を向上させようとするに留まらず、差別される人たちが過剰に補償を求めることにも、それがむしろさらなる差別を生むとして批判してきた。そういう批判を説得力のあるものとするのは、この人の言葉でなければできないだろう。
 章の終わりごとに辛による解説が書かれている。そこだけは文字がゴシック体で強調され、辛が野中の発言と行動について、ときに共感しときに率直な批判を加えるが、基本的には野中広務という存在を肯定した上で書かれていることが読み取れる。野中は、校正の段階でも、この文章に目を通しているはずだから、彼はそれを受け容れているのだ。
辛は、「辛淑玉公式サイト」で、ダイバーシティー(多様性)ということを会社のミッションとして掲げている。そのひとと、自身が多様性に満ちた活動をしてきた野中の面目躍如たるものだ。

 麻生太郎や石原慎太郎、小泉純一郎、安部晋太郎についての歯に衣着せぬ批判も痛快このうえない。彼らはいずれも少なくともある時期には人気をもっていたが、彼らに対する批判的な見方が浮上し政治的な大転換が起きようとしている現在、その人気が何に基づいたものだったのかを確認しておくべきだろう。彼らには差別をうけるものや弱者の立場に対する想像力が欠けているために、その行動や発言を一見すると、あたかも明快で歯切れよく決断力があるように見えるからなのだ。
 ナチによってあれほど悲惨な目に会わされたユダヤ人が、イスラエルという国家をつくりあげるやパレスティナ人に対してナチのような態度を取ろうとしている現実を見ても、ことは人間のかかえている普遍的な問題なのだ。だとすれば、おなじような考え方の芽が自分の裡にも潜んでいるかもしれないことを自覚して目を光らせていなければならないだろう。

辛淑玉/wikipedia
野中広務/wikipedia
辛淑玉公式サイト

投稿者 玉井一匡 : 02:59 AM | コメント (6)