October 23, 2009

High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

HighLineTop.jpg
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 つい先日知ったニューヨークの話が、ぼくはうれしくてならない。
と同時に、このコンペの開かれたことを知らなかったのがとても残念でもある。 
マンハッタンのウェストサイド、 ミートパッキング地区から北へ10番街と11番街 の間の西34丁目まで、1930年に貨物輸送用の高架鉄道がつくられた。それが1980年を最後につかわれなくなり、軌道には雑草が生い茂りすっかり荒れはてた。それはそれで、とても魅力的な侘び錆びの風景なのだが、土地の地主たちがその解体と土地の返還を求め、ジュリアーニが市長だったときに解体が決定された。
それを、近隣の住民たち ( Friends of the High Line ) が立ち上がって保存運動をおこし市を動かして公園にするという計画を実現させた。今年の6月にそのうちの1/3ほどがいちおうできあがった。デザインはコンペによって選ばれた。

HighLineMapS.jpg 「いちおう」とが書いたのは、High Lineにはたくさんの植物があってつねに成長したり枯れたりし続けるからでもあるけれど、ここから見えるニューヨークの風景もHigh Lineの一部なのだろうと思うからだ。だとすれば、まちはいつも変化をつづけるのだから、これが完成することは永久にないのだ。
 住民たちがみずから立ち上がってこういうことを実現できるのは、アメリカのほんとうのいいところだ。自分たちが直接に社会をつくっているという意識が強いのだ。ケヴィン・ベーコンデヴィッド・ボウイまで運動に参加したというのもニューヨークらしいではないか。ぼくたちだって、ウェブサイトから申し込んで会費を支払えば、すぐにメンバーになることができる。周囲の店で割引などの特典を受けられるのだが、それより、滅多に行けるわけではなくてもちょっとした仲間になれるというわけだ。

 これと対照的なものとしてワールドトレードセンターが思い浮かぶ。むこうは、世界一の高さを誇示しながら島の先端に屹立して、歩いて近づくという気にはなれないという気分を発散していた。まわりと競争し相手を蹴落とし、世界で一番になるというアメリカ合衆国のひとつの側面のシンボルのようだった。だからテロの標的になったのかもしれない。けれどもHigh Lineがつくられるに至った経過は、WTCと対極にあるようだ。
HighLineBook.jpg 一方が競争における勝利を誇るなら、こちらは協力を実らせたものだ。WTCが「周りよりも自分が・・」という主張であれば、High Lineはまわりのまちをすてきにするためのインフラストラクチャーだ。むこうが、ピカピカdであるなら、こちらは古びたコンクリートや錆びた鉄骨の上を走るレールの間を雑草が埋め尽くす線路だった。
 WTCはアメリカの絶頂のときにつくられたが、High Lineの鉄道がつくられたのは1930年の大恐慌の時代だったし再生の決まったのが2002年、9.11の翌年という時期だったというのも対照的だ。おそらく、このプロジェクトは、9.11から立ち直ろうという思いも後押ししたのだろう。

 それに、南端にある起点が「meat packing district」だというのも興味深い。1900年代に、250もの屠畜場がひしめく「250 slaughterhouses and packing plants」としてはじまったというんだから、かつては港からここまで牛や豚を満載した貨車が、鳴き声と匂いをニューヨークの街に充満させながらひっきりなしに往復していたわけだ。もしかしたら、この細長い公園の上で牛や豚を飼うことになるかもしれないぞなんて想像もひろがる。
行ってみたいところだが、代わりにとりあえずぼくはamazonをさがしてみた。「Walking the High Line」/Joel Sternfeld, Adam Gopnik, John Stilgoe 著 という本を見つけて、ちょっと高いけれど注文した。ロンドンの古本屋から8〜10日でおくられてくるそうだ。

■High Lineのウェブサイトから
High Lineの地図
プロジェクトの紹介/スライドショー
来訪者による写真 /スライドショー

■関連エントリー
「Walking the High Line」/MyPlace
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 07:30 AM | コメント (8)

October 17, 2009

牛を屠る

UshiwoHofuru-S.jpg牛を屠る/佐川光晴著/解放出版社
(左の、本の表紙をクリックすると作業の流れ図が見られます)

 先日エントリーした「内澤旬子と三匹の豚」へのコメントで、AKIさんが朝日新聞の書評を読んでこの本を注文したと書いていらしたのを見てぼくも読みたくなってしまった。その後、AKIさんは自身のブログaki's STOCKTAKINGで「牛を屠る」についてエントリーをされた。どうしたって、ぼくはこれを内澤旬子の「世界屠畜紀行」と比較せずにはいられなかったが、著者自身も「世界屠畜紀行」について文中でふれている。
 内澤が「屠殺」でなく「屠畜」ということばを使いたいと言っているが、佐川は自分の実感としては「屠畜」ではなく「屠殺」なのだという。それが、佐川と内澤との立場の違いをあきらかにしているのだ。

「屠」を訓読みすれば、この本のタイトルのとおり「ほふる」だ。このごろはあまりつかわれない言葉だが、かつてスポーツ紙の相撲の見出しなどで相手を「ほふった」という言い方をすることがあった。iPhoneの国語辞典「大辞林」に相談してみるとつぎのように書かれている。
<①鳥や獣の体を切りさく「牛をー・る」 ②試合などで相手を打ち負かす「優勝候補をー・る」>
 内澤は、全体の工程からすれば殺すという行為はほんの一瞬のできごとであるから、屠殺より屠畜のほうがふさわしいと、まえがきにも書いているのだが、これに対して佐川はまったく別の感じ方をしている。死んだ牛たちの体は、しばらく体温を持ち続けるから作業場はとても暑くなり、作業に関わる人たちは体を動かすからでもあるが、体を牛たちに密着させていて体温を受けつづけると汗びっしょりになり、佐川の長靴の中には汗がいっぱいたまってしまうほどだという。それは、二人の立ち位置の違いによるものであるのはいうまでもない。内澤は各国の屠場をめぐってイラストルポを書いたすぐれた観察者であるが、佐川は浦和の屠場の中で10年近く働いてみずからの手で牛を屠り、その結果として屠殺がふさわしいと思うようになったのだ。

 作業の中にいた佐川は、毎日ていねいにナイフを研ぎ何百という数の牛に密着して皮と肉の間にナイフを入れる。この作業が、牛の解体の中で、もっとも熟練を要するしごとで、刃の微妙なあつかいしだい、それがもたらす表面の状態しだいで、あとの作業のしやすさも肉のできも左右される。一頭ごとに千差万別である牛の状態を敏感に読みとりらなければならないはずだ。だとすれば、牛たちを、死んで食材と化したものにすぎないと感じることはできないのだろう。機械が額を叩く一瞬を境に生命が終わるのではなく、まだ生命はありつづけるのかもしれない。
皮肉なことに、いや、もしかすると当然のことなのかも知れないが、佐川をはじめとして同僚たちは、ぼくたち消費者がもっぱら調理と食べるだけで牛豚に接しているよりもはるかに牛たちの生命を感じ大切にしているように感じられた。

 ぼく自身の感じかたにも思いがけないところがあった。たしかに、一頭の牛を食材に変えるまでのさまざまな過程を読むと、つらい思いをさせられるところがある。だが、それよりもはるかに感覚的にこわさを感じてぞくっとするようだったところがあった。著者が、ナイフを握る手を滑らせて指を深く切ってしまうくだりで、ぼくは読みたくなくて途中でページを飛ばしてしまった。たまたまそのあとにAKIさんから電話があった。ぼくはそれを話題にしたわけではないのだが「ナイフで怪我をするというようなのは苦手なんだ」とAKIさんもおっしゃる。
だとすれば、人間の指の一部を切るという怪我が、牛を殺すことよりもはるかに強く想像力を刺激するという反応は、人間が自分をまもるために身につけた大切な仕掛けのひとつなのかもしれないと思った。そのあとで気を取り直して、ぼくはもう一度もどってそこを読み直した。

■関連エントリー
「世界屠畜紀行」/MyPlace
「牛を屠る」/aki's STOCKTAKING
「内澤旬子と三匹の豚」/MyPlace
生活の設計/aki's STOCKTAKING
 
 

投稿者 玉井一匡 : 05:06 PM | コメント (0)

October 12, 2009

中村俊輔 スコットランドからの喝采

Shunsuke.jpgマーティン・グレイグ 著/田澤 耕 訳 /東本 貢司 監修/集英社
 numberの書評でみつけた。グラスゴー出身のイギリス人である著者が本人の独占インタビューをせずに徹底的に周辺取材をし、日本人読者のためにではなくセルティックのサポーターのために書いた本だから、日本語への翻訳も当初は予定されていなかったというので読みたくなった。中村俊輔のプレーと態度が、セルティックを愛する人たちにどのように受けいれられたのかが、チーム関係者、選手、ファン、友人の言葉によって書かれているのだ。
 原題の「THE ZEN OF NAKAMURA」は、おそらく中村俊輔を通じて見た日本文化観を示しているのだろうが、ぼくたちからは、セルティックファンの俊輔観を通じて、スコットランドのひとびとについても知ることができる。

 2006年11月20日に俊輔の成功させた一本のキックに、冒頭から53ページをついやしている。チャンピオンズリーグマンチェスター・ユナイテッドを破りグループリーグを突破してベスト16へみちびいたフリーキックを、世界中のセルティックファンがどこでどんなふうにして見たかを発掘する。トロントにはじまり、シチリア→ロンドン→ナッシュヴィル→ラスヴェガス→オンタリオ→リオデジャネイロ→ヨハネスブルグ→埼玉→そして、あの試合の行われた地元のグラスゴーに戻ってくる。
 当時世界で一番強いと考えられていたし、結果としてこの大会で優勝したチームの、やはり世界で1,2のゴールキーパーを相手に、ほかのだれの力も借りずにフリーキックを成功させたことも、それがチームを初めてのベスト16を決定づけたこともぼくたちは知っていた。
しかし、セルティックのサポーターたちがどんな風に、そしてどれほどこのフリーキックをよろこんだかを知ることで、ぼくたちはこのゴールと俊輔の意味がわかる。それだけでなく、スコットランドの人たちについて理解することができる。よろこびを露わにすることのなかった俊輔に彼らが謙虚を読み取ってくれる。それによってぼくたちの方も彼らのことを知るのだ。

 NBAにも同じ「セルティック」という名称のチームがある。ボストンには、同じケルト人のアイルランドからの移民が多いからだ。かつてwikipediaのないとき、「セルト」というのは「ケルト」のことなのだと、気づくまでずいぶん時間がかかった。ボストンがアメリカの独立戦争に点火したのも、アイルランドのイングランドに対する強い反抗心があったからだろう。イギリスは、サッカーでは4つの国に分かれているようなもので、得か損かわからないがナショナルチームが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つに分かれていることも、イギリス本国さえUnited Kingdom(連合王国)のようなものなんだということを実感させる。古いものを残そうという意志がヨーロッパに強いのも、そういう根が深いからなのだろう。
 日本が、どこもかしこも同じようなまちになってしまうのはまったくつまらないことだが、大国が強引に力で併合したわけでもなさそうなのにユーゴスラビアのように反目して人は殺し合い、都市を破壊しあう。それは、もっとつらいことだ。

俊輔の決めたフリーキックの映像:2006年チャンピオズンリーグでマンチェスターUtd.相手の二本

投稿者 玉井一匡 : 08:39 AM | コメント (0)

October 03, 2009

内澤旬子と3匹の豚

3Pigs2S.jpgClick to PopuP
 「世界屠畜紀行」を書いた内澤旬子さんが3匹の豚を自分で育てた。それをみんなで食べようという会が、神楽坂のiwatoで開かれるとmasaさんから聞いた。彼女のブログ「内澤旬子 空礫絵日記」にそのイベントについて書かれている。
 しばらくぼくは読んでいなかったから、彼女が豚を育てていたことすら知らなかったが、ひどく興味をひかれて、豚を食べに行こうと思った。

9月29日の夜、会場は牛込神楽坂の駅の近く、新宿区岩戸町にある芝居小屋 iwatoだ。昨年末に「明治百話」という芝居を見に行った劇場だ。その「明治百話」に参加した娘に知らせたらすでに知っていたので一緒に行くことにした。そのときにいらしてくださった皆さんにもお知らせすればよかったと途中で気づいたがもう遅い。ぼく自身も当日まで行けるかどうか定かでなかった。

 17:00から22:00までと書かれていたのでぼくたちは七時半ころにiwatoに着いたが、すでに大盛況、150人と書かれていた人数はとうに超えているようだった。会費を払って中に踏み込むと、宴たけなわと言いたいが時すでに遅く、テーブルの上にはほとんど空の皿に挽肉の料理が散っているばかり。だれにも声をかけなくてよかったと、むなしい安堵。
 豚3匹といったらとても喰いきれないほどあるだろうと勝手に思いこんでいたがとんでもない誤解をしていた。豚を食べる会だと勝手に思いこんでいたが、「内澤旬子が自分で育てた豚」をみんなで食べるという会であって、あたりまえだが食べることそのものが目的ではないのだ。・・・多めに出して残してしまうということはしたくなかったし、肉の量と参加者の兼ね合いがなかなか難しかったという事情が、「内澤旬子 空礫絵日記」に書かれている。
 

 会場は、昨年来た芝居小屋の客席を取り払って平らにした床、高い天井、塗装の剥げた壁、あふれる人、ぎっしりと詰まった会話と騒音、豚の映像、どこか中国の片隅のようで、ぼくはそれがすっかり気に入った。となりの酒の安売り店とコンビニで空腹を満たすものは調達した。
 僕たちが中に入ると、ちょうど内澤さんが前に立って話をするところだった。「わたしの育てた3匹の豚のために、こんなに沢山の方が集まってくださって、ありがとうございます」と話すとなりには、プロジェクターから生前の豚たちの姿が映し出されている。解体は、プロの手によって食肉加工場でされたそうだが、その様子はうつされていなかった。次々と人が寄ってくる内澤さんにはどのみちゆっくり話を聞けそうもなかったから、離れたところから見ると想像通りの人のように思われた。
 
 ぼくたちは、生きている魚をさばいてすぐに食べることにはほとんど抵抗がないけれど、大部分の人は哺乳類が解体されるのを目にして肉を食べたことはない。それはきっとつらいことだ。しかし、それは人任せにしてしまえば、食べることは何の抵抗もない。そのうえ、その作業をする人たちを差別した。ひどいはなしだ。
 明治になるまでは、魚や鳥は食べたが「肉食」をしてはいけないことになっていた。とはいえ、イノシシやウサギは食べた。クジラは魚の一種だと考えていたから、イノシシはヤマクジラと呼んでクジラの一種のようにしたし、ウサギは大きな耳を翼とみなして「一羽、二羽」と数え、鳥の一種であるということにして食べてきた。日本人のこういう融通性に満ちた生き方は、ぼくはきらいじゃない。しかし、肉食がふつうの習慣になると、屠畜というつらい作業はそれまで皮革製品の加工をしてきた専門職にあずけてしまったのだ。
 
 その理不尽に立ち向かうには、ベジタリアンになるか、生き物のいのちをもらうことを事実として正視できるようになることだ。内澤旬子は後者の道をとって、「世界屠畜紀行」を書き、今度はさらにはもう一歩踏み込んでみずから豚を飼い、それを食べるという行動に挑んだのだろう。それを岩波の「世界」に連載することになったということも、この日話した。
だが、世界屠畜紀行には解体を目にすることのつらさについては書かれていないし、この会でも触れなかった。しかし、表情を見るかぎり、彼女はそれをたのしいこととは思っていないようだし、つらい思いを感じない人だとは思えなかった。この会の終わりの方では、ひとに会わないと言ってひとり奥に籠もったそうだ。

 「明治百話」の芝居では、山田浅右衛門が物語の軸のひとつになっていたことを思い出した。彼は、明治の初期までつづけられた斬首刑の首切り役人をつとめ、知行のかわりに死者の肝でつくった薬を売ることを認められていたという。あの芝居のテーマも「いのち」、そしてそれを食べることだったのだ。

■追記
昨夜、たまたま須曽明子さんに会った。現地ではあえなかったが彼女もこれに参加したそうで、内澤さんが引き籠もったのはこの日が原稿の締め切りで、編集者が会場に来て待っているという状態だったからなのだったという。ちなみに須曽さんは5時頃からふんだんに豚を食べたそうだ。ぼくの「世界屠畜紀行」は、ぜひ読んだほうがいいといって、押しつけるように須曽さんにお貸ししていたのだった。

■関連エントリー
世界屠畜紀行/MyPlace
明治百話/MyPlace
「明治百話」の初日/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 12:09 AM | コメント (18)