May 04, 2011

XL by XS

XLbyXSS.jpgClick to PopuP
 連休の合間、快晴の朝に自転車を走らせていた通勤の途中、クルマの脇で信号待ちをしているあいだに、うしろから歩いてきた二人連れに追い越された。
1m90cmをゆうに超えていそうなけれどもおだやかなまなざしの若者と、腰の曲がったちいさくなった老人。
歩道にはほかに人はいないのだけれど、そのとき若者は老人の背中にわずかなすきまをおいて右手をのばし、彼女を護ろうとしているようだった。老人の背中の大部分は前に大きく傾いているのに。
 若者はくすんだ空色のジャンパーを着て、サンダルを引っかけた素足は踵が大きくはみ出している。お年寄りは、杖をついて和服に草履。T字路の信号を渡って、ぼくは川沿いの細い道をゆくつもりだったがふたりは左折して行ったので、ぼくも自転車を押して左にまがった。

 とてもすてきなうしろ姿だったから、ぼくは慌ててバックパックからカメラをとりだした。こういうときには、折りたたみ式ディスプレイの小さなカメラはいい。ことさらにカメラを構えないでいいから、被写体に踏み込まないですむのだ。
 ぼくは橋の上から見ていると、ふたりは近くのバス停で立ち止まった。彼女をバスに乗せて、若者はいえにかえってゆくのか、それともどこかへお出かけする先まで一緒にいくのか、ふたりはどういう関係なのか興味津々だったが、被疑者を尾行する探偵じゃあるまいしと、自転車にまたがってそこを離れた。

 信号のない裏道を走りながら、ぼくは二人の様子を見ていて感じられたものをたぐり寄せていくと、あいつとちょっと話してみたかったなという心残りの中に、アメリカンフットボールやアメリカ軍のようなものが浮かんできた。
ShiawaseKakurebaS.jpgClick to PopuP
 去年見た「幸せの隠れ場所」という映画の気配が近いようだ。巨体をもちながらさしく内気で、しかし運動能力のずば抜けた若者を自宅に引きとって、フットボールのオフェンスガードとして育てるという物語で、サンドラブロックが、アカデミー賞の主演女優賞をもらった。あとになって映画の公式ウェブサイトを見ると、ふたりが似たようにならんだポスターの写真があった。そこでは護るものと護られるものが逆になっている。

 自分の撮った写真に、想像の先にあるものをたぐり寄せる糸口がもうひとつある。彼のジャンパーに書かれていた文字「USS MIDWAY CAPTAIN'S CUP 1ST PLACE」だ。wikipediaには「USS」は、組織の略称として8つあって「United States Senate」や「United States Steel Corporation」なんてものもあるが、どうも似合わない。
しかし「USS may also refer to:」として11項目がある。その中のひとつを、これにちがいないと思った。「United States Ship, typically as a ship prefix in the United States Navy (includes submarines)」:「合衆国の艦船、とりわけ合衆国海軍の艦船(潜水艦を含む)の名称の頭につける」だ。これなら「CAPTAIN'S CUP 1ST PLACE」にぴったり合う、「艦長杯優勝」ということだろう。何で優勝なのか分からないが、おそらくフットボールだろう。

 なるほど。  つぎは「MIDWAY」だ。
「USS Midway (CV-41)」の項目がある。航空母艦の名称のようで、日本語版wikipediaの記述もある「ミッドウェイ (空母)」という項目だ。 ミッドウェイは、1945年3月に進水、1945年9月に就役だから日本とは戦っていない。大西洋艦隊、第7艦隊に配属されベトナム戦争へゆく飛行機の根拠地になり、ベトナム戦後に横須賀を母港としたこともあった。現在はサンディエゴで「USS Midway Museum」:ミッドウェイ博物館になって余生を送っているという。サンディエゴに行くことがあれば動物園を見たいと思っていたが、これも面白そうだ。学生時代のぼくたちが目の敵にしていた米軍のベトナム攻撃の拠り所だったわけで、あの悪名高いチェイニーが退役まえのスピーチを送ったそうだ。(ミッドウェイ博物館の地図/GoogleEarth)

 そうそう、彼のジャンパーの胸にあった「CAPTAIN'S CUP FIRST PLACE」ってなんだろう。WINNERでなくFIRST PLACEであるのは、どういう場合なんだろう。
いつかまた、会うことがあるかもしれない。そのときは、初対面ではないから、話をしてみよう。日本語だってできるんだろう。もしかすると、あの護られていたひとが英語をしゃべるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 08:36 AM | コメント (0)

March 11, 2011

「メビウスの環の仲間たち」:齋藤幸恵個展/ストライプハウス ギャラリー

 mebius.jpg先週の土曜日にうかがったのに、エントリーが会期終了寸前になってしまった。ああ、最終日は3月12日の土曜日、明日だ。
ここ数年、齋藤さんはメビウスの帯をつくり続けていらっしゃる。自由学園の明日館を会場にした昨年の個展は、草木染めの植物と織物や糸をならべてわかりやすくみせるものだったが、「メビウスの環の仲間たち」というタイトルと写真でわかるように、今回は織物でつくられたメビウスの輪だ。もちろん帯をつくってから捻ってつなげたんじゃあ面白くない。織りながら捻るのだ。どうやって織るのだろうかという、当然の疑問が浮かぶ。

「経糸を輪にしておいてねじるんでしょ、張っていない糸はどうしておくんですか?」
「織機で織るんじゃないの、枠をつくって織るのよ。」と、こともなげにおっしゃる。
 ほんとうは、もっと詳しくうかがいたいけれど、織り方についての質問はそれだけにしておいた。大変な苦労をして考え、作業をしていらっしゃるに違いないから、素人があまり具体的にうかがうのも申し訳ないし、それにこちらだって疑問をかかえたままであれこれ考えている方が楽しい。
写真は、八重のメビウスの帯だ。

 会場の写真のように、単色の糸でしっかり固い帯は水平の板の上に置かれているが、天井から吊ってあるやつは複数の色で模様を織りこみ、複数の輪をつないで鎖をつくっている。
「形としては、こっちの方が面白いとぼくは思うけれど、固いから大変でしょうね」
「それは、特別な糸をつくってもらって、横糸にしてるから厚いの。それを糊で固めてある。」
板の上のものは複数回とぐろを巻いている。
「奇数回捻ったメビウスは板の上で、偶数回ひねりはメビウスにならないから一回ひねりのものを鎖にして吊ってあるのよ」
メビウスの輪は複数回というのは、知らなかった。複数回捻るのも大変だが、鎖を造りながら1回ひねりのメビウスの環を織ってゆくのだって、ひどく手間がかかりそうだ。しかも円とストライブの模様を織り込んであるんだよ。

個展のタイトルが「仲間たち」というのは、ねじり方つまり捻る回数がいくつもあり、色と模様がさまざまあるからだ。実を言えば、ぼくは何回も捻るメビウスの帯ができるということを知らなかった。
 齋藤さんは、塚原のカミさんの友人で織り仲間だが、もともとは原子物理学者で反原発のために大学の職を辞した人だから、こんな面倒なことをやりたくなってしまうのだ。ご自分でパンも焼いてしまうが、電子レンジは食べ物の分子の配列に影響を及ぼすはずだからできるだけつかわないなんて、このときもおっしゃるから、そうだよな電磁波の害だけじゃあないだろうななんて思ったのに、ぼくはその後も冷凍の古いメシを電子レンジで温めてしまう。

明日の土曜日が最終日ですが、六本木に行ってみてください。
会場がストライプ ハウス ギャラリーであるのもメビウスの帯とストライプの縁なのでしょう。
そういえば、年賀メールに返事をくださって「幸」の漢字の字源を教えてくださったのは、この幸恵さんです。「禍福はあざなえる縄のごとし」っていうのも、メビウスの輪のようだなあと思って、もとにもどります。

投稿者 玉井一匡 : 08:09 AM | コメント (0)

July 11, 2010

菅直人への期待と岡田武史への批判:池澤夏樹と馳星周

click to PopuPJapanPoliticsIkezawaS.jpgJapanSoccerHaseS.jpg
 今朝、というよりも昨日の夜中に、ワールドカップの三位決定戦がおこなわれた。監督の掲げた目標が達成されたら日本がやっていたところだが、ドイツとウルグアイの試合のテレビ放映はどこもやらない。それよりも、今日は参議院選挙の投票日だ。
 先日、ふたりの小説家がそれぞれ一人ずつの人物について書いたエッセイが朝日新聞に掲載されていた。いずれも興味深いだけではなく、ぼくの思うところを書いてくれているのがありがたい。またしても駆け込みだが、投票前にエントリーしておきたい。

 小説家は池澤夏樹と馳星周、それぞれ菅直人と岡田武史について書いたもので、前者は消費税10%を口にしてからマスコミがことごとく批判的になった菅直人について肯定的な側面を評価している。後者は、マスコミがこぞってヒーロー扱いしている岡田武史に批判的だ。
・・・写真をクリックすれば、全文を読むことができます。

 どの新聞も多数と同じ立場に立つのであれば、マスコミというのは、群集心理をそのまま活字にする装置に過ぎない。ここにあげた記事は少数意見だが、すこぶるまっとうな指摘をしている。紙面の一隅において、ひとつの少数意見をもないがしろにはしないことを表明するためのものにすぎないのではなく、まっとうな考えをもつ人もマスコミにいるし、ひとりひとりのなかにまっとうな見方も潜んでいるのだと希望をもちたい。

 沖縄に住む池澤は、沖縄に対する政策の批判を踏まえつつ菅への期待を短い文章で表現している。民主党代表として登場した時にはあれほど持ち上げた菅のことを、消費税の増額を口にしてから支持率という指標の低下をきっかけにマスコミはこぞって否定に転じた。池澤は、消費税の増額という問題を選挙前の時期に口にすることをフェアな態度だとむしろ肯定する。また、「最小不幸の社会」という目標を「久しぶりに質量のある政治家の言葉」であるとして高く評価し、小泉政権のすすめた「自由」は強者の最大幸福を実現し、優位にあるものの立場をますます強化するものとして対比させる。また、首相の座を世襲政治家が継承してきたが、菅が市民運動を出発点としていることも政治の基本であると指摘している。そのとおりではないか。

 一方、馳は、新聞がヒーローとして持ち上げる岡田の、日本代表チームの監督としての能力についての疑問を書いている。監督に奪われていた自信を、幸運の手伝ったカメルーンに対する勝利で監督に奪われ続けた自信を取り戻した選手たちがグループリーグを突破した途端、ふたたび元に戻った。幸運に助けられて達成した結果を過大評価して岡田のしたことを肯定していては、今後の成長はないと指摘する。
 これまで、負けそうになると視線は宙に浮かび、敗戦後のインタビューをすっぽかし、ディフェンスの若いバックアップを一人も育てようとせず、ベスト4を目指すというスローガンを信じないやつは代表に呼ばないと言い放ってきた代表監督。サッカーファンの大多数は、岡田が監督でありながら選手たちはあれだけやれたのだから、オシムが監督だったらどんなサッカーをやっただろうかという思いからはなれられない。それなのに、岡田は「もう一試合やらせてやりたかった」と記者会見で言った。つまり、おれはここまで選手を連れてきてやったと言いたいのだ。この大会の実績のおかげで協会の会長などになることのないように願いたい。
 勝つことで注目が高まった。それを強化に利用するのは結構なことだが、まっとうに評価を下してほしい。しかし、それをできるひとがそういう権力の位置にいるのだろうか。

 谷垣禎一が、ふたたび日本を「いちばん」にすると言うのを聞くと、岡田がベスト4を目標に掲げたのを思い出す。たしかに、かつてある指標からは日本が一番だと言われた。しかし、そのありようがぼくたちに何を残したのか、そして何を目指すべきなのかを考えることは、サッカーの問題よりはるかに深刻だ。

投稿者 玉井一匡 : 07:11 AM | コメント (6)

June 26, 2010

真夜中の冒険者

MayonakaBokenS.jpgClick to PopuP「真夜中の冒険」

 花を手に入れると、ていねいに形を整えて、薄紙にはさんで厚い図鑑や電話帳のあいだにいれる。
それをいくつも重ねてさらに石やレンガや鉄板だの重いものを総動員して数週間。
葉っぱ、花のまんま、花びら、大きいやつ小さいやつ、雌しべ・雄しべ、ツルの先端・・・みんな二次元になっている。
それらを見ているうちに、なにかの生き物や家や楽器に、あるいは大木に森に見えてくるらしい。
どの箱に何があるかを憶えていて、数年前に作ったやつも取り出してキャスティングをする。
物語が始まる・・・深い夜には、彼らが動き出す。

 真夜中に活動する人である。 おおかた起床は午後、就寝のときは、たいてい日が昇ろうとしている。
若い頃には、夜中に自分のやりたいことをしながら、朝にはちゃんと起きて家事を完璧にこなしていた。関白亭主に文句は言われたくないと思っていたのだろう。
 入念なひとである。 起きたあとに、毎日毎朝、自己流の体操を1時間ちかく欠かすことがない。入浴したときにも30分ほど、また別の体操をしているらしい。とにかく丁寧に身体を整える。若い頃に大けがをして長生きはできないと医者に言われたことがあるから、自分のことは自分で護ろうと心に堅く決めているのだ。
 地震が、たいそうこわい人である。 ゆらゆらと揺れ始めただけで表情が引きつる。地震がおさまると「どうも揺れる気がした。やっぱり来た」という。まわりの人間は、いつものことと笑いをかみ殺すが、空襲で防空壕の梁の下敷きになったことがあるのだ。
そのときに、腕の中で幼い子を亡くした。
 愛情の深い人である。 鉢植えの植物は、葉っぱの一枚一枚を拭いてやる。気孔が埃でつまらないようにと。
皮膚病で毛がすべて抜けて裸になったハムスターを、夜通しマッサージしてやった。
にもかかわらず、生の花をみるとすぐに花を取って押したくなってしまう。
水族館の魚から刺身を思い浮かべるやつのようだが、ドライフラワーをつくるときには、花びらを一枚一枚はずして、接着剤で花のかたちをととのえる。

 写真の「真夜中の冒険」は、おそらく二枚のアイビーの葉を見て想像が果てしなく拡がったのだろう。
大きな包容力と笑顔をたたえた生き物は、胸に時計を埋め込んでいる。こいつの時計になら喜んでしたがおうという気分になりそうだ。

MayonakaWallS.jpgClick to PopuP「間・KoSumi」での展示

 「漂泊のブロガー2」のいのうえさんが、この個展「米寿のBABAの花しごと」を紹介してくださった。
 作者は満87歳、数え年で八十八歳の、ぼくの妻の母つまり義母である。なんだか照れ臭くてエントリーしないうちに、ひさしぶりの個展も明日が最終日になってしまったが、いのうえさんのエントリーと、娘のブログ「Psalm of the sea」のエントリーに背中を押されて、駆け込みエントリーすることにした。

 友人にしてクライアントでもある矢野さんの奥さん・瑠璃子さんが、うちの店で個展をしないかと勧めてくださった。ふだんは主に器などをおいている、東中野の「間・KoSumi」だ。拡幅した道路の例に漏れず、距離を拡げ交通量を増した道路がまちを分断して索漠たる道になった山手通り。新しくできたビルの2階、早稲田通りとの交差点から二軒目にある。この店は、矢野さんたちが自分たちの手で内装をほどこして、とてもいい雰囲気をつくりあげた。夫の森一さんは屈指の舞台監督だから、もとよりこういう仕事は得意なんだ。瑠璃子さんは、道路の拡幅という環境悪化に抗して東中野をよくしようとする会でも活動している。20年ほど前に、ここから近くにある矢野さんのいえを、ぼくたちは設計したのだった。

■関連サイト
「間・KoSumi」の展示の案内
「米寿のBABAの花しごと」/「漂泊のブロガー2」
「米寿のBABAの花しごと」/「Psalm of the sea」

投稿者 玉井一匡 : 10:00 PM | コメント (4)

June 02, 2010

Mさんの門:テイカカズラの花とタネ

TeikakazuramonS.jpg うちの玄関前の鉢植えの植物をいじっていると「おはよう!」という声がする。
振りかえると、いつも笑みをたやさないひとが手を挙げている。
彼は、背をまっすぐに伸ばして軽やかにあるく人でもあるから、会ったあとにはしばらくぼくもいい姿勢になる。
彼はDPEのあたらしい袋を持っていた。
「フィルムのカメラなんですか」
「そう、あたらしいのはダメなんだ。
川の擁壁の工事が面白くて、このごろ毎日、写真を撮りにいくから現場のおじさんたちもなかよしになっちゃった」と写真を見せてくれた。
それが昨年のことだ。近くの川の流量を増やすために、川底を1mほど深くする工事を始めて2年ほど経っていた。
たいていの人は音がうるさいの振動するのと言うけれど、工事を見ているのが面白いと思うひとは少ない。

 Mさんのすまいは、坂をすこしのぼったところにある、大谷石の擁壁に支えられた角地。
板張りの壁に瓦屋根という古い家の玄関前には、簡素な屋根をのせた門がある。
そこに蔓性の植物が巻きついていて、初夏には白い花が柑橘系の甘い香りをあたりに漂わせるので
ぼくはその名をたずねたことがあった。
テイカカズラっていうんだよ」
藤原定家ですか?」
「そう、定家みたいにしつこく墓石にまとわりついたりするから」
おおかた想いを寄せた女のひとの墓だろうが、定家がどんな風にしつこかったのかをぼくは知らなかったけれど
そのときはゆっくり話をしている暇がなく今もってたずねそびれたままでいた。
けれども、そんなふうに言われれば二度と忘れない。 
あるとき、Mさんは門を作り直した。
切妻の屋根は、竹を組んで藤棚のような形式にしたので下から見上げてもテイカカヅラが見えるようになった。

TeikakazuraMonnakaS.jpg 先週、そのテイカカズラが満開になった。あたりをただよう香りはそこはかとないおだやかな甘さだ。
朝、通りがかりにカメラを構えていたら向こうからやってくるひとがいる。Mさんではないか。
「テイカカズラの門がきれいだから写真を撮らせていただいています」
「中から見るのがいちばんいいよ」と、Mさんは門をあけてくださった。
大谷石の階段を数段上がるので、ふりかえると見おろすような位置になる。視界いっぱいにテイカカズラが広がっている。植物はそれだけではない。家のまわりには、数え切れないほどのさまざまな植物が埋めつくしている。ユキノシタ、木瓜、木賊、富貴草、オダマキ、ホトトギス、お茶の木、ヤマブキ、枝垂梅、アジサイ、ムラサキツユクサ、スグリ、胡桃・・・・すべて在来の植物なのだ。それに、生きのいいヤブ蚊もふんだんにかけた香辛料だ。

TeikakazuraTaneS.jpgTeikakazuraACS.jpg「ちょっとまって」と言ってMさんは玄関に入って小さな木の箱を手にしてあらわれた。
「これ、なんだかわかる?」
「・・・・・」
「テイカカズラの実とタネなんだよ」
おもいがけない形だった。細長いサヤの中に細長いタネがお行儀よく並んでいる。
サヤを開くと左右に一列ずつ。ちょっと触れるとタネがサヤからでて、タンポポのような羽毛をひろげる。それが風にのって翔んでゆくのだ。

「これ、ぼくが作ったの。傑作でしょ」
エアコンの室外機の目隠しが、独創的だ。作り替える前の門の柱だろう古い角材と植木鉢を積み重ねて、植木鉢の水抜きの穴に針金を通して縫い合わせてある。
「素人がつくるときにはプロみたいにつくろうとするんじゃなくて、プロより素敵なものをつくろうとするほうがいいとぼくは思う。こういうのはプロではできないですよ」と、讃辞をおくった。
 しかも、こういう古い和風の家のあるじが、かつてバレーリーノであったという取り合わせを思うと、ぼくはなんだかうれしい気分になるのだ。バレリーナっていうのは女の人で、男はバレリーノっていうんだと教えてくださったのもMさんだった。新国立劇場の舞踊部門チーフプロデューサーをやめたとうかがってから数年になるから、年齢はもう70をこえただろうが、20数年、Mさんは姿もふるまいもちっとも変わらない。

■追記
 テイカカズラの名称と定家の関係をまたMさんに質問すると、内親王の霊の出てくる能の話があったと思うよということだったので、今度はWikipediaの力を借りた。後白河天皇の皇女、式子内親王に思いを寄せる定家の恋を描いた「定家」という能の物語が、テイカカズラの名の由来なのだということがわかった。

投稿者 玉井一匡 : 09:51 AM | コメント (2)

March 26, 2010

ミニランドセル

MiniRandcellS.jpgClickToPopuP
 前回のエントリー「ものをつくる人がまちにいるということ」で、バックパックを神楽坂で直してもらったということを書いたのだが、AKIさんのコメントに「増田さんって何を作っているのですか」という疑問が書かれていた。その疑問は当然のことで、ぼくはそれについてちょっと出し惜しみをしていたのだった。そこまで書くと長くなりすぎるし、ストーリーが2つできてしまいそうだったからでもある。

 増田さんは、役目を終えたランドセルの皮をつかって、たてよこ10cmほどのミニランドセルをつくるのだ。そのとき、注文主はそのランドセルにまつわる思い出を書いた手紙を添える。その手紙を読み込んでから、ランドセルに書かれていた名前、思い出深い疵や汚れが残されるように注意深く皮を切り取る。
 それがどんなに特別の思いの込められたものであっても、使い古しのランドセルの中は空っぽになって、代わりに寂しさが残されているものだ。ところが、それがミニチュアのランドセルに生まれ変わると、そこに愛情と記憶が詰められるようだ。おそらく、いいことであれつらいことであれ、過去と向き合うことで、それをこれから生きてゆくためのスプリングボードにすることができるのではないか。

MiniRandcellNHKS.jpgClickToPopuP
 修理の終わったぼくのバックッパックを渡しながら「NHKで前に放送したのを、こんどの土曜のNHKアーカイブというので再放送するので、よかったら見てください。私もすこし出たんです。番組表のコピーがそこにあります。」と増田さんは言った。
 土曜日の朝10時をだいぶ回ってから、ぼくはそのことを思い出して、いそいでテレビをつけた。まちを紹介する番組の一部にでも出てくるのだと思っていたから、間に合わないだろうと思いながら見はじめたが、その後40分以上も番組はつづいた。じつはその番組の1時間半ほどのすべてが、増田さんのつくったミニランドセルをめぐるさまざまな家族の愛情や悲しみやよろこびの物語をつたえるドキュメンタリーなのだった。もとの番組がつくられた1999年当時すでに8,000、現在では13,000ものミニランドセルをつくったという。NHKのアーカイブにある数多くのドキュメンタリーから選ばれただけに、とてもいい番組だった。

 この物語に僕たちはとても心動かされたのだが、それだけではない。彼のあり方が、ちょっと大袈裟に言えば、これからのぼくたちの世界が目指すものの、とてもすてきなモデルのひとつではないかと思うのだ。・・・可燃ゴミとなるしかない古ランドセルが、あたらしい価値と意味を与えられる。それが家族をむすぶ。・・・消費される資源と廃棄物が限界に達している世界、ひとりひとりが自立するのでもなく孤立していることの多いこのくにで、彼のしごとは人と人を結ぶことができる。そして、ひとつの経済活動でもある。
 バックパックを直してもらったぼくも、劇的でこそないがとてもきもちよく、毎日を移動している。気やすく修理を引き受けるのも、それがぼくたちによろこびを知っているからなのだろう。いまも彼の店「夢小路」の入り口には「古いランドセルがあったらください。(研究の材料にします)」と書かれている。

■追記
MiniRandcell2S.jpgClickToPopuP
 aiさんが、さっそくコメントを書いてくださった。そこに「5色のランドセルを作ったご家族で、20年余り前からのお客様」が、番組のことを教えてくださったと書かれている。番組に登場した増田さんの後日談によれば、このご家族に夫妻で盛岡に招待されたそうだ。
その5人のこどもたちの小さな写真がNHKアーカイブのサイトに掲載されていた。

投稿者 玉井一匡 : 12:56 PM | コメント (2)

November 21, 2009

THIS IS IT

ThisIsIt.jpgClick to Jump to the site of "THIS"
マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を見た。
 この映画のことを知ってすぐに、売り切れを心配して前売券を買った。どれくらい歌えるのか、どれくらい身体を動かせるのか、そして、どんなステージがを自分の眼でみたかったのだ。
YouTubeで見たら、ちゃんと踊って歌っていることに安心してそのまま日が過ぎていき、いつのまにか見ないまま終わってしまいそうになった。娘たちは、ぜったいに大画面で見た方がいいという。光代さんからは、ぜひ見るといい、もう三回見たとメールをいただいたし、田んぼ仲間の木村君は、今まではマイケル・ジャクソンにはなんの興味もなかったけれど、きのう初めて映画でみたらほんとによかった、ああいうメッセージを伝えようとしていたなら、殺されたというのは本当かもしれないという。

 どこの映画館にしようかとあれこれ悩んだ末に有楽町の丸の内ピカデリーにした。新宿は満員だということだったが、9時近くに始まる回だったせいか5割ほどの客だった。ひさしぶりに大きな画面だったので見上げるようにするとステージを見ているようだった。

 上映を待っているうちに、ここでマイケルと一緒に踊っていたかもしれない日本人の話を僕は思い出した。Kento Moriという。
この映画のことを知る前に、たまたまウェブサイトの記事で読んだのだが・・・彼はマイケルにあこがれてダンスを始めアメリカに渡り腕を磨くが、マイケルのステージはない。そこで、おそらくは激烈な競争を勝ち抜いてマドンナのステージのダンサーのオーディションにパスする。そのあとで、マイケルのロンドン公演が開かれることを知ると、オーディションに挑戦せずにいられない。彼はそれにも選ばれる。マイケルはマドンナに電話をかけると、Kentoを使わせてくれないかと頼むのだがマドンナはそれに応じなかった。
しかし、マドンナはそれだけでは終わらせない。マイケルの死後に、Kento へすてきな贈り物をしたという、とてもいい話なのだ。この 「ガジェット通信」というサイトに詳しく書かれています。

 この映画には、マイケルが大好きだという表情のこぼれる若者がたくさん、楽器を抱え、歌い、踊り、登場する。そのひとりひとりが、Kentoのようにマイケルジャクソンへの思いと年月を重ねて腕を磨いてきた日々があるにちがいないのだ。彼らの二倍ほどの50才になったマイケルは、若者たちと一緒に踊っていても、いささかも衰えを感じさせない。マスコミにたたかれながら、この状態を保ちあるいは回復させたことに、ぼくはのどの奥があつくなった。
 目標としてきたマイケルと一緒にリハーサルのステージに上がる若者たちは、背後にいてもマイケルの光に隠れるのでなく、彼らもさらに輝きを増しているようだった。マイケルは自分の思うところを決して曲げないのだが、仲間に対して威圧的にならずに、ひとつのステージが築かれてゆく。観客を歌と踊りで引き込んでゆくのと同じように、みずから歌い踊り、語りかけることで共演者たちを引き込んでゆくのだ。
 初めてマイケルを見た東京ドームの「BAD TOUR」コンサート、いまかいまかと主役の登場を待つ何秒かの、期待がふくらませる緊張の静寂。そして、この映画のリハーサル映像のあとにおとずれた主役の不在。
彼がそこにいないことによって、むしろ想像力や期待をふくらませることができるひと。それがスターというものなのかもしれない。

 帰りがけに、出口に人が立って招待券を配っていた。「上映の事故がありご迷惑をおかけしました」という。ああ、やはりあれは事故だったのかと気づいた。途中、十数秒だろうか、画面が真っ黒になって音声だけが聞こえるところがあった。そういう演出なのか壊れたのかと思っていたが、故障だったのだ。
ありがとう。もう一度見にいらっしゃいということなのだと思うことにするか。

■追記
ロンドン公演の開かれる予定だった会場とその環境は、こんなにかっこいいのです:O2アリーナ/ロンドン/GoogleMap
 

投稿者 玉井一匡 : 12:36 PM | コメント (4)

July 23, 2009

「フラッシュ オブ メモリー」:三宅一生のニューヨークタイムズへの寄稿

IsseiNYtimesS.jpg これは太陽ではない。原爆なのだ。

 三宅一生が寄稿したメッセージを7月14日にニューヨークタイムズが掲載した記事の冒頭におかれた写真である。あるいは絵かもしれない。
三宅一生がニューヨークタイムズに寄稿し、自身が広島で被爆したことを明らかにしたうえで、8月6日の広島の平和記念式典へ参加することをオバマ大統領に要請した全文が掲載された。そのことを多くの日本のメディアが報道したのだが、そこには「服飾デザイナー」三宅一生が政治的なメッセージをニューヨークタイムズに表明したできごとという意味合いが強くて、このブログの、ふたつ前にエントリーした「ネオテニージャパン展」を伝えたときの「法廷画家」という扱いに共通するところがあるように感じた。寄稿の全文が掲載されていないことも、彼のメッセージの内容よりも服飾デザイナーが政治的がメッセージを明らかにしたことがニュースとして考えられているからではないか。
 しかも、三宅一生のメッセージの中に、「原爆を生き抜いたデザイナー」というようなレッテルつきで見られるのがいやで、これまでは被爆体験を公にしなかったのだが、核兵器の廃絶を目指すというオバマのプラハ演説に動かされて、このメッセージを送ろうと思ったというくだりがあるのも興味深い。
 
 世間やメディアがひとに貼り付けるレッテルから、ぼくたち自身も自由ではない。だからこのニュースも、三宅一生が政治的なメッセージを公にしたということに思いがけないものを感じて関心をもったのだろう。もともと言葉というものは、何が語られたかだけでなく誰がどんな状況で語ったかによって意味は違うものだ。とはいえ、何を述べたのかがもっとも重要であるのはまちがいない。日本の新聞のウェブサイトに全文を紹介するものが見つかるまで、自分で訳してみたものを以下に加えます。オバマの演説も、アメリカ大使館のサイトへのリンクとして末尾に加えてあります。

<三宅一生の寄稿の全文>

「フラッシュ オブ メモリー」

 四月、オバマ大統領は、核兵器をなくし世界の平和と安全を追求することを約束しました。しかも、核兵器を削減するのではなく廃絶すると。その言葉は、これまで私自身が触れたくないと思い、私の裡に深く潜めていたものをゆさぶって目覚めさせました。

 いまこそ私には、みずからについて語る道義的責任があるということに気づいたのです。オバマ氏が「閃光」と呼んだものに遭遇しながら、それを生き抜いたもののひとりとして、私は言葉にして伝えなければならないと。

 1945年8月6日、世界で初めての原爆がわたしの故郷、広島に落とされました。7歳の幼い私は、そのときその場にいたのです。けっして誰にも経験させたくない出来事のありさまが、目を閉じれば今も甦ります。
赤い鮮烈な光、たちまち黒雲が湧き出し
人々が一目散に四方八方に死にものぐるいで走り出す
だれもが、なんとしても逃れようと必死になっていた光景が、まざまざと目に浮かぶのです。
それから3年足らずで、母は被爆が原因で死にました。

 あの日の記憶であれ、それについての思いであれ、これまで私は誰とも分かち合ったことはありませんでした。その記憶をなんとか自分の背後に押しやって、破壊でなく創造を、そして美とよろこびをもたらそうとして、服飾デザインの世界に没頭したのです。それは、今の時間を信じ未来に夢を託す創造的な生き方であると考えたからでもありました。

 わたしは、自分の意志とかかわりなく遭遇させられた過去の体験によって、自分を規定されるのをいさぎよしとしなかった。「原爆を生き抜いたデザイナー」などというラベルを貼り付けられるのがいやで、ヒロシマについての質問はいつも避けてきました。「ヒロシマ」と耳にすると、どうにも動揺してしまったのです。

 しかし、いやしくも世界から核兵器を取り除こうとこころざすなら、ヒロシマについて論議することは避けて通れないと、いまでは確信しています。
いま、オバマ氏をヒロシマに招こうという運動があるのです・・・8月6日に毎年行われているあの運命の日の式典に。彼には、どうかその招請を受け容れてほしいと私は願っています。それは、過去にこだわるからではありません。むしろ、未来に核戦争のない世界をつくることをアメリカの大統領が目指しているのだという徴しを示してほしいと思うからにほかなりません。

先週、ロシアと米国が、核兵器を削減する覚え書きに調印しました。たしかに、これは重要なできごとではあります。しかし、わたしたちはそれだけで満足するほど、もはやナイーブではありません:一人の人間にはもちろん、ひとつの国家の力で核兵器を押しとどめることは不可能です。日本に生きる私たちは、核兵器で身を固める隣国・北朝鮮の脅威に絶えずさらされています。その他にも、核技術を手に入れようとしている国があるという報道があとをたちません。平和への希望を持ち続けるには、世界中の人々がオバマ大統領の声に自分たちの声をつぎつぎに重ねてゆかなねばなりません。

もし、オバマ氏が広島の平和橋を渡ることができればーーその欄干は日系アメリカ人の彫刻家イサムノグチによるデザインで、東西の架け橋となって憎しみを超えて何かを成し遂げようと考えさせますーーオバマ氏の行動は核の脅威のない世界をつくるために、現実に踏み出す一歩が象徴としての一歩として世界平和に近づくでしょう。

 三宅一生は服飾デザイナー、この原稿は、彼のスタッフによって日本語から翻訳された。

2009年4月5日 プラハにおけるオバマの演説日本語訳/アメリカ大使館の日本語版サイト
ニューヨークタイムズの記事の全文/nytimes.com:上の写真をクリックして見られるものと同じだが、nytimes.comで見られなくなったときのためにコピーして、見やすいよう横長のレイアウトにしました。
ISSEI MIYAKE INC.の公式サイトには、このメッセージについて何も書かれていない。

投稿者 玉井一匡 : 01:54 AM | コメント (1)

July 12, 2009

ネオテニージャパン展

IkedaManabuAsahi-S.jpgClick to read this article.
 一月にエントリーした池田学:「予兆」というエントリーに、KARAKARA-FACTORYの野沢さんが、昨日コメントを書いてくださった。上野で開かれている「ネオテニージャパン展」で、池田学の「領域」と「興亡史」を見たことが書かれていて、自身のブログにも「neoteny japan/上野の森美術館」というタイトルでエントリーされている。
ぼくも西洋美術館とネオテニー展を一緒に見ようと思っていたのだが、またしても、終わる間際に行くか、このあとに長岡で開かれるときに行くことになりそうだ。見てからエントリーしようと思っていたけれど、間に合わないかもしれないし、もうひとつの話があるのでとりあえず書くことにしよう。先日、朝日新聞の夕刊に「法廷描く画家が作品」という見出しで池田学が大きく取り上げられていたのだ。

 記事は、写真撮影の禁じられている法廷記事のために被告や法廷の様子のスケッチを描く「法廷画家」の絵が「ネオテニージャパン展」に展示されているというニュアンスだった。だが、それはちょっと違うだろうと思った。彼は、一枚の絵に2年も3年もかけて描いているから、その間に生きるためのしごととして麻原彰晃などの法廷の絵を描くという仕事もした。彼は他にも缶コーヒー「ボス」の絵も描いたりしている。だからといって「缶コーヒー画家」というだろうか。
 ということがぼくには気になったのだが、凶悪な犯罪を犯した人間たちも、法廷ではそんなことをしたようには見えないという思いを重ねているうちに、生と死は近いところにあるのだと思うようになったと書かれている。掲載されないスケッチもたくさん描いただろうし、そもそもスケッチを依頼されてもいない法廷を見ることもあっただろう。そうするうちに、きっと、生と死だけでなく犯罪を犯すということが、ある境界をひとつ飛び越えるということにすぎないのだということも感じたということはあっただろう。
そんなふうに人間のことや世界のことを見るようになれば、それが彼の絵に反映されて、きっと奥行きを深めレイアを増やしてていくのだろう。

■7月31日から10月6日まで「おぶせミュージアム・中島千波館」で「池田学展」が開かれるそうだ。

投稿者 玉井一匡 : 06:46 AM | コメント (4)

July 07, 2009

田辺一鶴一門会/松戸「席亭・宇」

Ikkaku0705-1S.jpgclick to PopuP
 ときは平成二十一年七月の五日、ヒゲの講談師田辺一鶴一門による講談の会が開かれた。ところは松戸の「席亭 宇」、料理屋の二階の宴会場として使われてきた和室三部屋、八畳間ふたつと十畳をぶっ通しにしたが、客は露地に見たてた廊下にところせましとあふれた。

 といっても、食い物屋の二階で気まぐれに開く古典芸能の夕べというわけじゃあない。この夜から、この場所を茶会やら仲間の集まりのために貸し出すのだが、ひと月おきに田辺一鶴一門の定席として一門会を開こうという船出。天丼と穴子丼を売り物にする「関宿屋本店」の二階を「席亭 宇」と改めてのこけら落としなのだ。この日は、一門の田辺星之助一乃(かずの)一邑(いちゆう)(出演順)に加えて、ゲストとして若い一龍齋貞鏡(ていきょう)を迎えた。一鶴師匠ははじめとトリの両方で高座に上がり、はじめに客に配った「童話しりとり」で講談の「修羅場」の入門指導の大サービス。
八畳の茶室のためにつくられている庭を舞台の袖に使ったから、弟子たちの高座となれば横の椅子から腰を浮かせて顔をのぞかせ、ついつい自ら仕草も出てしまうという風情に師匠の情があらわれる・・・というのが上の写真だ。弟子たちとゲストはそれぞれに芸風を披露して師匠はもちろん最後に十八番の「東京オリンピック」と「妖怪大戦争」。開会式の入場行進の参加国に、水木しげるの妖怪づくしの「修羅場」を一気呵成、立て板に水と披露して、今年八十の歳をものともしないところを見せた。

 6時から始まる会の前、3時半ころにmasaさんといっしょに会場につくと、師匠はもう二階にいらしてると聞いて階段を上がっていった。さすが高座のある日となればブッとんだ服装の師匠を見て胸が騒いだ。masaさんはカメラを持つ手がウズウズしているだろうから、紹介して写真を撮らせていただいていいでしょうかとうかがうと、いとも簡単にいいよとおっしゃる。ぼくはただ写真をとるmasaさんと撮られる師匠を見ているだけで樂しかったのだろう、気がついたら自分でとった写真は一枚もない。けれど、Kai-Wai 散策には、それはすてきな一枚がある。masaさんもディスプレイを見て大喜びしていた。

Ikkaku0705-2S.jpgclick to PopuP なにさま初めてのこととあって主催者側も勝手がわからないところに、一鶴師匠があちらこちらに声をかけてくださったおかげで朝日・読売・毎日新聞の千葉版に大きな写真入りで掲載されたうえにNHKでも話題にとりあげたから、60人ほどしか入れないところにたくさんのお客さんがいらっしゃるかもしれないと、一階の店にプロジェクターを置いてパブリックビューイングもやろうということになった。日韓ワールドカップの職安通りの様子を思い出させる。予定では、貞鏡さんのあとで中入りをとるはずだったのに、師匠は雰囲気が切れない方がいいからと中入りを取りやめて続けることになった。

 半分は畳に座布団という席のお客さんだったから休憩をとればいいのにと心配していたが、あとになって落語と講談の違いについて考えてみると、一鶴さんの考えも分かるような気がした。落語にとって「間」が重要であるなら講談にとってはとりわけ一鶴師匠の講談にとっては「勢い」で勝負するのだ。講談に出囃子がないのは、それ自身の持つ勢いというリズムや音楽性とぶつからないようにという計算なのではないか。講談の華は、一気呵成、ときには息継ぎもなしで攻めるところにあるのだろう。それを「修羅場」というのだということは、この席亭のための改装にかかわって一鶴さんや星之助さんとお話しているうちに初めて知ったことだ。
 松戸について、関宿については、もっと書くことがあるから、それは別のエントリーにしよう。

■修羅場:iPhoneの「大辞林」の「修羅場」の項目には二番目にこう書いてある。
「② 芝居や講釈などで、激しい戦いの場面。[講談では「しらば」「ひらば」という]」
■関宿屋:あるじの稲葉八朗さん手書きのイラストも含めて、すべて自作の公式ホームページで店の様子がよくわかります。
本店は天ぷらを中心とする料理屋で、となりには弟さんが腕をふるう「そば処 関やど」があります。ここもうまい。
■ゲイツイン ギャラリー 宇:交差点をはさんだ道路の筋向かいにある「ゲイツイン ギャラリー 宇」は、「席亭 宇」と対をなすアートギャラリー。
かつて鰻屋の店だったのを数年前に改装したから、大きく「宇」と書かれた鰻屋当時の看板をそのまま残すことにしてギャラリーの名称にも「宇」を加えた。
きもちのよいカフェではうまいコーヒーと焼き菓子もありますから、こちらにも寄ってみてください。

投稿者 玉井一匡 : 07:55 AM | コメント (9)

June 13, 2009

モンゴルの20歳の校長先生:「シリーズ 20歳の挑戦 第1回 愛して伸ばせ」

20SaiKoCho.jpg 先日の朝、BSでモンゴルを撮ったドキュメンタリーを放送していた。見始めたら興味深くて最後まで見てしまった。「非電化工房」の非電化冷蔵庫をモンゴルに行ってつくってきたという話を思い出したから見はじめたのだが、すてきな話だったので録画しておけばよかったと気づいたのはあとの祭り。「NHKオンライン」で検索すると、「シリーズ 20歳の挑戦 第1回 愛して伸ばせ」という番組で、もう一度6月14日の日曜日午後11:40から12:00まで再放送がある。たった20分しかない番組だったのだ。さっそくぼくは録画予約したが、できるだけ多くのひとに見てもらおうと思い放送前に駆け込みのエントリーをすることにした。

 モンゴルでも近頃は経済が自由化されたので、たくさんの私立学校ができるようになった。
そのひとつに20歳の校長先生の学校があるというのだ。モンゴルにも格差社会が始まったというのかと見ていると、そんなつまらない話ではなかった。

 ずいぶん若い校長だとだれしも驚くだろうが、彼は16の歳でこの学校をつくって、すでに4年が経っている。彼はとび級で大学に入り16歳ではもう卒業した。自分で考えてみつけた方法をこどもたちに伝えたくて学校をはじめたのだという。天才でありながら、それをたとえば自分自身の利益や出世という世俗的な目的のためではなく、自分の研究のためにですらなく、こどもたちのために使いたいと考える若者がいるところに、この国が若く健全な時代にあることがわかる。そうするに値する国だと、少なくとも彼に思わせるほどの国なのだ。GDPや経済成長率などというものは国の健康や質を示す指標ではなく、ただ体重のようなものなのかもしれない。日本という国だって、いまでこそこんなデブになってしまったが、かつては空腹だが健康で意欲にあふれ未来を信じていた時期があった。
 彼はエリート教育を受けたわけではない。それどころか、まだ小さい頃に母が病気になり、のちに父親が家を出て行ってしまう。学校をやめて母と弟たちを養わなければならなくなり、独学で学ばざるをえなくなった。そのときに見つけた学習方法をふまえて学校をつくったのだった。

 小学校から高校までの生徒がいる彼の学校では、学科にわけて授業をしない。既製の言葉で言えば総合学習だ。かつて「ミュンヘンの小学生」という本を読んで、ぼくたち夫婦はシュタイナー学校の教育にひどく感動した。こういう学校をつくりたいとぼくたちは思ったのだが、彼は小学生にしてそれを自分自身の力でみつけたのだ。
 ぼくたちの受けた教育は、国語、数学、理科、社会科などという学科に刻まれていたが、じつは世界というものはひとつであって、それをさまざまな切り口から別の見方をしているにすぎない。だからそれをひとつの授業のなかで見つけさせることで、世界はひとつのものなのだと理解してもらおうという考え方なのだ。
しかし、この教育方法は容易なことではない。まず先生自身が、おなじ一つのものごとについてあらゆる方向から考えることができる能力を身につけていなければならないからだ。さらに彼は、他の先生の教育もしなければならないのだ。

Nansa.jpg このドキュメンタリーを見るうちにモンゴルへの思いがふくらんで、ぼくは「天空の草原のナンサ」を見たくなった。うちには、次女が姉にプレゼントしたDVDがあるのだが、ぼくはまだ見そびれていた。
 今朝はそんなことを娘と話していたら、午後にはこんなこともあった。
「玉井さん何でも好きですか?」と、クライアントの娘さんが突然に言った。
「ぼくは、嫌いな食べ物はひとつもなくて、何でもすき。」
「だったら、巣鴨にある「シリンゴル」というモンゴル料理屋さんの、羊肉に塩をしただけで蒸したのをタレにつけて食べる料理がとてもおいしいんです。
玉井さんきっと好きだと思うから、行ってみてください。正確には場所を憶えていないけど」
「じゃあ、インターネットで調べて行ってみますよ」

投稿者 玉井一匡 : 01:15 AM | コメント (9)

March 12, 2009

モモの花とビニール袋

PeachFlowersS.jpgClick to PopuP
 きのうの夜はつめたくて強い風が吹いた。これからの季節、そういう日の翌日は朝の散歩ルートのところどころにちょっとした楽しみがある。
案の定、モモの木の下に20ほどのつぼみが階段の下と踏面に散っている。すでに開いたやつもあればまだ固いつぼみもある。おそらく今年もヒヨドリのはからいなのだろう。いつもは桜なのだが、今年はモモの花なので半月ほども早い。
透明のグラスに水をいれて、そこに首を刎ねられた桃の花たちを浮かべ、帰りがけに摘んできたペンペン草が白い花をつけたのを5本ほど挿した。
風はまだずいぶん冷たいのに、ああまた春がすぐそこに近づいたんだと思う。

 そういえば先日、この公園の入口にある階段の下で、ランドセルを背負った少年に出会ったときのことを思い出した。

PeachFlowers2S.jpgClick to PopuP
 雨の翌朝、3年生くらいの男の子が運動靴の右足を白いビニール袋の中に入れて、手かけのところを足に縛りつけていた。
じつは、それを見てぼくは彼が何を考えているのが分かったのだけれど聞いてみた。
「なんだい、それは?」
「階段の上に水たまりがあるから・・・」
「左足はいいのか?」
「左側は水のないところがあるから大丈夫」
「なるほど」
階段をのぼったところの右はコンクリートの擁壁が上に高く、左にはネットフェンスがあって10m ほどの擁壁の下を妙正寺川が流れている。その間の細い道には、雨が降ると水たまりができる。ビニール袋に足をくるんで、そこを歩くときに靴が濡れないようにしようというのだ、彼は。
「ぼくは水に入って汚れてもいいように、裸足にサンダルを履いてくるんだよ、ほら。水がたまってたら、君を抱いていってあげるよ」
「ほんと?」
「うん、いいよ。きみたちは集団登校じゃないのかい?」
「遅刻したから、こっちは近道なんです」
うちの娘も同じ学校だったから地図を頭に浮かべられるけれど、断じてその道は近道ではない。普通の道を行けば距離だって近いのだが、階段ものぼらないでいいし、ビニールの袋を履かなくたっていいのだ。
階段の上に行くと、もう水は引いていたので彼を抱えることはなく、クーが用を足しているのを待っているうちにボウズは先に公園を抜けていった。(この2枚の写真は、後日の雨の日に撮ったものです)

 ぼくが公園を出ると、道路を渡るところだった少年はガードレールを越えようとしていたらぼくに気づいたようだった。
「ここで渡っちゃおうかなあ・・・・」と、ぼくに聞こえるようにだろう、声にした。
近頃のテレビ番組で、あらかじめ次の画面を知らせるテロップが出て来るのに似ていた。
「遅刻ぐらいしてもいいから、気をつけろよ」
「うん」と言うなりクルマがとぎれたスキに新青梅街道を渡っていった。

こういうバカなこと(ガードレールを越えることじゃあないですよ)をする男の子が、ぼくは好きだ。
そのあと、彼との会話を思い出しながら笑いをかみ殺しつつ歩いた。

投稿者 玉井一匡 : 04:42 PM | コメント (2)

February 09, 2009

PATRIA O MUERTE:祖国を、さもなくば死を

CheCoinS.jpgClick to PopuP
 以前、友人の塚原がキューバみやげに、ゲバラの肖像のはいった3ペソのコインをくれた。ミーハーといわれてもしかたないが、ぼくはこんなものがうれしいのだ。ビエンチャン、バンコクなどでもゲバラのTシャツを買った。このコインは直径26mm、ゲバラの肖像の上に「PATRIA O MUERTE」と書かれている。「祖国を、さもなくば死を」は、アメリカ独立戦争の前にパトリック・ヘンリーが演説で言ったという「自由を、しからずんば死を(give me liberty or give me death!)」にちょっと手を加えてアメリカに投げ返したのにちがいない。
だが、キューバでは外国人であるはずのゲバラにとって、ここで言う「祖国」とは何を意味しているのだろうかと、気になっていた。
ゲバラの映画「CHE」の一本目、「チェ 28歳の革命」をまだ見ていないうちに、上映している映画館がほとんどなくなってきた。インターネットで調べると、ユナイテッドシネマとしまえんではまだ21:30からの回だけやっているのを知って金曜の夜に駆けこんだ。

 昨年の秋、「ゲバラの映画がカンヌで上映されて評判がよかったらしいから、日本にもきっと来ますよ」と、ギンレイホールの藤永さんが新聞の切り抜きを手渡して知らせてくれた。「モーターサイクルダイアリーズ」やその原作「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記」の話をしたことがあったからかもしれない。日本で上映されるにしても単館上映だろうと思っていたが、全国のあちらこちらで上映されることになった。
 監督はオーシャンズ11スティーヴン・ソダーバーグであるし、商業的な成功もねらおうというのだ。そんなことが可能になったのは、監督が言うようにブッシュがあまりにもひどかったこともあるだろうし、ゲバラの人気が広がったことや、アメリカ合衆国にとってゲバラがもう「危険」でないと思われるようになったせいかもしれない。

 さて「PATRIA O MUERTE!」だが、この映画では1964年、国連でアメリカの経済封鎖を非難しキューバの革命政府の正当性を主張するゲバラが演説の最後に言い放つ。右のYouTubeの映像ではゲバラの国連演説の声が聞けるが、ここにはそれらしいことばが聞こえない、ぼくには。
 オートバイで南米の国々をいくつも越えて巡り国境を越え、後年メキシコでカストロと出会い一緒に小船グランマ号でキューバに渡る。ゲバラにとって祖国とはアルゼチンでもなくキューバでもなくて、中南米のアメリカ諸国のすべてを意味していたのではないか。それらはヨーロッパからやってきた連中が勝手に切り分けたにすぎない。だとすれば国境というものを別の何ものかに変えようと考えるのは当然だ。
 南米諸国に手を伸ばし利益を吸い上げるアメリカの貪欲に対して、それぞれのくにが独立を保ちつつ共生し、グローバリズムに対抗する南米を祖国として、ゲバラは自然な思いでボリビアに渡ったのではないか。

 キューバを愛し、国境に頓着しなかった外国人といえばもうひとりアーネスト・ヘミングウェイが思い浮かぶ。彼は、やはり国境を越えてスペインの内戦に参加してフランコの軍と戦った。ファーストネームERNESTがゲバラのERNESTOと同じだったのは偶然だったにしても、銃によって自殺した文豪ERNESTと、閣僚の座を捨てて喘息の身をジャングルの苦しい戦いに投じたERNESTOの最期に共通するところがあるのは、偶然ではないように思えてしかたない。
ふたりとも、外国で死を迎えたとは考えなかっただろう。

ゲバラのTシャツは、いくつかもっているけれど気恥ずかしくて人前では着たことがないが、こんど東京ハンズで部品をさがして、コインをペンダントに仕立てようか。
が、その前に「チェ 38歳の手紙」の、つらいボリビアを見なければならないのだ。
去年見たフランスのテレビ局の長時間インタビューが思い出される。
「信じられないよ、あいつは喘息の薬を置き忘れてボリビアに行ったんだよ!」と
何十年も前のことを、外国のジャーナリストに話していたカストロの、いつもながらのあふれ出る情熱とことば
弱点や欠点をたくさん持っていて、ときにはうんざりさせられるんだろうが、だからこそなおさら敬愛される
なんと魅力的な男たちをふたり、歴史は出会わせてくれたのだろう。
この映画が描くのは、英雄の悲劇より、革命の成功より、かくも魅力的な二人の男なのではないか。

■関連エントリー
CHE /aki's STOCKTAKING
知られざる豊かな国キューバ/MyPlace
モーターサイクルダイアリーズ/MyPlace
アメリカ帝国への報復/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 12:20 PM | コメント (0)

August 06, 2008

蝉の殻をあつめる人


Semikara1S.jpgClick to PopuP

 クーの散歩をさせていると、いろいろなことにであう。
昨夜は雨が強かったので、夜遅く帰ってから朝とは違うルートをぼくがつれていった。その道に、大きな夏みかんの木が道路ぎわにのびる家があって季節には道にたくさんの実を落とす。拾うのはかっこわるいと思うのだろう、誰も拾わないうちにクルマに踏みつけられる。いまはもう時期を過ぎたけれど、たったひとつだが大きな夏みかんが道路に落ちていた。元気そうだったから拾い上げて連れて帰った。ふたつに切って大型のレモン絞り(100円ショップにある)でジュースにすると砂糖と氷を加えて大きなグラスにちょうど一杯分。
 今朝は、公園の柵のまわりでなにやらつまみ上げている人がいた。通り過ぎるときにちらりと見ると、蝉の抜け殻だった。

Semikara2S.jpg そんなことを言ったら、彼は気を悪くするかも知れないけれど、ちょっと見たところ福田康夫を気むずかしくしたような人だったが好奇心は止められない。
ちょっと引き返してたずねた。
「蝉の抜け殻を集めていらっしゃるんですか?」
気むずかしそうな顔が急に笑顔に変わった。
「ええ、生きているのをつかまえるのはかわいそうだから、殻をあつめるんです。ほら、この小さいのはツクツクホウシ
「ツクツクホウシはこんな小さいんですか?このごろ東京にはミンミンゼミが増えましたね。ぼくたちの子供の頃はアブラゼミばかりで、たまにミンミンをみつけると興奮したものですが」
「そうですね、気候が変わったんです。それに、ミンミンゼミは声が大きいから目立つんです。こちらがミンミンでアブラゼミはこれです。触覚を見ると分かります」
と、教えられてもぼくには区別がわからない。あとで調べてみよう。
「どれくらいの時間で何匹くらい見つかるものですか」
哲学同公園からここ(江古田公園)まで30分から1時間足らずで、40匹くらいでしょうか。見落とすのもあるから、昨日のもあるでしょうがね」
といって、重ねて持っていたもう一つの箱を見せた。その箱は、すでに一杯だった。
「漢方薬にも使われているんですよ」

 箱に重ねたノートには、細かく記録が書かれている。聞きたいことはまだたくさんあるけれど邪魔をしてはいけないと、このあたりで切り上げた。殻は逃げることもないから集めやすい。その数と位置と種類によって気候の生物におよぼす影響がわかるはずだ。まして、長年地中にいるセミのことだ、その間のこともなんらかの形でこの殻に書き込まれているのかもしれない。こどもたちが採っていくと数が狂いますねとたずねると、それは大した数ではないがカラスが食べようと待ちかまえているんだという。

■日本人は昆虫が好きだと言われるが英語版wikipediaの「Cicada」の方が、記述が多いのはちょっとくやしい。
・・・・と思ったのだが、じつは日本語のWikipediaの記述はアブラゼミやミンミンゼミなどの種ごとに、むしろ詳細に書かれている。そういえば、妹の亭主はアメリカ人だが蝉の総称としてのcicadaしか知らない。
セミの家というサイトがある。
■セミが、あの臭いカメムシ属なのだということを、Wikipediaを読んでいてはじめて知った。

wikipediaのセミの記述によれば、漢方では蝉退(せんたい)というそうだ。
■漢方薬として蝉退を売っているこんなオンラインショップもある。
この説明によれば薬効はこう書かれている:疏散風熱・利咽喉・退目翳・定驚カン
解熱作用、鎮静・鎮痙作用

■関連エントリー
蝉の殻をあつめる人
蝉のカラ揚げ

投稿者 玉井一匡 : 11:16 AM | コメント (7)

February 25, 2008

メコンを北へ

KajimaLaoBoatS.jpgClick to PopuP

 加嶋さんとわきたさんが「ラオスの路上で乾杯」のコメントで長い書き込みをしてくださり、「グレーの壁」と「グレーの塊」の応酬というすこぶるおもしろい事態にあいなった。加嶋さん夫妻はすでに日本にお帰りになった。現実とブログのあいだのタイムラグが大きくなってしまったので、ひとつエントリーして舞台を進めておこう。
*記述を軽快にするため、以下は敬語丁寧語を、ときに伝聞形を省略します。

 ビエンチャンに1泊した翌日に、加嶋夫妻はルアンパバーンへ飛行機で移動、そのつぎの日には船でメコンと支流のナムウー川を遡った。ルアンパバンからとどいたメールには、ビエンチャン路上の乾杯と一緒に、川のほとりで甲羅干しをする屋根付きの細長い船の写真が添付されていた。
「ボートでノーンキャウへ行くことにしました。ノーンキャウからウドムサイへバスで移動し、ウドムサイからどのようにするかわかりませんが、ヴィエンチャンへ戻ります」と書かれている。Googleマップでルートの地形を見ようとしたが、わからない。
ルアンパバーン(Luangprhabang)を開いてみてもラオス領内は地名の表示そのものがひどく少ない。ラオス語の本の発行が年間に50〜60点くらいしかないといわれる状態にあるのと同じく、情報を公開しない時代があって、自由化が進められる現在も、それがあとをひいているということなのだろうか。

KajimaMekongS.jpgClick to PopuPLaosKaoS.jpg
「ノーンキャウに行きました。ルアンパバーンからメコンを8時間遡りました。途中一軒もお店がなく、乗客の一人としてご飯を用意していません。仕方なく私が上の部落へ行って、ご飯を10人ぶんぐらい調達しました。その間ボートの運転手たちはゆっくりと魚とおかずのお昼を食べています。」
川に美しくそそりたつ岸壁と、やっとちかづいたのであろうノーンキャウの集落の写真を見ながら、他の乗客はどんな人たちなのだろうか、腹をへらしたときにどう反応したのだろう、そして、加嶋さんはどんな食べ物を調達されたのだろうということがぼくは気になってしかたない。そう書いてメールを送ると、さっそく加嶋さんから返信があった。
 地元の人たちは料金が安上がりなのでたいていはバスを利用するから、この船に乗るのはおおかたは外国からの旅行者たちなのだという。おそらく川沿いにまちができているはずだから、川に沿う道路があってそこを走るバスルートがあるのだろうと、勝手に想像をふくらませる。
 船の乗員が昼メシを食べている間に陸にあがってしばらく行くと農家があったので「カオ」という単語を憶えていたから、それを言って赤米のメシをわけてもらった。はじめは一人分しかなかったので、もう少し分けてほしいと言うと、自分たちの分がなくなりそうなのでちょっと渋い顔をしたが、もう1ドルを出すと喜んで分けてくれたという。ちかごろは日本でも作られるようになった古代米とも言われる赤米はモチ米の一種で、炊くのではなく逆円錐形のザルに米を入れて下から湯気で蒸して調理する。モチ米は米粒がたがいにくっつくから、おむすびにしなくてもからまっている。ラオスでは、それを、箸などをつかわずに手でちぎりながら食べるのだ。右は、このときの加嶋さんの写真ではなくて、ビエンチャンのレストランでぼくが撮ったものだ。レストランでは、ひとりずつ写真のようにふたつきの小さなかごに入れてあったが、市場で買ってきたときにはバナナの葉に包まれていたので、食べるときには葉を皿として使って食べた。
その「カオ」をもって船にもどりみんなに分けると、当然ながらその後はとても仲良しになったそうだ。

そう聞いて、ますます質問したいことが浮かんでくる。
・船の乗員は、ひとが腹を空かせているのを横目に自分たちは昼飯を楽しんでいるというのもおもしろいが、客を相手に弁当を売ればひとかせぎできるだろうに、それをしないのはラオス人のおおらかさなんだろうか。ベトナム人や中国人の船頭だったら、しっかり商売をするだろうに
・食料を調達に行くとき、船が行ってしまわないようにするために、船頭にはどう伝えたのだろう
・ほかの連中は、食料を調達しようとしなかったのか・・・etc.
これらの疑問は、まだ解決していない。なにしろ、まだ質問もしていないのだ。

KajimaNonkyauMesiS.jpgClick to PopuP
船による全行程8時間の途中、出発後3時間でモチ米の昼食をとり、その後さらに5時間を船にゆられてやっとノーンキャウについた。そこではちゃんとテーブルについて、安堵とともに食事にありついたという写真がある。
こうして写真を見ていると、ボートはメコンを遡ると同時に時間をも遡っているようだ。しかもメコンは、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、ベトナムの国々の境界をなすことが多い。そこでは対岸は外国なのだ。すると、橋のないところでは川のこちらとむこう側に時間のズレが生じているのかもしれない。ますます興味深い。
ここに夫妻は一泊、翌日にはバスでウドンタニへ向かった。

投稿者 玉井一匡 : 07:45 PM | コメント (10)

February 17, 2008

ラオスの路上で乾杯

LaosKajima1S.jpgClick to PopuP

「写真は昨晩、タクシー運転手やセタパレスの従業員の女性と知り合い、地元の飲み屋でしたたかビアラオを飲みました。ちょうど中国の正月でセタパレスの先の広場では屋台が出て、かなり大きなセレモニーでした。」と、メールにあった。
このところ一日おきくらいに写真入りのメールがラオスから届く。おそらくはじめの一日目だけ日本からホテルに予約を入れておいて、あとは行き先もホテルも乗り物も、気分と様子によってなりゆきにゆだねる。奥さんもいっしょなので日本で余計な心配をする人もいない気ままな旅。
 到着した日の夕方に、もうタクシーの運転手たちとすっかり意気投合してこんなぐあいなのだ。サッカーが得意ならボールひとつあればどこの国に行ってもすぐに仲良くなれるとか、楽器があればたちどころに友達だなんていうが、ビールで乾杯すればもう仲間というのも、呑めない人間にしれみればうらやましい。でも、だれでも持っているものがある。

 ラオスはよさそうなので行ってみたいのだが、どうだろうかと相談を受けた。年末に東京にいらしたときにMacの画面でぼくの撮った写真をお見せして、あれやこれや、ひとは穏やかでメシはうまい、単なる経済指標では貧しい国ということになっているそうだが、むしろゆたかな生活だとぼくは思うというような話をした。それで、やはり行きたいということになった。後日、コンピューターを持って行ったほうがいいだろうかというメールをいただいたので、ぼくはいつも持って行ってメールのチェックをしたりブログに書き込んだり読んだりするんだと返信した。その結果、上の写真のような具合になり、その様子が翌日にはぼくのところに送られてきたというわけだ。

 南国では、どこでも食いものやのテーブルが屋外にまでふくらんでいる。高級な店では、それが庭のテラスであるし、安くて気楽な店では道路であり、メコンに張り出したデッキであるという違いはあれ、食って呑んでという楽しさが、外にこぼれだしているから、通りがかりの人間もそれを分かち合うことができる。もちろん、こういう店にはエアコンなんかないけれど、木蔭がある。そこに、おだやかでひとなつっこいラオスのひとたちがいて盛り上がっていれば、こちらに「おお、やってますね」となかよくする気さえあればいいのだ。それに、こちらはグループではないから、むこうも声をかけてくれる。
 それでも、道ばたの店じゃ店員だって客だって、英語なんか通じないだろうにどうやったんだろうかと気になった。しかし、メールにはセタパレスにつとめる女の人がいたと書いてある。セタパレスというのは、ビエンチャンで一番の高級で気もちのいいホテルだ。そういうところで働いているひとなら、英語くらいは話してくれるだろうし、タクシーの運転手も少しはしゃべってくれるというわけだろう。
 旅の主人公、加嶋さんがはじめの一日だけ予約されたホテルは、そのセタパレスのすぐ近くのDAY INNという、小さくてきもちのいいホテルだ。ぼくは、そのホテルの前で道路の側溝に落ちたことがある。

LaosJiroS.jpgClick to PopuP
 メールには、奥さんがこんなことも書き加えてくださった。「こんにちは。昨日は、マーケットでかえるの唐揚げを食べて、夜は川村さんの事務所近くの飲み屋さんでジロウを食べました。(ラオス名物ジロウをご存知ですか?念のため申しますが、こうろぎです。)どちらもなかなか美味でした。塚原さんには内緒にしてください。でも、それからメコン沿いの屋台でラオスすき焼きを食べました。こちらもおいしかったです!ラオス料理は私たちにとても合いますね。好き勝手ばかりしています。ではまたご報告します。」
 ぼくもカエルは日本で食べたことがあるが、コオロギはまだ食べたことはない。一日目にして、ふたりはラオスを握ってしまったようだ。加嶋さんは長野県の駒ヶ根の住人だから、蜂の子なんぞで鍛えてあって、コオロギごときに臆することがないんだろう。信州もラオスも海がない。虫だって爬虫類だってわけへだてなくうまそうに見えちゃうのもあたりまえだ。もともとそういう厳しい暮らしをしていた人たちのところに、米軍はたくさんの爆弾を落としていった。北爆でラオスに落とされた爆弾はベトナム以上だったと言われている。
ほかの昆虫も食べるそうだが、たいていは唐揚げにするんだという。小エビや沢ガニを唐揚げにするようなものだろう。小型の甲殻類を食べるときの、世界共通の王道なのかもしれない。日本には、佃煮という手がもうひとつあるが。

beerlao-lager.jpgClick to JumP 上の写真の届いた翌日、加嶋夫妻は、もうビエンチャンを出発してルアンパバンに飛んだ。ちょうど旧正月にぶつかったので、DAY INNでは翌日の部屋が取れなかったので行ってしまうことにしたようだ。行きはバスで、帰りは飛行機にするという予定だったが、やはり旧正月とあってバスも混んでいるのだろう、行きは飛行機になったらしい。だから、このメールはルアンパバンから送られた。したたかにビアラオを飲んだというあとでは、さすがにホテルに戻ってメールを書くわけには行かなかったのだろう。
ビアラオとは、ラオスで唯一のビールのブランドの名だ。残念ながらぼくには分からないが、うまいビールだとみんなが言う、メコンに沈む夕日を見ながらのビアラオは格別なんだと。ビールを飲まなくても、メコンに沈む夕日は格別ではある。ビエンチャンのところで、メコンは大きく西に折れているので、対岸というより下流の水面に日が沈んでいく。

 旅がはじまって数日して、ブログに書いてもいいだろうかと書いたら、まったくかまわないと返事をいただいたので、タイムラグのあるエントリーになったけれど、書きたいことが沢山あってきりがない。

■追記 0218'08:今朝届いたメールでジロウの写真が送られてきたので、さっそく写真を追加しました。

投稿者 玉井一匡 : 08:34 AM | コメント (31)

February 04, 2008

雪の日の青空

Click to PopuP

 雪が降ったら写真をとってエントリーしようと待っていたのに初雪の日には写真のことをすっかり忘れてしまった。こんどは日曜日の朝、目を覚ますと一面の雪になっていたのでもう忘れない。クーの散歩の途中で公園のネットフェンスにクーのツナをひっかける。左手で折りたたみの青空を広げ、右手にデジカメを構えた。
12月、ぼくの誕生日にかりんがプレゼントしてくれた、MOMAのミュージアムショップの「Sky Umbrella, Collapsible 」だ。とうさんがさみしがっているだろうと、自分の子供でもないのにとうさんとよんでくれるだけでもうれしいのだが、青空をくれるとなれば、あたりまえだがもっとうれしい。「お」がついていないとうさんは、なかば固有名詞になるらしいが、逆にうちでは「おとうさん」が固有名詞と化していて、おとうさんとだけ言えば御所浦で半年間お世話になった下宿先の森枝電気のおとうさん、森枝三千尋さんのことだ。

 こんなふうにプレゼントをしたり、だれかを喜ばせたようとするときに、かりんは手作りのすてきなカードを書いてくれる。それをそばで見ているうちの娘によれば、いとも簡単に描いてしまうそうだが、音楽家のいえで育ち邦楽科で学んだかりんにとっては、そうやって絵を描くことがかえってとても楽しいことなのだという。
 ぼくは自転車通勤の途中に転んだことが5,6回ある。その大部分は雨や工事中に撒いた砂のせいでスリップしたからなので、雨が降るとぼくは自転車でなく電車に乗る。電車では本が読める。雨降りだからミステリーでも読もうというわけで、それもうれしいのだがもうひとつ、青空の傘のおかげで雨の日がもっとうれしくなった。

投稿者 玉井一匡 : 03:33 PM | コメント (6)

November 14, 2007

楽しいカタチの帽子

SusoBookBoshi.jpg楽しいカタチの帽子/スソアキコ/文化出版局/1,680円
 イラストを担当されたもう一冊の本と一緒に、須曽明子さんがこの本を送ってくださった。そのもう一冊は、いま読んでる途中なのだが、おもしろそうなことがはじまるので、それに遅れちゃあいけないと思ってまずはこの本のことをエントリーすることにした。11月中旬からスソさんの帽子のレンタルを始めるというのだ。しかも、週末に寄った江古田図書館の新着図書の本棚にこの本があったので、ぼくはなんだかうれしくなってしまい、自分の本を持っていながら借りてしまった。だから、この本の写真は、表紙に分類のシールが貼ってある。
須曽さんは、イラストレーターとして、独特の世界をつくっちゃう人だが、ぶっ飛んだ帽子もデザインしてつくっちゃう帽子のデザイナーでもある。わきたさんも、スソ世界にはまっちゃったようだ。

 ぼくも何度か個展にうかがったことがある。それでも、帽子は好きなのだが、自分でかぶるとなるとなかなか勇気が取り出せないような個性あふれる帽子たちだ。あのやせがえるが即身成仏したアトリエの真ん中にミシンを置いて、まわりをところ狭しと材料や型が埋め尽くし、仕事場の空間はイラストより帽子の方が圧倒的優勢だった。
 衣類がどれもそうであるように、帽子のデザインは、二次元の材料である布を切り抜いて3次元に変身させてしまう魔法だ。からだを包むというところは衣類と変わらないけれど、脳が特別な存在であるのと同じように、帽子は特別に象徴的なものだから、須曽さんの帽子をかぶるのはちょっと決心がいるのだ。と、書いたあとでスソさんが送ってくださったもう一冊の本のタイトルは「第三の脳」であることを思い出した。第三の脳とは皮膚のことなのだ。だったら、衣類は第二の皮膚、帽子は第二の顔でもある。

この本に、男女のモデルが帽子を頭にのせた写真がたくさんあるし型紙も豊富に折り込んてある。「楽しい帽子を自分でデザインして自分でつくり自分で かぶってみようよ」といいたいのだ。

投稿者 玉井一匡 : 08:46 AM | コメント (2)

October 24, 2007

やせがえる・後日譚、というよりも先日譚

Click to PopuP

 スソアキコさんが著書を送って下さった。まずは読んでからエントリーしようと思っているうちに時が経ってしまい、遅ればせだがお礼のメールを送り、「ぼくのblogのカエルのエントリーを読んでみてください」と書き添えた。じつは、スソさんはこの部屋を仕事場として借りていたことがある。
これを読んだ彼女から、すぐに返信が届いた。とてもおもしろいのだがコメントに書くには少々長いので、新たにエントリーすることにした。もちろん、公開することは、ご本人から了解を得ている。
このイラストは、いまの日立の掃除機のコマーシャルで使われている、ゴミーズと呼ばれるキャラクターたち。スソさんのしごとだが、彼女のイラストに登場するのは、こんな風にちょっと屈折したやつが多い。

   *  *  * 須曽さんからのメール *  *  *
カエルの写真大変驚きました。実は、ほぼ同じことが私がいるあいだにも起きたのです。
あまりに状況が似ているので、もしや私が掃除をしないで放置したのではと一瞬思ったくらいです。

わたしもあの障子はめったに開けなかったのですが、
あるとき大家さんのところにお邪魔したあと、部屋に戻る際になんとなく目にはいったのです。
ガラスの向こう側にジャンプするカエルがいたのでした。
後ろ足が伸びきっていて、瞬間冷凍保存されたような姿でした。
ガラスにもたれかかって立っていたのです。
しかし生気なくひからびていました。
なんだかすぐに部屋の中から取り出す気になれず、そのまま見てみないふりというか、
知らなかったふりをして、たぶん半年以上そのままだったように思います。
とうとう引っ越すことになり、意を決して取り出し、土に還してあげました。
はじめに見た時よりもちょっと小さくなっていたような気がしました。

わたしは光をもとめてジャンプした瞬間に死を迎えてしまった様子に
恐怖を感じていたのかもしれません。
それに比べて、送っていただいた写真はなにか穏やかな感じがします。
わたしはカレともカノジョとも思わなかった気がします。
話はそれますが、道を横断するカタツムリを見付けたことがあります。
車に轢かれてはかわいそうだと思い、また
その先には植物もなかったので、気を効かせたつもりで
逆側の紫陽花の葉に乗せてあげました。
翌日、同じ場所、道のまんなかでカタツムリの殻がこなごなになっていました。
再度道を横断しようとしたのかどうかはわかりませんが
鳩のはなしを読んで想い出しました。
              *  *  *  *  *  *  *  *  
ぼくが見たやつは、眠るように即身仏のごとく蹲踞の姿勢を保っていたが、スソさんの時には、ジャンプしたまま凍り付いたように乾いていたという。
どうして生きているときの瞬間を保存したような姿勢でいたのか、それに、どうやってこの隙間に入り込んだのか、不思議な話だ。
メールを受け取ったあとに、もっとくわしく話を聞きたくて電話をかけた。
スソさんは、写真を撮っておかなかったことを、ひどく後悔していたので
「スソさんはイラストを描けばいいじゃない」と言った。

投稿者 玉井一匡 : 08:04 PM | コメント (8)

September 24, 2007

ioraのライブを カフェ杏奴で

Click to PopuP

もう一昨日の夜、またしても一斉エントリーに乗り遅れた。
通常の営業をとりやめて、カフェ杏奴でiora(アイオラ)のライブが開かれるドアを開けると、ぼくの顔見知りの一団は、すでに中二階の天井桟敷を占めていた。小学校から高校まで、学校の遠足などでバス移動するときには、いつもなぜか最後尾の席に陣取っていた。
演奏を生で聴くこともデュオの二人に会うことも初めてのことだったが、ぼくは杏奴においてあったCDを1年ほど前に買って聴いていたから音楽は知っているつもりだった。が、ききはじめるとギターの助っ人がひとり加わっただけで電気の力は何も借りていないのに、演奏はCDとは比べようもないくらい厚みと力があって心をさわがす。
どこからも見えるように聴けるようにするために選んだ結果、ステージは入り口のすぐ脇にある。ギンレイ会館地下のポルノ映画館「くらら劇場」の、スクリーンのすぐ横から客が入ってくるという非常識を思い出した。
外を走る車たちがひっきりなしに背景を横切る。ガラス越しに歩行者がのぞき込む。
こういう夾雑物が、演奏のためにつくられた場所にはないたのしさを増幅する。
ioraの音楽は、カフェ杏奴のありかたと近いところにあるのだ。
毎日のように、ここにやってきては作詞をしているそうだから、それも当たり前なのかもしれない。

「今日は、かなり年齢の上のかたもいらっしゃるので、カバー曲を歌います。」と、われわれに配慮をしめして歌ってくれた久保田早紀の「異邦人」を聴いて、彼らの音楽の方向が分かるような気がした。
市場、ざわめき、移動。

アンコールの2曲目、最後の最後に杏奴のママに一曲が贈られた。 「カフェ杏奴」
こんな歌詞ではじまる曲は、シンプルなメロディの繰り返しと、おだやかに漂うような間奏がここちよい。
歌詞に描かれる店の様子とそれぞれの記憶を重ねあわせて、共感の笑いがこぼれる。
思いがけぬ贈り物に涙ぐんでいるママの様子も伝染した。

11時を過ぎた頃に
少し早めのランチタイム
おてんとさまとご一緒に
カフェ杏奴にでかけましょう
カランコロンとドアベルが
鳴ればママさんお出迎え
好きなお席にどうぞどうぞ
地下と1階、中二階
カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴
詩:Momo/iora

Click to PopuP
ioraの女声ヴォーカル、「桃ちゃん」には、もうひとつ特筆すべき特技がある。フェルトでいろんなもののミニチュアをつくってしまう。写真は、箱に入ったピザ、直径2cmくらいのサイズにトッピングはきっとサラミだろう。ピザケースの右下にはグリーンの瓶にはいったタバスコもある。切り取った一切れは、チーズが溶けてすこしこぼれようとしているのだろう、台よりもすこし大きい。芸がこまかい。こういうミニチュアが、杏奴の店のあちらこちらにたくさんおいてある。

じつは演奏の間ずっと、ぼくは音楽と胃袋の誘惑に引き裂かれていた。いや、両方の誘惑に身を委ねていたというべきかもしれない。小野寺さんから、少し遅れそうだという電話があったときいてわれわれが浅ましくも期待したとおり、両手にたくさんの料理を抱えて彼女は演奏開始直後に到着していた。そのメニューは、小野寺さんのブログに書かれているが、手作りの塩玉子の月をいれた手づくりの月餅を初めてごちそうになった。そこに写真のない酔鶏(酔っぱらい鶏)、それに椎茸のエビ餡詰めの写真を、ちょっとピンぼけだがぼくの記憶のために加えておきたい。

投稿者 玉井一匡 : 09:16 AM | コメント (8)

September 15, 2007

違うものがたくさん:Psalmライブ 新潟

Click to PopuP
 玄関にたくさんの履物が雑然と脱ぎ散らかされている様子が、ぼくは好きらしい。
だからといって、整然としているのがきらいではないし、散らかっている玄関ならどれでもいいというわけではない。人間の生き生きしているざわめきのようなものが残されているのが感じられるのだろう。同じものはひとつもない履物たちがたくさん、さまざまに並んでいる。一組ずつは同じ方向を向いているから、そのひと組ずつが露天で、玄関が市場であるかのようだ。

 8月28日午後6:30平日の雨上がり、母の住む新潟のいえでPsalm(サーム)のライブをひらいた。 家は、50年と少し経った古い家を縮小、曵き家で屋敷林の中に移動して改造した。8畳の正方形が三つL型をなしてならんでいるから、その間の襖を外すとのひとつづきのスペースになる。さらに障子をとりはらえば両側の廊下も、さらに雨に洗われた樹々のみどりも硝子越しに続いて、なかなかすてきなライブスペースに姿を変えた。

  Psalmは25弦の箏とヴォーカル、かりん夕海。子供たちの多くは箏という楽器そのものを目にするのが初めてだし、舞台の高さのない同じ畳の上にいるから、目の前の演奏に少しずつにじり寄っていく。暗くなり始めたしずけさにかすかな弦の響きが浮かぶ中を、歩き始めたばかりのチビが、みんなの前をことばにならない音声をあげながらトコトコと歩いて横断したりする。それも音楽のひとつとして取り込もうとしていた。仕事を終えたご近所の家族、たまたま昼間に立ち寄ってこのことを知った夫妻が母上を伴って、また夜に再訪、前日に娘を連れてアメリカから帰ってきていたぼくの妹、その友人夫妻と多彩な顔ぶれになった。祖母のご近所の方々に、日頃の感謝のしるしに開きたいと夕海が言い出して、となりの杉山さんが広報役を買って出てくださった。そんな具合で、とてもいいライブになった。 (photo by masa)

 Psalmのふたりは、8月15日から北海道の二風谷から天草まで、かりんの運転するステップワゴンを駆って日本を縦断するツアーの途上にある。ライブと、ところによっては映画「もんしぇん」を上映する。
ポリネシアの先住民は空の星を読む伝統航海術を駆使して太平洋を自在にわたった。その航海術と血を受け継ぐ冒険家、ハワイのナイノア・トンプソンとそのチームが、ホクレアという双胴の帆船で世界を一周する航海をしていた。STAR NAVIGATIONというその航海のことを読んで、夕海はツアーをやりたいと思い立った。日本を縦断しながらそれぞれの場所で「うたになろうとしているもの」を見つけ、うたを作りながらライブをしてゆく。そしてそれをリアルタイムにウェブサイトに公開してゆくことでひろく共有する、というのだ。計画は、かなり壮大なものも立てたけれど、現実的なところに落ち着いて、ふたりの発掘とうたづくりと演奏の旅は、いま、その途上にある。
このツアーのために新しい曲をつくり、費用を捻出するためにそのうちの数曲を選んでCDをつくった。
多くの仲間が、仕事の時間の合間や深夜をやりくりして音やデザインやサイトをつくり、思いにすぎなかったものを現実につくりあげた。そうやってこのツアーのサイトPsalm-PsalmやCDができた。サイトの音もデザインも、とても美しい。ただ、サイトの更新が、なかなか人間の移動に追いつかないので、masaさんの写真は一枚だけひと足先にこちらでエントリーしました。

関連サイト
*kai-wai散策:Psalm ライブ@新潟
*Aross the Street Sound:Star Navigation(8)(kai-wai散策の常連のNiijima さんはStar NavigationとPsalmに興味をもち、これまでに何度もエントリーしてくださった)
*mF247:CDの中の一曲「時間を乗せた船」がダウンロードできます。一時総合ランキングで2位になりました。

投稿者 玉井一匡 : 03:03 AM | コメント (13)

July 19, 2007

ヤマカガシ(じつはアオダイショウのチビ)


新潟の、母の家で玄関のチャイムがなった。
「おっ、どうした」ちいさなお客さんだった。
「玉井さん、うちにヘビがいた」
「へえ、つかまえて食うか」
「森に放すんだよ」なんて、いいことをいう。
行ってみると、その子のうちの玄関ポーチの隅に小さなやつが丸まっている。
捕虫網のフレームの一部を直角に曲げて、角に押し付けてその中に追い込もうとしても、頑固に丸まって動こうとしない。網の棒でつつくと、口を開いて一人前に威嚇する。
やがて、5、6センチの球体から40cmほどの長さの曲線に姿を変えて移動して出てきたので、首の後ろをつかまえた。

Yamakagashi1.2.jpg「ほら、よく見るとかわいい顔をしてるよ」
ぼくの左手に巻き付くやつを見せると、子供たちの表情がもっとかわいい。
好奇心とちょっとこわいのとの混じりあいだ。
「さわってごらん」
手を伸ばして、そっと触れる。
「・・・・・・」ことばにならない。
「ヘビと記念写真をとろう」というと、ふたりにはちょっと安堵の表情が浮かんだ。
「さて、逃がしてやろうか」小さな「森」の中に放してやると、するすると草の下をすべってゆく。子供たちにとっては小さな冒険、ヘビにとってこれまでの生涯一番の恐怖の時が終わった。お母さんたちによれば子供たちのお父さんは二人とも、朝に起きた柏崎の地震のために休日の途中で急遽出勤になったという。

 ヤマカガシは、ぼくたちが子供の頃には毒のないヘビだと言われていたのだが、このごろでは毒ヘビとされている。やたらにヘビを怖がるなよと伝えたくて子供たちに触わらせたりしたけれど、そのことを言わなかったなと思い、googleで調べた。
wikipediaによれば、かつて毒がないと思われていたわけは、ヤマカガシは口の奥の歯が毒を出すために、口の中に指を入れたりしないとそれにやられないからで、しかも、ヤマカガシは臆病だからマムシとは違ってむこうから襲うことがない、しかし、毒はなかなか強いのだという。こどもたちに、もうちょっと説明しいなくちゃあならないと思った。

■追記
コメントに「通りすがり」さんからコメントをいただいた。
こいつは、ヤマカガシではなくアオダイショウのチビだということが分かりました。つまり、毒ヘビではないということで、ひと安心。
アオダイショウの幼蛇の写真はここ
ヤマカガシの写真はここ

投稿者 玉井一匡 : 08:23 AM | コメント (16)

March 03, 2006

わきたけんいちというできごと

earthdiningDen8.jpg
 わきたさんの盛岡出張の帰りがけに東京に寄っていただいて、アースダイビングわきた版の下打合せをすることになった。AKi、iGa、masa、わきたさんとその研究者仲間の萩原さんがいらした。初対面だというのに待ち合わせは「江戸東京博物館で」というだけのおおまかな約束に、なにか混乱が起きないかと内心おもしろがっていたのだが、AKi、iGa、tamは一見地階のようなミュージアムショップの前に、wakky、nuts、masaの3人はエレベーターを昇った空中に別れたものの携帯電話のおかげで大過なく集まることができた。(初対面の方々がいらっしゃるので、肖像権に配慮して、クリックしても大きくならない写真にしました。ほんとは、わきたさん、なっちゃんの表情もつたえたいのですが)
摂州から移り住んだひとたちがまちをつくった佃島の路地で椎茸をみつけ、先日、masaさんのkai-wai散策に魅力的な写真たちがあった築地魚河岸の余命数年の短さを思い、AKiさんが内装を設計された三原橋の傅八で作戦会議というルートはiGaさんの提案と資料のおかげで、アースダイビングの助走というおもむきとなった。晴海通りを挟んで建つふたつのモダニズムの建築は、学生時代から気になっていたのだが、土浦亀城の設計によるものだと初めて知った。いや、この日ぼくの第一の命題は「わきたけんいちとは何か」だった。

 はじめは、kai-wai散策へのコメントを読んで興味をおぼえ、wakkykenという名前をクリックした。跳んださきの「大津まち歩記」には、琵琶湖周辺のまちの古いたてものの写真がエントリーされていた。一昨年、ぼくは近江八幡に行ったのだが、そこでは、掘割や古い通りに新しくつくられたものが周囲の古いたてものに合わせるだけの保存でなく、積極的に新しいものをつくりながらとてもうまく解け合っているし、あけすけな観光化をせずに商業的にも成功しているようで、そのことがとてもきもちよかったので、あるときぼくはそんなことをコメントして自分のところに戻ると、丁度わきたさんのコメントが書かれていたので驚いてしまった。それが偶然だったのか、ぼくのコメントを読んだあとの素早い反応だったのかまだうかがったたことはないが、wakkykenはその後ぼくたちの周辺というよりはkai-wai散策の界隈のblogだろうがwakkykenやわきたけんいちの名をあちらこちらで目にするようになった。そして「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」のサイトを運営する環境社会学の研究者で教職にあることも知った。
 興味を持ったblogには、あたかも自分のサイトであるかのように、時と文字と思考をおしまず、すぐさまコメントを書き込んでゆくわきたけんいちは、ぼくにとってみれば、漂泊のブロガーのいのうえさんと同じようにMyPlaceのテーマに共鳴するたのもしい同志だと思われた。
その後もさらにコメントを重ね、おかげでこちらも手強い相手に返事を返さなければならぬと頭をしぼる。それがblogを深化させるようになるのだと思う。

 これまでのわきたけんいちは、さまざまなコメントそのものや、その書き方という証拠物件の累積という存在だった。ふつうのコメントであれば、わきたけんいちは一人のヒトになったかもしれないが、彼はヒトである以上にwakkyken+わきたけんいちというできごととなっていた。それが、この日を境にして一人の男として集積された。その実物は、なんとはなしに思い浮かべていたよりも寸法が大きくて、ヒゲさえたくわえた男だった。けれども彼はとてもひとなつこくて、やさしく、やはり頭の回転の速いひとだった。その男のありかたをぼくたちは歓迎した。これからもよろしく、わきたさん。南部鉄の銀河鉄道を、ありがとうございました。なっちゃんようこそ。

投稿者 玉井一匡 : 06:35 PM | コメント (9) | トラックバック

February 09, 2006

おもいがけぬコメント:「アーク灯の映写機」へ


 さきほどのことだが、1年前に書いたエントリーに、とてもうれしいコメントをいただいた。昨年2月4日に書いた「映画ポスター・スチール写真展:アーク灯の映写機」というエントリーだ。うちの事務所が2階にある銀鈴会館の1階を占めているギンレイホールが名画座開業30周年をむかえるのを機に、所蔵する映画のポスターの展示会を開催したのである。それと一緒に、ひとりで移動映画館をつづける北海道の西崎春吉さんという方をワンボックス車ごとお招きして、電灯でなくアーク灯の光をつかう映写機の上映実演をおこなった。ぼくは、そのことや手書きの映画看板のことを2回にわたって書いたのだが、そのエントリーをお読みになった方から、思いがけないコメントをいただいた。それは、こんな風に始まった。

「始めまして、アークでの上映大変でしょうね。実は私の父も40年前移動映画をしていました。このたびオークションで35ミリのアークの映写機を購入しました・・・・・」

この先は、昨年の映写機についてのエントリーとコメントのやりとり、それに看板絵についてのエントリーを読んでいただくとして、今日いただいたコメントによれば、映写機の整備もできてきたので一度ギンレイホールの加藤さんに父上と話をしてほしいということだった。
またしても「ブログの力」が発揮されそうだと思ったら、眠気がすっかり飛んでしまった。

投稿者 玉井一匡 : 01:18 AM | コメント (13) | トラックバック

February 03, 2006

一陽来復・穴八幡


「もしもし。ちょっと質問なんだけど。磁石を100円ショップで買ってきたら置き場所を移すと向きがかわっちゃうんだけど、どうしてなんだろう?」
「そりゃそうだよ、方位をみる磁石もくっつく磁石と同じ磁石だから、近くに鉄のものがあればそっちの方をむいちゃうから、場所を移すると向きが変わることはあるよ。それより、googleマップで大きくして、それで見る方がいいかもしれないよ」
と、言ったのだが、電話の主・類子さんはgoogleのことを知らない。ぼくは大好きなgoogle Mapについて熱心に説明した。
「そうなのか。じつはね、7,8年前に早稲田の穴八幡のお札をもらったんで貼ってみたのよ。そうしたら、うちは営業ってなーんにもしないのにさ、それからは、うまい具合に切れ目なく仕事が来るもんだから、毎年買ってきて貼るようになったの。それが大晦日か節分の夜中の0時に、その年の決められた方向に向けて貼らなきゃいけないっていうんで、今年は磁石を買ってきて正確に貼ろうかってことになったの」

「へえ、うちも貼ろうかな。だったら、もっと早く教えてよ」
「やってごらんなさいよ。うちの商品を置いてもらっていた倉庫の人に教えてあげたのよね。しばらく経ったらうちの商品を置くのを断ってくるじゃない。よく聞いたら、じつはお札を貼ったら大口のお客が増えたんで、うちのなんか置けなくなっちゃったんだって」
テーブルギャラリーの類子さんは、食器の販売、デザインやテーブルコーディネートをやっている。ぼくにとっては食器の店や、紅茶専門店などのクライアントだが、友人でもある。
「ひどい奴だな」
「ひどいよね」
「でも効くんだ」
「そうなのよ」
というわけで、ぎりぎり当日の今朝、ご近所なので穴八幡に寄ってきた。高田馬場、早稲田通りと諏訪通りの三叉路の高台にあって、半島の先端のようなところだから、代々木八幡と同じような地形にある。地名の由来である馬場に近い。かつて馬場だったところは、早稲田通り沿い北側の細長いブロックとして、穴八幡の参道の北西にそのまま残っている。こういうのが、東京でも残っているのを見ると無性にうれしくなる。そういうことを探してみる気にさせるのも、「馬場」という地名がちゃんと残されているからなのだ。
お守りやお札がいろいろとあるけれど、お目当ては「一陽来復御守」といい七百円なり。長蛇の列じゃないかと心配したが、4〜50人が並んでいるくらいだし、窓口には4人のお兄さんがいるのでどんどん進む。ATMより手際がいいぞ。ぼくの前のおばさんが質問をしている。
「夜中の12時に貼らないといけないんですか?」
「そうです。その時間に貼れないとわかっていらっしゃるなら、むしろお守りをお受けにならない方がいいです」と、きっぱり。
「そうなの。じゃあ、一陽来復をひとつ」と、残念そうだ。
類子さんもちょうど節分の日に日本にいられなくて、休日なのに社員に出てきてもらったという話をしていたことやら、貼り直してはいけないと言われてたのに、一度貼ったお守りが落っこちてしまい、心配になって穴八幡に電話をかけてきいたら「一度貼ったら効果に変わりはありません」と言われ、安心して貼り直したなんてことを言ってたのも思い出した。ぼくは、事務所と自宅用にふたつ。一陽来復と書いた紙を円錐形に丸めて、その中になにやら和紙で包んだものが入れてある。それぞれに説明の紙を一枚ずつ。
今年は巳午(みうし)の方角が恵方というので壁にそのまま貼るわけにはゆかない。斜めにしなければならないのだ。tacがCADソフトで作ったのをケント紙にプリント。方位アダプターを作成してくれた。

投稿者 玉井一匡 : 08:40 PM | コメント (10) | トラックバック

January 25, 2006

カメと芭蕉庵


 空気はつめたいけれどやわらかな日差しがあったので、雪のあと初めて自転車で事務所に向かう朝、こんな二人づれに会った。神田川沿いの、あと2月もすれば満開のさくらに包まれる、神田川べりの道、かつて芭蕉が住んだことのあるという関口芭蕉庵の前だ。一昨年、関越道路で会ったのと同じくらいの大きさのカメだった。色が黄色みがかっている。
「ゾウガメですか?」   「いや、リクガメです」
ゾウガメはリクガメの一種だが・・・・

「どこからきたんですか?」  「エチオピアです」
「植物性のえさですか?」   「ええ」
関越であった人も、あまり積極的に話をしてくれようとはしなかった。犬の飼い主だったら、もっとうれしそうに話をしてくれるだろうに。やはりカメとおなじように、甲羅の中に入っていたいんだろうか。でも、うしろからやってきたクルマのひとが手を振るとにこやかに応える。近所の人らしい。
「この調子に合わせて歩くのも、なかなか大変ですね」   「ええ」
ゆっくりしている時は、甲羅のハラを滑らせながら歩いているけれど、ちょっと気合いが入ったら四つ足を踏ん張り甲羅を浮かして、なかなかの早さで歩きはじめた。ガラパゴスのカメたちは、船乗りたちがつかまえて、生かしたまま舟に乗せておけば腐ることはないから重宝するので、ずいぶん食われちゃって激減したそうだが、そういう時にはこうやって逃げたんだろう。

投稿者 玉井一匡 : 12:21 PM | コメント (12) | トラックバック

August 28, 2005

テーハミング

tehamngok.jpg

「日本海とGoogleマップ」のエントリーで、「海東」ということばのことを書いた。かつてワールドカップの開かれていた頃に、このことばに初めて出会ったことをホームページ(PAGE HOME)に書いたので、それを掘り出してここに連れてこようと思って調べてみたら、「海東」ということばをぼくは間違えて理解していたことがわかったが、まずはそのまま持ってきた。
  *   * *   *
 楽しみにしていたヨーロッパのチームがつぎつぎと韓国に負けて消えて行くさみしさも手伝って、ぼくは韓国の躍進を素直にはよろこべなかった。だからこの気持ちをなんとか克服したいと思った。そこで、6月22日の韓国-スペイン戦は土曜日の午後だったから韓国料理屋のど真ん中でゲームを見てみようと、打合せのあとで、ぼくは新大久保の駅をおりてひとりで新宿の職安通りに行った。そうする気になったのは、数日前の早朝の出来事があったからだ。
 日本がトルコに敗れ、韓国がイタリアに勝った翌日の早朝、プリンターのインクを切らしたので職安通りのドンキホーテへ買いに行った。5:30ころの町には、あちらこちらでまだ興奮が燠火のように続いていた。歩道の向こうからやってきたやつが近づいてくるなりぼくを抱きしめて、なんだか叫んでよろこびを表した。前の夜に日本が負けて韓国が勝ってからずっとぼくは悔しいヒトだったのに、このときは本気でおめでとうという気になることがわかった。だから、この日はもう一度赤い声援のさなかにひたってみようと思ったのだ。

新宿に着いた頃には、すでにゲームが始まっていたので、テレビのある店はどこも人が道路にこぼれていて、とても韓国料理店に入るどころではない。1階のテナントがいなくなった小さなビルでは、奥にテレビを置いて人が密集している。さらに歩道をはみ出し、路上駐車の車のあいだにあるわずかな隙間にも人が詰まって背伸びしている。わずかこの2,3年のあいだに、職安通りには韓国・朝鮮のみせが一杯になったけれど、これまではアジアの喧噪やエネルギーや力強さの欠けていたことが、ぼくにはちょっと不満だった。「これがおれたちの世界なんだぞ」と、日本人に対して本気で自分たちを主張しているところが感じられなかったのだ。ところが、どこかに隠されていた秘密の筺の蓋が一挙にひらいたかのように、韓国が町じゅうに満ちている。

 車道から背伸びして画面を見つめる人間に加わっているうち、しばらくするとふくらはぎが疲れてきたのでよそを見てまわることにした。細い道に面した韓国料理屋が店の前の道に向けてテレビを置いているのを見つけた。道を挟んだ向かいの3台分ほどの駐車場を空けて、地面に腰を下ろしている人たちが2、30人ほどそのテレビを見ている。ぼくはそこに加わることにしてコンクリートの上に陣取った。

 韓国料理屋には、道にそって奥行きわずか1mほどのテラスがあって、そこに小さなテーブルを間に向き合う椅子が2脚ずつ。テレビは、それに並んで置いてあるのだった。席に座る女の客からは、コーナーキックから直接ゴールを狙うくらいに角度がないのだから、画面はほとんど見えるはずがない。だから、テレビをよそにチヂミの皿とビールのジョッキをつぎつぎに空にしてゆく。まわりの人たちやテレビから声援があがると、その時だけ振り向いて身を乗り出しなにやら叫ぶのだった。30人は地べたに座って、彼女のすぐうしろの画面と、ときに2人を注視しているというのに、まったくたくましいものだ。
 ぼくは一番後ろの隙間に腰をおろしてビルのシャッターに寄りかかっていた。パワーブックのディスプレイより小さなテレビを5,6mはなれて見るのだから、ゴールラインを割ったかどうかなど、ぼくに見えるはずがない。審判さえわからなかったんだもの。おおよそのゲームの運びを見ているだけだったから、あとになって問題になった2つの怪しいジャッジも、ぼくにはそれと気付くことができなかった。ジベタリアンの一同が、ときどき右手を挙げては「ホーンミョンボ!」とか「アーンジョンファン!」と声をそろえて叫ぶのは分かるけれど、どうもわからないのがあった。繰り返して何度も聞くうちに、「テーハーミング!」というのが「大韓民国!」なのだと、ようやく理解したときには、韓国がとうとうスペインにまで勝ってしまった。

 ゲームが終わると、あちこちの店から出てきた人たちの紅いTシャツと「テーハーミング!」で職安通りは埋めつくされた。イタリアもポルトガルもスペインも、期待したチームだったからだろうが、ぼくは「おめでとう」という気にはなっても、よろこびを分かち合う気持ちにはなれず、うらやましい悔しいと思い続け、そういう自分の狭量を気に入らなかった。

 翌々日、相談したいこともあったので、青山で骨董店を営む友人を訪ねた。李鳳来さんはぼくと同年代で、店では李朝のものを専門に扱っておられる。父上が韓国人、母上が日本人で、ご自身は吉田松陰で修士をとったという人だ。李さんと話したら、彼らのよろこびの一部を共有する気分になって、少し前に進むだろうと思ったのだ。 しばらくサッカー談義をするとたしかにそのとおりになったのだが、それでも、店にある率直で力強く知的な李朝の器や家具と、ぼくの記憶に残された赤い応援の不似合いが気になった。
 数日してその理由がわかる気がした。応援の言葉が、たとえば「コリア!」でなくて、なぜ「テーハーミング!」だったのだろうかという疑問が湧いたからだ。明らかにこれは北を除外している。そのことを、日本のマスコミも含めて、だれも不思議だと言わなかったのはなぜなんだろう。もし、あれが「テーハーミング!」でなかったら、三位決定戦の日に黄海上での銃撃戦はなかったのかもしれない。「テーハーミング!」がチームや選手でなく地域でもない、国家を応援しているということが、マスゲームや人文字がそうであるように排他的な一体感をぼくに感じさせたのだ。

 とはいえこの機会に日本と韓国が、たがいの在りようを一部かもしれないが肯定的な実感として残すことができた。李さんのギャラリー「梨洞」の本棚にならぶ背表紙のひとつに「海東」とういことばがあったのを、寡聞にしてぼくは意味を知らなかった。李さんに尋ねると朝鮮半島を指す古くからの呼称なのだという。美しいことばだと思った。FAR EASTということばは、ここが世界の東の果てだと思えるのでとても好きなのに、「米軍」と対になっている「極東」という翻訳語をぼくは好きになれない。
「海東」のようなうつくしい名を、日本を含めたこの東アジアに使えないものかと思う。
*   * *   *   *
いまになって調べてみたら、海東とは朝鮮ではなく日本と琉球の連なる島々のことだった。もともと国家ではなく場所についての呼称なのだ。うれしい発見だった。国家は、人工的に取り決められた線によって不連続に切り分けられるけれど、文化や生活や歴史を書き込まれた「場所」は空間的にも時間的にも連続的につながるからだ。
 2002年のこのとき、新宿では日本の若者たちは韓国人たちといっしょに声援を送り喜びをともにしていた。多くのマスコミもよろこんでいたが、それには少し無理をしているところがあるようにぼくには思われた。悔しいという気持ちも表した方が正直でいいんじゃないかと思うんだがと、このときぼくは李さんに話した。
いや、日本人が応援して喜んでくれたことは韓国人にとっては思いがけないことで、とてもうれしかったようですよ。それでよかったんだと思う。そう李さんはおっしゃった。

投稿者 玉井一匡 : 12:38 PM | コメント (0) | トラックバック

May 13, 2005

仔猫たち

 
友人の須曽明子さんから、こんなメールが来た。
 * * * * * *
玉井さま こんにちは。
突然ですが
アトリエの庭でネコが産まれていました。
2匹いて、親は夜来るようですが、子猫は弱っていく感じ(2日間見た感じ)
ここでは飼えないのでどうしたら良いものか?。
ネットで友達に呼び掛けていますが、
ブログを利用して里親さがしに御協力いただけないでしょうか?
親ネコが育てて、どこかに連れていってくれればいいのですが。。。
 * * * * *
と、いうわけで、やさしいかたはご連絡下さい。

投稿者 玉井一匡 : 08:34 PM | コメント (1) | トラックバック

April 17, 2005

山手線の不思議な物体


  Click to pop up.
日曜の昼過ぎ、高田馬場から山手線に乗った。車両に足を踏み入れると、その前の床に不思議なものが置いてある。
 発泡スチロールのウェディングケーキのようなものに、さまざまなキャラクターの人形が張り付けてある。そこから2mほど離れて、向かいのドアの脇の座席に妙な恰好をしたおじさんが座っている。スカートをはき、花柄のシースルーのブラウスを着て、胸を何かで膨らませているのに、顔は日に焼けて浅黒く、鼻の下と顎にひげをたくわえている。彼と物体との間には何かの関わりがあるにちがいない。
 ぼくは、なぞのデコレーションケーキに近い、おじさんの反対側の空席に腰をおろした。膝の上にデジカメをのせて、目立たないようにシャッターを押したが、まったくのピンぼけで、もう一度おちついて撮り直すとやや余裕ができたから、列車が駅に停まると乗ってくる新しい乗客が、これを見つけたときの表情に、ぼくは興味をそそられた。

 笑いをかみ殺しながらおじさんと謎の物体をみていたが、30人ほど乗り込んできた乗客の大部分は、たとえば酔っぱらいの嘔吐を見るように目をそらし、何も見なかったような顔をしている。
ただ二人だけ例外があった。若い男が、うれしそうに物体をみていたが、やがて携帯電話を取り出すと、メールを書いているような顔をして写真を撮った。もう一人、母親に手を引かれた5,6才の女の子が、後ろを振り返って興味をあらわにしたが、母親は目をそむけて子供の手を引っ張っている。見る人たちの反応は、おじさんと同じくらい興味深かった。
 click to pop up.
 やがて、原宿に着く前に、おじさんはウェディングケーキのようなやつに近づくと両手にとって頭の上に載せた。なぞの物体は帽子だったのだ。ちょっと話してみたいと思っていたのに、おじさんが降りそうになったのでぼくはあわてて立ち上がり近づいた。
「これ、おじさんがつくったんですか?」
「そうだよ。学校で習わなかったかい?」
「こんな変なもん、学校なんかでならわないよ」
「尋常小学校でならったぞ」
「ほら、赤い鯨のミニチュア」と言って、正面につけられたプラスティックの箱の中で泳いでいる金魚を指さした。
原宿で降りようとするので、おじさんのあとをあわててぼくも追った。
「写真とっていい?」
「いいよ」といってプロレスラーかボクサーのようなポーズをとる。
写真を撮っているうちにドアが閉まりそうになったので振り返ると、車内の人たちはぼくのことを「向こう側」に行ってしまった人間のように見ている気がした。

投稿者 玉井一匡 : 09:57 PM | コメント (6) | トラックバック

February 16, 2005

真綿のお供え餅と橙

osonaedaidai1S.jpgClick image to pop up. 
新潟に打ち合わせで行ったので、吉田さんのつくってくださった真綿の橙を親戚の家に届けた。母上には、前もってお知らせしてはいなかったから、いっそう喜んでくださった。一度はしまわれたお供え餅をもういちど床の間に出して、上に橙を載せた。上のお餅を持ち上げると、下に段ボールで台がつくられていた。本物の蜜柑をのせれば真綿はつぶれてしまわないようにという工夫である。くぼみに橙をおくとへこみのなかに落ち着いた。でも、写真を見るとへこんでいるぶん小さく見えて損をしているようだ。

 まゆの中にいる蚕のサナギが成虫になるときには、繭に孔をあけてでてゆく。生糸をつくるには、たった1本の糸でできている繭を解いてゆかなければならないから、孔をあけられた繭からは生糸をとることができない。生糸をつくるには中にサナギがいるまま繭を煮て糸を柔らかくするので、殺生をしなければならないのだ。
けれども、真綿は糸を引き出すわけではなく、繭をひらいてほぐし、それを紡いで糸にする。だから、サナギが成虫になって孔をあけたものでもつかえるのだ。そういう理由で殺生を嫌って真綿で織物をする人もいるのだそうだ。そんな話はみんな、ダイダイをうけとったときに吉田さんにうかがって、ぼくは初めて知ったのだった。真綿のダイダイを近くで見ると、もう一度真綿がまゆに戻ったようだ。くすんだ色が、昔の真綿のお供えもちとおなじように古びて感じられる。
 お供えを載せた漆塗りのお盆には信濃川の絵が描かれていた。昨年、コンクリートの万代橋が重要文化財になったが、それがまだ木造の橋で、このいえの家紋を帆につけた船が河口に浮かんでいる。古いお盆を見たら、こんな絵が描かれていたんで、お供えをのせることになさったのだという。
先日、うかがい忘れたことがあった。むかし、真綿のおそなえを年末になると毎年届けてくださったのは、どこのかただったのですかということだ。
 「道の向かいで古着屋をしていらした方でした。いまでは店をお移しになって、結婚式などの貸衣装をしていらっしゃいます。主人の父は内村鑑三から直接に教えを受けて、無教会派のキリスト教を新潟で最初に広めたひとでしたから、毎週の日曜日には自宅にみなさんがあつまって聖書を読む集まりをしていました。向かいの店の方も、そこにいらしていたので、そのかたが真綿のお供えをとどけてくださいました。べつに、どこかの地方の風習というわけではなかったようです。」
 「内村鑑三は、北越学園という、いまはなくなった学校の教頭として新潟にいらしたのですが、天皇の絵に最敬礼などする必要はないというようなことをおっしゃるものだから、校長先生と大げんかをされて学校をやめてしまいました。学校にいらした頃、近くの松林の中などで人を集めてキリストの話をしていらしたのですが、義父はその集まりに行ってとても感銘を受けたので、無教会派のキリスト教徒になったそうです。」

関連エントリー
真綿のお供え餅と大連
真綿の橙
真綿の橙-2:完成

投稿者 玉井一匡 : 10:02 PM | コメント (1) | トラックバック

February 02, 2005

真綿の橙-2:完成

 吉田さんから、真綿の橙ができたというメールが届いた。早いほうがよければ郵送しましょうかと書かれていたけれど、カフェ杏奴をすてきなことの起こる場所にしたいから、ブツの受け渡しはカフェ杏奴でしようということにした。
 「真綿の橙」のエントリーに書いたように、ぼくが吉田さんに送ったメールには「作り方を相談したいのだけれど、もし興味があるようだったら注文します。」と書いた。
吉田さんが材料を探してみたら、資料としてとっておいた真綿がすこしあるし、染料もスオウの赤とヤマモモの黄色が出ている。じゃあやってみようかと思ってくれた。しかし、もともと染色と織りをしているけれど、こんなモノをつくったのは始めてだし、真綿を染めたこともなかったそうだが、おかげでたいへんな苦労もかけてしまったが、おもしろそうだとも思ってもらえたらしい。

  できあがった橙は実物のような鮮やかな色ではない。けれども、内側からじんわりと色がにじみ出しているようだ。たとえば柑橘類の実をひと月ほども乾燥した部屋の中においていたら、表面の皮が乾いてこちこちに固くなる。そういうやつを念のためにと思って包丁でまっぷたつに切ると、皮はとても薄くなって、中には水気がたっぷりでむしろ甘みを増した実がつまっている。表が乾いて堅くなったのは、内にある甘さとみずみずしさを護るためなのだと気づく。これは、割ってみなくてもそういうやつだということがわかる橙のようだ。

*真綿の橙のレシピ
(植物の写真はすべてBotanical Gardenによる)
材料
・実の材料:真綿、スオウ、ヤマモモ、アルミ媒染
  
・葉の材料:ヤマモモの枝、経糸(クサギ染)緑の緯糸(藍とカリヤス染)
    
・実の芯材:針金
調理法
 という具合にならべると、とてもすいすいとできちゃったように見えて、話に聞いた大変さがちっとも感じられないけれど、さまざまな試行錯誤がなされたそうだ。
 真綿を染めて乾かしてからその芯を真綿で包もうとしたが、ちいさなかたまりになってしまってちっともまとまらない。→針金で球形の芯をつくる。→もう一度染め直して、まだ乾かないうちにひろげて芯をくるむ。→やっと橙の本体ができる
 なんと葉っぱまでわざわざ織ったものなのだ。:ちょうど機に、クサギ(臭木)で染めた経(たていと)がかかっていたから→それに藍とカリヤス(刈安)で染めた緑の緯(よこいと)を通して織ったというものなのだ。こう書いているだけだって大変なことだ。

 この橙の作り方を聞いただけで、ぼくはたくさんの新しいことを知った。スオウの花やヤマモモの木と実は知っていたが、延喜式の時代から連綿と使われている染料なのだということはまったく知らない。しかも、樹皮を使う。クサギもカリヤスとなると、植物さえ知らない。
 繭は、蚕がはき出した1本の糸でつくられているから蛹ごとそれを煮て、柔らかくしたものをほどいて一本の糸を取り出すというのも知らなかった。そうやって取り出したひとつの繭の糸の長さは1500mもあるんだが、出荷できない繭でつくったのが真綿なのだ。できそこなった繭や、蛹が羽化して破った繭などを煮て、それをほぐしてつくる。真綿を撚った太く不揃いな糸を緯にして、自家用につくったのが紬だということも、知っている人からすれば当たり前のことなんだろうが、ぼくはとても感心してしまった。

新潟に持って行くまでのあいだ、真綿の橙はカフェ杏奴に置いて、みんなに見てもらうことにした。

関連エントリー
真綿のお供え餅と大連
真綿の橙
真綿のお供え餅と橙

投稿者 玉井一匡 : 11:04 PM | コメント (4) | トラックバック

January 28, 2005

真綿の橙

daidai2.jpg   daidai3.jpg
先日のエントリーで「真綿のお供え餅と大連」というのを書いた。
 新潟で食器店を営む親戚の老婦人に真綿の橙を贈ってあげたいと、そこの末尾にぼくは書いたのだが、一昨日「some origin」の吉田さんにメールを送って「真綿で橙をつくれないだろうか」と相談をしてみた。すると、さっそく反応があって彼女のブログにそのことを書いてくださった。どんなものができるのか、とても楽しみだ。
 このごろでは、お供え餅に橙を使うことは珍しくなってしまい、ぼくもずいぶん橙を見ていない。むかしは大きな餅を飾っていたから、大きな橙をのせていたのだろうが、今では餅も小さくなって、橙どころか、ふつうに食べているミカンよりももっと小さいが葉っぱのついたみかんを使うことが多くなった。
 自分でも橙ってどんな顔をしていたか見たくなって写真を探した。

関連エントリー
真綿のお供え餅と大連
真綿の橙-2:完成
真綿のお供え餅と橙

投稿者 玉井一匡 : 11:39 AM | コメント (0) | トラックバック

January 08, 2005

真綿のお供え餅と大連

 先日、新潟で母を歯科医に連れて行った帰りに親戚の経営する食器店「大橋洋食器」の前をたまたま通りかかった。どういうわけか、これまで一度も店には寄ったことがなかったので、店の前のパーキングメーターにクルマをとめて中に入った。1,2階が店で4階に社長の夫人の母上がひとりで住んでいらっしゃる。子供のころからぼくたちは「あっちゃん」と呼んでいる社長の父とぼくの父がとりわけ仲の良い従兄弟同士だった。この日はたまたま、あっちゃん夫妻と母上が在宅で、食器のならぶ1階と、合羽橋のように調理道具がいっぱいの2階を見ると、商品を素顔で並べているプロ向けの店が僕は好きなのにこれまで寄らなかったことを悔やみながら通り抜け、店の奥にある階段をのぼって4階にたどりついた。

 座敷の床の間に8寸ほどの大きなお供え餅があったが、大きなみかんの重さに耐えかねて中央が沈んでいる。近づいてよく見ると、それは餅ではなく真綿でできている。

 ちかごろのプラスチックのお供え餅は餅型のなかに小さな丸餅が詰められているという半ニセモノが多いが、それとはちょっとちがう。新年とはじめての訪問の挨拶が終わると、待ちかまえたようで恐縮だが「お供えが真綿なんですね」と、さっそく質問にうつった。
無教会派のクリスチャンでおられる母上は、うれしそうに説明してくださった。
 「むかし、うちに出入りしていらした方が、毎年、年末になるとそうやって真綿でお供えをこしらえて届けて下さったんです。いつからだったか、お年も召されたから、届けられなくなったんですが、ありがたいお気持ちを思い出して最後の真綿のお供えを出して来て飾ることにしたんですよ。ほんとは、上に乗せる橙も真綿でつくって色をつけてくださったのがのっていたんですが、橙がなくなっちゃったんで、本物のみかんをのせたら真ん中がへこんでしまう。ですから、下に小さな箱をいれてあります。」
お供え餅が記憶の箱の蓋をあけるカギになったのかもしれない。むかしの話へ、つぎつぎと広がっていった。
「父がディーゼルエンジンの研究をしていたものだから大連汽船に勤務して、わたしは大正14年に大連で生まれました。20才で終戦になって23ではじめて日本に来ました。大連は放射状の道路に洋館風の家でしゃれたまちでしたから、はじめ新潟が窮屈でした。」
「戦後に大連にいらした3年間はずいぶんご苦労なさったんでしょ?」
「帰るときの船に乗るのは大変で、行列をはなれたらもう席がなくなるというんで、お手洗いにいくのも我慢してとても長いあいだ待たされました。でも、むこうに住んでいるときはいいひとにめぐまれました。はじめは、父が外出するときには、娘3人でしたからいざというときにはここにあるから飲みなさいと、天井裏に隠した青酸カリの場所を教えてもらっていました。でも、ひとりだったら怖かったでしょうけれど、姉や妹も一緒でしたからちっとも怖くありませんでしたよ。
 ご近所に製粉所をやっていたお友達がいらして、その方は働いていたシナ人にもとてもよくしていらしたから、終戦後はその人たちがむしろ守ってくれました。戦後にはその工場で占領軍に納める粉をつくっていたので、父もいっしょにやっていました。
 ソ連軍の将校が、住まいとして家を貸してくれないかといってきたんですが、その人がとても純朴な夫婦だったから、うちの部屋を貸してあげることにしました。でも、家賃はいらない。そのかわり、私たちを守ってほしいと父が言ったんですよ。ときどき軍隊からもらう食べ物なんかも分けてくれたし、赤ちゃんもうちで生まれました。ほんとうにいい人たちでした。」
写真を見せていただいたが、たしかに、カラー写真だったら頬の赤いような、見るからにロシアの農民という風情の夫婦だった。
「ひどい目にあったという話はいっぱい聞きましたが、そういういい話は、ぼくははじめてうかがいました」
 その後ふたたび家族みんなで大連を訪れたときの話やら、大連にはライトが設計したきれいな病院があったことなど、それからしばらく、アルバムを見せていただきながらむかしの話をうかがった。その日の夜には東京にもどる予定なのに、いつまでも興味深い話はつきなかった。来年は真綿の橙を持っていってあげようと思いながら店の前のパーキングメーターを見ると、赤いランプが気ぜわしく点滅を繰り返していた。
 デジカメを持っていかなかったので携帯のカメラで真綿のお供えをとったら、写りが悪いお蔭で、かえって本物のようにみえる。

関連エントリー
真綿の橙
真綿の橙-2:完成
真綿のお供え餅と橙

投稿者 玉井一匡 : 10:37 PM | コメント (0) | トラックバック

December 14, 2004

サンタクロース追跡

NORAD.jpg 「NORAD tracks SANTA」というサイトが気になる季節が来た。クリスマスイブの当日に、いまサンタクロースがどこを飛んでいるかを映像で見せてくれる。赤鼻のトナカイことルドルフの鼻が発する熱を感知してレーダーが位置をとらえ、飛行機が追跡してサンタクロースとソリが空を飛んでいる映像を送って来るのだ。
 英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、日本語で書かれているのは、南北アメリカ大陸の主要な言語だからなのだろうが、なぜ日本がそこに加えられているのかはぼくにはまだわからない。せっかくだが、日本語より外国語で聞いたほうが地球をめぐるサンタを実感できるような気がするから、説明は日本語で読んでおいて追跡は外国語で聞くというのがいい。25日にも帰宅したサンタの様子などが見られる。
 誰がどのようにしてこれを送ってくれるのか、それをどう受け取るかは、クリスマス前でも上の「NORAD tracks SANTA」をクリックすればよく分かる。それを読んでも、クリスマスイブの夜空を移動するサンタクロースと空からの夜景を、ぼくはけっこう楽しんでいる。もしかすると、空を飛ぶサンタにはもうひとつの役目があるのかもしれないなんて思ったりすることもあるが。
いまは予告編をダウンロードして見ることができる。

投稿者 玉井一匡 : 12:35 AM | コメント (3) | トラックバック

November 23, 2004

「ブログの力」出版記念ミーティング

Click image to pop up.
 ぼくは小さい頃から人見知りだったのに、何がきっかけだったのか、いつからなのかおぼえていないのだが、ひとに会うこと、とりわけ初めての人に会うことがとても楽しみに思えるようになった。はじめて会う人だったらたいていの人は、ぼくが心底から興味深いと思えることを何か持っていて、それを聞かせてくれるからだ。
偶然のもたらす出会いというものはもっと魅力的だが、それぞれが思い思いの形に編んだ網を張り巡らせていると、そこを通りかかった思想や生き方、そして表現などさまざまなものをかかえた人がひっかかって、それが大切なたからものになることをいうのだと、ぼくは思う。だとすればBlogは、偶然という網の目をとても細かく、しかも広く張ってくれるから、たくさんの魅力的なものと出会う機会をゆたかにするものなんだなと、今日、カフェ杏奴から家に帰って来てぼくは思った。

blogpwerbook.jpg 本来は定休の火曜日なのにママが店を開けてくれて、20人ほどの人たちがカフェ杏奴に集まった。ジオデシックの栗田伸一さんによる企画編集で九天社が出版した「ブログの力」の出版記念ミーティングだ。このBlogで書いた「漂泊のblogger」というエントリーを、この本にとりあげていただき、それにちなんでこのカフェ杏奴が会場になったのだった。
 今日は、ここに来た人たちが価値を共有できるようなものを誰もが持ち寄って来た。ひとが持っているものなのに、それがうらやましくなんかない。と、書くそばから、ミネくんがiPodminiを懸賞で当てたのはうらやましかったのを思い出しましたけどね。
 今日の網の目は、どんなかたちをしていたのかと、ぼくは風呂につかりながら考えていた。きっと、ほかにもいろいろあるに違いないが、ひとついえることがある。「・・・であればあるほどいい」という単調増大の価値観から自由であることだ。大きければ大きいほどいいもの、上がれば上がるほどいいもの、権力、地位、財産や階級などがそうであるように、世界を悪くしているのは、ことごとく単調増大の価値観なのだ。 Blogの力には、単調増大でないさまざまな価値をすくいとるという力があることも、もうひとつ付け加えければならないと思う。

ひとつの同じ場所と同じ時間を共有した人たちがそれぞれになにを書くのか楽しみです。

投稿者 玉井一匡 : 11:59 PM | コメント (3) | トラックバック

November 22, 2004

エファジャパンのBlogができた


吉川健治さんから、ラオスのLuang Phabangの表記について「ルアンパバン(Luang Phabang):世界遺産」というエントリーに丁寧なコメントをいただいた。その吉川さんが事務局長をつとめるエファジャパンのBlogができた。エファジャパンのホームページもそうだが、このBlogも吉川さんが自身が作り上げたらしい。

エファジャパンというのは、自治労の国際局が中心になってつくったNPOで、国際的なボランティア活動の支援をおこなう。かつてアムネスティで積極的な活動をしていたイーデス・ハンソンさんに理事長をたのんだら「エファジャパンなんて名前、なんのことやら分からへんやないの」なんてことを言いながらも、こころよく引き受けてくれたそうだ。彼女はアメリカ人宣教師の娘としてインドで生まれたことが、その後の生き方に大きな影響を及ぼしたのだという。
ちなみに、エファとは「Efa:empowerment for all:すべてのひとたちに力を」である。
 つい2週間ほど前に1週間たらずのあいだだったが、ぼくは吉川さんとラオスで行動をともにした。そのあいだに、インドシナについていろいろな話をうかがいながら、ラオスでの活動の様子をいっしょに見せていただいた。そのときにBlogを勧めた。外国からでも、その日のうちに現地からの報告を吉川さんが書くことができるから、見ている人も身近に活動を知ることができると言ったのだが、さすがに行動がはやい。すぐさま吉川さんは実行に移した。
 今はまだ、エファの発足についての報告が多いけれど、いずれ現地からのエントリーが楽しみだ。組織としての活動については、時期と状況を見はからいながら書かなければならないだろうけれど、吉川さんは国際関係論の研究者でもある。「ルアンパバン・世界遺産」に書かれたコメントのように、さまざまなものごとやできごとや歴史などについて思うところは興味深いことがたくさんあるにちがいないと、とても楽しみにしている。

投稿者 玉井一匡 : 09:51 AM | コメント (2) | トラックバック

November 15, 2004

チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記

GebaraBook.jpgエルネスト・チェ ゲバラ 著/棚橋 加奈江 現代企画社/2,000円che002.jpg
  何年か前に娘が買ってきた本を自宅の本棚からさがしだした。ロバートレッドフォードがなみなみならぬ熱意を込めて「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画にしたとaki'sStocktakingで知ったからだ。 チェ・ゲバラと年長の友人アルベルト・グラナードがモーターバイクに二人でまたがりアルゼンチンを出発し、ほどなく壊れたバイクを捨ててヒッチハイクに乗り換えチリを経て南米を縦断する。そのときのゲバラ自身による記録がこの本である。
 読み進むうちに、ぼくはかつてこの本を途中でやめたわけを思い出した。

ありていに言えば読みにくいのだ。正直に言えば翻訳が下手だ。なにしろ「チェ・ゲバラと聞けば、胸が熱くなるおじさんもいる」と、Aki's Stocktakingには書いてあってこのBlogにリンクしてあるから、今度は最後まで読もうと決めていたのだが、それでも途中で5冊ほどほかの本を読んでしまった。ゲバラの原文が修辞的な表現が多いせいもあるのだろうが、それ以上にゲバラへの想いがあまりないせいだろうと婉曲に言っておくが、彼が言いたいことが伝わらない。

 こういうことを言いたいのだろうと読者の側が想像力を補いながら読んでいくと、当時の南米の国々のありかたやそれらとアルゼンチンの関係について、ゲバラがどう感じていたのかがわかってくる。今でも、サッカーを見ているとアルゼンチンには白人の選手が圧倒的に多く、他の南米チームが先住民やアフリカ系選手の多いのとは明らかに違いがある。まして、この時代のペロンとエビータがいたアルゼンチンは、他の国々からは理想の国のように見られていようだ。
 ブラジルが大きさで南米において特別な存在であるなら、アルゼンチンは人種の構成とそれがもたらした社会のありかたが特別だったらしいと、のちにチェ・ゲバラとよばれる若者の目を通してぼくたちにも理解される。 ブラジルを除く南米の国はすべて共通の言語を持つから、国による違いよりスペイン語という緯のつながりが強いらしい。スペイン語を話す人たちの下には、その地に受け継がれて来た本来の言語を話すインディオ(ヨーロッパ人が、この大陸をインドだと思い込んだから、先住民をインド人と呼んだんだ)が置かれる。スペイン語をしゃべる人たちの上には、安く労働力を買いたたき資源を吸い上げて富を拡大するアメリカ合衆国の大企業という模様が織りなされている。

 若い医学生と駆け出しの医者の二人づれは、南米縦断の旅をつづけながら、ハンセン病の病院で働いていたおかげで過剰な敬意を払われ、それによりかかり羽目を外し続ける。しかし、それは同じ基盤に立つスペイン語をはなす白人という身内に対してであって、いつも奪い取られるばかりの先住民へのまなざしは共感に満ちているし、奪い取る者たちへの義憤は熱い。南米におけるアルゼンチンの特別なありようとスペイン語が作り出し、アメリカ合衆国の力への反感が育てた南米の連帯感が、このころのゲバラに肉体化されたのなら、のちにキューバ革命に加わり、さらにボリビアでのゲリラ戦に命を賭けたのは自然なことだ。
 ふたりは、行く先々でサッカーチームの助っ人となって、アルゼンチンの若者らしく活躍するのだが、ゲバラのポジションがキーパーであるのが、ぼくにはちょっとした新発見だった。フォワードかトップ下くらいのような気がするのだ。

 多くの場合、本を読んだあとで映画を見ると不満に思うことが多いけれど、これはあとで映画を見ると大いに満たされるにちがいないと、ぼくは期待し確信している。

関連エントリー
「モーターサイクルダイアリーズ」

投稿者 玉井一匡 : 11:40 PM | コメント (2) | トラックバック

October 28, 2004

新潟県中越地震-2 小千谷・宮川さんから

小千谷に住む宮川さんからメールが来た。
クルマが土砂に埋まったあの場所を、彼は10分前に通ったのだときくと、新幹線の脱線と同じようにわずかな時間のちがいが大きな結果の違いを生むのだと感じる。

*宮川さんからのメール
 本日やっと会社に来て、地震後のお客様対応をさせて頂きました。地震の直後から、会社にはたくさんの御見舞いの電話と地震対応の電話で会社はパニックです。すぐに連絡できなくて申し訳ありませんでした。
 私の家はなんとか大丈夫で、家財が散乱した状態ですんだのですが、すぐ近くの実家が、構造はなんとか保つ事ができたのですが、内部の壁が落ちたり筋かいが折れて壁を突き破って出たり、お風呂の外壁が落ちて露天風呂になったりで大変です。でも家族全員無事で助かりました。

今日、土砂崩れの最後の綱が切れた報道があり、本当にくやしいです。現場の川岸の反対側から見たのですが、地獄の世界です。私も崩落現場を崩落の10分前に通り帰ったので、今思うと複雑な気持ちです。

日本全国各地から様々な救援物資や援助活動の為に来て下さる方に本当に感謝しています。

守門の実家は電気ガス水道と復旧して今は通常の生活に戻りつつ後片付けに追われています。私たちは今も避難生活で、車の中で寝泊りしています。食事は配給と外での調理で本当につらいです。避難所は避難民で満員です。衛生面が非常に悪いです。
 いろいろと心配につながるようなこと書いて申し訳ありませんが、こんなような状態です。また落ち着いたら報告しますのでよろしくお願いします。
 ご心配頂きましてありがとうございました。

投稿者 玉井一匡 : 06:08 PM | コメント (0) | トラックバック

September 21, 2004

川ガキ

kawagaki.jpg

 someoriginに書かれていた「川ガキのいるところ」というBlogを開いてみた。村山嘉昭さんという若い写真家のサイトだ。ぼくはすっかり写真にひきつけられてしまった。川と、そこに生き生きと棲みついている川ガキたちが、ぼくにはうれしくてたまらない。
この子たちと、写真を見るぼくたちの間には、へだてるものがなにもない。写真をとった人とガキたちのあいだをへだてるものがないからなのだろう。しかも、この子たちと川や橋や里山とのあいだにも隔てるものがないんだ。

myoshoji.jpg ちょうど今朝、ぼくは川とこどもたちのことを考えながら歩いていた。毎朝cooをつれて川沿いの道を散歩するのだが、去年から工事の続けられていた妙正寺川沿いを歩いていると、気になってしかたがないことがある。自然石を積み上げた護岸がこわされてコンクリートの壁に置き換えられる。石積みもどきのパターンが2メートルほどの間隔で繰り返され、角度はますます垂直に切り立ち、手すりはピカピカに光る茶色に着色されたアルミになった。

 自宅から事務所にゆくときは、自転車で川沿いの道をさらに下って椿山荘の下あたりまでくると鯉や亀がたくさんいる。それなのに、川で魚や亀をつかまえようという町ガキはおろか、橋の上からそれを見ている子供も見たことがない。去年はボラの大群がこのあたりまで遡上して来たものだから、こどもの代わりに川鵜がそれを狙って集まって来たので、その日の夕方にテレビのニュースにもなった。
 ぼくたちの頃だってコンクリートの護岸のそびえる川もあって、あぶないからあそこで遊んじゃいけないときつく言われたものだが、もしそこに亀や大きな鯉が泳いでいたら、大人たちの目をかすめてロープをたらし、網を片手におりていっただろう。あるいはなんとか亀を釣ることを考えただろう。どうしていまはそうしないのだろうかと考えていた。
 いくらでも理由は思いつく。自分たちの家の中だけで充足する広さと遊びがあるのかもしれないし、たとえばサッカークラブに入って専業的にスポーツをするこどもたちに分かれてしまったように、とても素直ないい子たちと純粋に悪くなって人を傷つけたり脅したりするところまでいってしまうやつらに分化してしまい、ちょっとあぶないかもしれないがひとを傷つけるわけではないというくらいの「悪いこと」をするやつがいなくなってしまったのだろう。
椿山荘の前の橋を渡るときには、そんなことを考えながらペダルを踏むことがある。

そうそう、some originの書き出しは、川ガキの写真を撮っている村山嘉昭さんのBlogに書いてあったこと、「青春映画などを見たときに感じる、あの感覚。懐かしいような、切ないような、何かが胸にこみ上げてくるような感じ。」この感覚をどう言葉に置き換えればいいのだろう・・・・だった。
「世界の中心で愛をさけぶ」なんていわれると、ぼくはしりごみしてしまうから、原作の小説を読んだことも映画を観たこともないけれど、村山さんの写真からは、その気持ちがつたわってくる。
 こどもたちはとても柔軟な適応能力をもっていて、民族や国を問わず、戦争中や戦争後の荒廃した都市でさえ遊びを発見して明るく生きてゆくことができる。それは、なにも戦争や荒廃を受け容れるわけではなく、人間という種が生き残るために獲得した、他の生物と共通する能力に違いない。だから、多くの人間が、子供時代には環境と一体化して屈託なく生命を輝かせることができるのではないか。

 やがて、環境と個体が別々のものになってゆくときが青春なのだろうう。新しい世界と自分を発見するよろこびとうらはらに自分と一体化していた世界がはなれてゆくかなしさ寂しさがやってくる。ぼくのように、とうに青春を通り過ぎた人間にさえ、そのさみしさや不安の記憶をそのままによみがえらせる何かの呪文を、ある絵や写真や歌が秘めている。呪文のあるものは個人限定であり、あるものは民族限定だが、ときに人類に普遍的な呪文も存在する。
 いくつになっても、夏の終わりが近づいて、風が涼しくなってくると、ぼくは言いようのないさみしさに包まれるのだが、今年はそれがまだ来ない。もしかしたらもう来なくなったのかと思うと、今年は、むしろそのことがさみしい。

投稿者 玉井一匡 : 11:13 PM | コメント (9) | トラックバック

September 05, 2004

漂泊のBlogger

annefacade.jpg カフェ杏奴・新目白通りから
 いのうえさんは「ぼくはアナログ人間なんで」と言って自分ではサイトを作らない。そのかわりにいろいろなBlogのサイトに書きこみをする。あるとき、ぼくのBlogにコメントが書かれて以来、コメントでやりとりをしたりメールを送ったりしたのちに、彼の推薦するカフェ杏奴へ寄ったときに直接に出会った。そのようにして彼は自分の興味を持ったいくつかのサイトに書き込みをしている。半ば匿名性をもちながら自分自身がBlogからBlogへ移動する漂泊のブロガーなのだ。かっこいい。これは、Blogならではのネットワークの作り方だと気づいてぼくは、いのうえさんとBlogに感心した。

 そのいのうえさんが、今度はBlogを通じて知った、けれども会ったことがないという人も含めて何人かに声をかけた。「明日の午後、ぼくはカフェ杏奴にいます。ぜひいらして下さい。こんな人たちに声をかけました。・・・・・・・。」と、絵本のものがたりのようだ。
 インターネットのうえでつくられたコミュニティを、もうひとつ別の、現実空間というレイアに移し、サイトのかわりに本物の人間をあつめて直接につなげてみようという試みではないか。いのうえさんがプロバイダーを、カフェ杏奴がブラウザーソフトの役を果たすというわけだ。この日、5人があつまったがすぐにうち解けて、話がはずんた。それもBlog力だ。
 帰ろうとしたらかなりの雨だったので、自転車と徒歩の3人はしばらく雨宿りをすることにした。閉店時間になっても雨はまだふりつのる。川沿いのみちを走ってゆくと、 両側を高いコンクリートの壁にかこまれて常日頃は情けないどぶ川に身を堕としたやつが、力強い濁流に姿を変えていた。 ところによっては30㎝ほどで乗り越えようとしている。全身ぬれねずみになりながらも、背中のMacの心配がなければ、橋の上からいつまでもゆっくりと、元気になった川の水を眺めていたいようだった。

 5人+1は、いのうえさん、吉田美保子さん・染め織りうつみあきらさん・絵画(Blogではないが)おのふみとさん・散歩、まち、沖縄在住だから来られないが話には何度も登場した西川晴恵さん・染め織り、そしてぼく

投稿者 玉井一匡 : 01:13 AM | コメント (7) | トラックバック

May 17, 2004

東事務所の電卓

azuma.jpg 
 5月15日に、わが師匠たる東孝光氏の千葉工大退任と古希を祝うパーティがあって、東ご夫妻と古今のスタッフが集まった。ぼくはとうに「古」に属する。午後1時からだったが、ぼくは朝からひどく胃が痛くて食欲がないうえに吐き気までするというなさけない状態になった。こんなことは生まれて始めてのことだったから不景気な顔をしていたにちがいない。失礼なことをしてしまったが、何も食べたくない呑みたくないというのが残念だと思う程度の気力はあった。二次会は遠慮して事務所に戻り、横になっていたが11時を回っても直らない。
 12時過ぎに家に帰って一晩寝ると、翌日のクライアントとの打ち合せでは鴨せいろに2枚も追加して平らげた。
 
 パーティでは、古い順番にみんな数分ずつ、昔のエピソードなど話したが、ぼくは精神的肉体的な余裕がなかったから、短く話しただけだったけれど、事務所で横になりながら思い出したことがあった。
 かつて、ぼくは東事務所でたった一台の電卓を床の上に落としてしまった。そのころは光電管が10桁の赤い数字を表示する機械で、ひと桁10000円もする貴重品である。今だったらiBookの5〜6台分くらいに相当するだろう。それが落下してケースが吹っ飛んだ。ぼくもぶっ飛んだが、代わりに東さんが飛んできた。(スピード感が損なわれるので敬語を割愛します。)

 機械が落ちた時はもちろん驚いたが、東さんの反応に、ぼくはもっとびっくりした。床にしゃがみ込むなり「どうなってるの!」といって、電卓の構造を見ながらニコニコ感心している。ぼくの方は、仕掛けどころじゃあない、気が気ではなかった。はやく無事を確認したくて仕方ない。その時に電源が入っていたのかどうか、記憶は定かではない。
 試してみると、電卓はちゃーんと動いた。今にしてみればチェックをするのも簡単だった。ハードディスクの内容を見る必要もない。インタネットをつないでみることもない。色も気にしない。ただ、期待されるのは加減乗除ができるか、光電管がすべて点灯するかだけだ。
電卓は、その後数年のあいだ面積計算と積算に活躍した。ぼくは、この電卓の中身を見たおぼえがない。
 ぼくが何も食べられなかった会場は、黒木事務所で設計した「シェ・アズマ」という名のフレンチレストランだが東孝光氏とは何の関係もない。「シェ」というのは「...のうちへ」という前置詞で、フランスレストランの名前にときどき使われている。銀座の百貨店プランタンは、はじめはフランスの店の名前そのままに前置詞がついてAux Printemps(オ・プランタン)だったが、いまは「Printemps」だけになった。そのころ、「春」じゃなくて「春に」という名前はとてもしゃれているなと感心した。たしかに「オプランタン」と言っちゃあ「御プランタン」といって気取ったつもりのおばさんの言いかたみたいだから、「プランタン」になるのは当然のなりゆきだったろう。
 しかし、店のなまえに「・・・へ」とか「・・・に」という前置詞をつけて場所や時間の動きをあらわすのは、やっぱりしゃれている。こんなにゆたかな表現力があるはずの日本語だが、そういうことを表現するものがあるだろうかと考えてみるけれど思い浮かばないのです。

投稿者 玉井一匡 : 12:00 PM | コメント (0) | トラックバック

February 28, 2004

ふたりの来訪者と束子とBlog

 click image to pop up
UliとLeo:igualment diferentsから

 2月27日の夕方、石上がふたりの友人をつれて事務所に寄った。ふたりはウリとレオというオーストリア人で、十数年前に共同の仕事があってバルセロナの建築家の事務所に石上が行っていた時に知り合った。そのとき石上はウリと一緒に同じ部屋で働いていたのだという。ふたりは穏やかで人なつっこかった。「石上がバルセロナに行ってまもなく、スペインの人はいい人ばかりだと葉書をくれたけれど、それはきっとあなたのせいだね」というと「そうだよ」と横から石上が言った。
logo_animation.gif
 5月から9月まで、バルセロナ市がForum BARCELONA というイベントをUNESCOなどのバックアップも受けて開く。その中のひとつで、「igualment diferents」という展示のプロデュースをしているので、そのための材料を集めるべく北・南アメリカ、アフリカ、アジア、オーストラリアなどをまわっているそうだ。

 click image to pop up
束子職人のおやじさんと束子:igualment diferentsから

 ふたりは、束子(たわし)を2つ見せてくれた。今日は、これを作るところも見てきたと言う。「こういうものばかり集めてるんだよ」と石上に聞いて、ぼくはとても気に入った。

「デリーには行ったことありますか?人がいっぱいで汚くてひどく騒がしいところだった」「だが、アフリカはとてもよかった。危険だとかなんだとか言われていたけれど、ナイロビ、ダルエスサラーム、ザンジバルに行ったがほんとうによかったよ。人間も、とてもいいひとたちばかりだったし、ザンジバルの海岸といったらあんなに気持ちのいいところはない。」などとあちらこちらの話をしたあと、あわただしく帰っていく間際に住所とURLを書いてくれた。

 ザンジバルはアフリカの東側にある島だと聞いたが、どこにあるのかぼくは分からなかったので、彼らが帰ったあとで地図を広げて見た。メモに残してくれた「igualment diferents」のサイトを開いてみると、撮った写真と書いた文章をすぐその日や翌日にリアルタイムで残している。
 このサイトは、Blogなのだった。Blogの愛用者ならだれもがわかっていることなのかもしれないが、ぼくは、それを見てなるほどと思った。バルセロナにあるプロバイダーのコンピューターに写真入りの日記帳が置いてあって、世界中を移動しながらそれに書き込むことができるし、世界中のだれでもそれを読めるというわけだ。だからmovable typeというんだろうかと思いつつ、ぼくはBlogというもののあり方をひとつ実感した。
 「igualment diferents」を英語でいえば「equally different」らしい。文章はスペイン語で書いてあるからほとんど分からないが、写真の大部分を、道具とそれを作る人使う人が占めているのを見ると、なにを言いたいのか伝えたいのかが、感覚的によく分かる。igualment diferentsを日本語にすると「こんなに違うけれど、みんな同じ人間」というところだろうと、ふたりを思い出しながらぼくは思った。

igualment diferentsへ

投稿者 玉井一匡 : 10:52 AM | コメント (1) | トラックバック

December 10, 2003

サンキュ

DELICIOUS.jpg Click to Jump to Amazon
 いつから気になりはじめたのか思い出せないが、
ドリカムの「サンキュ」という歌について、時々ぼくは若いひとたちにきいてみることがある。
 主人公のともだちを、男だと思うか女と思うかということだ。
この歌を知っていそうな人にきくのだから、比較的若い人たちが多いのだが
その中でも、ある年令帯を境にしてそれより年長の世代は「女の子でしょう」と言うが、下の世代は「男の子だと思う」と言う。

 Be-eaterのサイトで「雌伏」ということばから始まって、「雄飛」「雌雄を決する」「星飛雄馬」などの言葉を取り上げて雄と雌についてのコメントが交わされて思い出したせいか、一昨日、20代後半と思われる女のひとに久しぶりにきいてみた。「意識して考えたこともないけれど、当然、女の子だと思っていました」と言う。3ヶ月ほど前に4年生の男子学生に尋ねたら「男だと思っていました」と答えた。世代との関係についての仮説から外れたのは、1度だけだった。

 ぼくは、女の子だろうと思っているのだが、うちの娘たちは2人とも、男の子だよといった。
「あれが男だったら魅力的な人間だとは思わない」とぼくが言うと、「女の子だったら当たり前だけど、男の子だから面白いんじゃないの」と返す。「たとえば**ちゃんなんか、いま会ったら、きっとああいう感じだよ」と20代なかばの長女がいう。**ちゃんとは小学校の同級生だった男の子のことだ。そうやって具体的な人間が出てくると、いいやつだとぼくも思っているから、大人になった**ちゃんのことを思い浮かべて男でもいいかなという気がした。

 ジェンダーというやつ、社会的に規定される性別によるふるまいの違いが、少なくなってきていることの現れなのだろうから、ぼくは、そのことをいいことだと思う。社会的な位置付けを意識しながら、それを利用しようとして「女らしく」振る舞おうとする女や「男らしく」突っ張ろうとする男などのわざとらしさが、ぼくは嫌いだ。にもかかわらず、歌を聞いていると思い浮かぶのは女の子なのだ。

ちなみに、「サンキュ」の歌詞は、つぎのようなものだ。ぼくの仮説によれば、吉田美和は、女の子の友だちだを思い浮かべる世代に属する。

何もきかずにつきあってくれてサンキュ
季節外れの花火、水張ったバケツ持って
煙に襲われて走りながら「きれい」
なみだ目で言うから
笑っちゃったじゃない。
来てくれてよかった。

何もいわずにつきあってくれてサンキュ
煙のにおい残る公園のブランコで
話のきっかけを探して
黙ったら急に鼻唄うたうから
笑っちゃったじゃない。
来てくれてよかった。

今日、彼にさよならしたんだ。
泣かなかったあたし、責めなかった。
えらかったねってあなたが言ってくれるから

ポロポロ弱い言葉こぼれてきそうになる。
好きだったのにな、言っちゃったあと泣けてきた。
また涙目のあなたを見て笑ってないた。
ちょっとかっこわるいけど
髪切るならつきあうよなんて
笑っちゃったじゃない。

来てくれてよかった。
来てくれてよかった。

今日はほんとうに
サンキュ

  作詞:吉田美和

投稿者 玉井一匡 : 11:39 AM | コメント (22) | トラックバック