July 05, 2011

写真展「緑のキャンパス」:ディベロッパーになった大学当局

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 先週、神楽坂のアユミギャラリーで愛知芸大のキャンパスの写真展が開かれていた。完成から45年を経たキャンパスを永田昌民さんと訪れた写真家・大橋富夫さんが撮影したものだ。

40年前のSD別冊「空間の生成」で見た写真では、拓かれたばかりの山のキャンパスはむしろ索漠とぼくには感じられたものだが、大きく育った樹木や池と共生する建築たちの現在の写真は、まぎれもない吉村世界をつくりだしていた。ほかに人のいなくなった会場でゆっくり見たあと、地階ではじまっていた初日のパーティーにそっと入ってゆくと、プロジェクターで写真を見せながら永田さんが話をしていらした。

写真展の説明文には「・・・・・自然と建物と人が積み重ねたありのままの時間を、多くの人たちに見て、感じてもらいたい。」と、おだやかに結んでいるのだが、永田さんの話を聞いていると大学当局はこれまでの「ありのままの時間」を消し去ろうとしているらしい。キャンパスの基本的な性格をこわして、つくりかえてしまおうとしているのだ。これは「順ちゃん」への敬愛にささえられた写真展ではなく、この夜の永田さんは愛知芸大当局への憤懣の人だった。
 じつは、愛知芸大がそんなことになっていることを、恥ずべきことにぼくは知らなかった。しかも、一年ほど前には「住まいネット新聞 びお」で小池一三さんが「吉村順三の仕事 愛知芸大キャンパス訪問記」を書いていらしたのだ。永田さんの思いに共感する目で、もう一度写真を見なおしたいと思ったので数日後にまたアユミギャラリーに行くと、その日はもう最終日だった。おかげで、会場にいらした永田さんと大橋さんに、ゆっくり話をうかがうことができた。

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 いま愛知芸大で進められている改築計画には、唖然とするような問題がある。永田さんにうかがったお話とキャンパスのありようをもとに整理すると、すくなくともそれらは3つに集約される。

1)空間を構成する原理からの逸脱:大学当局は、吉村順三のつくりあげたキャンパスのありかたを継承すると言いながら、じつは環境や空間の構成への配慮を軽んじ、吉村順三の原理とはまったく違うものにもとづいてつくろうとしていること
2)施設管理のずさん:当局は建築の老朽化や設計の不備、規模の不足などを改築の理由にしているが、それは大学に施設課さえ置かず、これまで適切な維持管理をせずに老朽化を進むがままに放置してきたことに原因がある。それらは、大部分が改修によって十分に対処が可能であること
3)改築計画の進め方の不明朗:この計画は、委員会を設けて進めるという形式をとっている。しかし、多くの諮問委員会がそうであるように、あらかじめ結論を用意し、それにむけて人選をおこない形式的な反対意見も聞くというものであるうえに、非公開で進められたこと

このうち2)と3)は論外のことで、大学と愛知県の非はあきらかであるし、よその世界のことだ。しかし1)については、建築と、一部とはいえ地球のことだから、ここで考えておかないわけにはゆかない。
 吉村順三のマスタープランでは谷戸を取り込んだ丘という魅力的な地形を活かして、丘を削り谷を埋めることを最小限におさえ、むしろ新たに樹木を植えてゆたかな植生に導いた。それらの樹木が現在は大木に育っている。性格もさまざまな心地よい外部空間を活かすよう配置された開放的な建築を、木々がさらにゆたかにしてる。
 尾根の中心におかれたシンボル的な建築である講義室棟は、中空に持ち上げて地上をピロティーとして解放したから、長い建築も地上に立つひとの視界を遮ることはない。側面は、壁でなく格子で包まれる大きなガラス面だ。現在の奏楽堂が敷地の奥に配置されたのも、キャンパスをボリュームの大きい建物によって分断することを避け、音楽は奥まったおちつきの中で演奏し聴こうと考えたからだろう。

 しかし、日建設計によってつくられている計画では、新しい奏楽堂と音楽学部棟はアプローチのもっとも近くに置かれている。芸術大学の「顔」である奏楽堂は、外来者を迎えるために入口の近くにあるべきだという理屈だ。これは、上記の吉村順三の考え方を真っ向から否定すものにほかならない。しかも140mにおよぶ音楽棟は谷の斜面を蔽ってしまう。そこには、数々の野生の動植物が棲んでいるという。おそらく、奏楽堂を学外に貸しやすいところにつくり、利益を上げようとする意図が働いているのだろう。大学を法人化して利益をあげるように制度を変えた「改革」があと押ししているにちがいない。あたらしく奏楽堂がつくられると、現在の奏楽堂はなんと「楽器庫」にしてしまうのだという。呆れたものではないか、征服された国のお姫さまを奴隷にしてしまえというのだ。

 2005年、このキャンパスの近くで開かれた愛知万博は「愛・地球博」と呼ばれ、少なくとも表向きのテーマは「自然の叡智」ではなかったか。愛知県が主催したのではなかったのか?それに先だつこと30年も前に、吉村順三は建築が技術的にも大きさも不必要に膨張することを戒め、すでにそこにあった地形や生物を大切にしていたと、ぼくは思う。不必要な膨張は、他の人間、他の空間、そして自然への侵略を意味する。知も地も愛することをやめるのか。

 指摘するべきことはまだ多い。しかし、吉村の考え方の根幹を消し去るのが間違いだと指摘するだけで、この改築計画を否定するには十分だ。
地震と原発という災いを契機に、これまでの文明に内在する大きな矛盾を正面から解決することがなければ、日本どころか人類の文明は100年くらいで半減期をむかえるだろう。原発を推進してきた政財官界・御用学者たちが考えをあらためるべきであるのと同じように、愛知芸大の建て替えを進める人々、それに協力してきた研究者・建築家たちは、これまでの非を認めて、吉村順三に立ち返るべきではないか。もう世界は、そんなやり方を美しいとも正しいとも思わないのだ。老朽化して雨が漏っているのは、むしろきみたちの考え方なのだよ。率直に言えば、君たちは退場すべきだ。

■関連サイト
愛知県立芸術大学 建て替えについて
緑ゆたかな愛知芸大キャンパスを活かして行こう会
吉村順三の仕事 愛知芸大キャンパス訪問記/小池一三/びお
「吉村順三の仕事を今、学ぶ」

投稿者 玉井一匡 : 06:34 PM | コメント (2)

July 22, 2010

岩城里江子 求道会館ライブ

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 7月18日、本郷の求道会館に行った。
「レコ発ライブ」って、なんだろう?とはじめにチラシを見たときには思ったのだが、岩城里江子さんのレコード(CD)発売記念ライブなのだ。
 この日、ぼくは夜に新潟に行かなければならないので、しごとの切れのいいところで出ようなんて思っていたら気づいたときにはもうあと20分で開演という時間だ。あわてて南北線の地下鉄に跳び乗って「東大前」で下車、Googleマップを開いたiPhoneを片手に走っていくと、木造三階建ての下宿屋・本郷館がまだあった。解体されるといわれて見に来てからずいぶん経つのに、まだ生き延びたのかと安堵するが、「私有地 立入禁止」と書かれている。見学者が多くて迷惑しているのだろう。求道会館はその一軒おいた隣だ。

 玄関前にふたり、若者がいた。「はじまりました」と言ってくれる。一曲目が終わったらはいりますというのに、大丈夫ですとドアを開けてくれた。正面の中央にアコーディオンを抱えた里江さんが、満員の聴き手を前に演奏している。背後には、阿弥陀像だろう仏像が六角形をなす祭壇の中央にある。建物を一度見に来たことがあるのに、なんだか不思議な気がした。あとになって考えると寺院では僧が祭壇に向かってお経をあげるのに、里江さんは阿弥陀様にお尻を向けて人間たちに笑顔を見せているからだったのだろう。
 二曲目との間に、ふたりの娘たちといっしょにベンチにすべりこんだ。キリスト教会のような建物だが浄土真宗の建物なのだ。求道などと、肩に力の入った名称の会場で彼女がライブを開くことになった経緯をぼくはまだ聞いていないが、演奏を聴いているうちに、ここがふさわしいことだったと感じはじめた。僧が仏よりもひとびとに向かって語ること、僧でないひとも人々にむかって語りかけることとこそ、創設者がここをキリスト教会のような場所にした意図なのだろうと感じたからだ。

OkaeriPoudcakeBoyS.jpgClick to PopuP
 里江さんのCDのタイトルは『O-KA-E-RI』という。この一年間、ライブをせずに見たり感じたり聴いたり曲をつくったりして過ごしたあとに戻ってきたから、「おかえり」なのだ。
しかし、ふつうなら「ただいま」っていうだろうに自分に自分でおかえりなのか?ということに気づいたのは、数日後のことだった。この人のばあい、それが不自然なことに感じない。「おかえり」って言ってくれるたくさんのひとたちの立場に立っているからなのだろう。ステージにいる里江さんのほかに、向きを変えてもうひとりの里江さんが客席に座っているのだ。そういえば、「アコーディオンは鍵盤が演奏者には見えないんです。わたしは目をつぶって弾くから同じことですが」といっていた。もしかすると、このひとは演奏者である前に自分が聴き手だと思っているのではないか。文字を逆向きに読むと「RI-E、AKO」になるんですなんてことも言っていた。(「アコ」はアコーディオン)あちらからもこちらからも見るのが好きなんだね。

 あたりまえだが曲目は大部分がCDからの曲で、アコーディオンとのなれそめからメコンやハワイへの旅を話しながらの演奏がここちよい。音は演奏者からだけでなく上からもよこからも後ろからも、身体に染みこんでくるようだったのは、キリスト教会のような空間のせいなのかもしれない。アコーディオンは笙の笛がルーツらしいと、よく彼女は話すのだが、ぼくは、どこかで読んだことだったかやはり里江さんの話だったのか、そのむかしバグパイプの代わりに船乗りが持っていくようになったという話を思い出す。ひと月ほど前に、ぼくは初めてバグパイプを近くで目にしてちょっとだけ触らせてもらった。

 スノーボールを作ってもらったんだときいていたので、会場で実物をみつけるとすぐに手に取ってみた。雪ならぬ桜吹雪が、スキップをする里江さんに降り注ぐ。これは、スノーボール作者である友人がジャケットの写真からつくってくれたという。ジャケットの写真も友人の松浦範子さんがイラクに出発する寸前に撮影してくれたから夏に桜吹雪になったそうだし、おみやげにひとつずつ渡してくださったパウンドケーキは友人が焼いたものをその息子さんがずっと籠に入れて捧げ持って配ってくれた。たくさんの人たちがよろこんで支えている。
音楽も、ひとも、そして場所も、とても気持ちのいいライブだった。いつもの演奏がエネルギーに満ちたものであるとすれば、この日のライブはおだやかな風のようだった。

 会場の求道会館は、名称をまっすぐそのままの建築で、浄土真宗の僧・近角常観が、建築家武田五一に設計を依頼して設立された。おそらくキリスト教会における牧師と信者のような関係を仏教寺院にもつくりあげたいと考えられたのだろう。信長にさえ立ち向かった浄土真宗の門徒は、当時のキリスト教の影響も受けなかったはずはないのだから、もしかするとこういう形式の仏教教会がかつてはつくられていたのかもしれない。近角常観の孫にあたる近角真一氏が中心になって修復し東京都指定の有形文化財の指定を受けた。・・・などと知ったふうなことを書くけれど、ぼくがこの建築を知ったのは友人が教えてくれたからで、近角真一氏が学生時代一年後輩だったから、なおのこと興味をいだいたのだった。
 公式サイトによれば、設計に12年かけたが工事には6ヶ月、40年ほど使われたのち44年閉鎖され6年をかけて修復、今年で6年になる。
この時間の流れ方と、ここに注がれたもの、ここが生み出したもの。まわりのまちといいこの場所といい、ぼくはいつのどこにいるのかをすっかり忘れた。

■関連エントリー
O-KA-E-RI/aki's STOCKTAKING
O-KA-E-RI/kai-wai散策
荘厳なステージへO-KA-E-RI/LOVEGARDEN
ただいま/う・らくん家

投稿者 玉井一匡 : 11:35 PM | コメント (10)

October 23, 2009

High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

HighLineTop.jpg
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 つい先日知ったニューヨークの話が、ぼくはうれしくてならない。
と同時に、このコンペの開かれたことを知らなかったのがとても残念でもある。 
マンハッタンのウェストサイド、 ミートパッキング地区から北へ10番街と11番街 の間の西34丁目まで、1930年に貨物輸送用の高架鉄道がつくられた。それが1980年を最後につかわれなくなり、軌道には雑草が生い茂りすっかり荒れはてた。それはそれで、とても魅力的な侘び錆びの風景なのだが、土地の地主たちがその解体と土地の返還を求め、ジュリアーニが市長だったときに解体が決定された。
それを、近隣の住民たち ( Friends of the High Line ) が立ち上がって保存運動をおこし市を動かして公園にするという計画を実現させた。今年の6月にそのうちの1/3ほどがいちおうできあがった。デザインはコンペによって選ばれた。

HighLineMapS.jpg 「いちおう」とが書いたのは、High Lineにはたくさんの植物があってつねに成長したり枯れたりし続けるからでもあるけれど、ここから見えるニューヨークの風景もHigh Lineの一部なのだろうと思うからだ。だとすれば、まちはいつも変化をつづけるのだから、これが完成することは永久にないのだ。
 住民たちがみずから立ち上がってこういうことを実現できるのは、アメリカのほんとうのいいところだ。自分たちが直接に社会をつくっているという意識が強いのだ。ケヴィン・ベーコンデヴィッド・ボウイまで運動に参加したというのもニューヨークらしいではないか。ぼくたちだって、ウェブサイトから申し込んで会費を支払えば、すぐにメンバーになることができる。周囲の店で割引などの特典を受けられるのだが、それより、滅多に行けるわけではなくてもちょっとした仲間になれるというわけだ。

 これと対照的なものとしてワールドトレードセンターが思い浮かぶ。むこうは、世界一の高さを誇示しながら島の先端に屹立して、歩いて近づくという気にはなれないという気分を発散していた。まわりと競争し相手を蹴落とし、世界で一番になるというアメリカ合衆国のひとつの側面のシンボルのようだった。だからテロの標的になったのかもしれない。けれどもHigh Lineがつくられるに至った経過は、WTCと対極にあるようだ。
HighLineBook.jpg 一方が競争における勝利を誇るなら、こちらは協力を実らせたものだ。WTCが「周りよりも自分が・・」という主張であれば、High Lineはまわりのまちをすてきにするためのインフラストラクチャーだ。むこうが、ピカピカdであるなら、こちらは古びたコンクリートや錆びた鉄骨の上を走るレールの間を雑草が埋め尽くす線路だった。
 WTCはアメリカの絶頂のときにつくられたが、High Lineの鉄道がつくられたのは1930年の大恐慌の時代だったし再生の決まったのが2002年、9.11の翌年という時期だったというのも対照的だ。おそらく、このプロジェクトは、9.11から立ち直ろうという思いも後押ししたのだろう。

 それに、南端にある起点が「meat packing district」だというのも興味深い。1900年代に、250もの屠畜場がひしめく「250 slaughterhouses and packing plants」としてはじまったというんだから、かつては港からここまで牛や豚を満載した貨車が、鳴き声と匂いをニューヨークの街に充満させながらひっきりなしに往復していたわけだ。もしかしたら、この細長い公園の上で牛や豚を飼うことになるかもしれないぞなんて想像もひろがる。
行ってみたいところだが、代わりにとりあえずぼくはamazonをさがしてみた。「Walking the High Line」/Joel Sternfeld, Adam Gopnik, John Stilgoe 著 という本を見つけて、ちょっと高いけれど注文した。ロンドンの古本屋から8〜10日でおくられてくるそうだ。

■High Lineのウェブサイトから
High Lineの地図
プロジェクトの紹介/スライドショー
来訪者による写真 /スライドショー

■関連エントリー
「Walking the High Line」/MyPlace
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 07:30 AM | コメント (8)

April 01, 2009

自由学園明日館

Myonichikan1S.jpg.jpgフランク・ロイド・ライト 自由学園明日館 /谷川 正己 著・宮本 和義 写真 /バナナブックス/1,600円

 この本を読んでいるうちに、ぼくは明日館に行きたくなった。
この建築がぼくたちにとって身近な場所にあるからなのだが、ただ近くにあるというだけではない。明日館は講堂と校舎の敷地の間に4mほどの公道があるので、表紙のように満開の夜桜が見える場所にいつでも立つことができるのだ。
芝生の庭を前にして中央奥にホール、左右から教室棟の腕をのばしてその庭を懐にかかえこんでいるようだから、ぼくたちは道路に立ったままこの建築のつくる「場所」のなかに加わることができる。そして、しかるべき時間には中に入って見学することもできる。

 なろうことなら、帝国ホテルの現場事務所を中年の日本人夫妻がライトを訪ね学校の設計依頼を切り出したところに僕も立ってみたいと思う。谷川正己氏による解説に書かれている具体的な時間経過によれば、学園設立の進み方の早さといったら尋常ではない。

 創設者羽仁もと子は、1920年に女子教育のために学校の設立をこころざすと、翌1921年1月にF.L.ライトのもとを夫の羽仁吉一とともに訪れて設計を依頼するや、2月15日に設計が完了、3月15日には着工して4月には校舎の一部が完成した状態で開校してしまう。初対面からひと月で設計完了、それからひと月で着工、さらにひと月で開校してしまったのだ。

 こんな離れ業ができたのも、羽仁もと子とライトが教育に対する思想で深く強く共鳴したからだろうし、これほどの集中力をライトにもたらすだけのものが羽仁の教育理念にあると理解されたからだろう。母の手作りの教材による独自の教育を受けていたライトと、身近な生活のなかに教育(世界とおのれの見方と生き方をつたえること、だとぼくは思うが)の本質があるという思想を抱いた羽仁もと子の間にどんな議論が交わされるのか知りたいではないか。
 たとえば村山知義がここを本拠地とした婦人之友社から絵本を出版し絵画を教えていたことなどを思いながらこの建築の中にいると、大正の時代が、明治と昭和にはさまれた影の薄いあるいは浮ついた時代ではなく実は短いが豊穣の時代だったのだと思う。Google Earth的に見れば、ロシア革命があり、大戦後のドイツにワイマール共政が成立しバウハウスがつくられた時代。
芸術であれデザインであれ、現代の人間はいまだこの時代の遺産で食っているようなものではないか。

 ライトにとって自由学園は、いつものように設計したむしろ質素な建築のひとつにすぎないのかもしれないが、羽仁もと子とその教育その学校は、建築と同じように日本にとってかけがえのないものだと思う。しかも、それほどの情熱をこめてつくり育てた学校でありながら、ここが教室として使われ文字通り学園であったのは、10年ほどにすぎない。このキャンパスの広さでは不十分だと考えた羽仁は、1927年にこのキャンパスの建築が完成されたあと、こんどは1930から1934にかけて、遠藤新の設計で現在のひばりヶ丘に新たに南沢キャンパスをつくり思い切りよく移転した。しかも、このとき新キャンパスの周辺に住宅地を開発してそれを学園の父母などに購入してもらうことによって費用を作り出した。

 以来、現在にいたるまで、自由学園は生徒・先生・卒業生と父母だけで学校を運営しながら独自の規範によって教育が続けられ、明日館は婦人之友の本拠地と一体で使われている。明日館には大きな手を加えられることなく現在まで来た。おかげで、ここは建築の剥製のようなものにされるようなこともなく、重要文化財となった今も呼吸をし言葉をかわし続けているのだ。

 ライトの残した タリアセン:TALIESINも羽仁もと子のつくった自由学園も、創設者の残した思想を忠実に受け継いでいるおかげで、ぼくたちはそのままに知ることができるのだが、半面ではそれが強いゆえに呪縛のようなもので人が限定されてしまうところがある。アントニン・レーモンドは、ライトの強烈な影響から抜け出すのに苦労したと、wikipediaにも書かれている。

■関連エントリー
*自由学園明日館/aki's STOCKTAKING
*自由学園明日館で/MyPlace
■関連ウェブサイト
*自由学園明日館 公式ウェブサイト
*山邑邸 公式ウェブサイト
*帝国ホテル/明治村公式ウェブサイト
*自由学園の公式ウェブサイト
■地図
*明日館:Googleマップの航空写真

投稿者 玉井一匡 : 08:43 PM | コメント (6)

July 02, 2007

サヴォア邸 / Villa Savoye


サヴォア邸/写真 宮本和義/文 山名善之/発行 バナナブックス
 バナナブックスから、ラ・トゥーレットにつづいてコルビュジェのサヴォア邸が出た。現代の文化や思想もデザインも、大部分が、このサヴォア邸のつくられた1920〜30年頃の豊穣な時代に生み出されたものをもとにして、以後は、それを洗練させているか、悪く言えばその時代の蓄積を食いつぶしているのだなと思うことがある。建築もその例にもれず、現代のヴォキャブラリーの大部分はコルビュジェの中にあるのではないかと思うが、サヴォア邸にはとりわけその重要なものがある。その意味では、サヴォア邸がコルビュジェのデザインの箱詰めであるように、この本はコルビュジェのデザインの詩集のようなものなのかもしれない。

 もう何十年も前から知っている住宅でありながら、この本を見て読んで、ぼくにはまだ3つの発見があった。 ひとつ目、この住宅の主はこんな大きないえに住む人でありながら、運転手ではなく自分でハンドルを握ることを大切にしていたらしいこと。2つ目はコルビュジェにとって「屋上庭園」というのは大地から持ち上げたものではなくて天から降りてきたものであったらしいこと。3番目に、このいえは住む機械であるとしても草原で草を食む牛のようにふるまう動物だったらしいということだ。電気羊でなく、時計仕掛けの雌牛だろうか。

 1つ目:クルマがピロティの中で方向転換しやすいように一階をU字型にしたことは、平面図を見れば一目瞭然だ。運転手が玄関前でサヴォア氏をおろしたあとでガレージにクルマを入れるのだろうと、なんとなくぼくは思いこんでいた。このピロティにはクルマから見て家の右端から入ってゆき、左回りにまわってもとに戻ることはガレージのクルマの置き方からもわかるし、解説にもそう書いてある。(平面図の、玄関前の車路にいるクルマと、移動方向を示す矢印はぼくが書き込んだ)
 方向を左に90度変えると、クルマの左に玄関ドアがある。運転者がすわるのは左だから、もしも後ろの座席にサヴォア氏がいるなら彼は右側、玄関の反対側にいる。すると、運転手がドアを開けにくるのを待ち、彼が外にでると玄関と自分の間にはクルマがあるということになるが、それはちょっとありえない。
むしろ、サヴォア氏は自分で運転しいえに近い側の座席にすわってピロティの空間の変化を楽しんだあとにクルマを玄関前に置いてすぐ前にある玄関ドアを開いて家に入っていく。あるいはガレージにクルマを入れて、脇のドアからスロープの下からホールの中に入ったのだろう。
1階には使用人の個室が2つとゲストルームがある。当初の計画では、このゲストルームは運転手の住まいだったと解説にもある。自動車と住人のこの関係は、サヴォア氏自身の望んだことだったのだろう。さらにそれは、コルビュジェにとっても歓迎すべきことだったろう。

 2つ目:フランス語のコルビジェ作品集を持っていながら、これまでぼくは気づかなかったことだが、「屋上庭園」とよばれるものは、フランス語では「jardin suspendu」というのだとこの本に書かれている。直訳すれば「吊り庭園」。だとすれば、それは地表を持ち上げたものではなくて天から吊り下げられた庭園なのだ。建物を支える柱は大地から生えているのではなく、むしろ飛行機の車輪のように上から下ろした脚であり、スロープは飛行機のタラップのように下ろされたものなのかもしれない。この庭を包み込んだ住宅は、地上を離れたのではなく、地上に舞い降りたのだ。ここは、パリからクルマで30分、背後にセーヌを見下ろす高台、天から舞い降りるには相応しい台地だ。(google Earth/N48°55′26.47″)

 3つ目:完成後にコルビュジェがアルゼンチンで講演した時に描いたというスケッチがある。それは、樹木の枝にサヴォア邸が実のようになっているようにも見えるし、牧畜のさかんなアルゼンチンのことだから、これは草原で草を食む牛たちも思わせる。「住むための機械」は、無機的で巨大かつ排他的な機械的生物ではなくて、同時に生物的なメカニズムの世界なのだ。しかも、排他的な土地の所有権を主張する所有形式でなく地表を共用する遊牧的な土地の所有形式をこころざしていたのだと、ぼくは読み取りたい。

 20年以上も前にぼくがサヴォア邸を見に行った時には、改修ができていなかったから建物の中に入ることができなかった。にもかかわらず道路の近くに門番小屋はあるが門も塀もなくて、敷地のなかには自由に入ることができたから、ぼくはガラスに顔と両手を押し付けるようにして住宅の中を見た。道路と敷地のあいだは、プライバシーの密度を段階的に変えながら連続しているのだ。
 ちょうど昨日のことだが、成城の古いすてきな家に住む友人のお宅にうかがった。小さな頃からそこで育ったその人の子供時代の、興味深い話をきいた。
 幼稚園のころ、近くに、小さな山が庭にあるうちがあって、その奥にはいったい何があるのかを知りたくて仕方なかったという。塀があるわけでもないから中に入ってゆくこともできたのだが、それはいけないことであると思っていた。ともだちに話すと、行ってみようよという。意を決して、ふたりは探検に乗り込んだ。その家は、1階がピロティになっていて玄関だけがあったはずだ。やがてその家のご夫妻が降りていらしたので、少女はそこに探検に来たわけを一生懸命に話した。そこの主は彼女の話を聞いたあとで二人にお菓子を手渡して、気をつけてお帰りなさいと言ってくれたというのだった。そこは、ほかでもない、丹下健三の住まいだった。
 モダニズム建築の継承者たる丹下にとって、この住宅がサヴォア邸と無関係ではありえなかったはずだ。彼にとっても本来、ピロティは自由に開放された空間であってほしかったにちがいない。さりとて、日本、東京の住宅地という現実の中に置かれた庭の中は、アルゼンチンのスケッチのように自由に出入りするという空間ではない。が、幼いこどもたちがおそらくは手に手をとり勇気をふりしぼってやってくるという微笑ましい振舞いは、きっと丹下にとってみれば、この家とまちとの、いちばんうれしいありかた関わりかたのひとつだったろう。お菓子は、彼女たちの訪問への感謝のしるしだったのだ。
この住宅は丹下のしごとの中でも屈指のものだとぼくは思う。にもかかわらず、これはすでにない。

関連エントリー: aki'sSTOCKTAKING/Villa Savoye

投稿者 玉井一匡 : 03:34 PM | コメント (6)

May 09, 2007

タリアセン・ウェスト:TALIESIN WEST


MADCONNECTIONのエントリーにそそのかされて、Google Earthを開きハーレン ジードルンク(46°58'23.93"N 7°24'46.78"E)を見ると、川のほとりの小高い森の傾斜地にそって階段状に集合住宅をならべてアトリエ5のつくりだした生活環境は、今もとても気持ちよいものであることがよくわかる。周囲は緑濃い森のまま残されている。
 森を迂回する道路の切り通しも集合住宅の敷地の傾斜も、地形を分かりやすく見せるから、まだ実物を見ていないぼくはそれだけで十分に心がときめく。集合住宅は森を切り開いてつくられたが、斜面をたどる階段状の屋根の上は、芝生で覆われている。切り取られた森と芝生の屋根とゆるやかにうねる川はコルビュジェの思想の見事な実現だ。Google Earthで建築の衛星写真が地表にはりつけられてつくり出す二次元半を僕が大好きなのは、文字通り建築が地形に溶け込んでしまうからだ。ここの場合は建築の意図がそこにあったからなおさらなのだ。それを見ているうちに、F.L.ライトのタリアセン・ウェストはまだ見ていないぞと思い出して、Google Earthに乗って行ってみたくなった。タリアセン・ウェストは、こことはまたかたちのちがう関わり方を大地との間につくりあげているはずだ。

「TALIESIN WEST」と書きこむだけで飛んでいく画面( 33°36'17.89"N111°50'46.64"W)は、対角線に沿って斜めに走る道路によって二分されている。その北東側には山並み、 南には大規模な住宅地開発でつくられたらしきまち。斜めに走る道路と見えるのは近づいて見れば川だが、それがどこも同じ幅で定規をつかったような弧を描き、いかにも人工であることがわかる。地表に近づくと、おだやかな傾斜の丘のつらなりを背景に、遊牧民のテントのように散在する建築群。タリアセンウェストだ。・・・・と、これで十分に感動してしまうのも、ハーレンジードルンクと同じように、じつはここにもぼくはまだ行ったことがないからなのかもしれない。それだけに、地表を斜めに傾けて見ると、見る見るうちに背後に丘がふくらんで想像をかたちに変え、そのかたちがあらたな想像を目覚めさせる。川の南側に近づけばタリアセンとは対照的に、それぞれがプールを抱え込んだ家が地表を埋めている。かつて見た写真の、人里離れた砂漠という環境からは、ずいぶん変わってしまったようだ。
 ライト一行がここに来る数年前、彼らはリゾートホテルの計画のためにアリゾナに滞在していたことがある。その間、彼らは砂漠の真ん中に木造の箱の上にテントをのせたような住居群をつくり生活と仕事の拠点とした。それがのちにタリアセンウェストの原型となった。その後、改めて冬のための仕事場としてここにタリアセンを作りはじめた時、ライトはすでに70歳をこえている。といっても、それから20年を越える間、建築家としての活動をつづけたのだから、まだまだぼくたちは若いわけだ。

 アメリカ合衆国が他人の土地を奪ってつくられた国であることに、ライトはひそかな疑問あるいは居心地のわるさを感じつづけていたのだとぼくは思いたい。彼はタリアセンの周囲から掘り出した大きな石を積んでコンクリートを流し込み壁をつくり、それをふたたび大地の一部のようにした。屋根はテントの進化形でありつづけた。木部には、周囲の赤い土と同じ色を塗った。持ち上げた屋根を支える細い支柱はインディアンの槍や羽根飾りのようだ。彼はここを、定住したインディアンの建築にしようとしたのではないか。
F.L.WrightFoundation.jpg かつてライトは、フィリップ・ジョンソンMOMAで企画したインタナショナル・スタイル展への出展を拒んだ。世界中どこにも同じ価値をひろげることをこころざすインタナショナルではなくアメリカを、アメリカ合衆国ではないアメリカをこころざしたからだ。南米のインディオの造形をコンクリートブロックに彫り込んだのもそのためだ。「モーターサイクルダイアリーズ」の若きチェ・ゲバラが、旅をするうちにアルゼンチンという国家から、普遍的な「アメリカ」にアイデンティティを移していったように、ライトはアメリカ合衆国という国家から逸脱した「アメリカ」に自分を結びたかったのではないか。だとすれば、国家をこえる普遍的な世界をめざした「インタナショナル」と、じつはライトは通底していることになる。ただし、彼は「場所の力」をよりどころにし、それを大切にした。そして、チェ・ゲバラの「アメリカ」にはアメリカ合衆国は含まれない。ライトに美術館をつくらせたグゲンハイムは、チリの鉱山で奴隷のようにインディオたちを働かせて財を成したのだと、「モーターサイクルダイアリーズ」で主演したガエル・ガルシア・ベルナルがインタビューで語っていたのが忘れられない。

 

投稿者 玉井一匡 : 08:48 AM | コメント (7)

October 12, 2006

「住む。」 秋号:タイニーハウス・ゲーム

 
「住む」秋号/農山漁村文化協会 季刊/1200円
日々めまぐるしく進んでゆく時間を、ときに季節として感じることができるのはうれしい。季節は自然のもつ時間だから、季節を感じると、どこにいても自分が自然の一部であることを感じることでもある。「住む」は、季刊の雑誌だ。ぼくたちが書店で目にする雑誌で、季刊の雑誌は「暮らしの手帖」くらいしか思い浮かばないが、発行する期間をひろげれば、小さなチームでも余裕をもって質のいい仕事ができるし、長い間書店に置いてもらえるわけだ。
「住む」の秋号は、たまたまぼくのいない間に届けられたので、ぼくが読んだころには秋山さんがとうに紹介してくださっていたから、それに甘えてエントリーがおそくなった。おかげで、季節はすっかり秋らしくなった。

「タイニーハウス」について、あるいはタイニーハウスをネタにイエの本質にふれることを書いてほしいという注文だった。1ページだけ、1000字ほどだというので気軽に引き受けた。小さな家は、そのなかに生活のすべてがおさまりきらないから、生活が外にこぼれだす。だから、ほかの人たちの生活と重なり合いまじりあう。そこがいいんだということを言いたかったから、小さなページから、内容がこぼれだすようなものを書こうと思った。1ページしかないということが、タイニーハウスというテーマにちょうどぴったりだ。
 そう考えたもので、ぼくはかえって大きなものを書こうとしてしまったようだ。字数もぴたり1000にして送ったら、平易に本質にふれるような書き方がいいと、編集長の山田さんに注文をつけられた。もとよりそれはぼくが本当はこころざしている書き方だ。20戸たらずの小さなまちの計画をぼくがつくって、その上に建つ住宅の基本設計をしているところがある。そのまちに住むひとたちに、「かきの木通りのこどもたちへ」というタイトルの小さな絵本のようなものをつくって各家族にお配りした。それを、たまたま山田さんにお見せしたことがあった。「あれみたいなスタイルで書けないだろうか」とおっしゃるのだ。
 成文化した住民協定とか住民憲章のようなものでなく、住むときの心構えをゆるやかに共有できるようなやくそくごとのメディアにしようと考えてつくったものだった。「住む」の1ページをそういう形式にすることに、ぼくは、もちろん異論はない。むしろそうさせてと、こちらが言うべきだったくらいだ。というわけで、「タイニーハウスゲーム」というタイトルは、こどもたちにゲームを説明するというスタイルで小さな家について語るということにしたのだった。「サイダーハウス・ルール」と重ねたつもりのタイトルだ。

投稿者 玉井一匡 : 07:08 AM | コメント (4)

October 04, 2006

草家

草家/写真 黄憲萬(ファンホンマン)/文 金鴻植、朴泰洵、林在海/翻訳 李仁貞/日本語版監修 金京希/ワールドフォトプレス/3600円/237ページ

 韓国の藁葺きの家とその集落に生きる人たちを撮った写真集を日本語訳したものだ。巻末の解説には、建物としての側面、集落の生活の側面、そして宗教的な側面が書かれている。
 茅の収穫は農繁期と重なるのだが、藁は米の収穫のあとにできるから藁葺き屋根は農閑期に集落の共同作業で行われた。藁葺きは2年ほどしかもたないが、そのあとで家畜の飼料や敷き藁に使い、最後は田畑に鋤き込んで肥料になったと書かれている。
環境との共生という現在の側面から見ればこのうえなく理にかなった住居と農業の関係だ。しかし、2年ごとに葺き替えるのだとすれば、とても大変な作業だ。30年くらいもつという茅葺きの方が合理的だろうにと思うのだが、他にも何かわけがあるんだろう。
 草家の写真は美しい、けれども、家が集まり集落となって人が住む写真は悲しげだ。人が少ない。笑顔がすくない。若ものがほとんどいない。若者のわずかな写真は、まわりに不似合いなスリーピースのスーツが、たまに帰省したときに撮った写真だともの語っている。

 ファン氏の短いあとがきによれば、1970年代はじめから1980年代なかばまでコツコツと撮り続けたもので、原著「チョガ」の出版は1990年12月25日。ソウルオリンピックはいつだったっけと調べてみたら1988年とある。その直後なのだ。このときにすでに、草家はなくなろうとしていたと書かれている。
 江戸時代の日本では瓦屋根は富や権力をもつものにだけ許されたように、韓国でも、もともと藁葺きはそれらから無縁のひとびとのものだったらしい。だから、経済的な成長をめざす時代の草屋は貧しさの象徴でもあったようだが、写真家は草家と集落の生活の中につらぬく力強さを見抜いている。すこし距離を拡げて上空から集落を撮った写真を見れば、生命と意思を持ったような家とその集落は、一転してふてぶてしいほどの力強さをもつ原生動物のようだ。根源的ないえ根源的な生活は、ぼくたちの中心を構成するものを直かにゆすぶる。縄文土器がそうであるように力強く、民族をこえる普遍的な力をもっているのだろう。

 この本は、ワールドフォトプレスから送ってくださった。すべてモノクロの写真で、こんな地味で厚い、こんな高い本を売り出すなんて企画は、K社では絶対に通らないよと、K社にいた友人は言った。monoマガジンのように新しいモノ大好きという雑誌などをつくる一方で、こんな本やアメリカインディアンの本などをつくってしまうなんて、感心してしまうが、ぼく自身どっちも好きだ。社長の今井さんが気に入ると、先頭に立って大胆な企画を一気にやってしまう。彼自身がカメラマンで、サイゴン陥落のときには現地に残ったそうだが、いまも自分の写真を雑誌に使う。レイアウトまでやっちゃうことも少なくないんだと、数年前にきいたことがあるが、いまはどうなんだろう。

目 次
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 写真/黄憲萬
   原型
   生
   神様

 the Culture of Choga(英語によるsummery)

 草家の仕組み/金鴻植

 民族の生活様式と「悲しい近代化」 
   消えてゆく草家に送る言葉/朴泰洵

 草家の儀式、その信仰と奉祀の世界/林在海

 写真作家の文/黄憲萬

この本は、なぜかamazonには出ていない。・・・なんて書いちゃったけれど、そういえば「ちょが」っていうんだから、「草屋」じゃなくて「草家」じゃないか、と思って本を見たら草家だ。amazonで検索したら、ちゃんと出ていました。

投稿者 玉井一匡 : 12:45 AM | コメント (12)

October 01, 2006

としょかん と もんしぇん:おわりとはじまり

 9月は30日までしかないことに気づき、MyPlaceの更新が10日にしたきりになっていたことも思い出してあわてたのだが、結局10月になってしまった。
 この週末、9月29日には「もんしぇん」の一角座での上映が終わった。ブログ仲間のたくさんの方々が「もんしぇん」のことをいろいろと書いてくださり、そして映画やPsalmのライブを見てくださった。さらにまた、改めて映画のことをエントリーしてくださったりチケットの販売まで協力してくださった。応援団も結成された。ほんとうにありがとうございました。辛口をもって鳴る諸氏も、補助輪を外したばかりの自転車乗りには、まずは拍手を送って激励してくださった。ぼくも応援団の一員でもあるけれど感謝にたえません。
 ちょうど、「もんしぇん」の上映が終わった日に先立つこと一週間。9月22日には、基本設計をした小規模な図書館+ホールが自治労からヴィエンチャン市に引き渡された。建物の工事が終わったとは書きたくないのは、図書館が、さまざまな意味でままだまだ未完。ようやく動き始めたところで補助輪は外せないからだ。
写真は、図書館の入り口に張り渡された花たち。引渡式でビエンチャン市長がいらしてテープカットをするというから、ぼくは布のテープを想像していたのだが、行ってみると入り口には花のテープが張ってあり、花屋さんが飾り付けをしているところだった。

 この図書館には、まだ本が十分にはない。ラオ語で書かれた本は年間の出版点数が50から60といわれる国だから、多くの図書館員さえ、図書館とは何かをあまり体験していない。建物は必要最小限しかこしらえていない。いずれも、資金がたっぷりあれば、形の上でははじめから解決できる問題かもしれない。しかし、出版とは何か図書館とはなんだろうということから出発して、これから構築しようとしている。しかも、ラオスの子供たちは本を求めている。現在のメディアは、そうしたラオスの状況を、むしろアドバンテージにしてしまえるところにあるのかもしれないと、ぼくは思う。
 本が少ないから、本棚には、背表紙ではなく表紙を正面に向けてならべてある。おかげで本の顔がよく見える。建物と本が手渡されたが、開館はまだ3ヶ月先に予定されているので、隣にあるヴィエンチャン高校、中学の生徒たちは、昼休みには図書館に興味津々で窓の中をのぞきに来る。
「子供のいえ」へ放課後にやってくる子供たちは活気にあふれている。利用者も図書館員も、図書館とは何なのかさえ、まだわからない。情報というものならインターネットによって得ることができるし、本そのものもインターネットで読むことができるようになろうとするこの時代に、図書館の概念をつくることからはじめるのだから、固定観念から遠い彼らはむしろ自由に時代の変化に適応できるだろう。子供たちは、知的好奇心と適応力のかたまりなのだ。

もんしぇんは、作り手のひとりが天草の海をおとずれてその語りかけるものを映画というかたちに表したいと思いつづけ、さまざまな力を蓄え、少しずつ共犯者を増やし10年もの時間がかかったが、その間に世の中では映像を伝える技術がめまぐるしく変化した。時間も空間も遠まわりをしてつくられた小さな映画そのものは、デジタル技術からもっとも遠いところにあったのに、劇場公開と同じ日にウェブ上からダウンロードして映画を買える、日本で初めての映画に「もんしぇん」はなった。さまざまに宮崎駿から学んだろうが、「映画は、ひとこまごとの間に闇がはさまれていることが大切なんだ」といわれていたことも、その重要なひとつなのだと思う。その理由をどう説明されたのか、ぼくはよく知らない。だが、それはこういうことだろうと思う。映画のフィルムは1/24秒ごとに点滅して静止画像を映し、くりかえしくりかえし残像として人間の記憶の奥に刻み込み、ときにそれらが意識の表に浮かび上がってくるのではないか。アニメーションを作るひとは画像の一画面ごとを丁寧につくってゆかねばならないから、ことのほかそのことに意識的であるにちがいない。
 一冊の本とスクロールして画面で読まれる情報の違いを、ぼくたちはどうしても感じないではいられないのだが、それはぼくたちの育った時代のせいではなくて、映像の場合のように記憶の蓄えられ方がちがうからなのではないだろうか。

そんなことを考えると、本と映像というふたつのメディアの、誕生に近いところに接することができたのは、幸運なことだったと思う。

投稿者 玉井一匡 : 11:59 PM | コメント (0)

June 20, 2006

タチアオイとF.L.ライト

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 ぼくが子供の頃には、タチアオイはあちらこちらの空き地や庭先に咲いているありふれた花だったが、地面に近い下の方の葉っぱが黄色くなりはじめてもいつまでも落ちずについていたり、なぜかハエが葉っぱにやってくるので、ぼくには、ちょっときたない植物のように思われたのだが、じつはおいしい植物だったということなのかもしれない。同じように感じた人が多かったのだろうか、いつの頃からかあまり目にすることがなくなった。
 世の中にハエというものが少なくなったせいなのか、そのタチアオイが咲いているのを道すがら見ることがこのごろは多くなったように思う。いつも通る道の、中央分離帯にタチアオイが咲いているところがある。お役所仕事で部分的にタチアオイを植えているのは見たことがないし、整然とうえてあるわけではないから、近くの住人が勝手に植えたものだろう。そういうことを想像すると、ぼくはちょっと楽しくなる。
「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」を見ていたら、目白駅から明日館にむかう道がライトの小径という、ちょっと気恥ずかしい名前をつけられていたので、ライトがタチアオイを好きだったことを思い出した。

  ライトは、古くからパースの前景にタチアオイを描いている。(左図は1901年)彼が植物としてあるいは花としてタチアオイが好きだったからというよりも、水平に伸びる住宅の多いライトのパースには、垂直に立ち上がるタチアオイの対比的な姿は建築をひきたてるからだったのではないか。つまり、タチアオイの姿が好きだったのだろう。ライトがデザインした、縦軸の周囲に小さなあかりが灯る照明器具は、いまでもペンダントやスタンドとして商品化されているが、これはタチアオイの姿をデザインソースにしたものにちがいない。

Barnsdall House(1917~21)ではクライアントのアリーン・バーンズドール夫人が好んだタチアオイ(Hollyhock)をさまざまに幾何学的デザインをほどこして外壁にも柱にも繰り返して装飾として使っているのでHollyhock Houseとも呼ばれた。ライトの住宅集の表紙に、その写真が使われている。(フランク・ロイド・ライト住宅集/A.D.A. EDITA Tokyo)
アリーンは、数年間この家に住んだあと、映画関係者に利用してもらうよう、ロサンジェルズ市に寄付したという。こんな大きな家をつくるのだからずいぶん金持ちなんだと思うが、それをポンと寄付してしまったのだから、もっと金持ちだったのだ。
 
 1932年、当時、MOMAのキュレーターだったフィリップ・ジョンソンが企画して開いたインターナショナルスタイル展への参加を、ライトは拒否したことがある。場所に固有の条件を生かした建築をつくるべきだと考えていたからだ。この家では南アメリカの先住民であるインカのデザインを継承して壁などにタチアオイをつかったレリーフをほどこした。そうやって古来の文化への尊敬を示すことは、当時の白人としては、精一杯のフェアな態度だったろう。
インディアンをだましたり殺したりしたおかげで白人が国土を手に入れたのだという共通認識が、今でさえできているとは思えないのだから。
 ところで、ライトとは何の関係もないことだが、JリーグJ2水戸のチームの愛称をホーリーホックとしたのは、水戸黄門の印籠の印、徳川家の家紋である三葵にちなんだものだろう。

投稿者 玉井一匡 : 09:40 PM | コメント (2) | トラックバック

April 13, 2006

刑部人アトリエ 消失

   

月曜日、洋館は足場につつまれながら建っていた。カメラを構えたら電池がない。火曜、水曜は雨だったので電車で来たから前を通らない。今朝、曇りがちだけれど、ひさびさにあたたかい。自転車を走らせるとやがて汗ばんだ。刑部アトリエの前にくると足場の上に顔を出していた家はもうない。工事用のシートの隙間、かつて「いえ」だったものが物体と化して堆く積まれている。割れたスタッコの壁、崩れたスペイン瓦。最後の瞬間を見届けたいともつらいとも思いながら雨にゆだねた。建物が消えると、かつてそこにあったものが何だったかがわかる。ここに生きたひとびと、通り過ぎた人たち、降り積もった時。そして、切り取られたまち。

関連エントリー
MyPlace 「洋館に綱が:刑部人アトリエ」
chinchikopapalog 「いいなぁ、文京区の「目白台公園」

投稿者 玉井一匡 : 11:15 AM | コメント (10) | トラックバック

March 24, 2006

洋館に綱が:刑部人アトリエ


 西武新宿線中井駅の近くには、高台の足下を、地形をなぞるようにしてゆるやかな曲線を描く道が走っている。ぼくは毎日のようにここを自転車で走るのだが、今朝、通り過ぎてから気づいたことがあって自転車を止めた。林芙美子記念館をすぎて2軒目のいえの、大谷石の擁壁に切り込んだ階段の下に、黒と黄色で立ち入り禁止を伝える綱が張ってある。奥に見える玄関ポーチに木の円柱が一対立っているのに目を凝らすと、その柱は螺旋状のリブでおおわれ、ポーチの上のファサードは滑らかな曲線を描き銅の笠木の緑青に縁取られている。

いつかはこうなると思ってはいたが、とうとう始まるのだろうか。南向きの傾斜地に緑濃い大きな区画の住宅がならんでいたこのあたりは、山手通りに近い所から徐々にかわってゆく。よく変わってゆくならいいけれど、区画は小さく、緑は少なく、崩された大谷石の壁の代わりにコンクリートの壁とシャッターが並んで、すっかり排他的で味気ない表情になってゆく。

林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館というエントリーにも書いたことだったが、記念館と、坂をはさんだ隣家、そのつぎのこの家と3軒のならぶ斜面は、とても心地よい道をつくりだす。2軒の洋館は住宅だから、外から見て想像をふくらませるよりしかたないのだが、なかにどんな空間があるのかを考えずにはいられない、時間と記憶をゆたかにたくわえている。上記のエントリーで、林邸の隣人とおっしゃる方にお話をうかがったことを書いた。「母が亡くなって相続税が発生すると私の家も維持できないだろうし、新宿区も今では買い上げるだけの金がない」と言われた。その方が刑部さんとおっしゃったが、林邸の隣の家は画家の刑部人(おさかべじん)の家だったのだと、いのうえさんに教えていただいたことがある。今回、立ち入り禁止の綱の張られた家には、かつて絵画教室の小さな看板がかけられていた。もしかすると、ここは刑部さんの身内のかたの住まいだったのだろうか。・・・・・そう書いたら、すぐに井上さんからメールをいただいた。それによれば、この家がまさしく刑部人の家で、「日本の洋館」(藤森 照信 著、増田 彰久 写真、講談社刊)の表紙の写真はこの家なんだと教えていただいた。だとすると、ぼくが2軒の住宅だと思っていたのは、いずれも刑部邸だったというわけだ。
中井-落合-目白と続くこの一帯には、かつて堤康次郎がつくった落合文化村があったことを、あきれるほど克明かつ愛情を込めてChinchiko Papalogに書かれているが、そこには佐伯祐三中村彝などの画家が住んでいたことも、さまざまな角度から記されている。「文化村」という名称を僕はあまり好きではないけれど、文人画人が住んでつくられた緑ゆたかな新しいまちは、金を操作するだけで巨万の富を築いたひとびとがあたりを見下ろす塔よりは、比較にならないほどいいまちだ。六本木ヒルズの塔をつくり、古くからのコミュニティをこわしたのと同じ「市場原理」が、このまちをさらに踏みにじってゆくのだ。

一目見ておきたいとお思いの方は、今のうちに刑部邸を見にいらしてください。西武新宿線中井駅のすぐ北側、林芙美子記念館もすぐとなり、季節の花がいつもきれいです。

投稿者 玉井一匡 : 02:52 PM | コメント (12) | トラックバック

December 16, 2005

THE PLACE OF HOUSES

 THE PLACE OF HOUSES
 Charles W. Moore, G. Allen , D. Lyndon , W. Turnbull
 MADCONNECTIONのおかげで「美の巨人たち」のチャールズ・ムーアとシーランチの2回目は見ることができた。見そこなった1回目では、シーランチとムーアについて「あまり有名でない」という解説が加えられたというので、ぼくはちょっと驚いてしまい、この本について書いておこうと思った。このBlogのタイトルMyPlaceは、この本とすくなからぬ関わりがあるから、いずれ書くつもりではいたが、先日、「アースダイビング@下北沢」にトラックバックされた脇田さんのblogでも「場所」と「空間」についてふれられていた。

 ぼくが、「場所」と「空間」を対立概念として意識するようになったのは、いまから30年も前にこの本を読んで、それから数年経ってからのことだ。ムーアはこの本のタイトルとして、SPACEと音を合わせるようにPLACEということばを選び、対立概念としたのではないかと気づいた。だとすれば、近代建築の中心をなすのはなによりもまず空間つまりSPACEだから、この本はまずタイトルがモダニズム批判なのだが、そこはムーアらしく正面からSPACEを批判したわけではなく、本の形式もその道具のひとつとして使っている。 建築の専門家に向けてではなく、自分のイエを建てようとしている人たちに向けて書くという形式をとったのだ。 
 序文には、スタイルブックのような本を作りたかったのだと書いている。住宅はかくあるべしと論じるのではなく、イエのさまざまなあり方を示し、住宅の「スタイル」を具体的に見せる。しかし、スタイルブックだからといって、モノとしての住宅を羅列するのではない。まちのありかた、生活、イエの構成のスタイルを具体的に説明しているのだ。これらは、そこから直接的に何かを学ぼうという実例であるよりは、むしろ根源的なところで共通する意味を読み取る寓話あるいは神話のようなものかもしれない。モダニズムは、普遍と純粋を目指したのに対して、住宅とまちの個別なありかたを具体的に語ったこの本の形式そのものが、実はモダニズムに対する異議申立てである。

 「THE PLACE OF HOUSES」をamazonで検索すれば、「なか見検索」で表紙と目次、本文の一部、索引を見ることができる。内容は、およそ4つの章からなり、それにチェックリストや索引が加えらるという親切な構成だ。
1)Houses of several places
2)The three orders
3)Setting out choices
4)Inflecting the scheme
「places」ということばは、1章目のタイトルに使われる。この章ではアメリカの、性格の異なる3つのまちをとりあげてまちと住宅の関わり方を示す。いいまちにいいイエがつくれられ、いいイエがつくられることでまちがよくなるのだというケーススタディである。
ニューイングランドの古いまちエドガータウン、大地震のあとに意識的にスペイン風の町づくりをしたサンタバーバラ(マイケルジャクソンが住んでいるので有名になった)、そして「美の巨人たち」に取り上げたシーランチはカリフォルニアの海岸の崖の上の別荘地。
これらは、すでに存在するものたち、周囲の自然環境、まち、これまで生きてきた人々、これまでに存在してきたまちのありかたを読み取り、それらを大切にした積み重ねがいいまちをつくった。シーランチでは、はじめの志とは少しずつはなれていった失敗についてもふれている。
1章目でまちとイエについて論じたあと、2章目以下では住宅の中身のスタイルに向かい、ひとつの住宅をつくることに目を転じる、つまり、イエがつくりだすPLACEである。
MOORE.jpg 「空間」は抽象的な概念だから取り替え可能なものであるのに対して、「場所」は、他にないそこだけそれだけの取り替えのきかない具体的なもの、たとえばひとりひとりの命のようなものだ。
 難しいことばをつかうのが好きな建築家たちは「ゲニウスロキ(地霊)」とか「トポス」なんて言葉を新兵器にして、かつてポストモダンを気取った。その追従者たちは過去の貯蔵庫からデザインのネタを取り出してきて不足を補うというぐあいに自分の表現の道具にした。しかし、ムーアは分かりやすいものやありふれたものを駆使して、たのしい気持ちいい場所をつくりだし、それが軽やかにモダニズム批判となったのだ。
 
 たとえばモダニズムに邁進するディベロッパーだって、彼らなりにいい都市、いい住宅、いいオフィスをつくることを目指している。しかしそこでは、すでにあるまちも、すでに住んでいる人たちも、積み重ねられた時間の痕跡も、現実に象徴的に清算してあらたに「現在」を塗り重ねる。それは、ニューヨークであれ上海であれ同じ広さおなじ形の土地であれば置き換えが可能な都市だ。ひとりひとりの命に想像力を及ぼすことなく、兵士の数の減少とその補充を考え、自分たちは命の危険にさらされることのない参謀本部のようなものだ。

 実を言えば、ぼくは厚い英語の本を進んで読み通すほどのことはしない。これを読んだのは、石井さんが翻訳しないかといってるけどどうだと難波が言ったからだった。面白そうだから、そしてなによりムーアの建築が大好きだったから、単行本の翻訳はしたこともなかったのに引き受けることにしたが、ずいぶん長い時間がかってしまった。石井さんはそのころイェールにいて、その間とうとう一度も会わずに翻訳をすすめて本になった。タイトルは「住宅とその世界」と提案したのがそのままつけられたが、本の性格からすればWhole Earth Catalogのような気軽なペーパーバックにしてほしかったがハードカバーの立派なものになって4000円近くになった。その後は再版されずに、絶版になってしまったが、原書はまだ買うことができる。鹿島出版会で担当してくださった編集の京谷さんは翻訳をとてもほめてくださったのだが、いまになって読み返すとアラが目について、できるものならやりなおしてもっと気楽な本にしたいものだ。このあと、やはりムーアの「BODY, MEMORY and ARCHITECTURE」(Kent C. Bloomerとの共著)という本も訳した。これも日本語訳はなくなったが原書はamazonで検索できる。ぼくはたしかそのまま日本語にして「身体 記憶 建築」というようなタイトルを提案したが、やはり立派な装丁で、「建築デザインの基本」なんていうつまらないタイトルになってしまったのに、なぜかこちらは再版された。

投稿者 玉井一匡 : 01:10 PM | コメント (12) | トラックバック

November 06, 2005

ホームワーク

homework.jpg ホームワーク/ロイド・カーン/川村喜代子訳/ワールドフォトプレス

「SHELTER」をつくったロイド・カーンの「HOME WORK」日本語版をワールドフォトプレスの今井さんが送ってくださった。「シェルター」はモノクロだったが「ホームワーク」は大部分がカラーなので、ずいぶん印象が違う。前書きには、この本をつくるまでの経緯が書いてある。1973年に「シェルター」をつくったあと建築以外の本もつくったが、その間もつねに建築をつくることや建築を作る人々に関心を持ち続け、写真を撮りインタビューをした。それで30年の間に山のようなインタビューの原稿と写真が蓄積された。編集のマスタープランもなく、はじめはどんな本にするかも決まらないままに、1ページずつ作ってゆくうち徐々に本ができていって、それが進むごとにどんどんはかどらせたんだという。

 「シェルター」がモノとしてのイエに重点があったのに対して、「ホームワーク」は住み手、多くの場合は同時に作り手でもあるひとたちとイエの関わり方に重点が寄っているようだ。だから、文章を読んでストーリーを知ったほうがおもしろい。その意味でも日本語版がありがたい。正直なところ、英語版では読まなかったところを読むようになるから、写真の伝えるものが変わってくる。
 このイエたちは、その作り手が住み手と同一だから設計図なんてものにもとづいてイエを組み立ててゆく必要がない。材料は、周囲にあるものを使う。自分で住む、また変えてみる。そんな風にして、そこで生活しながら作ってゆくうちに、どんどん魅力を増していったものたちだ。だから、この本の作り方も同じようにしてマスタープランをもたず編集が進められたのだろう。ロイド・カーンは、かつてジオデシックドームのとりこになって、みずからもいくつかのドームをつくり、「ドームブック」を出版したほどだったが、のちに「ドームブック2」を絶版にし自分のドームは売り払い、「シェルター」ではドームを否定した。「ドームブック」は、文明をはなれてコミューンをつくる若者たちにとても大きな影響を及ぼしたことを思えば、それにはとても大きな決断とそれをせずにはいられない大きな理由があったはずだ。
 「シェルター」と「ホームワーク」のやりかたは、その土地にあるものを使って住人が自分の手でつくり、周囲にとけこみ、あまり費用のかからないイエ。つまり、そこに生活する人と、その場所に固有のものを大切にする。
そういう立場に立とうとすれば、普遍的なイエとしてはドームを否定しなければならなかっただろう。球形の空間は間仕切りや増築がむずかしいと「シェルター」に書いていたが、それよりも大きな理由がある。どんな場所に誰が住んでも球という同じ形体をつくろうという考え方は、それぞれの固有の環境と条件を大切にする立場とは相容れない。それは、地球上のどこもかしこも同じもので覆い尽くさずにはいないグローバリズムのわがもの顔と通じるところがある。
 ところが、「ホームワーク」の表紙の62枚の写真を見れば、球形のドームこそないが床の平面が円形のイエは少なくない。個人的な好みとしては、いまでも実はバックミンスター・フラーのドームが好きなんじゃないか。ぼくだってロイド・カーンの考え方には賛成だし好きだがフラーが好きだし尊敬しているもの。
この本の中で、ところどころイエの本を紹介しているが、そこに「小屋の力」や「シェルター」「Tiny House」も含まれている。巻末のクレジットには、使ったハードウェアとしてMacのG3とG4、ソフトウェアはQuarkExpress, Photoshop, Wordなどがあげられている。クレジットの少し前のページには、樹木に囲まれて木造の建物群が散在している上空からのイラストがある。この本を作った本拠地シェルター本部だ。インターネットとMacを道具に、こういう環境の中でこの本が作られたのをみると、Macやインターネットが、そもそも何のために作られたのかを再確認する。ぼくも少しだけ翻訳のお手伝いをしたので最後のページの一番最後にひっそりと「Special Thanks to Kazmasa Tamai」と書いてあるのがなんだかうれしい。

投稿者 玉井一匡 : 04:10 PM | コメント (4) | トラックバック

November 03, 2005

シェルター

shelter.jpg シェルター/ロイド・カーン/日本語版監修玉井一匡/グリーンアロー社

 この本の著者ロイド・カーンのつくった「HOME WORK」の日本語版が出版されたので、そのことを書きながら「シェルター」にリンクさせようとすると、まだblogには移植していなかったことに気づいた。サイドコラムにはamazonへリンクをはりつけているのに、その本についての文章をblogにのせていなかったのだ。
そこで、まずは「シェルター」をホームページ(PAGE HOME)からこのblogにつれてくることにした。「ホームワーク」のエントリーは、そのあとにしよう。
 以下の文章を書いたのは2001年6月。この3ヶ月後に起きた出来事のあと、ブッシュとアメリカ合衆国はアフガニスタンとイラクに対して言いがかりをつけて愚かな行動に出る。ブッシュと彼を支持する人々の振舞いはアメリカのひとつの側面で、ぼくは大嫌いなのだが、このような本をつくり出すのもやはりアメリカで、それは他にないきわめて優れたところで、ぼくはそれが大好きだ。

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ShelterOriginal.JPGこの本を買ってから何年くらいになるんだろうかと思って奥付をみると、copyright1973、2年間で資料を集め5ヶ月で編集したとある。表紙のデザインも内容の構成からも、一目で「ホール・アース・カタログ」の血筋であることがわかるが、たしかに、巻末のクレジットに11人の編集者の名前などの他に、「ホール・アース・カタログ」の続編「ホール・アース・エピローグ」の予告と編集への参加の呼びかけが、Stuart Brantらの名で書かれている。この本に取り上げられたすまいは地域を選ばず世界中におよび、昆虫の巣や石器時代の竪穴式住居もバックミンスター・フラーのドームも、シェルターという枠でくくって、どんな構造なのかを伝え論じている。

 じっくり読んでみる気になったのは、翻訳の監修をしてくれないかと依頼されたからで、はずかしいことに、これまでの長い間、写真や図を見たが、文は拾い読みした程度だから、本を読んだとはちょっと言えない。翻訳の原稿を読み、原文を読み比べてみてこの本に潜む力のほどがよくわかって来た。ここにはシェルターそのものだけでなく、この本をつくったアメリカという生き方がよく見える。

WholeEarthCatalog.JPG たとえばアドビーについて、といってももちろんPhotoshopをつくっているAdobe社ではなくて日干し煉瓦のことだが、土の選び方に始まって、レンガを乾燥させるときの積み重ね方や壁の積みかたにいたるまでがイラスト入りで書いてある。大部分の日本人にとっては、建築材料から自分たちで作ろうという発想はない。あるいは 、チュニジア民家のドームの屋根をレンガ職人がひとりで積んでいる写真がある。彼は手首に紐の端を結びつけ、もう一方の端をドームを構成する球の中心に固定してある。すると、紐をピンと張るようにして手を動かせば、自然に手は球面上を動くことになる。だから螺旋を描くようにしてレンガを重ねてゆけばドームができてしまうんだという素朴なやり方に、なるほどと感心する。また、丸太から手斧はつりで角材をつくるのに、プロの職人は丸太の上に乗り自分の足元にむかって左側に斧を振り下ろすのだが、これはやはり危険だから私は丸太の前に立って、向こう側に45°の角度の面をつくるようにして手斧はつりをやるんだ、というようなことが図解入りで書いてある。あくまで具体的、体験的、それゆえ根源的にシェルターを考えている。

 日本人にとっては、大工仕事というのは職人の高度な技として受け継がれてきたものだから、素人からは遠く離れた彼方にあるけれど、アメリカという文化にとってはそうじゃないんだということを実感させる。この本のタイトルがHOUSEでなくSHELTERであることもそうした明瞭な意志の表れであって、住宅というものは、まず雨露をしのぎ外敵を防ぐという機能を自分たちでつくることからはじまるのだと彼らは考えているらしい。その同じ文化の上に、社会は自分たちでつくるのだという考えが載っている。だから、陪審員制度のもとに素人が裁判に参加するなどということになるし、まちを自分たちでつくるという意識もつよくなるのだろう。同じ理由から、自分のいのちは自分で護ると言って、あくまでも銃を持つ権利を手放さないことにもなるのだろうけれど。

 使われている資料の多さと広さやレイアウトのしかたを見れば、インターネットという概念はこのような情報の形式の延長線上に自然につくられてきたのだということが分かる。世界中の情報を、多くの人たち多くの場所から集められるということも英語という言語が支配的であるおかげだが、こういう本に安い価格を付けられるのも、英語で書かれているおかげですこぶる大きなマーケットが期待できるからだ。リサイクルや環境の保護という姿勢も、1973という時代に、すでにこの本のあちらこちらに表れている。

(注)Stuart BrantはHow Buildings Learnの著者でもある。

投稿者 玉井一匡 : 02:06 PM | コメント (0) | トラックバック

July 04, 2005

「ニッポンプロダクトの一つとして」の参加者のひとりとして

nippon_p_0.jpg

  この50年間もの時間で生まれた日本のプロダクトデザインからわずか88を選んだ中にVolksHaus+Be-h@usが選ばれたときいたときに、ぼくはおめでとうというよりも選んだ人たちのセンスがいいなと思って、aki's STOCKTAKINGにそういうコメントを書いた。
 このことを記念するあつまり「ニッポンプロダクトのひとつとして」が7月2日にひらかれ、そこで選考者のお話があった。それをうかがいながら、ぼくが改めて感じていたのは、センスがいいなんていう言い方はちょっと軽すぎて失礼だったなということだった。完結した住宅というモノではなく、対象としてBe-h@usのコンセプトや時間の広がりをも含めて選ぶという視点をもって選考されたことに、あらためて敬意を表したいと思ったのだ。
 にもかかわらす、アルコールの苦手なぼくは、こういうパーティーの中ではちょっと消極的で、自由に移動して話をするということをつい忘れてしまう。直接に選考なさった方とお話ししなかったと、あとになって気づくしまつだ。

日本の建築とりわけ住宅の大部分では、ひとたび作られるとあとはひたすらそれ自体の経済価値を減らすカウンターが回転し始める。たとえばアメリカでは数十年も経った住宅が売買の対象にされることを思えば、次々に作られる住宅が社会的な資産として蓄積されない日本のありかたは、明らかに、何重にも間違っている。人間の生きることを容れる器のありようでなくイエを作るという行為とその経済活動が、なにより評価されるのだ。しかも、そういうありかたは資源を消費し廃棄物を大量に放出する。それに対して住宅産業は、100年住宅や品質保証というスローガンをかかげて、とにかく物理的に長持ちするものをつくろうとしているとしか見えない。丈夫だが気持ちよく住むことのできない住宅がふえるとすれば、むしろ事態は悪化する。
 これに対して、エネルギーを消費せず気持ちよい生活をする+明快なシステムで構造的な強度を保証したのがフォルクスハウスだった。そこに構造上の進化で物理的な価値を高めかつ固めると同時に、インターネットを活用したオープンソースによってイエの「つくりかた」についてはむしろやわらかく自由にという概念を加えたのがBe-h@usであり、このシステムをつかって「褌のように柔らかいイエ」を設計してつくってゆけば、日本のイエも日本のまちもきっとまっとうになってゆく・・・・・。そういうシステムだとぼくは考えている。
「だから、どんどんつくろう」という中島さん(アイランドプロファイル)の声が聞こえます。

投稿者 玉井一匡 : 06:04 AM | コメント (2) | トラックバック

April 20, 2005

Be-h@us展といういえ・Be-h@usという行為

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 ほんとうは9:30に搬入という予定だったのに、すっかり遅れて12:00を少しまわってから、Be-h@us展の会場である世田谷美術館の区民ホールにたどりついた。おだやかな春の日差しのなかの公園を歩く道がやけに遠く感じられたけれど、まだ会場の設営は終わっていなかった。Be-h@usの実物をここで組み立てるのだから、けっこう時間をとられるのは当たり前なのだった。予定された位置にパネルが並んでいるのを見ると、みんなA1パネルを縦づかいにしている。しかし、ぼくは横づかいだ。ビニールの袋から出さずに、さりげなく立てかけておいた。レイアウトを修正して明日持ってくることにして実物の組み立てに加わった。

見学会には参加したことがあるのに、ぼくはまだBe-h@usを実際に作ったことがないので、組み立てに自分で加わると、疑問をもっていたことがわかってくる。接合部がシンプルであそびがないから、寸法が明瞭だ。その意味でたしかに、ぼくが望んでいる「住めるスチレンボード模型」という概念に近い。伝統的な工法の巧妙さに感動するが、同時にこのシステムのシンプルさにも胸躍る。屋根には垂木、壁の間柱、床の根太がない。100㎜前後の断熱材をはさんだパネルを柱と梁でつくられるフレームのあいだにはめ込んで、ミミを釘で留めれば躯体ができあがってしまう。そういうことを、マニュアルで読んだり見学会で見たりするのとは違う納得が、自分たちで運びどうやってつなぐのかを考えたりピンを叩いたりすると得られる。
 ぼくは、4m×4mのちいさないえにBe-h@us tinyというタイトルをつけて出した。以前に翻訳したタイニーハウスという本のタイトルとリンクさせたのだ。プロトタイプとしてのBe-h@usとして考えたつもりである。ことしの年賀状のデザインに、その外側だけつくったものを置いた。Be-h@us展のパネルには、つぎのような説明を書いた。(縦づかいの修正版で)

    *   *   *   *   *   *   *
 これは、Be-h@usでつくるプロトタイプのひとつというつもりで考えたから、具体的な場所も住み手も存在しない。
ただ、住みかた・生きかたは想定している。小さな家で生活すると、その中だけで完結せずに自分の庭やまわりのまちを含めて自分のいえだと考え、大切なものだと思うことができる。もちろん、自分のいえも隅々まで把握することができる。Be-h@usの小さい家なら、自分でつくることもできる。だから、生活に不十分と感じないですむ範囲でできるだけ小さな家を提案したいと思った。また、Be-h@usは床に断熱をせず基礎の外側で断熱をするから床下も室内と同じ熱環境にあるのだと現場見学会で聞いた説明が記憶に残っていたから、そこを生活空間に取り入れたいと思っていた。
 一番長い柱で高めの平屋にして基礎を少し高く作り床下も利用することにした。床下の天井高は通路になるところが梁の下でぎりぎり180㎝、他は床を30㎝あげて桐のフローリングを置くから1.5mの天井高の茶室にしたいと思った。床の下は収納に利用する。階段は狭いし天井は2m10cm以下だから、建築基準法では居室ではない。基礎や浄化槽のために掘った土を周りに積んで、崩れないようにネットで押さえておけば、やがて野の花に包まれる。緑化基礎だ。工事中に使った足場のパイプと足場板はデッキに利用し、ときにテントを張る。テーブルは壁に折りたためる。
屋根に太陽電池を張れば電気は自給自足も可能。2*4mのちいさな屋上も、ふたりの会話や昼寝には十分。風呂はなくてシャワーだから温泉や銭湯を利用、地域経済に貢献する。

投稿者 玉井一匡 : 02:04 PM | コメント (1)

June 16, 2004

コレクティブハウジングと生協

seikyouchirasi1.JPG  seikyouchiraasi2.JPG 生協のチラシも増え続ける

 昨日、NPOコレクティブハウジングの宮前さんとべつの話で始まった電話だが、今週の末に京都で生協のひとたちにコレクティブハウジングについて話をするんだということに話が及んだ。
 彼女はコレクティブハウジング社というNPOで広報担当のような立場を担っている理事なので、コレクティブについてのさまざまな取材やら、「コレクティブハウジングって何なんですか?」という素朴な疑問を持っているひとりひとりからの電話の相手までやっている。コレクティブハウジングというものにさまざまな形式がありうるのは当然だが、その基本的な思想を理解してくれる人が、メディアを含めてとても少ないとよく言う。けれども、生協のひとたちは、その根本のところについては分かっている人たちだから、コレクティブハウジングについて理解してもらえるだろうという期待をしているのだ。

 

わが家で参加している生協は、注文した「もの」を毎週水曜日に配達してくる。そのときに次週の注文のためのチラシをごっそりと置いてゆく。その量が時と共に増えて、いまでは新聞の折り込みのチラシを凌駕する勢いである。生協という組織もそれが扱う商品も、この世界の「経済の成長」という病から脱することができないことが読みとられる。
 消費の拡大を食い止めることが、生協の重要な役割のひとつにちがいないとぼくは思うが、それを損なう組織の拡大をなんとかしなきゃあならない。「経済は成長し続けなければならないのか?」という命題は、人間という種が生き残れるかどうかを決する世界共通の問題のはずではないか。コレクティブハウジングについて生協のひとたちに話すなら、そのことを話してほしいと宮前さんに言った。なにもえらそうに批判がましい言い方じゃあなくたって、「これからコレクティブハウジングも同じ問題を抱えるだろうから、一緒に考えてください」という立場で話せばいいんじゃないかと。
 成長とは、経済規模の数量的な拡大と同義語ではないはずだ。しかし、「成長」が生物についての言葉であるのを考えると、いずれ成長には死というものが待ちうけている。もし、経済成長という言葉をつくった人が、成長のあとには必ず訪れる経済の死を見こんでいて、だからいつまでも成長すればいいものじゃないよといいたかったのだとすれば、経済学者もすてたもんじゃない。

投稿者 玉井一匡 : 11:23 AM | コメント (2) | トラックバック