March 03, 2010

ブンギン島:超高密度の島/インドネシア

 Bungin.jpg
 このひとつ前のエントリーに加嶋裕吾さんが長いコメントを書いてくださったのは、インドネシアの旅行からお帰りになってすぐだったが、そのあとにもっともっと長いメールをくださった。その旅の紀行文で、バリ島の東隣のランボック島から、そのもうひとつ東にあるスンバワ島へ、ことばのほとんど通じない定期バスに揺られる長い長い道中が書かれている。いろいろなことを考えさせられる興味深いものだった。
 そこで、海の上にたくさんの住宅が浮かんでいるのが見えたが、あまり面白そうではなかったと書いていらしたが、念のために僕はGoogleマップで航空写真をみた。そんなことはないよ、ぼくたちにとっては胸ときめくものだった。

加嶋さんの説明によれば、そこはブンギン島(BUNGIN)という人工の島だという。Googleマップの範囲をさらに拡げると、この北東にももうひとつの島が成長しているのに気づいた。 それだけではない。もっと欲張ってさらに北東にゆくと、潟を囲む長い腕のような洲の先端に、やはり同じような家並みの集落ができかかっている。
加嶋さんには、これが面白く感じられないほどに、もっと興味深い世界がバスの旅にあっわけだ。

加嶋さんが引用していらっしゃる「インドネシア文化宮」というブログは、インドネシアの24時間ニューステレビ局『METRO TV(メトロテレビ)』東京支局がプロデュースしているものだが、そこでは、島の中の写真も見ることができる。説明によれば、もともとは珊瑚礁だったところに次々と新しくやってきた男たちが石を積んで島を拡げていき、いまでは人口およそ3000人、350m×250mの大きさになった。夕方から男たちが漁に行って女と、夜には子供と年寄りばかりの島になるのだが、まわりを海に囲われているので近寄れないので安全だから、男たちは安心して漁に専念できるのだそうだ。いまでは本島まで細い道がつくられているが、このほかには道がないので、今でもこの島は安全なのだという。

投稿者 玉井一匡 : 11:05 PM | コメント (0)

February 12, 2010

「花はどこへ行った」:ベトナム戦争のことを知っていますか

HanahaDokohe.jpgClick to Jump to WebSite
昨年11月に、エファジャパンの設立5周年を記念するイベントが開かれて、この映画の上映に加え監督の坂田雅子さんとイーデス・ハンソンさんの対談がおこなわれた。ぼくは劇場公開されたときに見そこなったので、今度こそ見ようと前売券を買っておいたが、あいにく叔父の葬儀と重なって行けなくなった。

 坂田さんは、写真家であったアメリカ人の夫を癌で亡くした。彼の癌は、ベトナムへ派兵されたときに米軍の散布した枯葉剤が原因なのではないかという友人の示唆でベトナムに渡り、枯葉剤の深刻な被害に苦しむひとびとを目の当たりにして映像に残した。ハンソンさんは、かつてアムネスティインタナショナル日本支部の代表をしていた。いまは、エファジャパンの理事長として子供たちの支援のために骨を惜しまず奔走している。宣教師として父の派遣されたインドで生まれ子供時代を送ったから、どこに行っても水道の水を生で飲んで平気なのよとおっしゃったことがある。

 映画をみそこなったことをギンレイホール社員の藤永さんに話したら、ぼくはDVDを買ったから貸してあげますといわれるので、ありがたくお貸りして自宅で見た。

 ほとんど素人だったひとが、自分の思いと受け取った衝撃のまま率直につくった映画なのだろう。だからこそ持っている重い力がひとを動かす。しかも、つらいばかりでなくその背後に人間への希望を読み取ることができる。映画のタイトル「花はどこへ行った」は、もちろん同名の歌からとっている。さまざまなフォークシンガーやグループで、ぼくたちの世代は何度聞いたか知れないけれど、この映画で使っているのは、 中でもとりわけ痛切に胸に染みるジョーン・バエズによる歌だ。

 樹木を枯らして解放戦線の兵士の潜む場所をなくし農作物を枯らす作戦として、米軍はダイオキシンを主成分とする枯葉剤をベトナムの空中に散布した。それを直接に浴びたり食べ物とともに体内に取り込んだために寝たきりになって今もこれからも生涯を苦しむ人たちがいる。さらに、親たちが体内に取り込んだダイオキシンが胎児に影響を及ぼし、二次的な影響として、ひどく重い身体的な障碍を生まれながらに背負わされた子供たちがいる。
国家としてのアメリカは、その因果関係を、いまだ公式には認めていないという。

 映像の中でさえ、障碍とともに生きざるをえない彼らを見るだけでさえ、ぼくたちにはひどくつらい。それなのに、彼らを支えるためにどれほどの自由を犠牲にしているかもしれない家族やまわりの人たちの、かれらに接する態度は奇跡のようで、人間というものについて希望を抱かせてくれる。たとえば、いかにもいとおしげに幼い弟を可愛がっている姉妹がいる。弟は、想像を絶する身体的な障碍を負わされているにもかかわらずだ。村の人たちもこの子を可愛がってくれるんだと、親が言う。彼らに対して坂田が正面からカメラを向けることができたのも、この子に対して周囲の人たちも同じように接しているからだろう。
 また、海兵隊員としてベトナム戦争に参戦したアメリカ人で、被害者のための施設をつくって運営している人がいる。彼は、受け容れてもらえるかどうか不安を抱きながらおそるおそるベトナムに行ったのだが、あたたかくむかえられたと話す。
 これらは、例外的に幸福な状況を選んで撮影したものなのかもしれない。仮にそうだとしても、こういう態度をとることができる人たちが存在するというだけで充分ではないかと、ぼくは思った。

 ところが、その話をするとエファジャパンの井ノ口さんがこういうのだ。まだこの映画を見ていないけれどそれは例外的なことではなくて、ベトナムでは、そういう人たちを村の人たちがささえるという行動が自然になされているという話をきいたことがあると。だとすれば、それはベトナムだけのことではないのかもしれない。もしかすると、何十万年もの時間をかけてつくられた人間のコミュニティというものには、本来はこういう相互扶助ができるようになっていたということではないのか。まして、自然の生産能力の高い亜熱帯では、生産のできないメンバーを手厚く育てるだけの余裕もあったろう。
 しかも、そういうコミュニティが元海兵隊員だったアメリカ人を受け容れることができるのだとすれば、それはウチの成員に対してだけでなく、ソトの人間を受け容れることにも寛容であるということだ。
 そういう資質が、のべつクラクションを鳴らし続けていた自己主張のつよいハノイの運転者たちのありかたと同居しているのだから、やはり人間というやつはおもしろい。

 伝統的な集落がいわば肉体的に受け継いできた福祉のしくみが、制度や施設に担われるようになれば、家族やまわりのひとたちの負担が軽減される。それは、なににも代え難いことだ。しかし、その一方でコミュニティの人々のひとりひとりがもっていた許容力がせばめられることになるのだろう。それは、コミュニティという生き物にとって、かならずしも健康なことばかりではないように思う。その許容力を喚起することが、映画や音楽や文学の役割なのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 04:34 PM | コメント (11)

January 19, 2010

牛の鈴音 

UshiSuzu.jpgClick to Jumpto UshiSuzuWebsite 

 韓国のドキュメンタリー映画「牛の鈴音」を観た。といっても、もう10日以上も経ってしまった。
日本でも年末から公開されているが、韓国では昨年公開されるとドキュメンタリーとしては異例の大ヒットを飛ばした。40歳というおいぼれ牛を使って農業を続ける老夫婦を撮り続けた、すこぶる地味な映画が数多くの韓国人の心を強くゆさぶって、300万人が映画館に足をはこんだ。韓国の人口は約4800万人だから、この割合を日本の人口12800万にあてはめれば、800万人が観たということになる。お金をかけた映画ではないから、純益/制作費の比率では、じつに4300%に達したという。

 わけあって、ぼくはこの映画をできるだけたくさんの人に観てほしいと思い、友人知人にも勧めて特別鑑賞券を買っていただいた。
・・・にもかかわらず、正直にいえば、韓国で300万人動員という現象にふさわしいほどには、ぼくは感動することができなかった。これを見た人たちにたずねても、僕の印象とそれほどにはかけはなれていないようだから、韓国の観客とぼくの受け取り方の違いは、おそらく二つの国の文化的社会的背景に理由があるのだろうと思う。
では韓国のメディアはこの映画についてどう書いているのだろうか、それが知りたくて「中央日報」「朝鮮日報」の日本語サイトを開き「牛の鈴音」と打ち込んで検索した。

 どういうわけだろうか、いずれのサイトでも検索の結果はゼロだった。どちらも取り上げていないのだ。しかしおかげで、この映画とそれに対する観客の受け取りかたについては、なおさら興味がわいてきた。
老人の妻をはじめまわりのだれもがこの牛に農作業は無理だよと言うのに、彼は頑なに耳を貸そうとしない。牛にクルマを引かせて、人間が歩くよりもむしろ遅いくらいゆっくりと山合いの畑にたどりつくと、こんどは鋤を曳かせて土をおこす。牛は40歳、老人は79歳、こどもの頃に不自由になった右足をひきずって歩く。それでも草を牛に食べさせるからと農薬はつかわず、斜面に這いつくばって牛のために草を刈る。

 それほど親密で献身的でありながら、かならずしも牛がかわいいという表情を見せるわけでもない。画面を見ながらぼくも、ジイさん、もういいじゃないかと思い続けた。
そういえば彼は、かくも大切に思いながら牛を名前で呼ぶことがなかったと気づいた。きっと名前をつけなかったのだろう。それは、彼が牛を別の人格とは考えず、あたかも自身の身体の一部であるように思っていたからではないか。同じような理由で畑から離れようとせず、絶えることのない妻の愚痴にも反論しないのだろう。すでに畑も妻も牛と同じように自分の一部と化しているのだ。ぼくたちの愛情は、相手を思いやるところにある。けれども老人の愛情は相手と一体になることにあるのではないか。そして、それに観客は共感したのではないか。
 かつては考えられなかったほどに、日本と韓国の間は近くなった。多くの日本の文化も、おそらくは多くの人間も、朝鮮を通じて日本にやってきたのだろうから日本の文化が韓国と近いことは当然だが、だからといって違いがないわけではない。違いの発見は、むしろ理解への手がかりであることを考えれば、他文化との互いの違いを認めつつ理解しあうというありように近づいているのだとぼくは思いたい。
あの老夫婦と会って話してみたいと、いつのまにかぼくは思うようになったもの。

投稿者 玉井一匡 : 11:24 PM | コメント (0)

June 23, 2009

「天空の草原のナンサ」と「Whole Earth Catalog」

 Nansa1.jpg 
 アジアンスマイル「シリーズ・二十歳の挑戦:愛して伸ばせ」
の放送を見てモンゴルへの関心がふくらんだが、うちには「天空の草原のナンサ」のDVDがあるのに、ぼくはまだ見ていなかった。次女が、姉の誕生日にプレゼントしたもので、遊牧民の家族:父と母+娘二人と小さな息子という5人の家族の生活を撮った映画だ。ナンサは、主人公である女の子の名前である。

 見はじめてほどなく、とてもきもちのいい映画であることがわかる。子供たちの表情や振舞いを見ているだけで、自分の表情がすっかりゆるんでいく。双眼鏡で鳥たちを見ているだけで楽しいように、この映画のなかのこどもたちを見ているだけで楽しくてしかたないのだ。
 こどもたちとそのふるまいをかわいいと感じるからであるのは事実だが、もっと深いところでうごかされる。遊牧する家族という最小単位の社会の中にぼくたちも立っていて、ゆるやかな山並みという自然が遠くにある。その間のはてしない草原に羊と馬があそぶ。世界と空間がそんなふうに明快に構成されていることで、ぼくはひとつの世界ひとつの小宇宙にいるということを実感して安心感をもたらされるのだ。ぼくはそこにすっかり浸りこんで心地よくなった。

WholeEarthCat.jpg 百科事典や図鑑・辞書・地図・歳時記のような本が、ぼくは大好きだ。数冊ときにはわずか1冊の本のなかにすべての世界が詰め合わせになっているからだ。
かつてホール・アース・カタログは、道具によって「全地球」の詰め合わせをつくって見せてくれた。そのとき、数ある項目の中のひとつに「Nomadics」(遊牧民の)というのが含まれていたが、この映画はそのことを思い出させた。 
 ナンサは、おさない子供でありながらたった一人で馬にまたがり自然と対峙する。遊牧民の子供たちは、自然のもたらすめぐみや潜む危険にも、季節の変化のよろこびやきびしさを通じて自然というものを理解するだろう。羊の子が育ってゆくさまも、それをたいせつに愛情をこめて育てた人間が羊のいのちをうばう様子も見て、生命とは何であるのかを知るのだろう。父、母、兄弟のように簡潔な人間関係は人間についての理解を助けるだろう。何度となくすまいを組み立て解体するのをみては、家とは何だろうと考えるだろう。
 ホール・アース・カタログにNomadicsという項目を設けたのは、遊牧民の生活と世界観にはすべての世界を身近に引き寄せるところがあると、編者スチュアート・ブランドが見抜いていたからなのだろう。

 最小限のコミュニティを思う一方で、限界集落という言葉についても考えずにはいられない。住人の数がどんどん減って、社会生活が成り立たなくなる寸前の集落のことだ。この遊牧民の家族、ナンサの家族は、最小限のたった一家族だけで遊牧をしている。しかし、本来の遊牧民の生活はこんなふうではないはずだ。かつては複数の家族が集団をつくり遊牧していたのだろうが、いまやモンゴルでも遊牧生活はなくなろうとしているのではないか。
 にもかかわらず、この映画は消えようとしているコミュニティよりも、むしろ発生しようとしているコミュニティを感じさせる。
すくなくとも、ぼくにはそう思われた。

■追記
The Last Whoke Earth Catalogでは、Nomadicという項目のひとつまえにCommunityという項目がある。

■関連エントリー
Whole Earth Catalog/aki's STOCKTAKING
Whole Earth Catalog(ホール・アース・カタログ)/PATINA LIFE in LoveGarden

投稿者 玉井一匡 : 08:26 PM | コメント (0)

June 13, 2009

モンゴルの20歳の校長先生:「シリーズ 20歳の挑戦 第1回 愛して伸ばせ」

20SaiKoCho.jpg 先日の朝、BSでモンゴルを撮ったドキュメンタリーを放送していた。見始めたら興味深くて最後まで見てしまった。「非電化工房」の非電化冷蔵庫をモンゴルに行ってつくってきたという話を思い出したから見はじめたのだが、すてきな話だったので録画しておけばよかったと気づいたのはあとの祭り。「NHKオンライン」で検索すると、「シリーズ 20歳の挑戦 第1回 愛して伸ばせ」という番組で、もう一度6月14日の日曜日午後11:40から12:00まで再放送がある。たった20分しかない番組だったのだ。さっそくぼくは録画予約したが、できるだけ多くのひとに見てもらおうと思い放送前に駆け込みのエントリーをすることにした。

 モンゴルでも近頃は経済が自由化されたので、たくさんの私立学校ができるようになった。
そのひとつに20歳の校長先生の学校があるというのだ。モンゴルにも格差社会が始まったというのかと見ていると、そんなつまらない話ではなかった。

 ずいぶん若い校長だとだれしも驚くだろうが、彼は16の歳でこの学校をつくって、すでに4年が経っている。彼はとび級で大学に入り16歳ではもう卒業した。自分で考えてみつけた方法をこどもたちに伝えたくて学校をはじめたのだという。天才でありながら、それをたとえば自分自身の利益や出世という世俗的な目的のためではなく、自分の研究のためにですらなく、こどもたちのために使いたいと考える若者がいるところに、この国が若く健全な時代にあることがわかる。そうするに値する国だと、少なくとも彼に思わせるほどの国なのだ。GDPや経済成長率などというものは国の健康や質を示す指標ではなく、ただ体重のようなものなのかもしれない。日本という国だって、いまでこそこんなデブになってしまったが、かつては空腹だが健康で意欲にあふれ未来を信じていた時期があった。
 彼はエリート教育を受けたわけではない。それどころか、まだ小さい頃に母が病気になり、のちに父親が家を出て行ってしまう。学校をやめて母と弟たちを養わなければならなくなり、独学で学ばざるをえなくなった。そのときに見つけた学習方法をふまえて学校をつくったのだった。

 小学校から高校までの生徒がいる彼の学校では、学科にわけて授業をしない。既製の言葉で言えば総合学習だ。かつて「ミュンヘンの小学生」という本を読んで、ぼくたち夫婦はシュタイナー学校の教育にひどく感動した。こういう学校をつくりたいとぼくたちは思ったのだが、彼は小学生にしてそれを自分自身の力でみつけたのだ。
 ぼくたちの受けた教育は、国語、数学、理科、社会科などという学科に刻まれていたが、じつは世界というものはひとつであって、それをさまざまな切り口から別の見方をしているにすぎない。だからそれをひとつの授業のなかで見つけさせることで、世界はひとつのものなのだと理解してもらおうという考え方なのだ。
しかし、この教育方法は容易なことではない。まず先生自身が、おなじ一つのものごとについてあらゆる方向から考えることができる能力を身につけていなければならないからだ。さらに彼は、他の先生の教育もしなければならないのだ。

Nansa.jpg このドキュメンタリーを見るうちにモンゴルへの思いがふくらんで、ぼくは「天空の草原のナンサ」を見たくなった。うちには、次女が姉にプレゼントしたDVDがあるのだが、ぼくはまだ見そびれていた。
 今朝はそんなことを娘と話していたら、午後にはこんなこともあった。
「玉井さん何でも好きですか?」と、クライアントの娘さんが突然に言った。
「ぼくは、嫌いな食べ物はひとつもなくて、何でもすき。」
「だったら、巣鴨にある「シリンゴル」というモンゴル料理屋さんの、羊肉に塩をしただけで蒸したのをタレにつけて食べる料理がとてもおいしいんです。
玉井さんきっと好きだと思うから、行ってみてください。正確には場所を憶えていないけど」
「じゃあ、インターネットで調べて行ってみますよ」

投稿者 玉井一匡 : 01:15 AM | コメント (9)

August 30, 2008

存在しない少女

EfaNoSchoolS.jpgclick to Jump to Vietnam.
 「お母さんげんきですか?」と書かれた、左上の写真をクリックすると、「エファジャパン紹介映像」というページにゆく。そこにあるふたつ目の写真に「エファジャパンのCM」と書かれている。クリックするとベトナムの少女フォンを紹介するムービーが始まって、彼女の現在の生活とそれをもたらした環境、そこで彼女がどのように生きているのか、彼女をどう支援しているのかを伝える。
ムービーはわずか2分。フォンの屈託のない表情は見るものをむしろ元気づける。
それと同時に、制度というものについて考えさせられる。

 少女の母は刑務所にいる。麻薬を売買したためだ。だから、フォンはみずから生きる糧を手に入れなければならない。親がいても、子供の稼ぎに依存しなければならない家庭では学校に行けない子供たちは多い。ましてや親と暮らすことのできない子供が学校に行けるはずはないだろうが、たとえ母が帰ってきてもフォンは学校には行けない。出生届が出されてなかったからだ。
つまり、この子は制度の上ではこの世に存在しないことになっているのだ。

 少女が出生を認めてもらって学校に行くことは可能なのだろうかと、このムービーを初めて見せてもらったあとにエファの事務局長の大島さんにたずねると、できまないのだと言下にいう。
大島さんは、東南アジアのほかバングラデシュ、ソマリア、エチオピアなどで、何十年も活動を続けてきた人だから、制度がこの少女をどう扱うかをわかっているのだ。
「学校だけでなくて、あらゆる社会サービスを一生受けるられないんですよ。」
これからの数十年の長い時間を、彼女は制度の中には存在しない人間のまま生きなければならない。ここでは、そういう子供はすこしも珍しくないのだ。国が内戦のさなかにあれば、制度に裏打ちされた社会、逆に言えば制度を保証する主体さえ機能しない。建設の途上の国にあって、社会サービスの突出する国がとなりにあれば、そこにひとは集中することになるだろうから、彼女のようなひとを認知させるのは容易ではないわけだ。
 NGOは、国家の制度が作り出す排他的な境界をやわらげるために活動しているのだが、一方では投機として石油を売買し利益をあげ、それによって世界中に物価の高騰をひきおこす連中がいる。

エファジャパンは、旧インドシナ三国のこどもたちを支援しているNGOだが、つぎのような「ミッション」を掲げて活動していることを説明している。
「すべての子どもが生きる力を存分に発揮できる社会をめざし、子どもの権利を実現するために活動します」
・efaとは empowerment for all (すべてのひとに力を)の略だ。(「エファについて」というページを参照してください)
■関連エントリー:大石芳野写真展

投稿者 玉井一匡 : 12:19 PM | コメント (0)

February 25, 2008

メコンを北へ

KajimaLaoBoatS.jpgClick to PopuP

 加嶋さんとわきたさんが「ラオスの路上で乾杯」のコメントで長い書き込みをしてくださり、「グレーの壁」と「グレーの塊」の応酬というすこぶるおもしろい事態にあいなった。加嶋さん夫妻はすでに日本にお帰りになった。現実とブログのあいだのタイムラグが大きくなってしまったので、ひとつエントリーして舞台を進めておこう。
*記述を軽快にするため、以下は敬語丁寧語を、ときに伝聞形を省略します。

 ビエンチャンに1泊した翌日に、加嶋夫妻はルアンパバーンへ飛行機で移動、そのつぎの日には船でメコンと支流のナムウー川を遡った。ルアンパバンからとどいたメールには、ビエンチャン路上の乾杯と一緒に、川のほとりで甲羅干しをする屋根付きの細長い船の写真が添付されていた。
「ボートでノーンキャウへ行くことにしました。ノーンキャウからウドムサイへバスで移動し、ウドムサイからどのようにするかわかりませんが、ヴィエンチャンへ戻ります」と書かれている。Googleマップでルートの地形を見ようとしたが、わからない。
ルアンパバーン(Luangprhabang)を開いてみてもラオス領内は地名の表示そのものがひどく少ない。ラオス語の本の発行が年間に50〜60点くらいしかないといわれる状態にあるのと同じく、情報を公開しない時代があって、自由化が進められる現在も、それがあとをひいているということなのだろうか。

KajimaMekongS.jpgClick to PopuPLaosKaoS.jpg
「ノーンキャウに行きました。ルアンパバーンからメコンを8時間遡りました。途中一軒もお店がなく、乗客の一人としてご飯を用意していません。仕方なく私が上の部落へ行って、ご飯を10人ぶんぐらい調達しました。その間ボートの運転手たちはゆっくりと魚とおかずのお昼を食べています。」
川に美しくそそりたつ岸壁と、やっとちかづいたのであろうノーンキャウの集落の写真を見ながら、他の乗客はどんな人たちなのだろうか、腹をへらしたときにどう反応したのだろう、そして、加嶋さんはどんな食べ物を調達されたのだろうということがぼくは気になってしかたない。そう書いてメールを送ると、さっそく加嶋さんから返信があった。
 地元の人たちは料金が安上がりなのでたいていはバスを利用するから、この船に乗るのはおおかたは外国からの旅行者たちなのだという。おそらく川沿いにまちができているはずだから、川に沿う道路があってそこを走るバスルートがあるのだろうと、勝手に想像をふくらませる。
 船の乗員が昼メシを食べている間に陸にあがってしばらく行くと農家があったので「カオ」という単語を憶えていたから、それを言って赤米のメシをわけてもらった。はじめは一人分しかなかったので、もう少し分けてほしいと言うと、自分たちの分がなくなりそうなのでちょっと渋い顔をしたが、もう1ドルを出すと喜んで分けてくれたという。ちかごろは日本でも作られるようになった古代米とも言われる赤米はモチ米の一種で、炊くのではなく逆円錐形のザルに米を入れて下から湯気で蒸して調理する。モチ米は米粒がたがいにくっつくから、おむすびにしなくてもからまっている。ラオスでは、それを、箸などをつかわずに手でちぎりながら食べるのだ。右は、このときの加嶋さんの写真ではなくて、ビエンチャンのレストランでぼくが撮ったものだ。レストランでは、ひとりずつ写真のようにふたつきの小さなかごに入れてあったが、市場で買ってきたときにはバナナの葉に包まれていたので、食べるときには葉を皿として使って食べた。
その「カオ」をもって船にもどりみんなに分けると、当然ながらその後はとても仲良しになったそうだ。

そう聞いて、ますます質問したいことが浮かんでくる。
・船の乗員は、ひとが腹を空かせているのを横目に自分たちは昼飯を楽しんでいるというのもおもしろいが、客を相手に弁当を売ればひとかせぎできるだろうに、それをしないのはラオス人のおおらかさなんだろうか。ベトナム人や中国人の船頭だったら、しっかり商売をするだろうに
・食料を調達に行くとき、船が行ってしまわないようにするために、船頭にはどう伝えたのだろう
・ほかの連中は、食料を調達しようとしなかったのか・・・etc.
これらの疑問は、まだ解決していない。なにしろ、まだ質問もしていないのだ。

KajimaNonkyauMesiS.jpgClick to PopuP
船による全行程8時間の途中、出発後3時間でモチ米の昼食をとり、その後さらに5時間を船にゆられてやっとノーンキャウについた。そこではちゃんとテーブルについて、安堵とともに食事にありついたという写真がある。
こうして写真を見ていると、ボートはメコンを遡ると同時に時間をも遡っているようだ。しかもメコンは、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、ベトナムの国々の境界をなすことが多い。そこでは対岸は外国なのだ。すると、橋のないところでは川のこちらとむこう側に時間のズレが生じているのかもしれない。ますます興味深い。
ここに夫妻は一泊、翌日にはバスでウドンタニへ向かった。

投稿者 玉井一匡 : 07:45 PM | コメント (10)

February 17, 2008

ラオスの路上で乾杯

LaosKajima1S.jpgClick to PopuP

「写真は昨晩、タクシー運転手やセタパレスの従業員の女性と知り合い、地元の飲み屋でしたたかビアラオを飲みました。ちょうど中国の正月でセタパレスの先の広場では屋台が出て、かなり大きなセレモニーでした。」と、メールにあった。
このところ一日おきくらいに写真入りのメールがラオスから届く。おそらくはじめの一日目だけ日本からホテルに予約を入れておいて、あとは行き先もホテルも乗り物も、気分と様子によってなりゆきにゆだねる。奥さんもいっしょなので日本で余計な心配をする人もいない気ままな旅。
 到着した日の夕方に、もうタクシーの運転手たちとすっかり意気投合してこんなぐあいなのだ。サッカーが得意ならボールひとつあればどこの国に行ってもすぐに仲良くなれるとか、楽器があればたちどころに友達だなんていうが、ビールで乾杯すればもう仲間というのも、呑めない人間にしれみればうらやましい。でも、だれでも持っているものがある。

 ラオスはよさそうなので行ってみたいのだが、どうだろうかと相談を受けた。年末に東京にいらしたときにMacの画面でぼくの撮った写真をお見せして、あれやこれや、ひとは穏やかでメシはうまい、単なる経済指標では貧しい国ということになっているそうだが、むしろゆたかな生活だとぼくは思うというような話をした。それで、やはり行きたいということになった。後日、コンピューターを持って行ったほうがいいだろうかというメールをいただいたので、ぼくはいつも持って行ってメールのチェックをしたりブログに書き込んだり読んだりするんだと返信した。その結果、上の写真のような具合になり、その様子が翌日にはぼくのところに送られてきたというわけだ。

 南国では、どこでも食いものやのテーブルが屋外にまでふくらんでいる。高級な店では、それが庭のテラスであるし、安くて気楽な店では道路であり、メコンに張り出したデッキであるという違いはあれ、食って呑んでという楽しさが、外にこぼれだしているから、通りがかりの人間もそれを分かち合うことができる。もちろん、こういう店にはエアコンなんかないけれど、木蔭がある。そこに、おだやかでひとなつっこいラオスのひとたちがいて盛り上がっていれば、こちらに「おお、やってますね」となかよくする気さえあればいいのだ。それに、こちらはグループではないから、むこうも声をかけてくれる。
 それでも、道ばたの店じゃ店員だって客だって、英語なんか通じないだろうにどうやったんだろうかと気になった。しかし、メールにはセタパレスにつとめる女の人がいたと書いてある。セタパレスというのは、ビエンチャンで一番の高級で気もちのいいホテルだ。そういうところで働いているひとなら、英語くらいは話してくれるだろうし、タクシーの運転手も少しはしゃべってくれるというわけだろう。
 旅の主人公、加嶋さんがはじめの一日だけ予約されたホテルは、そのセタパレスのすぐ近くのDAY INNという、小さくてきもちのいいホテルだ。ぼくは、そのホテルの前で道路の側溝に落ちたことがある。

LaosJiroS.jpgClick to PopuP
 メールには、奥さんがこんなことも書き加えてくださった。「こんにちは。昨日は、マーケットでかえるの唐揚げを食べて、夜は川村さんの事務所近くの飲み屋さんでジロウを食べました。(ラオス名物ジロウをご存知ですか?念のため申しますが、こうろぎです。)どちらもなかなか美味でした。塚原さんには内緒にしてください。でも、それからメコン沿いの屋台でラオスすき焼きを食べました。こちらもおいしかったです!ラオス料理は私たちにとても合いますね。好き勝手ばかりしています。ではまたご報告します。」
 ぼくもカエルは日本で食べたことがあるが、コオロギはまだ食べたことはない。一日目にして、ふたりはラオスを握ってしまったようだ。加嶋さんは長野県の駒ヶ根の住人だから、蜂の子なんぞで鍛えてあって、コオロギごときに臆することがないんだろう。信州もラオスも海がない。虫だって爬虫類だってわけへだてなくうまそうに見えちゃうのもあたりまえだ。もともとそういう厳しい暮らしをしていた人たちのところに、米軍はたくさんの爆弾を落としていった。北爆でラオスに落とされた爆弾はベトナム以上だったと言われている。
ほかの昆虫も食べるそうだが、たいていは唐揚げにするんだという。小エビや沢ガニを唐揚げにするようなものだろう。小型の甲殻類を食べるときの、世界共通の王道なのかもしれない。日本には、佃煮という手がもうひとつあるが。

beerlao-lager.jpgClick to JumP 上の写真の届いた翌日、加嶋夫妻は、もうビエンチャンを出発してルアンパバンに飛んだ。ちょうど旧正月にぶつかったので、DAY INNでは翌日の部屋が取れなかったので行ってしまうことにしたようだ。行きはバスで、帰りは飛行機にするという予定だったが、やはり旧正月とあってバスも混んでいるのだろう、行きは飛行機になったらしい。だから、このメールはルアンパバンから送られた。したたかにビアラオを飲んだというあとでは、さすがにホテルに戻ってメールを書くわけには行かなかったのだろう。
ビアラオとは、ラオスで唯一のビールのブランドの名だ。残念ながらぼくには分からないが、うまいビールだとみんなが言う、メコンに沈む夕日を見ながらのビアラオは格別なんだと。ビールを飲まなくても、メコンに沈む夕日は格別ではある。ビエンチャンのところで、メコンは大きく西に折れているので、対岸というより下流の水面に日が沈んでいく。

 旅がはじまって数日して、ブログに書いてもいいだろうかと書いたら、まったくかまわないと返事をいただいたので、タイムラグのあるエントリーになったけれど、書きたいことが沢山あってきりがない。

■追記 0218'08:今朝届いたメールでジロウの写真が送られてきたので、さっそく写真を追加しました。

投稿者 玉井一匡 : 08:34 AM | コメント (31)

March 03, 2007

大石芳野写真展「眼差しの向こうにあるもの」

IMGevent2nd.jpgWhiteBandLong.jpg

いつまでも考え続けずにいられなくさせられる写真展が、2月27日から3月4日まで、銀座のシンワアートミュージアムで開かれている。「眼差しの向こうにあるもの」〜アジアの子どもたちと戦争・平和・未来〜大石芳野写真展(エファジャパン主催)である。
 またしてもエントリーが遅れてしまったが、2日目の2月28日に開かれた大石芳野さんイーデス・ハンソンさんとの対談を聞きに行った。
 展示されている写真は、ヴェトナム、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、コソボの子供たちが大部分を占める。これらどの地域でもどの戦争でも、平和を守るためといってアメリカがやってきて事態を悪化させ、そこに住み続けて来たひとびと、まち、自然、コミュニティを傷つけ破壊した。しかし、この写真たちは、けっしてそういう大状況をじかに写しはしない。ただ、子供たち女たちを写しながら、むしろ戦争を深く物語っている。

 写真とは、事実そのものの代わりに事実の痕跡を印画紙の上に残すものだ。このこどもたちの上に、中に、あるいは背後には、さながら彼らが印画紙や感光素子であるかのように、戦争の痕跡が焼き付けられている。従軍して撮った戦争写真とはちがって、戦闘や兵士が写されているわけではなく、それに巻き込まれたものたちばかりだ。それだけになおさら、見るものにつらい思いが残されて、戦争とは何なのかをぼくたちの心にじかに刻み込むのだ。
 けれども、子供たちは、ぼくたちをつらさのままにとり残しはしない。はたから見ればたえがたいほどの悲惨のなかにあっても、決してこのままでは終わらないよと、彼らの表情がつたえるからだ。 いうまでもなくそれは、大石さんの写真が、こどもたちのにじませる小さな輝きをしっかりと受けとめ捕らえているということだ。男だから女だからということは、ぼくはあまり言いたくないけれど、女でありながら、わざわざつらく危険な世界にやってきた人だからこそ、子供たちが見せてくれた表情があるにちがいない。

 子供というものは、どこにいてもどんな状況にあっても、希望をもつことができるという能力があると大石さんは語り、イーデス・ハンソンさんは想像力というものがとても大事だと言った。
人間の持つべき、もっとも大切な能力は、いますでにあるものの中に価値をみつけることではないか。荒んだと思われる状況のなかに、他者の中に、滅びようとしているものの中に、ありふれたものの中に、かすかであれ美しい輝きを放つものを見つけて、想像力でそれに磨きをかけて育てる能力だ。「満州走馬灯」でもそのことを実感したけれど、こどもたちはどんなにつらい環境の中にあってもわずかな希望の光を感知し、それがどんな可能性を秘めているかを想像する能力を与えられているにちがいない。だからこどもたちは、そしてあらゆる生き物は、みずからを環境に適応させることができ、それをさらに乗りこえるしたたかさを自然に発揮することができるのだろう。
 われわれおとなたちは、そういう子供たちをみて、まだ世界は捨てたものじゃないと勇気づけられる。自分自身の子供であろうとなかろうと変わりなく、おとなが子供を守ったり育てると同時に、おとなが子供たちに勇気づけられ育てられるのだ。
 こどもたちが大切な存在であるのは、生産力や労働力のためではなく、生きる力をもっているからなのだ。ただ統計の数量を増やそうと姑息な操作をして子供の数をふやし、教育の管理を強めることで、どんな子供が育つというのだろう。そこから生きる力をもつこどもたちが育つはずはないだろうに。

投稿者 玉井一匡 : 03:30 AM | コメント (0)

October 22, 2006

ゴムのカボチャ

 先月行ったビエンチャンの最終日に「カイソン記念館」に行った。ラオスの独立は1975年、ベトナムのサイゴン陥落の数ヶ月あとのことだ。ベトナム戦争のときにホーチミンルートとよばれた補給路は、ラオスを経由してハノイと南ベトナムを結んでいたから、ベトナム以上の爆弾を落とされたという。いまでも国土の80%に不発弾があるので、土木工事をするときにはまず不発弾をさがしてから取りかからなければならないのだと、土木エンジニアのアポロ君が教えてくれた。ベトナムと同じように、フランス→日本→アメリカと、ひとつ撃退すればまたひとつ、次から次へとやってくる招かざる客をあいてに戦い続けたラオスの独立戦のリーダーで、独立後に大統領になったのがカイソンだ。この国はおだやかで、あまり国家権力が強くなさそうなところがいいなと思っていたが、巨大な銅像が建っていて、やはり社会主義の国だったのを思い出させる。けれどそれでもどこか金正日の像とくらべればユーモラスに感じるところがあるように思う。「面白いものがあるぞ」と若井が言うのでついていくと、前庭の端に、なにやら黒くて大きなカボチャのようなものがある。

フタを上にあけてみると、カボチャはゴミ箱なのだった。さらによくみれば古タイヤで作られている。本体は、タイヤを切ったものを裏返しにして後ろでつないであるようだ。四本の脚、フタ、取手、台座、どれもがすべて古タイヤで作られている。だれが考えついたものなのだろう。それまでは気づかなかったが、町をクルマや三輪車で移動していると、ところどころに、これと同じものが置いてあった。ビエンチャン市またはラオスの標準デザインのようだ。カボチャはカンボジアから日本にきたものだったとか、シンデレラの馬車になったのがカボチャだったのはカボチャと乗り物のあいだになにか関係があるんだろうか。
そういえば、木のスポークのついた荷車の車輪をふたつに切って背当てにしたベンチを見たことがあった。沖縄でも、米軍の飛行機の翼の先端についていた燃料タンクを縦に二つ割りにしてボートに改造してあるのを博物館で見たことがある。のりものというのは子供が好きなのは想像力を刺激するところがあるからなのかもしれない。
新しい町はたいくつだし、近代的な大きなホテルはちっとも面白くない。どこに行っても変わりばえがしない。それにひきかえ小さなホテルや古いものの再利用は、それを見るぼくたちの想像力も豊かにしてくれる。

投稿者 玉井一匡 : 05:19 PM | コメント (2)

October 15, 2006

メコンの小さな橋


メコンは、その多くの部分で国境をなす。ヴィエンチャンでは向こう岸はタイという河の岸から、その中州までわたる橋がある。ぼくは、それをもう一度見たいと思っていた。決して短い橋ではないのに幅がせまくて、歩行者か自転車、せいぜいバイクやリアカーが渡れるくらいの、すこぶるチャーミングな橋なのだ。これほど魅力的で、いまもちゃんと使われているのは、それほどないだろう。
以前に、「夕日のレストランと橋」というタイトルでエントリーしたことがある。もういちど夕日を見たいと思っていたのに昼間に行くことになったけれど、おかげで日暮どきには見えなかった橋の様子がよくわかる。レストランはブッフェ形式だからぼくは途中で席を立って店を抜け出し橋を歩いた。この橋とレストランをじっくりと見て、ぼくはあらためて好きになった。橋からレストランを見ると、木造をそのままコンクリートにしたような華奢な柱に支えられたデッキの上に、白いテントが浮いている。あんなところで飯を食っていたのかとあらためて気づいた。

 ユーモラスな形をした橋脚はコンクリートなのにとても細いトラスでつくられている。4本の柱を立てた前後に、河の流れに耐えるよう1本ずつの柱を加え、それらを結んでつくられたトラスは、柔らかい地盤のうえをカンジキをはいて歩くようにしている。地盤は、乾季には土が見えるが雨期には水没するおそらくやわらかいところだから、すそ広がりにして底面積を大きくしてあるのだろう。その上に載る橋そのものは、幅がおよそ2mで、アングルをつかって高さ1mほどのトラスを架け渡してそれを手すりにしている。床は3cm×20cmほどの厚さでふぞろいな長さの板を釘止めしている。釘がゆるんでいるからなのだろう、バイクや自転車が走るとビブラフォンさながらにカタ・カタ・カタと音をたてるのだ。
橋の下では、耕耘機をつかって畑を耕していた。雨期になると河が運んでくれる栄養豊富な土で覆われているのだろう。橋のたもとには軍鶏を放し飼いにしている。いまにして思えば、これはいい農業だと思うが、むかしは日本だって石油や金を費やすのではなく、大部分がこんな風に頭をつかって自然を利用して働いていたはずだ。
この近くの中洲にある、ヴィエンチャンにしては高層の大きなホテルは中国資本でつくられたそうだが、あたりの景観にまったく合わせようという気がない。意識をしたわけではないのにぼくは一枚も写真を撮ったことがなかった。この橋とそのたもとのレストラン、そして中国資本のホテルを見ていると、現在のラオスの状況が思い浮かぶ。しなやかに、環境にあわせておだやかに生きる人々と国を、力まかせに大きさと経済の力を見せつける大国が、それを変えてしまおうとしている。

*  追記   *  *  *

・左の写真:前後のトラスが重なって分かりにくいが、橋脚の上でトラスが分かれている。上弦材の高さの中央より少し高いところをアングルで水平につないでいる。手すりが低くなっているのだ。
・左中央寄りの写真:床の板が釘止めしてある。右のトラスの外を走るパイプは給水管だろう。橋脚の上には、電柱が立ち電線を支え街灯がついている。電気、水道、人、物資、みんなこのすてきな橋の上をわたるのだ。
・右中央よりの写真:トラスの下弦材の上にチャンネルを直交方向に向けて乗せ、少し飛び出させている。その先端の上端を一部切り落とし、そこにアングルの斜め材を取り付けて、トラスが倒れるのを防ぐ。さらに、このチャンネルの上に木製の根太を乗せて、床の板を釘止めしている。
・右端の写真:注脚の真上から、手すりの外で下を見た。コンクリートの角がきれいに直線になってそろっているのを見ると、これはプレキャスト・コンクリートだろうと思われる。
*AKiさんから、レストランも軽そうだがなんで作られてるんだろうという疑問があり、写真をすこし大きく見られるようにした。ぼくにはRCに見えるのだが。
橋脚の、上流側つまりはじめの写真でいえば右側は、水とぶつかる、船でいえば舳先にあたるところだが、ここだけはトラスのもっとも低いところの三角は穴が開いてなくて、コンクリートの面が作られている。水をスムーズに流そうとしたのだろう。
ビエンチャンの水道局に勤務するアポロ君という土木技術者と仲良しになったので、橋とレストランの構造と工法について、近いうちに質問をしてみようと思う。彼は、佐賀大学の大学院で5年間学んで、いまは公務員だが、先日は通訳をしてくれた。五十嵐さんの注目された給水塔についても彼なら面白い話をしてくれるかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 12:36 AM | コメント (21)

August 24, 2006

ハノイ・タクシードライバー

 ラオスへの行きがけにトランジットで寄ったハノイ空港は夕方で閑散としていたから、鉄板のベンチがなかなかかっこよくて気に入ったので、それを根拠地にしてあちらこちらの写真を撮ったりして2時間ほどのヒマをつぶした。
 4日後の帰りがけのハノイでは一泊するので空港を出ると、客を求めて数人のタクシー運転手が出口に待ち構えている。タクシー乗り場まで行ってからにしようとぼくたちは決めていたので乗り場に行くと、整理係のような男が「オーイ」と運転手を呼んだ。やって来たのは、なんのことはない、さきほどやり過ごしたうちの一人だ。がっちりした体格に髪を短く刈った体育会系の風貌である。
荷物をトランクに入れて座席に腰を下ろし行き先のホテルの名をつげるやいなや動き出す。
「ピピ、ピピ、ピピ」  車寄せで前に並ぶタクシーを一台追いやった。たて続けのクラクションだ。
しばらくの間は自動車専用道路を、片側2車線の左側、分離帯よりの車線をひた走った。前方にクルマをみつけると「ピピ、ピピ、ピピ」 猛然と追撃して襲いかかる。可能な限り車間距離をつめると「ピピ、ピピ、ピピ」 とクラクションを鳴らすから、草食動物のようなおとなしい車であればすぐに右に寄せて進路をゆずる。

 前方に空間があくと、またしても前の車まで猛然と車間をつめる。もちろん「ピピ、ピピ、ピピ」である。
もちろん、そんな脅しに屈しないやつがいる。つぎの手は、「カチ、カチ、カチ、・・・・・」 左向きにウィンカーを点滅させつつさらに車間を詰め、「ピピ、ピピ、ピピ」。それでもがんばるやつには、次の段階のメッセージ。
ヘッドライトを上下させる。
ここまでやっても、中にはしばらくがんばるやつもいる。
前のクルマの左側に、無理矢理入り込もうとするけれど、隙間が足りない。
「こんなやつには、ぼくだったら意地でも絶対に道をあけないですよ」・・・・と、堂々と日本語でしゃべれるのが便利だ。
すると、さらに車間距離を詰めヘッドライトを上げ、ウィンカーを出したまま「ピピ、ピピ、ピピ」 「ピピ、ピピ、ピピ」
とうとう根負けして、獲物は右によけた。前のクルマが右によけることができるなら、右車線が空いているわけだ。自分が右車線に進路を変えて追い越せば何のことはないのに、とにかく前のクルマをどけようとする。
「なんてやつだ。もしも一人だけだったらちょっとこわいですね。でも、ぼくが運転してる時に、こんなやつが来たら後ろにまわってやってヘッドランプを上げて付いて行きますよ」
「うむ」と、黒岩さんはおだやかなものだ。
そんなふうにして2,30分走り続けた。
やがて橋をわたったので、地図を思い浮かべながら、おおかたの方向は合っているようだとささやかな安堵にひたる。と、思ううちに道は急カーフを繰り返して、どっちに向かっているのか分からなくなった。不安をかかえながら走るうちに、川を左手に見て走るようになった。これでいい。
やがて、なんと、タクシードラーバーが口をきいた。英語だ。

 「バイクがやたらに沢山いるから、いつも ピピ、ピピってやらなきゃならないんだ」 
「バイクだけじゃないじゃないか。クルマでも何でもみんなピピ、ピピ、ピピだろ」と、すこし安心したぼくは、冗談のようにして本音を言う。モヒカン刈りでもないし銃を持っているわけでもなさそうだ。
「イエス!」と得意そうに言う。
ピピ、ピピ、ピピ    またしばらく、同じように爆走する。
「オールドタウンだよ」
「オールドタウンか」とオーム返しに返事をする。
ピピピ、ピピピ    ピピピ、ピピピ
「メトロポールだね」 「建築のハノイ」にもFigaro Japonにもでていた、このまちの最上級のホテルの前まで来たのでほっとして、ぼくの方から話しかけた。
「もうすぐだよ」

目指すホテルに着くと、トランクから出した荷物を、彼はベルボーイに渡した。
そして、こちらに近づいて来ると、なんと右手を差し出す。
握手を求めているのだ。固い握手。
「荒っぽいけど、いいやつだったのかな」
走ったのは40分ほどの間だが、前にいるクルマはことごとく隣りの車線に追い払った。
つねにクラクションを鳴らし続け、ウィンカーを点滅させ、ヘッドライトを上げていた。
にもかかわらず、終わってみれば、すこぶる面白かった。もしかすると、これは外国人のためのサービスのつもりだったのかもしれない。翌日、まちを歩いていても、たしかにバイクの洪水とクラクションがあたりを満たしていた。しかし、ひとりでこんなにクラクションを鳴らし続ける攻撃的なやつは一人もいなかった。じつは、ぼくたちは運が良かったのかもしれない。・・・・・・・おっと、写真を忘れていた。慌ててシャッターを切った。(車体の横に書かれていた数字は、握手に免じてPhotoshopをつかって消しました)

投稿者 玉井一匡 : 08:30 PM | コメント (4)

August 21, 2006

ハノイと「建築のハノイ」


「建築のハノイ」写真 増田彰久 文 太田省一/白楊社/2800円
 日本からラオスには直行便がないので、バンコクかハノイを経由してゆく。今回ははじめてハノイ経由でラオスに行くので、同行のEFAジャパンの黒岩さんがメールで「建築のハノイ」という本を教えてくださった。彼は司書なのだ。間際になってamazonで調べて注文、出発の前日に届いたのをパラパラとのぞいただけでハノイの建築の写真たちはぼくのベトナムに対する見方をすっかり変えてしまった。
ベトナム戦争のころ、マスコミはハノイのことを「アジアのパリ」などと安っぽい表現で書いていたから、日本中のいたることろにある「なんとか銀座」という商店街の延長線上に、ぼくの想像力は導かれていたのだが、この本の写真はフランスのアジア統治にとってベトナムが特別なものであることをつたえる。とはいえ表紙にはあいかわらず「ベトナムに誕生したパリ」などと書いてあるし、腰巻きにも「東洋のパリ」とある。

 ベトナム戦争のころ、おおかたのマスコミはベトナム贔屓だったけれど、じつは彼らもアメリカの側から北ベトナムを見ていたのだろう。パリのようだなんていう表現をほめ言葉としてつかおうとするのはベトナム文化を過小評価していたわけで、解放戦線の力を見くびったアメリカと似たようなものだ。
 あるアジア通の友人は、「ベトナムはラオスの3000倍くらい・・・」といってその後の言葉をためらって呑み込んだように感じられたが、ぼくはあえてその先を訊ねなかった。自分でそれを感じたいと思ったからだが、ハノイに行ってみると、ことごとにその言葉が思い出された。何がどう3000倍くらいなのかを言葉で言うことは、たしかにむずかしいが、たとえばハノイの建築と都市に対するフランスの力の入れようをラオスのそれとくらべるとかけ離れている。ここをフランスがいかに特別な場所と考えていたのかが、残された建物の出来と規模や数、広い歩道、大部分の道路にある大きな街路樹にあらわれている。歩道の縁石と側溝の蓋にすら、なめらかな石が使われてたところがあるほどだ。とはいえ、フランスが植民地として重視したことと、そこの人びとの能力や価値とは別のはなしだ。
 かつて植民地だった都市は、そこが解放されたのち、統治し支配するために作られた建築、都市と統治システムが時間と本来の住民によって融解され変化熟成する。宗主国は、支配するしかけとして自分たちの文化をそのまま持ち込むけれど、植民地はそれを自在にすり替えて、いずれその土地に適応させてしまうのだ。
ところで、宗主国といういい方に対して支配される国のことはなんていうんだろうかと思ったが、そもそも自治権のないところは「国」ではなく植民「地」にすぎない。ベトナムが19世紀末から1970年代まで戦い続けたのは、「地」から「国」になるという志がささえていたのだ。
 ハノイは、残された建築やまちの変質熟成のしかたが格別で、「東洋のパリ」などという枠にはおさまりきらないなにものかをつくり出している。かといって、フランスの持ち込んだものを消し去ろうとはしていない。ぼくたちは革命博物館を地図にみつけて入ったが、フランスの過酷な支配を示すギロチンの実物や手枷足枷をされたベトナム人の写真、処刑された人たちの辞世の漢詩などが生々しい。にもかかわらず、フランス支配のしるしである建築からフランスらしさを消し去ろうとはしないしたたかさ、あるいは加減のほどよさが、このまちにはあるのだ。

 本屋の集まる一劃があった。小さな本屋が数軒ならび満員の盛況で、その近くにも4階建てで紀伊国屋ほどの大きな本屋がある。日本の本屋でもっともにぎわいを見せる雑誌や文庫は、ここには置いていないのに、たくさんの客がひしめいている。それを見て黒岩さんは、20万点くらいの本が流通している感じかなと言った。年に60点というラオスの出版の状況と比較すると、200.000÷60=3,300。ベトナムはおよそラオスの3000倍の・・・・という表現説が数値として実証される。

ハノイを考えながら、一方ではラオスのことを思う。フランスの残した遺産もこれほど多くない、残されたフランス時代の建築は小さく少ない、そして開発の「進んでいない」ラオスは、どうすればいいのか。ラオスは、「ない」ということをむしろアドバンテージに転換する道をとるのが最善の方法だろうと結局は思う。たとえば本が年に60点しか出版されないという状況は、デジタル化への転換に利用することができる。過去にさかのぼって出版された書物の全点をPDFデータ化することもさしたる手間ではないし、これからはすべてデジタルデータの提出を求める。出版が少ないという現状を逆手にとって全点デジタルデータ化で、自由に閲覧できるようになれば世界のトップランナーになるだろう。
開発が進んでいないということは、破壊されていない自然が豊かであることだ。住宅のとなりにいきなり超高層が立ち上がって生活を台無しにしているところもない。ルアンパバンの路地はとても心地よく美しかった。路地は、そこに住むひとりひとりの住民がつくり育てる場所だから住民のありようが反映される。人間同士、人間と自然の共存する方法を心得ている。おだやかな人と自然という資源、資産がラオスにはある。

投稿者 玉井一匡 : 06:59 PM | コメント (9)

May 13, 2006

夕日のレストランと橋


10日の朝に東京を発って、バンコクで長いトランジットのあと、夜遅くヴィエンチャンについた。ホテルではインターネットがつながらず、明日はもう帰るという日の午後になってようやく時間ができて、ネットカフェに来た。
自治労が寄付する小規模な図書館の基本設計をすることになって、あれやこれや紆余曲折のすえに、だいぶ変更を余儀なくされてなんとか工事が始まったが、工事にかかったと思ったら、もっと建物の位置を下げろという注文が役所から入った。おかげで、残したかった大きな合歓の木は伐られ、正面のポルティコがなくなった。
気を取り直してやってきたが、日本の常識とはずいぶんかけ離れたところがある。平屋とはいえ14mスパンの鉄骨の梁を20×40cmのか細い柱が支える。それでも、現場を見た役所のお偉方が、柱が太いと驚いていたという。地震がないし人間の考え方もちがうのだから、あながちここのやり方がわるいともいえない。

 そんなぐあいだが、昨夜夕食に行った店はとてもすてきなところだった。
あちらこちらに店を増やしているところらしいが、ここはメコンの河畔に大きなデッキを張り出している。すぐ近くに橋があって中州をつないでいるが、それは2メートルほどの幅なので車は通れないが、歩いてゆくには長いからだろう、自転車とバイクだけがときどき渡っていく。床の板が固定されていないのか、バイクと一緒にカタカタカタと音も走ってゆく。素敵に美しい夕空はわずかな時間しか続かなかったけれど、いつまでも記憶に残るだろう。
 料理はラオス料理なのだが、料金がとてつもなく安い。ラオスの基準でもひどく安い。30種類ほどのラオス料理、デザートの並ぶビュッフェスタイルで、サーモン、さば、マグロなどの刺身や焼き鳥、そば類は注文でつくる。写真の両側に、さらにデザート、カレー、そば、蒸し物がならび、奥のデッキに出た右手には焼きトンの屋台がある。ビールさえ飲み放題で、ジョッキが空になると若いお嬢さんが注ぎにくるので、さながら椀子そばだ。それで、なんと一人5ドル。まちで昼飯に食べるふつうのソバが1ドルなのだから、このまちの常識から見ても破格の値段なのだ。SAEといって、空港にも店がある。日本人の女のひとのようななまえだが、といって日本人の経営ではないそうだ。

追記
やっと、帰って来たので、写真を追加しました。2日ほど前にクーラーをつけっ放したまま寝込んだら、以来、腰痛に襲われて、椅子からへっぴり腰で立ち上がらねばならない状態になってしまいました。自転車通勤を始めて以来10年近くなかったことです。
 そういえば、ぼくはどうしてこの橋を渡ろうとしなかったのかと、今ごろになって思いました。ばかなはなしですが。
追加した写真は、レストランのデッキから見た橋、並べられたたくさんの料理、道路から店へのアプローチです。

投稿者 玉井一匡 : 06:53 PM | コメント (14) | トラックバック

October 16, 2005

夕日と北朝鮮レストラン

 明日はバンコク経由で帰国だが、午前中に「ラオス子供の家」に行ったあとで、どこか行きたいところがあるかと尋ねられ、きのう話題に出た、メコンに沈む夕日を見たいとお願いした。星の王子さまは夕日が好きで、小さな星にいたときには椅子の位置を移動させながら何度も夕日を見たのだったが、ぼくも夕日がすきだ。水辺では水面に反射する光と空の色が刻々と変化する。新潟では海に日が沈むので夕日に向かって泳いでゆくと太陽にとけた海に浮かぶ気分になるけれど、ヴィエンチャンではメコンがまちの西側を流れるから大河に日が沈んでゆく。波がないだけ、水面に反射する太陽が長く見える。遠くから見ると流れていないように見える水も、そばに行くと渦を巻きながら早く動いている。大きな水の固まりが、音も立てずに移動している。いつの日か、メコンをカヌーで下りたいと思っていたが、そう簡単なことじゃなさそうだ。かつてタイを目指して川に飛び込んで、命をなくした人たちがたくさんいたというのだ。
今の季節には太陽は水面でなく対岸のかなたにしずんでゆくが、この日は低い空に雲があったのであと一息というところで雲に隠れた。じゃあ腹ごしらえに、近頃できたばかりの北朝鮮レストランに冷麺でも食べに行ってみないかと提案があった。

北朝鮮が外国に窓を開き外貨もかせぐために、まずはカンボジアとラオスに北朝鮮レストランというのを作ったというのだ。一も二もない、もちろんすぐに賛成した。店に着いたが、道路にむかって20mほどの間口が全面ガラス張りの店に、まだひとりも客がいない。ラオスと北朝鮮の旗が並べて描いてある看板には、ラオス・北朝鮮青年友好の家と書いてあるそうだが、英語ではKOREAN RESTAURANTとある。清潔感に満ちた店内の窓際に鉢植えのヤシが並び、タイトスカートにピンクのブラウスという制服の若いお嬢さんたちがやや硬い表情で奥の壁際に立っている。と思ったが、もしかすると堅いのはぼくたちのほうだったかもしれない。全面ガラスのファサードといい、なるほど「北朝鮮の窓」という風情だ。日が沈んですぐに移動、5分ほどで着くので、まだ6時にもならないからでもあるが、100席を越える店内に客は一組も一人もいない。なんだろうこれはと、わずかに緊張するのがうれしい。大きな写真入りのメニューには、冷麺が6ドル。普通の店なら麺が1ドル前後、空港の3階にできた食べ放題のレストランはビール飲み放題で5ドル弱なのだから、すこぶる高い価格設定をしている。だれを客に想定しているのだろう。

 ひと月前から始めたという韓国朝鮮語で、大胆にもメニューを見ながら吉川さんが注文する。学生時代から難民キャンプに行っていた人の行動力というものであろう、臆することがない。6人ほどいる若いお嬢さんたちは、雑談などはせずにきちんと立っている。容姿端麗にして賢こそうだ。「コーヒーのほうです」なんて馬鹿なことを言いそうにない。ビアラオの瓶を持ってきてくれたので、グラスを持とうとすると、テーブルに置いてというしぐさ。グラスのへりに瓶の先をすこし引っ掛けてグラスをかたむけ、ビールを注いだ。

 店の奥には、壁のむこうに折り返しの階段が4つもある。「2階は何をするんだろう?」なんていうことを話題に食べていたが、料理はうまい。国家の威信にかけて腕のいい料理人を連れてきたにちがいない。一同は、4つの階段の疑問が気になって仕方ない。しかし、これはあきらかに4軒のテナントのために作られた2階建てのビルなのだ。その戸境の壁を取り払ってひとつにしたから、ひとスパンごとに奥に階段がある。ぼくがそう説明しても、疑惑は払拭されないらしい。
そのうち、韓国人とおぼしき6人ほどの一行が来ると店の一部では言葉の障壁が取り払われたので、空気がにわかに和らいだ。この一行はフルコースを予約していたらしい。朝鮮人参酒や各種の料理が、すぐに運ばれた。

 一方の端にドラムセットとヤマハのキーボードと大型のディスプレーが並んでいる。あれで何をやるんだろうというのが、第二の疑問だった。八木沢さんは、踊りや歌は何時からやるのかと、英語でたずねると、あなたが歌いたいのかと聞かれているようだ。そうじゃないんだとあわてて手を振ったりしながらなんとか聞き出したところ、どうも8時かららしいという。 8時少し前になると、初めて男が登場してアンプをいじりだした。やがて、カラオケが鳴りはじめ、ウェイトレスだったお嬢さんたちのひとりがマイクを片手にして登場した。八代亜紀のような伸びのある美しい声。そうやって、次々にすべてのお嬢さんたちが歌い続けたが、いずれも甲乙つけがたい。韓国チームは、マイクを持っていっしょに歌う。やはり彼女たちはただ者ではなかった。美声美貌、しかし国営放送のアナウンサーのように怖いわけじゃないが毅然たる態度。一本気なサッカーチームの代表選手たちや「半島を出よ」の美しいエリート将校たちを思いだした。ベサメムーチョをうたうときは、思いなしかうれしそうで、若い娘らしさが見えた。ほかにはアリランしかぼくの知っている歌はないのに、知らない歌でも飽きさせることのないだけの力を持っていた。

 外に出ると、韓国人とおぼしき一行の車があった。同じ数字が四つ並ぶ大型のベンツと黒塗りのプレジデントだろうか、これもすこぶる切りのいいナンバーで、運転手が二人で立ち話をしていた。客もただものではないらしい。なにはともあれ、こうやって直接に接することで北朝鮮にたいする印象はおおいに変化した。図書館には小さいホールもつくるので、そこにこの人たちを呼んで演奏してもらったらどうですかと、川村さんをそそのかした。国家同士はともあれ、生身の人間がじかに接触するのは、とにかくいいことにちがいない。

投稿者 玉井一匡 : 02:49 AM | コメント (0) | トラックバック

October 15, 2005

道路からワープ

Click to PopuP

 夕食を食べてホテルに戻り、散歩をする前にちょっとblogをみようなんて思い、kai-wai散策を開いて「白山のプチガウディ」を見た。それに刺激をうけて採集の意欲に燃えたのだろう、外に出るとまずはホテルの夜景を撮っておこうと思ったぼくは、距離をとるべく道路の向かい側に行ってデジカメの液晶画面をのぞいた。
・・・・と、突然ワープして、右の向こうずねをしたたかに打った。気がつけば道路面はぼくの腿の中間くらいの高さにある。側溝の蓋が取れているところを踏み外したのだ。出発地点から近かったのを不幸中の幸いと考えよう。

 水はないかとホテルの若者にいって泥だらけの靴とズボンを見せると洗車用の水道の蛇口に連れて行ってくれて、ビニールホースでざっと泥を落とした。幸い、黒っぽい泥だけで有機物のゴミはなかったらしく、すこしも臭くない。バスルームでズボンと靴下と靴をシャワーで洗ってパイプに引っ掛けた。やれやれ、散歩は取りやめにして部屋に戻り今夜は足の痛みを友にiBookを開こうと決めた。
 気がつけば、いつの間にか明かりを点けたままでベッドの上に眠っていた。シーツの上に点々と血痕がついてしまった。ごめんなさい。バンコクのホテルでは、部屋でインターネットにつなげられるアダプターが450バーツ/日だが、ここにはそれがない。ロビーのウィンドウズマシンは壊れている。部屋の電話からつなげればいいと、ホテルは言う。NGAのSVAヴィエンチャン事務所の空いているアクセスポイントがあるからそれを使っていいと言っていただいたので、ホテルから外線につなぐ「9」をあたまにつけてアクセスポイントの電話番号をいれれば、電話回線だが客室からつなげられた。プロバイダーの、海外のアクセスポイントを調べておけばよかったのか、とも思って調べると、海外ローミングサービスは40円/分くらいする。だとすれば、市内の電話代だけですむこのやりかたが得らしいと安心した。
 翌15日朝になって現場検証をしたら、写真のように、コンクリートのふたのある部分さえ草に覆われて見えず、穴の部分に草が伸びて隠している。これでは照明があったとしてもとても分からない。完璧な落とし穴だと、妙に納得した。

投稿者 玉井一匡 : 07:36 AM | コメント (7) | トラックバック

DAY INN HOTELの人なつこい犬

 
 デイイン ホテルのロビーと続く食堂に人なつっこい犬がいる。ときにドアの外にも出てゆく。日本で大流行りの長毛のミニチュアダックスのようでもあるが、それにしては足が長いから雑種なのだろう。客が階段を下りてくると、ゆっくりとそばにやってくる。愛想を振りまくわけでもなくえさをねだりもしない。すこぶる自然に客のかたわらにやってくるので頭をなでてやると、冬の日ざしのような穏やかなよろこびをあらわす。ほかの客にもひとしく挨拶に行くが必要以上になれなれしくしない。

 朝食は、ブッフェ形式ではない。パンとサラダ、もしくはおかゆの4種類の中から選ぶのだが、ぼくはチキンのおかゆをたのんだ。メニューの写真には、参鶏湯のように一羽分の鳥が胸を張っているが、まさか朝から鳥一羽じゃないだろうなと心配していたら、塩味のスープのおかゆにトリの胸肉の細切りが浮かび、水面下に卵の黄身が潜んでいた。迷った末に、ぼくは卵を崩さずにそのままにしておいたから、最後に半熟になった。
 大きなマグカップのコーヒーを飲みながら、ぼくは本を読みつつときどき彼を観察していた。大理石張りの床に長くなって寝ている様子は、南国でのタイルや石の床の心地よさを背中で語っている。客室の床はやはり人研ぎのタイルがはってある。ぼくは裸足がすきだから、ひんやりした床がことさらに気持ちいい。
 やがて、ひとり若い女の客の朝食がくると、彼女はパンをちぎってやった。もらえばよろこんで食べるが催促もせずガツガツ食べることもない。よその犬ながら珍しく思想のある犬に会って、ひとに伝えたくなったことがなんだかうれしい。ぼくは犬党だから、猫のことをエントリーする人を、これまでうらやましくながめていたのだ。

投稿者 玉井一匡 : 01:02 AM | コメント (6) | トラックバック

October 14, 2005

ラオスのソバ


 6:00にバンコクの空港に行って8:30に出発、10:30ころには宿についた。実施設計をするラオスの事務所との打ち合わせの前に昼飯。
「なにがあがりたいですか?」「なんでも好きだから、何でもどこでも」「ホテルが手っとり早いですが、現地の人たちのいく店とどちらがいいですか?」もちろん「現地の人たちの店です」
 ここの一番大きな、そしてたぶん最も高級なホテルに車だけ置いて道路をわたる。前回はこのホテルをとってくださったのだが、今回はこの近くのDAY INNというホテルにしていただいた。小さいけれど清潔で従業員もきもちいい。
このまえのそばはフーというのですが、ここのはちょっと麺が違うんです。モチモチしているんですよ」今では日本でもすっかり有名なベトナムフォーの発音は、ここではむしろ「フー」に近いという。どんぶりの上にはネギ、ウズラの卵、鶏肉、パクチ(コリアンダー)、油で揚げたニンニク、唐辛子が浮いて、麺はスープに潜んでみえない。ナンプラーをひとさじかけて、アルミ打ち出しのレンゲを左手に箸を右手に食べる。川村さんの奥さんに聞けば鶏ガラでとったスープなのだという。さっぱりしていてうまい。日本の「こだわり」のラーメンの、蘊蓄とよけいな手をかけすぎたスープに比べると、簡潔にしてさわやか。やや太めのそばは餅米でつくったんだろうか、たしかにモチモチである。量は少なめだし味は旨いから、スープまですっかり飲み干した。


打ち合わせで遅くなった。「もう遅いんで、夕食はホテルにしましょうか」といわれてそれもいいかと賛成する。大きいホテルに、こんどは車を停めるだけじゃない。ブッフェスタイルだが、ラオス料理からスモークサーンなどの西洋料理、寿司まであってデザートはケーキも果物もある。
何でも好きなぼくは、ブッフェでは少しずつ、大部分のものを食べてしまう。
ソバもあったから注文した。ガラスのケースの中に、4種類の麺とトッピングが6種類ほどある中から選んで注文生産である。麺は、いわゆるラーメンのような、小麦のやつにする。フーやモチモチは米で作った麵なのだ。トッピングには魚のボールを頼んだ。もやしとサヤインゲンは標準装備らしい。たのんだわけではないが、さっと湯に通してのせてくれる。さらに、自分で刻みネギと揚げた刻みニンニクとナンプラーをかけた。やはり、鳥のダシとおぼしきスープは飲み干してしまった。
ラオスの料理は、どれも野菜が豊富で油が少ない。タイほど辛くない。

投稿者 玉井一匡 : 06:59 AM | コメント (1) | トラックバック

November 04, 2004

ルアンパバン(Luang Prhabang):世界遺産のまち

LuangLibS.jpgClick to PopuP
朝:ルアンパバンの図書館と子供のいえを見る。佐賀の自治労が集めた資金で、古くからあった建物を図書館にしたものだ。小さいけれどきれいな施設をていねいに使っている。世界遺産のまちなので建物の改修にはさまざまな制約があって、窓を付け加えるのにも苦労をしたというけれど、そのおかげで古い建物がこわされず、きれいな図書館に変わったのだ。向かいの中学校から、休み時間に生徒たちがやって来て本を読んでいる。館長さんにたずねると、休み時間は20分だという。
 現在と前の館長さんに話をきいても人柄がよさそうだったから、石上からのメールを思い出した「もう10年もまえのことだが、フランス人の友人が、『ベトナム人より人柄がいいんだ』といっていました」と書いてあった。
ヴィエンチャンの「こどものいえ」では、こどもたちに会うことができなかったから、ここの子たちの学校のようすをのぞいてみたくなった。館長さんに許可をえて道路を渡り教室を見ていると、フランス人なのだろう、フランス語で地理とおぼしき科目の授業だった。

LuangprhabangPalaceS.jpgClick to PopuP まもなく、王宮は11時まででしまるというので、博物館、かつての王宮にむかった。昨夜は、あんなに道の両側を店が埋めていたのに朝には何もない。やはり、夜にはきれいに店をたたんで、また夕方になるときれいに店と商品を広げるのだ。
小国だったからでもあるんだろうが、王宮にしては建物が小さい。そのぶん庭園が広くて、周囲の自然と連続している。門の正面の高台には金色の仏塔があって、まちのどこからでも屋根のあいだにうつくしく輝いている。そこまで昇れば、このちいさなまちは空港さえ一望にすることができる。王宮を俯瞰すると、背後に流れるメコン、建物の落ち着いた色、おだやかなすまいは、権力を見せつけるところがすくない。中国が贈ったというビエンチャンの国立ホールの威圧感とは対極にあって、うつくしくここちよい。
メコンは、中国の雲南からの水路として中国が大いに期待しているのだが、途中に船が走りにくいところがあるとドンドン邪魔なものを爆破しているので、水の流れや生物相が変わっているそうだ。
大国というやつは、アメリカといい中国といい、ロシアといい、みんな無神経なものなのだろう。国家というシステムのいちばん上に乗っているのが皇帝から大統領や主席やもしかすると労働者に替わっても、大国としての他国に対する振舞いは一貫している。日本は、間違って大国のつもりにならないでもらいたいものだ。

tamtam 午後:王宮の近くのTAM TAMというカフェで昼食をとった。30センチほどのバゲットに鶏肉をはさんだサンドイッチそしてレモングラスティー、レモングラスを薄く切ったやつにお湯を注いだだけのものだが、なかなかうまい。
LPguesthouse 高い天井の古いカフェでしばらく涼んだあと、このあたりを探検に出発。メコンと支流が合流する地点なので、ふたつの川に囲まれて半島のような地形ができている。川に平行して3列ほど、道が等高線をなぞるようにして並んでいる。それらを結ぶ細い道は尾根と川べりを結ぶので坂道になる。それが、ゆるい勾配でゆるやかにまがっている。漁村の集落のような道の網ができている。
その道に、あたらしいレンガの舗装がなされ、足下を照らす素焼きの照明が置かれていた。裏道を、こんなふうに気持ちよくつくろうという視点を持つことができるのはとてもすてきなことだ。こんな道路の整備をする経済的な余裕はルアンパバンにはとてもなさそうだが、UNICEFからの補助でもあるんだろうか。そういう道のところどころに、寺院や学校、みせやカフェ、それにguest houseという民宿が編み込まれている。みんなどれも、木造の平屋か2階建てのたてものだから空が広い、足もとには背の低い植物がレンガのみちにこぼれ、見上げれば高いヤシの木が大きな実をつけている。

LBlight ここでは王室の菩提寺さえ、やはり小じんまりとして品がいい。ウロコ瓦葺きの屋根の下には天井が張ってないから、見上げると屋根の下地が見える。3カ所ほど、瓦がなくなっていて、その穴から数条の束になった光が室内を照らしている。穴の下の床を見たが、さして傷んではいない。外に出てそこを見ると、外した瓦のかわりにちゃんとガラスが差し込まれていた。
LPstoopa この建物の前に建てられている仏塔の、たおやかなかたちもプロポーションが美しい。
ヴィエンチャンをあるいている時には、バンコクとどう違うだろうかと考えていたが、この町を歩いてみると、世界遺産になったわけがぼくにも分かってきた。巨大な遺跡や豪華な埋葬品があるわけではない、しかしゆるやかに流れる南国らしい川、ヤシの木、みち、坂、民家、控えめな王宮や寺院、そしておだやかなひとびと。世界遺産になったおかげで、これからの乱開発が防げるにちがいない。またたく間に清里をばかばかしい漫画のような町に堕落させてしまったようなことは、ここでは起こらないですみそうだ。多くの人々がきてラオスを経済的にも豊かにしてほしいと思う。しかし、できるなら語尾上げ茶髪の日本人たちが群れるところにはならないでほしいものだ。

夕方7:00の飛行機に乗って、8:00ヴィエンチャンのホテルに戻った。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 PM | コメント (11) | トラックバック

November 03, 2004

ヴィエンチャンからルアンパバンへ

plane  ルアンパバンは、ビエンチャンの北隣にあって、世界遺産に指定されているうつくしいまちだときいたが、ぼくはまちの名さえ知らなかった。町なかでルアンパバン行きのバスの看板を見かけたから、あとになって、どれくらいでで行くんですかと吉川さんにきくと「7ドルくらいだったと思いますよ。1回だけバスで行ったことがあるけど、10時間くらいかかるし玉井さんが思うようなバスじゃないですよ。椅子は固いしすごく混んでるし、山の中で盗賊がでることがある。外国人が被害に会うとマスコミが伝えるけれど、地元だけだと全然伝わらないんです。」ぼくが何を考えているか分かったらしい。大丈夫、さすがにイラクの事件のあとだと、盗賊に遭うのもちょっとおもしろいなとはぼくも思えなくなっている。
今回は予定通り、ヴィエンチャンから双発の小さなプロペラ機に乗って40分ほどでルアンパバンに着いた。

ホテルについて一休みすると、外はすでに暗い。夕食をとりにレストランンい行くとテレビの前の席をとった。アメリカの大統領選挙の様子を流していた。空港にあったテレビを見たときにはブッシュの優勢を伝えていたが、まだ変わりそうにもないので、料理を前にしても一同なんとなく盛り上がらない。
 来る途中に長ーい露天の列があったのが気になっていたので、宿に戻る途中で寄ってみた。そこは、いまは博物館になっている旧王宮の建物へむかう道で、地面にじかに布を敷いて商品をならべた列が左右に、それも往復だから合計4本になる列が200mほども続いていて、平日というのに客もなかなか歩いていて活気がある。お祭りなのかと尋ねたがそういうわけではないらしい。
 山岳民族の、大部分は女のひとたちが、織物をきちんとたたんで、それもきれいに並べている。大変な手間をかけてつくり、これだけの競争相手の中から客に買ってもらい、帰りには商品をしまって、この道路をもとどおりにしてゆくのだとすれば、気の遠くなるような手間の数々を考えると、商品の豊かさ道のうつくしさを楽しんでばかりはいられない。あしたは、この道路がどうなっているのかを見に来ようと思った。

投稿者 玉井一匡 : 11:03 PM | コメント (0) | トラックバック

November 02, 2004

アジア子供のいえと図書館・ヴィエンチャン

otukai いま、ぼくはラオスの首都ヴィエンチャンのホテルのベッドで2日目の夜にiBookのキーボードを叩いている。自治労が資金を出して、ヴィエンチャンに多目的小ホールつきの図書館をつくるという計画のお手伝いのためだ。
 自治労は地方公務員の労働組合だが、自分たちの権利の獲得の組織にとどまらず、よりよいコミュニティをつくるための研究や活動をしてきた。そのなかに途上国のコミュニティ作りの支援があるが、そのひとつとして、これまで8年間にわたりラオス、カンボジア、ヴェトナムで「アジア子供のいえ」という施設つくりと運営を資金と人で支援してきた。というはなしをきいてからヴィエンチャンに来てしまうまで、さほどの時が経っていない。

たとえばヴィエンチャンの子供の家は、おそらくかつて住宅として作られた建物を借り、裏庭の一部に鉄板の波板でボールトの屋根をかけて、壁のない小さな体育館のような場所をつくった。
 家の中には小さな図書館がある。壁に鏡を張った部屋がある。民族楽器がある。ぼくがそこを見せてもらったときには、まだ学校が終わっていないから、こどもたちはいない。だが、そこに子供たちがやってきて活気にあふれたときの様子を思い浮かべることは難しいことではない。なぜなら、くりかえし読まれた本や使い込まれた楽器、床のモルタル、チークの寄せ木は、どれもがおだやかにつややかな光を反射しているから、そこで本を読み、楽器を鳴らし、丸屋根の下で踊るこどもたちの様子を思い描かせてくれるのだ。
 本棚には、ぼくの娘たちが小さかったころに読んでやった「はじめてのおつかい」などの日本の絵本が何冊もならんでいる。日本語の文章の上に、ラオ語の文字を書いた紙が貼ってある。自治労の人たちがラオ語に訳した文章を貼ったものだ。ラオ語の本は1年に5、60点ほどしか出版されないので、こういう本がこどもたちには貴重なのだ。

 先日、若井から電話が来た。「自治労がラオスで図書館を作ろうとしている。相談に乗ってほしいことがあるんだが、いま時間はあるか」という。いいよというと、すぐに自治労本部国際局局長の井ノ口さんといっしょに事務所に現れた。
 他の地方に、自治労の支援で独立した図書館を2つ作ったが、来年、ヴィエンチャンに図書館をつくる計画を進めている。ラオスでは多くの施設が設計施工でつくられるので、縁のある施工会社に頼んで基本設計と概算見積をしてもらったんだが、それをチェックしてくれないかというのだった。資料をあずかり、後日、関係者があつまった会議で、このままつくったのでは、せっかくの機会がもったいないからこちらから提案した方がいいということになった。
 そんなわけで、敷地などさまざまな環境を知ること、これまでに自治労の協力で作られた施設の様子を知ること、ラオス側の関係者に計画を説明して協力を求めることなどを目的に、ここまでぼくはやってきた。
 同行者は井ノ口さんともうひとり吉川健治さん。EFA(empowerment for all)の事務局長である。今回の図書館建設を機会に自治労の人たちによってこういう活動を支援するためにつくられたNPOである。彼は学生時代からインドシナ難民の支援のためにタイに渡り難民キャンプなどで活動した。その後、NGOであるSVA(sharanti Voluntier Association)でタイ、やラオスで活動しラオスにも6年間ほど住んでいたから、タイ語もラオ語も使える。

 子供の家を運営するのは、そのSVAである。所長の八木沢さんと川村さんの日本人スタッフが駐在して、ラオス人のスタッフとともに活動して長いから、二人ともすっかりここにとけ込んでいる。そのヴィエンチャン事務所には、やはり小さな図書室があって、こどもたちや若者がやってくる。移動図書館も走らせている。
  あちこちの施設を見たり活動する人や利用者たちや役所のひとたちの重層的で立体的な背景が、ぼくにも実感として分かって来た、ようやく。自治労を通じて日本からの資金や本などの支援をEFA-japanが担い、現地での運営をSVAがおこなうという役割についても把握できるようになった。

投稿者 玉井一匡 : 11:19 PM | コメント (4) | トラックバック