January 29, 2012

「シャルロット・ペリアンと日本」を探る

PerriantTicketS.jpgClick to open flyerPerriandPoseter.jpg

 ぼくはシャルロット・ペリアンが好きだ。とりわけ、切り紙細工でつくったようなダイニングチェアの歩き出しそうなユーモラスと、パリにあるちいさな自宅アパートメントの、いかにもおだやかな心地よさが。

 神奈川県立近代美術館は昨年、開館60周年記念の展示として「シャルロット・ペリアンと日本」を開催した。この美術館を設計した坂倉準三がコルビュジェの事務所でペリアンと数年を共にした縁がある。「ペリアンと日本」をテーマにするからには、彼女が初めて日本にやってきた頃の日本とフランスの困難な状況のなかで来日した意味を掘り下げるべきではないか。
 しかし、初詣の人々で歩きにくいことを分かりながら鎌倉まで行ったのに、新しい発見がほとんどないまま帰ってきた。とはいえ「展示されていなかったこと」についての好奇心が膨らんできたことを収穫と思うことにして、すこし調べてみた。

 ペリアンが日本に来たのは1940年、坂倉準三らの尽力で日本の商工省に招かれて輸出品のデザインの指導をするという公式の立場だった。とはいえ、この年は真珠湾攻撃の前年だ。どういうわけで好きこのんで、こんな時代の日本に来たんだろうという疑問がわく。
 ぼくは「シャルロット・ペリアン自伝」を図書館のサイトで予約したが、本はまだ来ない。そこに何が書き残されているのか知らないうちに、まずはwikipediaなどネット上の情報から推理してみよう。

 この1940年には、フランスは年始めからのナチスドイツ侵攻に屈服して6月にパリを明け渡し、親ナチスのヴィシー政権ができた。日本は、それまでの長いあいだ中国と戦争を続けている。
 wikipedia(仏)によれば、ペリアンが日本に来たのは1940年の秋。日本では、1月から7月まで米内光政が首相で、彼は三国同盟に反対していた。ペリアンが訪日を決めたころのフランスはドイツに侵攻されているが、日本では米内が首相の地位にいたはずだ。そういう時であれば、ペリアンを日本に疎開させようと坂倉たちが考えて仕事と立場をつくり、ペリアン自身も、もともと興味のあった日本に行こうと考えるのは、むしろ自然なことだ。

 しかし、ナチスドイツを避けてやってきたのに、ペリアンが着いた頃には日本の首相は三国同盟推進派の近衛文麿に代わり、日本はすでにドイツと同盟国になっていたはずだ。ところが、母国フランスを代表する政府は、形式上は親ドイツのヴィシー政権というねじれた状況のおかげで不本意ながら同盟国の人間なのだ。日本本土では、まだ戦闘がないから「輸出工芸指導の装飾美術顧問」という立場で京都や東北までめぐり、河井寛次郎や柳宗悦らと交流し、腕利きの職人たちも知った。41年には「選択・伝統・創造」展を開いて竹のシェーズロングを発表した・・・おそらくこういうことだったろう。

 アメリカとの戦争まで手を広げた日本の政府は,翌1942年になると“undesirable alien”(好ましからぬ外国人)だとしてペリアンを日本から追い出す。(Charlotte Perriand/wikipedia(英))海路帰国する途中に、こんどは、日本支配下にあるベトナムで足止めを食ってしまう。それ以来、彼女は足かけ5年にわたって*ベトナムですごす。その間に二度目の結婚をして娘をもうけ、ハノイの芸術展のパビリオンを設計したという。(Charlotte Perriand/wikipedia(仏))上のチケットの写真をクリックして「ペリアンと日本」展の「報道用資料」を開くと、年譜には「第二章 日本発見 1940-1946」とされていて、ベトナム滞在のことはふれずにこの時期も日本にいたかのようだ。
PerriantAptS.jpg 日本に滞在していたときには、戦時下で苦しむ人たちや、ときには外国人に排他的な振舞いをする日本人に接することもあっただろう。ハノイに足止めを食らっていた間には、ベトナムと日本とフランスの争いに居あわせたはずだ。この間にペリアンは何を見て何を考えていたのか興味深い。スケッチや日記が、どこかにあるのではないか。「シャルロット・ペリアンとベトナム」展あるいは日本も含めて「シャルロット・ペリアンとアジア」展も、いつかやってほしいものだ。

 誰でも知っていることだったのかもしれないが、切り紙細工のようだとぼくが思っていた合板の椅子は「オンブル(ombre)」、つまり影という名称で、文楽の人形遣いの黒子から着想したのだと、この展示で知った。影が立体になって立ち上がったということなのだろう。
 彼女の住むアパートメントのことは、1984年の「GA HOUSES 15」(ADA EDITA)の、写真やフリーハンドで描かれた平面図とともに巻頭インタビューで知った。部屋はメゾネットの2層で、木でつくられた螺旋階段を昇った上の階にはパリを見おろす窓際の食卓とルーフテラスがある。こぢんまりしたスペースにモノたちが棲みついていて、窓から見るパリのまちと風を分かちあうようで、なんとも気持ちのよさそうな、彼女の生活と人柄を写しとったような住まいだ。影が、その本体とピッタリよりそっているように、このアパートメントでは住まいが住み手の生活のしかた生き方と寄り添っている。この住まいには,日本を偲ばせるところが少なくないから、「ペリアンと日本」を伝えるにはいいと思うのだが、なぜか今回の展示にはない。
 ぼくは時々この本を出しては、気持ちよい住まいというものを確認する。インタビュアーの発言にはGAと書かれているのだが、解説の文末に(Y.F.)とある・・・インタビュアーは写真を撮った二川幸夫さんなのだ。後記には、その二川さんがめずらしく言葉をつくしてこの住まいに賛辞を送っている。
「都市生活のアパートとして第一級のものであり、こんなにエレガントなインテリアは見たことがない。ここには近代建築が素晴らしい形で生きている」と。
 
■この「シャルロット・ペリアンと日本」展は、秋岡芳男展を開いた目黒区立美術館でも4月14日から開かれる。
 秋岡芳夫は日本の工芸との関わりが深いし、秋岡のデザインした合板と鉄板のハイブリッドの折りたたみ椅子はジャン・プル-ヴェの影響を受けているのは間違いないだろう。プル-ヴェとペリアンは、やはり木材と鐵をつかった棚のデザインと制作などで協同関係にあった。

投稿者 玉井一匡 : 11:24 PM | コメント (0)

September 13, 2011

「香港 路地的 裏グルメ」

HonkongRojiteki2.jpg香港路地的裏グルメ/池上千恵 著・小野寺光子 イラスト/世界文化社

 ぼくが日頃から愛読しているブログのひとつ、いやふたつ、おっと三つだ。「お江戸から芝麻緑豆」「開心香港街市」の"こももさん"こと池上千恵さんが著者、「ONE DAY」の小野寺光子さんがイラストをお描きになったガイドブック仕立ての本が出た。「香港 女子的 裏グルメ」の続編である。
 おふたりのブログは、たべものに向ける情熱の大きさと熱、その書きっぷりが楽しい。それが二人分重なるんだから、この本がおもしろくないわけがない。さっそく買ってきた。
香港が好きで好きで好きでたまらないふたりが、その思いのたけをそそぐ、香港の裏通りにあって地元のひとびとが日常的に通う店の、内臓のうずたかく乗せられた麺やお粥や丼もの・点心、そしておやつの数々。

 異文化を理解するなら、まず好きになることからはじめるのがいいに決まってる。だとすれば、人間に普遍的な興味である「食べること」を手がかりにするのは相互理解の王道だ。国家というヤツは、国境はここだあそこだと押し合いへし合いして、のべつ排他的にならざるをえない。しかしひとりひとりの人間はそれとちがって、店のオヤジが「これはうまいよ」と言って皿に盛った料理を出し、それを食べた客が「なんてうまいんだ!」と喜べばそれだけで、たがいに理解と信頼を結ぶことができる。それが路地的裏グルメの力だ。

HongkongRojiteki2S.jpgClick to PopuP
 期待にたがわず、書かれているもののどれもこれもが旨そうで、しかも20〜30香港ドル(1ドル=10円)から、50$に届かないくらいのものばかり、手当たり次第に食べあるいたら何日かかるだろう。その安い旨い繁盛する店の背後にある主の人柄、店構え、やってくる常連たちの振る舞いにいたるまで、記述は著者の主観であるとおっしゃる。そうやってひとりの人間が自分の数枚のコインと責任をもって評価を下してこそ、料理と店のありようと著者自身を、ぼくたちは感じとり信じられるのだ。だれの眼鏡をかけて見たものなのかわからない新聞の記事や世論調査など、ぼくは信じない。全ての店名、食べ物の名称に広東語読みでルビがふってあるから、多少は広東語を勉強できる。それもまた、いつか香港で不器用な友情を構築する助けになるだろう。

 こももさんと光子さんには香港とは別に大きな情熱を傾ける対象があるが、その情熱のあまりの大きさと深さは、ぼくの理解のかなたにある。V6レスリー・チャンである。V6は香港とは関わりがなさそうだが、情熱のほどを知るにはブログのバックナンバーを探す必要がある。( 補記:そう書いたら、こももさんのコメントで、V6にハマったのは香港公演を見て以来だと訂正があった。じつはV6とも香港を通じてのご縁なのだ )光子さんがONE DAYの新しいエントリー「すべてはレスリーから始まった」にくわしく語っていらっしゃるように、レスリー・チャンと香港への愛情は分かちがたく結ばれている。彼女は、この本でたくさんのイラストを描いていらっしゃるが文章はないだけに、香港について語ればとどまるところを知らないと言われる情熱のすべてがイラストに姿を変えているにちがいない。
出版記念のトークショーを聞きに行こうと思っていたが、またたく間に予約が埋まったそうだから、人気のほどが知れる。
最後にひとつ付け加えておこう、ふたりは軽挙妄動を気取っていらっしゃるが、そのかげに品の良さがところどころで見え隠れするのがこの本の味わいをいいものにしている。

かつてスパイ小説で読んだ香港ははるか遠くにあったが、いまはなんて近くにあるんだろう。・・・といってもぼくは、現実には返還前に一度行ったきりだから、そう感じるのはこの本とおふたりのブログのお蔭なのだ。

■こんな催しがひらかれます
 池上千恵著『香港路地的裏グルメ』出版記念
「香港“女子的&路地的”裏グルメ 小野寺光子 ILLUSTRATION原画展」
 会期:2011年9月18日(日)〜22日(木)10:30~18:00(22日は15:00終了)
 会場: SPACE K代官山
■追加情報
iPhoneのアプリケーションに、こんなものがあるのを見つけました。
料理の広東語表記があって発音を聞けるのは、とてもたのしいのだが、もうすこし料理の種類をふやしてほしい。
バージョンアップしてくれることを期待しよう。いずれも250円
飲茶点心ー中華料理(香港飲食)
香港茶餐廳 - Cha Chaan Teng(飲食店_喫茶・軽食)
Yum Cha Dim Sum (Food_Hong Kong):上記の「飲茶点心」の英語版

投稿者 玉井一匡 : 08:15 PM | コメント (4)

August 04, 2011

なでしこの宮間は、いいやつだ

NadeshikoMiyamaSoloS.jpgClick to PopuP:FIFAウェブサイトから

 なでしこの選手たちはそれぞれに個性的で、一途である。
長い間女子サッカーを引っ張ってきた澤については、もう言うまでもないが、宮間の冷静な判断や正確なプレイと人柄はかけがえのない存在だ。 なでしこがPK戦に勝った瞬間、選手が横一線からキーパーの海堀めがけて走り出そうとする瞬間、だれもが前傾姿勢でいる中でただひとり、ニコニコして立っている選手がいる姿をとらえた録画があった。このときに遊びに興じるこどもたちをうれしそうに見ているお母さんのような表情を浮かべている宮間が、喜びの輪に加ったのは、だいぶ後になってからだった。このひとは、そんなことをしても振舞いがすこぶる自然なのだ。

NadeshikoMiyama-Solo2.jpgClick→ソロが宮間のことを語るYouTubeの映像
 そのとき、彼女はただひとり方向を転じてアメリカチームに向かい、戦い終えた相手の選手たちにことばをかけていたのだった。かつて、男子チームがフランスワールドカップの出場を決めた試合のあと、中田英寿がただひとり歓喜のチームをはなれ、芝に腰を下ろしていたのをぼくは思い出した。解き放たれた歓喜の場にあって、ひとり冷静でありつづけられるということは驚くべきことだ。それが、試合中にも冷静な状況判断として役立っているはずだ。
 しかし、中田はそれ以後もチームで孤立し続けたとされているのだけれど、宮間はチームメイトと喜びをともにしながら、敗けたアメリカの選手たちの気持ちを思いやっていたのだ。そのときの宮間のことを、アメリカのゴールキーパー、ホープ・ソロがアメリカのテレビ番組で語っている映像がYouTubeにある。ふたつ目の写真をクリックすれば映像が開いて、ソロの言葉によって、宮間がなにをしにアメリカチームに向かって行ったのかがわかります。
 そういえば、もうひとつ思い出す場面がある。グループリーグの第一線のニュージーランドとの試合で宮間はフリーキックで勝利を決定づけるゴールをきめたのだが、そのとき、選手たちが大喜びで駆け寄る中で当の宮間はすこぶる冷静だった。が、いつのまにか彼女はベンチを目指し全力で駆け寄って控えの選手たちとハグで喜びを分かち合っていた。

 日本の首相や外務大臣の言動が外国の人たちのこころを動かすことは滅多にないが、なでしこたちは、こんな形でもそれをやっていたのだ。だから、首相が偉そうに国民栄誉賞などを贈り、じぶんたちの人気取りに役立てようなどというのは、なんともおこがましい話ではないか。

投稿者 玉井一匡 : 09:00 PM | コメント (6)

July 30, 2011

ツユクサの鉢植え

Tsuyukusa2S.jpgClick to PopuPTsuyukusa1S.jpg

 直径60cmほどの浅い植木鉢を道路際に置いてある。春になると苗を買ってきて一年草を植えるのだが、冬には植物がなくなってしまう。今年は何を植えようかと考えているうちにツユクサがふえてきた。それならいっそのこと、ほかの鉢に出てきたやつもここに集めてみることにした。それが、いつのまにかツユクサの集合になり、こぼれんばかりにふくらんで直径90cmほどの半球になった。

 犬の散歩、といってもクーは足がうごかなくなったので、道路のわきまで連れていって用を足させるだけのことで、そのあとに水を撒く。だから、横にあるツユクサにもシャワーをかけてやることにしているので、そもそもツユクサを育てようと思ったのは、クーのために毎朝目にするからだった。
 若い緑を背景に青が浮かぶツユクサの群生は、水を浴びたあとはなおさら、そこから涼やかな風がこぼれてくるようですがすがしく、ぼくはすっかり気に入ってしまった。花としては、撫子よりツユクサの方がすきだ。花をクローズアップした写真をさらに大きくしてみると、青と白の羽をひろげて降りてきた小さな蝶のような姿をしている。そう思って見ると、つぼみの入っていた鞘がサナギの殻のように思えてくる。

Tsuyukusa3S.jpgClick to Jump into wikipedia
 日の盛りのころになると、花びらが萎れてしまうのだが、夜に見ると、しおれた花びらはなくなっている。さりとて、あたりに落ちているわけでもない。どうもサヤの中にいったん戻るらしいと気づいた。そして、翌朝にはまた花を開くのだろう。ちょっとした発見にうれしくなった。サヤの中の花びらはどうなっているんだろうかという疑問を解決するのは、さして難しいことではない。サヤを切ってみればいいだけのことだが、いまのところ、まだその気にならない。

 毎朝、水を遣るほかにもうひとつ、することがある。ところどころに穴の開けられた葉っぱを摘んでやるのだ。摘んでやるというのはツユクサのためのような言いぐさだが、人間の勝手な手出しに過ぎない。穴をあけるといっても、全体にわたって7,8mmの小さな穴を散らすという程度だから、植物を枯らすことはない。5%くらいの面積を食べるのだから、植民地経営としては控えめな搾取だが、観察していると犯人はオンブバッタらしいと気づいてから、見つけると取るようになった。

 ツユクサは、ただの雑草として暮らしていたときには、小さな穴があいたくらいで葉っぱを切られることもなかったろうし、バッタも自由に葉を搾取することができたのに、気の毒なことではある。しかし、穴のあいた葉をとって形をととのえてやると、ずいぶん見栄えがちがうのだ。手をかけてやると、ますますかわいくなってくるのは、星の王子様とおなじだ。
 鉢植えとは人工である。人工とは文明である。ツユクサを鉢植えにして手を入れていると、人間はこうやって自然を飼い慣らしてきたんだなと、文明の発生さえ思ってしまうのだ。

投稿者 玉井一匡 : 10:24 PM | コメント (0)

July 15, 2011

SAY NO TO RACISM:女子ワールドカップと反差別

NoRacism.jpgClick to jump to FIFA Campaign

 手のひらをかえすというのはこういうことなのか、朝日新聞夕刊を見ておどろいた。
「なでしこ初の決勝」が一面のトップ、社会面は「なでしこ頂点見えた」、もう一枚めくってスポーツ面を見ると「なでしこ 自然体3発」という見出しで、ここもやはりトップという破格の扱いだ。これまで、日本のサッカー協会と歩調を合わせるようにメディアは「なでしこジャパン」を軽んじつづけてきたことを思えば驚くべきことだ。

 ちょうど日本とスウェーデンの準決勝試合前、ならぶ選手たちの前に両チームのキャプテンが立って順番に自国語でメッセージを読みあげた。7月13日はFIFAの「Anti Discriminations Day」(反差別デー)ということで、この日の試合ではみな、このセレモニーがおこなわれたそうだ。録画を繰り返して再生し沢の読みあげたメッセージを書き取った。

「日本代表チームは、人種・性別・種族的出身・宗教・性的趣向・もしくはその他のいかなる理由による差別も認めないことを宣言します。私たちは、サッカーの力をつかってスポーツからそして社会の他の人々から人種や女性への差別を撲滅することができます。この目標に向かって突き進むことを誓い、そして皆様も私たちと共に差別と戦ってくださることをお願いいたします。」沢は、性別による差別が日本には少なくないことを思いつつこの宣言を口にしていたのだろう。この宣言のあと、両チームの選手が並んで拡げた横断幕をかかげた。それには「SAY NO TO RACISM」(人種差別にNO)と書かれていた。

 たとえば、スポニチのウェブ版がつたえるところによれば、サッカー協会が出すワールドカップの報奨金は男子が優勝3500万準優勝2500万に対して、女子は優勝150万準優勝100万という驚くべき格差だ。
 岡田武史がワールドカップで4位以内を目指すと言ったとき、日本の実力はせいぜい30番目くらいだったから唐突に感じてだれも相手にしなかった。その証拠に、ベスト4の目標がベスト16で終わったにもかかわらず、よくやったと言われた。それにひきかえ、なでしこの中心である沢や宮間などは、「なでしこは優勝を目指す」あるいは「優勝します」と公言してきた。すでに彼女たちのチームは世界ランキング4位にあり、技術は一番とされているのだから、その目標は自然なことだ。
 もっとも、男子はいくら高い報奨金を約束したところで払う心配はほとんどないが、なでしこは優勝するかもしれないから安くしておこうと考えた・・・それほど、なでしこを高く評価しているということなのかもしれない。男子の優勝確率は1%もないだろうが、なでしこは大会前でも30%くらいは期待できたのだから。

Nadeshiko1S.jpgClick to Jump to NewYorkTimes
中国で行われた前回の女子ワールドカップでは、なでしこは激しいブーイングにさらされたが、ドイツとの試合に負けたあとに「ARIGATO 謝謝 CHINA」という横断幕をかかげて一礼をした。
それに対して中国では賛辞と、賛辞に対する反論があったと伝えられた。いまのドイツ大会では、試合後に選手たちは横断幕を手に場内を一周する。「To Our Friends Around the World Thank You for Your Support」と書かれていて、世界からよせられた震災へのの支援に対する感謝の気持ちを伝えるためだ。いずれも、ぼくはとてもいいなと感じた。日韓関係は、共催したワールドカップを機に大きく好転した。

 今日のNewYorkTimes ウェブ版のスポーツ欄トップでは、Nadeshikoの快進撃のようすと、決勝であたるアメリカチームのメンバーのインタビューに2ページを割いている。アメリカでプレイしたことのある沢を、チームメイトだったFWのワンバックをはじめ多くのアメリカ選手が知っており、手強い相手だと言う。さらに、ハリケーン・カタリナで被害をうけたニューオリーンズ・セインツがスーパーボウルで優勝したように、地震と津波の被害を受けた日本は、特別な力を発揮するだろうと伝えている。
 国の代表チームの対戦するスポーツは、ときにナショナリズムを昂揚させむしろ対立を深めることがあるが、たしかに人種差別を越え国境をやわらげることもできる。なでしこJAPANの活躍と試合後の努力は、きっと力になるだろう。サッカー協会やマスメディアは、すでに男子チームを凌駕したなでしこに対する「差別」をすぐになくすことがなによりのご褒美、いや、沢のことばによる日本のサッカー協会の約束をまもることだ。優勝しても「国民栄誉賞」などで危篤状態の政府の延命などに利用しないでほしいと、ぼくはいまから心配している。

■関連エントリー
「天から降りてきた日本の真奈」:岩渕真奈/MyPlace(このひとの大活躍が見られれば、サイコーなんだが)

投稿者 玉井一匡 : 07:00 PM | コメント (2)

June 21, 2011

神の火

Kaminote.jpg神の火/高村薫/現在は文庫/新潮社

 いつものように、表紙の見返しに書かれた短い解説さえ避けて読みはじめた。とはいえ、サスペンス+スパイ小説であることは知っていたし、「神の火」というタイトルが原子力を意味することは容易に想像がつく。どのみち2,3ページも読めばすぐに原発をテーマにしていることがわかるのだから、すこし背景について書いてしまおう。

 あえて規範から逸脱することをおそれない、にもかかわらず、ひとに深い愛情を持つことのできる男たちを著者は共感をもって描写するので、男たちはそれぞれ魅力に満ちている。
2段組で325ページにおよぶ厚い本は、原発をテーマにして今から20年前、9.11から10年も前、ソ連が崩壊した年に出版された。小説の中では、巨体をもてあまして余命いくばくもないソ連が、肩で息をしている頃らしい。

 冒頭の、巨大な建築物の工事現場の描写をちょっと読めば、いまのぼくたちにはすぐに原子力発電所であることがわかる。さっそくGoogleマップを開き地図モードで「音海(おとみ)」というキーワードを打ち込むと、若狭湾の中に複数の半島が延びてつくりだしている小さな湾のひとつにぼくたちは跳ぶ。
 おだやかな水面に浮かぶ生け簀、繋留された漁船、潮の香り、地図を見るだけでうっとりするような湾がつらなる。原発は、かならずそういう美しい海を狙ってやって来るらしい。音海のある半島の根元に関西電力の高浜原発がある。

TakahamaNS.jpg高浜原発:Click to Open GoogleMap
 モードを航空写真に切り替えると高浜原発の施設が見える。拡大してゆくと、これが平時の原発なのだと気づくが、ぼくは水素爆発したあとのとっ散らかった原発にばかり関心をもっていたのだ。半島の東西の湾に水路がつながっているから、一方が冷却水の取り入れでもう一方が排出用の水路なのだろう、ふたつの水路が半島を横断して根元で断ち切っている。水路の泡立ちで、西側の内浦湾が排水口であることがわかる。原発は健康だが、じつは半島と湾は根本で断ち切られている。おそらく住民の間にも険しい対立をつくりコミュニティを分断したのだろう。

 「神の火」は、この原発をモデルにしているに違いないが、「音海原発」はこの敷地のすぐ北あたりに位置する。小説には地形が具体的に書かれているから、GoogleEarthを見ながら読まずにいられないのだが、そのあたりを写真モードで見ようとすると、なぜか白い雲におおわれている。事故後にGoogleマップを曇り空にするようだれかが要請したのだろうか。あるいはもっと早く手を打ってたのだろうか。
 原子力発電所内部についても詳細な描写があるから、平面図をおおざっぱに書いて見ながら読んでいきたいところだが、ストーリーを追いたいスピードにとっては、そんなことをしている余裕がない。またあらためて原発研究のために音海原発にもどることにした。

 巻末にはこう書かれている、「1991年8月、単行本として刊行された『神の火』は、文庫化にあたって全面的に改稿が施され、単行本は絶版になった。本書は文庫判を底本として、新潮ミステリー倶楽部の一冊として新たに刊行したものである。」と。
高村薫は改版するときには原稿に手を入れるひとであるとは聞いていたが、そのときに電力会社や経産省からの「強い要望」があったのだろうか、出版社の自主的な政治的配慮もはたらいたのだろうか。興味はつきない。

 このひとはジョン・ル・カレが好きなんだろうなと思いながら読んでいたが、図書館で手に取ったジョン・ル・カレのスパイ小説の腰巻きに、高村薫の言葉があった。
 たしかに、ベルリンの壁がなくなってから、ジョン・ル・カレもフリーマントルも読んでいて緊張感を失った。にもかかわらず、今になってもこの小説が緊張感を持って読めるのは、北朝鮮がまだあいかわらず生きているからでもあり、それにもまして「核」が冷戦構造と同じくらいの断層、ベルリンの壁のような排他的な閉鎖社会をつくり暗黒を抱えこんでいるからなのだろう。

投稿者 玉井一匡 : 01:00 AM | コメント (1)

September 27, 2010

「ミッドナイト・ララバイ」:サラ・パレツキーと村木厚子氏

MidnightLalaby.jpgミッドナイト・ララバイ/サラ・パレツキー著・山本やよい訳/早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 女私立探偵のハードボイルド小説作家としてスー・グラフトンについては以前に「ロマンスのR」をエントリーしたが、彼女とならぶサラ・パレツキーの新刊を読み終わった。
 いつもどおり密度が高い構成で、時代のかかえる問題を衝くテーマに正面からぶつかり、けっして期待を裏切ることがないので、広告で知ってからずっと待っていた。この写真は、書店の包装紙で表紙を覆われたままにした。安っぽい漫画のようなデザインで内容まで安っぽく見えるのが耐えがたいからだ。「ミッドナイト・ララバイ」なんていう甘ったるい日本語タイトルの原題は「HARD BALL」だ。とはいえ、いつもは単行本を出してしばらくして文庫になるのに、今回、早川はいきなり文庫を出してくれた。

 主人公の探偵ヴィク・ウォーショースキーは、かつて刑事弁護士だったが仕事に嫌気がさして探偵に転じた。シカゴのサウスサイドに生まれ育ったが、そこは貧困や黒人たちのすみついた工場地帯だったから、社会をさまざまに分かつカテゴリーの境界を間にして生じる矛盾をヴィクはするどく感じ取り、それに対して強くときに過剰に反発する。たとえば白人と黒人、金持ちと貧乏人、権力を持つ者と持たざる者、さらに男性と女性。
 その境界のウチとソトのつくりだす不平等をなくすために作れたはずの法そのものも、それによって護られる者と護られない者・支配する者と支配されるものをつくりだすということについて、ヴィクは我慢がならない。だから境界の存在をいつも嘆きつつも、かえって気持ちを奮い立たせて行動の原動力に変えて、有利な立場を利用するやつらに果敢にあるいは無謀に戦いを挑まずにいられない。

 警察官・検事という人々と被疑者の間には、とりわけ堅固な境界があって、極端なワンサイドゲームをおこなわれることが法によって容認されている。そこでは、一方が相手を監禁して情報を遮断し、強者は望むとおりの言葉と態度をひきだすことができる。それは、国民を護るためにつくられ容認された徹底的に不平等な法なのだ。それを、おのれという一個人のために、あるいは、ある集団のために利用しようとすればどんなことでも可能になってしまうのはあたりまえのことだ。
 そういうことをするやつらに我慢のならないヴィクは、真実や公正よりも利益を第一に考えるマスコミ、警察や検察とも対立を繰り返すから、自身がいつもあぶない立場に立たされる。にもかかわらずそういう生き方を保ち続けられるのは、身のまわりや遠くにさまざまな友人たちがいるお蔭なのだ。ヴィク自身がそうであるのはいうまでもないが、彼女たち彼らは、みなそれぞれにとても魅力的な人たち。シリーズものの推理小説は、登場人物が魅力的でなければつづけられないのだ。

 いま、こうしてヴィク・ウォーショースキーをみると、村木厚子さんのことを思わずにいられない。検察官いや検察そのもの、もしかするとその上位にあったものたちの意図によってなされた証拠捏造で、突然、犯罪者に仕立てられた彼女の無念と絶望、やり場のない怒りが思い浮かぶからだ。彼女の勤務した厚生労働省とは、皮肉なことに不公正の被害者を応援するための部署だ。
 村木氏が、獄中で読んで勇気づけられた本の二冊のひとつに、ウォーショースキー・シリーズの第一作「サマータイム・ブルース」の一節をあげている。無罪判決直後の週刊朝日(9月24日号)のインタビューだ。「ミッドナイト・ララバイ」が本屋に並んだのはさらにそのあとだが、もしかすると彼女は店頭に並ぶ前にこの新作を読んでいたかも知れない。これまでのシリーズの中でもヴィクの本領がもっともつよく発揮されているし、村木氏のおかれた状況と重なるところが多い。

 いま、サラ・パレツキーは国際ペンクラブの大会に出席するために日本に来ている。それに合わせてこの本が出版されたそうだ。だとすれば、パレツキーと村木氏の対談を実現して本にほしいものだ。それを考えつかない編集者がいるとは思えないから、近い将来にそれを読むことができるかもしれない。

 ぼくが週刊朝日を読みはじめたのは、秋山さんからの電話によるすすめのためだった。大新聞やテレビ局による反小沢キャンペーンに対して、ブログやtwitterなどの新しいメディア、週刊誌などの非記者クラブメディアを通じて上杉隆岩上安身らが展開する主張、つまり、小沢バッシングは、既得権益を守るために官僚+大マスコミの連合体によってなされているのだという指摘を読むべきだと秋山さんは力説した。ぼくは、テレビや新聞の報道をそのまま信じようとは思っていないが、twitterは何ヶ月も開いていないし週刊誌は生まれてから10冊とは買ったことがなかった。菅直人が消費税10%を言い出したのは官僚と結託したからだとtwitterに書かれていると聞いたのも秋山さんからだった。

 週刊朝日に引用されていた「サマータイム・ブルース」の文章はつぎのような件りである。
「あなたが何をしたって、あるいはあなたに何の罪もなくたって、生きていれば、多くのことが降りかかってくるわ。だけど、それらの出来事をどういうかたちで人生の一部に加えるかはあなたが決めること」

投稿者 玉井一匡 : 11:47 AM | コメント (4)

September 12, 2010

LADY BY MAPPLETHORPE:メイプルソープとリサ・ライオン

Mapplethorpe1S.jpgClick to PopuP  LADY BY MAPPLETHORPE/JICC出版局/1992年

「もしよかったら、かえりがけにメイプルソープの写真集をお届けしようかと思うんですが」
Niijimaさんが電話をくださった。
kai-wai散策のコメントで「1ページなしでもよろしければ、今度お持ちしましょう。masaさんと玉井さんで、是非(妖しい)本を回し読みください。」と書いてくださった約束を果たすためにわざわざ届けてくださるというのだ。おそくまでいますから、お持ちしていますと答えたのはいうまでもない。

 ひと月ほど前のこと、kai-wai散策で「二丁目の古書店」というエントリーがあった。写真は新宿二丁目の表通りにある古本屋だ。そこにNiijimaさんのこんなコメントがはじめに書かれた。
「以前、こちらでロバート・メイプルソープが女性ボディビルダーを撮った写真集を買ったことがございます。お店の新宿通りに面している側の右端のショウウインドウ(?)に『訳ありのため激安』と書かれた札とともに飾って(? 置いて)あったのでした。『訳』は1ページ引き千切られていた箇所があったのでした。」

 masaさんと女性ボディビルダーとメイプルソープそれにNiijimaさんが新宿二丁目にある古本屋で一堂に会したのがおもしろいし、なくなっていたというのはどんなページなのか気になって図書館のサイトで検索してみたがこの本はないようだと、ぼくはコメントに書いた。
「1ページなしでもよろしければ、今度お持ちしましょう。」とNiijimaさんがコメントに書いてくださったのだった。

Mapplethorpe2S.jpgClick to PopuP
 問題のページのコピーをとったものが、1ページ目にはさんであった。Niijimaさんが図書館から同じ本を借りて光沢紙にプリントしてくださったのだ。リサ・ライオンのヌードなんだろうと思っていたが、着衣のリサ・ライオンとミック・ジャガーのような風体のメイプルソープが並んでいる。これを持って行った人物は、メイプルソープの撮った写真よりメイプルソープを撮った写真の方に興味があったのだろう。メイプルソープの写真の下には「パティ・スミスに ロバート・メイプルソープ」とある。
 奥付によれば、写真と文章の著作権が1983年とあるから原書 Lady Lisa Lyonから30年、一回目の日本語版は1984年、この二回目の日本語版「LADY BY MAPPLETHORPE」の1992年2月初版から、いまでは20年経った。この間にゲイに対する世の中の意識はずいぶん変わった。日本の選挙にレズを公言して立候補する人がいても取り立てて騒がれることもない。30年前はボディビルの世界チャンピオンだと思ったリサのような肉体も、いまではときどき日本のまちで見かけるようになった。マドンナなど皮下脂肪をしぼっているのだろう、むしろリサよりも筋肉が際だつ。男のボディビルダーより、ぼくは筋肉質の女のひと方に好感を感じるが、それは、男が「男らしさ」をさらに強化しようとしているのに対して女は「女らしさ」に反逆しているからなのだろう。

 この写真集のリサ・ライオンとメイプルソープは、彼女が女であることを消そうとしない。みずからの中に、生物的に女であることとジェンダーとしての女への反逆の両者を重ねているようだ。反逆する筋肉を、女の皮膚で包み込んでいるのだ。さらにそれをLadyの衣服で包んだり暴力的な衣装で梱包したりする。なにごとであれ、対比的な属性あるいは補完的なものごとを共存させながら美しさをつくりだすことは容易なことではないが、重層が世界を豊かなものにする。ゲイの男たちが繊細だとか、心づかいが行きとどいているとか言われるのも、そこに理由があるのかもしれない。

 Niijimaさんは、この本の印刷はあまりよくないが編集がいいとkai-wai散策のコメントに書いていらっしゃる。たしかに、この本は写真そのものより編集あるいは構成で勝負することで、お金をかけなくてもおもしろい本になったので入手しやすくなっている。メイプルソープの写真のシャープなモノクロームは、彼自身の ROBERT MAPPLETHORPE FOUNDATIONのサイトのポートフォリオで見られる。
ところで、カタカナで「メープルソープ」「リサ・ライオン」と書かれているのを見て、かつて僕は「MAPLE SOAP」かと思っていたし、つい先日まで「LISA LION」だと思っていました。

■関連エントリー:二丁目の古書店/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 01:25 PM | コメント (4)

October 23, 2009

High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

HighLineTop.jpg
Click carries to this WebSite.

 つい先日知ったニューヨークの話が、ぼくはうれしくてならない。
と同時に、このコンペの開かれたことを知らなかったのがとても残念でもある。 
マンハッタンのウェストサイド、 ミートパッキング地区から北へ10番街と11番街 の間の西34丁目まで、1930年に貨物輸送用の高架鉄道がつくられた。それが1980年を最後につかわれなくなり、軌道には雑草が生い茂りすっかり荒れはてた。それはそれで、とても魅力的な侘び錆びの風景なのだが、土地の地主たちがその解体と土地の返還を求め、ジュリアーニが市長だったときに解体が決定された。
それを、近隣の住民たち ( Friends of the High Line ) が立ち上がって保存運動をおこし市を動かして公園にするという計画を実現させた。今年の6月にそのうちの1/3ほどがいちおうできあがった。デザインはコンペによって選ばれた。

HighLineMapS.jpg 「いちおう」とが書いたのは、High Lineにはたくさんの植物があってつねに成長したり枯れたりし続けるからでもあるけれど、ここから見えるニューヨークの風景もHigh Lineの一部なのだろうと思うからだ。だとすれば、まちはいつも変化をつづけるのだから、これが完成することは永久にないのだ。
 住民たちがみずから立ち上がってこういうことを実現できるのは、アメリカのほんとうのいいところだ。自分たちが直接に社会をつくっているという意識が強いのだ。ケヴィン・ベーコンデヴィッド・ボウイまで運動に参加したというのもニューヨークらしいではないか。ぼくたちだって、ウェブサイトから申し込んで会費を支払えば、すぐにメンバーになることができる。周囲の店で割引などの特典を受けられるのだが、それより、滅多に行けるわけではなくてもちょっとした仲間になれるというわけだ。

 これと対照的なものとしてワールドトレードセンターが思い浮かぶ。むこうは、世界一の高さを誇示しながら島の先端に屹立して、歩いて近づくという気にはなれないという気分を発散していた。まわりと競争し相手を蹴落とし、世界で一番になるというアメリカ合衆国のひとつの側面のシンボルのようだった。だからテロの標的になったのかもしれない。けれどもHigh Lineがつくられるに至った経過は、WTCと対極にあるようだ。
HighLineBook.jpg 一方が競争における勝利を誇るなら、こちらは協力を実らせたものだ。WTCが「周りよりも自分が・・」という主張であれば、High Lineはまわりのまちをすてきにするためのインフラストラクチャーだ。むこうが、ピカピカdであるなら、こちらは古びたコンクリートや錆びた鉄骨の上を走るレールの間を雑草が埋め尽くす線路だった。
 WTCはアメリカの絶頂のときにつくられたが、High Lineの鉄道がつくられたのは1930年の大恐慌の時代だったし再生の決まったのが2002年、9.11の翌年という時期だったというのも対照的だ。おそらく、このプロジェクトは、9.11から立ち直ろうという思いも後押ししたのだろう。

 それに、南端にある起点が「meat packing district」だというのも興味深い。1900年代に、250もの屠畜場がひしめく「250 slaughterhouses and packing plants」としてはじまったというんだから、かつては港からここまで牛や豚を満載した貨車が、鳴き声と匂いをニューヨークの街に充満させながらひっきりなしに往復していたわけだ。もしかしたら、この細長い公園の上で牛や豚を飼うことになるかもしれないぞなんて想像もひろがる。
行ってみたいところだが、代わりにとりあえずぼくはamazonをさがしてみた。「Walking the High Line」/Joel Sternfeld, Adam Gopnik, John Stilgoe 著 という本を見つけて、ちょっと高いけれど注文した。ロンドンの古本屋から8〜10日でおくられてくるそうだ。

■High Lineのウェブサイトから
High Lineの地図
プロジェクトの紹介/スライドショー
来訪者による写真 /スライドショー

■関連エントリー
「Walking the High Line」/MyPlace
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 07:30 AM | コメント (8)

October 12, 2009

中村俊輔 スコットランドからの喝采

Shunsuke.jpgマーティン・グレイグ 著/田澤 耕 訳 /東本 貢司 監修/集英社
 numberの書評でみつけた。グラスゴー出身のイギリス人である著者が本人の独占インタビューをせずに徹底的に周辺取材をし、日本人読者のためにではなくセルティックのサポーターのために書いた本だから、日本語への翻訳も当初は予定されていなかったというので読みたくなった。中村俊輔のプレーと態度が、セルティックを愛する人たちにどのように受けいれられたのかが、チーム関係者、選手、ファン、友人の言葉によって書かれているのだ。
 原題の「THE ZEN OF NAKAMURA」は、おそらく中村俊輔を通じて見た日本文化観を示しているのだろうが、ぼくたちからは、セルティックファンの俊輔観を通じて、スコットランドのひとびとについても知ることができる。

 2006年11月20日に俊輔の成功させた一本のキックに、冒頭から53ページをついやしている。チャンピオンズリーグマンチェスター・ユナイテッドを破りグループリーグを突破してベスト16へみちびいたフリーキックを、世界中のセルティックファンがどこでどんなふうにして見たかを発掘する。トロントにはじまり、シチリア→ロンドン→ナッシュヴィル→ラスヴェガス→オンタリオ→リオデジャネイロ→ヨハネスブルグ→埼玉→そして、あの試合の行われた地元のグラスゴーに戻ってくる。
 当時世界で一番強いと考えられていたし、結果としてこの大会で優勝したチームの、やはり世界で1,2のゴールキーパーを相手に、ほかのだれの力も借りずにフリーキックを成功させたことも、それがチームを初めてのベスト16を決定づけたこともぼくたちは知っていた。
しかし、セルティックのサポーターたちがどんな風に、そしてどれほどこのフリーキックをよろこんだかを知ることで、ぼくたちはこのゴールと俊輔の意味がわかる。それだけでなく、スコットランドの人たちについて理解することができる。よろこびを露わにすることのなかった俊輔に彼らが謙虚を読み取ってくれる。それによってぼくたちの方も彼らのことを知るのだ。

 NBAにも同じ「セルティック」という名称のチームがある。ボストンには、同じケルト人のアイルランドからの移民が多いからだ。かつてwikipediaのないとき、「セルト」というのは「ケルト」のことなのだと、気づくまでずいぶん時間がかかった。ボストンがアメリカの独立戦争に点火したのも、アイルランドのイングランドに対する強い反抗心があったからだろう。イギリスは、サッカーでは4つの国に分かれているようなもので、得か損かわからないがナショナルチームが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つに分かれていることも、イギリス本国さえUnited Kingdom(連合王国)のようなものなんだということを実感させる。古いものを残そうという意志がヨーロッパに強いのも、そういう根が深いからなのだろう。
 日本が、どこもかしこも同じようなまちになってしまうのはまったくつまらないことだが、大国が強引に力で併合したわけでもなさそうなのにユーゴスラビアのように反目して人は殺し合い、都市を破壊しあう。それは、もっとつらいことだ。

俊輔の決めたフリーキックの映像:2006年チャンピオズンリーグでマンチェスターUtd.相手の二本

投稿者 玉井一匡 : 08:39 AM | コメント (0)

September 21, 2009

「生物と無生物のあいだ」

Seibuts-Museibutsu.jpg「生物と無生物のあいだ」/福岡伸一/講談社現代新書
 近隣のブログでこの本が話題になっていたころ、ぼくはなにか他の本をよんでいて話に加わることができなかった。以来そのままだったのだが先日になって読みたくなってしまった。
福岡氏の本は初めて読んだが、なるほどおもしろい。おもしろいというだけではない、生命とは何であるかという、すくなくともぼくにとっては何よりも重要なことについて、明快な答えが示されている。
ひとがものごとを理解するには、まず、知りたいという好奇心が必要だ。好奇心があってこそ、ある事実を提示されたときにそれを貪欲に吸収し理解することができる。それよりもさらに激しい知的な飢餓感があってこそ、まだ誰も知らない事実の発見という地点に到達することができるのだ。
 福岡氏が文章にすぐれているという定評があるようだが、ここでは門外漢である読者さえ知的好奇心を抱くように導いて、研究者たちの知的な飢餓感を満たされたときのよろこびの一部を共有させるのだ。

 ここに書かれているルドルフ・シェーンハイマーの実験は、ネズミに重窒素を含むアミノ酸のある餌を与えて重窒素がどこにあるかを追跡する。体外に排出されるのは、その3割ほどにすぎず、7割ほどがすぐに別のかたちのアミノ酸として体内のあちこちの部分に取り込まれ古いものと置き換わることを発見する。アミノ酸は、つねに新しいものによって置き換えられつづけるのだ。この実験と発見は1935年という昔のことで、きわめて重要なことであるにもかかわらず、この実験そのものもそれがあきらかにした事実も、ぼくは知らなかった。
・・生物というものは、つねにそれを構成する分子が、体内に摂取された新しいものとごく短い時間で入れ替わり続け、古いものは捨てられる。・・・この「動的平衡」状態(つねに一部が替わりながら、同じ状態を保ちつづけること)と、DNAによって自己複製できることをもって生物を定義するというのだ。
wikipediaを探してみたら日本語のwikipediaには「ルドルフ・シェーンハイマー」の項目はない。英語に切り替えてみるとRudolph Schoenheimerの項目はある。あるにはあるが、この指摘の重要性からすれば書き方はけっして丁寧に書かれているわけではない。あまり重視されていないのかもしれない。しかし、ぼくには、とてもわかりやすく自然の根幹を理解させてくれた。

Seibt-MuseibtIse.jpgClick to Jump to 伊勢神宮website
 これを読みながら、ぼくは伊勢神宮の式年造替(しきねんぞうたい:伊勢神宮のサイトには「式年遷宮」と書かれている)を思い出した。式年造替は、20年ごとにまったく同じ社殿をとなりに建て、あたらしい建物ができると古いものを解体する。物体としての神殿を定期的につくりかえることによって、様式やそれをつくる技術などを維持し続けるという逆説的なありようがとてもおもしろくてぼくはすきなのだ。じつは、生物体内の分子レベルでも、それと同じようなことがはるかに短い時間で、つねにおきているというわけだ。
 そういう思いがけない一致にも、ぼくは神の存在を感じるわけではない。けれどもこの事実は、ぼくたち人間が、文字通り自然という大きな流動的なシステムの一部分であるということを証明してくれる。
 生物の個体であるぼくという人間が、分子のレベルでは他の生物の部分と共通のものからつくられ続けている。ぼくという生物は、文字通り自然の一部として存在するこの瞬間の状態のことなのだ。

 「生物学と有機化学の年表」/wikipediaによれば、シェーンハイマーの実験は1935年に行われた。
この同じ年には、コンラート・ローレンツによる「刷り込み」理論も発表されている。
なんという輝かしい年なんだろう。

■追記
 このエントリーを書いたとき、日本語のwikipediaには「ルドルフ・シェーンハイマー」の項目はなかった。久しぶりにこの本のことを思い出して、自分のブログを読み直した。自分がどう考えたかを忘れてしまうときに、とても役に立つから、本についての記述は、自分自身のための記録なのだ。ついでにwikipediaで検索すると、、ルドルフ・シェーンハイマーの項目がつくられているのをみつけた。英語版を翻訳しただけの内容だが、もう少し丁寧に書いてくれればいいのにと思う。

■近隣エントリー
生物と無生物のあいだ/aki's STOCKTAKING
生物と無生物のあいだ/MADCONNECTION
生物と無生物のあいだ/ CHRONOFILE

投稿者 玉井一匡 : 11:03 PM | コメント (0)

August 29, 2009

選挙2009

Senkyo2009S.jpg 先週の日曜日、友人の選挙事務所に行った。明日はもう投票日だ。
前回の郵政選挙に吹いた逆風のおかげで彼は4年間の浪人生活をしてきたから、今回は勝ってほしい。
ことは彼ひとりではない、これまでつづいた一党支配をこの機会に変えられないようなことがあれば日本の未来は暗い。だが、その2、3日前に電話で話したときに「上空にはいい風が吹いているが、地上にはまた別の風が吹くからなあ」というので、ぼくはちょっと心配になっていた。

 ぼくが着いたときにはもちろん候補者は出かけていて、事務所に残った人たちはそれぞれに電話をかけたりはがきを書いたりの作業にむかっている。
交換した 厨房の換気扇が効いているか気になったのをまずは点検。お勝手連のご婦人ボランティアがまかないを引き受けている。みんなは済ませたから昼食を食べないかとすすめられたので、よろこんでごちそうになった。チゲ、ネギのぬた、新生姜の酢漬け、タクアン、野沢菜などで満腹した。農家の人たちから野菜が差し入れられるのだ。かたわらのペットボトルに「食事の無料提供は禁じられているからご飯をたべたひとはカンパしてください」と書かれている。

  使わなくなった立て看板を並べて頭をつなぎ壁をつくってある。それで作業コーナー・打合室・応接コーナー・電話コーナーなどに分けた。立て看板には候補者の大きな笑顔、にぎやかなインテリアだ。その中央折りたたみ机を並べたところで、しばらくぼくははがきの宛名書きをしていた。やがて、候補者たちの一団がもどってきた。
 ひとやすみすると、夕方にもういちど回ってくるから一緒に行こうというので、宛名書きを中断してワンボックスに乗り込んだ。

 候補者が私鉄の駅前広場にマイクを持って立ち、乗降客に呼びかける。
幟をもつひとマニフェストを配る人、ぼくはマニフェストをかかえて、あたりを通りかかる人たちに手渡す。
「マニフェストです。読んでみてください」
いつまでも素人くさい選挙活動だが、それがいいのだと思いながら行き交う人たちに渡そうとすると、目を合わせないようにいそいで通り過ぎる人もいれば、もう一部くださいといって激励する人もいる。

 別の乗りかえ駅には昼過ぎに対立政党の党首が演説をして人をあつめたという、そこも回ってこようという意見で二つめの駅前広場にまわる。そこにはすでに別の党の候補が来ていた。
話し合いの結果、30分後に交代するということになったので、そのあいだにぼくたちのチームは軽のワンボックスをつらねて近くの住宅地の道路に入りこんでいった。
 そのわずか30分に、近寄って握手をして激励したり、手を振ったり、マニュフェストを求めたりしてくれることが10回ほどもあった。はじめは、知り合いなのかと思ったがそうではないらしい。宗教団体の動員でもなければ、ぼくはそんな光景を見たことがない。
 「地上では別の風が吹くからなあ」と、彼がいったのは杞憂だったのかもしれないと、ぼくは思いはじめた。

 駅前に戻ると、前の候補者が引き上げようとしていた。
ここでもぼくは、ロータリーをはさんで候補者から一番遠いところでマニフェスト配りをする。駅前を通り過ぎるひとたちに渡したいと思ったからだ。
ひとり、自転車にまたがって話をきいている坊主頭の若者がいた。腕に大きないれずみをしている。
「マニュフェストです。ぜひ読んでください」 彼は受け取りながら代わりに質問を返した。
「共産党と民主党はどう違うんですが?」・・・意表をつかれた。

 仕事がなくなってしまったので知り合いの人に相談したら、共産党に相談するといいと言われて行ってみた。役所に行って生活保護をもらおうとしたら、あちらこちらとたらい回しにされる。
あちこち行くには金がいるが、食べるものは食べなきゃならないから、それで金は減ってしまう。ここに「NPO」という看板があるのを見たので、何かしてくれるかもしれないと思って来たところだという。
「NPOって何ですか?」と、すぐ前のビルの1階に入っているテナントを指さした。

 「NPOというのは会社の一種で、社員に給料は払うけれど会社として儲けることでなく、ひとの役に立つことを目的とする。ここのNPOは、まちでイベントなんかをやるんじゃないかな。だから、そういう相談をしにいくには、ちょっと違うかもしれない。」
 とはいえ彼の疑問は、どこか大事なところを衝いていると感じたので、ぼくは共産党と民主党のちがいについても四苦八苦しながら説明した。

 小選挙区制のなかにあって、この選挙は実質的に民主党と自民党の二者択一となっている。民主党の勝利の気配がたちこめる現在、民主党と共産党はゆるやかな連携をとろうとしているようだ。だとすれば、対立する二極であるよりも補完的な二軸になろうとしているだろう。
自身の中にもさまざまな違いをかかえた連合体にとっては、選挙の勝利を手に入れたあとには、「反自民」という共通項の輝きがうすれるかもしれない。
 そのとき、他者のよろこびが同時に自分のよろこびになるような仕組みをもつ社会をめざせば、これまで続いた政権との違いがおのずとあきらかになるだろう。

マニフェスト/wikipedia
民主党マニフェスト

投稿者 玉井一匡 : 11:59 PM | コメント (8)

August 19, 2009

MUTO:落書が動く

MUTO.jpgclick to see animation on YouTube.

妹の息子マックスが、「これ、すごく面白いよ」とYouTubeを開いて見せた。すでに500万ものアクセスがある。
レンガ塀に描かれた絵がアニメーションとなって動き出す。タイトルは「MUTO」、作者は「BLU」というのだが、個人なのか集団なのかわからない。
どういうやつがつくったのだろうかとGoogleを「BLU」で検索してみると、じつに162,000,000件もあるうちの2番目に「BLU」のウェブサイトがある。ノートの写真をクリックしてVIDEOのタグを選び「MUTO」をクリックすれば「MUTO」のページが開く。

そこにも作者について書かれているものをみつけることができなかったが、アニメーションについては、少しわかってくる。ブエノスアイレスとBADENでつくったというのだが、BADENがどこにあるのか、Googleマップでさがしてもわからない。

「AN AMBIGUOUS ANIMATION PAINTED ON PUBLIC WALLS」というのは、まちの壁に描いた絵が動き出す不思議なアニメーションといったところだろうか。AMBIGUOUSは、辞書には「多義的な」とか「両義的な」と書かれているのだが、はじめに見たときにぼくは、AMPHIBIOUS(水陸両用の)と読み間違えたのだが、壁にも天井もうごきまわる男は、ある意味では両生類(amphibian)だなと思ったからだった。

「 MUTO IS RELEASED UNDER COMMON CREATIVE LICENCE」は、 CREATIVE COMMONの間違いだろう。「利益を目的としてつくられたものではないから、商業的な目的(テレビチャンネルや商業目的のウェブサイトなど)でなければ、複製、転載は自由」と続けられている。ベルリンの壁がそうであったように、「壁」というのは向こう側とこちら側をへだてるのもである。それを自由に動き回ることによって、「隔てるもの」を、自在に移動するフィールドに変えてしまう。箱の中から人体が湧きだし、身体から身体が脱皮する。どこの面も、2次元と三次元の間も自在に動き回る。
だからやはり両生類じゃないかなと、ぼくは思ってしまうのだ。

「Creative Commons」/Wikipedia(英語版)
「クリエイティブ・コモンズ」/Wikipedia(日本語版)
「Amphibian」/Wikipedia(英語版)
バーデンWikipedia(日本語版)

投稿者 玉井一匡 : 01:23 AM | コメント (7)

July 23, 2009

「フラッシュ オブ メモリー」:三宅一生のニューヨークタイムズへの寄稿

IsseiNYtimesS.jpg これは太陽ではない。原爆なのだ。

 三宅一生が寄稿したメッセージを7月14日にニューヨークタイムズが掲載した記事の冒頭におかれた写真である。あるいは絵かもしれない。
三宅一生がニューヨークタイムズに寄稿し、自身が広島で被爆したことを明らかにしたうえで、8月6日の広島の平和記念式典へ参加することをオバマ大統領に要請した全文が掲載された。そのことを多くの日本のメディアが報道したのだが、そこには「服飾デザイナー」三宅一生が政治的なメッセージをニューヨークタイムズに表明したできごとという意味合いが強くて、このブログの、ふたつ前にエントリーした「ネオテニージャパン展」を伝えたときの「法廷画家」という扱いに共通するところがあるように感じた。寄稿の全文が掲載されていないことも、彼のメッセージの内容よりも服飾デザイナーが政治的がメッセージを明らかにしたことがニュースとして考えられているからではないか。
 しかも、三宅一生のメッセージの中に、「原爆を生き抜いたデザイナー」というようなレッテルつきで見られるのがいやで、これまでは被爆体験を公にしなかったのだが、核兵器の廃絶を目指すというオバマのプラハ演説に動かされて、このメッセージを送ろうと思ったというくだりがあるのも興味深い。
 
 世間やメディアがひとに貼り付けるレッテルから、ぼくたち自身も自由ではない。だからこのニュースも、三宅一生が政治的なメッセージを公にしたということに思いがけないものを感じて関心をもったのだろう。もともと言葉というものは、何が語られたかだけでなく誰がどんな状況で語ったかによって意味は違うものだ。とはいえ、何を述べたのかがもっとも重要であるのはまちがいない。日本の新聞のウェブサイトに全文を紹介するものが見つかるまで、自分で訳してみたものを以下に加えます。オバマの演説も、アメリカ大使館のサイトへのリンクとして末尾に加えてあります。

<三宅一生の寄稿の全文>

「フラッシュ オブ メモリー」

 四月、オバマ大統領は、核兵器をなくし世界の平和と安全を追求することを約束しました。しかも、核兵器を削減するのではなく廃絶すると。その言葉は、これまで私自身が触れたくないと思い、私の裡に深く潜めていたものをゆさぶって目覚めさせました。

 いまこそ私には、みずからについて語る道義的責任があるということに気づいたのです。オバマ氏が「閃光」と呼んだものに遭遇しながら、それを生き抜いたもののひとりとして、私は言葉にして伝えなければならないと。

 1945年8月6日、世界で初めての原爆がわたしの故郷、広島に落とされました。7歳の幼い私は、そのときその場にいたのです。けっして誰にも経験させたくない出来事のありさまが、目を閉じれば今も甦ります。
赤い鮮烈な光、たちまち黒雲が湧き出し
人々が一目散に四方八方に死にものぐるいで走り出す
だれもが、なんとしても逃れようと必死になっていた光景が、まざまざと目に浮かぶのです。
それから3年足らずで、母は被爆が原因で死にました。

 あの日の記憶であれ、それについての思いであれ、これまで私は誰とも分かち合ったことはありませんでした。その記憶をなんとか自分の背後に押しやって、破壊でなく創造を、そして美とよろこびをもたらそうとして、服飾デザインの世界に没頭したのです。それは、今の時間を信じ未来に夢を託す創造的な生き方であると考えたからでもありました。

 わたしは、自分の意志とかかわりなく遭遇させられた過去の体験によって、自分を規定されるのをいさぎよしとしなかった。「原爆を生き抜いたデザイナー」などというラベルを貼り付けられるのがいやで、ヒロシマについての質問はいつも避けてきました。「ヒロシマ」と耳にすると、どうにも動揺してしまったのです。

 しかし、いやしくも世界から核兵器を取り除こうとこころざすなら、ヒロシマについて論議することは避けて通れないと、いまでは確信しています。
いま、オバマ氏をヒロシマに招こうという運動があるのです・・・8月6日に毎年行われているあの運命の日の式典に。彼には、どうかその招請を受け容れてほしいと私は願っています。それは、過去にこだわるからではありません。むしろ、未来に核戦争のない世界をつくることをアメリカの大統領が目指しているのだという徴しを示してほしいと思うからにほかなりません。

先週、ロシアと米国が、核兵器を削減する覚え書きに調印しました。たしかに、これは重要なできごとではあります。しかし、わたしたちはそれだけで満足するほど、もはやナイーブではありません:一人の人間にはもちろん、ひとつの国家の力で核兵器を押しとどめることは不可能です。日本に生きる私たちは、核兵器で身を固める隣国・北朝鮮の脅威に絶えずさらされています。その他にも、核技術を手に入れようとしている国があるという報道があとをたちません。平和への希望を持ち続けるには、世界中の人々がオバマ大統領の声に自分たちの声をつぎつぎに重ねてゆかなねばなりません。

もし、オバマ氏が広島の平和橋を渡ることができればーーその欄干は日系アメリカ人の彫刻家イサムノグチによるデザインで、東西の架け橋となって憎しみを超えて何かを成し遂げようと考えさせますーーオバマ氏の行動は核の脅威のない世界をつくるために、現実に踏み出す一歩が象徴としての一歩として世界平和に近づくでしょう。

 三宅一生は服飾デザイナー、この原稿は、彼のスタッフによって日本語から翻訳された。

2009年4月5日 プラハにおけるオバマの演説日本語訳/アメリカ大使館の日本語版サイト
ニューヨークタイムズの記事の全文/nytimes.com:上の写真をクリックして見られるものと同じだが、nytimes.comで見られなくなったときのためにコピーして、見やすいよう横長のレイアウトにしました。
ISSEI MIYAKE INC.の公式サイトには、このメッセージについて何も書かれていない。

投稿者 玉井一匡 : 01:54 AM | コメント (1)

June 23, 2009

「天空の草原のナンサ」と「Whole Earth Catalog」

 Nansa1.jpg 
 アジアンスマイル「シリーズ・二十歳の挑戦:愛して伸ばせ」
の放送を見てモンゴルへの関心がふくらんだが、うちには「天空の草原のナンサ」のDVDがあるのに、ぼくはまだ見ていなかった。次女が、姉の誕生日にプレゼントしたもので、遊牧民の家族:父と母+娘二人と小さな息子という5人の家族の生活を撮った映画だ。ナンサは、主人公である女の子の名前である。

 見はじめてほどなく、とてもきもちのいい映画であることがわかる。子供たちの表情や振舞いを見ているだけで、自分の表情がすっかりゆるんでいく。双眼鏡で鳥たちを見ているだけで楽しいように、この映画のなかのこどもたちを見ているだけで楽しくてしかたないのだ。
 こどもたちとそのふるまいをかわいいと感じるからであるのは事実だが、もっと深いところでうごかされる。遊牧する家族という最小単位の社会の中にぼくたちも立っていて、ゆるやかな山並みという自然が遠くにある。その間のはてしない草原に羊と馬があそぶ。世界と空間がそんなふうに明快に構成されていることで、ぼくはひとつの世界ひとつの小宇宙にいるということを実感して安心感をもたらされるのだ。ぼくはそこにすっかり浸りこんで心地よくなった。

WholeEarthCat.jpg 百科事典や図鑑・辞書・地図・歳時記のような本が、ぼくは大好きだ。数冊ときにはわずか1冊の本のなかにすべての世界が詰め合わせになっているからだ。
かつてホール・アース・カタログは、道具によって「全地球」の詰め合わせをつくって見せてくれた。そのとき、数ある項目の中のひとつに「Nomadics」(遊牧民の)というのが含まれていたが、この映画はそのことを思い出させた。 
 ナンサは、おさない子供でありながらたった一人で馬にまたがり自然と対峙する。遊牧民の子供たちは、自然のもたらすめぐみや潜む危険にも、季節の変化のよろこびやきびしさを通じて自然というものを理解するだろう。羊の子が育ってゆくさまも、それをたいせつに愛情をこめて育てた人間が羊のいのちをうばう様子も見て、生命とは何であるのかを知るのだろう。父、母、兄弟のように簡潔な人間関係は人間についての理解を助けるだろう。何度となくすまいを組み立て解体するのをみては、家とは何だろうと考えるだろう。
 ホール・アース・カタログにNomadicsという項目を設けたのは、遊牧民の生活と世界観にはすべての世界を身近に引き寄せるところがあると、編者スチュアート・ブランドが見抜いていたからなのだろう。

 最小限のコミュニティを思う一方で、限界集落という言葉についても考えずにはいられない。住人の数がどんどん減って、社会生活が成り立たなくなる寸前の集落のことだ。この遊牧民の家族、ナンサの家族は、最小限のたった一家族だけで遊牧をしている。しかし、本来の遊牧民の生活はこんなふうではないはずだ。かつては複数の家族が集団をつくり遊牧していたのだろうが、いまやモンゴルでも遊牧生活はなくなろうとしているのではないか。
 にもかかわらず、この映画は消えようとしているコミュニティよりも、むしろ発生しようとしているコミュニティを感じさせる。
すくなくとも、ぼくにはそう思われた。

■追記
The Last Whoke Earth Catalogでは、Nomadicという項目のひとつまえにCommunityという項目がある。

■関連エントリー
Whole Earth Catalog/aki's STOCKTAKING
Whole Earth Catalog(ホール・アース・カタログ)/PATINA LIFE in LoveGarden

投稿者 玉井一匡 : 08:26 PM | コメント (0)

May 05, 2009

「日本語が亡びるとき」

NihingogaHorobiru.jpg日本語が亡びるとき/水村美苗/筑摩書房

 漱石の絶筆となった「明暗」のつづきを文体そのままに書いた「続 明暗」を読んで大胆さにおどろかされたが、それ以後この人が小説を書いたことは知っていたものの読んだことがなかった。
 日本語の乱れについての嘆きと腹立たしさについて書かれたエッセイだろうかと読み始めると、日本語論でもエッセイでもなく、普遍語としての英語と、その他の言葉の関係の現在と遠からぬ未来のありようを真正面から論じたものだった。ここ数年で、もっとも刺激的で面白い本だと思った。図書館で予約しておいたのがしばらく経ってから届いたのを読んだのだが、返却したあとに本屋で買ってもう一度読みかえし、あちらこちら存分に付箋と鉛筆の書き込みを加えた。

 この本では、ことばを意味する語がはなはだ多くつかわれている。それらをざっとあげてみると、拾い落としもあるだろうが、それでもこんなにある。
<普遍語><国語><公用語><現地語><方言><書き言葉><読まれるべき言葉><聖典><話し言葉><外の言葉><図書館><大図書館><母語><ボゴ><「蓋付きの大箱」に閉じこめられた言葉><自分たちの言葉><口語><俗語><口語俗語><非西洋語><学問の言葉><母国語><多重言語者><三大国語><文学の言葉><数式><国語の祝祭><自国語><出版語><聖なる言語><書き言葉><言文一致体><真名><仮名>
これら、言葉に関わることばの数々を組み合わせれば、この本の全体像ができあがる。さながらそれはジグソーパズルのようでもあるが、ジグソーパズルはどういう結果に至るのかがはじめから分かり切っている。ぼくは、それを面白いと感じられることが理解できないのだが、その点ではこの本はジグソーパズルとは、むしろ対極にあるのかもしれない。
著者がどのような立場に立っているのかについて、「續明暗」を読んだだけのぼくには前もっての知識が皆目なかったおかげで、どんな結論に導こうというのか最後まで分からないから、推理小説を読んでいるようだった。帰りがけにこの本を読みたくて、自転車を置いて電車で帰る途中、乗り換え駅のコンコースで紙面から目を離せず、靴の底で黄色いタイルをたどりながら歩くくらいなのだ。
さらに、この本の論理の軸をなす「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン/山口隆、白石さや訳)という本について知らなかったことも好奇心を刺激したのだと、あとで思った。
空腹は最良のソースなのだ。Shishosetsu.jpg 著者は12歳のときに父の転勤で両親と姉と自身4人の家族としてアメリカにゆくが、ひとり部屋にこもって日本文学全集で漱石、鴎外、一葉、二葉亭四迷、谷崎ら日本の近代文学小説を読みふけり英語の世界あるいはアメリカ世界になじむことがない。たいそう偏屈な少女なのだ。「続 明暗」のころに初めて著者の写真を見たとき、だれかの目つきに似ていると思ったが、不思議の国のアリスだ。生きのいい悪意を秘めている。
このひとの二つ目の小説である「私小説 from left to right」には、大学院でアジア系学生として生きる主人公の目がこの間に読み取ったものを書いている。日本語の文章に英語による会話を混じえるため横書きというまれな形式を選んだ。だから「from left to right」という副題を添えたのだと、本書に書かれている。
 長じて日本に戻ったときの、このくにの文学の世界についての印象をこう書いている。
「いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしいものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。『あれ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。」
辛辣きわまりない書きようだが、外の世界から見ているぼくたち読者には痛快このうえない。
 日本の文学に対する、こうした嘆きと怒りを燃料に、「想像の共同体」という概念をエンジンとして搭載した乗り物で、日本語の世界に単身で乗り込んだのが本書なのだ。ひとの見方の影響をうけたくないので、ぼくは書評をまだよんだことがないけれど、批判的な指摘として「想像の共同体」の論理そのままではないかという人がきっといるだろう。だが、それでいいのだ。エンジンだけでは世界を変えられないのだから。それでどんな乗り物を作りどこに行き、何を見るのか何を伝えるかが問題なのだ。
 
本書の論旨は、およそつぎのようなものだ。アイオワにおける国際ワークショップ、パリの国際会議での経験によって生じた認識をもとに、「想像の共同体」による理論を駆使して日本の文学と日本語の歴史そのありようについて論じている。
・日本は、非西洋にあってほぼ唯一、自国語による近代文学をもつことができた。中国文化圏にあって、さまざまな幸運な条件のおかげで独特の文化受容をなしとげたこと、そしてやはり幸運のはからいで西洋の植民地となることを免れた。
・さらに、戦争の過程でアメリカは日本研究のためにきわめて優秀な人材を投じ、その結果、戦後にドナルド・キーンやサイデンステッカーのような人たちがやってきて源氏物語や明治の日本文学を英語で紹介した。おかげで、日本語は主要な文学をもつ言葉のひとつとして認識されるようになった。文学とは、自分の母語として身につけた言葉でしか書くことができないものであるから、そうやって伝えられ評価を受けた日本の文学と言葉はきわめて幸運な立場にある。
・しかし、明治以来、日本の政府は日本語をないがしろにしつづけた。初代文相の森有礼は英語を国語として採用しようとしたし、戦後に定められた「当用漢字」とは、いずれ表音文字化すべき日本語で当面つかいつづける漢字として定められたものだった。
・一方、英語は、アメリカの経済力・軍事力のおかげで、「普遍語」の地位を獲得した。
普遍語とは、かつてラテン語があるいは中国語(漢文)やフランス語がそうであったように、周辺の国々のある階層の人々のみが書き、それを読むことができるのだが、それによって人間の「叡智」が蓄えられうけつがれ磨かれてゆくものだ。
「ある階層の人々」は、自国語と普遍語のふたつを自在に使う人のことだが、インターネットの出現によって、英語は普遍語としての地位をますます強化してとどまるところを知らない。
・それでは、これから日本語はどうすればいいのか。というのが、本書が最後に掲げる命題である。推理小説の謎解きを書いてしまうことになるが、著者の結論は、公教育において英語の教育を強化するよりもむしろ日本語の教育を充実せよというのだ。英語の勉強を深める機会など、この時代はその気にさえなればどこにでも無料でころがっているのだからと。

 この結論そのものは、かならずしも独自のものではないかもしれない。しかし、本書の価値は結論に至るまでのところにあり、そこに持ってゆくまでの著者のものの見方の大部分にぼくは同意するし、著者の憤りにも価値観にも共感した。

投稿者 玉井一匡 : 05:00 AM | コメント (6)

April 28, 2009

献体

Kentai1.jpgしばらく前から、献体をしたいと母が言うようになった。20年以上前に死んだ義父も、そういっていたが、そのうちにガンがみつかって手術もムリだといわれると、そんな手続きなどすっかり忘れてしまった。
 ぼく自身も死んだら、献体をしてもいいと思っているから「この年まで生きて、もう何の役にもたたないからせめて何かのお役に立つようにしたい」と母がいうのもわかるつもりだ。
「献体」をキーワードにしてGoogleで調べたら53,400件もある。そのうちのトップにあるのが「財団法人 日本篤志献体協会」だ。献体とは何であるかということ、どうやって登録するのかが書かれている。
登録は、協会ではなく実際に献体しようと思う大学などにする。昨今は希望者が増えているのだが、ところによって違いがあり、不足しているところもあれば辞退する大学もあるから、具体的に大学病院に問い合わせてほしいなどと書かれていた。献体登録者の総数が216,420名を越え、そのうちすでに献体した人が81,942名あるそうだ。

Kentai2S.jpg申込書:Click to PopuP
 身内に卒業生がいる地元の大学病院として新潟大学医学部か日本歯科大学と考えたが、新潟大学の窓口がインターネットではわかりにくかったので日本歯科大学のサイトで調べてからに電話をかけると担当者がおおかたの説明をしてくれた。

 後日、A4の封筒に入れられた書類が届いた。青い紙に印刷された説明書類と白い紙の申込書類がそれぞれ数枚あった。
親、子、兄弟など肉親の同意書に署名捺印が必要だという。
ぼくと妹は本人が希望するのだから同意する。母の弟妹も、すぐに同意してくれるだろうと思ったが、郵送というわけにはゆかないから母の弟である叔父一人と叔母二人に会った。前もって母本人から電話で説明しておいてもらったのだ。
母の2才下の叔母
「この年齢になると、お姉さまの気持ちは分かるわ。とにかく、あたしは散骨してもらいたいの。お墓になんか入るのはいやなのよ」
と言ってさばさばと同意してくれた。
しかし、歳のはなれた弟妹がむしろ抵抗があるようだった。
ひとりは「賛成はしないが、子供たちが同意して捺印したあとで印は捺す」といい、ひとりはちょっと顔をしかめた。
ふつうの場合、火葬場に向かう出棺のあと病院に運ばれて、2年後くらいのうちに解剖して火葬したあとに戻ってくるという時間のかかりかたが、二人ともどうも気になるというのだった。
たしかに、具体的な状態を想像すると、あまり気持ちよくはないのはわかる。本人にすれば、どのみち自分がいなくなってからのことだから大して気にならないのだが、残される人間は、いまどうなっているのかということが想像されて抵抗があるからなのだろう。

*送られてきた封筒の中の書類はつぎのようなものだ。
A 説明書類
 ・献体の輪をひろげようー白菊会
   献体とは何だろうか
   献体についての質問と答え
   献体に絶対必要な同意
 ・白菊会の献体のこころ/白菊会・入会のしおり
 ・おねがいー歯科学生のためにも「献体」を
   歯の病気とからだについて
   歯科大学で教えていること
   人体解剖実習について
   献体篤志家について
B 申込書類
 ・入会登録申込書
 ・同意書

■関連エントリー
おにぎりとおむすび/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 03:05 AM | コメント (27)

February 23, 2009

Tokyo Picnic Club:東京ピクニッククラブ

PicnicClub1.jpgClick to Fly them onto Newcastle/Gateshead
 2月20日の夜、HUMという集まりに参加した。
 正式な名称は武蔵住宅都市懇話会。メンバーのひとりが、自分の追求しているテーマについてレクチャーをする。それについて質疑・論議をおこない、のちに懇親会に移行する。住宅と都市についてある程度の共通する関心をもって高校の同窓生が集まるという会なのだ。そういうものがあるということは参加した友人の話で何年も前から知ってはいたが、ぼくはこれまで行ったことがなかった。今回は友人が転送してくれた案内のメールに好奇心を刺激されて、打合せで30分ほど遅れたからそっとドアをあけて入っていった。(むっ、40人ほどが席についていて、建築の内田祥哉先生や高校時代の数学の先生にして担任、のちに校長・大坪先生・・大先輩もいらっしゃる)
 話し手の太田浩史氏は、東京ピクニッククラブなるものを夫人とともに主宰している。遅れたせいで彼がピクニックに関心をもったきっかけについては聞き損ねたが、本職は建築家だ。彼は61期ぼくは38期、その差23。はじめぼくは、ピクニックなどという軟弱をちょっと気に入らないが何をやっているのだろうかと話を聞きはじめたのだが、聞くうちに行動力と企画にすっかり感心してしまった。

 太田氏は、イギリス人の蒐集したピクニックセットのコレクションをオークションで落札した。受け取りに行くと、ぼくは世界でいちばんのコレクターだから今度はきみが世界一になったんだよと言われる。
 東京ピクニッククラブは、あちらこちらの公園や公開空地、空き地(ブラウンフィールドと呼んでいる)、はては中央分離帯など、都市につくられながら放置に近い扱いをうけている空地(くうち)から何の手も加えられずにいる空き地にいたるまで、命をふきこみ、もちろんみずからは楽しむために、ラグを敷いてピクニックバスケットを開き酒食を楽しむ。
 デザイナー、フードコーディネイターなども加わり、さまざまなモノを企画・製作したり行動したりする。それについては東京ピクニッククラブのウェブサイトに詳しいのだが、サイトには、たとえばつぎのような項目がある。

*ピクニックの心得(15Rules):ピクニックをたのしむための15のルールの制定
公園や緑地の乏しい日本の都市に、ツールを用意し行動をくわだて、屋外に一時的とはいえ開放的生活空間をつくり出す行動とするべく15のルールを設けた。
たとえば RULE 02にはこうある・・・「 屋外の気候を活かすべきである.蒸し暑い日には涼風のナイトピクニック,寒い日には陽だまりのランチピクニック,適した時間と場所を見つけて楽しむべし」野生生物のように環境にみずからを適合させるのだ。

*Works:これまでにつくったモノ、行動したコト
 新しいピクニックセットのデザインの提案、Portable Lawn(キャスター付き可動芝生)のデザインと制作、ボディに芝生模様の塗装をほどこしたSMARTのデザインと制作・・・等々ピクニックをたのしむための29の実積があげられている。
PicnicClubAngel.jpgPicnicClubMilleniumBridgeS.jpg中でも特筆すべき「Work」はモノではなくピクノポリス(Picnopolis)とよぶイベントである。
イングランド北部の都市ニューカッスル/ゲイツヘッド(川をはさんで北にNewcastle Upon Tyne、南にGatesheadがある)から「ピクニック・イベントを企画 して欲しい」という依頼をうけておこなったものだ。公園の芝生の一部を飛行機の形に切り取る。そこに残された土には「Grass On Vacation」という看板を立てて芝生の不在を報せ、切り取った飛行機型の芝生はPortableLawnに姿を変えて期間中あちらこちらに移動する。その芝生(mother plane)に率いられるようにグリーンの飛行機型エアマットを配置につかせて10日間に10カ所でピクニックをひらいたのだ。
 ニューカッスル/ゲイツヘッドには、プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドFCがある。巨大彫刻エンジェル・オブ・ノースや動く橋ミレニアムブリッジをつくった。12億円ずつ10年間にわたり、市が費用を負担してさまざまな施設をつくったりイベントをおこなったりする制度が設けられている。その一環としてこのイベントが行われたのだ。こういうことをやらせる自治体があり、それを導く政治家がいて、それをつくる市民が健全であるはずだ。
 エンジェルをつくったアントニー・ゴームリーは、はじめ市民の90%がこの彫刻に反対だったのに対して、何度も何度も訪れて市民に説明し対話をおこなった末にこれをつくった。そういう過程もアートの一部分なのだと彼は考えている、とてもすてきな人なんだと、この日の参加者のひとり田中孝樹氏は話してくれた。
 さらにその背景には、かつて産業革命を起こして牽引し、おそらくは工場労働者を劣悪な環境で働かせ、資源や販路を手に入れるために植民地を手に入れた時代があり、さらにはイギリスの産業の没落があっただろう。そこに橋やエンジェルのようなモノたちやを置いて活動をうながすことによって、この都市を再生させたのだ。

太田氏の本来の研究テーマは「都市再生」だという。

HUMの懇親会では、このイベントのときに地ビールの会社と提携してつくられた草の香りのビールの差し入れがあった。

■追記
 この芝の飛行機を見てエンジェル・オブ・ノースに似ていると思ったので、ぼくは会場でその関係について質問をしたのだが、そういえばJリーグ百年構想のMr.PITCHはあるく芝生だったなと思い出した。サッカーもイギリスに起源があるのだ。
 Google Earthでイギリスの郊外を飛行すると、羊の散在する牧草地がどこまでも続く風景が多くて、だらしなく都市が広がる日本の都市郊外と較べるとなんと美しいのかと、いつもうらやましく思う。芝生というものは、イギリスにとっては飼い慣らした自然のたいせつな記号なのだ。
 日本で芝生の意味するものは、決してイギリスと同じではないだろう。だからこそ、芝生を飛行機に見立てて英国にとんでゆくというのはうまい考え方だ。では、地形も歴史も違う日本にとって、イギリスの芝生にあたるものは何なんだろう。

 都市につれてきた自然のもとで人々が集うという意味では桜だ。芝生は下にひろがる床、桜は上をつつむ天井。芝生の広場にさくらが点在するというのが日本の公園の典型のひとつになったのは、慣れ親しんだ桜と西洋の芝をあわせた結果なのだ。
15Rulesの10番目に「ラグに上がりこむのではなく,ラグを囲んで座るべし.ラグは集まりの象徴であるから」とある。ラグは床ではなくテーブルというわけだ。日本の花見で毛氈の上に座るのは、毛氈で床をつくるからなのだ。
 
とにかく、花見を美しくたのしむにはブルーシートでなく、きもちのいいものを使うようにしたいものだ。

 

投稿者 玉井一匡 : 02:35 AM | コメント (8)

February 18, 2009

アカガエルと不耕起栽培

Akagaeru1S.jpgClick to PopuP
 近頃ではアカガエルを見ることさえ滅多にないが、先日の日曜日、彼には恐怖を味あわせてしまったけれど、ひさしぶりに手にとってみることができた。田んぼの中にはタマゴもたくさんある。中には、オタマジャクシになりかけているやつも沢山いる。卵を手に掬って近くで見ると、ひとつひとつが球形のゼリーの中にまもられているのがタピオカのようでちょっとうまそうにみえた。
 そこにはニホンアカガエルとヤマアカガエルの二種類がいるときいたので、その場でiPhoneを取り出しGoogleで探す。「ヤマアカガエル、ニホンアカガエル」と打ち込むとカエルのサイトがみつかったが、なにさま片手にカエルを持ったままでは、はなはだ扱いにくい。写真をとって、あとから調べることにした。目の後ろから背中に伸びる線のパターンで見分けがつくと書かれている。
こいつを放してやってから、水路に潜んでいるやつをみつけたので腹ばいになって3㎝ほどまでカメラをちかづけて写真を撮った。これは、ニホンアカガエルのようだ・・・と、あとになってインターネットで確認した。もちろん、カエルは田んぼに返してやりました。
 が、アカガエルにかぎらずアマガエルもそうだが身体の表面をつつむ液体は有毒なので、カエルをさわったままの手で目をこすったりしないようにしなければならないと書いてありました。こどもたちにさわらせるときには、あとで手を洗わせるようにしなきゃいけないわけだ。

 田んぼにメダカが棲まなくなったということが世間で言われるようになったのは10数年前のことだろうが、実をいえばそれまでぼくは気づいていなかった。何十年も、年に何回も新潟と東京を行き来していたのにだ。アカガエルがいなくなったのは、メダカがいなくなったのと同じく、乾田化が理由だ。産卵時期に田んぼの水がなくなってしまったのだ。
 農業を効率よく営むためには、機械をつかってできるだけ大規模に米作りをするのがいいと考えられてきた。鋤き起こすときには土が乾いてしっかりしていないと、大型の農業機械が田んぼの中に乗り込むことができない。それに、いったん水をなくしてやると稲は水を求めて深く根を伸ばすのでしっかり稲が育つのだと、農家のひとに教えてもらったこともあった。それぞれにいろいろな理由があって、不耕起栽培に踏み切る人はまだまだ少ないそうだ。

Akagaeru3S.jpgClick to PopuP
 アカガエルを見たのは、千葉県多古町の桜宮自然公園だ。ここは、面倒をみることがむずかしくなった谷津田を、周囲の里山をふくめて自然公園として公開した。その田んぼの一画を、不耕起栽培とその普及活動をしていらっしゃる鳥井報恩氏が米作りをひきうけた。不耕起の田んぼは大型の機械で田を鋤き起こすことがないので、冬も水を張ったままでおく。刈り取ったあとの稲もそのままにしている。二番目の写真で、残されたままの稲の切り株(というのだろうか)が水の中から顔を出しているのがわかる。
 だから、アカガエルをはじめとしてさまざまな生き物が育つのだ。カエルがいれば鳥はカエルを食いに来る。ヘビもふえたそうだし、カワニナも育って、それを食べる蛍も飛ぶようになったそうだ。人間が自然環境の一部分をとりはずすと、そこに依存していた生き物やその生き物に依存していた別の生き物が減ってしまうけれど、取り外したものをもとにもどしてやるとこんどはまた少しずつ生き物が増えてくれるのだ。里山は自然そのものではなくて、長い時間をかけて人間が飼い慣らした自然だが、放置された田んぼが増えればむしろ自然が広がるはずなのに、谷津田が生き返るとむしろ自然が生き生きしたように思えるのはなぜなんだろう。
 農業は人間と自然の境界にある。なかでも谷津田は自然と人間の領域がうまく重なり合っている領域だったのだ。グラデーションのように徐々にやさしくなっている人工と、おだやかになった自然が混じり合っているところなのだろう。

■関連エントリー
1.やせがえる/MyPlace
2.やせがえる・後日譚、というよりも先日譚/MyPlace
3.コモリガエル/MyPlace
■追記:アマガエルの目力(「メカ」ではなく「めぢから」と読んでほしい)
wikipediaのニホンアマガエルの項目にはおどろくべき記述があった。彼らの目はリトラクタブルなのだそうだが「大きな獲物は眼球をひっこめ、眼球の裏側で口の中の獲物をのどの奥に押しこんで呑みこむ。」というのだ。目の玉がとびだすってのはあるが、目の玉で食い物を押し込むっていうんだからとんでもないやつだ。

投稿者 玉井一匡 : 06:53 PM | コメント (6)

February 09, 2009

PATRIA O MUERTE:祖国を、さもなくば死を

CheCoinS.jpgClick to PopuP
 以前、友人の塚原がキューバみやげに、ゲバラの肖像のはいった3ペソのコインをくれた。ミーハーといわれてもしかたないが、ぼくはこんなものがうれしいのだ。ビエンチャン、バンコクなどでもゲバラのTシャツを買った。このコインは直径26mm、ゲバラの肖像の上に「PATRIA O MUERTE」と書かれている。「祖国を、さもなくば死を」は、アメリカ独立戦争の前にパトリック・ヘンリーが演説で言ったという「自由を、しからずんば死を(give me liberty or give me death!)」にちょっと手を加えてアメリカに投げ返したのにちがいない。
だが、キューバでは外国人であるはずのゲバラにとって、ここで言う「祖国」とは何を意味しているのだろうかと、気になっていた。
ゲバラの映画「CHE」の一本目、「チェ 28歳の革命」をまだ見ていないうちに、上映している映画館がほとんどなくなってきた。インターネットで調べると、ユナイテッドシネマとしまえんではまだ21:30からの回だけやっているのを知って金曜の夜に駆けこんだ。

 昨年の秋、「ゲバラの映画がカンヌで上映されて評判がよかったらしいから、日本にもきっと来ますよ」と、ギンレイホールの藤永さんが新聞の切り抜きを手渡して知らせてくれた。「モーターサイクルダイアリーズ」やその原作「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記」の話をしたことがあったからかもしれない。日本で上映されるにしても単館上映だろうと思っていたが、全国のあちらこちらで上映されることになった。
 監督はオーシャンズ11スティーヴン・ソダーバーグであるし、商業的な成功もねらおうというのだ。そんなことが可能になったのは、監督が言うようにブッシュがあまりにもひどかったこともあるだろうし、ゲバラの人気が広がったことや、アメリカ合衆国にとってゲバラがもう「危険」でないと思われるようになったせいかもしれない。

 さて「PATRIA O MUERTE!」だが、この映画では1964年、国連でアメリカの経済封鎖を非難しキューバの革命政府の正当性を主張するゲバラが演説の最後に言い放つ。右のYouTubeの映像ではゲバラの国連演説の声が聞けるが、ここにはそれらしいことばが聞こえない、ぼくには。
 オートバイで南米の国々をいくつも越えて巡り国境を越え、後年メキシコでカストロと出会い一緒に小船グランマ号でキューバに渡る。ゲバラにとって祖国とはアルゼチンでもなくキューバでもなくて、中南米のアメリカ諸国のすべてを意味していたのではないか。それらはヨーロッパからやってきた連中が勝手に切り分けたにすぎない。だとすれば国境というものを別の何ものかに変えようと考えるのは当然だ。
 南米諸国に手を伸ばし利益を吸い上げるアメリカの貪欲に対して、それぞれのくにが独立を保ちつつ共生し、グローバリズムに対抗する南米を祖国として、ゲバラは自然な思いでボリビアに渡ったのではないか。

 キューバを愛し、国境に頓着しなかった外国人といえばもうひとりアーネスト・ヘミングウェイが思い浮かぶ。彼は、やはり国境を越えてスペインの内戦に参加してフランコの軍と戦った。ファーストネームERNESTがゲバラのERNESTOと同じだったのは偶然だったにしても、銃によって自殺した文豪ERNESTと、閣僚の座を捨てて喘息の身をジャングルの苦しい戦いに投じたERNESTOの最期に共通するところがあるのは、偶然ではないように思えてしかたない。
ふたりとも、外国で死を迎えたとは考えなかっただろう。

ゲバラのTシャツは、いくつかもっているけれど気恥ずかしくて人前では着たことがないが、こんど東京ハンズで部品をさがして、コインをペンダントに仕立てようか。
が、その前に「チェ 38歳の手紙」の、つらいボリビアを見なければならないのだ。
去年見たフランスのテレビ局の長時間インタビューが思い出される。
「信じられないよ、あいつは喘息の薬を置き忘れてボリビアに行ったんだよ!」と
何十年も前のことを、外国のジャーナリストに話していたカストロの、いつもながらのあふれ出る情熱とことば
弱点や欠点をたくさん持っていて、ときにはうんざりさせられるんだろうが、だからこそなおさら敬愛される
なんと魅力的な男たちをふたり、歴史は出会わせてくれたのだろう。
この映画が描くのは、英雄の悲劇より、革命の成功より、かくも魅力的な二人の男なのではないか。

■関連エントリー
CHE /aki's STOCKTAKING
知られざる豊かな国キューバ/MyPlace
モーターサイクルダイアリーズ/MyPlace
アメリカ帝国への報復/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 12:20 PM | コメント (0)

January 30, 2009

クルド人のまち:イランに暮らす国なき民

KurdTown.jpg「クルド人のまち」/写真・文 松浦範子/新泉社/2,415円 

「クルディスタンを訪ねて」につづく、松浦範子さんのクルドの本ができた。
前作の舞台はトルコだったが、これはイラン。ふたつの本の違いは国のほかにもうひとつ、そのタイトルにこめられていると、読み終わって気づいた。
「クルディスタンを訪ねて」では、著者と友人は別の目的で写真を撮るためにトルコを訪れ、たまたまクルド人たちの住む地に行く。まっとうな知的好奇心に満ちた旅行者として、二人の日本人女性は、日常生活をいとなむ人たちのできるだけ近くに視線を寄せて異文化を見ようとしていたが、ある出来事によって、そうした旅行者の好奇心が生活者の思いとはかけ離れたところにあったことに気づかされる。
 クルド人たちが古くから生きてきた場所が複数の国に切り分けられ、そのひとつであるトルコという国家の中で生きるのがどういうことであるかを感じ取った。以来、彼女はクルディスタンについてできるだけ深く知り、それを伝えようと踏み込むことのできるぎりぎりのところにゆき写真を撮り続ける。あの本の表題が「訪ねて」という動詞だったのは、初めて訪ねたときの行動で知ったことを深く受け止めて、それが後の行動を決めたからだ。

 この本のタイトルは名詞だ。「まち」だ。「町」は、制度として行政区画としてのニュアンスが大きいが、「まち」は、そこに生活するひとりひとりの人間や積み重ねられた歴史、文化、といったものの堆積があるように感じる。意識的に「クルド人のまち」と名づけたのだろう。イランでは、トルコのクルド人よりもアイデンティティを表に出せるだけの歴史があり、生活のスタイルも生活する場所も受け継がれのこされているらしい。

Mahabad.jpg 表題にまちという名詞を選んだわけが、おそらくもうひとつある。
「クルディスタンを訪ねて」に、イランでクルド人が独立国家を樹立したことがあったと書かれていた。それがどんなものだったのか気になっていたのだが、この本でその疑問が解けた。

第二次大戦直後の1946年、わずか11ヶ月とはいえクルドの国、「マハバド(Mahabad)共和国」が存在していたのだ。その共和国の大統領となったガジ・ムハンマドの秘書として近くで時間をともにした彼の甥ホマヨーン氏に松浦さんは会う。共和国が倒されたときにガジが従容として敗北を受け容れる話に、ホマヨーン自身の松浦さんに対する接し方に、短命だった共和国の記憶が清冽によみがえる。クルド人が、文化や生活としてだけでなく国を持ったことがある徴(しるし)として、国をつくるもとになるはずの「まち」ということばを、松浦さんは選んだのだろう。

 この本が出たら、読んだあとに松浦さんに会おうと岩城さんmasaさんと話していたので、秋山さん五十嵐さんにも声をかけて、先日、神楽坂のキイトス茶房に集まった。
いろいろ聞こうと思っていたことがあったのに、ぼくはいろいろ忘れてしまった。
しかし、クルドの文化はペルシャと共通するところが多いのだと松浦さんはおっしゃる。いまもイランにはコルデスタンという州の名称が残されている。トルコとくらべればイランのクルド人には、自分たちの文化を表現する自由がある。それは、共有する文化的背景があるからなのだ。

 クルドのために立ち上がるべきだと言われることがあるけれど、それはちがうように思うと彼女は言う。たしかに、かつてひどい仕打ちを受けたユダヤ人たちが、ガザにおいてパレスティナ人にとった行動を見れば、もしもクルド人が物理的な力で自分たちの国家を作り上げたとしても、それはまたいつかは暴力となって返ってくる、絶えざる応酬がつづくだろうと思う。
世界中、そういう苦しみがつづいているのだ。だとすれば、ほかのみちがどこかにあるのではないかとぼくは夢想する。たとえば、複数の国に分けられたクルド人はふたつずつの国籍を持ち、自由に複数のクルド分配国家を移動できる特権を与えるというようなことはできないだろうか・・・などと。

投稿者 玉井一匡 : 11:31 PM | コメント (10)

January 25, 2009

知られざる豊かな国キューバ

cuba1s.jpg
 「知られざる豊かな国キューバ」という催しを、当日の土曜日になって中野区の掲示板で知った。今年は、キューバ革命50周年チェ・ゲバラ生誕80周年だ。
 キューバについてのぼくのさまざまな知識は、時間も場所もあちらこちらに点在しているので、ひとつに結ぶとその像はぼやけてしまう。40年以上も前に心動かされたフィデル・カストロやチェ・ゲバラへの共感と敬愛。 娘や友人などがキューバに行ってきたときに聞いた、具体的だが断片的な話。 キューバ危機とアメリカのキューバ侵攻作戦。ヘミングウェイ、「老人と海」。野球やバレーボールチームの躍動と力強さ。「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」のひとびとと音楽の魅力。ボートで脱出してカリブ海を渡る人たち。都市でも進められる有機農業。

 いまのキューバはどうなのかを知りたくてぼくはこの催しに行くことにした。
現在、世界中が陥っている経済危機は、きっとアメリカ史上最低の大統領が、ぼくたちの国の首相などの協力でもたらしたこの状況だが、いずれいつかは来る必然的なものでもあった。
成長させ続けなければならないという経済の構造が、資源も廃棄物の捨て場も有限な、地球という場所につくられている事実をあわせれば、いつまでもこのまま続けるわけにはいかないという答えが出てくるのだ。
 すると、ソ連の崩壊とアメリカによる経済封鎖で危機を先取りしたキューバが、うまくやっていければ、これから目指すべきモデルになるのではないかという期待がぼくにはあるのだ。

第一部 講演とパネルディスカッション、第二部 ダンスと音楽という構成の、第一部だけにぼくは参加した。パネラーは、写真家でカーニバル評論家という白根全、ジャーナリスト・NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表の工藤律子キューバの有機農業などをよく知る長野農業大学の吉田太郎ゲバラについての著作の多い戸井十月の4氏。

冒頭に駐日キューバ大使が話した。儀礼的な挨拶を予想していたぼくには、さすがカストロの大使と思わせる饒舌と情熱。白根氏は、キューバの人々のカーニバルにかける熱さについて写真を背景に、工藤氏はキューバの生活は楽じゃないんだということを具体的な日常生活から、吉田氏は統計や歴史の視点からやはりキューバの困難や矛盾を話した。おかげで、やや会場が沈んだ。
そこで戸井十月が登場。フィデルとゲバラの志の高さを語り、いろいろ問題を抱えているけれど、それでもこうやってみんなキューバを応援しようという気持にさせる魅力があるんだという発言で会場に元気をとりもどした。(この会場では、カストロとは言わずフィデルと言った。弟のラウルと区別するためなのだ・・・と思っていたら、キューバではカストロのことをファーストネームで呼ぶらしい)こうして振り返ると、この四人による構成はよくできていたのだ。

 カストロの個人崇拝はないし肖像などもほとんど掲げられていない、ゲバラの壁画があるだけだとキューバに行った人たちは言う。まっとうな社会主義なら個人崇拝を否定するのは当然のことなのに、北朝鮮はもちろんソ連中国をはじめとする社会主義諸国はあのざまだから、キューバのありようは稀なことなのだ。
教育と医療はもっとも重要なことだとしてとくに力を注いで顕著な成果を上げ、いずれも無料で受けられるが、国内には受けた教育を生かす場が少ないし、ソ連の崩壊とアメリカによる封鎖がもたらす物資不足で、とても苦しい生活をしている。優秀な医師たちを南米をはじめ各国に医師たちを派遣して、なんとか外貨を獲ている。物資の足りない生活をしながら国民がかろうじて耐えてきたのは、カストロをはじめ幹部が特権的な生活をしていないからだろう。
 物質的な満足よりも精神的な満足が大切だと言われても、国民の我慢にも限界があると工藤氏はいう。だが、物質と精神という対立概念だけではない。べつの切り口をみれば、他者より優位に立つことに価値を置く立場と、他者と分かち合うことに価値を見出す立場・・・つまり競争と共生という対立概念がある。フィデルやゲバラは、物質であれ精神であれ、他者より優位に立つことによってではなく、他者とよろこびを分かち合うことで満足を得られる世界をつくろうと出発し、それを持続してきたのだ。

Che.jpg「チェ 28歳の革命」・「チェ 39歳別れの手紙」を監督したスティーブン・ソダーバーグは、戸井氏によれば、はじめゲバラのことをほとんど知らなかったし、さまざまな障害もあった。しかし、ブッシュがあまりにひどいので、この映画を作らなければならないと思うようになったという。だとすれば、この映画ができたのはブッシュのおかげというわけだ。経済封鎖も、むしろキューバを持続させ結束させる効果があっただろう。
 イラク戦争や金持ち優遇政策にしても、じつは現代の世界の経済システムがいかにひどいものであるかという本性をあきらかにするという役割を果たした。オバマの登場も、ブッシュがいたからこそ実現したのだろうし、ブッシュのおかげで多くの人間の生命を失い、あるいは苦しい生活を強いられることになったが、それによってカストロやゲバラが目指したものの価値に気づくことになれば、結果として人類が救われることになるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:55 PM | コメント (4)

November 08, 2008

「彼らの居場所」と「クルディスタンを訪ねて」

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 ふた月も前のことだがアコーディオン奏者の岩城里江子さんからメールをいただいた。友人の写真家が新宿で個展をやっているので時間があったら見てほしい。国を持たない民族クルディスタンを撮り続けている写真家です。明日が最終日なのだが・・・とあった。masaさんと一緒に見に行ったら、玉井にも見せたいといわれたのだという。岩城さん自身のブログ「う・らくんち」に、この写真展についてのエントリーがあった。

 写真展は「彼らの居場所」というタイトルの、トルコのクルド人たちの生活を撮ったものだった。
 女たち子供たちの写真の多くは、こちらを見つめている笑顔が生きる喜びだけからから生じたものではなく、さまざまな悲しみや憤りを包む勁さのあらわれのようだった。
 彼らがイラクやトルコに住む少数民族として弾圧されていることや、かつて難民として受け入れを求めるクルド人を日本政府が強制送還したことを知ってはいた。しかし、イラクやアフガンへのアメリカ侵攻のかげに隠されて、どういう人たちがどんなところにどんな風に生きているのかという具体的なありかたを、これまでぼくは何も知らなかった。知らないということに気づいてさえいなかった。この写真展はそれを気づかせてくれた。
 写真展のタイトルは、このブログのタイトル「MyPlace」と重なる。しかも、佐藤真が監督したエドワードサイードについてのドキュメンタリー映画「OUT OF PLACE」とも関わる。

KurdVisit.jpg 会場には松浦範子さん自身がいらしたので、じかに話をうかがうことができた。じつは、ほんとうに伝えたいことを撮った写真は見せることができないのだという。そこに生活している人たちに迷惑がおよぶからだ。いつまでも会場で話をうかがうわけにはゆかないから、会場に置かれていた本を後日あらためて読んだ。
「クルディスタンを訪ねて」(文・写真 松浦範子/新泉社)
は松浦さんが文章を書き写真を撮った本だ。
 クルディスタンとはクルド人のくに・・・「彼らの居場所」だ。「アフガニスタン」がアフガン人の国であるなら「クルディスタン」はクルド人の国であるはずだ。しかし、クルディスタンは文化を共有するひとびとの集まる「くに」ではあるけれど、制度としての「国家」ではなく国土も持たない。クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアなどの数カ国に分かれて生き、「くに」は思いとして存在するだけだ。いや、クルド人が数カ国に分散して生きているという言い方は正しくない。彼らははるか昔から遊牧民として広大な草原を自分たちの居場所として生きてきたにもかかわらず、あとから来た「先進国」がそこに国境線を引いて、クルド人の生きてきた場所を勝手にいくつかの国に切り分けてしまい、そこに生きる人たちも切り離されてしまったのだ。同じように、現実の人間の生活と無関係に国境線を引いてしまった結果、内戦が生じているところが、世界中のいたるところにある。

 これはただの旅行記ではない。だが、みずから旅をしてさまざまな人やさまざまな出来事にふれ、それらをみずからのうちに肉体化し熟成して印画紙に残し文章にする。その意味では、たしかに旅行記である。はじめ別の目的でトルコを訪れたときに、クルド人の多い東部を訪れる。そのとき、著者はクルド人たちが差別や弾圧を受けている事実を知る。以来、カメラをかかえてクルド人の住むまちを何度もおとずれ、ときに小さなホテル、ときに友人のすまいに泊めてもらう。その家の娘たちの部屋に寝起きして、彼女たちの日常を共にする。女たちや家族のなかに堆積しているトルコ支配の残したきずを記憶に写し取ってきた。
 報道のために来たのかと追及をうける。軍に連行される。観光のために来たのだと言い続ける。みずから戦いの場に行くことはないが、命をかけて独立を勝ち取ろうとする人たちのあることを身近にする。政府によるクルド弾圧の話をしてくれる人たち、宿を提供してくれる人たちがいる。
文章と写真は対応していない。それは、受け容れてくれたクルドのひとびとにおよぼす影響を最小限にとどめようとする配慮からなのだろう。

 はじめに写真展を知らせるメールを読んで、ぼくは大石芳野さんの写真を思った。「クルディスタンを訪ねて」を手にしてみると、腰巻きには、すでに大石さんの推薦文が書かれていた。いずれも、戦いに家族を傷つけられる女たち、こどもたちを撮っている。大石さんは多くの国で、主にこどもたちに眼を向けているが、松浦さんはトルコのクルド人たち、それも女たちに重心が置かれているように思う。

 クルド人たちが自分の国家をもつことは、どうすれば実現できるのだろうかと、ぼくも考えずにはいられない。しかし、ユーゴスラビアやアイルランド、パレスティナ、つぎつぎと悲惨な歴史が思い浮かび、「麦の穂をゆらす風」で見たアイルランドの、肉親やかつての同志と戦わねばならない辛さをぼくは思い出す。
 クルディスタンの実現は可能なのかという思いに、松浦さんは立ち止まることもあるにちがいない。彼らに武器をとって戦うべきだとはいえない。言いたくない。なにをしてあげられるのかと自問するだろう。しかし、この写真や旅行記が、彼らの状況やひとりひとりの人間として生きかたをつたえて、遠くに住む人がそれを知り、思いを分かちあっていてくれる・・・すくなくとも、そう思えることだけでも大きな支えになるだろう。
 たしかなことは、世界中を切り刻んで山分けしようとしたことに対する逃れようのない責任が、西欧先進国にあるということだ。そして、ぼくたちの国家も同じことをしようとした歴史がある。

■追記(2008.11.12)
 松浦さんの2冊目の本が、近々刊行されるそうです。イランのイラク国境近くのクルディスタンを描いたものです。
「クルド人のまち」イランに暮らす国なき民:写真・文 松浦範子/新泉社刊/2300円

投稿者 玉井一匡 : 06:21 PM | コメント (10)

October 09, 2008

彼岸花3:窮屈な成長

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先週、 白い彼岸花を買ってきて植えたと野澤さんがエントリーをされたときに、「彼岸花:両義的な偏屈」という3年前のエントリーにコメントを書いてくださった。
 田舎によくあることだが、新潟にある墓はお寺の墓地ではなく住宅のならぶ一画にカイズカイブキの生け垣で囲われた3間角ほどの敷地に七つの墓が立っている。ひところぼくの父は、墓はひとりずつつくるものだと言っていたことがあったからだが、自分が入るときが近づいてきて、ひとりひとりの墓にしていたら数十年もしたらだれも来てくれなくなるということに気づいたのかもしれない。「玉井家父祖歴代之墓」ならまとめてもいいのだと言い出した。ぼくにはほとんど関心のない問題だからなぜなのか本人に聞いたことはなかったが、増殖することはなくなった墓は七つで安定した。
 そこに、秋分の日のころになると、きちんと彼岸花がひらく。

Higanbana4S.jpgClick to PopuP
ここを、いずれ秋は彼岸花が、春は水仙が一面に埋め尽くすようにしたいと思って、ときどき根分けして花の咲くところを拡げている。花が終わったら球根を根分けしていいだろうかと作一さんに相談すると、花が終わるとすぐに葉をつけるので、春になって葉がなくなったときに根分けするのがいいと言われた。
 ここに花を置いておいても見る人はあまりないから、十数本を切り花にしてうちに持ってきた。野に密生している様子を再現するように大きな器に入れたいと思ったが、そんな鉢はない。・・・が、大きさをもてあましていた大きな角のある樽を使うことにした。プラスティックの洗面器に水を張って剣山を沈めて彼岸花を挿した。なにしろ彼岸花の花には葉がない。かわりにツワブキの葉の茎を短く切って洗面器の姿がみえないように隠した。

 それから10日ほどしてから見ると、盛り上がった球根の集合からは、もう緑色の芽が出ているが、そこは、ことしは花をつけなかったところだ。なにしろ彼岸花の球根は、集合してどんどん増殖してゆくので、周囲のやつは外側にひろがればいいが、真ん中にいるやつらはふくらんだりひろがったりする場所がない。たがいに成長するための場所を求めるが二次元では解決しようがないので、かたまりの中央部が上に向かってふくらんでゆく。あまり窮屈だからなのか、花もつけない。そいつらは春になったらばらして全体に散らしててゆき、やがては一面の彼岸花の野にしてやろうと僕はたくらんでいる。

 だが、これが野生の状態だったらだれも株分けをしてやらないはずだ。際限なく増え続けたやつはどうなるのだろう。上に膨らんだあげく外に放り出されるのか、つぶされるのか、それとも共倒れになるのだろうか。といっても、人間は彼岸花を嗤う立場にはないのかもしれない。ひたすら経済の成長を続けているうちにどこかにしわ寄せのゆく世界もおなじようなものではないか。資源も国土も限られたのを承知の地球の上で成長の行き場がなくなり、他者を排除しようとしている。巨大になりすぎたやつは膨張することをやめて生きてゆくか枯れるしかない。枯れたところで、彼岸花には墓地が用意されているのだが・・・

■関連エントリー
「彼岸花1:両義的な偏屈」/ MyPlace
「彼岸花2:冬/記号としての緑」/ MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 08:45 PM | コメント (0)

August 30, 2008

存在しない少女

EfaNoSchoolS.jpgclick to Jump to Vietnam.
 「お母さんげんきですか?」と書かれた、左上の写真をクリックすると、「エファジャパン紹介映像」というページにゆく。そこにあるふたつ目の写真に「エファジャパンのCM」と書かれている。クリックするとベトナムの少女フォンを紹介するムービーが始まって、彼女の現在の生活とそれをもたらした環境、そこで彼女がどのように生きているのか、彼女をどう支援しているのかを伝える。
ムービーはわずか2分。フォンの屈託のない表情は見るものをむしろ元気づける。
それと同時に、制度というものについて考えさせられる。

 少女の母は刑務所にいる。麻薬を売買したためだ。だから、フォンはみずから生きる糧を手に入れなければならない。親がいても、子供の稼ぎに依存しなければならない家庭では学校に行けない子供たちは多い。ましてや親と暮らすことのできない子供が学校に行けるはずはないだろうが、たとえ母が帰ってきてもフォンは学校には行けない。出生届が出されてなかったからだ。
つまり、この子は制度の上ではこの世に存在しないことになっているのだ。

 少女が出生を認めてもらって学校に行くことは可能なのだろうかと、このムービーを初めて見せてもらったあとにエファの事務局長の大島さんにたずねると、できまないのだと言下にいう。
大島さんは、東南アジアのほかバングラデシュ、ソマリア、エチオピアなどで、何十年も活動を続けてきた人だから、制度がこの少女をどう扱うかをわかっているのだ。
「学校だけでなくて、あらゆる社会サービスを一生受けるられないんですよ。」
これからの数十年の長い時間を、彼女は制度の中には存在しない人間のまま生きなければならない。ここでは、そういう子供はすこしも珍しくないのだ。国が内戦のさなかにあれば、制度に裏打ちされた社会、逆に言えば制度を保証する主体さえ機能しない。建設の途上の国にあって、社会サービスの突出する国がとなりにあれば、そこにひとは集中することになるだろうから、彼女のようなひとを認知させるのは容易ではないわけだ。
 NGOは、国家の制度が作り出す排他的な境界をやわらげるために活動しているのだが、一方では投機として石油を売買し利益をあげ、それによって世界中に物価の高騰をひきおこす連中がいる。

エファジャパンは、旧インドシナ三国のこどもたちを支援しているNGOだが、つぎのような「ミッション」を掲げて活動していることを説明している。
「すべての子どもが生きる力を存分に発揮できる社会をめざし、子どもの権利を実現するために活動します」
・efaとは empowerment for all (すべてのひとに力を)の略だ。(「エファについて」というページを参照してください)
■関連エントリー:大石芳野写真展

投稿者 玉井一匡 : 12:19 PM | コメント (0)

June 23, 2008

ゲリラガーデニング:Guerrilla Gardening

GuerrillaGardening5S.jpgClick to PopuP
 イギリスにGuerrilla Gardeningという活動をしているやつらがいると聞いた。
近頃ではゲリラという言葉が使われることさえめっきり少なくなったので、ぼくは言葉だけで深い好感と共感をいだいてしまった。昨今、マスコミが反政府ゲリラと呼ぶことも記憶にない。たいていは武装勢力といい、テロリストと呼び、それだけで暴力的で反社会的・犯罪的な存在であるように感じさせようとしている。かつて、ゲバラやカストロやホーチミンのように、ヒーローに使われたことばが犯罪者のためのものに置きかえられるようなった。
 それは、かつてのヒトラーとはちがって権力者の力の行使が巧妙になったからでもあり、直接にはかかわりのない市民を巻き添えにすることに、ゲリラが潔癖でなくなったからでもある。おそらくはマスコミが現在の権力者の流す情報を鵜呑みにするようになった怠慢のせいでもあるんだろう。
では、このゲリラガーデニングとははどういう行為なのか。

GuerrillaGardeningS.jpgClickToJumpToThisSite
 Googleで「Gardening Guerrilla」を検索してみると Guerrilla Gardening.ORGというサイトがある。
イギリスで活動している、すこぶる平和的なゲリラなのだ。放置されている公共用地を、夜陰に乗じて勝手に草を取ったり植栽したりしてしまうという。このサイトには、さまざまな活動(彼らはMissionと呼んでいるようだ)が報告されている。文章に加えて「BEFORE」と「AFTER」の写真もある。もちろん、このサイトからコミュニティへ(Community)への登録申し込み(Enlist)もできる。

 冒頭の「Welcome」は、こんなふうに書かれている。・・・なんといってもゲリラだ。戦闘的な文章にしておいた。
「このブログは、ロンドン周辺でわれらが企てた非合法の造園行為を記録すべく始めたものだ。
だが、それが見る間に拡がり深まりを見せるようになった現在、このサイトは公共空間をないがしろにする怠慢に戦いを挑むための武器庫(arsenal)と化した。のみならず、いまや世界中のゲリラガーデナーの集結する場となった。
 諸君!  同志として誓いをたてこの広場に集い、園芸戦の第一線から届けられる熱い報らせを分かち合おうではないか。」
・・・アーセナルはサッカーのクラブチーム・アーセナルFCが本拠地としているロンドン北部の地名であることは知っていたが、それが「武器庫」を意味することをぼくは知らなかった。
アーセナルのサッカーが攻撃的な人材が豊富なわけだ。

 たとえば、現在のところ一番はじめに書かれているMissionの例を見ると、冒頭に二つのデータがかかれている。行動の形式と場所、決行の年月日だ。
Maintanance Mission : Albert Embankment
Guerrilla Gardening:saturday31May 08
ここでは、ひとつひとつの行動をMissionと呼んでいる。テムズ川をはさんで国会議事堂の向かいの道路にある植え込みが雑草に覆われていて、いずれは植え込みそのものがつぶされてしまうのは必定というありさまだった。時は昼間とあって、役所の工事担当者に見えるようグリーンのつなぎを身につけて草刈りをしたら、すぐに見つけられてしまった。が、さいわいなことに彼女は彼らのシンパだったので、むしろトウモロコシとひまわりの種を寄付してくれることになった。・・・なんてことが書いてある。

 日本でも植え込みの管理をすべき自治体がろくに手入れをしないところがある。そんなことなら、その前に住む住民に依頼して植物の手入れをしてもらうことにすればいいものを、見るにみかねてその前にある店が自分で植栽をしていると、ある日、やってきたひとびとが違法行為であるとして植栽を撤去してしまったと聞いたことがある。ゲリラは、そうですかといって撤去されたら、また植えてしまえばいいのだ。植物はいつのまにか伸びるものだ。
 道路のアスファルトの割れ目、排水溝のコンクリートとアスファルトの隙間に花をつける三時花(サンジカ)なども、植物自身が行うゲリラ戦の一形態だとぼくは思う。
ゲリラ活動をまじめに考えれば、植えた植物のその後の手入れはどうするのだ、やたらにはびこるような植物はまずいだろう、なんてことも心配しなければならないところはあるが、こいつは面白い活動だ。国・都道府県・市町村の公共事業は必要か否かに関わりなく、むしろ金を使うこと自体を、隠れたしかし第一の動機としているものが少なくないのは周知の事実だ。それがおよぼすマイナスの効果に戦いを挑み、あちらこちらでまちを気持ちよいものにするためのさまざまな戦い方が、ガーデニングにかぎらず、たくさんあるのではないかと考えさせてくれる。

■参考のために
GuerrillaGardeningBook.jpg「ON GUERRILLA GARDENING」という本がある。Guerrilla Gardening.ORGに紹介されているのをぼくはまだ見てもいないが、副題に「境界なきガーデニングのハンドブック」という副題があって内容は容易に想像される。Guerrilla Gardening.ORGでつくったものだ。

・ゲリラ:Wikipediaによれば、ゲリラの語源はスペイン語だと書かれている。フランス語のGguerreからきているのだとぼくは思っていたのだが。
・レジスタンス:じゃあ、Wikipediaでは「レジスタンス」をどう書いているのだろうかと気になった。電気抵抗などから始まって、「レジスタンス運動」についてはすこぶるあっさり3行ほどですませている。じゃあ、フランス語版ならくわしいだろうと思って、「他の言語」から「Francais」を選んでみたが、「Conflit politique et résistance」は2行にしかならない。英語でもそうなのだ。どういうわけなんだろうか。

投稿者 玉井一匡 : 02:27 AM | コメント (21)

March 30, 2008

「住む。」 春号:「ひと と いえ と まち と」

Sumu2008S.jpgClick to PopuPSumuSpring2008.jpg

 先週末に、「住む。」2008年 春号が届いた。
「住む。」のタイトルは動詞である。丁寧に句点までつけてある。いうまでもないが、動詞をタイトルとして選んだのは、住宅を器そのものでなく、そこに容れられているものの側から、その器とのかかわりを考えるという立場をとろうとしているからだろう。器の中味つまり人間の生活についてなら、建築やデザインについての専門知識がなくても、意識をもって生活する人ならだれでも参加できる。
「住む。」2008年 春号の特集は「収納・自在に考える」だ。器と生活のあいだにあるモノたちといっしょにどう暮らすかということだが、小特集「こどもたちに」の一部として「ひと と いえ と まち と」という絵本形式のものを掲載してくださった。この小特集は、生活と器の間にいるこどもたちと一緒にどう暮らすかということなのかもしれない。
 以前に、ぼくたちは「かきの木通り」という20戸に満たないほどのちいさなまちづくりの計画をした。その土地には、かつて畑や庭と住宅が一軒あった。そこに新しい住人が住むようになってから、今年で4年ほどになる。8戸のいえが生活をはじめた段階で管理組合が発足したときに、ぼくは「かきの木通りのこどもたちへ」という絵本形式のものをつくって、それぞれのいえにお渡しした。いえという器にこもらずに、もっとひろく生活することを考えようということを伝えようとしたのだった。
 「住む。」の「ひと と いえ と まち と」は、その文章の一部を変えてあらたにプロのイラストレーターの手による絵が加えられた。それによって、普遍的な内容を持つ、ずっと素敵な絵本になった。

 かきの木通りでは、法的な拘束力のある制度をつかって具体的なルールをつくり建物などのありかたに制限をもうけた。それぞれのいえは少し制限をうけるところもあるけれど、それによって、まちはむしろ住みごこちがよくなる。まちがよくなれば、めぐりめぐって自分のいえも気持ちよく住むことができる。ちいさなコミュニティのよさのひとつは、たがいによく知っているので、そういうことを実感しやすいことだ。
 とはいえ、自分の外にある規則を守ることを求められると、ぼく自身そうだが、その範囲でできるだけ多くのものを手に入れないと損をするような気分になりがちだ。だとすれば、法的な力のない約束ごとがあれば、かえって自発的にそれに沿った暮らし方をえらぶという気持ちになるのではないか。
 建物の中だけが自分のいえではないし、敷地の中だけが自分の場所ではない、もっとひろく自分の場所があると考えた方が、じつはもっとゆたかに気持ちよく暮らすことができる。そういうまちをつくって育ててゆくということを、このまちに住む子供たちに約束する、という絵本をつくろうと思った。このブログのテーマにしているMyPlaceの考え方を絵本にしたものでもある。「ひと と いえ と まち と」は、aki's STOCKTAKINGに紹介して下さったように、つぎのような章立てで構成されている。
 ・曲がりかどには樹が
 ・小道のすきまには草花が
 ・いえといえの間には
 ・古いレンガの塀
 ・このまちのまわりには
 ・きみのいる場所

 Sumu2006AkiFrt.jpgCnfort2007-10.jpg「住む。」2006年 秋号は「小屋の贅沢」という特集だったので、「小屋新聞」というコーナーの1ページで「タイニー・ハウス」について書いて欲しいと注文された。ぼくは「タイニーハウス・ゲーム」というタイトルで、小さいいえだからこそ素敵なことがあるということを書いたのだが、そのときに編集長の山田さんから「かきの木通りのこどもたちへ」のように子供のために書くという形式にしたらいいのではないかと提案された。「かきの木通りのこどもたちへ」は、住民のためにつくったものだから、それまで、ほかの人には見せたことがなかったのだが、こんなものがあるんだと山田さんにお見せしたことがあったからだ。

 もうひとつ、「コンフォルト」の2007年10月号に、かきの木通りのことを取り上げていただいた。「うちの庭は隣の庭」というタイトルで、こちらは具体的に、かきの木通りの状況を写真で伝えてくださった。
 このごろでは、いなかでも珍しいことだが、天気のいい日には子供たちが外に出てきて歩行者のための遊歩道で遊んでいる。どこかのお父さんがよそのうちのボウズを呼び捨てにしている。ヘビがいたよなんてことを知らせるために、よその子たちが呼び鈴をならしてやってくる。レンガの塀を見て生活したいからといって北向きにいえを建てたひとがいる。まちは、以前からそこにあったモノたちやこどもたちやのおかげで、徐々に自在につながってきているようだ。
 「住む。」と「コンフォルト」という、別の時期に発行された別の雑誌がブログによってひとつにつながって、「かきの木通り」のありかたとMyPlaceという考えかたが分かりやすくなるのだとすれば、これはインターネットらしいことだなと、楽しくなった。

KakiFront.jpg「かきの木通りのこどもたちへ」は、ここに住むおとなたちが、子供たちに気持ちのよいまちを残すことを約束するという形式の絵本だ。「ひと と いえ と まち と」との形式の大きなちがいは、イラストでなく生活をはじめて間もない頃の写真を使っていることだ。それに対応する文章を見開きで向き合わせるというレイアウトで、末尾にあげた7つの項目と見開きのマップで構成されている。「住む。」の「ひと と いえ と まち と」は、実物の本で読んでいただくことができるが、(お買い得の充実号です)「かきの木通りのこどもたちへ」は他に読むすべがないので、目次に見開きのページをリンクさせて、見ることができるようにしました。見なおすとあちらこちらに直したいところもあるのだが、資料としてそのままにしておきます。
 ・大通りの曲がり角には木が立っている
 ・いえのあいだには小道がある
 ・かきの木通りのいえにはには塀がない
 ・かきの木通りのまちにはレンガの塀がある
 ・かきの木通りには鳥たちがやってくる
 ・かきの木通りの西側にはひろい道がある
 ・早通のまわりには海のように田んぼがつづいている
 ・地図
 ・きみたちに誓うこと ・約束
 ・わたしの場所・あなたの場所

関連エントリー
季刊「住 む。」春号No.25/aki's STOCKTAKING
季刊“住む”を購入/藍blog
タイニーハウス/MyPlace
「住む。」 秋号:タイニーハウス・ゲーム/MyPlace
ヤマカガシ/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 05:30 PM | コメント (14)

February 17, 2008

ラオスの路上で乾杯

LaosKajima1S.jpgClick to PopuP

「写真は昨晩、タクシー運転手やセタパレスの従業員の女性と知り合い、地元の飲み屋でしたたかビアラオを飲みました。ちょうど中国の正月でセタパレスの先の広場では屋台が出て、かなり大きなセレモニーでした。」と、メールにあった。
このところ一日おきくらいに写真入りのメールがラオスから届く。おそらくはじめの一日目だけ日本からホテルに予約を入れておいて、あとは行き先もホテルも乗り物も、気分と様子によってなりゆきにゆだねる。奥さんもいっしょなので日本で余計な心配をする人もいない気ままな旅。
 到着した日の夕方に、もうタクシーの運転手たちとすっかり意気投合してこんなぐあいなのだ。サッカーが得意ならボールひとつあればどこの国に行ってもすぐに仲良くなれるとか、楽器があればたちどころに友達だなんていうが、ビールで乾杯すればもう仲間というのも、呑めない人間にしれみればうらやましい。でも、だれでも持っているものがある。

 ラオスはよさそうなので行ってみたいのだが、どうだろうかと相談を受けた。年末に東京にいらしたときにMacの画面でぼくの撮った写真をお見せして、あれやこれや、ひとは穏やかでメシはうまい、単なる経済指標では貧しい国ということになっているそうだが、むしろゆたかな生活だとぼくは思うというような話をした。それで、やはり行きたいということになった。後日、コンピューターを持って行ったほうがいいだろうかというメールをいただいたので、ぼくはいつも持って行ってメールのチェックをしたりブログに書き込んだり読んだりするんだと返信した。その結果、上の写真のような具合になり、その様子が翌日にはぼくのところに送られてきたというわけだ。

 南国では、どこでも食いものやのテーブルが屋外にまでふくらんでいる。高級な店では、それが庭のテラスであるし、安くて気楽な店では道路であり、メコンに張り出したデッキであるという違いはあれ、食って呑んでという楽しさが、外にこぼれだしているから、通りがかりの人間もそれを分かち合うことができる。もちろん、こういう店にはエアコンなんかないけれど、木蔭がある。そこに、おだやかでひとなつっこいラオスのひとたちがいて盛り上がっていれば、こちらに「おお、やってますね」となかよくする気さえあればいいのだ。それに、こちらはグループではないから、むこうも声をかけてくれる。
 それでも、道ばたの店じゃ店員だって客だって、英語なんか通じないだろうにどうやったんだろうかと気になった。しかし、メールにはセタパレスにつとめる女の人がいたと書いてある。セタパレスというのは、ビエンチャンで一番の高級で気もちのいいホテルだ。そういうところで働いているひとなら、英語くらいは話してくれるだろうし、タクシーの運転手も少しはしゃべってくれるというわけだろう。
 旅の主人公、加嶋さんがはじめの一日だけ予約されたホテルは、そのセタパレスのすぐ近くのDAY INNという、小さくてきもちのいいホテルだ。ぼくは、そのホテルの前で道路の側溝に落ちたことがある。

LaosJiroS.jpgClick to PopuP
 メールには、奥さんがこんなことも書き加えてくださった。「こんにちは。昨日は、マーケットでかえるの唐揚げを食べて、夜は川村さんの事務所近くの飲み屋さんでジロウを食べました。(ラオス名物ジロウをご存知ですか?念のため申しますが、こうろぎです。)どちらもなかなか美味でした。塚原さんには内緒にしてください。でも、それからメコン沿いの屋台でラオスすき焼きを食べました。こちらもおいしかったです!ラオス料理は私たちにとても合いますね。好き勝手ばかりしています。ではまたご報告します。」
 ぼくもカエルは日本で食べたことがあるが、コオロギはまだ食べたことはない。一日目にして、ふたりはラオスを握ってしまったようだ。加嶋さんは長野県の駒ヶ根の住人だから、蜂の子なんぞで鍛えてあって、コオロギごときに臆することがないんだろう。信州もラオスも海がない。虫だって爬虫類だってわけへだてなくうまそうに見えちゃうのもあたりまえだ。もともとそういう厳しい暮らしをしていた人たちのところに、米軍はたくさんの爆弾を落としていった。北爆でラオスに落とされた爆弾はベトナム以上だったと言われている。
ほかの昆虫も食べるそうだが、たいていは唐揚げにするんだという。小エビや沢ガニを唐揚げにするようなものだろう。小型の甲殻類を食べるときの、世界共通の王道なのかもしれない。日本には、佃煮という手がもうひとつあるが。

beerlao-lager.jpgClick to JumP 上の写真の届いた翌日、加嶋夫妻は、もうビエンチャンを出発してルアンパバンに飛んだ。ちょうど旧正月にぶつかったので、DAY INNでは翌日の部屋が取れなかったので行ってしまうことにしたようだ。行きはバスで、帰りは飛行機にするという予定だったが、やはり旧正月とあってバスも混んでいるのだろう、行きは飛行機になったらしい。だから、このメールはルアンパバンから送られた。したたかにビアラオを飲んだというあとでは、さすがにホテルに戻ってメールを書くわけには行かなかったのだろう。
ビアラオとは、ラオスで唯一のビールのブランドの名だ。残念ながらぼくには分からないが、うまいビールだとみんなが言う、メコンに沈む夕日を見ながらのビアラオは格別なんだと。ビールを飲まなくても、メコンに沈む夕日は格別ではある。ビエンチャンのところで、メコンは大きく西に折れているので、対岸というより下流の水面に日が沈んでいく。

 旅がはじまって数日して、ブログに書いてもいいだろうかと書いたら、まったくかまわないと返事をいただいたので、タイムラグのあるエントリーになったけれど、書きたいことが沢山あってきりがない。

■追記 0218'08:今朝届いたメールでジロウの写真が送られてきたので、さっそく写真を追加しました。

投稿者 玉井一匡 : 08:34 AM | コメント (31)

February 11, 2008

オン・ザ・ロード

OnTheRoad.jpg「オン・ザ・ロード」/ジャック・ケルアック著/青山南訳/河出書房新社/2800円

 ぼくは手に汗をかくたちなのですぐに本を汚してしまう。持ち歩くときに表紙が、読む間にはページの下と縦の端がよごれる。だから、読んでいるあいだは表紙の上からもう一枚カバーをかける。単行本は大きさも厚さもまちまちだからA3のコピー用紙をつかう。せっかくなら読んでいる本のデザインを持ってたいから表紙をA3の紙にコピーする。白黒コピーだからその上に色鉛筆で記号のように色を加える。あるいはamazonから取り込んだ表紙の写真をカラーでプリントする。
 「オン・ザ・ロード」の装丁はうつくしい。ターコイズブルーの一歩手前の明るいブルーにタイトルと著者・翻訳者の名前があるだけのシンプルな表紙カバーでつつまれている。さらに藤原新也の写真の腰巻きが加わる。色だけの表紙をきれいにプリントすることはできないからA3の白紙をカバーにしていたが、もの足りなくて外してしまった。

 若者が主人公のこの小説は、かつて「路上」というタイトルだった。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」とともに、学生時代の旧友であるような気がする。高校までぼくは地理という学科がきらいで、地理的な概念というものにもあまり興味をもたず、今にしてみればずいぶん損をしたものだが、そういう地理嫌いをすっかり洗い流してくれた。

 復員兵を支援する制度で大学に行き文学を志す若者サル・パラダイスが、友人ディーン・モリアーティーと一緒に何度も旅に出て、1950年前後のアメリカを縦横無尽に走り回る。ニュージャージー、ニューヨーク、シカゴ、デンバー、サンフランシスコ、ニューオリンズ、メキシコシティ。ドラッグを人間にしたようなディーンと二人で、狂気に駆られるようにクルマにムチを入れ、自分とクルマの限度を超えてもなお酷使する。ときに自分の車、あるいは友人に借りたクルマ、陸送を引き受けたキャディラック、盗んだ車。前に読んだときにはディーンの強烈な毒も元気の素になったが、今度は、おいおい、そこまでやるのかと心配になる。40年近くも経てば、こちらは大人になってしまう。ちなみに、アレン・ギンズバーグが、カーロ・マルクスという名前で登場している。

 その間にぼくたちもいろいろなことが見えるようになった。AKIさんにお借りした「パソコン創世記・第三の神話」を読みはじめると、このON THE ROADについて触れているところがあった。パーソナルコンピューターの草創期は、サル・パラダイスことジャック・ケルアックたちがアメリカ中を走り続けていた頃とちょうど重なっているのだ。可能性の限界までクルマを走らせ、ホーボーや黒人、メキシコ人たちの世界に飛び込むことで日常の枠の外、感性と身体の限界のむこうに何があるかを知ろうとしていたビートジェネレーションの若者は、コンピューターに人間の能力を拡大してくれる能力を夢見る若者と、世界を共有していたのだろう。ボブ・ディランが「ON THE ROAD」から大きな影響を受け、スティーブ・ジョブズがボブ・ディランの大のファンだというのも、そんなつながりがあるのかもしれない。

Click to PopuP この新訳では、巻頭に見開きでアメリカの地図が加えられてずいぶん親切になったのだが、ぼくはもっとくわしい地図を見ながら読むために地図を一枚コピーしてたたみ栞にして、さらにMacでGoogleマップを開いていた。
すいぶん読み進んでから、A3の紙に地図をプリントアウトして表紙カバーにすればいいじゃないかと思いついた。
Googleマップのアメリカが画面の左右いっぱいに入る大きさにしてプリントアウトした。彼らの移動の拠点のひとつデンバーの下に「ON THE ROAD Jack Querouac Tamai Kazoumasa」と打ち込んでぼくの名前もケルアックのようにフランス風のスペルにして、やっと満足すべき表紙カバーができた、と眺めていたら著者のスペルが間違っている。紙ももったいないからもうこれでいいことにした。

 この本の映画化権をF.コッポラが手に入れて、脚本を二度書かせたが気に入らない。で、「モーターサイクルダイアリーズ」の脚本家に依頼しているそうだ。どこをどんなふうに切り取るべきか難しいのだと著者の後書きにあるが、そりゃあそうだろうな。
インターネットの網を、自分たち自身が走り回っているようなものだから、それを2時間ほどのフィルムにまとめるのは容易なことじゃないだろう。

投稿者 玉井一匡 : 02:23 AM | コメント (8)

January 07, 2008

「美の猟犬」と安宅英一の眼

BinoRyouken.jpg「美の猟犬―安宅コレクション余聞」/伊藤郁太郎著/日本経済新聞社/2940円

 MacBookを引き取りにアップルストアに行く前、閉館3分ほど前に三井記念美術館のミュージアムショップに駆け込んだ。
「安宅英一コレクション」の図録がほしいというと、「いまはもう福岡市美術館に行ってしまったので振込で買って下さい」と言う。
電話をかければよかったと悔やんだ。
 年末に展示を見たときには、あたり前だが実物を見た後では図録の写真とのあいだに違いがありすぎてちっとも惹かれなかったのに、この本を読んだらやはり図録がほしくなってしまった。
 焼き物に詳しいわけでもないのに、12月に安宅コレクション展を見に行ったのは、かつて豊臣秀次がもっていた国宝の油滴天目茶碗が展示されるときいたので、それを見たくなったからだが、他にもうひとつ。自宅の近くにある三井文庫の所蔵品とそれを展示する機能が、一年半ほど前にこの美術館に移されてしまったからだ。三井家の屋敷などありそうもない小さな私鉄駅の近くにひっそりとある三井文庫は、充実した内容の割にあまり多くの人が来ることもなくこぢんまりとしていい雰囲気だったのに美術館が三井本館に移されてしまうと、身近にいたひとが別世界にいってしまったようにさみしくなった。今頃になって、それがどんなところに行ったのかも知りたくなった。

 重要文化財に指定されている三井本館の会議室をほぼそのままに展示室にした堂々たる空間に包まれると、昔の財閥の金の使い方も捨てたものではないと思ってしまう。人も少なくて落ち着いている。目当ての国宝・油滴天目茶碗は思いのほか小ぶりで切れのいい姿も、紋様も美しい。
けれどもそれだけに、世界が完結してしまって広がりがないように感じられた。
もしも「このなかでどれかひとつあげるよ」なんて言われたとしても、ぼくだったらあっちのほうがいいな、などとあつかましいことを思って笑いをかみ殺す。(青磁陽刻 牡丹蓮花文 鶴首瓶/大阪市立東洋陶磁美術館蔵)
 クスリと笑ったのは一度だけではなかった。展示品を護るガラスのところどころに、それを入手したときのエピソードが書かれていて、それが安宅英一と陶磁器とのありようを生き生きと伝え想像力をかきたて、その執着ぶりへの共感と羨望が笑いに導くのだ。
 図録にその文章が書かれているのだろうと思い、帰りにミュージアムショップで開いて見たが、それはない。しかも実物を見た直後では図録の写真がちっとも魅力的に思えず、このときは図録を買わなかった。

 後日、図書館のサイトで「安宅コレクション」をキーワードに検索するとこの「美の猟犬」が出てきた。新刊書で予約はまだだれもいないのですぐに借りることができた。著者は、大学を卒業して安宅産業に就職し、以来、会長の安宅英一の意を受けて美術品の買い付けなどを担当して、篤い信頼を受けていた伊藤郁太郎氏。だから「美の猟犬」とは著者自身のことで、むろんハンターは安宅英一だ。
 安宅産業が倒産したあと、安宅コレクションをそっくり住友商事が引き受け、それを寄贈されてつくられた大阪市立東洋陶磁美術館の館長に伊藤氏がついた。安宅コレクション展の展示物はことごとく東洋陶磁美術館の所蔵品だし、ガラスケースに書かれていた文章は本書からの引用だったのだ。
 その大阪市立東洋陶磁美術館のサイトは、主な所蔵品についてとても丁寧に説明されている。「館蔵品紹介」には「館蔵品カタログ」と「QuickTime VR」のページがあって、前者には写真と解説、後者には油滴天目茶碗など数点をQuickTime VRによって回転させることができるので、器のすべての方向からの姿が見られるのが楽しい。

 Wikipediaの安宅産業の項には、安宅英一は美術品の蒐集などにふけり会社を傾けたと言わんばかりの記述がある。それは、ひとつの真実なのかもしれない。しかし、安宅産業が倒産したあと安宅コレクションを住友グループが一括して引き受けることになったときに残念がる著者に、「誰がもっていても同じことではないですか」と安宅は言ったという。それ以前からも、蒐集したものを日常の自分の身の回りに飾るということにはいっさい興味を示さなかったと、この本に書かれている。
 美術品を手に入れるとき、いや、コレクションに加えるときに示した執着ぶりを、このような態度やことばと共存させた人物を、ぼくは尊いと思う。

■2007年10月から2008年3月まで、東洋陶磁美術館は工事のために休館
 そのおかげで、この巡回展示が可能になったわけですね。

追記:関連エントリー
■kawaさん:Thngs that I used to do. 河:青磁の美 出光美術館

投稿者 玉井一匡 : 11:33 PM | コメント (11)

December 07, 2007

コモリガエル

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 「川合健二マニュアル」が10日ほどまえに送られてきた。
そこにおさめられている、川合さんのインタビューは雑誌「建築」の1970年7月号に掲載されていたものだよとAKiさんが言われるので、話しながらコードレスの電話機を耳に当てたまま本棚をさがすとすぐに見つかった。それが出たころは、ぼくはまだ学生だったはずで、その数ヶ月後に東事務所に行ったのだからAKiさんとはまだ会ったことがない。
その1,2年あとに「在庫品目録」と題して、建築を語らずに建築を語るという理屈をつけて東事務所の全員がそれぞれに好きな絵と文章を書くというのを「建築」でやらせてもらったなあという話になった。在庫品目録とはstocktakingということばを日本語にしたものだがそのタイトルを提案したのはAKiさんで、のちに彼はblogのタイトルを「aki's STOCKTAKING」とした。
 あのとききみは、気持ち悪いカエルの絵を描いたねということに話が及んだが、たしかにそのときぼくはコモリガエルという変なやつを描いた。それが掲載された「建築」も受話器を片手にさがしてみたが見つからない。
 おれのところにはあるからカエルのページをスキャンして送るよと言って、AKiさんがメール添付で送ってくださった。読んでみると、そのころに産みつけた世界観の卵がいまもってぼくの背中の穴から、ときどき孵化するようだ。

 AKiさんから送られたスキャン画像は「建築」1972年6月号の100ページ目。jpgの画像ではちょっと読みづらいのでテキストにして加えると、ずいぶん長くなってしまったので別にエントリーした。click→「コモリガエル、カモノハシ・・・異常論」:「建築」1972年6月号100頁

これを書いた頃、ぼくはまだコモリガエルの実物はおろか写真さえ見たことがなかった。その後、上野動物園の水族館で小さな水槽の中にいるのを見つけたけれど、底に近く30°ほどの角度をなして手足をのばしたままだらしなくじーっとしている退屈なやつで、すっかり期待を裏切られた。背中の穴も見えない。ただ、ひどく平べったい草鞋のようなやつだということは、実物を見て初めて知った。さらにその後、インターネットで探しても、pipapipaというなかなか可愛い名をもっているらしいとは知ったが同じような姿の写真しかない。

komorigaeru3.jpg komorigaeru4.jpg 先日、久しぶりにもう一度googleを検索してみた。すると、YouTubeの中に、ぼくの探していた映像があった。背中にたくさんの卵を貼りつけたままの雄ガエルが水槽を泳ぎ回るビデオと、底に横たわる親ガエルの背中にあるたくさんの穴からつぎつぎとこどもガエルが浮かび上がってくるやつだ。それまで、こどもガエルたちは、陸上にうずくまる親ガエルの背中の穴からモゾモゾとにじみだして来るものだとばかり思いこんでいた。図鑑のイラストを見ると、親ガエルは地上に平伏しているように見える。もしかすると、昔はそう思われていたのかもしれない。予想を裏切られたよろこびにしばし浸りつづけて、ぼくは何回もビデオを再生した。
(ふたつのカエルの写真は、クリックするとムービーが見られます)

「コモリガエル、カモノハシ・・・異常論」の文末に書いた「第二、第三のカモノハシを」というちょっと性急にあらわれた言葉は、「第二、第三のベトナムを!」というゲバラの言葉を下敷きにしている。川合健二自身と川合健二邸のありかたは、建築世界の正統から逸脱することによって正統に対して批判をつきつけるコモリガエル・カモノハシだった。人間も自然の一部として生きようという原理的な視点に立てば、家も車も錆というかたちに変えて自然に返そうとした川合こそ、むしろ正統な生き方をしたと、現在ではだれもが認めるだろう。しかし、ぼくたちの国では大規模な開発を進める自由を誘導する一方で、さまざまな規制や手続きの強化がすすめられ、川合的な反乱はむしろむずかしくなっている。


 

投稿者 玉井一匡 : 04:44 PM | コメント (38)

October 18, 2007

やせがえる

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 サッシを開けたときには全部が開いて、できれば室内側からサッシが見えなくなるようにしたいときがある。そういうときには、引き込みサッシにする。壁の外側にサッシをつければ、開いたときには壁の外側に隠れる。さらに障子も必要なら、開けたときには障子は壁の内側に引き込むのだ。そういうときに障子とサッシをいずれも閉じると、その間に壁厚とおなじ奥行きの空間ができる。
あるいえで、引き込みの障子を開けた。すると、サッシとの間の細長い空間に、痩せた、けれども大きなカエルが一匹うずくまっていた。

 つやのない身体にそっとさわってみると固い。カチカチに乾燥したガマガエルだ。どうしてこんなところに閉じ込められることになったのだろう。・・・・・たまたま掃き出しのガラス戸が開いている。人気のない部屋に上がり込む。やがて奥の方に窓をみつけて近づいて外を見ている。そのうちに、それときづかない住人が、帰って来るなりピシャリと障子を閉めてしまった。カエルは逃げ場を失った。・・・とでも考えるしかない。
そのあと彼(なぜか彼女ではないと思いたい)は、向こうの世界になんとかして戻ろうと、精一杯の跳躍を試みてはガラスの壁に頭をしたたかに打っただろう。じつは彼の背後には、むこうが見えない白い面があるけれど、そちらに向かって一跳びしてみれば、白い壁はたった一枚の紙にすぎない。大きくて濡れた彼の身体をもってすれば容易に破ることができたはずだ。
自分がどういう状況にいるのか、どう行動すればいいのかを、彼は正しく判断することができなかったのだ。しかし、わが身を振り返ってみれば、ぼくたちは同じようなことをしょっちゅう何度もしているにちがいない。それどころか、社会や国家のレベルでも、そんなことがたくさんあったではないか。無謀な戦争に突き進んでいった数十年前も、バブル経済をふくらませたときも、エリートと見なされた人々の判断と行動は、彼が置かれた状況と判断とからさほどかけ離れてはいない。

 このカエルは、追いつめられながら疲労困憊して這いつくばるでもなく自暴自棄になるでもなく、落ち着いて想いをこらしていたかのような姿勢のままでいる。状況に抗わず、従容として死をむかえたようだ。情報の収集と行動という「インテリジェンス」から、おだやかに生きるという「哲学」に、テーマを切り替えたかのようだ。
 しかし現実には、そういってはカエルに失礼だが、彼にそんな意識はないだろう。人間でも苦痛を和らげる物質が脳内に生じるように、おだやかに最期を迎えられるような仕組みが生物にはもともと備わっているのかもしれないと考えて、いささか安堵したい。環境に対する生物の適応能力は、とてつもないものがある。我が身を省みるためにこのカエルは座右に座らせようかとも思ったが、彼の不運を思うとやはりつらい。安らかに眠るように土に還してやった。
あとになって、ぼくは彼の目を見たことがなかったことに気づいた。見るに忍びなかったのかもしれない。
関連エントリー:やせがえる・後日譚

投稿者 玉井一匡 : 08:53 AM | コメント (44)

September 16, 2007

世界屠畜紀行

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世界屠畜紀行  内澤旬子/解放出版/2200円
家畜の解体と加工にかかわるひとたちが、どうして差別されなければならないんだという義憤、動物の解体はどのようになされるのかという好奇心。そのふたつが、著者にしてイラストレーターであるこのひとをつき動かして世界の屠畜の現場を回らせた。内澤旬子は、「印刷に恋して」「本に恋して」のイラストを描いている。出版社や印刷会社の多い神楽坂の本屋には、かつてこの二冊が平積みされていた。このひと、じつは革を使って装丁もするそうで、本から装丁、装丁から革へとつながってこの本のテーマにたどりついたというわけだ。ぼくは、イラストレーターとしてしか知らなかったから、masaさんにこの本のことをきくと、読みたくて仕方なくなった。さっそく近くの大きな本屋を2軒まわったが見つからずamazonに注文した。

 芝浦、沖縄、韓国、エジプト、モンゴル、チェコ、インド、アメリカなどを巡って、規模の大きいあたらしい屠畜場から個人の家での昔ながらの屠畜と解体にいたるまで、食用にする動物の解体を観察し話をきく。ときに作業の一部をやらせてもらう。そのときに、どこでもかならず質問することがある。「家畜を解体する人が差別を受けることがあるか」ということだ。差別は日本がもっとも強く、儒教の国韓国や、カーストの国インドでもある。しかし、その他の国では差別されることはあまりないようだ。
豚、牛、羊は言うに及ばす駱駝などのめずらしい動物を食べるときの解体の方法が、具体的なイラストとともに書かれている。写真では正視できないだろうが、描写がことこまかで具体的であるにもかかわらず、イラストであることで、かわいそうな気持ちはずっとやわらげられる。とはいえ、つらいことには変わりがないけれど、うまいといって食べるからには、生物の命を奪って、そのおかげでぼくたちは生きているのだということを、せめて自覚していたい。

 この本を読んで、屠畜がどのようになされるのかをぼくは初めてくわしく知ったのだが、それだけではない。動物の、ひいては人間の身体のしくみについて、とても明快に理解できるようになった。人間は、食べ物を口から入れて肛門から出すチューブのようなものだという言いかたをされることがよくある。三木成夫の本にも、そんなことが書かれていたと思うが、それが実感としてわかるのだ。
 肉を汚さずうまくたべられるようにするために大切なことがふたつある。ひとつは血を抜くこと、もうひとつは消化器の中に入っているものが外に出ないようにしておくことだ。身体のシステムでいえば循環器系と消化器系の2系統。あとは情報系(そういう言い方はないのかもしれないが)と呼吸器系の内蔵だろうが、これはよごすことはあるまい。
 血を抜くには、たとえば豚が身体は動かなくなり意識もなくなったけれど心臓は動いているという状態のうちに頸動脈を切る。すると、内蔵されたポンプつまり心臓が、その切り口から血を送りだしてくれる。心臓が動きにくくなったら、さいごには前足をふいごのように動かして、手動で心臓ポンプを動かせば残りの血が出てゆく。なるほど、じつに理にかなっている。
消化器系の中身を閉じ込めるには、肛門の周囲を丸く切り抜いて腸を分離し、それを縛っちゃう。入り口側は、食道の途中から切ってこれもしばってしまうと、長い袋の中に、食べ物のさまざまな消化段階のものを閉じ込めることができる。あとは、消化器系を傷つけないように腹を切って、その袋を取り出せばいい。これも、試行錯誤の末のことだろうが、鮮やかだ。
なんと明快ではないか。こうして取り出した消化器系はシロモツになり、循環器系はアカモツになる。血は、ちゃんと受けておいて、それがソーセージになるのだ。

 子供たちのイジメが問題になるたびに、昔はこうじゃなかったという大人たちが多い。しかし、その「昔」という時代には、個人として社会として部落出身者や韓国・朝鮮人を差別していた。いまの子供たちの大部分は、おそらくどちらの差別意識ももたない、あるいは希薄だ。だとすれば、社会をあげてイジメを構造としていたひとたちが現代の子供のイジメを、自分は別のところにいるかのようにして批判する資格はないはずだ。イジメは、だれもが自分自身のなかに抱えている何ものかがあって、それが社会的な仕組みや刺激によって増幅することによるものだということを、自覚することから始めなければならないだろう。
 殺生を禁ずる仏教の教えが、それを生業とする人たちに対する差別を生んだのだろうという仮説のもとに著者はこの取材をはじめ、途中さまざまに考え続ける。何年もかけたこのルポルタージュを、著者は自費で取材した。彼女は企画を出版社にもちこんで、雑誌の連載になり単行本になった。雑誌は「部落解放」、単行本も、この雑誌を出している解放出版から出版されている。おそらく、彼女は立場を明確にするために、この出版社をえらんだのだろう。つよいひとだと思う。彼女のブログ「空礫日記」を読むとその思いを強め、とてもおもしろく魅力的であることを再認識するのはいうまでもない。

■関連エントリー:内澤旬子と3匹の豚

投稿者 玉井一匡 : 12:48 PM | コメント (6)

July 19, 2007

ヤマカガシ(じつはアオダイショウのチビ)


新潟の、母の家で玄関のチャイムがなった。
「おっ、どうした」ちいさなお客さんだった。
「玉井さん、うちにヘビがいた」
「へえ、つかまえて食うか」
「森に放すんだよ」なんて、いいことをいう。
行ってみると、その子のうちの玄関ポーチの隅に小さなやつが丸まっている。
捕虫網のフレームの一部を直角に曲げて、角に押し付けてその中に追い込もうとしても、頑固に丸まって動こうとしない。網の棒でつつくと、口を開いて一人前に威嚇する。
やがて、5、6センチの球体から40cmほどの長さの曲線に姿を変えて移動して出てきたので、首の後ろをつかまえた。

Yamakagashi1.2.jpg「ほら、よく見るとかわいい顔をしてるよ」
ぼくの左手に巻き付くやつを見せると、子供たちの表情がもっとかわいい。
好奇心とちょっとこわいのとの混じりあいだ。
「さわってごらん」
手を伸ばして、そっと触れる。
「・・・・・・」ことばにならない。
「ヘビと記念写真をとろう」というと、ふたりにはちょっと安堵の表情が浮かんだ。
「さて、逃がしてやろうか」小さな「森」の中に放してやると、するすると草の下をすべってゆく。子供たちにとっては小さな冒険、ヘビにとってこれまでの生涯一番の恐怖の時が終わった。お母さんたちによれば子供たちのお父さんは二人とも、朝に起きた柏崎の地震のために休日の途中で急遽出勤になったという。

 ヤマカガシは、ぼくたちが子供の頃には毒のないヘビだと言われていたのだが、このごろでは毒ヘビとされている。やたらにヘビを怖がるなよと伝えたくて子供たちに触わらせたりしたけれど、そのことを言わなかったなと思い、googleで調べた。
wikipediaによれば、かつて毒がないと思われていたわけは、ヤマカガシは口の奥の歯が毒を出すために、口の中に指を入れたりしないとそれにやられないからで、しかも、ヤマカガシは臆病だからマムシとは違ってむこうから襲うことがない、しかし、毒はなかなか強いのだという。こどもたちに、もうちょっと説明しいなくちゃあならないと思った。

■追記
コメントに「通りすがり」さんからコメントをいただいた。
こいつは、ヤマカガシではなくアオダイショウのチビだということが分かりました。つまり、毒ヘビではないということで、ひと安心。
アオダイショウの幼蛇の写真はここ
ヤマカガシの写真はここ

投稿者 玉井一匡 : 08:23 AM | コメント (16)

March 06, 2007

FON が、やっと

WhiteBandLong.jpg もう一昨年のことになるのかもしれないが、大部分の地下鉄の駅で無線LANがつながるという記事を新聞で見てすぐに、ぼくはiBookを抱えて地下鉄のコンコースへ行った。つながったと思ったら、会員になって料金を支払わなければこの先には行けないよという。ホリエモンのやることだ、金になることしかやらないのは当たり前だなと、思いつつちょっとがっかりした。
 しばらくして、スターバックスも地下鉄の駅と同じネットワークに加わった。事務所の近くにあるスターバックスで試してみたが、地下鉄のときと同じことだった。
 ところが、今年のはじめ、まだ冬休みのあいだのことだ。用事があって事務所に寄った帰りに、同じスターバックスに行った。窓際のカウンターに向かい、椅子に腰かけてMacBookを開いてみると、うちの事務所のAirMacにつながるではないか。みんなの無線LANを、こうやって利用しあえばどこでも無線LANのラップトップがインターネットにつなげられるじゃないかと、すっかりうれしくなった。しかし、それにはあやしいやつがシステムに入り込めない仕組みが必要だ。

 ひと月ほど前、留守中にAKiさんから電話があった。「ちょっとおもしろいことがある」ということづけが残されたので、何だろうかと、さっそく電話をかけた。
 FONという、スペインから始まった面白い「ムーブメント」があるというのだった。無線LANの能力を二つに分けて、一方を自分のネットワーク専用に使い、残りをFONに登録した人に公開するという方法で、いわゆるユビキタス状況をつくろうというのだ。費用は、無線LANの機械を買うための1980円だけで他には何もかからない。ぼくが思い描いたようなことが安全にできるのだ。しかもgoogleMapで世界中にあるfonの無線LANの場所を示してくれる。
そのうえ、持ち主の専用ネットワークの名称が、なんとMyPlaceというそうだ。ぼくのこころざすMyPlaceとは言葉の意味する範囲が微妙にちがうけれど、お互いのもっている領域の一部分を利用しあおうという基本精神は同じだ。
 AKiさんはすぐに機械を注文して、着々とFONのネットワークが構築されていった。が、ぼくの方はなかなかうまくいかない。
やっとのことでつながることはつながったが、位置が地図上に表示されない。表示されたら、スタバに行ってエントリーしようと思っていたのに・・・・・という状態がしばらく続いた。それが、やっとのことで昨日になってオレンジ色の小さな円で表示されるようになった。まだ、ぼかしのグリーンの円は表示されないけれど、たいしたことではない、いずれできるだろう。

 公開するネットワークの名称は頭に「FON_」というのをつければ、あとはすきなように決められる。ぼくは、FON-FairGroundとした。fairgroundとは「移動遊園地の開かれる場所」のことだ。「The First of a Million Kisses」というアルバムの一曲がFairground Attractionというタイトルで、演奏するグループの名も同じFairground Attraction。はじめ、てっきり野球のファウルグラウンドに対するフェアグラウンドなのかと思ったが、辞書で調べて納得したのだった。
FONはまだ完全ではない、住所もまちがって表示される。しかし、もう待っていられないぼくはMacBookを連れてスタバに来た。
FON-Maps.jpg FON Mapsを開くと、いつも世界地図から始まる。目的地に達するまでがまだるっこしいのだが、ユーラシアとアメリカ大陸が二つずつある世界地図は、どこだって地球の一部で、中心も周縁もないんだということを言いたいのがわかる。
左の地図をクリックするとFON Mapsに飛ぶはずだが、いまはブラウザーがFireFoxかExplorerでないとうまく開かない。safariでは地図がでてこないのだ。まだまだFONのシステムは完成していないが、それだって、できるだけ早く公開しようとしているからだと、ぼくは肯定的に評価して見守ってやる気になっている。「ユビキタス」というものには不気味な力を感じてしまうところがあるが、こんなふうにあれこれ接続に苦労したり地図を見たりしているうちに、具体的な人や場所を思い浮かべられるようになる。そのおかげで、なんとなしの安心感ができた。
いつのまにかカプチーノがすっかり冷えてしまった。

*追記 0327/2007 :さきほどaiさんから、やっとつながったというコメントをいただいた。盛岡に行く機会があれば、かならずうかがいたいと思っている「藍クラフト」のお店の場所がFONの地図で確認できた。市役所の近くに、うちの事務所と同じオレンジの丸印で表示されている。盛岡市役所と書かれている文字の下だ。


投稿者 玉井一匡 : 10:45 AM | コメント (18)

February 10, 2007

「さくらんぼのしっぽ」

sakuranbonoshippo.jpg

「さくらんぼのしっぽ」/村松 マリ・エマニュエル著/柏書房
 ある文化の中にいるとあたりまえのことが、じつは、外の人間から見ればもっとも興味深いことなのだということは少なくないけれど、何がそれなのかということは、両方の文化を知りものごとを見抜く力のある人でなければ、なかなか気づかない。著者は長年にわたって日本で生活をおくっている。だから、フランスではあたりまえだが日本にとっては当たり前でないことをよく理解し、そのうえでフランスの家庭のお菓子つくりが書かれている。距離と時間を意識した広く透徹する視野があるのだ。 
「さくらんぼのしっぽ」とは、さくらんぼの実のヘタのことだろうとは想像がつくのだが、なぜそれをこの本のタイトルにしたのかは、すぐにはわからない。さくらんぼのしっぽのようにありふれたもの些細なものの背後に、じつはたくさんのことがあるということなのだ、きっと。一見すれば小さなことの中に、家族という身近な歴史の背後に、ゆたかな文化と歴史が織りなされているのだということを、行事やお菓子やという具体的な生活の断片を通じてぼくたちに見せてくれる。

 ケーキをつくるときは、厳密にレシピの通りにやらなきゃならないと、ケーキをつくる人はよく言う。ぼくは料理はするけれどケーキをつくることはしないので、そういうものかと思っていたのだが、この本によればフランスの家庭ではそんな厳密につくりはしないようだ。計量の大さじと小さじでなくスープのスプーンとティースプーンを、計量カップでなくグラスをつかい、強力粉と薄力粉の区別をせず粉をふるいにかけることもしない。バターでなくマーガリンをつかうことが多いという。
「ケーキづくり」をするのではなく、食べて楽しむためにケーキをつくるというわけだ。そうだよなって同感する。ときどきケーキを作ってストレスを発散する、うちの娘に見せたら、レシピの説明が短くて気楽にお菓子をつくろうという気になるよ、たいていは説明が長くてうんざりするけど、こんな本はないとよろこんだ。これまで彼女は、「こどもがつくるたのしいお菓子」という、子供のためのお菓子作りの本を愛用してきた。
 さくらんぼのエピソードはパリコミューンにさかのぼり、ドイツとフランスによるアルザス・ロレーヌの取り合いのおかげで生まれたロマンスがエマニュエルさんをこの世に存在させたこと、エマニュエルさんの叔父上のおかげでコルビュジェがロンシャンの教会を設計することになるいきさつ、etc. そうした家族の歴史と世界の歴史の重なりが楽しいのだ。

 この本は著者が15歳の頃から書きためた料理ノートをもとにしているのだという。(上の写真をクリックすると、そのくだりの書かれたページが開きます)また、この本をつくるときから描くようになったのだという魅力的なイラストも著者の手で描かれた。フランスで知り合った日本人と来日して結婚。日本に住んで15年というときにこの本が書かれ、それからさらに10年ほどが経っている。フランスの家庭でつくられるお菓子の本とされているけれど、そんな枠を軽々と飛び出してしまう。お菓子のつくりかたを書きながら、じつはフランスそのものが書かれている。そして、ぼくたちは、同時にそこから日本を読み取るから、文化の翻訳をした本でもある。なにしろ、フランスで知り合って、のちに結婚した日本人とは翻訳家・村松潔さんなのだ。以前に「HOW BUILDINGS LEARNという本」というエントリーで村松さんのことを書いたことがある。村松さんご家族は、AKiさんの設計されたOMフォルクスハウスにお住みになって約10年。家が生まれたころに、この本もつくられたわけだ。昨年末に出版された村松さん翻訳の「ヒストリー・オブ・ラヴ」という小説は複雑な構成にして、とても美しい物語だ。

■AKiさんが、さっそく、この本と村松さんの家のことをエントリーされた。
aki's STOCKTAKING:さくらんぼのしっぽ

■追記 いま、村松 マリ・エマニュエルさんは、全日空の機内誌「翼の王国」に、「vous aimez les madeleines? マドレーヌはお好き? 」というエッセイとイラストを連載していらっしゃいます。

投稿者 玉井一匡 : 06:10 PM | コメント (21)

October 15, 2006

メコンの小さな橋


メコンは、その多くの部分で国境をなす。ヴィエンチャンでは向こう岸はタイという河の岸から、その中州までわたる橋がある。ぼくは、それをもう一度見たいと思っていた。決して短い橋ではないのに幅がせまくて、歩行者か自転車、せいぜいバイクやリアカーが渡れるくらいの、すこぶるチャーミングな橋なのだ。これほど魅力的で、いまもちゃんと使われているのは、それほどないだろう。
以前に、「夕日のレストランと橋」というタイトルでエントリーしたことがある。もういちど夕日を見たいと思っていたのに昼間に行くことになったけれど、おかげで日暮どきには見えなかった橋の様子がよくわかる。レストランはブッフェ形式だからぼくは途中で席を立って店を抜け出し橋を歩いた。この橋とレストランをじっくりと見て、ぼくはあらためて好きになった。橋からレストランを見ると、木造をそのままコンクリートにしたような華奢な柱に支えられたデッキの上に、白いテントが浮いている。あんなところで飯を食っていたのかとあらためて気づいた。

 ユーモラスな形をした橋脚はコンクリートなのにとても細いトラスでつくられている。4本の柱を立てた前後に、河の流れに耐えるよう1本ずつの柱を加え、それらを結んでつくられたトラスは、柔らかい地盤のうえをカンジキをはいて歩くようにしている。地盤は、乾季には土が見えるが雨期には水没するおそらくやわらかいところだから、すそ広がりにして底面積を大きくしてあるのだろう。その上に載る橋そのものは、幅がおよそ2mで、アングルをつかって高さ1mほどのトラスを架け渡してそれを手すりにしている。床は3cm×20cmほどの厚さでふぞろいな長さの板を釘止めしている。釘がゆるんでいるからなのだろう、バイクや自転車が走るとビブラフォンさながらにカタ・カタ・カタと音をたてるのだ。
橋の下では、耕耘機をつかって畑を耕していた。雨期になると河が運んでくれる栄養豊富な土で覆われているのだろう。橋のたもとには軍鶏を放し飼いにしている。いまにして思えば、これはいい農業だと思うが、むかしは日本だって石油や金を費やすのではなく、大部分がこんな風に頭をつかって自然を利用して働いていたはずだ。
この近くの中洲にある、ヴィエンチャンにしては高層の大きなホテルは中国資本でつくられたそうだが、あたりの景観にまったく合わせようという気がない。意識をしたわけではないのにぼくは一枚も写真を撮ったことがなかった。この橋とそのたもとのレストラン、そして中国資本のホテルを見ていると、現在のラオスの状況が思い浮かぶ。しなやかに、環境にあわせておだやかに生きる人々と国を、力まかせに大きさと経済の力を見せつける大国が、それを変えてしまおうとしている。

*  *  *  追記   *  *  *

・左の写真:前後のトラスが重なって分かりにくいが、橋脚の上でトラスが分かれている。上弦材の高さの中央より少し高いところをアングルで水平につないでいる。手すりが低くなっているのだ。
・左中央寄りの写真:床の板が釘止めしてある。右のトラスの外を走るパイプは給水管だろう。橋脚の上には、電柱が立ち電線を支え街灯がついている。電気、水道、人、物資、みんなこのすてきな橋の上をわたるのだ。
・右中央よりの写真:トラスの下弦材の上にチャンネルを直交方向に向けて乗せ、少し飛び出させている。その先端の上端を一部切り落とし、そこにアングルの斜め材を取り付けて、トラスが倒れるのを防ぐ。さらに、このチャンネルの上に木製の根太を乗せて、床の板を釘止めしている。
・右端の写真:注脚の真上から、手すりの外で下を見た。コンクリートの角がきれいに直線になってそろっているのを見ると、これはプレキャスト・コンクリートだろうと思われる。
*AKiさんから、レストランも軽そうだがなんで作られてるんだろうという疑問があり、写真をすこし大きく見られるようにした。ぼくにはRCに見えるのだが。
橋脚の、上流側つまりはじめの写真でいえば右側は、水とぶつかる、船でいえば舳先にあたるところだが、ここだけはトラスのもっとも低いところの三角は穴が開いてなくて、コンクリートの面が作られている。水をスムーズに流そうとしたのだろう。
ビエンチャンの水道局に勤務するアポロ君という土木技術者と仲良しになったので、橋とレストランの構造と工法について、近いうちに質問をしてみようと思う。彼は、佐賀大学の大学院で5年間学んで、いまは公務員だが、先日は通訳をしてくれた。五十嵐さんの注目された給水塔についても彼なら面白い話をしてくれるかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 12:36 AM | コメント (21)

October 12, 2006

「住む。」 秋号:タイニーハウス・ゲーム

 
「住む」秋号/農山漁村文化協会 季刊/1200円
日々めまぐるしく進んでゆく時間を、ときに季節として感じることができるのはうれしい。季節は自然のもつ時間だから、季節を感じると、どこにいても自分が自然の一部であることを感じることでもある。「住む」は、季刊の雑誌だ。ぼくたちが書店で目にする雑誌で、季刊の雑誌は「暮らしの手帖」くらいしか思い浮かばないが、発行する期間をひろげれば、小さなチームでも余裕をもって質のいい仕事ができるし、長い間書店に置いてもらえるわけだ。
「住む」の秋号は、たまたまぼくのいない間に届けられたので、ぼくが読んだころには秋山さんがとうに紹介してくださっていたから、それに甘えてエントリーがおそくなった。おかげで、季節はすっかり秋らしくなった。

「タイニーハウス」について、あるいはタイニーハウスをネタにイエの本質にふれることを書いてほしいという注文だった。1ページだけ、1000字ほどだというので気軽に引き受けた。小さな家は、そのなかに生活のすべてがおさまりきらないから、生活が外にこぼれだす。だから、ほかの人たちの生活と重なり合いまじりあう。そこがいいんだということを言いたかったから、小さなページから、内容がこぼれだすようなものを書こうと思った。1ページしかないということが、タイニーハウスというテーマにちょうどぴったりだ。
 そう考えたもので、ぼくはかえって大きなものを書こうとしてしまったようだ。字数もぴたり1000にして送ったら、平易に本質にふれるような書き方がいいと、編集長の山田さんに注文をつけられた。もとよりそれはぼくが本当はこころざしている書き方だ。20戸たらずの小さなまちの計画をぼくがつくって、その上に建つ住宅の基本設計をしているところがある。そのまちに住むひとたちに、「かきの木通りのこどもたちへ」というタイトルの小さな絵本のようなものをつくって各家族にお配りした。それを、たまたま山田さんにお見せしたことがあった。「あれみたいなスタイルで書けないだろうか」とおっしゃるのだ。
 成文化した住民協定とか住民憲章のようなものでなく、住むときの心構えをゆるやかに共有できるようなやくそくごとのメディアにしようと考えてつくったものだった。「住む」の1ページをそういう形式にすることに、ぼくは、もちろん異論はない。むしろそうさせてと、こちらが言うべきだったくらいだ。というわけで、「タイニーハウスゲーム」というタイトルは、こどもたちにゲームを説明するというスタイルで小さな家について語るということにしたのだった。「サイダーハウス・ルール」と重ねたつもりのタイトルだ。

投稿者 玉井一匡 : 07:08 AM | コメント (4)

August 24, 2006

ハノイ・タクシー ドライバー

 ラオスへの行きがけにトランジットで寄ったハノイ空港は夕方で閑散としていたから、鉄板のベンチがなかなかかっこよくて気に入ったので、それを根拠地にしてあちらこちらの写真を撮ったりして2時間ほどのヒマをつぶした。
 4日後の帰りがけのハノイでは一泊するので空港を出ると、客を求めて数人のタクシー運転手が出口に待ち構えている。タクシー乗り場まで行ってからにしようとぼくたちは決めていたので乗り場に行くと、整理係のような男が「オーイ」と運転手を呼んだ。やって来たのは、なんのことはない、さきほどやり過ごしたうちの一人だ。がっちりした体格に髪を短く刈った体育会系の風貌である。
荷物をトランクに入れて座席に腰を下ろし行き先のホテルの名をつげるやいなや動き出す。
「ピピ、ピピ、ピピ」  車寄せで前に並ぶタクシーを一台追いやった。たて続けのクラクションだ。
しばらくの間は自動車専用道路を、片側2車線の左側、分離帯よりの車線をひた走った。前方にクルマをみつけると「ピピ、ピピ、ピピ」 猛然と追撃して襲いかかる。可能な限り車間距離をつめると「ピピ、ピピ、ピピ」 とクラクションを鳴らすから、草食動物のようなおとなしい車であればすぐに右に寄せて進路をゆずる。

 前方に空間があくと、またしても前の車まで猛然と車間をつめる。もちろん「ピピ、ピピ、ピピ」である。
もちろん、そんな脅しに屈しないやつがいる。つぎの手は、「カチ、カチ、カチ、・・・・・」 左向きにウィンカーを点滅させつつさらに車間を詰め、「ピピ、ピピ、ピピ」。それでもがんばるやつには、次の段階のメッセージ。
ヘッドライトを上下させる。
ここまでやっても、中にはしばらくがんばるやつもいる。
前のクルマの左側に、無理矢理入り込もうとするけれど、隙間が足りない。
「こんなやつには、ぼくだったら意地でも絶対に道をあけないですよ」・・・・と、堂々と日本語でしゃべれるのが便利だ。
すると、さらに車間距離を詰めヘッドライトを上げ、ウィンカーを出したまま「ピピ、ピピ、ピピ」 「ピピ、ピピ、ピピ」
とうとう根負けして、獲物は右によけた。前のクルマが右によけることができるなら、右車線が空いているわけだ。自分が右車線に進路を変えて追い越せば何のことはないのに、とにかく前のクルマをどけようとする。
「なんてやつだ。もしも一人だけだったらちょっとこわいですね。でも、ぼくが運転してる時に、こんなやつが来たら後ろにまわってやってヘッドランプを上げて付いて行きますよ」
「うむ」と、黒岩さんはおだやかなものだ。
そんなふうにして2,30分走り続けた。
やがて橋をわたったので、地図を思い浮かべながら、おおかたの方向は合っているようだとささやかな安堵にひたる。と、思ううちに道は急カーフを繰り返して、どっちに向かっているのか分からなくなった。不安をかかえながら走るうちに、川を左手に見て走るようになった。これでいい。
やがて、なんと、タクシードラーバーが口をきいた。英語だ。

 「バイクがやたらに沢山いるから、いつも ピピ、ピピってやらなきゃならないんだ」 
「バイクだけじゃないじゃないか。クルマでも何でもみんなピピ、ピピ、ピピだろ」と、すこし安心したぼくは、冗談のようにして本音を言う。モヒカン刈りでもないし銃を持っているわけでもなさそうだ。
「YES!」と得意そうに言う。
ピピ、ピピ、ピピ    またしばらく、同じように爆走する。
「オールドタウンだよ」
「オールドタウンか」とオーム返しに返事をする。
ピピピ、ピピピ    ピピピ、ピピピ
「これがメトロポールだね」 「建築のハノイ」にもFigaro Japonで見覚えのある、ここで最上級ホテルの前まで来たのでほっとして僕の方から話しかけた。
「もうすぐだよ」

目指すホアビンホテルに着くと、トランクから出した荷物を、彼はベルボーイに渡した。
そして、こちらに近づいて来ると、なんと右手を差し出す。
握手を求めているのだ。固い握手。
「荒っぽいけど、いいやつだったのかな」
走ったのは40分ほどの間だが、前にいるクルマはことごとく隣りの車線に追い払った。
つねにクラクションを鳴らし続け、ウィンカーを点滅させ、ヘッドライトを上げっぱなしだった。
にもかかわらず、終わってみれば、すこぶる面白かった。もしかすると、これは外国人のためのサービスのつもりだったのかもしれない。翌日、まちを歩いていても、たしかにバイクの洪水とクラクションがあたりを満たしていた。しかし、ひとりでこんなにクラクションを鳴らし続ける攻撃的なやつは一人もいなかった。じつは、ぼくたちは運が良かったのかもしれない。・・・・・・・おっと、写真を忘れていた。慌ててシャッターを切った。(車体の横に書かれていた数字は、握手に免じてPhotoshopをつかって消しました)

 あとになって、ここは沢木耕太郎のベトナム旅行記「一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編>」で彼の泊まったホテルであることを知った。小ぶりで、なかなか雰囲気のいいところだった。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 PM | コメント (4)

December 16, 2005

THE PLACE OF HOUSES

 THE PLACE OF HOUSES
 Charles W. Moore, G. Allen , D. Lyndon , W. Turnbull
 MADCONNECTIONのおかげで「美の巨人たち」のチャールズ・ムーアとシーランチの2回目は見ることができた。見そこなった1回目では、シーランチとムーアについて「あまり有名でない」という解説が加えられたというので、ぼくはちょっと驚いてしまい、この本について書いておこうと思った。このBlogのタイトルMyPlaceは、この本とすくなからぬ関わりがあるから、いずれ書くつもりではいたが、先日、「アースダイビング@下北沢」にトラックバックされた脇田さんのblogでも「場所」と「空間」についてふれられていた。

 ぼくが、「場所」と「空間」を対立概念として意識するようになったのは、いまから30年も前にこの本を読んで、それから数年経ってからのことだ。ムーアはこの本のタイトルとして、SPACEと音を合わせるようにPLACEということばを選び、対立概念としたのではないかと気づいた。だとすれば、近代建築の中心をなすのはなによりもまず空間つまりSPACEだから、この本はまずタイトルがモダニズム批判なのだが、そこはムーアらしく正面からSPACEを批判したわけではなく、本の形式もその道具のひとつとして使っている。 建築の専門家に向けてではなく、自分のイエを建てようとしている人たちに向けて書くという形式をとったのだ。 
 序文には、スタイルブックのような本を作りたかったのだと書いている。住宅はかくあるべしと論じるのではなく、イエのさまざまなあり方を示し、住宅の「スタイル」を具体的に見せる。しかし、スタイルブックだからといって、モノとしての住宅を羅列するのではない。まちのありかた、生活、イエの構成のスタイルを具体的に説明しているのだ。これらは、そこから直接的に何かを学ぼうという実例であるよりは、むしろ根源的なところで共通する意味を読み取る寓話あるいは神話のようなものかもしれない。モダニズムは、普遍と純粋を目指したのに対して、住宅とまちの個別なありかたを具体的に語ったこの本の形式そのものが、実はモダニズムに対する異議申立てである。

 「THE PLACE OF HOUSES」をamazonで検索すれば、「なか見検索」で表紙と目次、本文の一部、索引を見ることができる。内容は、およそ4つの章からなり、それにチェックリストや索引が加えらるという親切な構成だ。
1)Houses of several places
2)The three orders
3)Setting out choices
4)Inflecting the scheme
「places」ということばは、1章目のタイトルに使われる。この章ではアメリカの、性格の異なる3つのまちをとりあげてまちと住宅の関わり方を示す。いいまちにいいイエがつくれられ、いいイエがつくられることでまちがよくなるのだというケーススタディである。
ニューイングランドの古いまちエドガータウン、大地震のあとに意識的にスペイン風の町づくりをしたサンタバーバラ(マイケルジャクソンが住んでいるので有名になった)、そして「美の巨人たち」に取り上げたシーランチはカリフォルニアの海岸の崖の上の別荘地。
これらは、すでに存在するものたち、周囲の自然環境、まち、これまで生きてきた人々、これまでに存在してきたまちのありかたを読み取り、それらを大切にした積み重ねがいいまちをつくった。シーランチでは、はじめの志とは少しずつはなれていった失敗についてもふれている。
1章目でまちとイエについて論じたあと、2章目以下では住宅の中身のスタイルに向かい、ひとつの住宅をつくることに目を転じる、つまり、イエがつくりだすPLACEである。
MOORE.jpg 「空間」は抽象的な概念だから取り替え可能なものであるのに対して、「場所」は、他にないそこだけそれだけの取り替えのきかない具体的なもの、たとえばひとりひとりの命のようなものだ。
 難しいことばをつかうのが好きな建築家たちは「ゲニウスロキ(地霊)」とか「トポス」なんて言葉を新兵器にして、かつてポストモダンを気取った。その追従者たちは過去の貯蔵庫からデザインのネタを取り出してきて不足を補うというぐあいに自分の表現の道具にした。しかし、ムーアは分かりやすいものやありふれたものを駆使して、たのしい気持ちいい場所をつくりだし、それが軽やかにモダニズム批判となったのだ。
 
 たとえばモダニズムに邁進するディベロッパーだって、彼らなりにいい都市、いい住宅、いいオフィスをつくることを目指している。しかしそこでは、すでにあるまちも、すでに住んでいる人たちも、積み重ねられた時間の痕跡も、現実に象徴的に清算してあらたに「現在」を塗り重ねる。それは、ニューヨークであれ上海であれ同じ広さおなじ形の土地であれば置き換えが可能な都市だ。ひとりひとりの命に想像力を及ぼすことなく、兵士の数の減少とその補充を考え、自分たちは命の危険にさらされることのない参謀本部のようなものだ。

 実を言えば、ぼくは厚い英語の本を進んで読み通すほどのことはしない。これを読んだのは、石井さんが翻訳しないかといってるけどどうだと難波が言ったからだった。面白そうだから、そしてなによりムーアの建築が大好きだったから、単行本の翻訳はしたこともなかったのに引き受けることにしたが、ずいぶん長い時間がかってしまった。石井さんはそのころイェールにいて、その間とうとう一度も会わずに翻訳をすすめて本になった。タイトルは「住宅とその世界」と提案したのがそのままつけられたが、本の性格からすればWhole Earth Catalogのような気軽なペーパーバックにしてほしかったがハードカバーの立派なものになって4000円近くになった。その後は再版されずに、絶版になってしまったが、原書はまだ買うことができる。鹿島出版会で担当してくださった編集の京谷さんは翻訳をとてもほめてくださったのだが、いまになって読み返すとアラが目について、できるものならやりなおしてもっと気楽な本にしたいものだ。このあと、やはりムーアの「BODY, MEMORY and ARCHITECTURE」(Kent C. Bloomerとの共著)という本も訳した。これも日本語訳はなくなったが原書はamazonで検索できる。ぼくはたしかそのまま日本語にして「身体 記憶 建築」というようなタイトルを提案したが、やはり立派な装丁で、「建築デザインの基本」なんていうつまらないタイトルになってしまったのに、なぜかこちらは再版された。

投稿者 玉井一匡 : 01:10 PM | コメント (12) | トラックバック

October 15, 2005

DAY INN HOTELの人なつこい犬

 
 デイイン ホテルのロビーと続く食堂に人なつっこい犬がいる。ときにドアの外にも出てゆく。日本で大流行りの長毛のミニチュアダックスのようでもあるが、それにしては足が長いから雑種なのだろう。客が階段を下りてくると、ゆっくりとそばにやってくる。愛想を振りまくわけでもなくえさをねだりもしない。すこぶる自然に客のかたわらにやってくるので頭をなでてやると、冬の日ざしのような穏やかなよろこびをあらわす。ほかの客にもひとしく挨拶に行くが必要以上になれなれしくしない。

 朝食は、ブッフェ形式ではない。パンとサラダ、もしくはおかゆの4種類の中から選ぶのだが、ぼくはチキンのおかゆをたのんだ。メニューの写真には、参鶏湯のように一羽分の鳥が胸を張っているが、まさか朝から鳥一羽じゃないだろうなと心配していたら、塩味のスープのおかゆにトリの胸肉の細切りが浮かび、水面下に卵の黄身が潜んでいた。迷った末に、ぼくは卵を崩さずにそのままにしておいたから、最後に半熟になった。
 大きなマグカップのコーヒーを飲みながら、ぼくは本を読みつつときどき彼を観察していた。大理石張りの床に長くなって寝ている様子は、南国でのタイルや石の床の心地よさを背中で語っている。客室の床はやはり人研ぎのタイルがはってある。ぼくは裸足がすきだから、ひんやりした床がことさらに気持ちいい。
 やがて、ひとり若い女の客の朝食がくると、彼女はパンをちぎってやった。もらえばよろこんで食べるが催促もせずガツガツ食べることもない。よその犬ながら珍しく思想のある犬に会って、ひとに伝えたくなったことがなんだかうれしい。ぼくは犬党だから、猫のことをエントリーする人を、これまでうらやましくながめていたのだ。

投稿者 玉井一匡 : 01:02 AM | コメント (6) | トラックバック

October 05, 2005

彼岸花1:両義的な偏屈


 自転車をとめて電柱に寄りかからせ、西武新宿線に沿って並ぶ彼岸花たちにカメラを向けた。ぼくはこいつらが大好きだ。第一線を退いた古い線路を地面に立て、スチールパイプを水平に通してつくった柵の足下、華やかに秋をたのしんでいる。秋分の日のころになると必ず花をつける律義者でもあるけれど、その数日前からするすると芽を伸ばしはじめるまでは、地上にいっさいの生命の兆候を見せない。ときに球根が集合となって盛り上がり地上に姿をあらわしてるが、ただそれだけだ。そのくせ冬のさなかには細くて長い葉を豊かに茂らせる偏屈ものでもある。最も日照の豊かな季節には葉をつけず、弱々しい冬の光に葉をつける好き好んでの非効率。
 こいつが顔を出すのは、田舎なら田んぼの道の脇、墓地の墓石のあいだ。そして、ここのように線路や道路沿い。ことごとく時間・空間・死生の、いずれも境界に花を開かせる。両義性を花群れにしたようなやつだ。それに加えて炎のような紅と線香花火の軌跡のように四方に散る花弁。これを劇的といわずしてなんと言おう。

田んぼの中を抜ける道の路肩は田と道の境、生産の地であり移動の地でもある。墓地はいうまでもない、死者と生者の棲む空間の接点。線路脇は道路でもない線路でもないところに、かつて線路だった鉄や枕木だった木材が立てられて線路でありながら柵でもあるゆるやかな境界をかたちづくる。
そして、開花する季節は夏と冬の中間。「暑さ寒さも彼岸まで」は、この時節が夏でもあり冬でもあると教えた。お彼岸には、三途の川の彼岸から懐かしい人たちが帰ってくるとき。生きる人と世を去った人たちとの共生のときなのだ。多くの植物が春に新芽や花をつけて生命の復活を思わせるのに、この季節に突然のように開く花。

 彼岸花は球根で増えてゆくが、何の手入れもせずに毎年花をつける。次々に隣に球根が増えてゆくとびっしりと固まって、中央は横にひろがることができないから上に盛り上がってくる。かつて凶作のときには、有毒な部分を取り去って球根を食べたという。それもまた生死の境を分けるという食べ物ではないか。しかも、毒を抜かなければ死への道を早めさえするから、二重に生死を分ける。ユリがうまいんだから、これも結構うまいのかもしれない。だとすれば、たくさんの彼岸花が咲く年は豊年のしあわせな秋だったわけだが、そのたびに昔の飢饉を思い出させるしるしでもあったろう。
■関連エントリー
彼岸花3:窮屈な成長

投稿者 玉井一匡 : 03:06 AM | コメント (14) | トラックバック

September 26, 2005

映画 もんしぇん

10年をこえる時をかけてやっとできたが、見てもらわなきゃはじまらない。
Goshoura.jpg 御所浦町:click image to jump up to Google マップ


 いい年をしてと思いながら、ぼくはいまだに飛行機では窓際を選んでしまう。空から地上を見ると実物の地図がよくわかるからだ。広い平野と山の裾が接するところを見れば、緑の海に浮かぶ島のようだが、それもむかしは本当に海だったのだろうと想像して時間を遡る。山の頂から地球の表面は下ってゆき、海の下を通り向かいの島とはつながっていて、ただそこに海の水が載っているだけだと感じられることもある。里山に抱かれたところが心地よい「谷戸」となって集落ができるように、緩やかな斜面に囲われた小さな湾は、もうひとつのしあわせな地形だ。里山は人の住む里と自然の山が接するところだが、入江では海と山の間に集落がある。いずれも、複数の世界が重なった場所が小高い地形によって外界からまもられて小世界がつくられる。
 小さな島の小さな入江を舞台にした「もんしぇん」という映画が、先日、やっと内輪の試写会にたどりついた。音のないビデオや編集途中のものは見たけれど、最終的に編集された映像を、ぼくはまだ見ていない。

 もんしぇんなんてタイトルは何も思い起こさせないと反対する意見も多かった。いまでは、この地方でさえあまり使われることもなくなった言葉だからだが、この地方で「もんしぇん」ということばは「だから」という意味につかわれるのだという。そういえば、長崎県出身の母方の祖父は、東京に住みながら最後まで長崎弁が抜けなかったが「俺が行くしぇん」というぐあいに「しぇん」ということばを「・・から」という意味に使っていた。
 理由と結論を結ぶ接続詞は論理をつくりだすが、だからといって、かならずしも行動を導くわけではない。 世界は両義的あるいは多義的な事象に満ちていて論理はいくつもあるのだが、行動はひとつを選ばねばならない。多義的な小世界をつくる入り江、それが小さな島の中にあるとすればなおさらだ。しかし、多義的であることは不明瞭であることと同じではない。入り江や谷戸は多義的な植生や生物相があるが地形は明快である。だからそこには、ひとつの小世界がかたちづくられる。ぼくたちがこういう地形を理想のひとつとするのは、明快な構成の器に多義性が盛り込まれるからなのだ。何億年か前に両棲類が海から陸に上がったときも、それはきっと入江からだったろう。この島では、恐竜の骨の化石が見つかり、御所浦白亜紀資料館という小さな博物館もある。

 この映画は、上の衛星写真の島、熊本県御所浦、正確には御所浦町の牧島を舞台につくられた。あるいは、この島の小さな入り江がこの映画をつくったというのがふさわしいのかもしれない。
 物語は・・・・身ごもってひとりになった若い女が、故郷の近くの入り江にたどりつく。はるという。
そこには老人ばかりが土人形(どろにんぎょう)をつくりながら屈託なく暮らしている。中にただひとり、ちいという若い女が一緒に住んでいるが、けっして口をきこうとしない。心ならずも迷い込んだはるは、そこを出て行こうと思いながら老人たちに引き止められ、もとよりかれらの作る世界に好奇心をもたずにはいられない。さらにあらたな老人たちも加わる。・・・産む、産まない、帰る、残る、不安、やすらぎ、老い その中ではるは、そこの場所とそこに住む人々にひかれてゆく。

 最終版を見てもいないのに勝手なことを書くのは、この映画の作られる過程を、ぼくは長い間そばにいて見たり脚本を読んだり、この島にも行ったりしてきたから、どういう素材があり何をこころざしているかはわかっているつもりだからなのだ。うちの事務所が彼らの打合せの場所になっていたから、来れば論争がうるさいけれど、しばらく来ないとさみしくなった。そんなわけだから、ぼくには公正な評価をすることはできない。若者たちを応援するけれど、かといって思いもしない褒め言葉を使いはしない。そういう立場で、来年に予定している公開まで、この映画とそれに関わることを、ときどきエントリーしてゆこうと思う。

このブログ内の関連エントリー
mF247/*音楽配信サイト & 脈動変光星
*「もんしぇん」の公開
*もんしぇんの試写会
「もんしぇん」と「一角座」
         *   *   *   *   *   *   *   *
*追記:初めてGoogleマップをご覧になるかたへ

 写真をクリックして、googleマップの画面に移ったら、いろいろと画面を変えることができます。
・右上の「マップ」というボタンをクリックすると、同じところが衛星写真から地図に変わります。
・左に、上が+下がーになっているスライド式のコントロールがありますが、このつまみを上に引くと大きく、下に引くと島は小さくなる代わりに、下端までいっぱいに動かせば地球全体が出てきます。
・位置を変えるには矢印をクリックして東西南北に、どこかの場所をダブルクリックすれば、そこが画面の中心になります。
 まだ、不十分なところが2つあります。今のところ日本とアメリカとイギリスしか細かい地図が用意されていないこと。もうひとつ、地域によって写真のクローズアップの限界が違うことです。大都市ではひとつひとつの建物が認識できるくらいまで近づけますが、たとえば御所浦のようなところだと、あるところから先は写真が見られなくなってしまうのですが、遠からずそれもかわってゆくでしょう。

 インターネットのこういう使いかたは、はじめに構想したひとたちの意図をもっとも表しているもののひとつだと思います。それはきっと、場所についての人間の感じ方考え方を感覚の段階で変えてゆくでしょう。高いところから見た写真では国境線なんか見えない。中央がえらくて地方がそれに従属していると考えることや、ここは自分たちの領土だといって国家が対立していることなどを別の目でみることができる。いますでに東京経由でなければ世界とつながらないという考え方は弱くなりつつあることがもっと進み、それぞれの場所がそれぞれにいいんだという見方が進むだろうと想像すると胸が高まります。じつは大都市と同じように、小さな島の小さな入り江は世界とつながっている。むしろ、世界の本質にずっと近いところにあるのだと。
「日本海とGoogle マップ」も、お読みになってみてください。

投稿者 玉井一匡 : 01:20 AM | コメント (5) | トラックバック

September 04, 2005

柳川堀割物語


「柳川堀割物語」/監督 高畠勲・製作 宮崎駿DVD
 もう20年近く前に、福岡県出身の友人に勧められたのを10年ほどしてやっと見た。それも、新宿のつたやで1本だけの古びたビデオを借りたのだった。以来、このビデオは買っておこうと思いながらそのままになっていたのだが、先日、クライアントとの打合せでこの映画の話をした。ぜひ見てほしいと思ったのでamazon.comでしらべたらちゃんとあるが在庫わずかだと書いてあったから絶版になるのかと心配してあわてて注文したのに、今ではそんなことはなにも書いていない。
 福岡県柳川市を縦横にめぐる掘割と、そこに生活するひとびとのドキュメンタリー映画で、一部に説明のためにアニメーションが使われている。DVD版の「映像特典」のひとつ「赤坂憲雄が聞く高畑勳と柳川掘割物語」を見ると、はじめはアニメーションとしてつくるつもりだったのが、実写のドキュメンタリーになったという。それを見て赤坂憲雄と中沢新一との対談「網野善彦を継ぐ」を思い出した。引っぱりだしてみると、表紙は日本海をはさんで逆さまになった日本列島が配置された地図だ。こんな表紙だったんだっけ、われながらほんとうに忘れっぽいやつだとあきれてしまった。

 現代社会の、川や海に対する重ね重ねのひどい仕打ちは、山の奥でも都市の中でもいたるところで目にする。それだけに柳川の堀割に対する市民の思いや、そこに注ぎ込まれてきた愛情と労力を知ると、いまぼくたちの生きているこの時に残された掘割に書き込まれたものの厚みと重さを実感する。この映画を勧めてくれた友人にとっては、堀割のたくみな機能や歴史が印象に残ったらしいが、ぼくにとっては、下水道係長・広松伝氏というたった一人の人間の情熱と行動力がいかにひとびとを動かしたかという物語として記憶されていた。見直してみると、じつは友人の視点に割り当てられた時間のほうがずっと多い。
 ひところ堀割がどぶ川と化していたので、一部を除いて暗渠の下水道にすることを決定し、国庫補助もきまっていた。にもかかわらず、堀割を残すべきだと広松氏が市長に進言すると、市長は6ヶ月の猶予を与え、その間に説得力のある資料をそろえることができれば提案を受け入れようと答える。その結果、補助金も返上し、多くの市民による参加の意欲と行動をひきおこして堀割を蘇生させる。さらに、それを維持する仕組みも生き返らせる。たった一人の人間が始めたことが、少しずつ人間を動かし、それが重なることによってどれほどの重要な結果を残すことができるかという、勇気づけられる物語だ。YanagawaSatelite.jpg
さらに、もっと本質的なことも描かれている。
 人間と水の接点として、堀割という仕掛けはもっとも密接で小さい。小さなものが集積することによって構築された微妙で巧妙なネットワークなのだ。近代の技術の多くは、規模をより大きくすることで効率の向上をはかってきた。下水を暗渠にして大規模な廃水処理場で処理した水を川や海に放流するというのも、そのひとつだ。しかし、じつは大規模にまとめるというシステムは、必ずしも効率がいいわけではないということがわかる。大型のコンピューターから端末の小さく能力の劣るコンピューターへと樹木の枝のようにつくられたシステムが、パーソナルコンピューターが互いに同じレベルでネットワークを構築するというシステムに移行したことが思い浮かぶ。
 かつての堀割は、道のように物流と人の移動をささえるものであり、雨水を逃がす排水路であり、農業用水路であり、さらに明け方の水のきれいなときには上水路でさえあった。じつは双方向のネットワーク、あるいはブロードバンドなのだ。

 宮崎駿と高畑勲は、このころ監督と製作を一作ごとに交代しながら映画をつくっていた。この映画は高畑監督+宮崎プロデューサーという体制でつくられた。たしか、ナウシカのあとという時期だが、決して興行的な成果は望めない種類のドキュメンタリーであるだけに、彼らのこころざすものが何であるかを直接に物語る。高畑によれば、この映画をつくったころの広松氏は、役場の中でむしろ浮いた存在になっていたという。行政に携わるひととして、これ以上ないほどの成果をあげた人が、そのような立場を余儀なくされるという精神風土にも、浚渫が必要だ。
このごろぼくは、なにかというと、Stay hungry. Stay foolish. ということばをよく思い浮かべる。この映画をみてもそうだった。Appleコンピューターのスティーブン・ジョブズがスタンフォードの卒業式に招かれたときに、Whole Earth Epilogから、引用したことばだ。「満足するな、目先のことにとらわれるな」なんていわれるとどうも説教くさいが、Stay hungry. Stay foolish. なんてジョブズが言うと、そうだなあと納得してしまう。

 ぼくは一度だけ柳川に行ったことがあるけれど、もうずいぶんと時が経っているが、その後の柳川がどうなっているのかについても気になって探した。

・第2回『にいがた堀割・堀端会議』シンポジウム「城下町柳川の堀割〜再生の意味を説く」 講演1 故 広松 伝氏
・熊本県立大学環境共生学部柳川の堀割「再生」について考える —フィールドワーク実施報告—

投稿者 玉井一匡 : 10:19 AM | コメント (0) | トラックバック

August 28, 2005

テーハミング

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「日本海とGoogleマップ」のエントリーで、「海東」ということばのことを書いた。かつてワールドカップの開かれていた頃に、このことばに初めて出会ったことをホームページ(PAGE HOME)に書いたので、それを掘り出してここに連れてこようと思って調べてみたら、「海東」ということばをぼくは間違えて理解していたことがわかったが、まずはそのまま持ってきた。
  *   * *   *
 楽しみにしていたヨーロッパのチームがつぎつぎと韓国に負けて消えて行くさみしさも手伝って、ぼくは韓国の躍進を素直にはよろこべなかった。だからこの気持ちをなんとか克服したいと思った。そこで、6月22日の韓国-スペイン戦は土曜日の午後だったから韓国料理屋のど真ん中でゲームを見てみようと、打合せのあとで、ぼくは新大久保の駅をおりてひとりで新宿の職安通りに行った。そうする気になったのは、数日前の早朝の出来事があったからだ。
 日本がトルコに敗れ、韓国がイタリアに勝った翌日の早朝、プリンターのインクを切らしたので職安通りのドンキホーテへ買いに行った。5:30ころの町には、あちらこちらでまだ興奮が燠火のように続いていた。歩道の向こうからやってきたやつが近づいてくるなりぼくを抱きしめて、なんだか叫んでよろこびを表した。前の夜に日本が負けて韓国が勝ってからずっとぼくは悔しいヒトだったのに、このときは本気でおめでとうという気になることがわかった。だから、この日はもう一度赤い声援のさなかにひたってみようと思ったのだ。

新宿に着いた頃には、すでにゲームが始まっていたので、テレビのある店はどこも人が道路にこぼれていて、とても韓国料理店に入るどころではない。1階のテナントがいなくなった小さなビルでは、奥にテレビを置いて人が密集している。さらに歩道をはみ出し、路上駐車の車のあいだにあるわずかな隙間にも人が詰まって背伸びしている。わずかこの2,3年のあいだに、職安通りには韓国・朝鮮のみせが一杯になったけれど、これまではアジアの喧噪やエネルギーや力強さの欠けていたことが、ぼくにはちょっと不満だった。「これがおれたちの世界なんだぞ」と、日本人に対して本気で自分たちを主張しているところが感じられなかったのだ。ところが、どこかに隠されていた秘密の筺の蓋が一挙にひらいたかのように、韓国が町じゅうに満ちている。

 車道から背伸びして画面を見つめる人間に加わっているうち、しばらくするとふくらはぎが疲れてきたのでよそを見てまわることにした。細い道に面した韓国料理屋が店の前の道に向けてテレビを置いているのを見つけた。道を挟んだ向かいの3台分ほどの駐車場を空けて、地面に腰を下ろしている人たちが2、30人ほどそのテレビを見ている。ぼくはそこに加わることにしてコンクリートの上に陣取った。

 韓国料理屋には、道にそって奥行きわずか1mほどのテラスがあって、そこに小さなテーブルを間に向き合う椅子が2脚ずつ。テレビは、それに並んで置いてあるのだった。席に座る女の客からは、コーナーキックから直接ゴールを狙うくらいに角度がないのだから、画面はほとんど見えるはずがない。だから、テレビをよそにチヂミの皿とビールのジョッキをつぎつぎに空にしてゆく。まわりの人たちやテレビから声援があがると、その時だけ振り向いて身を乗り出しなにやら叫ぶのだった。30人は地べたに座って、彼女のすぐうしろの画面と、ときに2人を注視しているというのに、まったくたくましいものだ。
 ぼくは一番後ろの隙間に腰をおろしてビルのシャッターに寄りかかっていた。パワーブックのディスプレイより小さなテレビを5,6mはなれて見るのだから、ゴールラインを割ったかどうかなど、ぼくに見えるはずがない。審判さえわからなかったんだもの。おおよそのゲームの運びを見ているだけだったから、あとになって問題になった2つの怪しいジャッジも、ぼくにはそれと気付くことができなかった。ジベタリアンの一同が、ときどき右手を挙げては「ホーンミョンボ!」とか「アーンジョンファン!」と声をそろえて叫ぶのは分かるけれど、どうもわからないのがあった。繰り返して何度も聞くうちに、「テーハーミング!」というのが「大韓民国!」なのだと、ようやく理解したときには、韓国がとうとうスペインにまで勝ってしまった。

 ゲームが終わると、あちこちの店から出てきた人たちの紅いTシャツと「テーハーミング!」で職安通りは埋めつくされた。イタリアもポルトガルもスペインも、期待したチームだったからだろうが、ぼくは「おめでとう」という気にはなっても、よろこびを分かち合う気持ちにはなれず、うらやましい悔しいと思い続け、そういう自分の狭量を気に入らなかった。

 翌々日、相談したいこともあったので、青山で骨董店を営む友人を訪ねた。李鳳来さんはぼくと同年代で、店では李朝のものを専門に扱っておられる。父上が韓国人、母上が日本人で、ご自身は吉田松陰で修士をとったという人だ。李さんと話したら、彼らのよろこびの一部を共有する気分になって、少し前に進むだろうと思ったのだ。 しばらくサッカー談義をするとたしかにそのとおりになったのだが、それでも、店にある率直で力強く知的な李朝の器や家具と、ぼくの記憶に残された赤い応援の不似合いが気になった。
 数日してその理由がわかる気がした。応援の言葉が、たとえば「コリア!」でなくて、なぜ「テーハーミング!」だったのだろうかという疑問が湧いたからだ。明らかにこれは北を除外している。そのことを、日本のマスコミも含めて、だれも不思議だと言わなかったのはなぜなんだろう。もし、あれが「テーハーミング!」でなかったら、三位決定戦の日に黄海上での銃撃戦はなかったのかもしれない。「テーハーミング!」がチームや選手でなく地域でもない、国家を応援しているということが、マスゲームや人文字がそうであるように排他的な一体感をぼくに感じさせたのだ。

 とはいえこの機会に日本と韓国が、たがいの在りようを一部かもしれないが肯定的な実感として残すことができた。李さんのギャラリー「梨洞」の本棚にならぶ背表紙のひとつに「海東」とういことばがあったのを、寡聞にしてぼくは意味を知らなかった。李さんに尋ねると朝鮮半島を指す古くからの呼称なのだという。美しいことばだと思った。FAR EASTということばは、ここが世界の東の果てだと思えるのでとても好きなのに、「米軍」と対になっている「極東」という翻訳語をぼくは好きになれない。
「海東」のようなうつくしい名を、日本を含めたこの東アジアに使えないものかと思う。
*   * *   *   *
いまになって調べてみたら、海東とは朝鮮ではなく日本と琉球の連なる島々のことだった。もともと国家ではなく場所についての呼称なのだ。うれしい発見だった。国家は、人工的に取り決められた線によって不連続に切り分けられるけれど、文化や生活や歴史を書き込まれた「場所」は空間的にも時間的にも連続的につながるからだ。
 2002年のこのとき、新宿では日本の若者たちは韓国人たちといっしょに声援を送り喜びをともにしていた。多くのマスコミもよろこんでいたが、それには少し無理をしているところがあるようにぼくには思われた。悔しいという気持ちも表した方が正直でいいんじゃないかと思うんだがと、このときぼくは李さんに話した。
いや、日本人が応援して喜んでくれたことは韓国人にとっては思いがけないことで、とてもうれしかったようですよ。それでよかったんだと思う。そう李さんはおっしゃった。

投稿者 玉井一匡 : 12:38 PM | コメント (0) | トラックバック

May 14, 2005

満州走馬燈

「満州走馬燈」 小宮清著 ワールドフォトプレス刊 1982年
aki's STOCKTAKINGでくわしく取り上げられたので、満州走馬燈をひさしぶりに読んだ。かつては拾い読みをしていったから、読んでいないところがたくさんある。こんどは註にいたるまでみんな読んだ。奥付を見ると昭和57年、1982年刊行で、もう23年前になるのだ。
 じっくり読み返すと、ほんとうに良くできた本、いい本だ。子供の視点、大人の視点、歴史的視点。それら3つがきちんと書かれていて、子供の視点を中心にすえている。終戦直後の日本でも、戦火のアフガニスタンやイラクでも、悲惨な環境にありながら多くの子供たちは明るい表情をしていた。この本を読むと、彼らの環境へのとてつもない適応力がなぜなのか分かる気がした。

大人にとってはつらいばかりの生活の中にさえ、こどもたちは楽しさと驚きを発見する。きっとこどもはそういうふうにできているのだ。生きてゆくためにまず必要なことは、生きるのはすてきなことなんだと思えることなのだから。
 主人公「きよし」(少年時代の著者)の記憶に刻まれたできごとや行動そしてモノを、具体的でていねいなイラストと文章で描写されている。それが全体で62項目あって、それぞれがかならずしも因果関係で結ばれることはなく独立している。それがいいんだ、きっと。たしかに、こどもの世界はひとつひとつのできごとが独立したデータベースのように一旦は完結していて、あるできごとある一日が終わるとまずはリセットボタンが押される。子供たちは立ち直りが早くて、しかもときに大人たちの驚くような視点をもつことがあるのは、そのためにちがいない。大人たちの経験は、それを得たときすでに他の多くの経験や知識とリンクされ意味づけされてしまうけれど、子供の世界では、それぞれが完結した経験は自由に組み合わせ変えることができるから。
 この本で、ぼくたちはまず満州でのたのしさやよろこびを発見することを知る。各章に1部ずつ、3ページ分の大きさの地図が綴じられている。ページが進んでも、拡げておけば地図をいつでも見ることができる。だから独立したそれらの経験を整理することができるのだ。それらをもとにして経験を組み立てると、さまざまな経験の背後になにがあったのかが感じられてくる。小さな字で描かれた、ときには数ページにわたるコメントは、そのちいさな地図の範囲を超えたところでなにが目論まれていたのか、何がなされていたのかを伝える。
 そのうえに、きよしの育った斑代開拓団の人たちがいかに悲惨な運命に遭ったのかを、生き残ったひとの手記と団員の消息のリストが具体的に語る。きよしの直接のものでない経験には、絵がない。しかしぼくたちにも充分な想像力ができている。
 中国の反日デモの背景に現在の中国の状況が潜んでいるにはちがいないが、しかしその底には日本への反感が生き続けているとしても当然のことだ。さらに、その中国人からの怒りと憎しみを引き受けた満州開拓団のひとたちがやっと帰り着いた戦後のこの国の、ぼくの子供時代を思いかえすと、「引揚者」に対してのまなざしは決して暖かいものではなかったように思う。だから、できるだけ多くの人にこの本を読んでほしいと思うけれど、文庫さえ新本がないというのは残念だ。
 つけ加えておきたいことがあった。大人と子供の世界の構成にあるもうひとつの違い。大人の世界は時間で構成されることが多く子供の世界は空間で構成されるのだと。この本の副題に「メモリーマップ」とあるけれど、それこそ、時間のなかにあるメモリーと空間を包み込んだマップを重ねたものがこの本なのだ。ぼくたち、建築に関わる人間がしなければならないことは、たいせつな時間に心地よい空間を加え、空間の中でいい時間がつくられる仕掛けをつくること、それが統合されていい「場所」というものがつくられるのだとぼくは考えている。

投稿者 玉井一匡 : 01:57 PM | コメント (2) | トラックバック

April 17, 2005

山手線の不思議な物体


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日曜の昼過ぎ、高田馬場から山手線に乗った。車両に足を踏み入れると、その前の床に不思議なものが置いてある。
 発泡スチロールのウェディングケーキのようなものに、さまざまなキャラクターの人形が張り付けてある。そこから2mほど離れて、向かいのドアの脇の座席に妙な恰好をしたおじさんが座っている。スカートをはき、花柄のシースルーのブラウスを着て、胸を何かで膨らませているのに、顔は日に焼けて浅黒く、鼻の下と顎にひげをたくわえている。彼と物体との間には何かの関わりがあるにちがいない。
 ぼくは、なぞのデコレーションケーキに近い、おじさんの反対側の空席に腰をおろした。膝の上にデジカメをのせて、目立たないようにシャッターを押したが、まったくのピンぼけで、もう一度おちついて撮り直すとやや余裕ができたから、列車が駅に停まると乗ってくる新しい乗客が、これを見つけたときの表情に、ぼくは興味をそそられた。

 笑いをかみ殺しながらおじさんと謎の物体をみていたが、30人ほど乗り込んできた乗客の大部分は、たとえば酔っぱらいの嘔吐を見るように目をそらし、何も見なかったような顔をしている。
ただ二人だけ例外があった。若い男が、うれしそうに物体をみていたが、やがて携帯電話を取り出すと、メールを書いているような顔をして写真を撮った。もう一人、母親に手を引かれた5,6才の女の子が、後ろを振り返って興味をあらわにしたが、母親は目をそむけて子供の手を引っ張っている。見る人たちの反応は、おじさんと同じくらい興味深かった。
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 やがて、原宿に着く前に、おじさんはウェディングケーキのようなやつに近づくと両手にとって頭の上に載せた。なぞの物体は帽子だったのだ。ちょっと話してみたいと思っていたのに、おじさんが降りそうになったのでぼくはあわてて立ち上がり近づいた。
「これ、おじさんがつくったんですか?」
「そうだよ。学校で習わなかったかい?」
「こんな変なもん、学校なんかでならわないよ」
「尋常小学校でならったぞ」
「ほら、赤い鯨のミニチュア」と言って、正面につけられたプラスティックの箱の中で泳いでいる金魚を指さした。
原宿で降りようとするので、おじさんのあとをあわててぼくも追った。
「写真とっていい?」
「いいよ」といってプロレスラーかボクサーのようなポーズをとる。
写真を撮っているうちにドアが閉まりそうになったので振り返ると、車内の人たちはぼくのことを「向こう側」に行ってしまった人間のように見ている気がした。

投稿者 玉井一匡 : 09:57 PM | コメント (6) | トラックバック

January 24, 2005

伊能大図を歩く


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 京葉線で海浜幕張が近づくにつれて、電車の乗客に親子連れや友達同士の数人の子供たちのグループが多いのが気になってきた。1月22日,23日は、全国を巡回してきた伊能大図の上を歩ける最後の機会だ。10:00開場で、9:40くらいに駅に着くから、余裕はあるはずなのに、この人たちはみんな幕張メッセに行くんだろうかと不安になる。こういうときには、いつも同じような不安にかられてしまう。しかし、駅から会場に近づくにつれて彼らとは進む方向がわかれてきた。子供たちの大部分は、ワールドホビーなんとやらの会場へ向かい、ぼくたちの目指す「イベントホール」に入ってゆくのは、おじさんとおばさんが大部分をしめる。開場10分前に「伊能大図アメリカ里帰りフロア展in幕張メッセ」の会場にぼくが着いたときには100人ほどの列ができていた。

 畳ほどの大きさの大図200枚以上を貼り合わせた日本地図を入れるにはバスケットボールコート3つ分ほどの面積を占める。縮尺は1/36,000。ぼくの個人的にかかわりのある東京、新潟、田平、御所浦などを見たあと、まずぼくは日本の4つの島の海岸線を一周した。
 ところによって、山、川、まちなどの書き込みの密度に違いがある。京都大阪周辺では書き込みの密度が高く、江戸はそれにつぎ、日本海側や東北はうすい。文化と歴史の厚みと密度を反映しているのだろうが、上方より江戸の方が密度がうすいのは、軍事的な理由なのだろう。北海道に渡れば海岸線が描かれていないところさえある。測量隊の一行は「御用」と染め抜かれた旗を背中に差していたから行く先々で協力を得られたが蝦夷地まではそのご威光がおよばなかったんだそうだと、事務所にやってきた友人が、教えてくれたとおりだ。

 地図の内側に空白が多いことに、はじめは意外な印象を受けた。しかし、じつは世界の中の日本という「自己」を確立することが必要なこの時期の日本にとっては、知りたかったのは日本の内側のありようよりも、国土の輪郭だったのではないだろうか。他者とは、世界から自己をのぞいたものであると同時に、他者と接して自己が形成されてゆくはずだから、重要なのは海岸線なのだ。
  地図は「地」と「図」で構成される。日本地図と言うとき、日本が「図(ず)」であり、その他は「地(じ)」だが、同時にその地図は世界が「図」で、日本が「地」でもある。もしかすると、伊能忠敬が50才もの年になってから勉強をはじめ、気の遠くなるようなこの試みに取りかかりなしとげることができたのは、それが日本を描くと同時に世界を描くことであると気づきいたからなのかもしれないと思う。

投稿者 玉井一匡 : 08:02 AM | コメント (4) | トラックバック

November 15, 2004

チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記

GebaraBook.jpgエルネスト・チェ ゲバラ 著/棚橋 加奈江 現代企画社/2,000円che002.jpg
  何年か前に娘が買ってきた本を自宅の本棚からさがしだした。ロバートレッドフォードがなみなみならぬ熱意を込めて「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画にしたとaki'sStocktakingで知ったからだ。 チェ・ゲバラと年長の友人アルベルト・グラナードがモーターバイクに二人でまたがりアルゼンチンを出発し、ほどなく壊れたバイクを捨ててヒッチハイクに乗り換えチリを経て南米を縦断する。そのときのゲバラ自身による記録がこの本である。
 読み進むうちに、ぼくはかつてこの本を途中でやめたわけを思い出した。

ありていに言えば読みにくいのだ。正直に言えば翻訳が下手だ。なにしろ「チェ・ゲバラと聞けば、胸が熱くなるおじさんもいる」と、Aki's Stocktakingには書いてあってこのBlogにリンクしてあるから、今度は最後まで読もうと決めていたのだが、それでも途中で5冊ほどほかの本を読んでしまった。ゲバラの原文が修辞的な表現が多いせいもあるのだろうが、それ以上にゲバラへの想いがあまりないせいだろうと婉曲に言っておくが、彼が言いたいことが伝わらない。

 こういうことを言いたいのだろうと読者の側が想像力を補いながら読んでいくと、当時の南米の国々のありかたやそれらとアルゼンチンの関係について、ゲバラがどう感じていたのかがわかってくる。今でも、サッカーを見ているとアルゼンチンには白人の選手が圧倒的に多く、他の南米チームが先住民やアフリカ系選手の多いのとは明らかに違いがある。まして、この時代のペロンとエビータがいたアルゼンチンは、他の国々からは理想の国のように見られていようだ。
 ブラジルが大きさで南米において特別な存在であるなら、アルゼンチンは人種の構成とそれがもたらした社会のありかたが特別だったらしいと、のちにチェ・ゲバラとよばれる若者の目を通してぼくたちにも理解される。 ブラジルを除く南米の国はすべて共通の言語を持つから、国による違いよりスペイン語という緯のつながりが強いらしい。スペイン語を話す人たちの下には、その地に受け継がれて来た本来の言語を話すインディオ(ヨーロッパ人が、この大陸をインドだと思い込んだから、先住民をインド人と呼んだんだ)が置かれる。スペイン語をしゃべる人たちの上には、安く労働力を買いたたき資源を吸い上げて富を拡大するアメリカ合衆国の大企業という模様が織りなされている。

 若い医学生と駆け出しの医者の二人づれは、南米縦断の旅をつづけながら、ハンセン病の病院で働いていたおかげで過剰な敬意を払われ、それによりかかり羽目を外し続ける。しかし、それは同じ基盤に立つスペイン語をはなす白人という身内に対してであって、いつも奪い取られるばかりの先住民へのまなざしは共感に満ちているし、奪い取る者たちへの義憤は熱い。南米におけるアルゼンチンの特別なありようとスペイン語が作り出し、アメリカ合衆国の力への反感が育てた南米の連帯感が、このころのゲバラに肉体化されたのなら、のちにキューバ革命に加わり、さらにボリビアでのゲリラ戦に命を賭けたのは自然なことだ。
 ふたりは、行く先々でサッカーチームの助っ人となって、アルゼンチンの若者らしく活躍するのだが、ゲバラのポジションがキーパーであるのが、ぼくにはちょっとした新発見だった。フォワードかトップ下くらいのような気がするのだ。

 多くの場合、本を読んだあとで映画を見ると不満に思うことが多いけれど、これはあとで映画を見ると大いに満たされるにちがいないと、ぼくは期待し確信している。

関連エントリー
「モーターサイクルダイアリーズ」

投稿者 玉井一匡 : 11:40 PM | コメント (2) | トラックバック

November 02, 2004

アジア子供のいえと図書館・ヴィエンチャン

otukai いま、ぼくはラオスの首都ヴィエンチャンのホテルのベッドで2日目の夜にiBookのキーボードを叩いている。自治労が資金を出して、ヴィエンチャンに多目的小ホールつきの図書館をつくるという計画のお手伝いのためだ。
 自治労は地方公務員の労働組合だが、自分たちの権利の獲得の組織にとどまらず、よりよいコミュニティをつくるための研究や活動をしてきた。そのなかに途上国のコミュニティ作りの支援があるが、そのひとつとして、これまで8年間にわたりラオス、カンボジア、ヴェトナムで「アジア子供のいえ」という施設つくりと運営を資金と人で支援してきた。というはなしをきいてからヴィエンチャンに来てしまうまで、さほどの時が経っていない。

たとえばヴィエンチャンの子供の家は、おそらくかつて住宅として作られた建物を借り、裏庭の一部に鉄板の波板でボールトの屋根をかけて、壁のない小さな体育館のような場所をつくった。
 家の中には小さな図書館がある。壁に鏡を張った部屋がある。民族楽器がある。ぼくがそこを見せてもらったときには、まだ学校が終わっていないから、こどもたちはいない。だが、そこに子供たちがやってきて活気にあふれたときの様子を思い浮かべることは難しいことではない。なぜなら、くりかえし読まれた本や使い込まれた楽器、床のモルタル、チークの寄せ木は、どれもがおだやかにつややかな光を反射しているから、そこで本を読み、楽器を鳴らし、丸屋根の下で踊るこどもたちの様子を思い描かせてくれるのだ。
 本棚には、ぼくの娘たちが小さかったころに読んでやった「はじめてのおつかい」などの日本の絵本が何冊もならんでいる。日本語の文章の上に、ラオ語の文字を書いた紙が貼ってある。自治労の人たちがラオ語に訳した文章を貼ったものだ。ラオ語の本は1年に5、60点ほどしか出版されないので、こういう本がこどもたちには貴重なのだ。

 先日、若井から電話が来た。「自治労がラオスで図書館を作ろうとしている。相談に乗ってほしいことがあるんだが、いま時間はあるか」という。いいよというと、すぐに自治労本部国際局局長の井ノ口さんといっしょに事務所に現れた。
 他の地方に、自治労の支援で独立した図書館を2つ作ったが、来年、ヴィエンチャンに図書館をつくる計画を進めている。ラオスでは多くの施設が設計施工でつくられるので、縁のある施工会社に頼んで基本設計と概算見積をしてもらったんだが、それをチェックしてくれないかというのだった。資料をあずかり、後日、関係者があつまった会議で、このままつくったのでは、せっかくの機会がもったいないからこちらから提案した方がいいということになった。
 そんなわけで、敷地などさまざまな環境を知ること、これまでに自治労の協力で作られた施設の様子を知ること、ラオス側の関係者に計画を説明して協力を求めることなどを目的に、ここまでぼくはやってきた。
 同行者は井ノ口さんともうひとり吉川健治さん。EFA(empowerment for all)の事務局長である。今回の図書館建設を機会に自治労の人たちによってこういう活動を支援するためにつくられたNPOである。彼は学生時代からインドシナ難民の支援のためにタイに渡り難民キャンプなどで活動した。その後、NGOであるSVA(sharanti Voluntier Association)でタイ、やラオスで活動しラオスにも6年間ほど住んでいたから、タイ語もラオ語も使える。

 子供の家を運営するのは、そのSVAである。所長の八木沢さんと川村さんの日本人スタッフが駐在して、ラオス人のスタッフとともに活動して長いから、二人ともすっかりここにとけ込んでいる。そのヴィエンチャン事務所には、やはり小さな図書室があって、こどもたちや若者がやってくる。移動図書館も走らせている。
  あちこちの施設を見たり活動する人や利用者たちや役所のひとたちの重層的で立体的な背景が、ぼくにも実感として分かって来た、ようやく。自治労を通じて日本からの資金や本などの支援をEFA-japanが担い、現地での運営をSVAがおこなうという役割についても把握できるようになった。

投稿者 玉井一匡 : 11:19 PM | コメント (4) | トラックバック

September 05, 2004

漂泊のBlogger

annefacade.jpg カフェ杏奴・新目白通りから
 いのうえさんは「ぼくはアナログ人間なんで」と言って自分ではサイトを作らない。そのかわりにいろいろなBlogのサイトに書きこみをする。あるとき、ぼくのBlogにコメントが書かれて以来、コメントでやりとりをしたりメールを送ったりしたのちに、彼の推薦するカフェ杏奴へ寄ったときに直接に出会った。そのようにして彼は自分の興味を持ったいくつかのサイトに書き込みをしている。半ば匿名性をもちながら自分自身がBlogからBlogへ移動する漂泊のブロガーなのだ。かっこいい。これは、Blogならではのネットワークの作り方だと気づいてぼくは、いのうえさんとBlogに感心した。

 そのいのうえさんが、今度はBlogを通じて知った、けれども会ったことがないという人も含めて何人かに声をかけた。「明日の午後、ぼくはカフェ杏奴にいます。ぜひいらして下さい。こんな人たちに声をかけました。・・・・・・・。」と、絵本のものがたりのようだ。
 インターネットのうえでつくられたコミュニティを、もうひとつ別の、現実空間というレイアに移し、サイトのかわりに本物の人間をあつめて直接につなげてみようという試みではないか。いのうえさんがプロバイダーを、カフェ杏奴がブラウザーソフトの役を果たすというわけだ。この日、5人があつまったがすぐにうち解けて、話がはずんた。それもBlog力だ。
 帰ろうとしたらかなりの雨だったので、自転車と徒歩の3人はしばらく雨宿りをすることにした。閉店時間になっても雨はまだふりつのる。川沿いのみちを走ってゆくと、 両側を高いコンクリートの壁にかこまれて常日頃は情けないどぶ川に身を堕としたやつが、力強い濁流に姿を変えていた。 ところによっては30㎝ほどで乗り越えようとしている。全身ぬれねずみになりながらも、背中のMacの心配がなければ、橋の上からいつまでもゆっくりと、元気になった川の水を眺めていたいようだった。

 5人+1は、いのうえさん、吉田美保子さん・染め織りうつみあきらさん・絵画(Blogではないが)おのふみとさん・散歩、まち、沖縄在住だから来られないが話には何度も登場した西川晴恵さん・染め織り、そしてぼく

投稿者 玉井一匡 : 01:13 AM | コメント (7) | トラックバック

July 22, 2004

国境を越える3つの方法

ソフィア・サコラファ 女子やり投げ・元世界記録保持者
 7月21日の夕刊に、国境のことを考えさせる興味深い記事が3つあった。
 曽我さんの夫のジェンキンスさん、縄文遺跡、そしてアテネ・オリンピックの記事だが、もちろんみんな別々の記事である。ジェンキンスさんのことは誰でも知っている話だが、とりわけ縄文遺跡とオリンピックの話には常識を覆えされる快感があった。

 縄文遺跡は津軽の大平山元遺跡である。ここの土器が16,500年前のものだと分かったが、ロシアのアムール川流域から出土した土器が、同じように分析するとやはり16,000年前頃のものであるという。同じ時代に、広い領域にわたって土器が使われるようになったというわけだ。言いかえれば、同じ文化が日本からロシアにおよぶ広い範囲にわたっていたことになる。
 アテネでは、いま47才の元世界記録保持者、女子やり投げ代表として2回のオリンピックに参加したソフィア・サコラファが、テロの可能性をはらんだアテネオリンピックを前にして平和のために何かできないかと考えた。その結果、パレスチナ人としてオリンピックに出ることを考えついて実行に移した。すでにパレスチナの市民権を取りアラファトとも会ったという。平和の祭典を謳いながら、オリンピックは国家の求心力の向上に利用されている状況にあって、ソフィアは国家の境界を突き崩そうとしている。

 ぼくたちは国家や国境というものの枠でものごとを考えてしまいがちだと、これらの記事によって我々の了見のせまさに気付く。ぼくたちが古代を考えるときにも、現在の国や文化圏をそのままに重ねて考えてしまうのだ。自分の国家には固有の文化が昔からあって、自分たちのものが古くすぐれたものであってほしいと思う。しかし、現代の国家、現代の文化圏そして古代の文化圏が、それぞれに全く異なる範囲をもっていたとしてもそれはむしろ自然なことだということに、つい気づかない。
 ソフィア・サコラファの行動は、こういうメッセージを伝える「国籍なんて所詮は人間が決めたことじゃないの。数十年前に強引に作られた国家によって追い出されたパレスチナなんて、その最たるもの。パレスチナをイスラエルやアメリカとおなじアテネのスタジアムにつれてくるわ」と。
 ジェンキンスさんは、戦争という国家公認殺人ゲームの最中に国境を越えて敵の領域に行ってしまった。国境を否定したはずの彼の行為は、並はずれて強固な国境を構築した国家に飛び込む結果になった。そして今ふたたびもうひとつの国境を越えようとしている。

 国境は空間を不連続に分離して国家を限定するものだが、文化は連続的に変化しつながり重なっている。国境や国家は、分離するのものだが、文化はむしろ結ぶものなのだ。国境は力によって作られたものだが、文化はできてくるもの、伝えられるものなのだ。
 建築とは、ウチとソトをつくり領域をつくる。ある種の建築がつくる領域は力が国家と国境をつくることに似ているかもしれない。
だが、ぼくたちにはほかの可能性がある。建築の境界をもっと大きく拡げて、線でなく面にすることができるからだ。境界を連続的、あるいは段階的に変化し重層する空間とすれば、排他的でない境界ができるはずだ。もしかすると、同じように国境を線でなくある幅をもった領域にすることで、国家間の不連続な境界をなくすことができるのではないかという望みを捨てきれない。

投稿者 玉井一匡 : 04:56 PM | コメント (0) | トラックバック

July 20, 2004

アメリカ再読

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 大きな街路樹がならぶ住宅地:右から2軒目が妹たちの家
 

 カフェ杏奴を教えてくださった「いのうえさん」からつぎのようなメールを頂いた。
「玉井さん、おはようございます。 杏奴ファンのいのうえです。貴Place Runner を掘り起こしましたら、ニュ−ジャージー州リッジウッドの住居について書かれていましたので、偶然とはいえびっくりしました。小生も家族と共に1986年から1992年の足かけ7年、リッジウッド村の北端に住んでおりましたので。世の中本当に狭いというか、これも何かの縁ですね。」

 ニュージャージーは、ニューヨークに勤務する日本人が比較的多く住んでいるところだから必然性がないわけではないけれど、そのなかでもリッジウッドという小さな村だということになると、何かの縁だろうとぼくも思ってしまう。

 「前に書いたものをBlogで公開すればいい」と、秋山さんからも何度かアドバイスを受けていたのだが、他にも書きたいことがいろいろとあったので、なかなかできなかった。この機会に読み直してみると、今年は日米修好150年でもあるし、いまでも通用する話だと思ったので、いのうえさんのメールを機会に、Blogにのせることにした。これは、リッジウッドの家の「ベースメント」で目を覚ました明け方、ノートに書いたものだ。

 1998年秋、アメリカに住む妹たちの家をぼくははじめてたずね、およそ1週間そこに滞在した。13歳も年齢のはなれたただひとりの妹である理子と夫のスティーブは14年前に日本で結婚し、その後、日本とアメリカで何度か住まいを変えたのちに、ニューヨークの郊外、ハドソン川をはさんだ対岸のニュージャージー州のリッジウッドという町に家を買って3年ほどになる。3人の子の親となったスティーブは、ほんとうは田舎に住みたいんだと言いながら、毎朝のように前庭の芝生の上に投げ込まれるビニール袋入りの朝刊をもって車に乗り込み、駅からは電車とフェリーを乗り継いで1時間たらずでニューヨークのワールドファイナンシャルセンターにあるオフィスまで通勤している。

 3月に生れたあたらしい孫ソニアの顔を見がてら、ぼくたちの両親は新潟をはなれて3週間ほどかれらのところに滞在することになった。家族そろって相談したいことがあったので、両親の迎えをかねて最後の1週間をぼくも東京から合流したのだった。
 両親と一緒だったから、いずれにしろあまりうごきまわることはできないし、その1週間を、ぼくは主にこのまちに腰を落ちつけてアメリカの日常的な場所に接することにしようと思った。わずか1週間のあいだだったけれど、地下室に寝起きして、この町とこのいえの住人たちを通じ、アメリカについて実感をともないつつさまざまなことを考えることができた。アメリカについて考える時には、いつも日本のことを考えないではいられなかったから、アメリカを考えるということは実はアメリカという鏡に写した日本をみているのだった。

 この家の面積は地下を除いても屋根裏を含めると延べで40坪ほどだから、日本ならけっして小さいとはいえないけれど、まちを一巡りしてみると、ここでは一番小さい家のひとつではあるようだ。とりわけ、外から見れば小さく見える。玄関ドアの左右に窓がひとつずつならんだ上に平家のようにつくられた屋根に、屋根裏の子供部屋のドーマーウィンドウ(屋根窓)がふたつならび、横にガレージが加えられただけのかわいい家とみえる。
 しかし、ちょっと目をこらしてみれば、この家がただかわいいだけの家ではないことが、いたるところから読み取ることができる。建てられてからすでに50年以上の時を経ていながら外壁も内側の壁もきれいに塗装を施されているので、さながら雪におおわれたまちのように一様に美しく見えるのだが、家に加えられた手の痕跡がそこここにとどめられているからだ。なによりこの家を魅力的に感じさせるのは、古いことを誇らし気にして建っていることだ。とはいえ、骨董品のように古さそのものが価値を持っているわけではまったくない。けれども、使いこまれ大切に手入れされてきた痕跡を感じさせるもののもつ美しさや好ましさがあるのだ。この家だけではなくまわりの大部分の家たち、それらが集まって作られているこのまちそのものにも、同じような好もしさが感じられる。

OLSONDACT.jpg 上の部屋を暖めるダクトはベースメント天井を走る。断熱はない。

 日本でつぎつぎと建てられる家の多くは、作られた当初の輝かしさは時とともにみるみる失われ、粗大ゴミへのみちをひたすらに歩み続ける。土地とともに住宅を売ろうとすれば建物の価値はゼロだと評価され、ときには解体の手間の分だけのマイナスの評価を受けるというぼくたちの社会では、売買の市場に出されたとたんに古い住宅の価値はゼロになってしまう。 けれども、このまちの家たちは時とともに価値を上昇させ、現在の住み手である妹たちも、買ったときよりも高くこの家を売ろうと考えてあちらこちらと手を加えて、よりよい家にしようと努力を惜しまない。終の住処としてひとつの家に住みつづけようと考える日本人よりもむしろ、家族が増えたからここを売ってもう少し大きい家を買おうと気軽に考えるここの人たちのほうがじつは家を大切にしようとしているという逆説はすこぶる興味深い。
 最も私的な建築物である住宅も大きく見れば社会全体の財産だと考えるなら、日本のあり方では、作られた当初に最大だった財産が時とともに減り続け、数年で他者にとってはゼロになる。けれど、100年たった住宅でもそれがちゃんと商品として売買されるこのまちでは、社会の財産は時とともに蓄積されてゆく。あのバブルの時代に日本が世界中からかき集めてきた富は、ただ空しく土地の価格を上昇させ、ゴルフ場を増やし住民に君臨する庁舎をつくり、森を減らしここちよい小さな漁港を埋め立てて終わった。社会に蓄積されたものは少ない。
 そして、今頃になってストックとしての住宅だの100年住宅などと住宅メーカーや役人が口では言いはじめた。もう、大組織や役所の言うことを額面通りには信じない。すくなくともそれを学ぶことができたのがバブルという愚かな時代の残したささやかな財産だ。量から質へというスローガンで新しいマーケットを作ってゆこうというのが最も重要な目的に違いないのだから、モノとして長もちするだけの家がつぎつぎとつくられてゆくのだとしたら、それはもっと悲惨なことになりかねない。シリコンを注入した美貌や肉体のように、年を経てもいつまでも変わらないということが100年持つ住宅なのではないはずだ。    

 だが、紙袋や紙皿やプラスティックのフォークを1回使っただけでゴミ箱に放りすて、冬にはふんだんに暖房をきかせた家の中でアイスクリームを食べ、夏には冷房を効かせた室内でスーツとネクタイをつけるというアメリカの生活を、ぼくたち日本人はあこがれてあとを追ってきた。われわれを大量生産と大量消費の泥沼に誘い込んでおきながら、ここのひとたちは背後にこんな堅実な世界をしっかりと大切に残している。日本にもちこまれた道具や映画からぼくたちは彼らの生活の断片を知ったけれど、それだけではよみとれなかったものがあまりにも大きい。単語をひとつひとつ日本語に置き換えることによって英語ができるかのようにしてぼくたちの英語教育はなされてきたけれど、それが英語という言語体系の全体からかけはなれたものになってしまうように、ぼくたちの読み取った道具や生活の断片という単語は、この国の生き方という言語体系とはかけはなれていたのではないか。

 アメリカのきわめて強い影響のもとに日本人のひとりひとりの生活も社会も作られてきたのは、けっして戦後民主主義の世代だけではない。ペリーが浦賀に押しかけてきてこのかた150年にもわたって、良きにつけ悪しきにつけあるときは進んで模倣をし、あるときは力ずくで従わされながら、くり返しくり返しアメリカのやりかたや在りかたを受け容れてきたのだ。西洋のまねをしたいばかりに、仏教寺院を破壊し仏像を売り飛ばし、古いものをないがしろにして、ほかならぬアメリカ人をはじめとする外国人にたしなめられて、あるいは、ドイツ人にほめられてはじめて桂離宮を見直す始末だった。

 アメリカではおそらく平凡なものである理子たちの家と、そのまちのあちらこちらに、われわれ日本人にとってはきわめて興味深いものが見つかる。外の文化からみて真に興味深いものは、内にとってはあたり前のことにある。モノの集積としての「家」と、そこに作られる場所を読み解くことから、アメリカという、ぼくたちには矛盾に満ちたと見える存在を読み解くカギが見つかるのではないか。進歩と信じて絶え間のない変化を続け、一方ではかつて持っていた世界を壊し、自分たちの世界観を見失おうとしているぼくたちの社会を、アメリカという鏡に自らを映すことで見直して、立ち直るすべを発見することが今から欠かせないだろう。

投稿者 玉井一匡 : 04:31 PM | コメント (6)

June 21, 2004

カフェ杏奴:こだわりのないということ

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  林芙美子の住んでいた家のことを書いたぼくのエントリーに「いのうえ」さんという方がコメントをくださった。近くにあるカフェ杏奴という店に時々寄るんだが、いいところだから寄ってみてください、すてきな「ママ」がやっているんだと書いてあった。ちょうどぼくの自転車通勤の途中だから、行ってみようと思いながらなかなか寄れないまま数ヶ月が経った。なにしろ営業時間が午前11:30から午後7:00だから通勤帰宅の時間とみごとに合わない。やっと先々週の土曜日に初めて寄った。

 用事があって昼近くになって出かけたから、珍しいほどの上天気も手伝ってのんびり自転車を走らせた。自転車通勤をしてもう7,8年になるのに、スピードの持続を意識せず、時間も気にせずに自転車を走らせたのは、これまでに記憶がない。そうやってゆっくり乗ると、自転車というのはなんと気持ちのいい楽しいものなんだといまさら気づいて、「カフェ杏奴」に寄ってみようという気になったのだった。

 店はこのうえなく愛想のない外ヅラだが、中にはいると、古い喫茶店ならオイルステインにしそうなところがペンキ塗りにしてあるのがオシャレだ。窓際に席を占めて、パイプをとりだし久しぶりにタバコを吸いながら読書をして1時間半ほども座っていた。この時間にやってくる客の大部分はカレーを一緒に注文するが、ぼくは遅い朝食をすませて来たからブレンドコーヒーだけなのに、コーヒーカップが空になると、氷を浮かせた小ぶりのガラスのピッチャーを「どうぞごゆっくり」といって置いていってくれた。テーブルには一輪ずつ別々の花がガラスに生けてある。高い天井に中二階と半地下があるなかなかひろい空間で、店のあるじ一人だけで何もかもやってしまうからなのかもしれないが、ほどほどに客を放っておいてくれる。みせの大きさと、客に対する接し方の間合いがいいのだ。そのせいなのだろうが、常連の客が多いようだった。

  翌日、ようやく杏奴に行ったことをコメントに書き加えると、いのうえさんがもういちど書いてくださったので、一週あけた土曜日に店に寄った。帰り際に、いのうえさんのコメントのおかげで店に寄ったという顛末をあるじに話すと、「2時間ほどまえにいらして、そのことをお聞きしました」という。「4年前に店を始めたんですが、お金は掛けられなかったから、テントは見積を取っただけでやめてしまったし、店の名前を杏奴にしてブラインドを杏色に替えたくらいで、内装はほとんど前のままなんです」。にもかかわらず、店の手入れと客への配慮が行き届いている。店についてもそんな具合だが、客に対しても近づきすぎず冷たくもなく、淡々としかしにこやかに接しているのだ。そういう「こだわりのなさ」が、この店の「場所」をつくっているのだとわかってくる。

 このごろ、「こだわり」という言葉が肯定的な意味で使われることに、ぼくはいまでも慣れない。というよりもむしろ気に入らない。こだわりを漢字で書けば「拘泥」だろう。もとは、否定的な意味として使われていたことは辞書も証言する。ぼくの持っている1981年版の広辞苑には「こだわる」の項目にこう書かれている。(例文を省略)「1)さわる。さしさわる。さまたげとなる。2)かかわる。かかりあう。拘泥する。3)故障をいいたてる。邪魔する。」と。最新の広辞苑がどう記述しているか、まだぼくは知らない。だから「こだわりの一品」だの「こだわりの住宅」などとテレビのリポーターが言うと、さも難しそうな偉そうな顔をしたシェフや上っ面だけの建築家が思い浮かぶ。そういう番組をどうも信用する気がしない。

 この店とそのあるじのふところの深さ、にもかかわらず、いいかげんにならずアイデンティティをしっかり失わないというありかたは、やさしいものではない。ひとりだけでみせをつくればこそできる細やかな配慮は、ぼくには行きにくいあの営業時間のおかげなのだ。
「店の名前からすると、鴎外と関わりがあるんですか?」と、帰りがけにたずねると
「鴎外のお嬢さんの名前からとったんですが、鴎外とはなんの関係もありません」という。
地図:新宿区下落合4-2-6 大友ビル1階

投稿者 玉井一匡 : 07:29 PM | コメント (12) | トラックバック

May 22, 2004

ミツバチの自由

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 先日、蜂蜜の小さなビンとミツバチの巣の切れ端を持ってうちの娘が事務所に寄った。
 社民党本部の屋上にミツバチの巣をおいて、主に皇居の中のユリの木の蜂蜜を作っている養蜂家がいるというので、友人と一緒に社民党本部の屋上に行ってその人に会ってきたという。2,3ヶ月前のNHKのテレビでもパリのオペラ座で蜂蜜を飼っている人たちのドキュメンタリーを見た。どちらのはなしも、ぼくは意表をつかれた気がした。
社民党本部の屋上からすきなときに皇居に出入りする蜂たちの行動の自由さ。オペラ座で、素人のための養蜂の教室が開かれているというフランスの生活スタイル。そんなことがあるのかという心地よい驚きだった。

投稿者 玉井一匡 : 01:55 PM | コメント (2) | トラックバック

November 17, 2003

林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館

hayashihouse1-S.jpg click image to pop up.

 西武新宿線・中井駅の近くに林芙美子の住んでいた家がある。いまでは新宿区立の「林芙美子記念館」となっているが、「放浪記」で流行作家になってこの家をつくり、ついの住まいとした。毎日その前を自転車で通ると、道は高台の足元を縁取るようにして走っているから、大谷石の擁壁とその上の豊かな緑を左手に感じる数10mが心地よい。
山口文象の設計した和風の家も樹木や草花が豊かな庭も別世界をつくっていて、季節ごとに美しい。それというのも、家はいうまでもなく庭の植物たちにも手入れが行き届いているからだ。土曜日など、時間の余裕のあるときに事務所に行く途中でときどき寄ってゆく。

 庭の池に泳ぐ鯉たちのために、水面に餌を散らしている人がいたので、しばらく横に立って見ていたことがあった。「わたしの家はこの隣で、林さんには、むかしうちが土地をお売りしたから、ときどきここにくるんです。この鯉もうちにいたんだが、大江戸線の工事をした時に、うちの池の水が漏れるようになってしまった。しかし、何百mだか基準の距離の限度を越えているので補償の対象にはならないんだそうだ。仕方ないから鯉をここに連れてきた。と、思ったら、こんどは鷺がやってきて食ってしまうようになった。小さいやつはひと呑みにするが、大きい鯉はくちばしで頭を突いて殺してから、おもむろに食ってしまう。」
 暑い季節に縁側に腰を下ろしていると、年配のご婦人が「蚊がいるでしょう」といって団扇を貸してくださったり「資料室はエアコンがあるから涼しいですよ」と教えてくださることもあった。そのひとは林芙美子の姪にあたり、ここに昔住んでいらしたことがあって、定期的に花を生けにみえるそうだ。
 花について家について質問をすれば職員が説明をしてくれる。家の開口部はいつも開け放たれているので、だれかが住んでいるが今はちょっと留守をしているところだというようだ。
 ここが、命のないただの展示物や記念館になっていないのは、今でもこうやって「住んでいる」人たちがいるおかげで、ぼくたちもしばらくの間は少しだけ住人になれるからだ。訪れる人が多くないという逆説もここを居心地よいものにしている。

 この家から3軒は大谷石の擁壁が続き、そのうえに緑がこぼれているが、その隣からはコンクリートの擁壁に、シャッター付きのガレージが続いている。昔は同じように大谷石の擁壁が続いていたに違いないが、おそらくは相続のために土地を売り、それを買ったディベロッパーが売る時には駐車場付きにしたのだろうと勝手な想像をする。相続税と車の力が、街を醜くつまらなくしてゆく。

 坂道をはさんで林芙美子記念館のとなりにある古い家は講談社の「日本の洋館」という本にも掲載されている刑部邸だが、「今はおふくろの名義だけれど、そのうち相続することになると、持っていることはできないだろう」と、鯉に餌をやりながら刑部さんはおっしゃった。だからといって、新宿区にはそれを買い上げる予算もない。
その後、刑部人邸には、子息の心配されたとおりの事態が生じた。
Click to Jump to「洋館に綱が:刑部人アトリエ」

 

投稿者 玉井一匡 : 11:56 AM | コメント (14) | トラックバック

October 31, 2003

野鳥がまちにくると

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クーと一緒に歩く朝の散歩ルート、妙正寺川にも今ごろの季節になるとカモがやってくる。おばさんが熱心に川をのぞき込んでいるがカモにしては視線が輝いているので、何がいるんですかと訊くと「おしどりなんですよ」という。川は、ここ数年の間、ずーっと護岸工事を続けている。間知石を積んだ石垣を、せっせと壊してコンクリートの壁に代えながらも古い壁に多少の未練を残すように、石垣もどきのレリーフが表面を覆う。これは横2メートル縦1メートルほどのわずかな単位で同じパターンをくり返すから、すぐにネタが割れる。コンクリート3面張りのニセモノの川に、本物の鴛鴦が来ことを、ぼくは単純には喜べないが、それでもしばらくはやや興奮してオシドリを見続けた。すれ違った隣の住人にオシドリのことを教えずにはいられなかった。

 大久保に住む叔母の家の池には、この春に白鷺が舞い降りた。はじめは喜んだ叔母たちの目の前で、彼らは池にいる金魚をつぎつぎと呑み込んだ。「どうしようか」と電話をかけてきた叔母に「金魚のいる家はいくらでもあるけれど、サギのくる家というのはすてきじゃないですか。もともとえさ用の金魚だったんだから食べさせてやったらどうですか」と、ぼくは荒っぽい慰めを言った。熱帯魚の餌として売っている安い金魚を、1000円ほどぼくがおみやげに買っていったのが、1,2年でみるみる成長して10センチ近くになっていたものだから、いささか金魚のいのちを軽んじてそう言った。ニセモノの自然のなかにおかれた野生の生物は、もの悲しく痛々しい。かれらの住んでいた場所も人間に壊されて減ってゆくという事情を、ぼくたちはすでに知っているからだ。

 その前の朝には新潟の郊外で5分ほどの間に白鳥の群れが4組、ぼくの頭上を飛んでいった。頭の上を大きな鳥たちが越えてゆくのは、オシドリよりももっと胸ときめくことだった。かれらは、新潟スタジアムのとなりの鳥屋野潟という池を根拠地に、刈り取りの終わったたんぼに降りて落ち穂拾いをするのだ。人工的な自然ではあるけれど、たんぼに白鳥たちが降り立ってももの悲しいとは、まだ感じられない。
田んぼは、人間による生産が自然と折り合う地点だからなのだろう。

 その後ひと月ほどの間に「うちもサギに池の魚を食べられた」というはなしを3回も聞いた。叔母の家の池は金網で覆われた。

投稿者 玉井一匡 : 02:31 AM | コメント (0) | トラックバック