Click to Jump Kai-Wai散策
カフェ杏奴に行った。
「お砂糖入りのチャイですね」
「もちろん」
しばらくしてLOVEGARDENのカップが登場。デジカメが故障したので携帯電話を取り出す。
「時差ボケ東京をならべますか?」
「いや、チャイをこぼすといけないから、これだけ」
「時差ボケ」は、PHOTOSHOPで追加しよう。
案の定、ソーサーにはチャイがこぼれた。たっぷりとカップに注がれているからでもあり、早く飲みたいばかりにいそいでしまうからでもある。
めずらしくカフェ杏奴は満員に近い盛況で、新しいお客さんがくるたびに「少しお待たせしますが、よろしいですか?」と念を押している。牡丹で名高い薬王院で施餓鬼が行われたからだそうだ。
Chinchiko-Papaが先客で、いのうえさん、それにカークさんも現れた。もちろん、この3人は施餓鬼とはなんの関係もない。
masaさんのサイン入りの「時差ボケ東京」が話題の中心なのは言うまでもない。カークさんは「こういうのは、今までになかったよね、木村伊兵衛賞じゃないの」なんて言ってしまった。もし、本当にそうなったらすばらしい。
ぼくたちが本を脇に置くと、隣のテーブルについていたお客さんが「それ、よろしいですか」とおっしゃるので、どうぞどうぞと手渡した。いのうえさんたちが「先生」とよぶこのひとは、国家の定義によれば「後期高齢者」と呼ばれるだろうが深紅のTシャツを身につけて、1/3ほどの年齢の女のひとと一緒だ。
興味深げに本を開きながら二人の会話が進んでいるので、しばらくしてぼくは説明を加えてあげたくなってテーブルを移動した。
「メガネがないんでよく見えないけれど、止まっているのはこれだな」
と、ページを開いて指でさしておっしゃる。
「われわれは、こういう風にまちをみているんだなあ」
先生は、masaさんが聞いたら涙を流しそうな反応を返された。お年寄りも子供も、女も男も、面白いと思ってみられる写真。コーヒーを飲み忘れてしまいそうだったから、コーヒー冷えますよと余計なお節介までしてしまった。
ここはかもめ食堂みたいですねとカークさんに言われて、ぼくははじめてそう気づいた。店の外で記念撮影をしたあと、うれしそうに店に入ってきた若いご婦人の二人連れがあった。ママに話している会話が流れてくる。ふたりは姉妹で、妹さんの名前が「杏奴」なのだが、いままで同じ名前の人に会ったことが一度もないのに、インターネットで「カフェ杏奴」という名を見つけた。それがうれしくて、横浜から来たんですという。ぼくも、初めてこの店に来たときのことを思い出した。
鹿児島の出身だときいたから「カフェ杏奴のイラストを描いた小野寺さんという人の仲間の『かごしま食楽彩菜』というブログが、鹿児島の食べ物のことを書いていらっしゃるのですが、いつもとてもおいしそうなんですよ」と言ってブログ名のメモを書いてあげた。「ONE DAY」と「お江戸から芝朝緑豆」を加えたのは言うまでもない。しまった、「レイコさんの食卓から」だった。
最後に、KARAKARA-FACTORYの野澤さんと杏奴ノオトで交信した。今のノオトはmasaさんが寄付したもので、それまではいわゆる大学ノートだったが、かのモールスキンをプレゼントしたのでちょっと緊張を求められるのだろうか、だれもが丁寧に書くようになったようだ。帰りがけ、中井の駅の近くの花屋でブライダルベールひと鉢が500円というお買い得をレジにもっていったら、日曜ですからこれをサービスといって、店の主が淡い黄色のバラを5本くれた。バラの方がずっと高そうだ。といっても、あるじは見目麗しい女主人ではない。むしろむさ苦しい男子だったと言わねばならない。
■カークさん(山田馨さん)の写真展が開かれます
カークさんは、4月にカフェ杏奴で開かれたioraのライブの写真をいのうえさんに届けるため、この日、杏奴にいらしたのでした。
上にもリンクしてありますが、カークさんのブログを開くと、どんな写真を撮っていらっしゃるか見ることができます。
・期 間 :6月30日から7月5日まで(日曜休館)
・会 場 :銀座のギャラリー「ツープラス」/ここは、以前にneonさんの個展も開かれたところです。
・ウェブサイト:詳しくはこちらをお開きください
■関連エントリー
「ONE DAY」:つながるつながる・ひろがるひろがる「レイコさんの食卓」
もう一昨日の夜、またしても一斉エントリーに乗り遅れた。
通常の営業をとりやめて、カフェ杏奴でiora(アイオラ)のライブが開かれるドアを開けると、ぼくの顔見知りの一団は、すでに中二階の天井桟敷を占めていた。小学校から高校まで、学校の遠足などでバス移動するときには、いつもなぜか最後尾の席に陣取っていた。
演奏を生で聴くこともデュオの二人に会うことも初めてのことだったが、ぼくは杏奴においてあったCDを1年ほど前に買って聴いていたから音楽は知っているつもりだった。が、ききはじめるとギターの助っ人がひとり加わっただけで電気の力は何も借りていないのに、演奏はCDとは比べようもないくらい厚みと力があって心をさわがす。
どこからも見えるように聴けるようにするために選んだ結果、ステージは入り口のすぐ脇にある。ギンレイ会館地下のポルノ映画館「くらら劇場」の、スクリーンのすぐ横から客が入ってくるという非常識を思い出した。
外を走る車たちがひっきりなしに背景を横切る。ガラス越しに歩行者がのぞき込む。
こういう夾雑物が、演奏のためにつくられた場所にはないたのしさを増幅する。
ioraの音楽は、カフェ杏奴のありかたと近いところにあるのだ。
毎日のように、ここにやってきては作詞をしているそうだから、それも当たり前なのかもしれない。
「今日は、かなり年齢の上のかたもいらっしゃるので、カバー曲を歌います。」と、われわれに配慮をしめして歌ってくれた久保田早紀の「異邦人」を聴いて、彼らの音楽の方向が分かるような気がした。
市場、ざわめき、移動。
アンコールの2曲目、最後の最後に杏奴のママに一曲が贈られた。 「カフェ杏奴」
こんな歌詞ではじまる曲は、シンプルなメロディの繰り返しと、おだやかに漂うような間奏がここちよい。
歌詞に描かれる店の様子とそれぞれの記憶を重ねあわせて、共感の笑いがこぼれる。
思いがけぬ贈り物に涙ぐんでいるママの様子も伝染した。
11時を過ぎた頃に
少し早めのランチタイム
おてんとさまとご一緒に
カフェ杏奴にでかけましょう
カランコロンとドアベルが
鳴ればママさんお出迎え
好きなお席にどうぞどうぞ
地下と1階、中二階
カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴
詩:Momo/iora
Click to PopuP
ioraの女声ヴォーカル、「桃ちゃん」には、もうひとつ特筆すべき特技がある。フェルトでいろんなもののミニチュアをつくってしまう。写真は、箱に入ったピザ、直径2cmくらいのサイズにトッピングはきっとサラミだろう。ピザケースの右下にはグリーンの瓶にはいったタバスコもある。切り取った一切れは、チーズが溶けてすこしこぼれようとしているのだろう、台よりもすこし大きい。芸がこまかい。こういうミニチュアが、杏奴の店のあちらこちらにたくさんおいてある。
じつは演奏の間ずっと、ぼくは音楽と胃袋の誘惑に引き裂かれていた。いや、両方の誘惑に身を委ねていたというべきかもしれない。小野寺さんから、少し遅れそうだという電話があったときいてわれわれが浅ましくも期待したとおり、両手にたくさんの料理を抱えて彼女は演奏開始直後に到着していた。そのメニューは、小野寺さんのブログに書かれているが、手作りの塩玉子の月をいれた手づくりの月餅を初めてごちそうになった。そこに写真のない酔鶏(酔っぱらい鶏)、それに椎茸のエビ餡詰めの写真を、ちょっとピンぼけだがぼくの記憶のために加えておきたい。

新宿文化絵図-重ね地図付き新宿まち歩きガイド
新宿区地域文化部文化国際課 編集・発行 1,260円
「新宿区の中央図書館の建物は、新宿区の図書館で一番古くてきたないかもしれないけれど、資料がとても充実しているんですよ」
「そうなんですか、23区の図書館でいちばん陰気で、ボロくて、なんだか入りたくならないとおもっていましたが」
ひさしぶりに寄ったカフェ杏奴で、もっとひさしぶりにChinchiko Papaといっしょになったので、あれこれ新宿のことが話題になった。この本のことは話題になったわけではないが、その日の夕方に本屋に寄ると、入り口の近くに平積みになっていた。副題には「重ね地図付き新宿まち歩きガイド」とある。狭義の新宿ではなく新宿区についての本だ。手に取ってパラパラと中身をのぞいてみると、新宿区はなかなかやるではないか。あまり意識したことはないけれど、ぼくはこれまでの半分以上の年月を新宿区に住むか仕事をするかしてきたし、自転車通勤では毎日のように新宿区を横断するので、ここには少なからぬ愛着がある。
A4版219ページの本体に特別付録(初版限定)「江戸・明治・現代重ね地図」9冊もついてケースに入っているこの本の、腰巻きに書いてある価格を見て驚いた。1260円で、amazonに注文したら送料がかかるという値段は、どうみても普通の値段の半値以下だ。
本体は2部に分かれ、「第1部 新宿町歩き10コース」9〜162ページと「第2部 新宿 漫華鏡」163〜205ページ、巻末に「新宿ゆかりの精選120人・新宿人物事典」という人名事典と最後に索引も用意されている。
*第1部には、それぞれのコース順にまちと歴史と人について書かれた文章に写真と図版が豊富に加えられている。
じつをいえば、はじめぼくはガイドマップがあるのを気づかずに、この本は「コース」といいながら地図を入れないのは勇気あることだといたく感心した。手厚い情報にならされていると、ついついガイドマップがあれば、そのルートに従って歩いてしまう。すると、せっかくの時間と空間と人の織りなす複雑な世界を、ひと続きの線状の理解に閉じ込めてしまう。だからあえてルートマップをなくして読者の自由な想像力に任せようというつもりなのかと、勝手に想像したのだった。しかしそれはぼくの早とちりで、実はれぞれのコースの扉にルートを描き込んだイラストマップがあった。ちょっと、興奮して損をしたような気がした。とはいえ、それでも力作ではある。
*第2部の 「新宿漫華鏡」は、さまざまな切り口で九人の著者が新宿を書いている。たとえば川本三郎の「シネマの町新宿」、海野弘の「新宿戦後グラフィティ」、交通博物館学芸員の奥原哲志氏による「120年を超える新宿駅の歩み」などがある。
*別冊の「重ね地図」も力作だ。A3の厚手の紙を二つ折りにしてむろん表側は表紙だが内側の右に現代の地図がある。左側は凡例で、トレーシグペーパに印刷した江戸の地図の右端をそれにのりづけしてある。さらに、右ページの現代の地図の右端にはトレペに印刷した明治時代の地図の端を接着してある。つまり、現代の地図の左右に江戸と明治の地図があって、好きな方を折って現代に重ねれば、現代と比べながら見られるというわけだ。
新宿区のサイトによれば,この本は初版5000部がつくられ区内の一部の書店で販売されているそうだが、ぼくは飯田橋の芳進堂という書店でみつけて買った。皮肉なことに、この本屋の入っているのは江戸城の外堀を埋めるという蛮行によって東京都が作ったテナントビル「ラムラ」なのだ。
重ね地図は、初版だけの特別付録なのだそうですよ。
*追記
新宿区中央図書館の建物をけなしているようだけれど、とかく公共施設は器ばかりに金をかけて中身がないものが多いことを考えれば、これは悪口ではなくてむしろ褒め言葉なのです。新宿区は、地域図書館はきめ細かく配置されているし、新宿御苑の入り口の近くの図書館は、数年前にあたらしく建て替えられた建物で区の出張所などと一緒の建物だが、とてもきもちよくできている。
ONE DAYで最近エントリーされた「図書館に行く!そしてカフェ杏奴でひとやすみ」でも、カフェ杏奴といっしょに新宿区の中央図書館のことが書かれています。このときカフェ杏奴でもOVE DAYとkadoorie-aveさんのことが話題になっていたのでした。
![]()
いま、目白バ・ロック音楽祭という催しがひらかれているが、その一環として「まちかど建築写真展」が三春堂ギャラリーで開かれている、と書くべきなのだが、ぼくは最終日の昨日になってやっとうかがったので、「開かれていた」としか書けないのが残念だ。
開店まで時間があったので、途中でカフェ杏奴に寄ってひと休みした。こういうのをChinchiko Papaがお作りになったんですよと、ママが見せてくださった「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」は、すでにブログで知っていたが、とても楽しそうなイラストが入っているし道は正確に書かれているいい地図だった。チャイを一杯飲みながら店の地図を楽しんだ。帰りがけにこれも一部といってレジで渡したらママは怪訝そうな面持ち。三春堂ギャラリーでお求めになったほうがChinchiko Papaさんがお喜びになりますよという。そりゃそうだといって自転車に乗った。
まだ開いたばかりのギャラリーにはChinchiko Papaがひとり。
「この地図どうですか」と、まずはガイドマップをすすめられた。chinchikopapalogの内容の充実ぶりは、ブログを開いてみると多くの人があきれてものがいえないほどなのだが、そのblogに書かれている数々、現実の町、そしてこの写真たち、ガイドマップはそれらをつないで、ひとつの世界を構成する。「ぼくの学生時代からすれば、こういう建物は半分くらいになりました」というChinchiko Papaの口調には、とてもいたましい思いが込められているようだったが、バブルによる破壊の時代を経たことを思えば50%というのはむしろ奇跡的なほどよく残されていると、ぼくには感じられた。きっと、下落合や目白にはまちを愛している人たちが多いのだ。中村彝のアトリエが、ほとんど手を付けられずにそのまま残されているという奇跡的なことがあったのも、住み手個人のおかげであるのはいうまでもないが、まちのそこここに古い家が生きていることも少なからぬ力を及ぼしたはずだ。
「新宿区の教育委員会が保存するべく調査を進めているそうです。しかし、問題は予算で、現在お住まいの方は、アトリエを含む30坪ほど分けて売ってもいいとおっしゃるんだが、できれば全体を買い上げて保存してほしいですよね」
「まずは、第一歩として一部からはじめるのもいいでしょ。一部の土地でも、アプローチできるんですか?」
「となりに公園があるし、狭い路地もつながっているんです」
不要な道路やダムは、いまでも作られているというのに、重要文化財に指定されている「エロシェンコ像」の描かれたアトリエを残せるかどうか分からないのだ。ともあれ、建物たちはまちの中に分散するおかげで、blogと写真展とまちとひとというレイアをひとつにまとめる写真展だった。
吉田さんから、真綿の橙ができたというメールが届いた。早いほうがよければ郵送しましょうかと書かれていたけれど、カフェ杏奴をすてきなことの起こる場所にしたいから、ブツの受け渡しはカフェ杏奴でしようということにした。
「真綿の橙」のエントリーに書いたように、ぼくが吉田さんに送ったメールには「作り方を相談したいのだけれど、もし興味があるようだったら注文します。」と書いた。
吉田さんが材料を探してみたら、資料としてとっておいた真綿がすこしあるし、染料もスオウの赤とヤマモモの黄色が出ている。じゃあやってみようかと思ってくれた。しかし、もともと染色と織りをしているけれど、こんなモノをつくったのは始めてだし、真綿を染めたこともなかったそうだが、おかげでたいへんな苦労もかけてしまったが、おもしろそうだとも思ってもらえたらしい。
できあがった橙は実物のような鮮やかな色ではない。けれども、内側からじんわりと色がにじみ出しているようだ。たとえば柑橘類の実をひと月ほども乾燥した部屋の中においていたら、表面の皮が乾いてこちこちに固くなる。そういうやつを念のためにと思って包丁でまっぷたつに切ると、皮はとても薄くなって、中には水気がたっぷりでむしろ甘みを増した実がつまっている。表が乾いて堅くなったのは、内にある甘さとみずみずしさを護るためなのだと気づく。これは、割ってみなくてもそういうやつだということがわかる橙のようだ。
*真綿の橙のレシピ
(植物の写真はすべてBotanical Gardenによる)
材料
・実の材料:真綿、スオウ、ヤマモモ、アルミ媒染
![]()
・葉の材料:ヤマモモの枝、経糸(クサギ染)緑の緯糸(藍とカリヤス染)
![]()
・実の芯材:針金
調理法
という具合にならべると、とてもすいすいとできちゃったように見えて、話に聞いた大変さがちっとも感じられないけれど、さまざまな試行錯誤がなされたそうだ。
真綿を染めて乾かしてからその芯を真綿で包もうとしたが、ちいさなかたまりになってしまってちっともまとまらない。→針金で球形の芯をつくる。→もう一度染め直して、まだ乾かないうちにひろげて芯をくるむ。→やっと橙の本体ができる
なんと葉っぱまでわざわざ織ったものなのだ。:ちょうど機に、クサギ(臭木)で染めた経(たていと)がかかっていたから→それに藍とカリヤス(刈安)で染めた緑の緯(よこいと)を通して織ったというものなのだ。こう書いているだけだって大変なことだ。
この橙の作り方を聞いただけで、ぼくはたくさんの新しいことを知った。スオウの花やヤマモモの木と実は知っていたが、延喜式の時代から連綿と使われている染料なのだということはまったく知らない。しかも、樹皮を使う。クサギもカリヤスとなると、植物さえ知らない。
繭は、蚕がはき出した1本の糸でつくられているから蛹ごとそれを煮て、柔らかくしたものをほどいて一本の糸を取り出すというのも知らなかった。そうやって取り出したひとつの繭の糸の長さは1500mもあるんだが、出荷できない繭でつくったのが真綿なのだ。できそこなった繭や、蛹が羽化して破った繭などを煮て、それをほぐしてつくる。真綿を撚った太く不揃いな糸を緯にして、自家用につくったのが紬だということも、知っている人からすれば当たり前のことなんだろうが、ぼくはとても感心してしまった。
新潟に持って行くまでのあいだ、真綿の橙はカフェ杏奴に置いて、みんなに見てもらうことにした。
関連エントリー
*真綿のお供え餅と大連
*真綿の橙
*真綿のお供え餅と橙
日曜日の午後、事務所に行く途中に通りがかったカフェ杏奴をのぞくと、いのうえさんが帰ろうかと腰を浮かせたところだった。伊能忠敬の地図を武蔵大学で展示していたのを見て来たというはなしを、昨年の末に彼から聞いていたが、そのあと日大の文理学部でも公開されるといわれたのにぼくは行き損なっていた。先日、事務所にたずねて来た高校時代の同級生がやはりその話をした。60mもの大きさの日本地図が床一面に広げてあって、それをビニールでおおってあるから上を歩けるんだと聞いたら、ぼくは行けなかったことをにわかに悔やんだ。
ぼくたちの高校時代の化学の先生・ケチョンこと伊能敬先生が伊能忠敬の直系だった。画家であるその弟さんの洋氏が、お弟子さんの協力もあって伊能図の全てを模写されたのだという。原図といっても、それ自体が明治初期に陸軍が書き写したものらしいが、全図225枚のうちの207枚がアメリカにあることがわかった。そのコピーをもとに模写されたものを床いっぱいにひろげてその上を歩けるようにするというわけだ。この地図は、原寸大のもの207枚が日本地図センターで販売されている。つなげると実に61×50mの大きさで、価格も実に8,650,000円という壮大さである。
大図の上を歩くことはもうできないのかと探してみたら、最後の機会がもう一度残されていた。「伊能大図アメリカ里帰りフロア展in幕張メッセ」で見られる。1月22,23日/10:00-17:00,23日は15:00まで幕張メッセ・入場無料です。
いのうえさんは虫眼鏡をもって見に行ったそうだが、幕張メッセなら高いところからも見られるだろうから、双眼鏡も持っていこうと、ぼくは思っている。およそ人間がたのしくあるくことを考えていないまち幕張、そこに、50才をすぎてから日本中を歩いて測量しつくした伊能忠敬という並外れた人物。その人の作った地図を広げてその上を歩けるようにしようという魅力的な企画を日本中に巡回させたこと、その最後の幕引きにに幕張を選んだという何重にも重ねられた逆説あるいは皮肉にも、しかも入場無料であることに、スタンディングオベイションをおくりたい。
そういえば、初めて幕張メッセに行ったのはカナダ・アルバータ州の恐竜展だった。
自宅から神楽坂の事務所にむかうルートは、この3年のあいだにすこしずつ変えながら、いまではほぼおちついた。大部分は左手に高台、右手にあるいは近くあるいは少し離れてぼくと同じ方向に川が流れるという裏道である。このルートは信号とクルマの通行が少ない、のぼり下りがすくない、そしてなにより気持ちがいい。
みちのまわりには、あるところでは商店が軒を連ね、あるところでは製本屋のフォークリフトが動き回りそれぞれに活気がある。かつては川のまわりに染め物の工場(こうば)があった痕跡もそこかしこに残されている。ぼくはこういう「働くまち」がすきだ。けれども、左手の高台に緑が濃く、そこへのぼってゆく坂道が、自転車にはちょっとつらいけれど、歩けばとても心地よさそうにどこかに通じていることを伝えてくれる、そういう道もいいんだ。
こうした高台の一部が、かつて堤康次郎の開発した目白文化村というところだったということを、寡聞にしてぼくはすこしも知らず、つい数ヶ月前にカフェ杏奴でお会いした古い常連のKさんにうかがったのがはじめてだった。猪瀬直樹の本などにですこしは読んでいただろうに、ぼくの記憶にはすこしも残されていない。

そのKさんが、「ブログの力出版記念ミーティング」に参加されてから刺激をうけたといって「chinchikopapalog」というブログをはじめた。テーマは「私とその周辺」、彼は子供時代を日本橋ですごし、のちに湘南に住んだあと落合に根をおろしたという。ぼくは、目白文化村についてぜひ書いてほしいと、さっそくコメントを書いたのだが、その後のKさんの書きっぷりがすごい。堰を切ったように、毎日のように、ではなく文字通り毎日、充実したエントリーが続いている。対象は目白文化村に限らない。やはりぼくの自転車ルートで、その脇を毎朝のように走る氷川神社が前方後円墳であったことなどの考証もすこぶる丁寧で、長年の考察の結果であることをうかがわせる。
このブログは、ブログの力、あるいは「ブログの力」の力によるものだと思うだけでもうれしいが、このまちについての重要な資料になるだろう。
Click image to pop up.
ぼくは小さい頃から人見知りだったのに、何がきっかけだったのか、いつからなのかおぼえていないのだが、ひとに会うこと、とりわけ初めての人に会うことがとても楽しみに思えるようになった。はじめて会う人だったらたいていの人は、ぼくが心底から興味深いと思えることを何か持っていて、それを聞かせてくれるからだ。
偶然のもたらす出会いというものはもっと魅力的だが、それぞれが思い思いの形に編んだ網を張り巡らせていると、そこを通りかかった思想や生き方、そして表現などさまざまなものをかかえた人がひっかかって、それが大切なたからものになることをいうのだと、ぼくは思う。だとすればBlogは、偶然という網の目をとても細かく、しかも広く張ってくれるから、たくさんの魅力的なものと出会う機会をゆたかにするものなんだなと、今日、カフェ杏奴から家に帰って来てぼくは思った。
本来は定休の火曜日なのにママが店を開けてくれて、20人ほどの人たちがカフェ杏奴に集まった。ジオデシックの栗田伸一さんによる企画編集で九天社が出版した「ブログの力」の出版記念ミーティングだ。このBlogで書いた「漂泊のblogger」というエントリーを、この本にとりあげていただき、それにちなんでこのカフェ杏奴が会場になったのだった。
今日は、ここに来た人たちが価値を共有できるようなものを誰もが持ち寄って来た。ひとが持っているものなのに、それがうらやましくなんかない。と、書くそばから、ミネくんがiPodminiを懸賞で当てたのはうらやましかったのを思い出しましたけどね。
今日の網の目は、どんなかたちをしていたのかと、ぼくは風呂につかりながら考えていた。きっと、ほかにもいろいろあるに違いないが、ひとついえることがある。「・・・であればあるほどいい」という単調増大の価値観から自由であることだ。大きければ大きいほどいいもの、上がれば上がるほどいいもの、権力、地位、財産や階級などがそうであるように、世界を悪くしているのは、ことごとく単調増大の価値観なのだ。 Blogの力には、単調増大でないさまざまな価値をすくいとるという力があることも、もうひとつ付け加えければならないと思う。
ひとつの同じ場所と同じ時間を共有した人たちがそれぞれになにを書くのか楽しみです。
カフェ杏奴・新目白通りから
いのうえさんは「ぼくはアナログ人間なんで」と言って自分ではサイトを作らない。そのかわりにいろいろなBlogのサイトに書きこみをする。あるとき、ぼくのBlogにコメントが書かれて以来、コメントでやりとりをしたりメールを送ったりしたのちに、彼の推薦するカフェ杏奴へ寄ったときに直接に出会った。そのようにして彼は自分の興味を持ったいくつかのサイトに書き込みをしている。半ば匿名性をもちながら自分自身がBlogからBlogへ移動する漂泊のブロガーなのだ。かっこいい。これは、Blogならではのネットワークの作り方だと気づいてぼくは、いのうえさんとBlogに感心した。
そのいのうえさんが、今度はBlogを通じて知った、けれども会ったことがないという人も含めて何人かに声をかけた。「明日の午後、ぼくはカフェ杏奴にいます。ぜひいらして下さい。こんな人たちに声をかけました。・・・・・・・。」と、絵本のものがたりのようだ。
インターネットのうえでつくられたコミュニティを、もうひとつ別の、現実空間というレイアに移し、サイトのかわりに本物の人間をあつめて直接につなげてみようという試みではないか。いのうえさんがプロバイダーを、カフェ杏奴がブラウザーソフトの役を果たすというわけだ。この日、5人があつまったがすぐにうち解けて、話がはずんた。それもBlog力だ。
帰ろうとしたらかなりの雨だったので、自転車と徒歩の3人はしばらく雨宿りをすることにした。閉店時間になっても雨はまだふりつのる。川沿いのみちを走ってゆくと、 両側を高いコンクリートの壁にかこまれて常日頃は情けないどぶ川に身を堕としたやつが、力強い濁流に姿を変えていた。 ところによっては30㎝ほどで乗り越えようとしている。全身ぬれねずみになりながらも、背中のMacの心配がなければ、橋の上からいつまでもゆっくりと、元気になった川の水を眺めていたいようだった。
5人+1は、いのうえさん、吉田美保子さん・染め織り、うつみあきらさん・絵画(Blogではないが)、おのふみとさん・散歩、まち、沖縄在住だから来られないが話には何度も登場した西川晴恵さん・染め織り、そしてぼく
click image to pop up.
大きな街路樹がならぶ住宅地:右から2軒目が妹たちの家
カフェ杏奴を教えてくださった「いのうえさん」からつぎのようなメールを頂いた。
「玉井さん、おはようございます。 杏奴ファンのいのうえです。貴Place Runner を掘り起こしましたら、ニュ−ジャージー州リッジウッドの住居について書かれていましたので、偶然とはいえびっくりしました。小生も家族と共に1986年から1992年の足かけ7年、リッジウッド村の北端に住んでおりましたので。世の中本当に狭いというか、これも何かの縁ですね。」
ニュージャージーは、ニューヨークに勤務する日本人が比較的多く住んでいるところだから必然性がないわけではないけれど、そのなかでもリッジウッドという小さな村だということになると、何かの縁だろうとぼくも思ってしまう。
「前に書いたものをBlogで公開すればいい」と、秋山さんからも何度かアドバイスを受けていたのだが、他にも書きたいことがいろいろとあったので、なかなかできなかった。この機会に読み直してみると、今年は日米修好150年でもあるし、いまでも通用する話だと思ったので、いのうえさんのメールを機会に、Blogにのせることにした。これは、リッジウッドの家の「ベースメント」で目を覚ました明け方、ノートに書いたものだ。
1998年秋、アメリカに住む妹たちの家をぼくははじめてたずね、およそ1週間そこに滞在した。13歳も年齢のはなれたただひとりの妹である理子と夫のスティーブは14年前に日本で結婚し、その後、日本とアメリカで何度か住まいを変えたのちに、ニューヨークの郊外、ハドソン川をはさんだ対岸のニュージャージー州のリッジウッドという町に家を買って3年ほどになる。3人の子の親となったスティーブは、ほんとうは田舎に住みたいんだと言いながら、毎朝のように前庭の芝生の上に投げ込まれるビニール袋入りの朝刊をもって車に乗り込み、駅からは電車とフェリーを乗り継いで1時間たらずでニューヨークのワールドファイナンシャルセンターにあるオフィスまで通勤している。
3月に生れたあたらしい孫ソニアの顔を見がてら、ぼくたちの両親は新潟をはなれて3週間ほどかれらのところに滞在することになった。家族そろって相談したいことがあったので、両親の迎えをかねて最後の1週間をぼくも東京から合流したのだった。
両親と一緒だったから、いずれにしろあまりうごきまわることはできないし、その1週間を、ぼくは主にこのまちに腰を落ちつけてアメリカの日常的な場所に接することにしようと思った。わずか1週間のあいだだったけれど、地下室に寝起きして、この町とこのいえの住人たちを通じ、アメリカについて実感をともないつつさまざまなことを考えることができた。アメリカについて考える時には、いつも日本のことを考えないではいられなかったから、アメリカを考えるということは実はアメリカという鏡に写した日本をみているのだった。
この家の面積は地下を除いても屋根裏を含めると延べで40坪ほどだから、日本ならけっして小さいとはいえないけれど、まちを一巡りしてみると、ここでは一番小さい家のひとつではあるようだ。とりわけ、外から見れば小さく見える。玄関のドアの左右に窓がひとつずつならんだ上に平家のようにつくられた屋根に、屋根裏の子供部屋のドーマーウィンドウ(屋根窓)がふたつならび、横にガレージが加えられただけのかわいい家とみえる。
しかし、ちょっと目をこらしてみれば、この家がただかわいいだけの家ではないことが、いたるところから読み取ることができる。建てられてからすでに50年以上の時を経ていながら外壁も内側の壁もきれいに塗装を施されているので、さながら雪におおわれたまちのように一様に美しく見えるのだが、家に加えられた手の痕跡がそこここにとどめられているからだ。なによりこの家を魅力的に感じさせるのは、古いことを誇らし気にして建っていることだ。とはいえ、骨董品のように古さそのものが価値を持っているわけではまったくない。けれども、使いこまれ大切に手入れされてきた痕跡を感じさせるもののもつ美しさや好ましさがあるのだ。この家だけではなくまわりの大部分の家たち、それらが集まって作られているこのまちそのものにも、同じような好もしさが感じられる。
上の部屋を暖めるダクトはベースメント天井を走る。断熱はない。
日本でつぎつぎと建てられる家たちの多くは、作られた当初の輝かしさは時とともにみるみる失われ、粗大ゴミへのみちをひたすらに歩み続ける。土地とともに住宅を売ろうとすれば建物の価値はゼロだと評価され、ときには解体の手間の分だけのマイナスの評価を受けるというぼくたちの社会では、売買の市場に出されたとたんに古い住宅の価値はゼロになってしまう。 けれども、このまちの家たちは時とともに価値を上昇させ、現在の住み手である妹たちも、買ったときよりも高くこの家を売ろうと考えてあちらこちらと手を加えて、よりよい家にしようと努力を惜しまない。終の住処としてひとつの家に住みつづけようと考える日本人よりもむしろ、家族が増えたからここを売ってもう少し大きい家を買おうと気軽に考えるここの人たちのほうがじつは家を大切にしようとしているという逆説はすこぶる興味深い。
最も私的な建築物である住宅も全体としてみれば社会全体の財産だと考えるなら、日本のあり方では、作られた当初に最大だった財産が時とともに減り続け、数年で他者にとってはゼロになる。けれど、100年たった住宅でもそれがちゃんと商品として売買されるこのまちでは、社会の財産は時とともに蓄積されてゆく。あのバブルの時代に日本が世界中からかき集めてきた富は、ただ空しく土地の価格を上昇させ、ゴルフ場を増やし住民に君臨する庁舎をつくり、森を減らしここちよい小さな漁港を埋め立てて終わった。社会に蓄積されたものは少ない。
そして、今頃になってストックとしての住宅だの100年住宅などと住宅メーカーや役人が口では言いはじめた。もう、大組織や役所の言うことを額面通りには信じない。すくなくともそれを学ぶことができたのがバブルという愚かな時代の残したささやかな財産だ。量から質へというスローガンで新しいマーケットを作ってゆこうというのが最も重要な目的に違いないのだから、モノとして長もちするだけの家がつぎつぎとつくられてゆくのだとしたら、それはもっと悲惨なことになりかねない。シリコンを注入した美貌や肉体のように、年を経てもいつまでも変わらないということが100年持つ住宅なのではないはずだ。
だが、紙袋や紙皿やプラスティックのフォークを1回使っただけでゴミ箱に放りすて、冬にはふんだんに暖房をきかせた家の中でアイスクリームを食べ、夏には冷房を効かせた室内でスーツとネクタイをつけるというアメリカの生活を、ぼくたち日本人はあこがれてあとを追ってきた。われわれを大量生産と大量消費の泥沼に誘い込んでおきながら、ここのひとたちは背後にこんな堅実な世界をしっかりと大切に残している。日本にもちこまれた道具や映画からぼくたちは彼らの生活の断片を知ったけれど、それだけではよみとれなかったものがあまりにも大きい。単語をひとつひとつ日本語に置き換えることによって英語ができるかのようにしてぼくたちの英語教育はなされてきたけれど、それが英語という言語体系の全体からかけはなれたものになってしまうように、ぼくたちの読み取った道具や生活の断片という単語は、この国の生き方という言語体系とはかけはなれていたのではないか。
アメリカのきわめて強い影響のもとに日本人のひとりひとりの生活も社会も作られてきたのは、けっして戦後民主主義の世代だけではない。ペリーが浦賀に押しかけてきてこのかた150年にもわたって、良きにつけ悪しきにつけあるときは進んで模倣をし、あるときは力ずくで従わされながら、くり返しくり返しアメリカのやりかたや在りかたを受け容れてきたのだ。西洋のまねをしたいばかりに、仏教寺院を破壊し仏像を売り飛ばし、古いものをないがしろにして、ほかならぬアメリカ人をはじめとする外国人にたしなめられて、あるいは、ドイツ人にほめられてはじめて桂離宮を見直す始末だった。
アメリカではおそらく平凡なものである理子たちの家と、そのまちのあちらこちらに、われわれ日本人にとってはきわめて興味深いものが見つかる。外の文化からみて真に興味深いものは、内にとってはあたり前のことにある。モノの集積としての「家」と、そこに作られる場所を読み解くことから、アメリカという、ぼくたちには矛盾に満ちたと見える存在を読み解くカギが見つかるのではないか。進歩と信じて絶え間のない変化を続け、一方ではかつて持っていた世界を壊し、自分たちの世界観を見失おうとしているぼくたちの社会を、アメリカという鏡に自らを映すことで見直して、立ち直るすべを発見することが今から
Click to PopuP
林芙美子の住んでいた家のことを書いたぼくのエントリーに「いのうえ」さんという方がコメントをくださった。近くにあるカフェ杏奴という店に時々寄るんだが、いいところだから寄ってみてください、すてきな「ママ」がやっているんだと書いてあった。ちょうどぼくの自転車通勤の途中だから、行ってみようと思いながらなかなか寄れないまま数ヶ月が経った。なにしろ営業時間が午前11:30から午後7:00だから通勤帰宅の時間とみごとに合わない。やっと先々週の土曜日に初めて寄った。
用事があって昼近くになって出かけたから、珍しいほどの上天気も手伝ってのんびり自転車を走らせた。自転車通勤をしてもう7,8年になるのに、スピードの持続を意識せず、時間も気にせずに自転車を走らせたのは、これまでに記憶がない。そうやってゆっくり乗ると、自転車というのはなんと気持ちのいい楽しいものなんだといまさら気づいて、「カフェ杏奴」に寄ってみようという気になったのだった。
店はこのうえなく愛想のない外ヅラだが、中にはいると、古い喫茶店ならオイルステインにしそうなところがペンキ塗りにしてあるのがオシャレだ。窓際に席を占めて、パイプをとりだし久しぶりにタバコを吸いながら読書をして1時間半ほども座っていた。この時間にやってくる客の大部分はカレーを一緒に注文するが、ぼくは遅い朝食をすませて来たからブレンドコーヒーだけなのに、コーヒーカップが空になると、氷を浮かせた小ぶりのガラスのピッチャーを「どうぞごゆっくり」といって置いていってくれた。テーブルには一輪ずつ別々の花がガラスに生けてある。高い天井に中二階と半地下があるなかなかひろい空間で、店のあるじ一人だけで何もかもやってしまうからなのかもしれないが、ほどほどに客を放っておいてくれる。みせの大きさと、客に対する接し方の間合いがいいのだ。そのせいなのだろうが、常連の客が多いようだった。
翌日、ようやく杏奴に行ったことをコメントに書き加えると、いのうえさんがもういちど書いてくださったので、一週あけた土曜日に店に寄った。帰り際に、いのうえさんのコメントのおかげで店に寄ったという顛末をあるじに話すと、「2時間ほどまえにいらして、そのことをお聞きしました」という。「4年前に店を始めたんですが、お金は掛けられなかったから、テントは見積を取っただけでやめてしまったし、店の名前を杏奴にしてブラインドを杏色に替えたくらいで、内装はほとんど前のままなんです」。にもかかわらず、店の手入れと客への配慮が行き届いている。店についてもそんな具合だが、客に対しても近づきすぎず冷たくもなく、淡々としかしにこやかに接しているのだ。そういう「こだわりのなさ」が、この店の「場所」をつくっているのだとわかってくる。
このごろ、「こだわり」という言葉が肯定的な意味で使われることに、ぼくはいまでも慣れない。というよりもむしろ気に入らない。こだわりを漢字で書けば「拘泥」だろう。もとは、否定的な意味として使われていたことは辞書も証言する。ぼくの持っている1981年版の広辞苑には「こだわる」の項目にこう書かれている。(例文を省略)「1)さわる。さしさわる。さまたげとなる。2)かかわる。かかりあう。拘泥する。3)故障をいいたてる。邪魔する。」と。最新の広辞苑がどう記述しているか、まだぼくは知らない。だから「こだわりの一品」だの「こだわりの住宅」などとテレビのリポーターが言うと、さも難しそうな偉そうな顔をしたシェフや上っ面だけの建築家が思い浮かぶ。そういう番組をどうも信用する気がしない。
この店とそのあるじのふところの深さ、にもかかわらず、いいかげんにならずアイデンティティをしっかり失わないというありかたは、やさしいものではない。ひとりだけでみせをつくればこそできる細やかな配慮は、ぼくには行きにくいあの営業時間のおかげなのだ。
「店の名前からすると、鴎外と関わりがあるんですか?」と、帰りがけにたずねると
「鴎外のお嬢さんの名前からとったんですが、鴎外とはなんの関係もありません」という。
地図:新宿区下落合4-2-6 大友ビル1階