February 07, 2012

「スペース」が閉じないうちに!

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 ふたりの日本近現代史の研究者、ジョン・ダワーガヴァン・マコーマックの対談が1月2日にBSで放送された。(2012 巻頭言特集「J.ダワ−×G.マコーマック 震災後 日本と世界への眼)
 ここでダワーが口にした「スペース」という言葉が、とても新鮮で記憶に残された。

 建築のことばとしては、「スペース」は新鮮どころかモダニズムの根幹をなす知らぬ者のない概念だが、ダワーの指摘するところは、それとは別だ。
 東北を襲った地震と津波という天災のありさまに加え、被災した人々のふるまいがテレビやYouTubeなどで報道されると、世界中の人たちに深い同情と共感が生じた。それは中国や韓国のようにかつて日本の侵略を受けた国の人たちや、わずかとはいえ北朝鮮さえ例外ではなかった。こういうとき、国際的な軋轢や国内の対立などがなくなって、これから世界が変えられるという「空間」、自由な「スペース」が生じることがあるのだ。いまそこに、日本人が上からの力によらずひとりひとりが自分自身の手によって自分たちの世界をつくってゆこうとする動きが生じている。・・・ダワーはそう指摘する。

 彼の言う「スペース」とは、そういう意味だ。しかし、それが開いているのは一時期のことであって、時が経つと閉じてしまう。関西の震災のときにはそれが、およそ1年くらいで閉じてしまった・・・とダワーは続けた。よくも悪くも、われわれ日本人には、限られた空間・限られた時間を共有するということは、深く身に染みついている。

 このまま「スペース」は閉じてしまうのだろうか。
ダワーの見た草の根のデモクラシーの発生とは、災害から勇気をふりしぼって立ち上がろうとするひとびと、原発という技術の危険を身をもって知った人たちが、自ら動きだしたことなどを指しているのはいうまでもない。ぼくたちは「スペース」の消えないうちに動き、さらに「スペース」ができるだけ長く開いているようにしなければならない。

EmbraceDower2.jpgClick to open amazon
 ダワーがピューリツァ賞を受けた著書「敗北を抱きしめて」(Embracing Defeat :Japan in the Wake of World War Ⅱ)では、太平洋戦争からマッカーサーによる占領時代までの日本を描き出し、戦中戦後の日本の支配者たち、国民、マッカーサー占領軍について、手厳しい批判を加えている。
 しかし同時に、敗戦直後の日本には「スペース」が生じ、草の根のデモクラシーが生じたことを評価している。だが、やがて旧体制の支配層が既得権益を取り戻し、高級官僚と旧財閥の支配する国家にもどったことでそのスペースは閉じてしまい、結局、日本に草の根のデモクラシーは定着しなかったとしている。
 彼は映画「日本国憲法」でも社会学者日高六郎とともに、この映画の軸をなす発言者として登場している。これは、監督であるジャン・ユンカーマンがアジアとアメリカ各国の人たちにインタビューをしてまわり、日本国憲法とは日本とその周囲の国にとって何であるかを明らかにし、どうすべきかをわれわれに問いかけるのだ。(左上の写真は、この映画の中のダワーです)

 戦後の「スペース」に生じた草の根のデモクラシーは芽のまま摘み取られはしたが、それでも「日本国憲法」は遺された。その後の日本とアジアの平和と経済自立に、それが貢献したことはたしかだ。もし、今回の地震・津波と原発崩壊のあとの「スペース」で、何も残せずなにも獲得できないことにでもなれば、日本は凋落をつづけるしかなくなるだろう。それは、かつて戦争を支えた日本人のように、この時代に生きる日本人の怠慢による犯罪だと将来の歴史が評価することになっても当然かもしれない。
 脱原発をめざすことを宣言して、それを前提に、踏まれても枯れない草の根のデモクラシーの根を拡げることが、いまに生きるわれわれの最低限の目標ではないか。そうしてこそ、東北の再建に腰を据えて集中することができるのではないか。

■追記
Facebookで、「特報!速報!東京も法定数を突破しました!!!」ということを知りました。
原発についての都民投票の条例をもとめる署名です。
これは、ネットではなく自筆の署名が必要だというのに、ぼくはまだ書いていません。
2月9日が締め切りというので、探したら神楽坂に署名できるところがあるのを見つけました。
少しでも多くしたいので、明日行きます。草の根です。
http://kokumintohyo.com/branch/archives/1027
■コメント
なぜか、このところコメントが書き込めない状態になっています。いろいろ調べていますが,目下のところ原因がわかりません。コメントをお書きくださる方は、とりあえずメールをお送りください

投稿者 玉井一匡 : 01:00 PM | コメント (0)

July 17, 2010

「芸能的な由緒正しさの終幕」:小沢昭一

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 前回のエントリーに加島裕吾さんが長いコメントをくださった。小沢昭一の談話として朝日新聞に掲載された記事について触れ、記事を紹介したサイトのリンクも付け加えてくださった。じつは、はじめぼくは池澤夏樹と馳星周のエッセイとともに小沢昭一の記事を加えた三つのことを書こうと思ったが長くなりそうだから別の機会にエントリーすることにしたのだった。じつをいえば、前のふたりよりも、小沢昭一の発言の方がぼくも好みだ。
 加島さんの小学生時代、父上が大学の先生として松本にいらした。そのとき、芸者置屋の二階を借りて住んでいらしたので、裕吾さんは美しいお姐さんたちにかわいがられて育つという、すてきな(あるいは教育上よろしくない)少年時代を送った。孟子と老子はかくも違うというべきだろうか。だから、裕吾さんは小沢昭一の話に共感できるとおっしゃる。

 小沢は、子供の頃、あまり強くはないけれど美男で人気の力士が贔屓だったので、千秋楽の打ち上げにつれていってもらったことがあった。そこで、後援会長である名古屋の遊郭の大店の女将のことばを聞く。
「関取、大髻を崩して勝つより、負けてもいいから様子よくやっておくれ」
それをきいて、なるほど相撲の世界には別の価値観があるのだと子供ごころに思ったというんだから、ませたガキだ。
「芸能的な由緒正しさの終幕」:2010年7月7日

 相撲は芸能であり、彼らは常人とははなれた異界をつくってきた。そういう世界があるほうが面白いじゃないか、しかし、この様子ではそれももう終わりだなあというのが小沢昭一のつぶやきならぬ嘆きだ。ちなみに、だいぶ前のことだが、丸谷才一も相撲は芸能だと山崎正和との対談で言っている。「半日の客 一夜の友」

 今回のできごとで、「賭博」をした力士や親方ばかりが責められることを、どこかおかしいと感じるのは小沢だけではないだろう。むしろ大部分の人がそう感じているはずだ。相撲取りが堅気の人間を博打に引きいれて借金地獄に放り込んだわけではない。力士たちはカモにされたのだ。金を賭けずに麻雀をやるやつがいるか、二十歳前に酒を飲んだことのないやつがいるかと、思わないやつはどうかしている。

 これを機会に相撲の世界を「健全」なものにしようという改革はなされるのだろう。だからといって、この出来事を突破口にして純粋な加害者たる暴力団そのものを壊滅させてしまうことはけっしてありえない。なぜなら、やくざは犯罪者の秩序を形づくる重要なしくみのひとつとして機能する側面があるからだ。

小沢昭一が「芸能的な由緒正しさの終幕」というとき、「由緒正しさ」とは日常の我々の世界からいえば社会的な規範からの逸脱という伝統のことだ。芸能は社会的規範や制度からの逸脱を特性としているということだ。秩序と、それからの逸脱とは対立するものではない。それは補完するものなのだ。社会的規範へ反抗しようとも否定しようともせずに、ことは彼らの世界のなかで完結させなければならないというのが不文律である。だから、お縄を頂戴しようとも異界に生きるひとびとは悪うございましたと頭を下げるばかりなのだ。パチンコは現金でなく景品だから合法にされているはずだが、必ずすぐ近くにある交換所を通り抜ければたちどころに現金になる。

 そもそも賭博そのものは決して悪ではないことは、国家が示している。なにしろ、国家が胴元になって儲けている博打には、競馬競輪競艇と数多い。悪いのは賭博をすることそのものではなく、国家や自治体を胴元としない賭博をすることなのだ。殺人でさえ、国家が制度のもとにおこなう死刑や無差別の空爆は正しい行為とされる。

 中世までは博打も芸能の一種だったと網野善彦は書いている。古代の中国から、戦の前には占い師の力を借りて吉凶を知ろうとした。占いと博打とは、ほとんど同じ根から成長したものだ。博打の多くは、寺や神社の境内で開かれ、寺銭ということばの起源になった。そういう小世界が幾重にも重なっている世界のほうが味わいがあると思わないか。相撲取りたちがトレーナーを着て、ファミコンだのパチンコなんかばかりで暇をやり過ごす姿を想像しても、ぼくはちっとも楽しくない。

■関連エントリー
「初めての相撲:場所と時代と四季」/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 12:33 AM | コメント (5)

July 11, 2010

菅直人への期待と岡田武史への批判:池澤夏樹と馳星周

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 今朝、というよりも昨日の夜中に、ワールドカップの三位決定戦がおこなわれた。監督の掲げた目標が達成されたら日本がやっていたところだが、ドイツとウルグアイの試合のテレビ放映はどこもやらない。それよりも、今日は参議院選挙の投票日だ。
 先日、ふたりの小説家がそれぞれ一人ずつの人物について書いたエッセイが朝日新聞に掲載されていた。いずれも興味深いだけではなく、ぼくの思うところを書いてくれているのがありがたい。またしても駆け込みだが、投票前にエントリーしておきたい。

 小説家は池澤夏樹と馳星周、それぞれ菅直人と岡田武史について書いたもので、前者は消費税10%を口にしてからマスコミがことごとく批判的になった菅直人について肯定的な側面を評価している。後者は、マスコミがこぞってヒーロー扱いしている岡田武史に批判的だ。
・・・写真をクリックすれば、全文を読むことができます。

 どの新聞も多数と同じ立場に立つのであれば、マスコミというのは、群集心理をそのまま活字にする装置に過ぎない。ここにあげた記事は少数意見だが、すこぶるまっとうな指摘をしている。紙面の一隅において、ひとつの少数意見をもないがしろにはしないことを表明するためのものにすぎないのではなく、まっとうな考えをもつ人もマスコミにいるし、ひとりひとりのなかにまっとうな見方も潜んでいるのだと希望をもちたい。

 沖縄に住む池澤は、沖縄に対する政策の批判を踏まえつつ菅への期待を短い文章で表現している。民主党代表として登場した時にはあれほど持ち上げた菅のことを、消費税の増額を口にしてから支持率という指標の低下をきっかけにマスコミはこぞって否定に転じた。池澤は、消費税の増額という問題を選挙前の時期に口にすることをフェアな態度だとむしろ肯定する。また、「最小不幸の社会」という目標を「久しぶりに質量のある政治家の言葉」であるとして高く評価し、小泉政権のすすめた「自由」は強者の最大幸福を実現し、優位にあるものの立場をますます強化するものとして対比させる。また、首相の座を世襲政治家が継承してきたが、菅が市民運動を出発点としていることも政治の基本であると指摘している。そのとおりではないか。

 一方、馳は、新聞がヒーローとして持ち上げる岡田の、日本代表チームの監督としての能力についての疑問を書いている。監督に奪われていた自信を、幸運の手伝ったカメルーンに対する勝利で監督に奪われ続けた自信を取り戻した選手たちがグループリーグを突破した途端、ふたたび元に戻った。幸運に助けられて達成した結果を過大評価して岡田のしたことを肯定していては、今後の成長はないと指摘する。
 これまで、負けそうになると視線は宙に浮かび、敗戦後のインタビューをすっぽかし、ディフェンスの若いバックアップを一人も育てようとせず、ベスト4を目指すというスローガンを信じないやつは代表に呼ばないと言い放ってきた代表監督。サッカーファンの大多数は、岡田が監督でありながら選手たちはあれだけやれたのだから、オシムが監督だったらどんなサッカーをやっただろうかという思いからはなれられない。それなのに、岡田は「もう一試合やらせてやりたかった」と記者会見で言った。つまり、おれはここまで選手を連れてきてやったと言いたいのだ。この大会の実績のおかげで協会の会長などになることのないように願いたい。
 勝つことで注目が高まった。それを強化に利用するのは結構なことだが、まっとうに評価を下してほしい。しかし、それをできるひとがそういう権力の位置にいるのだろうか。

 谷垣禎一が、ふたたび日本を「いちばん」にすると言うのを聞くと、岡田がベスト4を目標に掲げたのを思い出す。たしかに、かつてある指標からは日本が一番だと言われた。しかし、そのありようがぼくたちに何を残したのか、そして何を目指すべきなのかを考えることは、サッカーの問題よりはるかに深刻だ。

投稿者 玉井一匡 : 07:11 AM | コメント (6)

July 23, 2009

「フラッシュ オブ メモリー」:三宅一生のニューヨークタイムズへの寄稿

IsseiNYtimesS.jpg これは太陽ではない。原爆なのだ。

 三宅一生が寄稿したメッセージを7月14日にニューヨークタイムズが掲載した記事の冒頭におかれた写真である。あるいは絵かもしれない。
三宅一生がニューヨークタイムズに寄稿し、自身が広島で被爆したことを明らかにしたうえで、8月6日の広島の平和記念式典へ参加することをオバマ大統領に要請した全文が掲載された。そのことを多くの日本のメディアが報道したのだが、そこには「服飾デザイナー」三宅一生が政治的なメッセージをニューヨークタイムズに表明したできごとという意味合いが強くて、このブログの、ふたつ前にエントリーした「ネオテニージャパン展」を伝えたときの「法廷画家」という扱いに共通するところがあるように感じた。寄稿の全文が掲載されていないことも、彼のメッセージの内容よりも服飾デザイナーが政治的がメッセージを明らかにしたことがニュースとして考えられているからではないか。
 しかも、三宅一生のメッセージの中に、「原爆を生き抜いたデザイナー」というようなレッテルつきで見られるのがいやで、これまでは被爆体験を公にしなかったのだが、核兵器の廃絶を目指すというオバマのプラハ演説に動かされて、このメッセージを送ろうと思ったというくだりがあるのも興味深い。
 
 世間やメディアがひとに貼り付けるレッテルから、ぼくたち自身も自由ではない。だからこのニュースも、三宅一生が政治的なメッセージを公にしたということに思いがけないものを感じて関心をもったのだろう。もともと言葉というものは、何が語られたかだけでなく誰がどんな状況で語ったかによって意味は違うものだ。とはいえ、何を述べたのかがもっとも重要であるのはまちがいない。日本の新聞のウェブサイトに全文を紹介するものが見つかるまで、自分で訳してみたものを以下に加えます。オバマの演説も、アメリカ大使館のサイトへのリンクとして末尾に加えてあります。

<三宅一生の寄稿の全文>

「フラッシュ オブ メモリー」

 四月、オバマ大統領は、核兵器をなくし世界の平和と安全を追求することを約束しました。しかも、核兵器を削減するのではなく廃絶すると。その言葉は、これまで私自身が触れたくないと思い、私の裡に深く潜めていたものをゆさぶって目覚めさせました。

 いまこそ私には、みずからについて語る道義的責任があるということに気づいたのです。オバマ氏が「閃光」と呼んだものに遭遇しながら、それを生き抜いたもののひとりとして、私は言葉にして伝えなければならないと。

 1945年8月6日、世界で初めての原爆がわたしの故郷、広島に落とされました。7歳の幼い私は、そのときその場にいたのです。けっして誰にも経験させたくない出来事のありさまが、目を閉じれば今も甦ります。
赤い鮮烈な光、たちまち黒雲が湧き出し
人々が一目散に四方八方に死にものぐるいで走り出す
だれもが、なんとしても逃れようと必死になっていた光景が、まざまざと目に浮かぶのです。
それから3年足らずで、母は被爆が原因で死にました。

 あの日の記憶であれ、それについての思いであれ、これまで私は誰とも分かち合ったことはありませんでした。その記憶をなんとか自分の背後に押しやって、破壊でなく創造を、そして美とよろこびをもたらそうとして、服飾デザインの世界に没頭したのです。それは、今の時間を信じ未来に夢を託す創造的な生き方であると考えたからでもありました。

 わたしは、自分の意志とかかわりなく遭遇させられた過去の体験によって、自分を規定されるのをいさぎよしとしなかった。「原爆を生き抜いたデザイナー」などというラベルを貼り付けられるのがいやで、ヒロシマについての質問はいつも避けてきました。「ヒロシマ」と耳にすると、どうにも動揺してしまったのです。

 しかし、いやしくも世界から核兵器を取り除こうとこころざすなら、ヒロシマについて論議することは避けて通れないと、いまでは確信しています。
いま、オバマ氏をヒロシマに招こうという運動があるのです・・・8月6日に毎年行われているあの運命の日の式典に。彼には、どうかその招請を受け容れてほしいと私は願っています。それは、過去にこだわるからではありません。むしろ、未来に核戦争のない世界をつくることをアメリカの大統領が目指しているのだという徴しを示してほしいと思うからにほかなりません。

先週、ロシアと米国が、核兵器を削減する覚え書きに調印しました。たしかに、これは重要なできごとではあります。しかし、わたしたちはそれだけで満足するほど、もはやナイーブではありません:一人の人間にはもちろん、ひとつの国家の力で核兵器を押しとどめることは不可能です。日本に生きる私たちは、核兵器で身を固める隣国・北朝鮮の脅威に絶えずさらされています。その他にも、核技術を手に入れようとしている国があるという報道があとをたちません。平和への希望を持ち続けるには、世界中の人々がオバマ大統領の声に自分たちの声をつぎつぎに重ねてゆかなねばなりません。

もし、オバマ氏が広島の平和橋を渡ることができればーーその欄干は日系アメリカ人の彫刻家イサムノグチによるデザインで、東西の架け橋となって憎しみを超えて何かを成し遂げようと考えさせますーーオバマ氏の行動は核の脅威のない世界をつくるために、現実に踏み出す一歩が象徴としての一歩として世界平和に近づくでしょう。

 三宅一生は服飾デザイナー、この原稿は、彼のスタッフによって日本語から翻訳された。

2009年4月5日 プラハにおけるオバマの演説日本語訳/アメリカ大使館の日本語版サイト
ニューヨークタイムズの記事の全文/nytimes.com:上の写真をクリックして見られるものと同じだが、nytimes.comで見られなくなったときのためにコピーして、見やすいよう横長のレイアウトにしました。
ISSEI MIYAKE INC.の公式サイトには、このメッセージについて何も書かれていない。

投稿者 玉井一匡 : 01:54 AM | コメント (1)

November 04, 2008

OBAMA

DONATE-OBAMA.jpgClick to open Donate format page

 きのう、妹の亭主スティーブと電話で話した。シアトルのBainbridge Islandというところに住んでいる。

あした鮭を釣りに行くんですよ。
 釣れる数に制限があるんでしょ、何匹まで釣っていいの?
2匹だけど、1匹で充分だから1匹しか釣らないよ。カニの網もセットしておいて、鮭とカニで大統領選挙のあとにお祝いします
 しかし、マケインはまだしもペイリンてのはひどいね。どうしてあんなのを副大統領候補にするんだろう?
アメリカっていう国は、ああいうところがあるんですよ。これでもし共和党が勝ったら、もうアメリカはだめだよ。このあいだ、オバマが30分以上の演説をしたんですよ。
 知ってる。日本でも話題になったよ。
オバマは、ほんとに立派な人ですよ。あんな人、ぼくは見たことがない。
 そうなのか。そういう人が大統領になりそうなのはうらやましいなあ。

 半年ほど前に、オバマのサイトを開いて見たあとにメールマガジンの登録をした。オバマを支持するというよりは選挙とオバマについて知りたいと思ったからだった。以来、毎日のように届くメールにはオバマのメッセージや選挙戦の様子が書かれているが、細かく読んだことはあまりなかった。メールには、かならず 「DONATE」と書かれた赤いタグがある。「寄付を」という単純明快なメッセージだ。クリックすると寄付のフォーマットが開く。これまでの間に、オバマに勝ってほしいと思うようになってきたが、寄付をするなら他にまだあると思って、とうとうクリックしたことはなかった。11月2日にとどいたメールはObama for Amerikaという差出人からYour backstage passというタイトルだった。 Tシャツの写真があって「$30(あるいはそれ以上)の寄付で選挙の夜をOBAMAの仲間として過ごそう・限定Tシャツつき」とあった。タグには「DONATE NOW」とある。開くと、「Make a Donation to Receive Your Shirt -- You Could Get a Front Row Seat to History」「寄付をしてTシャツをもらおう。ーー歴史の最前列の席につける」ちょっとかっこいいTシャツだし少し心が動かされたが、申し込みはしなかった。
 
 以前に「アメリカ再読」というエントリーに書いたことがあるが、スティーブと家族は、7年前までニュージャージーに住んでニューヨークに勤務したあと、会社を辞めて1年ほど休んだあとに、いまのまちに移った。
先日、たまたまリーマンブラザーズの破綻と株の大暴落の直後に電話をかけたときに、アメリカの経済の大混乱について2時間近く話した。(もちろん日本語で)なにしろ彼は投資コンサルタントみたいな仕事をしているから、直接に影響をうけているはずなのだ。
 「大変だろう」と尋ねると
ぼくは二週間前に株は売ったから大丈夫だけれど、とにかくアメリカは大変だよ。こんなことまでは考えられなかった。もうアメリカでは、なにかをつくるという仕事をしている人はすくなくなってしまった。この町なんか、ほとんどいないですよ、ぼくもそうだけど。
 こんなときに大統領になるなんて大変だね。負けた方がよほどいいかもしれないね。イラクだって、撤退すればいいってものじゃないんだし、ブッシュのやったバカなことの後始末するんだからね。
ほんとですよ。こんなときに大統領になろうなんて、考えられない。
・・・なんていう言いかたをしていたのだが、いまは絶賛するようになった。

そろそろ東海岸では投票が始まった。

投稿者 玉井一匡 : 11:19 AM | コメント (12)

October 14, 2008

EFFEIL TOWER/TOUR DE 300 METRES:エッフェル塔

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先日、友人からメールが来た。
 ランドマークタワーの横浜有隣堂書店で「エッフェル塔の図面集」(TOUR DE 300 METRES)を買った。シュリンクパックだったので内容を見られなかったが、5,900円で衝動買いしたけれど、帰ってから見たら図面がきれいなのでびっくりした。残念ながら重たくて持って行けないので、今度うちに来たときに見ていってください。あとで調べたら有隣堂以外では15,000円だった・・・という。
 メールには写真も添付してなかったけれど、これは自分のそばに置いておきたい本だと思わせる説得力と彼の眼を信用して、こんど横浜まで取りに行くから買っておいてくれないかと、すぐに返信した。土曜日、国立博物館で「大琳派展」を見たあと、横浜にいくことにした。石川町で待ち合わせて本を受け取った。

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 昼飯を食べたあと、自転車屋によって大桟橋まで行ったあとに、珈琲を飲みながらやっとおちついて本を開いた。パラパラと見ただけで、すっかりうれしくなった。
本が大きい。縦45cm横30cmだからA3サイズ。
そこにびっしりと書き込まれた図面が美しい。
見開きでA2の図面が47枚。それをディテールの図と文字が埋め尽くしている。
そのうち実に21枚がエレベーターの図面なのだ。エレベーターというものが、エッフェル塔にとってかくも重要なものだったということを図面の構成が物語っている。たしかに、建築としては3階建てとペントハウスがあるにすぎないのだ。
巻頭に、8カ国語でそれぞれ3ページずつをつかってエッフェル塔の背景と概要があって、日本語は最後の8番目。図面の書き込みがフランス語というのが難点だけれど、日本語で読んだ解説をガイドマップにして、40年以上も前に習ったフランス語の記憶を発掘しながら隙間なく書き込まれた図面を見ていると、そうだったのかと新しいことを知り、すぐさまそこからあらたな疑問が生じるのがうれしい。

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 エレベーターは水圧式と概要に書かれているのだが、水圧をどうやってエレベーターの移動のための動力に変換したのかわからない。パイプがめぐりタンクが各所に置かれているのを見つけたが、いまだにぼくには謎が解けずにいる。wikipediaによれば、1889年にOtisが電動エレベーターを開発し、1890年には日本で初の水圧式電動エレベーターがつくられたという。
 じつはぼく、まだエッフェル塔に昇ったことがないから、なおさら面白いのです。2階のフロアは、四面の外周を展望ギャラリーがめぐり、その内側を半階高くして劇場がひとつとレストランが3つ置かれている。レストランのひとつがフレンチなのは当然だとしても、残りのふたつがロシアレストランとRestaurant Americainアメリカレストランであるのはなぜなのだろうという疑問といっしょに、ギャラリーをめぐる人々の興奮、その頭越しにカフェのテラスから町をみる客、かれらのたてるざわめき。この塔が、いかに重要なすてきな機械だったかということが、いたるところがらよみがえる。
 この本のことを話したので秋山さんが調べたところ、amazonで26ドルちょっとだったという。早速調べたらその通りだったけれど、ちっともくやしいとは思わない。5900円+消費税という価格も、この内容を比べれてみれば、それだって充分に安いという気がするのだ。

■追記
*山梨県の清春芸術村にエッフェル塔の螺旋階段があるそうだと、秋山さんに電話でうかがいました。ラ・リューシュ (LA RUCHE)とよばれる、正12角形の平面型の宿泊施設の中で使われているそうだと。ぼくは、清春芸術村には行ったことがあるのに、そのことを知らなかった。RUCHEを仏和辞典で調べると蜜蜂籠、蜜蜂房のことで、1900年のパリ万国博のときに、エッフェルが設計してつくられてワイン蔵とそてつかわれた建物のことを、当時そう呼んだのだそうです。・・・この追記について秋山さんからコメントの書き込みがあって、螺旋階段は屋外にあるんだよと指摘された。大切なものを雨ざらしにしていいのかと、ぼくはちょっと気になったのだが、考えてみればたしかにエッフェル塔の螺旋階段だって吹きさらしのところにある。近々、見に行かなきゃだな。
清春芸術村
La Ruche/Wikipedia

投稿者 玉井一匡 : 08:26 AM | コメント (18)

December 12, 2006

江戸の誘惑


先日のシトロアンネットの集まりで「ぼくは都合が悪くなって行けなくなったから、明後日までだがこれに行かないか」と五十嵐さんが封筒を取り出した。江戸東京博物館の「江戸の誘惑」である。2枚あったチケットをとなりの関根さんと山分けした。ぼくがありがたく誘惑されたのも、それが吉原の誘惑だったからだ。博物館にしては気の利いた外題だが、ボストン美術館の肉筆浮世絵でビゲローコレクションといわれるもので、明治初期にモースの日本に惹かれてアメリカからやってきたウイリアム・スタージス・ビゲローなるひとが寄贈したのだ。ビゲローは、フェノロサのもとで日本の美術品の保存修復につとめ、フェノロサがあまり重視しなかった浮世絵を蒐集し、それを後年ボストン美術館Museum of Fine Arts, Botonに寄贈したという。あまりに数が多く、大部分が手つかずだったものを1997年から日本の研究者の調査も行われて700点ものコレクションであることがわかったのだそうだ。

ビゲローがいなかったら、フェノロサにさえ顧みられなかった浮世絵たちは、とうに焚きつけになっていたかもしれない。伊藤若冲も、やはりアメリカのプライスコレクションがなければ、ぼくたちは見ることができなかったかもしれない。東アジアへ「進出」したアメリカの恫喝で開国した国の廃仏毀釈や西欧化のおかげで吐き出されたものが個人の眼と奮闘のおかげで残されたのだから、思いは複雑だ。
 それは吉原という世界そのものにも通じるところがある。美しくはなやかで教養もある女たちでつくられた別世界である吉原、男ばかりのきらびやかな芝居でもうひとつの別世界をつくった歌舞伎、江戸の洗練された文化をこの「江戸の誘惑」が見せてくれるのだが、一方には、女たちの悲惨な生活や農村での苛斂誅求、河原乞食とさげすまれた芸人や賤民の世界が背景にある。しかし、因果なことにそういう暗さがあってこそ、この華やかな世界は魅力と凄みを増すのだ。
 「吉原御免状」を読んでいるうちに描くようになった町の空間と生活のイメージを、浮世絵で具体的に肉付けできたことがすこぶる楽しかったし、北斎の娘・葛飾応為の一枚だけあって「三曲合奏図」という絵は、alpsimaにエントリーされたのを見て初めて知った「吉原格子先の図」でもそうだったように、あきらかにほかの絵とは異なる独自のものがあって、彼女が特別の才能の持ち主であることを再認識させる。
同じチケットで、アラーキーの写真展「東京人生」も見られるのに、時間の余裕がなくて出直さねばならず後ろ髪を引かれた。見返したところで柳があるわけじゃあないが、アラーキーには毒と華やかさが雑居している。その雑居のかねあいのほどは吉原というよりは岡場所のようなものかもしれない。

追記
iGaさんのコメントで、若冲のコレクターであるプライスは、フランク・ロイド・ライトの設計したプライスタワーという小規模な塔状のビルのオーナーの子息だったことを、ぼくは知りました。現在はプライスタワー・アーツセンターとして使われているようです。これが、そのホームページです。ここにはレストランや宿泊設備もあるようですから、ぼくたちも泊まることができるわけです。このサイトには、実現した唯一の、ライトによるSkyScraperだと書かれています。今の基準で言えば、「空を削る」というほどの高いビルではありませんが、数値としての高さではなくプロポーションや低層部との構成のしかたはいかにも空をめざしているようであるし、このビルの立ち姿はライトの好んだタチアオイを思わせるところもあって、いかにもライトらしいデザインだと思います。

投稿者 玉井一匡 : 08:58 AM | コメント (4)

November 25, 2006

第四回アースダイビング:王子の玉子・むこうじまのもんじゃ-1

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都電早稲田駅に集合して電車で王子に行き、あたりを巡ったあとで三ノ輪まで都電で移動。音無川づたいに吉原をかすめて向島まで歩いた。
そのルートはMADCONNECTIONに、写真はkai-wai散策に丁寧にエントリーされているが、かつて川は場所と場所を結ぶものだったから、それをたどって歩くと積み重なった思いもかけぬ時間の層をみつけることができる。MADCONNECTIONのエントリーで「扇屋」の木造三階建ての写真を見て、王子という場所の意味を分かっていなかったことをいまさら知ることになったので、ぼくは扇屋に行ったら玉子焼きを買おうと思っていた。
 飛鳥山の周辺をひとしきり巡ったあとで、ここが扇屋だとiGaさんにいわれてぼくは唖然とした。なんとなく、まだ木造三階建ての店があることを思い描いていたらしい。いまは玉子焼きだけを売っているのだという店は、一坪ほどの屋台のようなものだった。
AKiさん、まっつあんのあとに注文した玉子焼きを包むあいだに、というよりもそれをきったけに店のオヤジさんがあれこれと古い話を話を聞かせてくれた。
「木造の建物は10年くらいまえにビルにしました。そこに書いてあるでしょ」と指先を見れば背後にあるテナントビルの前にはたしかに「扇屋ビル」とある。いささか落胆したぼくを、そのあとオヤジさんはもういちど驚かせてくれた。

「じゃあ、この写真のお店はいつ頃まであったんですか」とベアトの写真のプリントアウトを指す。
「もともと、この店は都電通りの向こう側にあって、この場所は庭だったから川越しに庭と神社を見るようになっていたんです。写真を見ますか?」
「ぜひ、お願いします」
玉子焼きは注文のたびにビルの横手を回って奥から取り出すようだが、オヤジさんこんどはアルバムを抱えている。それを開くと、中には店の古い写真やら箸袋やら扇屋の描かれた銅版画なんぞが満載されている。
「こういうのもありますよ」と取り出した和綴じの本が数冊
江戸名所絵図の本物だ。
「写真を撮らせていただいていいですか」とiGaさんがたずねると、もちろんいいよという笑顔
「おーい、masaさん、すごいよ」
「いやあー、これはすごいですね。改めてうかがいますから、そのときにまたゆっくり見せてください」とんで来たmasaさんは興奮の体
「いいですよ」とオヤジさんは相好をくずす。
「この鼻眼鏡を憶えておいてください」と、ひとをなごませずにはおかないmasaの笑顔の力だ。
masaさんはとりあえず記録班と化して写真を数枚。
「江戸時代、音無川はここまではのぼることができたから、お城の女たちの宿下がりのときに、船に乗ってお堀から神田川を下って大川へ出てすこし上ってから音無川をここまで上ってくるんですよ。店の前あたりは浅いから水に入れる。店の中にいて川の中に小判を投げると、それを女たちが水に入って拾うために裾をたくしあげているのを見て楽しんだりしたんです。」
「やなやつだなあ」
「いや、そういう遊びがあったんだ」
「へえー」と聞いていたが、投げるやつは誰なのだろう、貴重な宿下がりのときを割いてまでそんなことをして男をよろこばせてやらなきゃあならないんだとしたら、そいつは殿様だろうか、あとになって疑問がいろいろ湧いてきた。
「お花見のときには『かそう』が許されたんだよ」
「家の相ですか?」
「いや、衣装の仮装」
「武士たちが?」
「庶民が仮装したんです」
「じゃあ、浮世絵にあるんでしょうね。仮装した花見のやつが」
祭りというものは、時間限定・地域限定で日常の生活から離れるものだろう。仮装というのは、きびしい身分精度から解き放たれるということで、当時のひとびとにとっては、ぼくたちの想像以上に、大きなことだったのかもしれない。・・・・・そんな具合に興味深い話がつきないから、ついつい玉子焼きを買おうとして包装を待っていたことをすっかり忘れていた。
「きみたちのおかげで、お客さん10人くらい逃がしたよ」と、先に玉子焼きを手に入れて、ちょっとはなれて待っていた余裕の隊長は大人の発言。お二人はちゃんと箱に入れて包み紙をひもで結んでもらったがぼくたちはプラスチックの箱に入れてビニール袋をもって帰ることになった。しかし、それは盛りだくさんの話がおぎなって余りある。思いはすでに王子にあそびに来たひとたちの水路の道筋にあった。江戸城を出て外堀から江戸川(神田川)を経て柳橋に至り、そこから大川を少しさかのぼって三谷堀に入り、音無川を王子までやってきた一行の道中を、ぼくたちは歩いて逆に下るのだ。

(はじめの玉子焼きの写真は1/2サイズの630円、クリックすると1260円サイズになりますが、これはフォトショップによる合成です。ぼくが大きいサイズを頼んだけれど、iGaさんが半分サイズを注文したところ店先には大ひとつぶんしかありませんでした。オヤジさんがわざわざ奥までとりに行かなくてもすむように、二人で半分ずつわけたのでした。)

日曜日、西友に買い物に行った帰りに自転車を倒してしまい、玉子が4つ割れてしまった。扇屋を思い出して大きな出汁巻き玉子をつくることにした。ワンパック10個をみんな使ってしまおうかと思いながら、何かのために残しておこうなんて考えて、けっきょく6個にした。扇屋と比べるとちょっと甘さと出汁の汁気が少なかったようだ。なにしろ、23日は扇屋の玉子焼きをビニールの袋にいれてバッグで半日持ち歩いていた。帰りがけの電車で「かくれさと苦界行」を開いたらバッグに雨が当たった気配はないのに本が濡れている。さわるとベトベトする。玉子焼きのせいだったのだ。それくらい汁っけが多かった。しかし、ここだけのはなしだが、ぼくの作ったほうがきれいにはできているとひそかに思っているのです。

続く

投稿者 玉井一匡 : 01:57 AM | コメント (41)

March 15, 2006

真夜中 学習院下でタヌキと


昨夜、といっても午前0時をとうに回った頃だから日付けは今日になっていたのだが、学習院の馬場の下を、自宅めざして自転車を走らせていた。この時間、この道はほとんどクルマも人通りもないし、街灯もないから自転車で走るには快適このうえない。道路の向こうよりに黒っぽい犬が座っている。丸顔をこちらに向けているのを目を凝らして見ると、犬ではない、タヌキだ。ぼくはすぐに自転車を停めて向かいのテニスコートのフェンスに立てかけると、バッグからカメラを取り出した。いつもは切ってあるストロボをセットするものもどかしく、慌てて振り返るともう道路にいない。しかし、格子の扉のむこうに座ってこちらを向いている。格子の間にカメラを入れてズームを目一杯の望遠にしてシャッターを押すと、一瞬ストロボの光がタヌキの瞳孔をオレンジ色にした。ディスプレイを見るとタヌキは入っていない。今度は、画素数を最大にしてもう一度。ディスプレイをみると、また映っていない。

 そのとき、うしろから車のヘッドライトが光った。ちらっと振り返ると、パトカーがやってきて停まった。またカメラを格子の間に入れて構えた。む。狸はいなくなっていた。夜中に、格子の間にカメラを入れている怪しい行為を棚に上げて「おい、お前たちが明るくするからだぞ」と、鬱憤を晴らそうとして振り返ると、パトカーもいなくなっていた。不満をぶつける相手も写真を撮る相手もいない。彼らもタヌキだったのか、またタヌキに会った奴が一人いるよと思ったのか、何も言わずにいなくなった。トリミングをできるように画素数を最大にしたけれど、そのときに広角にするべきだった。望遠にしたから、視界から外れてしまったのだ。液晶ディスプレイは真っ暗でなにも見えないが、ファインダーを見ればよかったのにと、あとになって数々の反省をした。タヌキに化かされたというのもかえっていいか、と思うことにしよう。自転車をまたいで時計を見ると、0:40だった。

 落合のマンションの計画地のあたりにはタヌキがいると、ひところ話題になったけれど、それがこのあたりにもやってきたのだろうか。それとも、このあたりは樹木が多いから、独立の生計を立てているのかもしれない。しかし、人間の生活環境すら壊されてゆく東京のようなまちにタヌキがいるということを自分の目で確認できたのは、とてもうれしいことだった。
 かえりがけ、あるクライアントを思い出した。彼は、夜中に伊豆の山中を車で走っているときにタヌキをはねた。車を降りて見てみると、すでに死んでいる。どうせ死んだのだからと、彼はなきがらを車に乗せてきた。家に帰ると、ご亭主が腕をふるって解体し、タヌキ汁をつくってくれと奥さんに料理を頼んで食べちゃったのだそうだ。タヌキを食おうと思う亭主も亭主だが、そんな要望に応えてタヌキ汁をつくる奥さんも人物だなと、その話を聞いて、ぼくはひどく感心した。後日、親しい獣医さんに話したら、タヌキには寄生虫がいるからあぶないんですよと心配していた。虫がいたとしても、そのときにはもう手遅れだったろうが今も家族そろって元気だ。
 今朝、道路の写真を取り直した。はじめは、格子戸の前の道路にちょこんと座っていた。そのすぐあとに、格子戸の下をくぐって中に入ると右手奥に座って、こちらを見ていたのでした。

追記 060317 / Chinchiko Papaと妾番長さんの書いてくださったコメントに関わることを追記しておこう。このあたりのような河岸段丘の地形を「バッケ」あるいは「ハケ」ということばがあって、それは縄文語あるいはアイヌ語(頭、突端)由来の言葉とされているんだと、chinchikopapalogに神田川流域に残った「バッケ」と、もうひとつ世代で異なる「バッケが原」の位置というエントリーで書かれていて、このことばは「お化け」につながると結ばれている。もし、タヌキが昔からこの辺りに住んでいたのだとすれば、そのことが「ばける」あるいは「ばかす」ということと、何かのつながりがあるのかもしれない。
chinchikopapalogにはもうひとつ、「ハケの下落合」というエントリーに、バッケについての詳しい記述がある。

投稿者 玉井一匡 : 12:00 PM | コメント (13) | トラックバック

September 13, 2005

西麻布押入の下張


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きのうから新聞もテレビも見る気にならないけれど、そのかわりに、机の引き出しに入れた古い新聞を思い出した。数年前に西麻布の古い長屋をそば屋に改装する現場で、2階の押入の壁に張られた紙がはがれて裏面がみえていた。はがしてみると、1933年・昭和8年3月25日の東京朝日新聞夕刊の一面だった。見出しに「ナチス独裁の覇業遂に完成す」「ドイツ国会愈可決」とある。ヒトラーの写真は、両目と口、正確には口髭に線香をあてたのだろう、焼けこげた穴があいている。新聞はナチスの独裁が完成したことを歓迎しているようだが、この読者はヒトラーの写真に線香で穴をあけたいと思うひとだったことが、ぼくにはうれしい。

 ヒトラーの写真の下に書かれた解説にはこうある。
「共和国ドイツの運命を決すべき劃機的議会は廿三日午後二時開会、一時間にわたるヒトラー首相の施政方針演説後三時間休憩、六時十五分再開され憲法の変更を目的とする全権委任法を可決した、其可決には出席議員三分の二の賛成を要し従って中央党の向背が注目されたが同党は誠意ある国政の運用を政府に希望したのみで簡単にこれに賛成し、社民党の九十四票の反対投票に対し、国粋社会党、国権党、中央党、バヴァリア人民党、国家党などを合わせて賛成は四百四十一票にのぼった、全権委任法は、憲法に規定された国会、大統領、参議院などの権限の重要部分を政府そのものに譲渡するもので国政の基準たる憲法はその髄を抜き取られ政府は名実ともに完全なる独裁権を握るに至った、国粋社会党の党歌の合唱耳を聾する「ハイルヒトラー」の交響楽のうちに議会は無期休会を決議し、かくてドイツ共和制は成立後十四年にして実質的に圧殺された(写真は得意のヒトラー氏)」
 このころの新聞の記事には「。」がなくて「、」ばかりなのだなんてことを発見した。見出しではナチス独裁を言祝ぐようだが、記事の内容は必ずしもそうではないようにも思える。先日、朝日新聞の記事、加藤紘一の談によれば「小泉さんはひとりでワグナーを聴きながら決断する」そうだ。2/3なんていう数字をみると心配になるが、ヒトラーの真似はワグナーを聴き入るくらいのことにしておいてほしいと願うばかりだ。

投稿者 玉井一匡 : 11:44 AM | コメント (4) | トラックバック

August 15, 2005

バベルの塔

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千葉糺さんから郵便物が届いた。バベルの塔について書かれたものの抜刷り、「バベルの塔考察 =ニューヨークから古代バビロニアまで=」という小冊子が同封されていた。ニューヨークのバベルの塔とは、もちろんワールドトレードセンターのことだ。バベルの塔について旧約に書かれている記述そのものと、それについてのさまざまな人たち(中野孝二、若桑みどり、犬飼道子、石田友雄、三浦綾子、フラティウス・ヨセフスなど)による解釈を示し、それをふまえて最後に千葉さんの視点が示されている。

 多くの日本人には、聖書とりわけ旧約の物語は、ところどころが部分的に知られているにすぎない。バベルの塔の話は、日本人にもノアの方舟の物語についでよく知られたもののひとつだ。人間が神に近づこうとして天にも届こうという高い塔をつくり、それが神の怒りにふれて壊されてしまうという、傲慢を戒める話として受け取られている。
 ところが、具体的には旧約聖書にどう書かれているのか、ぼくは読んだことがなかったが、読んでみれば、おどろくほど短い記述だ。しかも、そこには塔を作ったことを神が憤ったとは何も書いていない。塔をつくりはじめたひとびとは、ひとつのことばを話し、ひとつに団結し、なにごともできないことはないと考えるようになった。だから、神ヤアウェは、ひとびとが別々のことばを使うようにし、別々のところに散らしたというのだ。

 新宿の超高層街や幕張の新しい町は、ひとりひとりの人間が歩いても、心地よいとか楽しいとかいうまちではない。人間を、統計的に抽象化して、そのままそれを反映する建築にしたにすぎないからだ。けれどもマンハッタンのまちは、ひとつには時間の経過による熟成のおかげだが、あれほどの高層ビルの集合でありながら、歩く人間のスケールを逸脱しない。にもかかわらず、ワールドトレードセンターは、新宿や幕張のように、歩く人間を拒否する作り方をしていた。だから、ぼくはあのツインタワーが嫌いだった。日本の超高層ビルはワールドトレードセンター、あるいはそのタイプを踏襲してつくられたものだ。
 ツインタワーがなくなったからなおさらなんだろうが、普通のアメリカ人の発言を聞いたり読んだりすると彼らにとってワールドトレードセンターは、アメリカの経済的な勝利の象徴だったことがわかる。マンハッタンの先端に立ち、かつては世界で最も高い建築。あらゆる手段を使い、不可能なことをなくしてしまう国家の、経済という単一の共通言語で世界を支配しようとするアメリカ。その偶像なのだ。だから、あるいてあそこに行くことが不愉快であってもかまわなかったのだ。
旧約聖書が戒めたことを今も堅くまもり続けるイスラムにとっては、ホワイトハウスにまさる偶像ととらえられたとしても当然ではないか。

ユダヤ教は、ことばを、地のものからはなれた抽象としてなにより大切にし、したがって偶像も否定したが、じつはむしろさまざまな言語は地と不可分なものであるという矛盾を説明するために、旧約の作者は古代バビロニアのツィグラッドに着想を得てバベルの塔の物語を書いたのではないかと、千葉さんは結論づけている。

千葉さんが最終的に引用された、バベルの塔の記述は以下のとおり。(ドンボスコ社版旧約聖書による)


 さて、全地はおなじ言語とおなじことばをつかっていた。人間は東のほうから移動して、センナアルの地の平原につき、そこに定住した。かれらは、「さあ、れんがをつくり、火でやこう!」といい合った。かれらは、石のかわりにれんがを、しっくいのかわりにチャンを使いだした。つぎにかれらは、「さあ、町をつくり、その頂が天にまでとどく塔をつくろう。全地のおもてに分かれないように、われわれの名を高くあげよう!」といった。しかし主は、人間の子らがつくろうとしている町と塔とをみようとして下り、「なるほど、かれらはみな一つのことばだけをはなす団結した国民で、その大事業をはじめたばかりだ。どんな計画も、完成できないはずはない、とかれらは思いこんでいる! さあ、われわれは、かれらのことばを乱しに行こう、そうすればお互いにことばが通じなくなるだろう!」とおおせられ、主は、かれらをそこから全地のおもてに散らされたので、かれらは町をたてるのをやめた。バベルと呼ばれたのは、そのためで、そこで主が全地のことばを乱し、かれらを全地のおもてに散らされたためである。

千葉さんは、数学の先生で、いまは学習院高等科の校長先生である。みずからもテンペラ画を描く人だから、バベルの塔というテーマは、ブリューゲルの絵がきっかけになったのだろう。文中でも取り上げられている。ぼくのところに送ってくださったのは「学習院高等科紀要 第三号別刷」である。
学習院高等科の、大学への推薦入学の決まった生徒たちのための体験学習が行われたと、今年7月20日の朝日新聞に紹介されていたが、これは千葉校長の発案によるものである。昨年、もう1年ほどまえに送ってくださったのは「フラティウス・ヨセフス考」という、「ユダヤ史」についての論文だった。ふたつの文章の全文がどこかのサイトに掲載されていいないかと探したが、まだみつからない。千葉さんにうかがってみようと思う。

投稿者 玉井一匡 : 04:15 AM | コメント (2) | トラックバック

October 24, 2003

エルミタージュ幻想

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  ギンレイホールでは、このところおもしろそうな映画が続いている。
今日まで「エルミタージュ幻想」「めぐりあう時間たち」が上映されている。映画にとって、時間は避けることのできない制限だ。限りないほどの数の画像が、ただひたすら一列に並んで時間軸に沿ってあらわれる。この制限の中で、時間という枠組そのものをつかって、表現の自由を手に入れようとしているのがこの組み合わせなのだと、「エルミタージュ」をみているうちにやっと気付いた。

それはちょっとはずかしいことなのかもしれない。「めぐりあう時間」の原題はなにしろ「hours」なのだし、「エルミタージュ」は90分ワンカットで撮影したことで話題になっていたのだから。

 「エルミタージュ」には期待が大きかったのに、疲れも手伝ってはじめは眠くて眠くて眠くてしかたない。いつのまにか居眠りさえしてしまった。映画はよけいな先入観を持たずに見たいと思っているから、ぼくはできるだけ予備知識を入れない。それが、この映画を見るには、ちょっと災いしたらしい。エルミタージュ美術館をつかってワンカットで撮った映画だということだけしか知らなかった。

 展示されている絵画の描く時間と場所、おびただしい数の舞踏会の女たち、建築の装飾、時間と人間と空間を大量にそして幾重にも入れ子にして盛り込んだ過剰。題材を聖書にしか求められなかった西欧絵画ばかりが出てくる。そんなことのせいでぼくは眠気にひきずりこまれた。が、しばらくして、にわかに目がさめた。
 舞踏会というもののバカバカしさが、帝政時代のロシアを経て明治初期の日本を思い出させたので、その前の時代までに日本が蓄積していたものは、西欧と比べたらはるかにいい線を行っていたのだなとつくづく思ったからだった。

 ヨーロッパの北のはずれのロシアは、西欧文化圏に入りたい一心で壮麗な宮殿をつくり美術品を集め、巨大な舞踏会を繰り拡げたのだろう。そのコレクションがおびただしく、宮殿が壮麗であるだけ、なおさらに背後にある劣等感が感じられて、ちょっと痛々しい。それがそのまま明治初期の日本と重なって、鹿鳴館に燕尾服をつけてつどい舞踏会の真似を始めたことの愚かしさを思いだす。
 
 鹿鳴館ごっこの愚かしさは、西欧のまねを上手にしてほめてもらおうとしたこと以上に、自分たちの文化が蓄積していたものをことごとく捨て去ろうとしたことにあるのではないか。寺を壊し、神社を天皇のもとに統一して土俗的な神社をつぶしたのも、ナショナリズムと見えて、じつはキリスト教のまねをしたのではなかったか。
 「世界」の東の果てにあった日本と「世界」の北隣にあったロシア。
エルミタージュは、「世界」に割り込もうとしつつ周囲の小国を踏みにじっていたロシアの鹿鳴館、逆に言えば鹿鳴館はささやかなエルミタージュなのだ。「世界」に加わりきれずにいるうちにくたびれたロシアの巨体に、ずっとあとからきた東の小国が戦って勝ってしまった。
ロシアが周辺の小国を踏みにじっていたように、その後の日本はアジアを蹂躙した。ひたすら前に進もうとする時間概念は、ひたすら広がろうとする空間感覚と自動的にリンクされているらしい。
アメリカンフットボールのように。アメリカ合衆国のように。

投稿者 玉井一匡 : 09:43 AM | コメント (1) | トラックバック