August 30, 2010

春海運河(はるみうんが)の鉄橋

HarumiRikkyo1S.jpgClick to PopuPHarumirikkyou4S.jpg

kai-wai散策で、豊洲に残されている魅力的な鉄橋の写真を見た。masaさんは、ここはニューヨークのHIGH LINEのようにできるんじゃないだろうかと言って、以前にぼくがエントリーした「High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生」にリンクしてくださった。Googleマップでここを上空から見下ろすと、大きな橋と伴走するように細い鉄橋が平行していて、運河沿いの遊歩道の対岸には生コン工場がある。かつては、埋め立て地にある工場と港の間を原材料や製品を乗せて行き来する鉄道が運行されていたのだろう。
 HIGH LINEは牛や豚を乗せて港と屠殺場のあいだを行き来する鉄道だったのだから、たしかに共通するところがある。乗客を乗せて行き来することはなかったのだ。ぼくは鉄道ファンではけっしてないけれど、古い時代の鉄道とその施設の無駄のない美しさにひかれる。すぐに見たくなって、masaさんに電話をかけて場所を確認すると、さっそく次の日曜日に行くことにした。masaさんもつきあうよと言う。

 有楽町線の豊洲駅で降り、たくさんの人たちでにぎわうショッピングセンターを通り抜けると目の前に運河が広がった。かつての造船所のドックの一部を再利用して船着場がつくられている。そこに立って川上を見ると前方にあの鉄橋がある。上空からはあんなに細い鉄橋だったのに、こうして見ると鉄橋の方が美しい。横から見ると、けっして細くはないが美しい。
 松本零士がデザインした遊覧船「ヒミコ」が、かつてのドックを改造した船着き場を出て浅草に向かっていった。みるみるうちに運河を遡って、あの鉄橋の下をくぐり隅田川へ消えていった。ヒミコは、連続する一枚の曲面をなす皮膜で覆われている。鉄橋はアーチから下げた直線が橋桁を吊っている。古典的な力学と、いまではもう先端の技術ではなくなった鉄という金属の実直がきわだってとても好ましい。

Harumurikkyou2S.jpgClick to PopuP wideHarumirikkyou3S.jpg

 ヒミコを追うように、ぼくたちは運河を左に高層の集合住宅を右に見ながらほとりの遊歩道を歩いてゆく。ヒミコの未来的なかたちがいかに魅力的であろうと所詮はさほどスピードを必要としない遊覧船の表面のデザインであるから、すでに使われなくなった鉄橋の質実に及ばないのは当然だとしても、いま生きている人々の日々の生活がいとなまれる大規模な集合住宅やショッピングセンターがほとんど魅力を感じさせないのは、どういうわけだろう。ぼくたちの生きている現在のこの国この世界に何かが欠けている、あるいは、欠けているところでなく満たされているところにさらに何かを加え続けざるをえないのは、人間の活動として歪んでいるということなのかもしれない。
 
 道からあの鉄橋へ続くところは、案の定ネットフェンスで遮られていた。
もちろん「立入禁止」を表示する板があり、横にはネットを切って子供なら出入りできそうな穴があいている。こういう冒険をする少年、あるいは少女がいるらしいと内心ぼくはニヤリとした。masaさんは一眼レフのレンズを差し込んだ。
 橋は、中央のひとスパンだけをアーチの鉄橋にして橋脚をなくし、船の航行をしやすくしているらしいが、岸に近いところは両側ともコンクリートでつくられている。上から見ると、単線の線路がまっすぐにのびて、その線路敷の砂利の間から植物が生えている。橋脚の足下にはスズキとおぼしき魚が白い腹を上にして浮かんでいる。ここにも生物の世界があるのだ。

 ここを人がわたれるようにしたいな、しかし国交省がこんな面倒なことをやってくれるだろうか、もしかすると小野田レミコンの私有の鉄道だったのかもしれないねなどと話しながら帰ってきた。その2週間後くらいだったろうか、かつて強風で列車が吹き飛ばされる事故の起きた餘部(あまるべ)鉄橋がコンクリートに架け替えられたとニュースが報じていた。もとの鉄橋は、歩行者用になるのだそうだ。そういう前例があるなら、ここも歩行者用に残すことができるかもしれない。もしかするとすでに、そう決まっているのかもしれない。
と、期待したのだが、wikipediaをよく読むと旧鉄橋は全部を残すわけでなく、ほんの一部が残るだけのようだ。

■追記
 ネット検索してみると、ここは「東京都港湾局専用線」という鉄道の一部だったらしい。鉄道愛好家たちのたくさんのサイトがこの鉄道をとりあげている。

・「遠い日の記憶-東京都専用線」「消えゆく東京都専用貨物鉄道 晴海線」
・「晴海埠頭を歩いて 1~6」/「廃線・専用線」
・「廃線探索報告」
・「東京都港湾局専用線」

■関連エントリー
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策
晴海運河風景/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 12:43 AM | コメント (7)

October 23, 2009

High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

HighLineTop.jpg
Click carries to this WebSite.

 つい先日知ったニューヨークの話が、ぼくはうれしくてならない。
と同時に、このコンペの開かれたことを知らなかったのがとても残念でもある。 
マンハッタンのウェストサイド、 ミートパッキング地区から北へ10番街と11番街 の間の西34丁目まで、1930年に貨物輸送用の高架鉄道がつくられた。それが1980年を最後につかわれなくなり、軌道には雑草が生い茂りすっかり荒れはてた。それはそれで、とても魅力的な侘び錆びの風景なのだが、土地の地主たちがその解体と土地の返還を求め、ジュリアーニが市長だったときに解体が決定された。
それを、近隣の住民たち ( Friends of the High Line ) が立ち上がって保存運動をおこし市を動かして公園にするという計画を実現させた。今年の6月にそのうちの1/3ほどがいちおうできあがった。デザインはコンペによって選ばれた。

HighLineMapS.jpg 「いちおう」とが書いたのは、High Lineにはたくさんの植物があってつねに成長したり枯れたりし続けるからでもあるけれど、ここから見えるニューヨークの風景もHigh Lineの一部なのだろうと思うからだ。だとすれば、まちはいつも変化をつづけるのだから、これが完成することは永久にないのだ。
 住民たちがみずから立ち上がってこういうことを実現できるのは、アメリカのほんとうのいいところだ。自分たちが直接に社会をつくっているという意識が強いのだ。ケヴィン・ベーコンデヴィッド・ボウイまで運動に参加したというのもニューヨークらしいではないか。ぼくたちだって、ウェブサイトから申し込んで会費を支払えば、すぐにメンバーになることができる。周囲の店で割引などの特典を受けられるのだが、それより、滅多に行けるわけではなくてもちょっとした仲間になれるというわけだ。

 これと対照的なものとしてワールドトレードセンターが思い浮かぶ。むこうは、世界一の高さを誇示しながら島の先端に屹立して、歩いて近づくという気にはなれないという気分を発散していた。まわりと競争し相手を蹴落とし、世界で一番になるというアメリカ合衆国のひとつの側面のシンボルのようだった。だからテロの標的になったのかもしれない。けれどもHigh Lineがつくられるに至った経過は、WTCと対極にあるようだ。
HighLineBook.jpg 一方が競争における勝利を誇るなら、こちらは協力を実らせたものだ。WTCが「周りよりも自分が・・」という主張であれば、High Lineはまわりのまちをすてきにするためのインフラストラクチャーだ。むこうが、ピカピカdであるなら、こちらは古びたコンクリートや錆びた鉄骨の上を走るレールの間を雑草が埋め尽くす線路だった。
 WTCはアメリカの絶頂のときにつくられたが、High Lineの鉄道がつくられたのは1930年の大恐慌の時代だったし再生の決まったのが2002年、9.11の翌年という時期だったというのも対照的だ。おそらく、このプロジェクトは、9.11から立ち直ろうという思いも後押ししたのだろう。

 それに、南端にある起点が「meat packing district」だというのも興味深い。1900年代に、250もの屠畜場がひしめく「250 slaughterhouses and packing plants」としてはじまったというんだから、かつては港からここまで牛や豚を満載した貨車が、鳴き声と匂いをニューヨークの街に充満させながらひっきりなしに往復していたわけだ。もしかしたら、この細長い公園の上で牛や豚を飼うことになるかもしれないぞなんて想像もひろがる。
行ってみたいところだが、代わりにとりあえずぼくはamazonをさがしてみた。「Walking the High Line」/Joel Sternfeld, Adam Gopnik, John Stilgoe 著 という本を見つけて、ちょっと高いけれど注文した。ロンドンの古本屋から8〜10日でおくられてくるそうだ。

■High Lineのウェブサイトから
High Lineの地図
プロジェクトの紹介/スライドショー
来訪者による写真 /スライドショー

■関連エントリー
「Walking the High Line」/MyPlace
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 07:30 AM | コメント (8)

February 25, 2008

メコンを北へ

KajimaLaoBoatS.jpgClick to PopuP

 加嶋さんとわきたさんが「ラオスの路上で乾杯」のコメントで長い書き込みをしてくださり、「グレーの壁」と「グレーの塊」の応酬というすこぶるおもしろい事態にあいなった。加嶋さん夫妻はすでに日本にお帰りになった。現実とブログのあいだのタイムラグが大きくなってしまったので、ひとつエントリーして舞台を進めておこう。
*記述を軽快にするため、以下は敬語丁寧語を、ときに伝聞形を省略します。

 ビエンチャンに1泊した翌日に、加嶋夫妻はルアンパバーンへ飛行機で移動、そのつぎの日には船でメコンと支流のナムウー川を遡った。ルアンパバンからとどいたメールには、ビエンチャン路上の乾杯と一緒に、川のほとりで甲羅干しをする屋根付きの細長い船の写真が添付されていた。
「ボートでノーンキャウへ行くことにしました。ノーンキャウからウドムサイへバスで移動し、ウドムサイからどのようにするかわかりませんが、ヴィエンチャンへ戻ります」と書かれている。Googleマップでルートの地形を見ようとしたが、わからない。
ルアンパバーン(Luangprhabang)を開いてみてもラオス領内は地名の表示そのものがひどく少ない。ラオス語の本の発行が年間に50〜60点くらいしかないといわれる状態にあるのと同じく、情報を公開しない時代があって、自由化が進められる現在も、それがあとをひいているということなのだろうか。

KajimaMekongS.jpgClick to PopuPLaosKaoS.jpg
「ノーンキャウに行きました。ルアンパバーンからメコンを8時間遡りました。途中一軒もお店がなく、乗客の一人としてご飯を用意していません。仕方なく私が上の部落へ行って、ご飯を10人ぶんぐらい調達しました。その間ボートの運転手たちはゆっくりと魚とおかずのお昼を食べています。」
川に美しくそそりたつ岸壁と、やっとちかづいたのであろうノーンキャウの集落の写真を見ながら、他の乗客はどんな人たちなのだろうか、腹をへらしたときにどう反応したのだろう、そして、加嶋さんはどんな食べ物を調達されたのだろうということがぼくは気になってしかたない。そう書いてメールを送ると、さっそく加嶋さんから返信があった。
 地元の人たちは料金が安上がりなのでたいていはバスを利用するから、この船に乗るのはおおかたは外国からの旅行者たちなのだという。おそらく川沿いにまちができているはずだから、川に沿う道路があってそこを走るバスルートがあるのだろうと、勝手に想像をふくらませる。
 船の乗員が昼メシを食べている間に陸にあがってしばらく行くと農家があったので「カオ」という単語を憶えていたから、それを言って赤米のメシをわけてもらった。はじめは一人分しかなかったので、もう少し分けてほしいと言うと、自分たちの分がなくなりそうなのでちょっと渋い顔をしたが、もう1ドルを出すと喜んで分けてくれたという。ちかごろは日本でも作られるようになった古代米とも言われる赤米はモチ米の一種で、炊くのではなく逆円錐形のザルに米を入れて下から湯気で蒸して調理する。モチ米は米粒がたがいにくっつくから、おむすびにしなくてもからまっている。ラオスでは、それを、箸などをつかわずに手でちぎりながら食べるのだ。右は、このときの加嶋さんの写真ではなくて、ビエンチャンのレストランでぼくが撮ったものだ。レストランでは、ひとりずつ写真のようにふたつきの小さなかごに入れてあったが、市場で買ってきたときにはバナナの葉に包まれていたので、食べるときには葉を皿として使って食べた。
その「カオ」をもって船にもどりみんなに分けると、当然ながらその後はとても仲良しになったそうだ。

そう聞いて、ますます質問したいことが浮かんでくる。
・船の乗員は、ひとが腹を空かせているのを横目に自分たちは昼飯を楽しんでいるというのもおもしろいが、客を相手に弁当を売ればひとかせぎできるだろうに、それをしないのはラオス人のおおらかさなんだろうか。ベトナム人や中国人の船頭だったら、しっかり商売をするだろうに
・食料を調達に行くとき、船が行ってしまわないようにするために、船頭にはどう伝えたのだろう
・ほかの連中は、食料を調達しようとしなかったのか・・・etc.
これらの疑問は、まだ解決していない。なにしろ、まだ質問もしていないのだ。

KajimaNonkyauMesiS.jpgClick to PopuP
船による全行程8時間の途中、出発後3時間でモチ米の昼食をとり、その後さらに5時間を船にゆられてやっとノーンキャウについた。そこではちゃんとテーブルについて、安堵とともに食事にありついたという写真がある。
こうして写真を見ていると、ボートはメコンを遡ると同時に時間をも遡っているようだ。しかもメコンは、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、ベトナムの国々の境界をなすことが多い。そこでは対岸は外国なのだ。すると、橋のないところでは川のこちらとむこう側に時間のズレが生じているのかもしれない。ますます興味深い。
ここに夫妻は一泊、翌日にはバスでウドンタニへ向かった。

投稿者 玉井一匡 : 07:45 PM | コメント (10)

January 20, 2008

「国際カエル年」と 川

amphibian-ark.jpgClick to Jump to FrogSite

「川の地図辞典」のエントリーを書いているうちに、あらたに「川」というカテゴリーを加えたくなった。これまで、ぼくはカテゴリーを英語で表記していたが、「river」ではなく「川」にしたいと思った。ぼくたち、すくなくともぼくにとっては「川」にこめられるものと「river」から受け取るものとでは、深さも拡がりも大きく違うのだ。はじめは外国からのアクセスを考えたからカテゴリーを英語にしたのだが、この機会に固有名詞は別として日本語に変えてしまおうと思った。どうせ本文を英語で書くことにはなりそうもないし、スパムコメントよけにやむなく外国語を排除しているので、英語にすることに意味もなくなった。しかし、カテゴリーを日本語に変えてみると、なぜかちゃんと内容を表示してくれなくなってまうものが多い。原因をさがすのも時間がかかりそうなので、やむなく、できるものだけ日本語に変えることにした。これまでのエントリーで、川に関わるものがどれくらいあるだっろうかと気になったので「川」をキーワードにしてサイト内検索をしてみると想像以上に沢山のエントリーがでてきけれど、まずは主なものだけに「川」のカテゴリーを加えることにした。

 たまたま、いくつかのカエルにかかわるエントリーをしたあと、「川の地図辞典」の出版を機会に「川」が周辺のブログで話題になっている。もともと「川」と「かわず」というふたつのことばにだって縁がないはずはないところに、今年は国際カエル年なのだということを知った。カエルのうちの30%以上の種が絶滅の危機に瀕しているので、東京の4つの動物園(上野、多摩、井の頭、葛西)では今年は蛙に力をいれてイベントなどを開く。
 冒頭のカエルの写真を、「amphibian ark 2008 YEAR OF THE FROG 」のバナーに入れ替えた。この方がずっと魅力的だからだが、これをクリックすると「amphibian ark」(両生類の方舟)のサイトにジャンプする。ここから、80ページ以上のカエルについてのパンフレット、カエルのお面、バナーなどがpdfでダウンロードできる。

 かつて、日本人にとってカエルは、水と人間をむすび季節の変化を音として伝える存在だった。いまも、水田に水を張ればあたりにカエルの声が鳴り響く。とはいえ、水田地帯でさえ、かつては夜を満たしていた声の重なりも姿もはるかに減った。明らかに、農薬の使用や農業機械のための乾田化でオタマジャクシの生きる場所が減ったせいだ。都会の川は四角い排水パイプのようなものだからコンクリートの切り立った壁と平らな底が生物を拒んでいる。
「国際カエル年」なんていうものがつくられるのは、こういう事情が日本に限らないからだろう。カエルの住みやすい環境は、そのまま人間にとって気持ちよい川や池を回復することでもある。魚は水の中だけだが、両生類の活動範囲は、地上にもおよぶ。カエルを食べようとする野鳥も来る。もっとひろく水辺を考えなきゃならないのだから、鮭の遡上する川を目指す段階よりひとつ進まなければならない。

 地球からいなくなってしまうかもしれないと思うと、ぼくたちにとってカエルがどんなに親しい存在だったかを思い出した。かわいい顔をしている。地上にも生活するのでつかまえやすい。攻撃することもない。オタマジャクシも捕まえやすく育てやすい。たまごもたくさんある。小さな子供にとって水の生物の入門編だ。成長の過程がカエルほど明瞭で劇的な生物も少ない。そのうえザリガニ釣りの餌にもなった。カエルの絶滅は「川ガキ」の絶滅にもつながる。
「満州走馬燈」には、少年たちがカエルの肛門に麦わらを入れて息を吹き込んでお腹を膨らませて遊んだというちょっと残酷な話が書かれている。そういう遊びはあまり考えたくないが、それでさえ、どの子供にも潜んでいる残酷はコンピューターで敵を殺して爽快感を得るよりも、生き物にふれ時に自分のせいで命を奪ってしまい、それを後悔することで乗り越えられるという側面があるのではないかとぼくは思う。

東京動物園協会メッセージ :国際カエル年活動宣言(PDF)
amphibiab ark のサイト  :2008-year of the frog

カエルに関わるエントリー
やせがえる
やせがえる・後日譚というよりも先日譚
コモリガエル

投稿者 玉井一匡 : 11:05 AM | コメント (4)

January 17, 2008

「20km歩き」と「川の地図辞典」

Click to PopuP
 前回のエントリーを書いている途中で、なぜか後半部分が消えてしまった。それを書き直すと、ちょっと長くなりすぎたので別にエントリーすることにします。

 次女が小学生のとき、夏休みの宿題に20キロ歩きというのがあった。どこでもいいから20km歩いて、そのレポートを提出するというものだ。何回かに分けて歩いてもいいのだが、ちょうどいい機会だから、ぼくは娘を誘導して近所を流れる妙正寺川づたいに海まで下ることにした。海まで歩いてみたいとは、前から思っていたことだった。町の中を歩くからお弁当ではなくて途中のホットドッグやかき氷などを約束した。小滝橋で神田川に合流して海までいくとおよそ20㎞になる。端数は寄り道して調整すればいい。

 わが家の夏休みの宿題の常として決行は8月も末になったが、たまたま前日にすこぶる強力な台風がやってきた。しかし当日はうって変わって雲ひとつない快晴のうえ、大雨が地盤を傷めたので総武線、中央線は運休、川底は水がさらってくれたので粗大ゴミが転がっているところなどない。おそらく何年に一度あるいは生涯に一度の美しい川のほとりを歩くことができたのだろう。前日より水量が減ったとはいえ、底のコンクリートを感じさせないくらいの深さはあった。
 恥ずかしながら、このときに歩いて、ぼくは神田川と隅田川の合流点が柳橋であることをはじめて知った。自宅の近くに2軒ほど江戸小紋という小さな表札を出している家があるが、それは妙正寺川が近く、布を晒すのに都合がいいからであることもこのときに知った。落合や早稲田のあたりにも染め物にかかわる家がいくつかあったから気づいたことだった。
 柳橋で隅田川沿いに右折して海にゆくはずだったが変更して左折、両国で橋を渡ってほぼ無人の江戸東京博物館をめぐり、浅草に行くと思いがけずその日はサンバカーニバルだったので気前のいい肌の露出にあずかった。稲荷町まで行ってもういちど雷門に戻り20kmを達成して天丼でゴールとなった。

 「川の地図辞典」を開いて、この川下りのあとを辿ってみると、p269-268から→ p87-86→ p101-100→ p23-22→ p39-38→ p123-122の雷門まで、この本の12ページ分にわたるのを確認して、ちょっとした満足を得る。

 このとき僕は川を知りたいと思うよりも、川をひとつの切り口に東京というまちを縦断することによって身体的に実感したいと思っていたのだが、川とまわりの地形は記憶に深く刻みこまれたらしい。その後、事務所を飯田橋に近い神楽坂に移したとき、自転車通勤のルートは自然に川沿いのみちをとることにした。それなら、きっと往きは下り一方にちがいないと思ったからだ。
しかし、走っているうちに川べりの道は歩行者優先や建物が際まであったりすることがわかった。さりとて表通りはクルマが多くて気持ちよく走れない。川からすこし離れて並走する道に落ち着いた。これは、落合から目白を経て江戸川橋につながる高台の足下を蛇行している。だから片側にはいつも高台が控え、そこへ登る坂道と交差する。

 地形が明確であるところ、構成が把握しやすいまちにいるのは、とて気持ちよいものだ。そして、まちには重層する時間や生活が感じられるほど味がある。この本は、地形や町の構成を把握するのに、そして時間を遡るのにも有能な相談相手になる。つまり、まちを気持ちよく面白くするためのいい道具なのだ。
もしも、この20km歩きの時に「川の地図辞典」を持っていたら、ぼくはどうしていただろうと考える。他の川との合流地点や神田上水にも寄り道をしたかもしれない。そして、隅田川に着いてからは、枝分かれする堀を探しただろう。それにあのころは池波正太郎もまだ読んでいない。もう一度、こんどは上流をすこし省略して、椿山荘の足下の水神社あたりから、花見を兼ねたころにでも歩いてみるか。

投稿者 玉井一匡 : 03:27 AM | コメント (18)

January 09, 2008

川の地図辞典 江戸・東京/23区編

KawanoChizujiten.jpg川の地図辞典 江戸・東京/23区編/菅原健二著/之潮(collegio)刊/3,800円+消費税

 現在の東京23区の白地図に川の位置を描きこんだものと、同じ場所の明治初期の地図をとなり合わせのページにならべた地図帳(アニメーションのように素早くページを繰れば残像を利用して比較しやすい)。それに、川ごとの説明が分かりやすく書かれている川の辞典という構成。だから「川の地図辞典」である。現代の地図は、国土地理院の二万五千分の一に、暗渠になったものも含めて川を分かりやすく書き加え、明治の地図は明治10年代の陸軍測量局によるものを使っている。

 ものごとを知るには、まったく逆の二つの方向がある。ひとつは、自分自身が直接に接する具体的な事柄から疑問をいだき、そこから普遍的な原理に至る方法。もうひとつは、まず普遍的な原理を知り、それを物差しにして具体的なものごとを理解してゆく方法だ。
この分け方で言えば、一見したところこの本は二つ目の方法をとっている。ただし、読者はひとつ目の方法をすでに身につけていることを前提にしているから、じつは二つの方法で攻めようというのだ。さらに、Google Earthの併用も考えているのかもしれない。この一冊で、川という要素を主要なツールとして東京23区の地形全体を表現しているのだ。原理を提供し、読者それぞれが具体的な接点を発見し書き加え肉付けしてゆく。
 ぼくは、小世界をポケットにいれるような、こういう本が大好きだ。たとえば日本野鳥図鑑であれば、鳥によって日本の全体を表現する、日本という世界のミニチュアを一冊の本にしてポケットにいれて運ぶことができるわけだ。広辞苑は持ちあるくのにはちょっと重いけれど、ことばという網で掬い上げた日本のミニチュア。つまり、「川の地図事典」は川という網で掬いとった東京都23区のミニチュアなのだ。

この本が、kai-wai散策の1月3日のエントリーで紹介されると、つぎつぎとコメントが増えていき、1月12日,15:46 現在で100を超えた。エントリーの前日、1月2日のkai-wai散策のエントリーへのコメントで、わきたさんがこの本のことを紹介されたことがそもそものはじまりだった。 
発行元・之潮(コレジオ)の代表の芳賀さんは、「川好きotoko」という名でコメントに加わり、つづいて「川好きonna」さんも登場して、ブログと本の世界がつながるべくしてつながった。それをつなげたのは、川とまちを歩くという現実世界での行動であることがとてもすてきなことだ。

追記
下記のブログで「川の地図辞典」についての「同時多発エントリー」をくわだてましたので、まだでしたらお読みください。
■masaさん:kai-wai散策:「川の地図辞典
■わきたけんいちさん :Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」:「『川の地図辞典』(菅原健二/著)
■M.Niijimaさん :Across the Street Sounds:「川の地図辞典
■じんた堂さん:東京クリップ:「フィールドワーク:尾根を行く川
■光代さん:My Favorite Things:「川の地図辞典」
■AKiさん:aki's STOCKTAKING:川の地図辞典
■IGAさん:MADCONNECTION:川の地図辞典-1

投稿者 玉井一匡 : 10:32 AM | コメント (10)

June 23, 2007

平底船:ナローボート

 いま、masaさんがオクスフォードに滞在して興味深いイギリス便りが送られてくる。その中に、ボートの浮かぶ水路の写真があった。ぼくはイギリスにはたった一度しか行ったことがないけれど、推理小説を読んでいると、水路とそこを行き来する船の描写に出会うことが少なくない。船は平底船という名で書かれている。masaさんの写真は、小説で思い浮かべていた通りの風景だ。
 推理小説では先を急ぐ勢いに負けてしまうから、いくつかの疑問を抱きながらぼくは何も調べないままに通り過ぎて読み続けていた。たとえば船が人力で動いた時代には、水路を上る時は両側の土手の上を人間や馬がロープで引っ張るのだったと思うが、橋と交差するところはどうしたんだろうかという疑問は小説の中に残したままだった。

 masaさんの写真は、その疑問に対する答えのひとつを示してくれた。橋がはね上がるのだ。もうひとつ、土手の上を人が通れるほどの高さの橋をつくるという手もあるはずだ。インタネットで調べてみると、平底船は英語ではnarrow boatというらしいと知ってwikipediaを開いてみた。川が浅いので船の底を平らにしているのだろうと思っていたが、水路が狭いので船の巾を小さくしているということなのだろう。たしかに、水路を人工的につくるなら巾を小さくして、深さで水量を調節する方がつくりやすいにちがいない。橋も短くてすむし、両岸の距離が近いから、心理的にも川が分断することもない。
 スエーデン出身でイギリスで仕事の多かった建築家ラルフ・アースキンが平底船を事務所に改造して製図板を並べていた写真を見て、とてもうらやましく思ったことがある。その船の事務所にあった美しい階段については、AKiさんのブログで「水無瀬の町家」というエントリーで言及されている。かなしいことに日本の都市の川に係留されている船たちが粗大ゴミと化しているさまをぼくは思い浮かべてしまうから、アースキンの事務所も動かない船だろうと思っていた。narrow boatの大方は観光のために動いているのだと思いつつさらに探してみると、ちゃーんとボートの売買のサイトの一部をnarrow boatのカテゴリーが占めているのだ。長さ60ft前後、巾7ftくらいの大きさが大部分で、価格は40,000から80,00ポンド(今日は247円/1ポンド)ほどで売りに出ているものが多い。たとえば冒頭の写真の船は45,000ポンド、このサイトには船の内部やエンジンの写真も用意されている。これを見れば、ボートのおおよそは分かってきた。ここで生活している人もいることだろう。うらやましいことだ。

 ぼくたちの日本では、都市の川の多くは暗渠に埋葬してしまい、その亡骸の上を勝者たるクルマたちが行き来している。川として都市に残されているとしてもコンクリート三面張りの索漠たるものだし、アルミ製の不細工な手すりが胸の高さまでふさいでいる。農村地帯でさえ両岸をコンクリートや鉄板の壁で支える情けないありさまだ。それにひきかえオクスフォードの写真をみれば雍壁はレンガで橋は木製のままで使われている。
 こうした豊かなイギリスのインフラストラクチャーは、アフリカやアジアやアラビアそしてインド、中国でも、そこに長い間生きて来た人たちの犠牲のもとにつくりだした財産をイングランドの島に注ぎ込んだおかげであることは、どうしたってぼくたちの頭と心の中から消えることはない。それでも、これらがそうやって他者の犠牲のもとにつくられたものであればなおさらのこと、車を速くたくさん走らせたいなどというたったひとつの理由で、すでにあるものたちを簡単に壊してしまうといことはしないのだとこの国のひとたちを思う。

投稿者 玉井一匡 : 09:13 AM | コメント (6)

April 01, 2007

第五回アースダイビング・阿佐ケ谷住宅へ


またまた遅ればせのアースダイビングのエントリーになってしまった。
 縄文時代には、現在よりも海水の水位が高かったから、今では高台とよばれているところが当時は岬であり、現在は低地というまちは海水の下にひそんでいたのだと、ぼくには新鮮な視点を「アースダイバー」が提供してくれた。ちょうどそのころMacでも使えるようになったgoogle Earthで、地球の立体的な表情を遠くからも近くからも自在に実感できるようになった。
 かつて、"POWERS OF 10"という映像をチャールズ・イームズがつくってみせた。日光浴をする男女を見下ろすところからはじまってカメラをどんどん移動させ銀河系の全体を見るところまで離れてから一転して、どんどんと近づいていき分子の大きさまでクローズアップするのだ。Google Earthのおかげで、そのすてきな映像がいつでもぼくたちの手に入るようになったのだ。
 道を歩きながら地形の成り立ちを思い浮かべ、数千年前の岬を想像し、数百年後にはもう人間のいなくなっているかもしれない地球を思う。空間も時間も、ぼくたちは自在にとびまわることができるので、小さな断片から地球や歴史を考えることができる。
 それを実感すべく始められた「アースダイビング」は、縄文の波打ちぎわをたどることを手はじめに少しずつ川をさかのぼり、3月31日は神田川上流の善福寺川の水源に遠からぬところまでやってきた。このあたり、川の護岸は道路より高く積まれているところがあるけれどコンクリートでなく自然石が積まれているから、さながら愛媛県外泊の集落のように、石垣のかげに身を潜めているような家もある。


川のほとりの見事な桜の下にはホームレスとお揃いのブルーシートに思う存分の混乱がくりひろげられていたが、そこから一歩はずれて足を踏み入れると、空気も光も一変する別世界があった。
 はずかしいことに、iGaさんのエントリー「阿佐ヶ谷テラスハウス」と、それにつづくmasaさんのエントリー「阿佐ヶ谷テラスハウス(1)」まで、阿佐ヶ谷住宅のことをぼくは知らなかった。ここが別世界をつくるのは、ひとつには、いうまでもなくそこがすてきな場所だからだが、さらに、やがてなくなってしまう場所だからでもある。前川國男事務所の設計で1958年につくられたテラスハウスは、コンクリートブロック造二階建ての切妻、4戸ほどを単位として連続させてたほぼ同じ構成の棟を配置したにすぎない。今でいえばむしろ素朴な集合住宅と見える。しかし、高さを低くおさえているうえに隣りの棟との間に広く距離をあけているから公園と道が連続している、あるいは全体がひとつのひろい公園で、その中にテラスハウスを散らしているようだ。公園が庭の一部になっている。

 それぞれの住戸は高さを低くおさえることによって、まわりには広々と明るい空間ができる。家の中が小さければ、その分だけ外は広く豊かになる。家は、壁や屋根に囲われた中だけではなく、ウチとソトの両方を合わせたものが住まいなのだから、たがいに自分のすまいを低くすることによって、めぐりめぐって自分も日当りのいい庭とイエをつくることができるのだから、結局は気持ちよい生活を送ることができるのだ。集合住宅はそのことが実感しやすい。
 しかし、土地や住まいを金額に変えることをなりわいにしているディベロッパーにすれば、これは非効率あるいはビジネスチャンスにほかならない。容積に余裕があるから、分譲されたそれぞれの住戸の持ち主も経済的な負担なしに新しい家に移ることができるだろう。建て替えという消費に誘導する制度ができてしまっている環境では、住人がそう考えるのはしかたないことではある。しかし、ぼくたちの島ではすでに人口の減少が始まっている。大都市に高層の集合住宅をつくって人間を集中させるよりも、こういう住まい方によって人口の減少をむしろ豊かさに転換するという選択肢もあるはずだ。

給水塔の足下に切り妻屋根のテラスハウスのならぶ風景からは、なんだか宮沢賢治の世界が思い出された。ぼくたちのかつて住んでいた世界のどこかにあった懐かしいもののようでもあり、遠い異国の風景のようにも感じられる、人間にとって普遍的な風景ということなのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:32 AM | コメント (8)

November 25, 2006

第四回アースダイビング:王子の玉子・むこうじまのもんじゃ-1

EdvgOgiya2.jpg
都電早稲田駅に集合して電車で王子に行き、あたりを巡ったあとで三ノ輪まで都電で移動。音無川づたいに吉原をかすめて向島まで歩いた。
そのルートはMADCONNECTIONに、写真はkai-wai散策に丁寧にエントリーされているが、かつて川は場所と場所を結ぶものだったから、それをたどって歩くと積み重なった思いもかけぬ時間の層をみつけることができる。MADCONNECTIONのエントリーで「扇屋」の木造三階建ての写真を見て、王子という場所の意味を分かっていなかったことをいまさら知ることになったので、ぼくは扇屋に行ったら玉子焼きを買おうと思っていた。
 飛鳥山の周辺をひとしきり巡ったあとで、ここが扇屋だとiGaさんにいわれてぼくは唖然とした。なんとなく、まだ木造三階建ての店があることを思い描いていたらしい。いまは玉子焼きだけを売っているのだという店は、一坪ほどの屋台のようなものだった。
AKiさん、まっつあんのあとに注文した玉子焼きを包むあいだに、というよりもそれをきったけに店のオヤジさんがあれこれと古い話を話を聞かせてくれた。
「木造の建物は10年くらいまえにビルにしました。そこに書いてあるでしょ」と指先を見れば背後にあるテナントビルの前にはたしかに「扇屋ビル」とある。いささか落胆したぼくを、そのあとオヤジさんはもういちど驚かせてくれた。

「じゃあ、この写真のお店はいつ頃まであったんですか」とベアトの写真のプリントアウトを指す。
「もともと、この店は都電通りの向こう側にあって、この場所は庭だったから川越しに庭と神社を見るようになっていたんです。写真を見ますか?」
「ぜひ、お願いします」
玉子焼きは注文のたびにビルの横手を回って奥から取り出すようだが、オヤジさんこんどはアルバムを抱えている。それを開くと、中には店の古い写真やら箸袋やら扇屋の描かれた銅版画なんぞが満載されている。
「こういうのもありますよ」と取り出した和綴じの本が数冊
江戸名所絵図の本物だ。
「写真を撮らせていただいていいですか」とiGaさんがたずねると、もちろんいいよという笑顔
「おーい、masaさん、すごいよ」
「いやあー、これはすごいですね。改めてうかがいますから、そのときにまたゆっくり見せてください」とんで来たmasaさんは興奮の体
「いいですよ」とオヤジさんは相好をくずす。
「この鼻眼鏡を憶えておいてください」と、ひとをなごませずにはおかないmasaの笑顔の力だ。
masaさんはとりあえず記録班と化して写真を数枚。
「江戸時代、音無川はここまではのぼることができたから、お城の女たちの宿下がりのときに、船に乗ってお堀から神田川を下って大川へ出てすこし上ってから音無川をここまで上ってくるんですよ。店の前あたりは浅いから水に入れる。店の中にいて川の中に小判を投げると、それを女たちが水に入って拾うために裾をたくしあげているのを見て楽しんだりしたんです。」
「やなやつだなあ」
「いや、そういう遊びがあったんだ」
「へえー」と聞いていたが、投げるやつは誰なのだろう、貴重な宿下がりのときを割いてまでそんなことをして男をよろこばせてやらなきゃあならないんだとしたら、そいつは殿様だろうか、あとになって疑問がいろいろ湧いてきた。
「お花見のときには『かそう』が許されたんだよ」
「家の相ですか?」
「いや、衣装の仮装」
「武士たちが?」
「庶民が仮装したんです」
「じゃあ、浮世絵にあるんでしょうね。仮装した花見のやつが」
祭りというものは、時間限定・地域限定で日常の生活から離れるものだろう。仮装というのは、きびしい身分精度から解き放たれるということで、当時のひとびとにとっては、ぼくたちの想像以上に、大きなことだったのかもしれない。・・・・・そんな具合に興味深い話がつきないから、ついつい玉子焼きを買おうとして包装を待っていたことをすっかり忘れていた。
「きみたちのおかげで、お客さん10人くらい逃がしたよ」と、先に玉子焼きを手に入れて、ちょっとはなれて待っていた余裕の隊長は大人の発言。お二人はちゃんと箱に入れて包み紙をひもで結んでもらったがぼくたちはプラスチックの箱に入れてビニール袋をもって帰ることになった。しかし、それは盛りだくさんの話がおぎなって余りある。思いはすでに王子にあそびに来たひとたちの水路の道筋にあった。江戸城を出て外堀から江戸川(神田川)を経て柳橋に至り、そこから大川を少しさかのぼって三谷堀に入り、音無川を王子までやってきた一行の道中を、ぼくたちは歩いて逆に下るのだ。

(はじめの玉子焼きの写真は1/2サイズの630円、クリックすると1260円サイズになりますが、これはフォトショップによる合成です。ぼくが大きいサイズを頼んだけれど、iGaさんが半分サイズを注文したところ店先には大ひとつぶんしかありませんでした。オヤジさんがわざわざ奥までとりに行かなくてもすむように、二人で半分ずつわけたのでした。)

日曜日、西友に買い物に行った帰りに自転車を倒してしまい、玉子が4つ割れてしまった。扇屋を思い出して大きな出汁巻き玉子をつくることにした。ワンパック10個をみんな使ってしまおうかと思いながら、何かのために残しておこうなんて考えて、けっきょく6個にした。扇屋と比べるとちょっと甘さと出汁の汁気が少なかったようだ。なにしろ、23日は扇屋の玉子焼きをビニールの袋にいれてバッグで半日持ち歩いていた。帰りがけの電車で「かくれさと苦界行」を開いたらバッグに雨が当たった気配はないのに本が濡れている。さわるとベトベトする。玉子焼きのせいだったのだ。それくらい汁っけが多かった。しかし、ここだけのはなしだが、ぼくの作ったほうがきれいにはできているとひそかに思っているのです。

続く

投稿者 玉井一匡 : 01:57 AM | コメント (41)

September 21, 2004

川ガキ

kawagaki.jpg

 someoriginに書かれていた「川ガキのいるところ」というBlogを開いてみた。村山嘉昭さんという若い写真家のサイトだ。ぼくはすっかり写真にひきつけられてしまった。川と、そこに生き生きと棲みついている川ガキたちが、ぼくにはうれしくてたまらない。
この子たちと、写真を見るぼくたちの間には、へだてるものがなにもない。写真をとった人とガキたちのあいだをへだてるものがないからなのだろう。しかも、この子たちと川や橋や里山とのあいだにも隔てるものがないんだ。

myoshoji.jpg ちょうど今朝、ぼくは川とこどもたちのことを考えながら歩いていた。毎朝cooをつれて川沿いの道を散歩するのだが、去年から工事の続けられていた妙正寺川沿いを歩いていると、気になってしかたがないことがある。自然石を積み上げた護岸がこわされてコンクリートの壁に置き換えられる。石積みもどきのパターンが2メートルほどの間隔で繰り返され、角度はますます垂直に切り立ち、手すりはピカピカに光る茶色に着色されたアルミになった。

 自宅から事務所にゆくときは、自転車で川沿いの道をさらに下って椿山荘の下あたりまでくると鯉や亀がたくさんいる。それなのに、川で魚や亀をつかまえようという町ガキはおろか、橋の上からそれを見ている子供も見たことがない。去年はボラの大群がこのあたりまで遡上して来たものだから、こどもの代わりに川鵜がそれを狙って集まって来たので、その日の夕方にテレビのニュースにもなった。
 ぼくたちの頃だってコンクリートの護岸のそびえる川もあって、あぶないからあそこで遊んじゃいけないときつく言われたものだが、もしそこに亀や大きな鯉が泳いでいたら、大人たちの目をかすめてロープをたらし、網を片手におりていっただろう。あるいはなんとか亀を釣ることを考えただろう。どうしていまはそうしないのだろうかと考えていた。
 いくらでも理由は思いつく。自分たちの家の中だけで充足する広さと遊びがあるのかもしれないし、たとえばサッカークラブに入って専業的にスポーツをするこどもたちに分かれてしまったように、とても素直ないい子たちと純粋に悪くなって人を傷つけたり脅したりするところまでいってしまうやつらに分化してしまい、ちょっとあぶないかもしれないがひとを傷つけるわけではないというくらいの「悪いこと」をするやつがいなくなってしまったのだろう。
椿山荘の前の橋を渡るときには、そんなことを考えながらペダルを踏むことがある。

そうそう、some originの書き出しは、川ガキの写真を撮っている村山嘉昭さんのBlogに書いてあったこと、「青春映画などを見たときに感じる、あの感覚。懐かしいような、切ないような、何かが胸にこみ上げてくるような感じ。」この感覚をどう言葉に置き換えればいいのだろう・・・・だった。
「世界の中心で愛をさけぶ」なんていわれると、ぼくはしりごみしてしまうから、原作の小説を読んだことも映画を観たこともないけれど、村山さんの写真からは、その気持ちがつたわってくる。
 こどもたちはとても柔軟な適応能力をもっていて、民族や国を問わず、戦争中や戦争後の荒廃した都市でさえ遊びを発見して明るく生きてゆくことができる。それは、なにも戦争や荒廃を受け容れるわけではなく、人間という種が生き残るために獲得した、他の生物と共通する能力に違いない。だから、多くの人間が、子供時代には環境と一体化して屈託なく生命を輝かせることができるのではないか。

 やがて、環境と個体が別々のものになってゆくときが青春なのだろうう。新しい世界と自分を発見するよろこびとうらはらに自分と一体化していた世界がはなれてゆくかなしさ寂しさがやってくる。ぼくのように、とうに青春を通り過ぎた人間にさえ、そのさみしさや不安の記憶をそのままによみがえらせる何かの呪文を、ある絵や写真や歌が秘めている。呪文のあるものは個人限定であり、あるものは民族限定だが、ときに人類に普遍的な呪文も存在する。
 いくつになっても、夏の終わりが近づいて、風が涼しくなってくると、ぼくは言いようのないさみしさに包まれるのだが、今年はそれがまだ来ない。もしかしたらもう来なくなったのかと思うと、今年は、むしろそのことがさみしい。

投稿者 玉井一匡 : 11:13 PM | コメント (9) | トラックバック

March 18, 2004

さくらの季節

P4060048.jpg
昨春、関口芭蕉庵前の神田川:0406/2003

 ぼくの自転車通勤の道中10km弱は、さくらがさまざまに景色を一変させる。
中野通りを渡り→哲学堂公園の横を抜けて→神田川沿いの道をさくらに包まれて走り→神楽坂から飯田橋の外堀沿いの自転車置き場に着く。このルートはむしろ、無意識のうちにさくらの道を選んだ結果だったのかもしれないと、花の季節には思う。
 中野通りは、両側から桜が道を覆い花のトンネルになるが、神田川では遊歩道の上を包むさくらが両岸から川に向かって枝をのばしている。外堀通りの並木から流れ出した花は堀の斜面をお堀の水面に、さらさらと流れこんでゆくようだ。去年はキャナルカフェのデッキで夜桜を楽しんだ。

 椿山荘の隣に、かつて松尾芭蕉が庵を結んだ関口芭蕉庵がある。そこには文字通り芭蕉の木が数本並んでいるのが、塀越しにうかがわれ、背後には枝垂れ桜があるがまだ開かない。その門の前の橋のたもと、昨春4月のはじめ、神田川の水面に映る空に花びらが浮かび隅田川を目指していた場所が、3月17日の朝に白い桜が2本だけ8分咲きになっていた。たしかに、今年はさくらが早くやってきたらしい。

今春のさくら(昨年と同じ木):0317/2004 click image to pop up

今春の芭蕉庵:0318/2004 click image to pop up
たった一度だけ、友人に誘われてこの関口芭蕉庵で「連句」の会に厚かましくも参加したことがあった。
 大岡信が連句の本を書いたころに、それを読んで興味を持った。インターネットのなかった時代のことだったから、友人と二人で葉書をやりとりして連句をはじめたが時々滞るのだった。その後、友人は本格的に師匠について連句の会に参加していたのだが、その師匠が主宰した連句の会に、玉井さんも来ないかと声を掛けてくれた。芭蕉が住んでいたところだと聞いただけで、こんな時にしか入れまいと勇躍参加したが、ぼくのような自己流初心者は他にはいないと気づいて汗がにじんだのは和室の席に着いてからのことだ。
 これはあまり思い出したくない時間だったはずだが、時を経た今は景色を楽しむほどの余裕もできた。その友人・丹下誓氏は、その後、仕事でマレーシアからヒューストンと海外勤務がつづいたが、この春には、また日本に戻ろうとしている。今はEメールで連句をやっているそうだ。
 ちなみに芭蕉庵の庭は、なにも俳句や連句の会を催さなくたって開館時間ならだれでも無料で見学できる。
昨夏の芭蕉庵:神田川の対岸から click image to pop up

投稿者 玉井一匡 : 11:57 AM | コメント (1) | トラックバック

October 31, 2003

野鳥がまちにくると

 CLICK to POP UP
クーと一緒に歩く朝の散歩ルート、妙正寺川にも今ごろの季節になるとカモがやってくる。おばさんが熱心に川をのぞき込んでいるがカモにしては視線が輝いているので、何がいるんですかと訊くと「おしどりなんですよ」という。川は、ここ数年の間、ずーっと護岸工事を続けている。間知石を積んだ石垣を、せっせと壊してコンクリートの壁に代えながらも古い壁に多少の未練を残すように、石垣もどきのレリーフが表面を覆う。これは横2メートル縦1メートルほどのわずかな単位で同じパターンをくり返すから、すぐにネタが割れる。コンクリート3面張りのニセモノの川に、本物の鴛鴦が来ことを、ぼくは単純には喜べないが、それでもしばらくはやや興奮してオシドリを見続けた。すれ違った隣の住人にオシドリのことを教えずにはいられなかった。

 大久保に住む叔母の家の池には、この春に白鷺が舞い降りた。はじめは喜んだ叔母たちの目の前で、彼らは池にいる金魚をつぎつぎと呑み込んだ。「どうしようか」と電話をかけてきた叔母に「金魚のいる家はいくらでもあるけれど、サギのくる家というのはすてきじゃないですか。もともとえさ用の金魚だったんだから食べさせてやったらどうですか」と、ぼくは荒っぽい慰めを言った。熱帯魚の餌として売っている安い金魚を、1000円ほどぼくがおみやげに買っていったのが、1,2年でみるみる成長して10センチ近くになっていたものだから、いささか金魚のいのちを軽んじてそう言った。ニセモノの自然のなかにおかれた野生の生物は、もの悲しく痛々しい。かれらの住んでいた場所も人間に壊されて減ってゆくという事情を、ぼくたちはすでに知っているからだ。

 その前の朝には新潟の郊外で5分ほどの間に白鳥の群れが4組、ぼくの頭上を飛んでいった。頭の上を大きな鳥たちが越えてゆくのは、オシドリよりももっと胸ときめくことだった。かれらは、新潟スタジアムのとなりの鳥屋野潟という池を根拠地に、刈り取りの終わったたんぼに降りて落ち穂拾いをするのだ。人工的な自然ではあるけれど、たんぼに白鳥たちが降り立ってももの悲しいとは、まだ感じられない。
田んぼは、人間による生産が自然と折り合う地点だからなのだろう。

 その後ひと月ほどの間に「うちもサギに池の魚を食べられた」というはなしを3回も聞いた。叔母の家の池は金網で覆われた。

投稿者 玉井一匡 : 02:31 AM | コメント (0) | トラックバック

October 28, 2003

自転車通勤

 ぼくは自転車で通勤している。いまは、もっとも気持ちよい季節のひとつだ。中野区の哲学堂の近くから神楽坂まで片道およそ10km、30分弱。自宅の近くを流れる妙正寺川という神田川の支流に沿って通勤ルートを選んだ。川沿いなら上り下りが少ないだろうと、ちょっと楽を考えたからだが、地図を見ると中野区の東端から新宿区と千代田区の境界まで、ちょうど新宿区の北の縁を横断している。

電車でもクルマでも箱の中を移動するが、自転車では、歩くときのようにまちの中を移動する。ぼくとまちの間を隔てるものは、ガラスもエアコンもわがままな乗客もいない、ただ風だけだと、かっこよく言いたいが、車というわがままが走っている。もっとも、車と歩行者からすれば、自転車というわがもの顔が走っているといいたいかもしれない。まちに近づくのには、歩くより自転車のほうがいいこともある。多少の遠回りは苦にならないから、気持ちのよいみちや楽しいみちを選んで走る。事務所を今の神楽坂に移してから2年、往復を重ねるうちに、ぼくのすきな基本ルートができた。川べり、高台の足もと、商店街のせまいみちと、地形も変化に富んでいる。片側3車線の大きくて車の多い道はちょっとだけで通り過ぎる。幅の広い道は、走りにくいだけでなくまちを分断するから、車で走るのさえ、ぼくはすきではない。道路は片側2車線までがまちをつなぐみちだと、ぼくは思う。毎日のように走っているうちに、あちらこちらにすきな場所、ぼくの場所ができてくる。好きになることのはじめは、まずは知ること近づくことだ。

  click this image to pop up.
 その自転車に、昨日からちょっとした変化がある。うしろにキャリアをつけたのだ。おかげで、気持ちよい季節がもっと気持ちよくなった。自転車に30分も乗っていると、降りたあとは冬でも汗がにじんでくる。夏には、背中がNOVAウサギのかたちに濡れていると言われた。背負ったバッグと背負いヒモが背中に密着している部分を汗が濡らすのだ。走っていると、他の部分は風を受けるので汗はすぐに蒸発する。バッグが背中からキャリアに移って、ぼくとまちの間を隔てるものは風だけになった。まちが、もっとぼくの場所になる。

投稿者 玉井一匡 : 02:26 PM | コメント (4) | トラックバック