February 23, 2013

「MyPlace」の引っ越し・・・というより増築して「MyPlace2」へ

frontPageShadow.jpgMyPlac2へ

 こまかい理由は下に書くことにしますが、いろいろと不具合が多くなったので、このブログを増築して新しいエントリーは増築したところに置きます。ここは、これまでのエントリーやコメントを置く、アーカイブになり名称もそのままMyPlaceで、あたらしいブログには「MyPlace2」と名づけ、これからのエントリーはそちらに書いていきます。はじめは「MyPlace1+1」としたのですが、自分で頭の中で読むときに語呂が悪くてしかたないので、シンプルに「MyPlace2」に変えることにしました。よろしくお願いします。

 「MyPlace2」は、これまでつかっているプロバイダー「ロリポップ」が提供するロリポブログを利用してつくりましたから、ロリポブログの新しいルールに従わなければならず、多少の形式は変わりましたが、基本的にはMyPlaceを継承しています。内容のこころざすところは変わりませんから、言ってみれば、同じ敷地に中庭をはさんで同じデザイン方針のもとにあたらしい建物をつくったわけです。中庭を、おもしろいことの起こる場所にしたいと思っています。

ここをクリックすれば「MyPlace2」に行きます
 URLはhttp://myplace2.jugem.jp/です。

どんな問題が生じたのかを次に書いておきます。

*秋山さんにお尻を押されmine君に指導されてMyPlaceをつくってから7年も経ちましたが、ひとつきほど前からここにコメントを書けなくなったと言われるようになりました。自分で書こうとしても書けません
*ネットを開いて書き込みをしているときに、Safariがときどき固まってしまうという事態もおきます。
*また、SafariでひらいたGoogleMapからストリートビューに入ろうとすると、フレームの中は真っ黒になるだけでストリートビューは出てこないのです。
*APPLEストアに電話で相談したら、「Safariをリセットする」というのをやってみてくださいといわれてやってみたけれど、事態はかわりません
*ところが、ブラウザーをSafariの代わりに「Google Chrome」にしているときには固まることもストリートビューが見えないこともありません。
*さらに、GoogleMapを開こうとすると、立ち上がる寸前に消えてしまいます。しかし、GoogleMapをひらいて、その中からGoogleEarthをひらくことはできるのです

■原因のひとつには7年前からいちどもバージョンアップしていないのでMovable Typeは、MacOS10.7 には対応できないのかもしれません。しかし、それはGoogleEarthとは関係がないはずです。そんなわけで、まずはあたらしくブログをつくったらどうだろうかと、秋山さんの提案にしたがってみることにしました。
とはいえ、何ができるかまだ分からないけれど、このMyPlaceも活用したいと思っています。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 PM | コメント (0)

December 09, 2011

ゆたかなバックグラウンド:タトーン村コミュニティ図書館のまわり

LaoTatohnGoalS.jpgClick to PopuP

 タトーン村のコミュニティ図書館の運営は校長先生が兼ねていらっしゃる。先生にいい話をたくさんうかがったあと、ぼくは牧草を横切って校庭の向こう側まで歩いて行った。丸太を2本立ててその間にもう一本を水平に掛け渡してあるから、それがサッカーのゴールであることはすぐに分かった。門をくぐってすぐに、これが気になっていたのだ。
ゴール裏に立って振り返ると、校舎とさっきまでいたコミュニティ図書館が樹木に融けこんでいる。それがゴールの額縁に切り取られていて、そこからこぼれ出すゆたかな風景の力が、ぼくの眼を通さずにじかに胸の中に染みこんで来た。

 ビエンチャンの市街から車で3,40分も走ったらもう農村地帯になる。集落内の道路に入っていくつか角を曲がれば小学校に着いた。ここにつくられたコミュニティ図書館がどのような背景におかれていて、それがどのように使われているのかを見ることが目的だったので、まずはまわりのことを書いておこう。

LaoTatohnClassS.jpgClick to PopuPLaoTatohnCabinS.jpg
 インタビューを終えたときはまだ授業中だったから、あらかじめお願いしておいたので教室の中をのぞいたり、まわりを歩いたり自由にさせてくださった。5つの教室がつらなる教室棟は波板の鉄板一枚だけの屋根、壁は外側にはモルタルを塗ってるが内側はレンガのまま。壁と屋根の間には隙間があるし壁の上部の一部分には、通気のために穴のあいたレンガが使われている。いちばん端の教室だけは壁の一部がレンガではない。コンクリートの柱の間に木のフレームをつくって、そこに竹を編んだスクリーンを張ってある。なおさら涼やかに感じられる。

 校舎のはずれに高床の小屋があった。その高床の下に数人の男の子たちの黒いズボンの脚が見えたから近づいてゆくと、5,6人の男の子たちがあわてて散っていった。おいおい、言いつけようというわけじゃないよ、一緒に遊ぼうと思っただけだと、声に出さずにつぶやきながら裏に回ると、なんて素敵な廃屋。死へ向かって醜く朽ちてゆくのでなく、別の命に変わろうとしているようだ。

 裏の道にまわって教室棟を見ると、これもいい感じだ。長さも向きも太さもてんでんばらばらの木の幹を地面に立てて、いくらでも通り抜けられるような隙間をあけて鉄条網が張ってある。それともこどもたちが拡げたんだろうか、これなら子供たちは自在に出入りするだろう。ゆるやかな境界。

LaoTatohnBackS.jpgLaoTatohnDagasiS.jpg

 裏の道をはさんだ向かいには、きっと住宅の玄関につづくんだろうが、日本の農家にありそうな気持ちよい入口があった。それを通り越すと駄菓子屋があった。小学校の前に、あるいはキャンパスの中には、この国ではかならず文房具や駄菓子と軽い食べ物を置いく店があって、休み時間や放課後にこどもたちがあつまる。日本の大病院のまわりの薬局のようではあるけれど、薬局には経済しかないが駄菓子屋には文化がある。この学校のゲートの周囲にはこういう店が3軒あった。さっきの住宅の敷地の中に、道路にむいてそういう店がつくられている。ぼくが店の写真を撮っていると、若者が不審そうにやってきた。万国共通の言語、笑顔をもって語りかけると、英語で話しかけてきたから「あなたも、この学校でべんきょうしたの?」ときいたら、うれしそうに頷いた。

 どうぞ入ってという身ぶりに素直にしたがって駄菓子屋の脇を抜けて敷地の中に入ると、父親とおぼしき品のいい人が、寝ている幼児を寝かしつけている。
「お父さん?」と訊くと「いや、義理のオヤジです」という。こんどは、駄菓子屋から母親だろうか、ペットボトルの水を2本もってきて、ぼくと、同行の宮原さんにくれた。
 寝ている子は生後6ヶ月の甥であること、若者は大学でexplosionを学び、mininngに関わる仕事をしていること、父はsoldierであったことを彼は話してくれた。ぼくたちは、この学校の図書館の使われかたを見るために来たことを話した。
いい庭だねと言ったら、見てもいいと中に案内してくれる。熱帯の林のような庭だった。ぼくたちは他にも3人の同行者があるんだということをつげて、そこでお礼を言って学校にもどった。タイと同じように「こんにちは」も「ありがとう」も、この国では祈るように手を合わせる。ほんとうにありがとうと感じたときの表現には、とてもふさわしいと思うのはこういうときだ。
 このあと校長先生が、近くの店で昼食をごちそうしてくださったから、同じように手をあわせて「コプチャーイ」と言った。

投稿者 玉井一匡 : 01:33 AM | コメント (0)

July 05, 2011

写真展「緑のキャンパス」:ディベロッパーになった大学当局

AichiGeidaiS.jpgClick to PopuP
 先週、神楽坂のアユミギャラリーで愛知芸大のキャンパスの写真展が開かれていた。完成から45年を経たキャンパスを永田昌民さんと訪れた写真家・大橋富夫さんが撮影したものだ。

40年前のSD別冊「空間の生成」で見た写真では、拓かれたばかりの山のキャンパスはむしろ索漠とぼくには感じられたものだが、大きく育った樹木や池と共生する建築たちの現在の写真は、まぎれもない吉村世界をつくりだしていた。ほかに人のいなくなった会場でゆっくり見たあと、地階ではじまっていた初日のパーティーにそっと入ってゆくと、プロジェクターで写真を見せながら永田さんが話をしていらした。

写真展の説明文には「・・・・・自然と建物と人が積み重ねたありのままの時間を、多くの人たちに見て、感じてもらいたい。」と、おだやかに結んでいるのだが、永田さんの話を聞いていると大学当局はこれまでの「ありのままの時間」を消し去ろうとしているらしい。キャンパスの基本的な性格をこわして、つくりかえてしまおうとしているのだ。これは「順ちゃん」への敬愛にささえられた写真展ではなく、この夜の永田さんは愛知芸大当局への憤懣の人だった。
 じつは、愛知芸大がそんなことになっていることを、恥ずべきことにぼくは知らなかった。しかも、一年ほど前には「住まいネット新聞 びお」で小池一三さんが「吉村順三の仕事 愛知芸大キャンパス訪問記」を書いていらしたのだ。永田さんの思いに共感する目で、もう一度写真を見なおしたいと思ったので数日後にまたアユミギャラリーに行くと、その日はもう最終日だった。おかげで、会場にいらした永田さんと大橋さんに、ゆっくり話をうかがうことができた。

AichiGeidaiMap.jpgClick to Jump in GoogleMap
 いま愛知芸大で進められている改築計画には、唖然とするような問題がある。永田さんにうかがったお話とキャンパスのありようをもとに整理すると、すくなくともそれらは3つに集約される。

1)空間を構成する原理からの逸脱:大学当局は、吉村順三のつくりあげたキャンパスのありかたを継承すると言いながら、じつは環境や空間の構成への配慮を軽んじ、吉村順三の原理とはまったく違うものにもとづいてつくろうとしていること
2)施設管理のずさん:当局は建築の老朽化や設計の不備、規模の不足などを改築の理由にしているが、それは大学に施設課さえ置かず、これまで適切な維持管理をせずに老朽化を進むがままに放置してきたことに原因がある。それらは、大部分が改修によって十分に対処が可能であること
3)改築計画の進め方の不明朗:この計画は、委員会を設けて進めるという形式をとっている。しかし、多くの諮問委員会がそうであるように、あらかじめ結論を用意し、それにむけて人選をおこない形式的な反対意見も聞くというものであるうえに、非公開で進められたこと

このうち2)と3)は論外のことで、大学と愛知県の非はあきらかであるし、よその世界のことだ。しかし1)については、建築と、一部とはいえ地球のことだから、ここで考えておかないわけにはゆかない。
 吉村順三のマスタープランでは谷戸を取り込んだ丘という魅力的な地形を活かして、丘を削り谷を埋めることを最小限におさえ、むしろ新たに樹木を植えてゆたかな植生に導いた。それらの樹木が現在は大木に育っている。性格もさまざまな心地よい外部空間を活かすよう配置された開放的な建築を、木々がさらにゆたかにしてる。
 尾根の中心におかれたシンボル的な建築である講義室棟は、中空に持ち上げて地上をピロティーとして解放したから、長い建築も地上に立つひとの視界を遮ることはない。側面は、壁でなく格子で包まれる大きなガラス面だ。現在の奏楽堂が敷地の奥に配置されたのも、キャンパスをボリュームの大きい建物によって分断することを避け、音楽は奥まったおちつきの中で演奏し聴こうと考えたからだろう。

 しかし、日建設計によってつくられている計画では、新しい奏楽堂と音楽学部棟はアプローチのもっとも近くに置かれている。芸術大学の「顔」である奏楽堂は、外来者を迎えるために入口の近くにあるべきだという理屈だ。これは、上記の吉村順三の考え方を真っ向から否定すものにほかならない。しかも140mにおよぶ音楽棟は谷の斜面を蔽ってしまう。そこには、数々の野生の動植物が棲んでいるという。おそらく、奏楽堂を学外に貸しやすいところにつくり、利益を上げようとする意図が働いているのだろう。大学を法人化して利益をあげるように制度を変えた「改革」があと押ししているにちがいない。あたらしく奏楽堂がつくられると、現在の奏楽堂はなんと「楽器庫」にしてしまうのだという。呆れたものではないか、征服された国のお姫さまを奴隷にしてしまえというのだ。

 2005年、このキャンパスの近くで開かれた愛知万博は「愛・地球博」と呼ばれ、少なくとも表向きのテーマは「自然の叡智」ではなかったか。愛知県が主催したのではなかったのか?それに先だつこと30年も前に、吉村順三は建築が技術的にも大きさも不必要に膨張することを戒め、すでにそこにあった地形や生物を大切にしていたと、ぼくは思う。不必要な膨張は、他の人間、他の空間、そして自然への侵略を意味する。知も地も愛することをやめるのか。

 指摘するべきことはまだ多い。しかし、吉村の考え方の根幹を消し去るのが間違いだと指摘するだけで、この改築計画を否定するには十分だ。
地震と原発という災いを契機に、これまでの文明に内在する大きな矛盾を正面から解決することがなければ、日本どころか人類の文明は100年くらいで半減期をむかえるだろう。原発を推進してきた政財官界・御用学者たちが考えをあらためるべきであるのと同じように、愛知芸大の建て替えを進める人々、それに協力してきた研究者・建築家たちは、これまでの非を認めて、吉村順三に立ち返るべきではないか。もう世界は、そんなやり方を美しいとも正しいとも思わないのだ。老朽化して雨が漏っているのは、むしろきみたちの考え方なのだよ。率直に言えば、君たちは退場すべきだ。

■関連サイト
愛知県立芸術大学 建て替えについて
緑ゆたかな愛知芸大キャンパスを活かして行こう会
吉村順三の仕事 愛知芸大キャンパス訪問記/小池一三/びお
「吉村順三の仕事を今、学ぶ」

投稿者 玉井一匡 : 06:34 PM | コメント (2)

February 16, 2011

タカムラ製作所 モールトンの再生

RavaneloShopFrescoS.jpgClick to PopuP(写真のできが悪いのでPhotoshopで加工しました)

 モールトンAPBをタカムラ製作所に持ち込んだら、ちぎれたパイプの溶接をこころよく引き受けてくれた。それだけでも、ほんとうにありがたいと思っていたのに、翌日の夕方にはもう携帯に連絡が来た。
「自転車の修理ができました。日曜日は店は休みですが、高村はいますからお急ぎでしたら取りにいらしてください」そのときぼくは、母の入院であいにく新潟に行っていたから、日曜には取りには行けませんが、できるだけ早く取りに行きますと答えた。

 月曜日に東京に戻ったので翌日の朝に引き取りに行くつもりだったが、思いがけない雪で延期することにしたら午後には日が射してきた。masaさんに電話をかけて誘うと、ちかごろ自転車に目のないこの人はすぐに話に乗ったので、桜台で待ち合わせる。
 駅からおよそ10分、痛々しくさびれてゆく商店街から枝道に入ると住宅地に変わる。前夜の雪が道路の脇に寄せられたのを集めて、こどもたちが雪合戦をしていた。ぼくたちを見ると、ひとりが声をかけて休戦してくれた。その先の角からラバネロの店の前で数人が談笑しているのが見えた。住宅街の真ん中にポツリと店があって、売る店ではなくつくる店、自転車好きのあつまってくる場所、STOREでなくSHOPなのだ。

RavanelloMoultonS.jpgClick to PopuP(今回と5年ほど前、二カ所溶接したところがあります)
 小さな女の子が、長毛のミニチュアダックスを抱いて店の前に腰を下ろしている。そのお姉さんとお母さん、そして高村さんが道ばたで話しているのだった。電話をかけておいたので、わがヤレた黒いモールトンが道路際のショウウィンドーの前に立てかけてあった。溶接したところは、肉が金色だ。キャリアの取り付け用パイプが前のやつも同じ色だったのを塗装せずにそのままにしてあるし、できれば今度のところも塗装しないでおこうと思った。

 「自転車を取りに来たのに、ママチャリに子供をのせてきちゃった。」と、子連れのお母さんは嘆いている。前後に子供用シートをつけた自転車に2人を乗せて、道路際に雪の残る道をやってきてしまったのだ。注文した自転車の調整を待っているところなんだという。あたらしい自転車を早く見たい一心で、帰りには自転車が2台になることをすっかり忘れてしまったらしい。

 おかあさんは自転車のそばに行きたくてウズウズしているのに、こどもたちはミニチュアダックスとたわむれて道路で遊んでいるから気が気ではない。ダックスは、毎晩高村さんといっしょに眠るという大事なヤツだし、滅多に来ないとはいえクルマが心配なのだ、おかあさんは。
「うちに子供と自転車をおいてから、また来ようかなあ」と迷い続けている。
「ちなみに、自転車はいくらでできました?」
「27万くらいだったけど、ブレーキを換えたから30万くらいになって、亭主のより高くなったからブーイングなんです」
「でも、自転車は長い間乗れるんだし、車検も保険もガソリンもかからないんだから、長い目で見れば自転車は安いですよ」
「そうですよね。ありがとうございます」
ご亭主は、口では文句を言いながら同じ趣味をもってくれる彼女を内心でよろこんでいるにちがいない。自分がもう一台つくるときの貸しもできたんだ。

 子供用にサドルを低く改造したフレームにRAVANELLOと書かれているかっこいい異形の自転車があった。それを見ながら高村さんに彼女がたずねる。
「こどもたちには、どんな自転車がいいですか?」
「子供には、ああいう普通の自転車がいいですよ。はじめから軽い自転車に乗ると、力がつかないから」と、彼女のママチャリを指さした。
異形の自転車は、子供用に改造した苦心のものであると、masaさんの質問に高村さんが答えた。とはいえ、ペダルを手で回すと、手応えは、なんという快感だろう。ぼくの自転車の手入れが不十分であることをぼくはひそかに恥じた。

 自宅から事務所へは、いつもは高台の足下の道を走るのだが、この日の帰り、ぼくはよろこひをキャリアに乗せて、というよりもうれしさにペダルを押してもらいながらかもしれない、千川通・旧目白通りという高台の尾根道を走り、江戸川橋で低地におりて事務所まで走った。
 帰り道を気持ちよく走ったのは、久しぶりだったことも、無事に自転車が治ったことも理由ではあるけれど、じつは変速機もブレーキもきもちよく調整されていたからでもあった。
前輪に空気が入っていなかったので試乗しないまま、出がけに空気を入れたから高村さんのところではこのことに気づかなかったが、高村さんは黙って調整してくださったのだ。
近いうちに、あらためて感謝のきもちを伝えに行きたいと思う。


■関連エントリー
masaさんは、一日早くこの日のことをエントリーした。もっと興味深い被写体とできごとがあったのだが、とりあえず僕の記念のための写真が選ばれていた。
*玉井さんとモールトン@ラバネロ/kai-wai散策
*ファースト キッシュ と 壊れたモールトンの救いの神/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 01:26 AM | コメント (4)

November 21, 2010

「警視の覚悟」とナローボート

「警視の覚悟」/デボラ・クロンビー 著/西田 佳子 訳/講談社文庫

KeisiKakugo.jpgKeisiKakugoBoat.jpg アメリカ人の著者がスコットランドヤードの警察官を主人公に書いている推理小説のシリーズで、それぞれに魅力的なレギュラーメンバーをはじめとする登場人物たちが生きていて、といってもかならず誰かが殺されるんだが、ストーリーも面白くて読み続けているうちに、いつのまにかこれが11作目になった。このシリーズも作者が女性なのだ。その方が登場する女たちや世界の描写にしっかりしたリアリティを作り出すことができるからなのだろうか。
 主人公の警視たちは、彼の両親の住むイングランドのナントウィッチという町へクリスマス休暇を過ごしにゆく。文庫本の表紙カバーの写真でわかるように、まちを通る水路とナローボートが重要な役を演じているのだ。本とGoogleマップやストリートビューのあいだを行き来して、ナローボートに乗せてもらったり水路にボートが浮かぶ景色を上からみたりしているようで、それが犯人さがしにもまして楽しい。原題は「WATER LIKE A STONE」といって、「警視の覚悟」よりは気の利いたものなのだが、このシリーズはすべてが「警視の・・・」で統一しているので、つらいところなんだろう。

 舞台になっているナントウィッチは、ロンドンの北西方向、リヴァプールの少し手前という位置にある、小さく美しいまちなのだという。

KeisiKakugoCabinPlanS.jpgClick to PopuP

 物語の中に「NARROW BOAT」という本が登場する。警視の父が、このまちで古本屋をいとなんでいるということもあって、事件とナローボートに加えて「本」がもうひとつの背景をつくっているのだ。amazonで「NARROW BOAT」をさがして開いてみると中味検索があった。そこにナローボートの平面図のあるページがあって、ボートの幅はおおよそ2.1mだそうだからそれを基準に縮尺をあわせてCADソフト(VectorWorks)に読み込んでみると、長さは20mほどだ。ボートが水路の幅に合わせてあるにしろ、その逆であるにしろ、おそらくボートの幅はどれも共通しているはずだ。
 平面図を見ればボートの中の生活がおおよそ想像できる。石炭のストーブを置いてあるリビングルームをはさんで寝室とバスルームのあるゾーンと、キッチン+ゲスト用のベッドルームに変えられるダイニングルームなどのゾーンが並んでいる。水路にはT字路もあるから、長いボートは直角に曲がるのにひどく苦労するから、長さと快適さが比例するというわけではなさそうだ。

 かつてボートで荷物を下流に運んだあと、馬や人間が水路の脇の道をロープで曳いて水路を溯った。そのための細い道が今も残っていて「トウパス」と呼ぶことを、この本で知った。「toe path」かと思ってwikipediaを探したがそれらしいのが見つからない。これではないかと「towpath」が書かれていた。つまさき(toe)で立って歩くほど細い道ということなのかと思ったが大間違いで、「tow」というのは牽引することなのだ。そりゃあそうだね、「爪先立つ」は日本語のいいまわしだ。
 トウパスも狭いみちなのだろうが、水路そのものもボートの左右にわずかな隙間しか残らないほど狭い。そんな水路でボートをあやつるにはなかなかの技術がいるようだが、その技を磨くことを楽しむためにボートを持っている連中と、定住できないので子供を学校にも行かせられない水上生活者が、この水路という場所で生活を共にすることになるのだ。
 ナローボートでは遭難や転覆する心配はないだろうが、海を滑るヨットと比べれば行動の範囲はこの狭い水路に限られる。むしろさまざまな不自由を楽しむものなのだろう。大きなヨットは金持ちの道楽にすぎないが、小さなキャビンの中で広い海に出るのも細い船・狭い水路で広い牧草地をゆくのも二畳台目の茶室で茶を点てるのも、屈折した楽しみがあって、どこか通じるところがある。ミニがイギリスで生まれたのも、そういうことなんだろう。

 ナントウィッチのまちの西端をかすめる水路をたGoogleマップでどってゆくと、水路の一部が広がってナローボートの集まっているところがある。駐車場の風景はすこしも魅力的ではないけれど、どうして船が並んでいると楽しいんだろう。ナントウィッチ・カナルセンターという、ナローボートのマリーナなのだ。こういうところにボートを停めて、給油やボートの底の清掃塗り替えなどをやってもらうのだ。Googleマップを見始めると、小説の世界からやってきたことを忘れた。たくさんのレイアでさまざまに楽しめるようになった。

 ナローボートについていろいろなサイトを見てみると、当然ながら今ではナローボートと水路は生活の場というよりは楽しみの場になっていることがわかる。古いもの古いまちを生かすには、「観光」という方法がまずは頼りになるのは、日本もイギリスも同じなのだろう。しかしここでは、われら日本の観光地のように、せっかくの場所のよさを消費して使い捨てにすることにはならないのはなぜなのだろうか。

■関連エントリー
オックスフォード便り(5)/kai-wai散策
平底船:ナローボート/MyPlace
■関連Googleマップ、ストリートビュー
ナントウィッチ・カナルセンター/Googleマップ
ナントウィッチ・チェスターロード水道橋/Googleマップ
チェスターロード水道橋を下から見る/ストリートビュー
ポントカサルテ/Googleマップ
 ■関連サイト
「英国運河をナローボートで旅するには?」:以前にコメントをくださった「ナローボーター」さんのナローボートによる旅行ガイド

投稿者 玉井一匡 : 11:34 PM | コメント (0)

October 31, 2010

THE COMPLETE HISTORIC MOCAMBO SESSION'54

mocambo54_1S.jpgClick to PopuPmocambo54_2S.jpg
 二つの写真は、いうまでもなくCDのジャケットだが、LPのジャケットのデザインをそのまま再現しているようだ。おもてには主な演奏者の名前が並び、裏面にはジャズピアニスト守安祥太郎の写真、そしてセッションとレコードについての解説がならんでいる。油井正一がそれを英語で書いているのは、なにもカッコをつけているのではなく、敗戦後まもない日本でこれほどの奏者がおり、かくも熱いセッションを繰り広げていたということを、外国にも知ってほしいと考えたからにちがいない。

 このセッションの行われた1954年7月、ぼくは8才にすぎないが、やっと二枚組のLPがつくられたのは1975年。セッションから21年が経っているが、僕はセッションそのものもレコードがつくられたこともそれがCDになったことさえ知らなかった。「野毛にちぐさがあった!」という催しで復元されたちぐさの椅子に腰をおろして一時間足らずのあいだレコードを聴いたあと、店主だった高田衛の「横浜ジャズ物語・ちぐさの59年」 「そして、風が走りぬけて行ったー天才ジャズピアニスト守安祥太郎の生涯」、秋吉敏子の自伝「ジャズと生きる」を読んで聞きかじったにすぎない。それだけに、こういう記録が残されたことの奇跡に感謝しながら演奏に胸躍らされた。

この解説で、油井正一はセッションの事情についてもふれているのが興味深いので、以下にそれを日本語訳しておく。

  * * ジャケットの解説の日本語訳 * * 

日本のモダンジャズの世界が黎明期にあるころの音を記録したものはほとんどない。当時、どのレコード会社も見向きもしなかったからである。
もし、岩味潔という当時19才の大学生が、自分で組み立てた機械を持ち込んでスコッチの紙製テープにこの歴史的セッションを録音するということが起こらなかったとしたら、このシーンは永久に記憶の霧の中に忘れ去られたわけだ。岩味は、いまNTVのスタジオでベテラン音響ディレクターとして活躍している。
この、三回目のモカンボ・ジャムセッションは、トップドラマー清水閏(じゅん)が長い病気治療から戻ってきたのを祝って、あのコメディアン ドラマー、ハナ肇がよびかけて、ベーシスト井出忠とギタリスト澤田駿吾の協力を得て実現したものだった。
さあ、なにはともあれ、音楽みずからに語ってもらおう。

驚くべきことに、このレコードで聴くミュージシャンたちは、いずれも現在なお健在で日本のジャズシーンの重要な一翼を担っている。とはいえ例外もないではない。鈴木寿夫はすでに第一線をしりぞき、守安祥太郎は1955年9月にみずから命を断った。

このアルバムには、秋吉敏子が「It’s Only A Paper Moon」でベースを弾くというサプライズがある。「It’s Only A Paper Moon」のセッションの始まろうとするときに非常事態が生じた。ベーシストがいなくなったのだ。そこで急遽、彼女がベースを弾くということになった。このセッションのあいだじゅう、ひどく緊張している様子を感じとることができるだろう。演奏中にきこえる女性の声は、ほかならぬ敏子である。

油井正一 “the Hot Club of Japan”代表

録音は1954年7月27〜28日,横浜のクラブ「Mocambo」オールナイトセッションで収録された。

   * * * 以上 * * *

 音楽は、時間に大部分を依存し支配される表現芸術だが、そのおかげで一本のテープがあれば表現の大部分を保存し再現することができる。もし、このテープが残されていなかったら、多くのひとはこのセッションの演奏をなにも知らずにいると思えば、慄然とすると同時に記録し残した岩味氏とその技術情熱には感謝せずにいられない。
 しかし、そう思うそばからもっとたくさんのことへと想像はひろがる。自然やまちや建物というテープに書き込まれている記録を、これまでぼくたちはこともなげにブルドーザーに手渡して、その一方ではテーマパークのわかりやすいが薄っぺらな表現に書き換えてきた。壊されたものは、もうほとんど復元が不可能だ。いや、自然も建物も記録を書き込まれるメディアであるまえに、それ自体が音であり演奏者なのだ。ぼくたちはそれをつぎつぎに消している。

 このレコードのレーベル「ROCKWELL」は、岩味潔、油井正一両氏が設立したもので、レーベルの名称は岩味の「岩」と油井の「井」を合わせたものだとmasaさんにおそわった。「そして、風が走りぬけて行った」には、著作権の切れる20年を待ってレコード化を実現させたことが書かれている。このレコードのためにROCKWELLを設立したのだとぼくは思いこんでいたが、ROCKWELLの公式サイトのプロフィールによれば、1956年すでにROCKWELLレコードは設立されている。
また、このセッションは清水が塀の向こう側から帰ってきたお祝いであったことや、このときヒロポンがたっぷり用意されていたことなども書かれている。今の時代なら大きな汚点としてマスコミの袋だたきにあうだろうが、かのサルトルもかつてはヒロポンを愛用したとインタビューで話しているドキュメンタリーをぼくは見たことがあるくらいだ。それもまた時代の背景を物語るエピソードだ。

 それにしても、だれかこの一夜を映画にしてくれないだろうか、関係者がまだ元気なうちに。日本のジャズ界を挙げての大事業だろうけれど、どうですか上海バンスキングの串田和美+斎藤憐コンビでも。

投稿者 玉井一匡 : 08:29 AM | コメント (10)

October 19, 2010

野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」再現

ChigusaJacketS.jpgClick to PopuPChigusaConterS.jpg
 桜木町で仕事をおえた帰りがけ、改札の近くで「野毛にちぐさがあった!」と書かれているポスターに気づいた。会期はあと数日、会場の地図を見ると歩いて5分ほどで行けるし、7時まであと1時間くらいは残っているから戻ることにした。
 のちに錚々たるジャズプレイヤーになる若者たちのたむろしていた「ちぐさ」というジャズ喫茶が横浜にあったとは知っていたけれど、ぼくは一度も行ったことがない。その内装を期間限定で再現しているというのだ。masaさんがエントリーしたことのある古い自転車屋のすぐ近くにあるHANA*HANAという公共施設の中につくってあった。HANA*HANAというのは、このあたりの住居表示が花咲町というからなのだろう。
 学園祭で、教室の奥に店が作ってあるという雰囲気の展示だったっからちょっとハズレかと思ったが、当時のブレンドのコーヒー付き500円の入場料を払って店の中に入ると、壁天井の材料こそ合板を使っているがよくできている。9坪という小さな店に15,6人ほどが壁を背に腰掛けてほぼ満員だった。一番奥のスピーカーの隣に案内されると、壁一面のジャケットを見ながらレコードを聴き写真を撮ったりしているうちに僕は、ここのジャズ喫茶があと数日で壊される仮設の空間であることをいつのまにかすっかり忘れてしまい、気がついたら閉店のときには客はぼくひとりになっていた。

 帰ってから、masaさんも見たいと言いそうだと思って電話をすると「まだ読んでいないけれどぼくはその本を持っているから、今から持って行く」と言う。ブロンプトンを手に入れてから、彼は以前にましてフットワークが軽くなったのだがさすがに一度は遠慮したけれど、結局はお言葉に甘えることにした。

ChigusaSpeakersS.jpgClick to PopuPChigusaVdiskS.jpg
 日々、成長・変化をつづけるmasaブロンプトンは、ハンドルが低くグリップもすてきなものに変わっていた。愛するものを持つ男は、生き生きとしている。masaさん宅配の本は "横浜ジャズ物語:「ちぐさ」の50年" という1985年刊の本だった。神奈川新聞に連載されたので、見開き2ページの短い単位で構成されている。

 帰りの電車の中で読み始めるととまらなくなって、駅から自宅までの道も読みつづけた。1933年というから、ドイツではナチが政権をとった年に主の吉田衛は店を開いた。戦争のさなかさえ「敵性音楽」を聞かせながら、上海バンスキングまでもうすこしという時代も、なんとかジャズの店を続ける。
やがてみずからも応召する。敗戦後、横浜に帰ると、数千枚のレコードを含め店は何もかも焼けていた。しかし、知人がレコードを提供してくれたおかげで店を再開する。戦争直後にジャズをやろうとしていた若者たちは、むさぼるようにしてレコードを聴きにやってきた。

 なにしろ店のコーヒーが10円のときにレコードが3000円もしたというんだから、コーヒー300円で換算しても現在の金額にして一枚90,000円、コーヒー500円とすればレコードが150,000円ということになる。九州から出てきたばかりの秋吉敏子にすればレコードなどとても買えるはずがない。この店にやってきては何回も何回も聞いて曲をおぼえたという。そんな若いジャズプレイヤーたちを思い浮かべると、アルバム一枚を数十秒でiPodに取り込むことのできる現在と、一枚のレコードを貪るようにしていた時代。どちらが多くのもの豊かなものを吸収できるのだろうと考える。そして、どちらがいい演奏を生むのだろう。腹一杯なのに皿に山盛りの料理を目の前に置かれているいまと、死にそうな空腹にたったひと皿だが新鮮な材料で名人が腕によりをかけた料理。
 さらに、3000円もするレコードを買って、わずか10円のコーヒー一杯でねばる客に何度も聴かせた吉田衛の方は、いいジャズを聴かせたい、そして、いい奏者を育てたいという思いで一杯だったのだ。

ChigusaAkiyoshiMailS.jpgChigusaPlateS.jpg 胸躍らせて読んでいると、さまざまなことを思い浮かべながらもう一度ちぐさに行ってみたいとぼくは思い始めたので、masaさんにメールを書いた。「この本はとてもおもしろい。明日までに読んでお返ししますから、masaさんも読んでみませんか?ぼくは、できればもう一度行ってみたくなった」と。「本はゆっくり読んでください、でも、また行くならぼくも一緒に行きたい」という返事がとどいたので、日曜に現地で集合した。
 この日は最終日だったからなかなか人が多くて、外で順番を待っている人を思うとあまりゆっくりできなかった。代わりに秋吉や石橋エータロー、植木等などからの手紙、戦争中に軍人のためアメリカ軍がつくったという「V-ディスク」の実物などをゆっくりと見た。米軍キャンプに演奏に行くと、ひそかに少しVディスクを連れ帰ったという逸話を思い出した。

 店を出たあと、まずはかつてちぐさがあったところを見にいった。平凡なマンションが建っている道路際の駐車場のさらに隅っこに、高田衛さんの横顔を描いたタイルがはめこまれていた。あの小さくてシンプルな、けれどもジャズにとってかけがえのない大切な役割を果たした空間を、ぼくたちの文化はそのまま残す力を持っていないのだ。店の常連たちがさまざまな資料を大切に保管しているし、なにより深く愛着をもっているひとが多いのだから、もうちょっと市やまちが手を貸せばいいというところなのに。
このあとにmasaさんに誘導されて見にいったちいさな看板建築(「野毛スリム」/kai-wai散策 )も、遠からず壊されてしまうのだろう。

■関連エントリー
野毛にジャズ喫茶「ちぐさ」があった!ちぐさアーカイブプロジェクトの軌跡/ヨコハマ経済新聞
「ちぐさ」/MADCONNECTION
「野毛スリム」/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 09:59 PM | コメント (19)

October 10, 2010

彼岸花4:彼岸過ぎから

Hiiganbana2S.jpgClick to PopuP
 もうだいぶ前のことだが、すきな花だから彼岸花は以前にも一度エントリーしたことがある。(「彼岸花:両義的な偏屈」/MyPlace)こいつは毎年ふしぎなくらい正確に彼岸のころに花を咲かせるから日照時間を物差しにしているのかと思っていたが、今年はあきれるほどのあの暑さのせいなのだろうか1〜2週間遅れて彼岸が過ぎてから咲いた。気温の変化も関知して咲くのだろう。今日、新潟にやってきたら、鮮やかな草の緑を背景に一面にというには数が少ないが全体にちりばめられている。惜しいことにちょっと盛りを過ぎていたが、それでもきれいだ。この花は、よくみるとたくさんの花が茎を中心にして円を構成するように集合していて、線香花火が四方に火花を散らしているように雄蕊がのびている。

 うちの墓地に、ぼくはこの彼岸花を育てている。もともと二三カ所に球根があつまって、30cmほどの塊になっていた。球根は、毎年のようにふくらんでゆくから、周りの方にある球根は外へ外へと増えてゆけばいい。しかし、群れの中央では外にむかっては膨らんでゆきようがない。だから、上の方に膨らんで、地表に盛り上がってゆく。そういうのをみていると、豊穣というよりはあまりにも窮屈そうだったので、それを株分けしてやった。いずれは秋になると一面の彼岸花に墓石が埋もれるようにしたいとくわだて、縦横1mの格子の上に数個の球根の塊を植えた。いまはその途上あるから、身をよせあう数本ずつの花が1mほどの間をあけて散在している。
 

Higanbana1S.jpgClick to PopuP
 いなかのことだから、うちの墓は寺ではなく家の前の道路をはさんだ向かいに、カイヅカイブキに囲まれた3m×5mほどの一郭に墓が7つ建っている。ひところ、父が墓に凝っていた時期があって、「**家先祖代々之墓」というのはいけない本来はひとりにひとつずつ墓を建てなければいけないのだと主張していたが、自分の順番が近づいてきたので何か思うところがあったようで「玉井家始祖歴代之墓」という七つめをつくった。
 以前に親戚の家の墓が30以上もあったのをひとつにまとめたことがあったが、うちもひとつにまとめたいと母は口癖のように言う。たしかに、あまりたくさんあるとついつい億劫になってしまうのだ。

 ちなみに、7つの墓の内訳は、ぼくとの関係で表記するとつぎのようなものだ。
1)始祖歴代 2)曾祖父母 3)祖父 4)ぼくの姉妹 5)そのむかしに間引きされたり、もう少し近いむかしに中絶されたりした子たち 6)歴代の先祖やぼくたちに迷惑を受けた人々 7)かかわりのある生き物たち

 ぼくたちに食われた生命たちは、7)の墓に入っているのだろうか。
この地方、それとも浄土真宗がみんな莊なのかもしれないが、墓に入れる骨は骨壺にいれない。納骨の時には骨壺から骨だけを注ぎ込む。骨を入れるところの底は土になっているから、骨は文字通り土に還るのだ。だから、そのうち僕の肉体は土になり窒素やカルシウムが彼岸花の一部になるのだ。
DNAの存在や、生命を動的平衡ととらえる生命観は、じつは始祖歴代だの**家先祖代々の墓という考え方が必ずしも鬱陶しい家制度のしるしというわけでもないように感じさせるようになった。

■関連エントリー
彼岸花1:両義的な偏屈
彼岸花2:冬/記号としての緑
彼岸花3:窮屈な成長

投稿者 玉井一匡 : 11:36 PM | コメント (2)

August 30, 2010

春海運河(はるみうんが)の鉄橋

HarumiRikkyo1S.jpgClick to PopuPHarumirikkyou4S.jpg

kai-wai散策で、豊洲に残されている魅力的な鉄橋の写真を見た。masaさんは、ここはニューヨークのHIGH LINEのようにできるんじゃないだろうかと言って、以前にぼくがエントリーした「High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生」にリンクしてくださった。Googleマップでここを上空から見下ろすと、大きな橋と伴走するように細い鉄橋が平行していて、運河沿いの遊歩道の対岸には生コン工場がある。かつては、埋め立て地にある工場と港の間を原材料や製品を乗せて行き来する鉄道が運行されていたのだろう。
 HIGH LINEは牛や豚を乗せて港と屠殺場のあいだを行き来する鉄道だったのだから、たしかに共通するところがある。乗客を乗せて行き来することはなかったのだ。ぼくは鉄道ファンではけっしてないけれど、古い時代の鉄道とその施設の無駄のない美しさにひかれる。すぐに見たくなって、masaさんに電話をかけて場所を確認すると、さっそく次の日曜日に行くことにした。masaさんもつきあうよと言う。

 有楽町線の豊洲駅で降り、たくさんの人たちでにぎわうショッピングセンターを通り抜けると目の前に運河が広がった。かつての造船所のドックの一部を再利用して船着場がつくられている。そこに立って川上を見ると前方にあの鉄橋がある。上空からはあんなに細い鉄橋だったのに、こうして見ると鉄橋の方が美しい。横から見ると、けっして細くはないが美しい。
 松本零士がデザインした遊覧船「ヒミコ」が、かつてのドックを改造した船着き場を出て浅草に向かっていった。みるみるうちに運河を遡って、あの鉄橋の下をくぐり隅田川へ消えていった。ヒミコは、連続する一枚の曲面をなす皮膜で覆われている。鉄橋はアーチから下げた直線が橋桁を吊っている。古典的な力学と、いまではもう先端の技術ではなくなった鉄という金属の実直がきわだってとても好ましい。

Harumurikkyou2S.jpgClick to PopuP wideHarumirikkyou3S.jpg

 ヒミコを追うように、ぼくたちは運河を左に高層の集合住宅を右に見ながらほとりの遊歩道を歩いてゆく。ヒミコの未来的なかたちがいかに魅力的であろうと所詮はさほどスピードを必要としない遊覧船の表面のデザインであるから、すでに使われなくなった鉄橋の質実に及ばないのは当然だとしても、いま生きている人々の日々の生活がいとなまれる大規模な集合住宅やショッピングセンターがほとんど魅力を感じさせないのは、どういうわけだろう。ぼくたちの生きている現在のこの国この世界に何かが欠けている、あるいは、欠けているところでなく満たされているところにさらに何かを加え続けざるをえないのは、人間の活動として歪んでいるということなのかもしれない。
 
 道からあの鉄橋へ続くところは、案の定ネットフェンスで遮られていた。
もちろん「立入禁止」を表示する板があり、横にはネットを切って子供なら出入りできそうな穴があいている。こういう冒険をする少年、あるいは少女がいるらしいと内心ぼくはニヤリとした。masaさんは一眼レフのレンズを差し込んだ。
 橋は、中央のひとスパンだけをアーチの鉄橋にして橋脚をなくし、船の航行をしやすくしているらしいが、岸に近いところは両側ともコンクリートでつくられている。上から見ると、単線の線路がまっすぐにのびて、その線路敷の砂利の間から植物が生えている。橋脚の足下にはスズキとおぼしき魚が白い腹を上にして浮かんでいる。ここにも生物の世界があるのだ。

 ここを人がわたれるようにしたいな、しかし国交省がこんな面倒なことをやってくれるだろうか、もしかすると小野田レミコンの私有の鉄道だったのかもしれないねなどと話しながら帰ってきた。その2週間後くらいだったろうか、かつて強風で列車が吹き飛ばされる事故の起きた餘部(あまるべ)鉄橋がコンクリートに架け替えられたとニュースが報じていた。もとの鉄橋は、歩行者用になるのだそうだ。そういう前例があるなら、ここも歩行者用に残すことができるかもしれない。もしかするとすでに、そう決まっているのかもしれない。
と、期待したのだが、wikipediaをよく読むと旧鉄橋は全部を残すわけでなく、ほんの一部が残るだけのようだ。

■追記
 ネット検索してみると、ここは「東京都港湾局専用線」という鉄道の一部だったらしい。鉄道愛好家たちのたくさんのサイトがこの鉄道をとりあげている。

・「遠い日の記憶-東京都専用線」「消えゆく東京都専用貨物鉄道 晴海線」
・「晴海埠頭を歩いて 1~6」/「廃線・専用線」
・「廃線探索報告」
・「東京都港湾局専用線」

■関連エントリー
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策
晴海運河風景/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 12:43 AM | コメント (7)

August 17, 2010

ワイナリーのしあわせな猫たち

 CavedocciCat1S.jpgClick to PopuPCavedocciCat2S.jpg
 ぼくは犬と暮らしたことは多いけれどネコを飼ったことはない。だからネコの生態をあまりよく知らないので、かれらの行動の理由と意味について勝手に想像をめぐらすことができる。
このネコたちは、ぼくがそばを通ってもカメラを向けても、いっこうに気にかけない。すこぶる自由に気ままに、暑い夏を生きているようで、ひんやりとしたタイルの上に爆睡してるやつ、木の枝に下げてもらった手製のネットベッドの上でチェシャ猫を気取って人間を見下ろしているやつ。以前にエントリーしたラオスのホテルにいた犬も、暑さをかわしながらしあわせそうに生きているのが、とても魅力的だったけれど、このネコたちはあの犬とはまた別の自由を生きて人間のそばにいながら超然としている。かなり汚れているから野良ネコと飼いネコと小型野生猛獣のあいだにいるようでかっこいい。
 ここにたくさんのネコがいるのはわけがある・・・と、ぼくは思う。かれらの住んでいるところは「カーブドッチ」というワイナリーなのだ。おそらく、ワイナリーにはネズミが住みたがる、もちろんネズミに住んでもらいたくはない。そこで、かれらの出番になったにちがいない。それに、葡萄は鳥たちの食欲をそそるから、彼らに睨みを利かせてもらう必要もあるだろう。

cavedocciCat3S.jpgCavedocciVine1S.jpg

 左上の写真の熟睡しているネコの背後には、丸い穴のあいた箱がならんでいる。ネコの巣箱なのだ。合板の箱の中に白い発泡スチロールの箱が入っている。というよりも発泡スチロールの箱をコンパネでくるんで上に鉄板を張ったというべきかもしれない。冬の寒さをしのぐための家なのだ。冬の間、猫たちはこの箱の中で孤独をまもるのだろうか、それともだれかをさそってあたため合うのだろうか。

 このワイナリーは、できてからまだ十数年にすぎないが、鹿児島出身の落さんというひとが日本中をさがしまわって、ここを葡萄とワインをつくるのに一番と見込んだという話を聞いてから十年以上経った。だからカーブドッチ=CAVE D'OCCIは、「落のワイン蔵」というわけだ。何もなかったところに葡萄を育てることからはじめてワインをつくるなどという時間のかかることをよく踏み切ったものだ。はじめに知ったときにはワイン貯蔵庫の他にレストランがひとつあるだけだった。
そのころからあったヴィノクラブというのがいまも続けられていて、10,000円で葡萄の苗木一本のオーナーになると10年のあいだ毎年一本ずつワインをくれる。
 すこしずつ木造の建物を増やしてゆき、いまでは、フランス、ドイツ、イタリア料理などを食べさせるレストラン、小さな音楽ホール、パンとケーキの店、ソーセージ・ハム工場、もちろんワインの売店などに加えて温泉もできた今、小さな村のようになった。どの建物も、とてもよくできている。建物の間から山が見えるようになって、かえって山を印象的に大きく見せて引きたてるのだ。

 はじめから小学生未満の子供はお断りと言ってしまったし、VINESPAと名づけられた温泉は女湯を優遇して面積も広く女性専用のサービスが多い。その半面で、ワイン蔵の見学も自由にできるし芝生も立ち入り禁止が少ない。開くところ閉じるところの勇気ある思い切りも効果を生んだのだろう。日本のこういうところには珍しいことだが、建物が古くなり植物も馴染んできて時とともに村はますますよくなった。念のために付け加えておくけれど、ここにぼくは客としてたまに訪れることと、ヴィノクラブの会員として(それも、10年が終わったのが一昨年だった)以外の関わりはない。

 あの猫たちがいることも、この村の奥行きを深くすることに役だっている。ぼくは子供たちが好きだし、猫をかわいがったこともほとんどないが、子供がいないこと猫がいることによってつくりだされるまちのよさもあるのだ。

投稿者 玉井一匡 : 11:00 PM | コメント (0)

June 02, 2010

Mさんの門:テイカカズラの花とタネ

TeikakazuramonS.jpg うちの玄関前の鉢植えの植物をいじっていると「おはよう!」という声がする。
振りかえると、いつも笑みをたやさないひとが手を挙げている。
彼は、背をまっすぐに伸ばして軽やかにあるく人でもあるから、会ったあとにはしばらくぼくもいい姿勢になる。
彼はDPEのあたらしい袋を持っていた。
「フィルムのカメラなんですか」
「そう、あたらしいのはダメなんだ。
川の擁壁の工事が面白くて、このごろ毎日、写真を撮りにいくから現場のおじさんたちもなかよしになっちゃった」と写真を見せてくれた。
それが昨年のことだ。近くの川の流量を増やすために、川底を1mほど深くする工事を始めて2年ほど経っていた。
たいていの人は音がうるさいの振動するのと言うけれど、工事を見ているのが面白いと思うひとは少ない。

 Mさんのすまいは、坂をすこしのぼったところにある、大谷石の擁壁に支えられた角地。
板張りの壁に瓦屋根という古い家の玄関前には、簡素な屋根をのせた門がある。
そこに蔓性の植物が巻きついていて、初夏には白い花が柑橘系の甘い香りをあたりに漂わせるので
ぼくはその名をたずねたことがあった。
テイカカズラっていうんだよ」
藤原定家ですか?」
「そう、定家みたいにしつこく墓石にまとわりついたりするから」
おおかた想いを寄せた女のひとの墓だろうが、定家がどんな風にしつこかったのかをぼくは知らなかったけれど
そのときはゆっくり話をしている暇がなく今もってたずねそびれたままでいた。
けれども、そんなふうに言われれば二度と忘れない。 
あるとき、Mさんは門を作り直した。
切妻の屋根は、竹を組んで藤棚のような形式にしたので下から見上げてもテイカカヅラが見えるようになった。

TeikakazuraMonnakaS.jpg 先週、そのテイカカズラが満開になった。あたりをただよう香りはそこはかとないおだやかな甘さだ。
朝、通りがかりにカメラを構えていたら向こうからやってくるひとがいる。Mさんではないか。
「テイカカズラの門がきれいだから写真を撮らせていただいています」
「中から見るのがいちばんいいよ」と、Mさんは門をあけてくださった。
大谷石の階段を数段上がるので、ふりかえると見おろすような位置になる。視界いっぱいにテイカカズラが広がっている。植物はそれだけではない。家のまわりには、数え切れないほどのさまざまな植物が埋めつくしている。ユキノシタ、木瓜、木賊、富貴草、オダマキ、ホトトギス、お茶の木、ヤマブキ、枝垂梅、アジサイ、ムラサキツユクサ、スグリ、胡桃・・・・すべて在来の植物なのだ。それに、生きのいいヤブ蚊もふんだんにかけた香辛料だ。

TeikakazuraTaneS.jpgTeikakazuraACS.jpg「ちょっとまって」と言ってMさんは玄関に入って小さな木の箱を手にしてあらわれた。
「これ、なんだかわかる?」
「・・・・・」
「テイカカズラの実とタネなんだよ」
おもいがけない形だった。細長いサヤの中に細長いタネがお行儀よく並んでいる。
サヤを開くと左右に一列ずつ。ちょっと触れるとタネがサヤからでて、タンポポのような羽毛をひろげる。それが風にのって翔んでゆくのだ。

「これ、ぼくが作ったの。傑作でしょ」
エアコンの室外機の目隠しが、独創的だ。作り替える前の門の柱だろう古い角材と植木鉢を積み重ねて、植木鉢の水抜きの穴に針金を通して縫い合わせてある。
「素人がつくるときにはプロみたいにつくろうとするんじゃなくて、プロより素敵なものをつくろうとするほうがいいとぼくは思う。こういうのはプロではできないですよ」と、讃辞をおくった。
 しかも、こういう古い和風の家のあるじが、かつてバレーリーノであったという取り合わせを思うと、ぼくはなんだかうれしい気分になるのだ。バレリーナっていうのは女の人で、男はバレリーノっていうんだと教えてくださったのもMさんだった。新国立劇場の舞踊部門チーフプロデューサーをやめたとうかがってから数年になるから、年齢はもう70をこえただろうが、20数年、Mさんは姿もふるまいもちっとも変わらない。

■追記
 テイカカズラの名称と定家の関係をまたMさんに質問すると、内親王の霊の出てくる能の話があったと思うよということだったので、今度はWikipediaの力を借りた。後白河天皇の皇女、式子内親王に思いを寄せる定家の恋を描いた「定家」という能の物語が、テイカカズラの名の由来なのだということがわかった。

投稿者 玉井一匡 : 09:51 AM | コメント (2)

April 16, 2010

曲がり角の垣根

KakineKameS.jpgClick to PopuP
 電車でうちにかえるときに、乗り換えずにもうひと駅先まで行ってから歩いて帰ることがたまにある。道中にちょっとした楽しみがあるのだ。
遠くから見れば竹の垣根に張り付いた茶色の固まりとしか見えないやつに近づくと、シュロ縄でつくった亀であることがわかる。こんな東京に、いまだ農家の風情を残した家が一軒。竹の垣根をめぐらせている道路際に大きな欅が数本立っていて、幹の半分ほどが垣根の外にはみ出している。そこでは幹のかたちに沿って垣根をふくらませているから竹でつくった円柱のようだが、垣根の高さより上には切妻屋根のように竹を結んで載せてある。ここには欅の幹も枝もないから、樹は枯れてしまったのだろう。亀は、長生きした欅をしのぶアイコンなのかもしれない。
 この家についてたずねたいことはいろいろあるのだが、天気のいい日は自転車で別の道を通るし、雨が降れば電車に乗ってわざわざ通り道をしようとも思わないから、ぼくがここを歩く機会は少ないせいもあって、この家で人を見かけたことがない。だから、住んでいるひとたちにこの家のことをたずねたことがないのだ。そのうちにたまたま遭遇する機会ができるだろう。

KakineHouseS.jpgClick to PopuP
 大きな樹木があるから、真夏でもこの前の道をとおれば涼やかな空気が漂っている。向かいの住宅でも、この家と同じように大きな木が塀を中断させて道路にはみ出しているのだが、さすがに役所も文句を言わないのだろう。そんな、木への気配りだけでも充分に気持ちよいのだが、この家が外にむける表情もすこぶるおおらかだ。これほどの大きな家であれば、おおかたは瓦をのせた門を設けたりするものだが、ここには屋根はおろか門柱もない。道路に立って視線をむければ、平屋の大きな瓦屋根が、ひろびろとした砂利敷きの前庭の奥にある。写真に見えるのは、おそらく倉庫だろう。庭木をきれいに刈り込むような手を加えているわけではないからたしなむための庭ではないけれど、手入れの行き届いた仕事場で感じることの多いすがすがしさが、ここにはあるのだ。それが、このいえに農家の風情を感じさせるのだろう。

 この道を行くと、つきあたって左に曲がれば案内板が立っていている。
ここは「垣根の垣根の曲がり角・・・・」という童謡「たき火」に歌われていた曲がり角の垣根なのだと、その案内表示に書かれている。

■追記:ケルト文様
iGaさんのコメントで、ぼくはケルト文様というものを初めて知った。wikipediaには「Celtic knot」という項目と「Eternity Knot」という項目がある。なるほど、knotつまり結び目なのだ。Aon Celtic Artsというサイトには、スッポンとおぼしきデザインもある。竹を編んでつくる垣根と編み目の模様、亀の甲羅の編目模様、長命のシンボルとされる亀と「Endress」という組み合わせ、さまざまな意味が重なっているようだ。

*Celtic knot/wikipedia
*Endless knot/wikipedia

投稿者 玉井一匡 : 08:13 AM | コメント (7)

March 22, 2010

ものをつくる人がまちにいるということ

BagAceMineS.jpgClick to PopuP 
 二年ほど使ってきたバックパックが壊れた。
時と場合によっては肩掛けをポケットにしまい込めば縦型の手提にできる「2wayバッグ」だが、その取手の一端がとれてしまったのだ。「エース」のACEGENEというシリーズのものだが、 取れてしまった個所を見ると、お世辞にも縫製が丁寧とはいいがたい。もっとも力のかかるはずの取手の縫製が すこぶる簡単にすませてある。平凡なデザインだが布地もしっかりしているし丈夫そうなのを見込んで買ったが、たまにしか使わない手提げが取れてしまった。
 それを買った東急ハンズへ修理に持っていくと、メーカーに見積もらせて連絡すると言う。それから、ひと月ほどでやっと電話が来た。まわりをはがしてやり直すので八千数百円かかるという。普通に使っていたのに取っ手がとれてしまったということを恥じるところがない。現在のモデルは取っ手の構造が変えられてだいぶしっかりしているらしい。同じように壊れたことがあったのだろう。
 20,000円ほどで買ったものだから5000円くらいまでなら修理を頼もうと思っていたが、もう少し足せば、ものによっては新しいやつが買えそうなくらいなので、修理は頼まないと答えた。バッグが戻ってきたとハンズが電話をくれたのは、それからさらに一ヶ月後だった。戻ったら自分で手縫いしてみるか、新しいバッグを買おうと思って後継も決めていたが、神楽坂にバッグの修理をしてくれるところがあるときいて行ってみた。

BagRepairS.jpgClick to PopuP
 外から見ると、いささか雑然とした間口1.5mほどのちいさな店だった。中に入ると奥では階段の下のスペースが使えるのですこし横にひろがっていて、ぼくと同年配くらいの人がそこでひとり作業をしていた。
「ここがミシンに入れられれば修理できます。夕方までにやっておくから、取りにいらしてください」と言われたが、その日はおそくなったので翌朝にした。

 無精ヒゲを一面に生やした人なつこい笑顔が「できましたよ」と渡しながら「600円です」という。直っただけでもうれしいのにその料金じゃあ申しわけないから、お釣りはいいですよと言って1000円札を渡したが、「そういうことにしていますからこれでいいんです。また何かあったら来てください」と言ってお釣りの400円を渡してくれた。
不思議なものだが、簡単にこわれたことを「エース」が恥じることのない時には、バッグへの愛情まですっかり薄れたのに、直って戻ってきたら同じバッグが以前にも増していとおしく感じられるようになった。

 こんなふうに気持ちが変わるのは、思いがけないことだった。なぜなんだろうかと考えてみると、なにも安い料金で修理をしてもらえたからだけではない。
モノをつくり直してくれる店が、歩いて5分ほどのところにあるというのは偶然にすぎないにしても、生活圏の中にものを直してくれるひとがいて、直接に話をして手渡してくれるということが、とても気持ちいいのだ。そういうまちに生活することを気持ちよく、また元気になったバッグを使っていることがうれしいのだ。修理してくれたひとにとっても、客にうれしさをじかに手渡すことができるのが気持ちいいのだろう。
 「エース」では、中国の工場の労働者にやらせるのだろうが、修理を中国に送るわけにはゆかないから国内の下請けにまわすと、いくつもの手を経て実際に修理する人に辿り着いたときには、大袈裟な修理のスペックと手数料と輸送料が幾重にも重なっているにちがいない。

 かつて、どこのまちにも、ものをつくる店や町工場が身近にあったが、いまのまちの多くは、ものを作る人は少ない。経済上で合理的とされる生産と販売のシステムの結果だ。そのシステムを支えるのは国際間の賃金の格差、経済力の違いだ。製品を輸送するために石油を消費し海と大気を汚す。安く買って、それが壊れたら捨ててしまうと廃棄物がまた汚染をうむ。そういうシステムは、どこかおかしいと、おそらく誰もが直感しながらそれに依存しているんじゃないだろうか。

 バッグをなおしてくれた人は増田さんという。増田さんが、こんなふうに気持よく修理できるのは、彼がすてきなモノをつくっている人であるからなのだということを、ぼくは数日後になって知った。

■関連エントリー
ミニランドセル/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 10:05 PM | コメント (10)

March 03, 2010

ブンギン島:超高密度の島/インドネシア

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 このひとつ前のエントリーに加嶋裕吾さんが長いコメントを書いてくださったのは、インドネシアの旅行からお帰りになってすぐだったが、そのあとにもっともっと長いメールをくださった。その旅の紀行文で、バリ島の東隣のランボック島から、そのもうひとつ東にあるスンバワ島へ、ことばのほとんど通じない定期バスに揺られる長い長い道中が書かれている。いろいろなことを考えさせられる興味深いものだった。
 そこで、海の上にたくさんの住宅が浮かんでいるのが見えたが、あまり面白そうではなかったと書いていらしたが、念のために僕はGoogleマップで航空写真をみた。そんなことはないよ、ぼくたちにとっては胸ときめくものだった。

加嶋さんの説明によれば、そこはブンギン島(BUNGIN)という人工の島だという。Googleマップの範囲をさらに拡げると、この北東にももうひとつの島が成長しているのに気づいた。 それだけではない。もっと欲張ってさらに北東にゆくと、潟を囲む長い腕のような洲の先端に、やはり同じような家並みの集落ができかかっている。
加嶋さんには、これが面白く感じられないほどに、もっと興味深い世界がバスの旅にあっわけだ。

加嶋さんが引用していらっしゃる「インドネシア文化宮」というブログは、インドネシアの24時間ニューステレビ局『METRO TV(メトロテレビ)』東京支局がプロデュースしているものだが、そこでは、島の中の写真も見ることができる。説明によれば、もともとは珊瑚礁だったところに次々と新しくやってきた男たちが石を積んで島を拡げていき、いまでは人口およそ3000人、350m×250mの大きさになった。夕方から男たちが漁に行って女と、夜には子供と年寄りばかりの島になるのだが、まわりを海に囲われているので近寄れないので安全だから、男たちは安心して漁に専念できるのだそうだ。いまでは本島まで細い道がつくられているが、このほかには道がないので、今でもこの島は安全なのだという。

投稿者 玉井一匡 : 11:05 PM | コメント (2)

February 04, 2010

岩城里江子 Live in Love Garden

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 岩城里江子さんは、これまでアコーディイオン二人という構成のデュオで演奏活動を続けてきたが、この一年ほどはたまにほかの人のライブにゲストとして出るくらいで、自分のライブ活動は休止して曲づくりなどに専念してきた。先日、ソロで再出発するライブを聴きにいった。ほかの聴き手たちも同じだろうが、ぼくは里江さんのアコーディオンの演奏とともに笑顔を見に行きたいと思っていた。

 会場のLoveGardenも、昨年は大きく変わった。ぼくは、数年前のkai-wai散策のエントリーでこの店を知ったのだが、じつをいえば京島の地名さえそのときに初めて知ったのだった。kai-wai散策の写真で、ガーデニングショップというカテゴリーを大きく逸脱するような面構えが衝撃的なくらいかっこよかったのでしばらくして行ってみると、長屋や下町らしい商店街が残る街の中に置かれたこの店はなおさら異彩を放っていたし、それでいてまちと馴染んでいるのだった。
昨年、店の主であるcenさんは、みずからコツコツと手を加えはじめて、すっかりその店を変えた。LOVE GARDENは、ガーデニングの腕とそれにかかわるものを売る店から、ひとが集まる場所になろうとしている。
その中に納まるギリギリいっぱいの30人ほどが、この日このライブに詰めかけた。

 里江さんは、久しぶりのライブとあってはじめひどく緊張していたらしい。だれだってそうだろうが、はじめのウォームアップの数曲は客も里江さんもほぐれなかったけれど、やがて彼女は自身からもぼくたちからも緊張をふき飛ばしてしまった。彼女のアコーディオンの身上は、音楽と笑顔になって彼女からこぼれ出す「生きるよろこび」といったものなのだということを、その時にあらためて感じさせられた。
 この充電期間に客演した昨年の秋もそうだった。ルー・タバキン・トリオのライブの前座・・・なんていってごめんなさい、ほかの言葉がわからないんだ・・・としてソロで演奏したのだが、トリオとセッションをやってみないかと突然に声を掛けられての初めてのジャズだというのに、ルー・タバキン・トリオの三人を相手に堂々と即興でわたりあった、両手いっぱいの笑顔とアコーディオンという楽器で。

 演奏が終わってからは、残った10人ほどが車座になって話がはずんだ。話題はおのずからアコーディオンという楽器にあつまる。ぼくたちはアコーディオンのことを知っているようでいて分からないことがたくさんあることに気づく。
11kgもの重さがあることも知らなかったが、笑顔で演奏している里江さんの両腕と腰は、つねに笑みを絶やさないシンクロナイズドスイミングの選手の水中に隠れた足と同じように、密かな忍耐が支えているのだ。
アコーディオンの一部を外して、その中の仕組も見せてくれた。cenさんは電気仕掛けがあることを予想していたそうだが、そこには見事な機械仕掛けがびっしりと詰め込んであって、もちろんICもコンデンサーもない。かつては人手をつかってフイゴから空気を送り出していたパイプオルガンの、演奏家とふいご吹きのしごとをたったひとりでやってしまうのがアコーディオン奏者なのだ。
 彼女のアコーディオンはコバが使っていたものだそうです。ところで、「ふいご」を漢字で書くと「」なのだと知りました。

 このまちには、東京スカイツリー という巨木が生長している。周りにも、大規模なマンションがあちらこちらに作られている。その代わりに、長屋や細くて親密な路地がどんどんなくなってゆく。その一方で、LOVE GARDENや里江さんのような小さくてもつよい力が、コロッケやちくわの天ぷらや豆腐をつくって売る店、鉢植えの植物、それらを買ってゆくたくさんのひとたちが、巨大なモノでなく人間の生活というタネを撒くことによって、都市を血の通った生き物にしてゆくのだ。

■関連エントリー
Rieko Iwaki ノスタルジー♬/LOVEGARDEN
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あの兄弟の小さいほうは船に乗って世界を駆け巡った/Across the Street Sounds
アコーディオンソロ@京島
ブルームーン@京島/東京クリップ
ルー タバキン @ WUU/kai-wai散策
ルー・タバキン+岩城里江/MyPlace
■アコーディオンとバンドネオンについて
アコーディオンの構造/アコーディオンの部屋
バンドネオンという楽器

投稿者 玉井一匡 : 11:37 PM | コメント (14)

January 25, 2010

初めての相撲:場所と時代と四季

SumoSajiki.jpg弁当セットへClick
 両国駅の改札口に立っていると、どこからか甘い香りがやってくる。振り返れば10mほど後ろの階段を若い力士が降りてくる。香りの源は彼の髷なのだ。生まれて初めての相撲見物が鬢付け油の香りという、気配からはじまるのは周到な仕掛ではないか。
取り組み開始の8:45を目指していたのに就寝が4:30になったのですこし遅らせて11:30に到着したが、それでも土俵はまだ三段目で観客はほとんどいない。あまりいい席ではないんだよと言いながら叔父がチケットを渡してくれたのだが、そんなことはない。枡席では前から3番目の西側。テレビで見ていると力士が左右に分かれてにらみ合うのを見るのだが、ここから仕切りを見ると一番手前に西方の力士のお尻がある。いつもと違う見え方がむしろ新鮮で興味深く思われて、ぼくは相撲と方位との関わりについて考えていた。

相撲では、初場所、春場所、五月場所・・・・というが、芝居なら正月興行とでもいうだろうに、なぜ「場所」というんだろうということが、前の日に気になりはじめた。スポーツなら「大会」とでもいうところだろう。相撲博物館に行ったらそのことを聞いてみようと思ったが、席について見はじめると、つぎつぎと興味深いことが続き、6時間以上もの間は退屈するひまも博物館にいく余裕もない。
 そうしてみると、テレビというのは取り組み以外の時間を退屈させる能力があるようだ。何十年もテレビを通して相撲を見てきたが、東の横綱は西向きに西の横綱は東向きに土俵入りをすることに初めて気づいた。目の前で見ていると、取り組みの流れには細かいメリハリがある。行司と呼び出しの衣装や作法は徐々に変わってゆく。弁当も旨い、土瓶と湯飲み茶碗もいい、幕下では三回も同体で取り直しという取り組みがあり、結びでは白鵬が把瑠都に負けて座布団が頭の上を飛んでいった。そうしているうちに6時間以上が瞬く間にすぎた。

SumoSandanmeS.jpg そんなわけで、いつのまにかぼくは「場所」についての疑問をすっかり忘れてしまったのだが、取り組みが終わった帰りがけ、屍のように布に覆われた土俵を見ているうちに、それをふと思い出し、「場所」とよぶ理由にも思いあたった。土俵は布に覆われると、先ほどの番狂わせにたくさんの座布団が投げられた熱がすっかり消えさり、いのちも失ったようだった。失ってみて、それまでのいのちが何だったのか分かったと思った。そもそも土俵は、神を呼ぶために四神の色の柱を立てて砂を盛り結界をつくる。塩を撒いて清める。土俵入りを舞う。力比べをする。それらはすべて、この場所の神への捧げものなのだ。だから、相撲の興業は「場所」でなければならないのだ。初めてのパリ巡業でポスターにつかわれた大乃国の土俵入りの写真に加えられた言葉が「きみは神を見たことがあるか」だったと読んだことがある。ぼくはまだ神もこのポスターも見たことはないが、今度、相撲博物館に行くことがあればポスターを見せてもらおうと思う。ちなみに、場所中でなければ博物館は無料だそうだ。
 相撲には、場所のほかに季節と時代があり、茶屋の賑わいは華やかだし、食い物はうまい。しかも今や、モンゴル、韓国、中国、ブルガリアラトビアグルジア、チェコ・・・はるか遠くに拡がった力士たちと世界をともにして、観客は分け隔てない声援を送るのが気持ちいい。両国の駅に降りてから徐々に始まる別世界が、ほんとうに面白かった。隅田川の橋を自分の足で渡れば、もっといいのだろう。

SumoZabutonUFOS.jpgClick to PopuP そういえば、たしか丸谷才一と山崎正和の対談で、相撲というのは室町江戸明治と様々な時代の衣装・風俗が共存していると言っていたのを思い出した。図書館で借りた本だから図書館のサイトで「丸谷才一 山崎正和」で検索するが出てこない。数日後に自分で図書館に行って本棚をさがしてみると「半日の客 一夜の友」という対談集があった。その本の「藝能としての相撲」という章で相撲について語っているのだ。歌舞伎やシェークスピアにも、時代と風俗の混在があるという。衣装のこと以外はすっかり内容を忘れていたから読み返してもすこぶる面白い。山崎正和も、このとき初めて相撲を見たそうだ。そりゃあこの二人の対談がつまらないはずがない。全体が日本文明論だが、15年経った今でも何も変わっていないことが分かる。そばに置いておきたくなったのでamazonで探すと、すでに絶版になっているのか単行本も文庫もマーケットプレイスの古本しかない。
 さっそく単行本で一番安い1円の古本を注文した。手数料は一律340円。

■追記:朝青龍は、この場所優勝したが、この日の早朝に起こしたとされる暴力事件を理由に退職させられた。

投稿者 玉井一匡 : 01:23 AM | コメント (0)

January 19, 2010

牛の鈴音 

UshiSuzu.jpgClick to Jumpto UshiSuzuWebsite 

 韓国のドキュメンタリー映画「牛の鈴音」を観た。といっても、もう10日以上も経ってしまった。
日本でも年末から公開されているが、韓国では昨年公開されるとドキュメンタリーとしては異例の大ヒットを飛ばした。40歳というおいぼれ牛を使って農業を続ける老夫婦を撮り続けた、すこぶる地味な映画が数多くの韓国人の心を強くゆさぶって、300万人が映画館に足をはこんだ。韓国の人口は約4800万人だから、この割合を日本の人口12800万にあてはめれば、800万人が観たということになる。お金をかけた映画ではないから、純益/制作費の比率では、じつに4300%に達したという。

 わけあって、ぼくはこの映画をできるだけたくさんの人に観てほしいと思い、友人知人にも勧めて特別鑑賞券を買っていただいた。
・・・にもかかわらず、正直にいえば、韓国で300万人動員という現象にふさわしいほどには、ぼくは感動することができなかった。これを見た人たちにたずねても、僕の印象とそれほどにはかけはなれていないようだから、韓国の観客とぼくの受け取り方の違いは、おそらく二つの国の文化的社会的背景に理由があるのだろうと思う。
では韓国のメディアはこの映画についてどう書いているのだろうか、それが知りたくて「中央日報」「朝鮮日報」の日本語サイトを開き「牛の鈴音」と打ち込んで検索した。

 どういうわけだろうか、いずれのサイトでも検索の結果はゼロだった。どちらも取り上げていないのだ。しかしおかげで、この映画とそれに対する観客の受け取りかたについては、なおさら興味がわいてきた。
老人の妻をはじめまわりのだれもがこの牛に農作業は無理だよと言うのに、彼は頑なに耳を貸そうとしない。牛にクルマを引かせて、人間が歩くよりもむしろ遅いくらいゆっくりと山合いの畑にたどりつくと、こんどは鋤を曳かせて土をおこす。牛は40歳、老人は79歳、こどもの頃に不自由になった右足をひきずって歩く。それでも草を牛に食べさせるからと農薬はつかわず、斜面に這いつくばって牛のために草を刈る。

 それほど親密で献身的でありながら、かならずしも牛がかわいいという表情を見せるわけでもない。画面を見ながらぼくも、ジイさん、もういいじゃないかと思い続けた。
そういえば彼は、かくも大切に思いながら牛を名前で呼ぶことがなかったと気づいた。きっと名前をつけなかったのだろう。それは、彼が牛を別の人格とは考えず、あたかも自身の身体の一部であるように思っていたからではないか。同じような理由で畑から離れようとせず、絶えることのない妻の愚痴にも反論しないのだろう。すでに畑も妻も牛と同じように自分の一部と化しているのだ。ぼくたちの愛情は、相手を思いやるところにある。けれども老人の愛情は相手と一体になることにあるのではないか。そして、それに観客は共感したのではないか。
 かつては考えられなかったほどに、日本と韓国の間は近くなった。多くの日本の文化も、おそらくは多くの人間も、朝鮮を通じて日本にやってきたのだろうから日本の文化が韓国と近いことは当然だが、だからといって違いがないわけではない。違いの発見は、むしろ理解への手がかりであることを考えれば、他文化との互いの違いを認めつつ理解しあうというありように近づいているのだとぼくは思いたい。
あの老夫婦と会って話してみたいと、いつのまにかぼくは思うようになったもの。

投稿者 玉井一匡 : 11:24 PM | コメント (0)

December 29, 2009

戦場でワルツを:WALTZ WITH BASHIR

WaltzBasilS.jpg「戦場でワルツを」公式サイトへ

 「おくりびと」がアカデミー賞をもらった直後にインタビューをうけると、監督ははしゃいで語るばかりだったが、主役の本木雅弘は「ぼくは、イスラエルのアニメーションがもらうと思っていました」と答えたのを聞いて興味をもち、その後、映画の内容について知るようになってますますこの映画を見たいと思ってきた。
 1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻のときに起きたパレスティナ難民キャンプでの虐殺を題材にしたドキュメンタリーを、アニメーションという形式でつくったものだ。

 監督のアリ・フォルマンはこのとき19歳、兵士としてレバノンに送られていた。虐殺現場の近くにいたはずだが、友人はしばしばその時の悪夢におそわれるというのに、彼にはレバノン侵攻のことをまったく思い出せない。いまわしい記憶をいつのまにか消してしまったのだ。自分が何を見たのか、何をしていたのかを発掘して事実に向き合うために、彼は戦友をたずねたり医師に相談をしたり、話をきいてまわる。

 多くの日本人もそうだろうが、ぼくはこの虐殺事件をほとんどおぼえていなかった。一方、フォルマンは、あまりに深く記憶を刻まれたために、それを呼び起こすことができなくなった。敵意と憎悪と恐怖の詰めあわせの箱のような状況に、頭の先まですっぽり押しこまれたイスラエルの若者フォルマンが置かれた状況と、無知であるだけのぼくたちは、全く対極にあるけれど、どちらも、どういう状況で何がおこなわれたのかを分からない。それを知りたいという点では僅かに一致するから、フォルマンが事実を発掘してゆくのにぼくたちは同行することができる。
 アニメーションを使うことで画像が抽象化されると、問題がいっそう普遍的なものとしてぼくたちに見えてくる。アウシュビッツを思い、ベトナムのソンミ村や、南京大虐殺英語版wikipedia)を考え、カティンの森を想起させる。
 これらの虐殺は、すべて加害者が外国に行ったときに行われている。それは、けっして偶然ではないのかもしれない。加害者側は、敵を制圧して組織としては圧倒的な優位にありながら、ひとりひとりの兵士は周囲のすべてを「敵」に囲まれている恐怖、他者のものであるべき場所を暴力によって支配していることが不安でたまらない。それが相手を圧倒する火器を手にしたとき、侵入者を残虐な行為に向かわせるのではないだろうか。そう考えると、虐殺という許し難い行為の中にも、人間の行為としてごくかすかではあるが救いを感じとることができる。それでも、ナチのアウシュヴィッツは別格としか思えないが。

 原題の「WALTZ WITH BASHIR」をそのまま日本語にすれば「バシールとワルツを」だ。
バシールとはこの事件の少し前に暗殺されたレバノンのキリスト教系政党であるファランヘ党のリーダー、バシール・ジェマイルのことであることを、映画のあとに調べて知った。1982年8月に大統領に選出され、翌9月に暗殺された。日本語のwikipediaには項目がないが英語版wikipediaにはBachir Gemayelの項目がある。この虐殺は、バシールの殺害によって和平への期待を打ち砕かれたイスラエル軍の絶望と恐怖が、さらに背中を押したと作者は考えているのだろう。

『戦場でワルツを』メーキングDVD上映会が開かれます。
 1月15日 21:00 シネスイッチ銀座。(半券が入場券代わりで無料)

投稿者 玉井一匡 : 02:00 PM | コメント (0)

December 22, 2009

等々力渓谷から九品仏:第7回アースダイビング

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「第7回アースダイビング」は、等々力渓谷を起点に九品仏まで歩き、終点をBe-h@usと合同の忘年会とした。
今回もまた、ルートの提案から資料作成まで五十嵐さんに依存してしまい、その資料を読んで初めて知ったことが多かった。
・・・九品仏浄真寺は、江戸時代に奥沢城跡につくられたこと、その城の周りにめぐらされた堀を埋め立て、今では住宅地に変わっていること・・・いや、堀をつくったのではなく、川がふくらんでできていた池を利用して高台に城を築いたのだろう。
川と時代をさらに溯れば、等々力渓谷の谷沢川とこの九品仏川はつながっていたのも、五十嵐資料で知ったことだ。

 初めて等々力渓谷へ行ったとき、東京にかくも深閑たる渓谷があることに目を瞠ったが、その思いはまた変わらない。しかし、ひとつ、あたりまえだが新たに気づいたことがあった。谷というものは底が深いのではなく、周りが高くてはじめてできるのだということを、実感として気づいた。それも、地形の分かる地図を手にしながら歩いていたから分かったことだ。終着点の九品仏も、いろいろな意味で思いがけない寺だった。

ED7KuhonbutsuS.jpgClick to Jump to GoogleMaP
 九品仏浄真寺は、おもいがけず広い境内に独特の伽藍配置をもつ寺院だった。Googleマップの写真を見れば一目瞭然だが、本堂と向き合って東向きに三つの阿弥陀堂が並んでいる。それぞれの御堂に阿弥陀像が三体ずつならぶので、本堂の西方に阿弥陀さまが9人も勢揃いする。
立て札の説明によれば本堂の建つところが此岸、三つの阿弥陀堂が並ぶ側が彼岸と見立てている。
 三つならぶ阿弥陀堂と本堂の間の庭には桜の大木があって、春にはさぞ美しかろう。
しかし、此岸と彼岸をへだてる空間が、どうにも間が抜けているように思えてならない。
ここは池があるべきだ。池があれば、彼岸と此岸をへだてる。へだてられてこそ浄土の価値がたかまるというものだ。朝には水面が太陽の光を阿弥陀像に反射し、夕べには夕日が阿弥陀像の背後にまわって美しい浄土を現出させただろう。
 これだけの情熱を投じて寺と仏像をつくりながら、ここに池をつくらないということはありえないと思うのだが、インターネットで調べた限りでは、ここに池があったという記述は見つからない。またここに行って質問してみたい。

 三つの御堂は、上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)という、往生のしかたの三つの段階に対応しているという。さらに、それぞれの品に上生・中生・下生という三つの段階があるから、ぜんぶで上品上生から下品下生までの九つの往生のありかた、つまり「九品」になるというわけだ。だからひとつの御堂に三体ずつの阿弥陀仏があって、あわせて九体の阿弥陀像がある。3×3で9を構成するというのは曼荼羅の構成と同じで、とてもわかりやすい。

京都の浄瑠璃寺には、やはり九体の阿弥陀像があると、立て札の説明にある。(九体の阿弥陀像、像をおさめる本堂は国宝)しかし、浄瑠璃寺公式サイトの写真によれば浄瑠璃寺の阿弥陀堂は三棟ではなく、池を前にして一棟に九体の阿弥陀像をおさめている。

■追記:アースダイバー
 アースダイビングは、中沢新一の著書「アースダイバー」にもとづいている。
アメリカインディアンのある部族の国つくり神話に、水中に長い時間潜っているカイツブリが水底から泥を持ち帰り、それによって国をつくったというものがあり、それをアースダイバーとよぶところから本のタイトルにした。
ちなみに、カイツブリは小さな水鳥なのだが、足は大きく平たくて、泳ぐには適している。
指と指の間をつなぐような水かきはないけれど一本一本の指がこんなふうに平べったくできている。しかも、それが身体の一番うしろについているので、歩くにはすこぶる不自由にできているし、水の上でも、きっとのんびり泳ぐよりも潜るのに向いているようだ。だから、歩いているカイツブリって見たことがないのだろう。

■関連エントリー
「谷沢川vs九品仏川」河川争奪戦/MADCONNECTION
JEDI / 7th Earth diving/aki's STOCKTAKING
petit-earthdiving091219(1)/Across the Street Sounds

投稿者 玉井一匡 : 09:58 PM | コメント (2)

November 14, 2009

「Walking the High Line」

WalkingHighLine.jpgWalking the High Line/写真: Joel Sternfeld

 「Walking the High Line」が届いた。
amazonで探して新本もあったが古本を注文した。新本より少し安い程度だし時間がかかるだろうがそれよりも外国の古本屋から届けられるということに興味があったからだが、二週間ほどたってとどいたのをみると、ほとんど新本のようにきれいで、送り状にも「Used-Very Good」と書かれている欄があった。
 外国の本には腰巻きがない代わりに裏表紙に説明が書かれていることが多い。この本の裏表紙の解説は、すこぶる簡潔でわかりやすくて、もう余計な説明を必要としないくらいだから、それを訳しておこう。

*裏表紙の解説

 9月11日の攻撃を受けたあと、2001年のニューヨークにつづいた暗い日々のさなか、ジョエル・スターンフェルドはゲルハルト・シュタイデル(でいいんだろうかGelhart Steidelと書かれている)のもとを訪ねると、すぐにも出したい本があるんだと切り出した。
その2年前からスターンフェルドは、マンハッタンのウェストサイドを南北に走る、使われなくなった高架鉄道High Lineの軌道敷の写真を撮り続けていた。それは「フレンズ・オブ・ハイライン」というグループとの協同の活動で、彼らはHigh Lineを解体からまもり公園として蘇らせようとしていた。その不動産価値に目をつけるものや政治的に利用しようとする連中が、ハイラインを解体して跡地を開発する計画を、当時の混乱に乗じて一気に進めようとしていたからだ。
 スタイデルがスターンフェルドの依頼を引き受けると、わずか6週間後には本ができあがってニューヨークにあった。体裁こそ薄かったけれどその本は、それまで秘密に閉ざされていた鉄道敷に、季節ごとの美しい風景があることを、初めてニューヨーカーの眼に教えたのだった。さながら、ウィリアム・ヘンリー・ジャクソンの1870年代に撮ったイエローストーンの写真が、当時の議会を国立公園の設立へみちびいたように、スターンフェルドの写真はハイラインパークの実現への大きな転換点となった。
この、初めての出版から数年が経ったいま、今度は「ウォーキング・ハイライン」の写真に加えて、鉄道がつくられそれが変容していった現在に至るまでを写真と解説によって編年体でまとめ、あらたな一冊の本としてまとめられた。
    *  *  *  *  *

 ぼくは、本をひらいてまず写真を見たから、ページいっぱいの24枚の写真は公園になる前のものばかりであることに、ちょっとはぐらかされる気がしたのだが、そういうわけだったのだ。その写真のハイラインは、ひどく非現実的な印象だった。・・・・・どれも曇り空で、昼間なのに人影はひとつもない。廃止されたレールの上はいうまでもないが、ビルの窓にも人影がない。曇天だから影や太陽を手がかりに時間を想像することもできない。同じような場所で同じ方向を、季節を変えて撮っている写真があるのに、よく見ないとそれも気づかない。線路のずっと向こうまで、周りのビルに焦点が合っているのだ。

 ニューヨークをよく知る人は、見なれた建築、住みなれたまちに、こんな別世界があったことに驚いたのだろう。マンハッタンをつつむ格子状の街路にブロードウェイだけが曲線を描いてニューヨークのリズムに刺激を与えてきたのだが、このハイライン・パークは、クルマもいない空中の公園をニューヨークにつくり出して、素敵な効果を生むにちがいない。Googleマップができたいまは、ぼくたちはいつでも鳥になってHigh Lineを見下ろすことができるようになったのだ。2010年には、残りの工事が終わるそうだ。

■追記:ひと
*ジョエル・スターンフェルド
・Joel Sternfeldのことを、これまで僕は知らなかったが、こんな写真を撮ってきたひとなのだ。
「American Prospects」をはじめとするたくさんの写真集がある

*スティーヴン・ホール
 ウェブサイトで、この計画のコンペの審査員を見ると建築家スティーヴン・ホールの名前があった。彼にはBridge of Housesという計画案がある。高架線の上に集合住宅を載せるというすてきなものだった。それはHigh LIneを生かす提案だったのだと、今になって知った。

■関連エントリー
High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

投稿者 玉井一匡 : 09:11 AM | コメント (4)

November 03, 2009

RAMLA × ギンレイホール シネマフェスティバル

GinreiPostersS.jpgClick to PopuP
 飯田橋の改札を出て徒歩数十秒の間近にある「飯田橋ラムラ」で、11月1日から11月10日まで「RAMLA*ギンレイホール シネマフェスティバル」 という催しが開かれている。
飯田橋の名画座「ギンレイホール」は創業35年をむかえた。二本立てで二週間上映するから、1年に約60本。35年間で2000本を超えるわけだ。
その2000本以上の映画のポスターとスチール写真を展示している。はじめは、すべてのポスターを壁に展示する予定だったが、会場の面積の限界のためすべてのポスターを壁にかざることはできなくなった。そのかわりにポスターを写真に撮って小さくしたものを1年に48本ずつを年代順にすべてならべた。それを見ると、ひところは日活ロマンポルノばかりを上映していた時代があったこともわかる。
実物は、可能な数をパネルに張って展示して、残りはすべて年度別にファイルに綴じたものを置いてある。写真をインデックスにして、みたいもの探して実物をテーブルの上に運んでみるというわけだ。以前に中野でポスター展を開いたが、データの整理が進んだので、はるかに面白く見やすくなった。

駅からの入り口の前には、映画看板画家の手になる手描きの看板絵がならんでいる。夜には野外映画会が開かれる。以前にギンレイで使われていた古い映写機を置いて、二本の映画が日替わりで交互に上映される。「白い馬」と「赤い風船」である。映写機も屋外のテントの下に置かれているので、映写の様子を間近でみることができる。ときに機械の調整に手間取ったり、カタカタという音が身近に聞こえるアナログが、かえって楽しい。
 なかなか充実した展示になりそうだと思っていたら、NHKが取材に来るという。それが、2日、午後11時台のニュースの天気予報前の枠で、しっかりと取り上げられた。今朝のNHKのラジオのニュースでもこの催しについて伝えたそうだ。

GinreiPosterRed.jpgGinreiPosterWhite.jpg 日本中の都市の郊外には大型の商業施設がつくられ、まちはどこも同じような店で構成されるから、自分がどこにいるのかわからないくらい、似たり寄ったりのまちになってしまう。そうやって、古くからある街がどんどん衰えている。
 こうした商店の現状と同じようなことが映画館の世界でも起きているようだ。いたるところに大型のシネコンがつくられて、古い映画館が閉館に追い込まれてゆく。そのうえ家庭のテレビは大型化してゆく時代にあって、ギンレイホールは、良質でありつつマニアックに偏ることのない演しものを選びながら上映しつづけることで多くの観客を集めているのだ。
 この期間、神楽坂商店街では多くの店が参加して「神楽坂まちとびフェスタ」というイベントがおこなわれている。ギンレイホールの催しは、このイベントの一環として参加しているのだ。神楽坂には、古くからの商店のほかに料亭さえあるが、チェーン店に置き換えられたところが増えてきたが、それでもまだ大型の商業施設の進出は許していない。この商店街もがんばっているのです。

■追記
イベントの詳細:ギンレイホール イベント情報 

*映写機:ギンレイホールの映写室はドアをガラス入りにしてあるので、映写する様子をすぐそばでみることができるのだが、なにさま狭いロビーだから観客席に入るときには席を取るのに慌ただしい。さりとて、帰りには後ろに人が続くから立ち止まることができない。しかも上映中は席についているのだから映写室を見られるわけがない。早めにロビーに行って、前回の上映中に見なければならない。だからそれをのぞいてみる人はあまりいないのだ。
 この野外映画でつかわれる映写機は、ぼくたちがイメージするように、二つのリールをつけてフィルムを巻き取るしかけなのだが、現役の新しい機械はずいぶんやりかたが違う。大きな丸テーブルのような金属製の円盤のうえにフィルムが次々と吐き出されるのだ。

■関連エントリー
映画ポスター・スチール写真展
映画ポスター・スチール写真展:アーク灯の映写機
くらら劇場の映写機
野外ギンレイホールと水琴窟:日比谷公園ガーデニングショー2008


投稿者 玉井一匡 : 08:00 AM | コメント (0)

October 23, 2009

High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

HighLineTop.jpg
Click carries to this WebSite.

 つい先日知ったニューヨークの話が、ぼくはうれしくてならない。
と同時に、このコンペの開かれたことを知らなかったのがとても残念でもある。 
マンハッタンのウェストサイド、 ミートパッキング地区から北へ10番街と11番街 の間の西34丁目まで、1930年に貨物輸送用の高架鉄道がつくられた。それが1980年を最後につかわれなくなり、軌道には雑草が生い茂りすっかり荒れはてた。それはそれで、とても魅力的な侘び錆びの風景なのだが、土地の地主たちがその解体と土地の返還を求め、ジュリアーニが市長だったときに解体が決定された。
それを、近隣の住民たち ( Friends of the High Line ) が立ち上がって保存運動をおこし市を動かして公園にするという計画を実現させた。今年の6月にそのうちの1/3ほどがいちおうできあがった。デザインはコンペによって選ばれた。

HighLineMapS.jpg 「いちおう」とが書いたのは、High Lineにはたくさんの植物があってつねに成長したり枯れたりし続けるからでもあるけれど、ここから見えるニューヨークの風景もHigh Lineの一部なのだろうと思うからだ。だとすれば、まちはいつも変化をつづけるのだから、これが完成することは永久にないのだ。
 住民たちがみずから立ち上がってこういうことを実現できるのは、アメリカのほんとうのいいところだ。自分たちが直接に社会をつくっているという意識が強いのだ。ケヴィン・ベーコンデヴィッド・ボウイまで運動に参加したというのもニューヨークらしいではないか。ぼくたちだって、ウェブサイトから申し込んで会費を支払えば、すぐにメンバーになることができる。周囲の店で割引などの特典を受けられるのだが、それより、滅多に行けるわけではなくてもちょっとした仲間になれるというわけだ。

 これと対照的なものとしてワールドトレードセンターが思い浮かぶ。むこうは、世界一の高さを誇示しながら島の先端に屹立して、歩いて近づくという気にはなれないという気分を発散していた。まわりと競争し相手を蹴落とし、世界で一番になるというアメリカ合衆国のひとつの側面のシンボルのようだった。だからテロの標的になったのかもしれない。けれどもHigh Lineがつくられるに至った経過は、WTCと対極にあるようだ。
HighLineBook.jpg 一方が競争における勝利を誇るなら、こちらは協力を実らせたものだ。WTCが「周りよりも自分が・・」という主張であれば、High Lineはまわりのまちをすてきにするためのインフラストラクチャーだ。むこうが、ピカピカdであるなら、こちらは古びたコンクリートや錆びた鉄骨の上を走るレールの間を雑草が埋め尽くす線路だった。
 WTCはアメリカの絶頂のときにつくられたが、High Lineの鉄道がつくられたのは1930年の大恐慌の時代だったし再生の決まったのが2002年、9.11の翌年という時期だったというのも対照的だ。おそらく、このプロジェクトは、9.11から立ち直ろうという思いも後押ししたのだろう。

 それに、南端にある起点が「meat packing district」だというのも興味深い。1900年代に、250もの屠畜場がひしめく「250 slaughterhouses and packing plants」としてはじまったというんだから、かつては港からここまで牛や豚を満載した貨車が、鳴き声と匂いをニューヨークの街に充満させながらひっきりなしに往復していたわけだ。もしかしたら、この細長い公園の上で牛や豚を飼うことになるかもしれないぞなんて想像もひろがる。
行ってみたいところだが、代わりにとりあえずぼくはamazonをさがしてみた。「Walking the High Line」/Joel Sternfeld, Adam Gopnik, John Stilgoe 著 という本を見つけて、ちょっと高いけれど注文した。ロンドンの古本屋から8〜10日でおくられてくるそうだ。

■High Lineのウェブサイトから
High Lineの地図
プロジェクトの紹介/スライドショー
来訪者による写真 /スライドショー

■関連エントリー
「Walking the High Line」/MyPlace
運河に浮かぶ遺構/kai-wai散策

投稿者 玉井一匡 : 07:30 AM | コメント (8)

October 12, 2009

中村俊輔 スコットランドからの喝采

Shunsuke.jpgマーティン・グレイグ 著/田澤 耕 訳 /東本 貢司 監修/集英社
 numberの書評でみつけた。グラスゴー出身のイギリス人である著者が本人の独占インタビューをせずに徹底的に周辺取材をし、日本人読者のためにではなくセルティックのサポーターのために書いた本だから、日本語への翻訳も当初は予定されていなかったというので読みたくなった。中村俊輔のプレーと態度が、セルティックを愛する人たちにどのように受けいれられたのかが、チーム関係者、選手、ファン、友人の言葉によって書かれているのだ。
 原題の「THE ZEN OF NAKAMURA」は、おそらく中村俊輔を通じて見た日本文化観を示しているのだろうが、ぼくたちからは、セルティックファンの俊輔観を通じて、スコットランドのひとびとについても知ることができる。

 2006年11月20日に俊輔の成功させた一本のキックに、冒頭から53ページをついやしている。チャンピオンズリーグマンチェスター・ユナイテッドを破りグループリーグを突破してベスト16へみちびいたフリーキックを、世界中のセルティックファンがどこでどんなふうにして見たかを発掘する。トロントにはじまり、シチリア→ロンドン→ナッシュヴィル→ラスヴェガス→オンタリオ→リオデジャネイロ→ヨハネスブルグ→埼玉→そして、あの試合の行われた地元のグラスゴーに戻ってくる。
 当時世界で一番強いと考えられていたし、結果としてこの大会で優勝したチームの、やはり世界で1,2のゴールキーパーを相手に、ほかのだれの力も借りずにフリーキックを成功させたことも、それがチームを初めてのベスト16を決定づけたこともぼくたちは知っていた。
しかし、セルティックのサポーターたちがどんな風に、そしてどれほどこのフリーキックをよろこんだかを知ることで、ぼくたちはこのゴールと俊輔の意味がわかる。それだけでなく、スコットランドの人たちについて理解することができる。よろこびを露わにすることのなかった俊輔に彼らが謙虚を読み取ってくれる。それによってぼくたちの方も彼らのことを知るのだ。

 NBAにも同じ「セルティック」という名称のチームがある。ボストンには、同じケルト人のアイルランドからの移民が多いからだ。かつてwikipediaのないとき、「セルト」というのは「ケルト」のことなのだと、気づくまでずいぶん時間がかかった。ボストンがアメリカの独立戦争に点火したのも、アイルランドのイングランドに対する強い反抗心があったからだろう。イギリスは、サッカーでは4つの国に分かれているようなもので、得か損かわからないがナショナルチームが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つに分かれていることも、イギリス本国さえUnited Kingdom(連合王国)のようなものなんだということを実感させる。古いものを残そうという意志がヨーロッパに強いのも、そういう根が深いからなのだろう。
 日本が、どこもかしこも同じようなまちになってしまうのはまったくつまらないことだが、大国が強引に力で併合したわけでもなさそうなのにユーゴスラビアのように反目して人は殺し合い、都市を破壊しあう。それは、もっとつらいことだ。

俊輔の決めたフリーキックの映像:2006年チャンピオズンリーグでマンチェスターUtd.相手の二本

投稿者 玉井一匡 : 08:39 AM | コメント (0)

July 07, 2009

田辺一鶴一門会/松戸「席亭・宇」

Ikkaku0705-1S.jpgclick to PopuP
 ときは平成二十一年七月の五日、ヒゲの講談師田辺一鶴一門による講談の会が開かれた。ところは松戸の「席亭 宇」、料理屋の二階の宴会場として使われてきた和室三部屋、八畳間ふたつと十畳をぶっ通しにしたが、客は露地に見たてた廊下にところせましとあふれた。

 といっても、食い物屋の二階で気まぐれに開く古典芸能の夕べというわけじゃあない。この夜から、この場所を茶会やら仲間の集まりのために貸し出すのだが、ひと月おきに田辺一鶴一門の定席として一門会を開こうという船出。天丼と穴子丼を売り物にする「関宿屋本店」の二階を「席亭 宇」と改めてのこけら落としなのだ。この日は、一門の田辺星之助一乃(かずの)一邑(いちゆう)(出演順)に加えて、ゲストとして若い一龍齋貞鏡(ていきょう)を迎えた。一鶴師匠ははじめとトリの両方で高座に上がり、はじめに客に配った「童話しりとり」で講談の「修羅場」の入門指導の大サービス。
八畳の茶室のためにつくられている庭を舞台の袖に使ったから、弟子たちの高座となれば横の椅子から腰を浮かせて顔をのぞかせ、ついつい自ら仕草も出てしまうという風情に師匠の情があらわれる・・・というのが上の写真だ。弟子たちとゲストはそれぞれに芸風を披露して師匠はもちろん最後に十八番の「東京オリンピック」と「妖怪大戦争」。開会式の入場行進の参加国に、水木しげるの妖怪づくしの「修羅場」を一気呵成、立て板に水と披露して、今年八十の歳をものともしないところを見せた。

 6時から始まる会の前、3時半ころにmasaさんといっしょに会場につくと、師匠はもう二階にいらしてると聞いて階段を上がっていった。さすが高座のある日となればブッとんだ服装の師匠を見て胸が騒いだ。masaさんはカメラを持つ手がウズウズしているだろうから、紹介して写真を撮らせていただいていいでしょうかとうかがうと、いとも簡単にいいよとおっしゃる。ぼくはただ写真をとるmasaさんと撮られる師匠を見ているだけで樂しかったのだろう、気がついたら自分でとった写真は一枚もない。けれど、Kai-Wai 散策には、それはすてきな一枚がある。masaさんもディスプレイを見て大喜びしていた。

Ikkaku0705-2S.jpgclick to PopuP なにさま初めてのこととあって主催者側も勝手がわからないところに、一鶴師匠があちらこちらに声をかけてくださったおかげで朝日・読売・毎日新聞の千葉版に大きな写真入りで掲載されたうえにNHKでも話題にとりあげたから、60人ほどしか入れないところにたくさんのお客さんがいらっしゃるかもしれないと、一階の店にプロジェクターを置いてパブリックビューイングもやろうということになった。日韓ワールドカップの職安通りの様子を思い出させる。予定では、貞鏡さんのあとで中入りをとるはずだったのに、師匠は雰囲気が切れない方がいいからと中入りを取りやめて続けることになった。

 半分は畳に座布団という席のお客さんだったから休憩をとればいいのにと心配していたが、あとになって落語と講談の違いについて考えてみると、一鶴さんの考えも分かるような気がした。落語にとって「間」が重要であるなら講談にとってはとりわけ一鶴師匠の講談にとっては「勢い」で勝負するのだ。講談に出囃子がないのは、それ自身の持つ勢いというリズムや音楽性とぶつからないようにという計算なのではないか。講談の華は、一気呵成、ときには息継ぎもなしで攻めるところにあるのだろう。それを「修羅場」というのだということは、この席亭のための改装にかかわって一鶴さんや星之助さんとお話しているうちに初めて知ったことだ。
 松戸について、関宿については、もっと書くことがあるから、それは別のエントリーにしよう。

■修羅場:iPhoneの「大辞林」の「修羅場」の項目には二番目にこう書いてある。
「② 芝居や講釈などで、激しい戦いの場面。[講談では「しらば」「ひらば」という]」
■関宿屋:あるじの稲葉八朗さん手書きのイラストも含めて、すべて自作の公式ホームページで店の様子がよくわかります。
本店は天ぷらを中心とする料理屋で、となりには弟さんが腕をふるう「そば処 関やど」があります。ここもうまい。
■ゲイツイン ギャラリー 宇:交差点をはさんだ道路の筋向かいにある「ゲイツイン ギャラリー 宇」は、「席亭 宇」と対をなすアートギャラリー。
かつて鰻屋の店だったのを数年前に改装したから、大きく「宇」と書かれた鰻屋当時の看板をそのまま残すことにしてギャラリーの名称にも「宇」を加えた。
きもちのよいカフェではうまいコーヒーと焼き菓子もありますから、こちらにも寄ってみてください。

投稿者 玉井一匡 : 07:55 AM | コメント (9)

January 30, 2009

クルド人のまち:イランに暮らす国なき民

KurdTown.jpg「クルド人のまち」/写真・文 松浦範子/新泉社/2,415円 

「クルディスタンを訪ねて」につづく、松浦範子さんのクルドの本ができた。
前作の舞台はトルコだったが、これはイラン。ふたつの本の違いは国のほかにもうひとつ、そのタイトルにこめられていると、読み終わって気づいた。
「クルディスタンを訪ねて」では、著者と友人は別の目的で写真を撮るためにトルコを訪れ、たまたまクルド人たちの住む地に行く。まっとうな知的好奇心に満ちた旅行者として、二人の日本人女性は、日常生活をいとなむ人たちのできるだけ近くに視線を寄せて異文化を見ようとしていたが、ある出来事によって、そうした旅行者の好奇心が生活者の思いとはかけ離れたところにあったことに気づかされる。
 クルド人たちが古くから生きてきた場所が複数の国に切り分けられ、そのひとつであるトルコという国家の中で生きるのがどういうことであるかを感じ取った。以来、彼女はクルディスタンについてできるだけ深く知り、それを伝えようと踏み込むことのできるぎりぎりのところにゆき写真を撮り続ける。あの本の表題が「訪ねて」という動詞だったのは、初めて訪ねたときの行動で知ったことを深く受け止めて、それが後の行動を決めたからだ。

 この本のタイトルは名詞だ。「まち」だ。「町」は、制度として行政区画としてのニュアンスが大きいが、「まち」は、そこに生活するひとりひとりの人間や積み重ねられた歴史、文化、といったものの堆積があるように感じる。意識的に「クルド人のまち」と名づけたのだろう。イランでは、トルコのクルド人よりもアイデンティティを表に出せるだけの歴史があり、生活のスタイルも生活する場所も受け継がれのこされているらしい。

Mahabad.jpg 表題にまちという名詞を選んだわけが、おそらくもうひとつある。
「クルディスタンを訪ねて」に、イランでクルド人が独立国家を樹立したことがあったと書かれていた。それがどんなものだったのか気になっていたのだが、この本でその疑問が解けた。

第二次大戦直後の1946年、わずか11ヶ月とはいえクルドの国、「マハバド(Mahabad)共和国」が存在していたのだ。その共和国の大統領となったガジ・ムハンマドの秘書として近くで時間をともにした彼の甥ホマヨーン氏に松浦さんは会う。共和国が倒されたときにガジが従容として敗北を受け容れる話に、ホマヨーン自身の松浦さんに対する接し方に、短命だった共和国の記憶が清冽によみがえる。クルド人が、文化や生活としてだけでなく国を持ったことがある徴(しるし)として、国をつくるもとになるはずの「まち」ということばを、松浦さんは選んだのだろう。

 この本が出たら、読んだあとに松浦さんに会おうと岩城さんmasaさんと話していたので、秋山さん五十嵐さんにも声をかけて、先日、神楽坂のキイトス茶房に集まった。
いろいろ聞こうと思っていたことがあったのに、ぼくはいろいろ忘れてしまった。
しかし、クルドの文化はペルシャと共通するところが多いのだと松浦さんはおっしゃる。いまもイランにはコルデスタンという州の名称が残されている。トルコとくらべればイランのクルド人には、自分たちの文化を表現する自由がある。それは、共有する文化的背景があるからなのだ。

 クルドのために立ち上がるべきだと言われることがあるけれど、それはちがうように思うと彼女は言う。たしかに、かつてひどい仕打ちを受けたユダヤ人たちが、ガザにおいてパレスティナ人にとった行動を見れば、もしもクルド人が物理的な力で自分たちの国家を作り上げたとしても、それはまたいつかは暴力となって返ってくる、絶えざる応酬がつづくだろうと思う。
世界中、そういう苦しみがつづいているのだ。だとすれば、ほかのみちがどこかにあるのではないかとぼくは夢想する。たとえば、複数の国に分けられたクルド人はふたつずつの国籍を持ち、自由に複数のクルド分配国家を移動できる特権を与えるというようなことはできないだろうか・・・などと。

投稿者 玉井一匡 : 11:31 PM | コメント (10)

January 25, 2009

知られざる豊かな国キューバ

cuba1s.jpg
 「知られざる豊かな国キューバ」という催しを、当日の土曜日になって中野区の掲示板で知った。今年は、キューバ革命50周年チェ・ゲバラ生誕80周年だ。
 キューバについてのぼくのさまざまな知識は、時間も場所もあちらこちらに点在しているので、ひとつに結ぶとその像はぼやけてしまう。40年以上も前に心動かされたフィデル・カストロやチェ・ゲバラへの共感と敬愛。 娘や友人などがキューバに行ってきたときに聞いた、具体的だが断片的な話。 キューバ危機とアメリカのキューバ侵攻作戦。ヘミングウェイ、「老人と海」。野球やバレーボールチームの躍動と力強さ。「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」のひとびとと音楽の魅力。ボートで脱出してカリブ海を渡る人たち。都市でも進められる有機農業。

 いまのキューバはどうなのかを知りたくてぼくはこの催しに行くことにした。
現在、世界中が陥っている経済危機は、きっとアメリカ史上最低の大統領が、ぼくたちの国の首相などの協力でもたらしたこの状況だが、いずれいつかは来る必然的なものでもあった。
成長させ続けなければならないという経済の構造が、資源も廃棄物の捨て場も有限な、地球という場所につくられている事実をあわせれば、いつまでもこのまま続けるわけにはいかないという答えが出てくるのだ。
 すると、ソ連の崩壊とアメリカによる経済封鎖で危機を先取りしたキューバが、うまくやっていければ、これから目指すべきモデルになるのではないかという期待がぼくにはあるのだ。

第一部 講演とパネルディスカッション、第二部 ダンスと音楽という構成の、第一部だけにぼくは参加した。パネラーは、写真家でカーニバル評論家という白根全、ジャーナリスト・NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表の工藤律子キューバの有機農業などをよく知る長野農業大学の吉田太郎ゲバラについての著作の多い戸井十月の4氏。

冒頭に駐日キューバ大使が話した。儀礼的な挨拶を予想していたぼくには、さすがカストロの大使と思わせる饒舌と情熱。白根氏は、キューバの人々のカーニバルにかける熱さについて写真を背景に、工藤氏はキューバの生活は楽じゃないんだということを具体的な日常生活から、吉田氏は統計や歴史の視点からやはりキューバの困難や矛盾を話した。おかげで、やや会場が沈んだ。
そこで戸井十月が登場。フィデルとゲバラの志の高さを語り、いろいろ問題を抱えているけれど、それでもこうやってみんなキューバを応援しようという気持にさせる魅力があるんだという発言で会場に元気をとりもどした。(この会場では、カストロとは言わずフィデルと言った。弟のラウルと区別するためなのだ・・・と思っていたら、キューバではカストロのことをファーストネームで呼ぶらしい)こうして振り返ると、この四人による構成はよくできていたのだ。

 カストロの個人崇拝はないし肖像などもほとんど掲げられていない、ゲバラの壁画があるだけだとキューバに行った人たちは言う。まっとうな社会主義なら個人崇拝を否定するのは当然のことなのに、北朝鮮はもちろんソ連中国をはじめとする社会主義諸国はあのざまだから、キューバのありようは稀なことなのだ。
教育と医療はもっとも重要なことだとしてとくに力を注いで顕著な成果を上げ、いずれも無料で受けられるが、国内には受けた教育を生かす場が少ないし、ソ連の崩壊とアメリカによる封鎖がもたらす物資不足で、とても苦しい生活をしている。優秀な医師たちを南米をはじめ各国に医師たちを派遣して、なんとか外貨を獲ている。物資の足りない生活をしながら国民がかろうじて耐えてきたのは、カストロをはじめ幹部が特権的な生活をしていないからだろう。
 物質的な満足よりも精神的な満足が大切だと言われても、国民の我慢にも限界があると工藤氏はいう。だが、物質と精神という対立概念だけではない。べつの切り口をみれば、他者より優位に立つことに価値を置く立場と、他者と分かち合うことに価値を見出す立場・・・つまり競争と共生という対立概念がある。フィデルやゲバラは、物質であれ精神であれ、他者より優位に立つことによってではなく、他者とよろこびを分かち合うことで満足を得られる世界をつくろうと出発し、それを持続してきたのだ。

Che.jpg「チェ 28歳の革命」・「チェ 39歳別れの手紙」を監督したスティーブン・ソダーバーグは、戸井氏によれば、はじめゲバラのことをほとんど知らなかったし、さまざまな障害もあった。しかし、ブッシュがあまりにひどいので、この映画を作らなければならないと思うようになったという。だとすれば、この映画ができたのはブッシュのおかげというわけだ。経済封鎖も、むしろキューバを持続させ結束させる効果があっただろう。
 イラク戦争や金持ち優遇政策にしても、じつは現代の世界の経済システムがいかにひどいものであるかという本性をあきらかにするという役割を果たした。オバマの登場も、ブッシュがいたからこそ実現したのだろうし、ブッシュのおかげで多くの人間の生命を失い、あるいは苦しい生活を強いられることになったが、それによってカストロやゲバラが目指したものの価値に気づくことになれば、結果として人類が救われることになるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:55 PM | コメント (4)

January 04, 2009

遅配エントリー:年末玉ノ井ダイブ

TamanoiDivMasaS.jpgClick to PopuP
 年末の、kai-wai散策の「JED-iPhoner's@東向島」というエントリーでつかわれた写真の大きなサイズのデータがmasaさんから送られてきた。ぼくだけが、このエントリーをしそびれたので、みなさんの写真と対になるやつを年明け早々に書いておくことにしよう。

 左の写真は、kai-wai散策のその写真をmasaさんが撮っているところだ。
こんな鋭角の三角形の、いまでは空き地になっている敷地には、かつてどんな建物があったのだろうかと思いながら、デジカメを低く構えてmasaさんをパースペクティブの土地に載せて撮った。Googleマップで見ると、航空写真には、まだ三角形の建物が残っている。じゃあストリートビューをと思ったが、残念ながらこちらではもう空き地になっていた。
 iGaさんのMADCONNECTIONの「放課後...みたいで...」の写真では二人のオヤジがなにやら一心に眺めているが、彼らの身体が邪魔をして肝心のものが見えない。右の写真を見れば、オヤジたちの興味をひいたものが何なのか分かります。

TamanoiDivCafeS.jpg 隅田川の水面をなめていっそう冷え切った北風が吹きぬけるまちを、おだやかな陽の光をあびているとはいえオヤジが五人、せまい商店街や路地を歩いているとすっかり身体が冷え切って、ひとやすみしようということになったが、下戸のぼくとmasaさんにはさいわいなことに、まだ日が射しているからアルコールではなく珈琲屋になった。その店内でiPhoneをつかって撮った記念写真を、秋山さんが「JEDI @玉ノ井」というエントリーで、怪しい写真に加工してエントリーした。ここは不思議な店だった。古いレンガ塀に囲われ田店の入り口の前には小さなお稲荷さんの社、その背後にはウィンドウサーフィンのボードが横たえられている。中に入ってみれば、小さくてすこぶるふつうだがやや古めかしい喫茶店だった。全員ホットコーヒーを飲んで心身を温めたあとに、もうひと歩きして冒頭の記念写真となったのだ。

その後、東向島から東武伊勢崎線に乗って隅田川を渡り浅草で下車、浅草寺裏のプロのための注連飾り市を覗く。4つめの写真は、車中で少年のごとく一心にデジイチのディスプレイを見る環境社会学者のほほえましい姿である。(画像の一部に不穏当な表現がありましたので改正いたしました)この座席の向かいの様子が、「MacBook」なるエントリーの一部に加えられた。
おじさんたちは体内に液体燃料を注入すべくホッピー通りに繰り出したのだが、ぼくは歯医者さんに行かねばならなかった。治療中の仮歯のとれちゃったのを処置するために、年末の週末に診察時間のあとなのに時間をとってくださったのだった。

投稿者 玉井一匡 : 12:30 PM | コメント (11)

November 08, 2008

「彼らの居場所」と「クルディスタンを訪ねて」

KurdCardS.jpgClick to PopuP 

 ふた月も前のことだがアコーディオン奏者の岩城里江子さんからメールをいただいた。友人の写真家が新宿で個展をやっているので時間があったら見てほしい。国を持たない民族クルディスタンを撮り続けている写真家です。明日が最終日なのだが・・・とあった。masaさんと一緒に見に行ったら、玉井にも見せたいといわれたのだという。岩城さん自身のブログ「う・らくんち」に、この写真展についてのエントリーがあった。

 写真展は「彼らの居場所」というタイトルの、トルコのクルド人たちの生活を撮ったものだった。
 女たち子供たちの写真の多くは、こちらを見つめている笑顔が生きる喜びだけからから生じたものではなく、さまざまな悲しみや憤りを包む勁さのあらわれのようだった。
 彼らがイラクやトルコに住む少数民族として弾圧されていることや、かつて難民として受け入れを求めるクルド人を日本政府が強制送還したことを知ってはいた。しかし、イラクやアフガンへのアメリカ侵攻のかげに隠されて、どういう人たちがどんなところにどんな風に生きているのかという具体的なありかたを、これまでぼくは何も知らなかった。知らないということに気づいてさえいなかった。この写真展はそれを気づかせてくれた。
 写真展のタイトルは、このブログのタイトル「MyPlace」と重なる。しかも、佐藤真が監督したエドワードサイードについてのドキュメンタリー映画「OUT OF PLACE」とも関わる。

KurdVisit.jpg 会場には松浦範子さん自身がいらしたので、じかに話をうかがうことができた。じつは、ほんとうに伝えたいことを撮った写真は見せることができないのだという。そこに生活している人たちに迷惑がおよぶからだ。いつまでも会場で話をうかがうわけにはゆかないから、会場に置かれていた本を後日あらためて読んだ。
「クルディスタンを訪ねて」(文・写真 松浦範子/新泉社)
は松浦さんが文章を書き写真を撮った本だ。
 クルディスタンとはクルド人のくに・・・「彼らの居場所」だ。「アフガニスタン」がアフガン人の国であるなら「クルディスタン」はクルド人の国であるはずだ。しかし、クルディスタンは文化を共有するひとびとの集まる「くに」ではあるけれど、制度としての「国家」ではなく国土も持たない。クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアなどの数カ国に分かれて生き、「くに」は思いとして存在するだけだ。いや、クルド人が数カ国に分散して生きているという言い方は正しくない。彼らははるか昔から遊牧民として広大な草原を自分たちの居場所として生きてきたにもかかわらず、あとから来た「先進国」がそこに国境線を引いて、クルド人の生きてきた場所を勝手にいくつかの国に切り分けてしまい、そこに生きる人たちも切り離されてしまったのだ。同じように、現実の人間の生活と無関係に国境線を引いてしまった結果、内戦が生じているところが、世界中のいたるところにある。

 これはただの旅行記ではない。だが、みずから旅をしてさまざまな人やさまざまな出来事にふれ、それらをみずからのうちに肉体化し熟成して印画紙に残し文章にする。その意味では、たしかに旅行記である。はじめ別の目的でトルコを訪れたときに、クルド人の多い東部を訪れる。そのとき、著者はクルド人たちが差別や弾圧を受けている事実を知る。以来、カメラをかかえてクルド人の住むまちを何度もおとずれ、ときに小さなホテル、ときに友人のすまいに泊めてもらう。その家の娘たちの部屋に寝起きして、彼女たちの日常を共にする。女たちや家族のなかに堆積しているトルコ支配の残したきずを記憶に写し取ってきた。
 報道のために来たのかと追及をうける。軍に連行される。観光のために来たのだと言い続ける。みずから戦いの場に行くことはないが、命をかけて独立を勝ち取ろうとする人たちのあることを身近にする。政府によるクルド弾圧の話をしてくれる人たち、宿を提供してくれる人たちがいる。
文章と写真は対応していない。それは、受け容れてくれたクルドのひとびとにおよぼす影響を最小限にとどめようとする配慮からなのだろう。

 はじめに写真展を知らせるメールを読んで、ぼくは大石芳野さんの写真を思った。「クルディスタンを訪ねて」を手にしてみると、腰巻きには、すでに大石さんの推薦文が書かれていた。いずれも、戦いに家族を傷つけられる女たち、こどもたちを撮っている。大石さんは多くの国で、主にこどもたちに眼を向けているが、松浦さんはトルコのクルド人たち、それも女たちに重心が置かれているように思う。

 クルド人たちが自分の国家をもつことは、どうすれば実現できるのだろうかと、ぼくも考えずにはいられない。しかし、ユーゴスラビアやアイルランド、パレスティナ、つぎつぎと悲惨な歴史が思い浮かび、「麦の穂をゆらす風」で見たアイルランドの、肉親やかつての同志と戦わねばならない辛さをぼくは思い出す。
 クルディスタンの実現は可能なのかという思いに、松浦さんは立ち止まることもあるにちがいない。彼らに武器をとって戦うべきだとはいえない。言いたくない。なにをしてあげられるのかと自問するだろう。しかし、この写真や旅行記が、彼らの状況やひとりひとりの人間として生きかたをつたえて、遠くに住む人がそれを知り、思いを分かちあっていてくれる・・・すくなくとも、そう思えることだけでも大きな支えになるだろう。
 たしかなことは、世界中を切り刻んで山分けしようとしたことに対する逃れようのない責任が、西欧先進国にあるということだ。そして、ぼくたちの国家も同じことをしようとした歴史がある。

■追記(2008.11.12)
 松浦さんの2冊目の本が、近々刊行されるそうです。イランのイラク国境近くのクルディスタンを描いたものです。
「クルド人のまち」イランに暮らす国なき民:写真・文 松浦範子/新泉社刊/2300円

投稿者 玉井一匡 : 06:21 PM | コメント (10)

October 27, 2008

iPhoneのGoogle Earthは、まるで飛行機の窓のようだ

iGEframeS.jpgClick to PopuP

iPhone向けのGoogle Earthができたと、MADCONNECTIONのエントリーで見た。しかも無料だという。
以前にダウンロードしたEARTHSCAPEというソフトは有料だったが、開いてみるとあまりに反応が鈍いのを待ちきれなくて、2,3回見たもののぼくはもう開きさえしなくなった。
さっそくiPhone向けのGoogle Earthをダウンロードして開いてみると、すこぶる反応がはやい。データ圧縮の技術がさぞかし優れているのだろう。EARTHSCAPEと較べると、全く使いごこちが違うのだ。もっとも、EARTHSCAPEはGoogle Earthのデータを利用してやっているのだろうから、Googleが自分でつくるソフトと環境を相手にしては、そもそもかなうはずもない。
しかし、このGoogle Earthには、視線の角度を変えるツールがみつからない。
ないはずはないから、あちらこちらさわってみるが変化がない。設定の問題でもない。
これではGoogleマップと同じではないか!どこかに必ずあるはずだ。・・・

iGoogleEarthS.jpgClick to PopuP
 昼飯を食べながら、バルセロナが前半で5点をもぎ取った土曜日のスペインサッカーのビデオを見ていた。
そのうちに、テーブルに置いたiPhoneでバルセロナのスタジアムCAMP NOU:カンプノウを探したくなった。
やはり、地形が立体にならない。と思ってiPhoneを手に取ってかざした。

すると、向こうに山並みが見えるではないか。立体になったのだ。
iPhoneを水平におくと、二次元の航空写真、立てると地平線が見える。
画面を飛行機の窓にしたように、その向きと画面の向きが一致する。
重力感知力という、いまのところiPhoneにしかない能力をしっかり利用している。
すてきなのだ。頭がいいのだ。しかも、おどろくほど反応が早い。
Google Earthでは、見る感覚と操作方法が一致しているからMacよりiPhoneの方が操作性がいい。
バルサのサッカーにもまいってしまったが、ぼくはまたGoogle Earthにも感動してしまった。もちろんiPhoneにもだが。

投稿者 玉井一匡 : 03:41 PM | コメント (6)

September 19, 2008

ナローボートのマリーナ

NarrowboatMarinaS.jpgClick to Jump to GoogleMap

 モールトン屋敷のあたりをGoogleマップで散策を続けると、いろいろなものが見つかる。モールトン屋敷の南側の川沿いの工場はモールトン家の家業のゴム製造工場だったのだろうと秋山さんがコメントされたが、そこから南東に1.5kmほどのところに、水路の一部が膨らんだように寄り添う池がある。モールトン家の前に流れるのはBradford Riverとあるから川だが、これは運河だ。岸の近くに碇泊している細長い船たち。ナローボート(narrow boat)ではないか!
 池には、桟橋に舳先を寄せてたくさんのボートが身を浮かべて、揺れる水に身をまかせてのんびりとしているようだ。サムネイルをクリックすると「Marina at Widbrook Nr Trowbridge」と書かれた写真が見られる。たしかにマリーナなのだ。アンカレッジの水上飛行機たちを思い出した。こういうのを見つけると胸が高鳴りつつ、自分がボートや水上機になったつもりか、のんびりした気分になる。

 このcanalをたどって南西に移動してみてください。こんな仕掛けがある。これは水位の差を調整するためにつくられた「Lock」というものだと知ったのは、kai-wai散策の川と船についてのすてきなエントリーのひとつオックスフォード便り(11)だった。
さらに西に追ってゆくと、運河と川が交差している。 川と道路の上をこえるcanalのための石積の立体交差だ。 

 canalとは、水そのものの利用もしくは船の移動のために人工的につくった水路だとWikipediaには定義されている。これは後者だろうが、産業革命以前につくられたcanalは、鉄道や自動車が発達したのちには、大量輸送の役割を果たすことはなくなったはずだ。にもかかわらずnarrow boatはたのしみのための船として、ここではcanalやlockという仕掛けをしっかりと活かしている。
 この豊かさは、かつてイギリスが世界を経済力で支配していた時代に、外国からすいあげたもので蓄えられたはずだ。アフリカで、インドで清朝中国で、さらに中東諸国で、現在の世界に満ちている争いの多くは、この国をはじめとする西欧の国々がまき散らしたものだ。・・・しかし、その結果として築き上げたものを、この国の人たちや西欧はけっしておろそかに消費してしまうことがないようだ。ヨーロッパの川は、多くの国を経て海にいたるので、勝手にそれをいじるわけにはゆかないということもあるのだろう。ヨーロッパ中に水路のネットワークが巡らされているので、カヌーでヨーロッパをめぐることができるのだという話をきいたことがある。canalは、単独では成り立たない大きなシステムをつくる重要な一部なのだ。miniやモールトンの自転車も、それに道路を加えた大きなネットワークをつくっているのだ。

 それにひきかえぼくたちのくにの近代は、うつくしく豊かな山や川や海を持ちながら、入り江や湾を埋め、わずかな距離を縮めるためとして橋をかけ山を穿ち、あまり必要のないダムをつくり、とりかえしのつかない無駄な土木工事を続けてしまった。さきごろ川辺川のダムの計画を中止するとした熊本県の決断は、方向を変えてくれるのかもしれない。せっかく費用をかけるなら、役に立つことに使えばいいだけのことではないか。

■関連エントリー
オックスフォード便り(5)/kai-wai散策
オックスフォード便り(9)/kai-wai散策
オックスフォード便り(10)/kai-wai散策
オックスフォード便り(15)/kai-wai散策
平底船:ナローボート/MyPlace
柳川堀割物語/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 07:50 AM | コメント (8)

September 11, 2008

アレックス・モールトン屋敷

MoultonEmblem.jpgClick to Jump to MoultonSite

 モールトンの自転車の正面についているエンブレムを見ると、「Alex Moulton」の文字の上に立派な館のレリーフがある。これは、自転車を設計したアレックス・モールトン博士のすまいであり、モールトン自転車の本拠地でもある。

 このごろは、とくに外国の小説を読むとき、物語の背景を理解するためにGoogleマップをひらき、舞台として登場する場所を見て想像力を広げるようになった。ディック・フランシスの競馬シリーズ推理小説の新作を読みはじめたがこの前に読んだときにはまだGoogleマップなんてものは世の中になかったんだなと感慨にひたりつつイングランドの郊外の、競馬の厩舎や馬場がたくさんあるまちニューマーケットを上空から眺めているうちに、アレックスモールトンの屋敷もこんなところにあるのだろうかと思って「Holt Road,Bradford on Avon」と打ち込んで検索した。
 Holt Roadはすぐに見つかったが道路沿いを探してもモールトン屋敷はなかなかみつからない。この道を中心にして捜索の範囲を拡げてあたりを巡っているうちに、航空写真を精一杯拡大してたどっていくと、やっと見つけた。

 三つの切妻が連続した屋根と二つの切妻の連続をつくってそれを直角に交差させるという形式の屋根、テラスのかたち、いずれもモールトンのエンブレムに使われているモールトン屋敷の絵とピッタリ符合する。屋根の影が地面に落ちているのを見れば、エンブレムと同じであることが分かる。工場としては、かつて馬小屋や納屋などに使われていた離れを使っているようだ。かつて、松任谷正隆が司会をするテレビの番組カーグラなんとかというやつでモールトンが紹介されたことがあった。工場では、アムステルダムのオリンピックで優勝したというジイさまが、一本ずつスポークを組み立てていた。

 間違いない。ここがアレックスモールトンの屋敷だ。会社の本社でもあるのだろう。聞きしにまさる、いい家だ。

AlexMoultonPrfile.tiff  アレックス・モールトンに、まだなじみのないかたのために付け加えておこう。モールトン卿は、自転車をつくる前に、あのminiのための独創的なサスペンションを設計して会社を起こし製造した人だ。といっても、曾祖父はグッドイヤーと提携し、家業はゴムにかかわるものの製造を受け継いでいる。モールトンと共同開発した自転車を製造しているのがブリジストンであるのも、ゴムと自転車をつくるという共通項でつながりがあったのかもしれない。(ブリジストン モールトン)

 miniというクルマをつくるにあたって、設計者アレック・イシゴニスはあの小さなボディの中に最大の居住空間と可能な限りの性能を盛り込むための、ありとあらゆる方法をつくした。
 大部分の部品はあたらしく開発するのではなく、既存のものを利用して、そのレイアウトによって最大の居住スペースを捻出したのだ。モーリスマイナーに使われていた既存のエンジンを横に向けておきボンネットを短くした。変速機は、そのエンジンの下に潜り込ませた。FFにしてフロアシャフトをなくし、運転席のドアをえぐって薄くするためにガラスは引き違いにした。座席の背を立てて客室の長さを食わないようにした。だからハンドルは大分上を向いていた。そして、タイアが室内に膨らまないように、あんな小さなタイアをつかった。それは、車体の重心を低くして安定をもたらす結果も生んだ。そういうあたまの使い方が、ぼくは大好きだ。
 小さなタイアは道路のデコボコからの振動を拾いやすい。それを吸収するために円錐形の小さなゴムの塊でつくられたモールトンのサスペンションは、miniの奇跡を実現するために大きな貢献をしたのだ。

 スエズ動乱で運河をつかえず石油はが急騰したときに、モールトンはガソリンのいらない乗り物として自転車をつくり、miniのトランクに入るように小さく分割できる自転車をつくった。楽にタイヤを回せるように小さいタイアをつけた。が、小さな車輪が道路のデコボコを拾いやすいのはクルマとおなじことだ。
 だから、モールトンは自転車にゴムのサスペンションをつけた。

 モールトンの家が聞きしにまさる、いい家だと書いたが、それは、この敷地内の庭や建物がいいということにとどまらない。この屋敷を含めた周りの環境、それをつくりだすシステムがすてきだということなのだということが、Googleマップでこのあたりを散策してみるとわかってくる。

■参照
アレックス・モールトン/Wikipedia
Alex Moulton/英語版 Wikipedia

■関連エントリー
Alex Moulton AM-5/aki's STOCKTAKING
自転車通勤/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 11:19 PM | コメント (5)

August 11, 2008

東京新聞:TOKYOどんぶらこ 中井

SumuTokypTokyoshinb2S.jpgClick to PopuP
 iGaさんが東京新聞の紙面をわざわざスキャンしたのをメール添付で送ってくださった。カフェ杏奴と林芙美子記念館にかかわる記事だった。
落合界隈のなかなか力の入ったイラスト地図と、そこに描かれている店やみどころについて取材した記事「界隈ルポ」、さらに、関川夏央が林芙美子とその住まいについて書いたゴシップ的文章「『庶民』がつくった古里」という三つ。
 このことは、前日に通りかかって立ち話をしたカフェ杏奴のママに聞いていたが、落合のまちのことを掲載するというので取材に来たけれど、その後は連絡がないから、どんなふうに掲載されるのかされないのか分からないということだった。iGaさんが東京新聞の読者だから、こいつは教えなきゃと思っていたところだ。
 あとになって新聞も見せてもらうと、一面をつかってこれらをレイアウトした紙面は、予想以上に充実している。イラストにはカフェ杏奴が大きく描かれているし、カップもLOVEGARDEN製であることが判別できるほどの精度で描かれている。「界隈ルポ」を見れば、店の内部の写真も掲載されているではないか。

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 関川によれば、林芙美子の死んだときに葬儀委員長をつとめた川端康成は、林芙美子は自身の文学的生命のためにひどいことをしたことがあるが許してやってくれと、通夜の挨拶で言ったという。
ところが、正式の儀式が終わったあとに近所のおかみさんたちが100円の香典をもって続々と弔問に駆けつけて参列者を驚かせたそうだ。文士仲間にどういう迷惑をかけたのかは「出版界、とくに女性作家で、彼女のわがままや意地悪に悩まされなかったものはまれだった」としか書かれていないけれど、文士に嫌われたとしてもおかみさんたちに愛されたのだとすれば、すくなくともその逆よりはずっといいじゃないかとぼくは思う。
 「古里をもたない」と放浪記に書いた林は拘束としての古里から自由だったように、モラルという古里からも自由に生き恋愛をしたが、こうして支持してくれた「庶民」の存在とこの家によって自身の「古里」をつくったと関川は言い、林芙美子がつくりあげた家に見られる「『庶民の力量』にただ感嘆するのみであった。」と続けているが、それは日本がかつて持っていた文化の力であり、その文化は庶民に支えられていたということなのだ。しかし、その力量と眼力はいまやことごとくブランドの吸引力に吸い込まれて、うしなわれてしまおうとしている。

■追記
 この新聞のおかげですてきなことがあったと、杏奴ママが教えてくれた。
 新聞が出たあと、店に女の人から電話がかかってきた。
「店の名からすると鴎外の娘の杏奴と何かのご縁があるんでしょうか」とたずねられた。
かつてぼくが同じ質問をしたときと同じように
鴎外の小説が好きだがとりわけ縁があるわけではないけれど、杏奴という名前が好きなので使わせてもらったと答えたのだろう。
「じつは私の母は鴎外の次女・杏奴なので、新聞を見てご縁があるのかと思い電話をかけてみたくなったのです」
いずれ、いちど店を訪ねてみたいと言って電話を切ったという。
・有名な話だが、森鴎外は自分の子供たちにすべてヨーロッパ風の名前をつけた
 長男・於菟、長女・茉莉、次女・杏奴、次男・不律、三男・類

■関連エントリー
1)カフェ杏奴:こだわりのないということ
2)「住む」夏号・小さな平屋
3)林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館

 

投稿者 玉井一匡 : 01:49 AM | コメント (6)

June 23, 2008

ゲリラガーデニング:Guerrilla Gardening

GuerrillaGardening5S.jpgClick to PopuP
 イギリスにGuerrilla Gardeningという活動をしているやつらがいると聞いた。
近頃ではゲリラという言葉が使われることさえめっきり少なくなったので、ぼくは言葉だけで深い好感と共感をいだいてしまった。昨今、マスコミが反政府ゲリラと呼ぶことも記憶にない。たいていは武装勢力といい、テロリストと呼び、それだけで暴力的で反社会的・犯罪的な存在であるように感じさせようとしている。かつて、ゲバラやカストロやホーチミンのように、ヒーローに使われたことばが犯罪者のためのものに置きかえられるようなった。
 それは、かつてのヒトラーとはちがって権力者の力の行使が巧妙になったからでもあり、直接にはかかわりのない市民を巻き添えにすることに、ゲリラが潔癖でなくなったからでもある。おそらくはマスコミが現在の権力者の流す情報を鵜呑みにするようになった怠慢のせいでもあるんだろう。
では、このゲリラガーデニングとははどういう行為なのか。

GuerrillaGardeningS.jpgClickToJumpToThisSite
 Googleで「Gardening Guerrilla」を検索してみると Guerrilla Gardening.ORGというサイトがある。
イギリスで活動している、すこぶる平和的なゲリラなのだ。放置されている公共用地を、夜陰に乗じて勝手に草を取ったり植栽したりしてしまうという。このサイトには、さまざまな活動(彼らはMissionと呼んでいるようだ)が報告されている。文章に加えて「BEFORE」と「AFTER」の写真もある。もちろん、このサイトからコミュニティへ(Community)への登録申し込み(Enlist)もできる。

 冒頭の「Welcome」は、こんなふうに書かれている。・・・なんといってもゲリラだ。戦闘的な文章にしておいた。
「このブログは、ロンドン周辺でわれらが企てた非合法の造園行為を記録すべく始めたものだ。
だが、それが見る間に拡がり深まりを見せるようになった現在、このサイトは公共空間をないがしろにする怠慢に戦いを挑むための武器庫(arsenal)と化した。のみならず、いまや世界中のゲリラガーデナーの集結する場となった。
 諸君!  同志として誓いをたてこの広場に集い、園芸戦の第一線から届けられる熱い報らせを分かち合おうではないか。」
・・・アーセナルはサッカーのクラブチーム・アーセナルFCが本拠地としているロンドン北部の地名であることは知っていたが、それが「武器庫」を意味することをぼくは知らなかった。
アーセナルのサッカーが攻撃的な人材が豊富なわけだ。

 たとえば、現在のところ一番はじめに書かれているMissionの例を見ると、冒頭に二つのデータがかかれている。行動の形式と場所、決行の年月日だ。
Maintanance Mission : Albert Embankment
Guerrilla Gardening:saturday31May 08
ここでは、ひとつひとつの行動をMissionと呼んでいる。テムズ川をはさんで国会議事堂の向かいの道路にある植え込みが雑草に覆われていて、いずれは植え込みそのものがつぶされてしまうのは必定というありさまだった。時は昼間とあって、役所の工事担当者に見えるようグリーンのつなぎを身につけて草刈りをしたら、すぐに見つけられてしまった。が、さいわいなことに彼女は彼らのシンパだったので、むしろトウモロコシとひまわりの種を寄付してくれることになった。・・・なんてことが書いてある。

 日本でも植え込みの管理をすべき自治体がろくに手入れをしないところがある。そんなことなら、その前に住む住民に依頼して植物の手入れをしてもらうことにすればいいものを、見るにみかねてその前にある店が自分で植栽をしていると、ある日、やってきたひとびとが違法行為であるとして植栽を撤去してしまったと聞いたことがある。ゲリラは、そうですかといって撤去されたら、また植えてしまえばいいのだ。植物はいつのまにか伸びるものだ。
 道路のアスファルトの割れ目、排水溝のコンクリートとアスファルトの隙間に花をつける三時花(サンジカ)なども、植物自身が行うゲリラ戦の一形態だとぼくは思う。
ゲリラ活動をまじめに考えれば、植えた植物のその後の手入れはどうするのだ、やたらにはびこるような植物はまずいだろう、なんてことも心配しなければならないところはあるが、こいつは面白い活動だ。国・都道府県・市町村の公共事業は必要か否かに関わりなく、むしろ金を使うこと自体を、隠れたしかし第一の動機としているものが少なくないのは周知の事実だ。それがおよぼすマイナスの効果に戦いを挑み、あちらこちらでまちを気持ちよいものにするためのさまざまな戦い方が、ガーデニングにかぎらず、たくさんあるのではないかと考えさせてくれる。

■参考のために
GuerrillaGardeningBook.jpg「ON GUERRILLA GARDENING」という本がある。Guerrilla Gardening.ORGに紹介されているのをぼくはまだ見てもいないが、副題に「境界なきガーデニングのハンドブック」という副題があって内容は容易に想像される。Guerrilla Gardening.ORGでつくったものだ。

・ゲリラ:Wikipediaによれば、ゲリラの語源はスペイン語だと書かれている。フランス語のGguerreからきているのだとぼくは思っていたのだが。
・レジスタンス:じゃあ、Wikipediaでは「レジスタンス」をどう書いているのだろうかと気になった。電気抵抗などから始まって、「レジスタンス運動」についてはすこぶるあっさり3行ほどですませている。じゃあ、フランス語版ならくわしいだろうと思って、「他の言語」から「Francais」を選んでみたが、「Conflit politique et résistance」は2行にしかならない。英語でもそうなのだ。どういうわけなんだろうか。

投稿者 玉井一匡 : 02:27 AM | コメント (21)

June 02, 2008

カフェ杏奴 の LOVE GARDEN カップ

CafeAnneLGcupS.jpgClick to Jump Kai-Wai散策
カフェ杏奴に行った。
「お砂糖入りのチャイですね」
「もちろん」
しばらくしてLOVEGARDENのカップが登場。デジカメが故障したので携帯電話を取り出す。
「時差ボケ東京をならべますか?」
「いや、チャイをこぼすといけないから、これだけ」
「時差ボケ」は、PHOTOSHOPで追加しよう。
案の定、ソーサーにはチャイがこぼれた。たっぷりとカップに注がれているからでもあり、早く飲みたいばかりにいそいでしまうからでもある。
めずらしくカフェ杏奴は満員に近い盛況で、新しいお客さんがくるたびに「少しお待たせしますが、よろしいですか?」と念を押している。牡丹で名高い薬王院施餓鬼が行われたからだそうだ。
Chinchiko-Papaが先客で、いのうえさん、それにカークさんも現れた。もちろん、この3人は施餓鬼とはなんの関係もない。
masaさんのサイン入りの「時差ボケ東京」が話題の中心なのは言うまでもない。カークさんは「こういうのは、今までになかったよね、木村伊兵衛賞じゃないの」なんて言ってしまった。もし、本当にそうなったらすばらしい。
 ぼくたちが本を脇に置くと、隣のテーブルについていたお客さんが「それ、よろしいですか」とおっしゃるので、どうぞどうぞと手渡した。いのうえさんたちが「先生」とよぶこのひとは、国家の定義によれば「後期高齢者」と呼ばれるだろうが深紅のTシャツを身につけて、1/3ほどの年齢の女のひとと一緒だ。

 興味深げに本を開きながら二人の会話が進んでいるので、しばらくしてぼくは説明を加えてあげたくなってテーブルを移動した。
「メガネがないんでよく見えないけれど、止まっているのはこれだな」
と、ページを開いて指でさしておっしゃる。
「われわれは、こういう風にまちをみているんだなあ」
先生は、masaさんが聞いたら涙を流しそうな反応を返された。お年寄りも子供も、女も男も、面白いと思ってみられる写真。コーヒーを飲み忘れてしまいそうだったから、コーヒー冷えますよと余計なお節介までしてしまった。

 ここはかもめ食堂みたいですねとカークさんに言われて、ぼくははじめてそう気づいた。店の外で記念撮影をしたあと、うれしそうに店に入ってきた若いご婦人の二人連れがあった。ママに話している会話が流れてくる。ふたりは姉妹で、妹さんの名前が「杏奴」なのだが、いままで同じ名前の人に会ったことが一度もないのに、インターネットで「カフェ杏奴」という名を見つけた。それがうれしくて、横浜から来たんですという。ぼくも、初めてこの店に来たときのことを思い出した。
 鹿児島の出身だときいたから「カフェ杏奴のイラストを描いた小野寺さんという人の仲間の『かごしま食楽彩菜』というブログが、鹿児島の食べ物のことを書いていらっしゃるのですが、いつもとてもおいしそうなんですよ」と言ってブログ名のメモを書いてあげた。「ONE DAY」「お江戸から芝朝緑豆」を加えたのは言うまでもない。しまった、「レイコさんの食卓から」だった。

最後に、KARAKARA-FACTORYの野澤さんと杏奴ノオトで交信した。今のノオトはmasaさんが寄付したもので、それまではいわゆる大学ノートだったが、かのモールスキンをプレゼントしたのでちょっと緊張を求められるのだろうか、だれもが丁寧に書くようになったようだ。帰りがけ、中井の駅の近くの花屋でブライダルベールひと鉢が500円というお買い得をレジにもっていったら、日曜ですからこれをサービスといって、店の主が淡い黄色のバラを5本くれた。バラの方がずっと高そうだ。といっても、あるじは見目麗しい女主人ではない。むしろむさ苦しい男子だったと言わねばならない。


■カークさん(山田馨さん)の写真展が開かれます
 カークさんは、4月にカフェ杏奴で開かれたioraのライブの写真をいのうえさんに届けるため、この日、杏奴にいらしたのでした。
上にもリンクしてありますが、カークさんのブログを開くと、どんな写真を撮っていらっしゃるか見ることができます。
 ・期 間 :6月30日から7月5日まで(日曜休館)
 ・会 場 :銀座のギャラリー「ツープラス」/ここは、以前にneonさんの個展も開かれたところです。
 ・ウェブサイト:詳しくはこちらをお開きください

■関連エントリー
「ONE DAY」:つながるつながる・ひろがるひろがる「レイコさんの食卓」

投稿者 玉井一匡 : 07:49 AM | コメント (33)

May 23, 2008

来た来た・・・「時差ボケ東京」だって

JisabokeTokyo.jpgClick to Jump 「時差ボケ東京」/村田賢比古/3,600円
ずいぶん待たせてくれたが、とうとうmasaさんの写真集ができた。22日の午後にできるときいていたから、どうしたろうと気になっていた。
そういえば、kai-wai散策に何か書いてあるんじゃないかと思って開いてみると、案の定。  出ているではないか。「masa」でなく、「村田賢比古」になっている。

 なにやら仕掛けのある写真なんだと聞いていたが、歩いている人間だけにピントが合っていて、背景も前景も、人間と同じくらいの距離にあるものもボケていて、杉本博司のサヴォア邸のようだ。が、画像の後処理は一切やっていないという。・・・なるほど・・・マネをされる危険を防ぐために、経済的な危険の大きい自費出版に踏み切ったのも納得する。
と、夜半に書きかけているうちに眠ってしまった。

朝になって、寝ボケ眼でもう一度写真を見る。背景から人間たちが湧いて出てきたように見える。どうやって撮ったのか、まだ、ぼくにはわからない。本人に聞こうとも思わない。とても楽しい不思議な写真だが、なぜなのだろう?

エントリーの中で、masaさんは「海馬」について書いている。ぼくたちは外界を見ているとき、意識を向けているものしか見えないし聞こえない、記憶に残らない。ふつうに写真をとったように何もかも公平に見ているわけではない。この本(海馬)には、海馬はぼくたちの脳に入ってくる情報の取捨選択を、つまり情報の編集と加工をするのだということも書かれていた。表紙の写真は、ぼくたちの脳の中を撮ったようなものだ。脳の中を見ているわけだ。

はやく他のページもみたい!品不足を心配しなきゃならないかもしれないぞ、masaさん。コメントを書けないようにしているのもいい。ぼくたち、自分のブログで、急いで書きたくなってしまうから、自動的に同時多発エントリーになってしまうもの。

投稿者 玉井一匡 : 01:50 AM | コメント (4)

April 18, 2008

伊東屋のアイコン:クリップと月球儀

GemClipS.jpgClick to PopuP

 鉛筆、消しゴム、パステル、定規、ハサミ・・・たくさんの種類の文具がMacの中に置き換えられるようになって二十有余年。そうしてMacを愛しているにもかかわらず、ぼくたちは自分の手で書いたり切ったりする道具のことを大好きだと、いまも想いつづけている。そういう時代にあって文具をあつかう店の「看板」として何を選ぶかというのは、当事者にとってはなかなか大変な、はたからすればとても興味深いことだ。伊東屋は、それにジェムクリップを選んだらしいと、つい最近になって気づいた。

 先日、銀座の伊東屋に行ったとき、スワンタッチといっしょに、もうひとつ買ったのが赤い大きなジェムクリップだった。ひとつ350円は、クリップとしてはとても高いかもしれない。しかし、ぼくはネクタイピンとして使おうと思ったから、そう考えればとても安いということになる。かつて、クロムメッキのジェムクリップの大きいやつをタイピンにしていたことがあるのだけれど、ほどよい大きさのやつがない。これでも少し小さいしバネが強すぎるけれど、伊東屋のアイコンでもあるから、間に合わせでやっているとは思わせないところがある。

MoonGlobeS.jpgClick to PopuP
 うちの事務所には小物の文具をいれておく3段の小さな引き出しがある。ぼくはそれを「書く」「切る」「つなぐ」の3種類に分類した。ほんとうはもうひとつ「測る」の引き出しがほしいのだが、測った結果はぼくのメモリーのどこかに書き込むわけだから、それは「書く」に入れることにする。そうすれば、おおかたの文具はこの3つの分類のどれかにおさまるのだ。ふつうのジェムクリップは、「つなぐ」のひきだしに入れてある。
文具屋のアイコンを決めるにあたって、伊東屋は「つなぐ」ということを大切にしたいと考えたのだろう。それは、とてもすてきなことだと思う。しかし、ぼくの個人的な思い出としては月球儀が伊東屋のアイコンで、ぼくを伊東屋につないでくれるのだ。

 ぼくたちの学生だった時代、宇宙船によって月の裏側が見えるようになったので月は大きな関心の対象だった。だからだろう、銀座伊東屋の地球儀を置いてあるコーナーに「月球儀」というのが置かれるようになった。それにはひとつ、地球儀とはちがうところがあった。固定する軸がなくプラスティック製の円筒の上にスイカのように載せられているだけだった。
もちろん、それを手に取って見たのだが、ぼくは手に汗をかく質なので、ツルリと手から離れて地球の引力に負けた。拾い上げると、当然のように大きくひびが入っている。たしか2万円以上だったから、持ち合わせなどあるはずもないけれど、レジの近くに年配の男の人がいたので、それを持っていって謝った。
 すると、「固定していないので気をつけてくださいということを表示していなかったのは私どもの手落ちです。けっこうです。」と言ってくれた。以来、ぼくは伊東屋に恩を感じ続けている。だから、ぼくにとって個人的な伊東屋のアイコンは、いつまでも月球儀なのだ。先日、その置き場を見てみると、あのときと同じコーナーに、やはりプラスティックの低い円筒の台に月球儀は載っていた。しかし、いまでも、落とさないようにという注意書きはない。

 ぼくは一年のうち350日前後をジーンズですごすのだが、それにワイシャツとネクタイといういでたちが好きなのだ。
しかし、扇情的な口紅のような赤い色のクリップは、どのネクタイに合うだろうと考えると、なかなかむずかしい。

投稿者 玉井一匡 : 11:12 AM | コメント (6)

March 30, 2008

「住む。」 春号:「ひと と いえ と まち と」

Sumu2008S.jpgClick to PopuPSumuSpring2008.jpg

 先週末に、「住む。」2008年 春号が届いた。
「住む。」のタイトルは動詞である。丁寧に句点までつけてある。いうまでもないが、動詞をタイトルとして選んだのは、住宅を器そのものでなく、そこに容れられているものの側から、その器とのかかわりを考えるという立場をとろうとしているからだろう。器の中味つまり人間の生活についてなら、建築やデザインについての専門知識がなくても、意識をもって生活する人ならだれでも参加できる。
「住む。」2008年 春号の特集は「収納・自在に考える」だ。器と生活のあいだにあるモノたちといっしょにどう暮らすかということだが、小特集「こどもたちに」の一部として「ひと と いえ と まち と」という絵本形式のものを掲載してくださった。この小特集は、生活と器の間にいるこどもたちと一緒にどう暮らすかということなのかもしれない。
 以前に、ぼくたちは「かきの木通り」という20戸に満たないほどのちいさなまちづくりの計画をした。その土地には、かつて畑や庭と住宅が一軒あった。そこに新しい住人が住むようになってから、今年で4年ほどになる。8戸のいえが生活をはじめた段階で管理組合が発足したときに、ぼくは「かきの木通りのこどもたちへ」という絵本形式のものをつくって、それぞれのいえにお渡しした。いえという器にこもらずに、もっとひろく生活することを考えようということを伝えようとしたのだった。
 「住む。」の「ひと と いえ と まち と」は、その文章の一部を変えてあらたにプロのイラストレーターの手による絵が加えられた。それによって、普遍的な内容を持つ、ずっと素敵な絵本になった。

 かきの木通りでは、法的な拘束力のある制度をつかって具体的なルールをつくり建物などのありかたに制限をもうけた。それぞれのいえは少し制限をうけるところもあるけれど、それによって、まちはむしろ住みごこちがよくなる。まちがよくなれば、めぐりめぐって自分のいえも気持ちよく住むことができる。ちいさなコミュニティのよさのひとつは、たがいによく知っているので、そういうことを実感しやすいことだ。
 とはいえ、自分の外にある規則を守ることを求められると、ぼく自身そうだが、その範囲でできるだけ多くのものを手に入れないと損をするような気分になりがちだ。だとすれば、法的な力のない約束ごとがあれば、かえって自発的にそれに沿った暮らし方をえらぶという気持ちになるのではないか。
 建物の中だけが自分のいえではないし、敷地の中だけが自分の場所ではない、もっとひろく自分の場所があると考えた方が、じつはもっとゆたかに気持ちよく暮らすことができる。そういうまちをつくって育ててゆくということを、このまちに住む子供たちに約束する、という絵本をつくろうと思った。このブログのテーマにしているMyPlaceの考え方を絵本にしたものでもある。「ひと と いえ と まち と」は、aki's STOCKTAKINGに紹介して下さったように、つぎのような章立てで構成されている。
 ・曲がりかどには樹が
 ・小道のすきまには草花が
 ・いえといえの間には
 ・古いレンガの塀
 ・このまちのまわりには
 ・きみのいる場所

 Sumu2006AkiFrt.jpgCnfort2007-10.jpg「住む。」2006年 秋号は「小屋の贅沢」という特集だったので、「小屋新聞」というコーナーの1ページで「タイニー・ハウス」について書いて欲しいと注文された。ぼくは「タイニーハウス・ゲーム」というタイトルで、小さいいえだからこそ素敵なことがあるということを書いたのだが、そのときに編集長の山田さんから「かきの木通りのこどもたちへ」のように子供のために書くという形式にしたらいいのではないかと提案された。「かきの木通りのこどもたちへ」は、住民のためにつくったものだから、それまで、ほかの人には見せたことがなかったのだが、こんなものがあるんだと山田さんにお見せしたことがあったからだ。

 もうひとつ、「コンフォルト」の2007年10月号に、かきの木通りのことを取り上げていただいた。「うちの庭は隣の庭」というタイトルで、こちらは具体的に、かきの木通りの状況を写真で伝えてくださった。
 このごろでは、いなかでも珍しいことだが、天気のいい日には子供たちが外に出てきて歩行者のための遊歩道で遊んでいる。どこかのお父さんがよそのうちのボウズを呼び捨てにしている。ヘビがいたよなんてことを知らせるために、よその子たちが呼び鈴をならしてやってくる。レンガの塀を見て生活したいからといって北向きにいえを建てたひとがいる。まちは、以前からそこにあったモノたちやこどもたちやのおかげで、徐々に自在につながってきているようだ。
 「住む。」と「コンフォルト」という、別の時期に発行された別の雑誌がブログによってひとつにつながって、「かきの木通り」のありかたとMyPlaceという考えかたが分かりやすくなるのだとすれば、これはインターネットらしいことだなと、楽しくなった。

KakiFront.jpg「かきの木通りのこどもたちへ」は、ここに住むおとなたちが、子供たちに気持ちのよいまちを残すことを約束するという形式の絵本だ。「ひと と いえ と まち と」との形式の大きなちがいは、イラストでなく生活をはじめて間もない頃の写真を使っていることだ。それに対応する文章を見開きで向き合わせるというレイアウトで、末尾にあげた7つの項目と見開きのマップで構成されている。「住む。」の「ひと と いえ と まち と」は、実物の本で読んでいただくことができるが、(お買い得の充実号です)「かきの木通りのこどもたちへ」は他に読むすべがないので、目次に見開きのページをリンクさせて、見ることができるようにしました。見なおすとあちらこちらに直したいところもあるのだが、資料としてそのままにしておきます。
 ・大通りの曲がり角には木が立っている
 ・いえのあいだには小道がある
 ・かきの木通りのいえにはには塀がない
 ・かきの木通りのまちにはレンガの塀がある
 ・かきの木通りには鳥たちがやってくる
 ・かきの木通りの西側にはひろい道がある
 ・早通のまわりには海のように田んぼがつづいている
 ・地図
 ・きみたちに誓うこと ・約束
 ・わたしの場所・あなたの場所

関連エントリー
季刊「住 む。」春号No.25/aki's STOCKTAKING
季刊“住む”を購入/藍blog
タイニーハウス/MyPlace
「住む。」 秋号:タイニーハウス・ゲーム/MyPlace
ヤマカガシ/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 05:30 PM | コメント (14)

March 10, 2008

Hopper's Places' Place

AnneHopperS.jpgClick to PopuP
日曜日の閉店間際のカフェ杏奴に寄った。
nOzさんがメールを下さった。「僕らはきのう、杏奴にこっそり本を置いてきました。もちろんママさんには了解を得てあるから、ホントにこっそりではないんだけれど。」というので、その「杏奴でニヤリ作戦」の首尾を、そしてその本を見たかったからだ。平日には営業時間に行くのがなかなか難しくて、土曜日の事務所への行き帰りか日曜日になってしまう。それが、日曜の閉店間際になった。
「いま、いのうえさんがお帰りになったところです」
いのうえさんとはすれ違いが多いのだ。
窓際の席についてMacBookを開いたらつながって、ちゃーんとKARAKARA-factoryが見られる。
「コメントを書いたらnOzさんよろこぶよ」と言ったが
「いままで、休みの時にネットカフェでブログを読むだけで、キーボードで入力できないからコメントも書いたことがないんです」
ぼくがタイピストになって口述筆記で、KARAKARA-factoryにコメントを書きこんだ。
「へーえ、じゃあ今、これをむこうで読めるんですね」
という感動がぼくにも伝染する。

nOzさんのHOPPER'S PLACESという本は、エドワード・ホッパーの絵描いた風景画とそれを描いた場所を同じ視点から撮った写真を並列してあって比較しながら見られるのがとても楽しい。AKIさんも注文して、もう届いたそうだが、ぼくもほしくなってしまった。いのうえさんの本はハードカバーでこれはペーパーバックスの第二版らしい。カフェ杏奴の空気には、ホッパーの描くアメリカの、都会でない風景が合うようだ。
「今とむかし廣重名所江戸百景帖」(暮らしの手帖刊)という本をぼくも持っている。広重の描いた江戸と現在の、といっても今ではもう20年ほど経ってしまいいたのだが、それを見ると東京は、すっかりしかもつまらない方向に変わってしまっている。大都市と小さなまちの違いはあるにしても、大量消費をぼくたちに植え付けたはずのアメリカは、東京とくらべればむかしと変わらない風景を残している。

 杏奴ママが画面をのぞき込んでいるところをMacBookがPHOTO BOOTHで撮った。
「まさかあの写真を載せるんじゃないでしょうね」
「もちろん、のせますよ」と言ったのだが
Photoshopですこし加工しておこう

投稿者 玉井一匡 : 01:00 PM | コメント (6)

February 17, 2008

ラオスの路上で乾杯

LaosKajima1S.jpgClick to PopuP

「写真は昨晩、タクシー運転手やセタパレスの従業員の女性と知り合い、地元の飲み屋でしたたかビアラオを飲みました。ちょうど中国の正月でセタパレスの先の広場では屋台が出て、かなり大きなセレモニーでした。」と、メールにあった。
このところ一日おきくらいに写真入りのメールがラオスから届く。おそらくはじめの一日目だけ日本からホテルに予約を入れておいて、あとは行き先もホテルも乗り物も、気分と様子によってなりゆきにゆだねる。奥さんもいっしょなので日本で余計な心配をする人もいない気ままな旅。
 到着した日の夕方に、もうタクシーの運転手たちとすっかり意気投合してこんなぐあいなのだ。サッカーが得意ならボールひとつあればどこの国に行ってもすぐに仲良くなれるとか、楽器があればたちどころに友達だなんていうが、ビールで乾杯すればもう仲間というのも、呑めない人間にしれみればうらやましい。でも、だれでも持っているものがある。

 ラオスはよさそうなので行ってみたいのだが、どうだろうかと相談を受けた。年末に東京にいらしたときにMacの画面でぼくの撮った写真をお見せして、あれやこれや、ひとは穏やかでメシはうまい、単なる経済指標では貧しい国ということになっているそうだが、むしろゆたかな生活だとぼくは思うというような話をした。それで、やはり行きたいということになった。後日、コンピューターを持って行ったほうがいいだろうかというメールをいただいたので、ぼくはいつも持って行ってメールのチェックをしたりブログに書き込んだり読んだりするんだと返信した。その結果、上の写真のような具合になり、その様子が翌日にはぼくのところに送られてきたというわけだ。

 南国では、どこでも食いものやのテーブルが屋外にまでふくらんでいる。高級な店では、それが庭のテラスであるし、安くて気楽な店では道路であり、メコンに張り出したデッキであるという違いはあれ、食って呑んでという楽しさが、外にこぼれだしているから、通りがかりの人間もそれを分かち合うことができる。もちろん、こういう店にはエアコンなんかないけれど、木蔭がある。そこに、おだやかでひとなつっこいラオスのひとたちがいて盛り上がっていれば、こちらに「おお、やってますね」となかよくする気さえあればいいのだ。それに、こちらはグループではないから、むこうも声をかけてくれる。
 それでも、道ばたの店じゃ店員だって客だって、英語なんか通じないだろうにどうやったんだろうかと気になった。しかし、メールにはセタパレスにつとめる女の人がいたと書いてある。セタパレスというのは、ビエンチャンで一番の高級で気もちのいいホテルだ。そういうところで働いているひとなら、英語くらいは話してくれるだろうし、タクシーの運転手も少しはしゃべってくれるというわけだろう。
 旅の主人公、加嶋さんがはじめの一日だけ予約されたホテルは、そのセタパレスのすぐ近くのDAY INNという、小さくてきもちのいいホテルだ。ぼくは、そのホテルの前で道路の側溝に落ちたことがある。

LaosJiroS.jpgClick to PopuP
 メールには、奥さんがこんなことも書き加えてくださった。「こんにちは。昨日は、マーケットでかえるの唐揚げを食べて、夜は川村さんの事務所近くの飲み屋さんでジロウを食べました。(ラオス名物ジロウをご存知ですか?念のため申しますが、こうろぎです。)どちらもなかなか美味でした。塚原さんには内緒にしてください。でも、それからメコン沿いの屋台でラオスすき焼きを食べました。こちらもおいしかったです!ラオス料理は私たちにとても合いますね。好き勝手ばかりしています。ではまたご報告します。」
 ぼくもカエルは日本で食べたことがあるが、コオロギはまだ食べたことはない。一日目にして、ふたりはラオスを握ってしまったようだ。加嶋さんは長野県の駒ヶ根の住人だから、蜂の子なんぞで鍛えてあって、コオロギごときに臆することがないんだろう。信州もラオスも海がない。虫だって爬虫類だってわけへだてなくうまそうに見えちゃうのもあたりまえだ。もともとそういう厳しい暮らしをしていた人たちのところに、米軍はたくさんの爆弾を落としていった。北爆でラオスに落とされた爆弾はベトナム以上だったと言われている。
ほかの昆虫も食べるそうだが、たいていは唐揚げにするんだという。小エビや沢ガニを唐揚げにするようなものだろう。小型の甲殻類を食べるときの、世界共通の王道なのかもしれない。日本には、佃煮という手がもうひとつあるが。

beerlao-lager.jpgClick to JumP 上の写真の届いた翌日、加嶋夫妻は、もうビエンチャンを出発してルアンパバンに飛んだ。ちょうど旧正月にぶつかったので、DAY INNでは翌日の部屋が取れなかったので行ってしまうことにしたようだ。行きはバスで、帰りは飛行機にするという予定だったが、やはり旧正月とあってバスも混んでいるのだろう、行きは飛行機になったらしい。だから、このメールはルアンパバンから送られた。したたかにビアラオを飲んだというあとでは、さすがにホテルに戻ってメールを書くわけには行かなかったのだろう。
ビアラオとは、ラオスで唯一のビールのブランドの名だ。残念ながらぼくには分からないが、うまいビールだとみんなが言う、メコンに沈む夕日を見ながらのビアラオは格別なんだと。ビールを飲まなくても、メコンに沈む夕日は格別ではある。ビエンチャンのところで、メコンは大きく西に折れているので、対岸というより下流の水面に日が沈んでいく。

 旅がはじまって数日して、ブログに書いてもいいだろうかと書いたら、まったくかまわないと返事をいただいたので、タイムラグのあるエントリーになったけれど、書きたいことが沢山あってきりがない。

■追記 0218'08:今朝届いたメールでジロウの写真が送られてきたので、さっそく写真を追加しました。

投稿者 玉井一匡 : 08:34 AM | コメント (31)

February 11, 2008

オン・ザ・ロード

OnTheRoad.jpg「オン・ザ・ロード」/ジャック・ケルアック著/青山南訳/河出書房新社/2800円

 ぼくは手に汗をかくたちなのですぐに本を汚してしまう。持ち歩くときに表紙が、読む間にはページの下と縦の端がよごれる。だから、読んでいるあいだは表紙の上からもう一枚カバーをかける。単行本は大きさも厚さもまちまちだからA3のコピー用紙をつかう。せっかくなら読んでいる本のデザインを持ってたいから表紙をA3の紙にコピーする。白黒コピーだからその上に色鉛筆で記号のように色を加える。あるいはamazonから取り込んだ表紙の写真をカラーでプリントする。
 「オン・ザ・ロード」の装丁はうつくしい。ターコイズブルーの一歩手前の明るいブルーにタイトルと著者・翻訳者の名前があるだけのシンプルな表紙カバーでつつまれている。さらに藤原新也の写真の腰巻きが加わる。色だけの表紙をきれいにプリントすることはできないからA3の白紙をカバーにしていたが、もの足りなくて外してしまった。

 若者が主人公のこの小説は、かつて「路上」というタイトルだった。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」とともに、学生時代の旧友であるような気がする。高校までぼくは地理という学科がきらいで、地理的な概念というものにもあまり興味をもたず、今にしてみればずいぶん損をしたものだが、そういう地理嫌いをすっかり洗い流してくれた。

 復員兵を支援する制度で大学に行き文学を志す若者サル・パラダイスが、友人ディーン・モリアーティーと一緒に何度も旅に出て、1950年前後のアメリカを縦横無尽に走り回る。ニュージャージー、ニューヨーク、シカゴ、デンバー、サンフランシスコ、ニューオリンズ、メキシコシティ。ドラッグを人間にしたようなディーンと二人で、狂気に駆られるようにクルマにムチを入れ、自分とクルマの限度を超えてもなお酷使する。ときに自分の車、あるいは友人に借りたクルマ、陸送を引き受けたキャディラック、盗んだ車。前に読んだときにはディーンの強烈な毒も元気の素になったが、今度は、おいおい、そこまでやるのかと心配になる。40年近くも経てば、こちらは大人になってしまう。ちなみに、アレン・ギンズバーグが、カーロ・マルクスという名前で登場している。

 その間にぼくたちもいろいろなことが見えるようになった。AKIさんにお借りした「パソコン創世記・第三の神話」を読みはじめると、このON THE ROADについて触れているところがあった。パーソナルコンピューターの草創期は、サル・パラダイスことジャック・ケルアックたちがアメリカ中を走り続けていた頃とちょうど重なっているのだ。可能性の限界までクルマを走らせ、ホーボーや黒人、メキシコ人たちの世界に飛び込むことで日常の枠の外、感性と身体の限界のむこうに何があるかを知ろうとしていたビートジェネレーションの若者は、コンピューターに人間の能力を拡大してくれる能力を夢見る若者と、世界を共有していたのだろう。ボブ・ディランが「ON THE ROAD」から大きな影響を受け、スティーブ・ジョブズがボブ・ディランの大のファンだというのも、そんなつながりがあるのかもしれない。

Click to PopuP この新訳では、巻頭に見開きでアメリカの地図が加えられてずいぶん親切になったのだが、ぼくはもっとくわしい地図を見ながら読むために地図を一枚コピーしてたたみ栞にして、さらにMacでGoogleマップを開いていた。
すいぶん読み進んでから、A3の紙に地図をプリントアウトして表紙カバーにすればいいじゃないかと思いついた。
Googleマップのアメリカが画面の左右いっぱいに入る大きさにしてプリントアウトした。彼らの移動の拠点のひとつデンバーの下に「ON THE ROAD Jack Querouac Tamai Kazoumasa」と打ち込んでぼくの名前もケルアックのようにフランス風のスペルにして、やっと満足すべき表紙カバーができた、と眺めていたら著者のスペルが間違っている。紙ももったいないからもうこれでいいことにした。

 この本の映画化権をF.コッポラが手に入れて、脚本を二度書かせたが気に入らない。で、「モーターサイクルダイアリーズ」の脚本家に依頼しているそうだ。どこをどんなふうに切り取るべきか難しいのだと著者の後書きにあるが、そりゃあそうだろうな。
インターネットの網を、自分たち自身が走り回っているようなものだから、それを2時間ほどのフィルムにまとめるのは容易なことじゃないだろう。

投稿者 玉井一匡 : 02:23 AM | コメント (8)

January 17, 2008

「20km歩き」と「川の地図辞典」

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 前回のエントリーを書いている途中で、なぜか後半部分が消えてしまった。それを書き直すと、ちょっと長くなりすぎたので別にエントリーすることにします。

 次女が小学生のとき、夏休みの宿題に20キロ歩きというのがあった。どこでもいいから20km歩いて、そのレポートを提出するというものだ。何回かに分けて歩いてもいいのだが、ちょうどいい機会だから、ぼくは娘を誘導して近所を流れる妙正寺川づたいに海まで下ることにした。海まで歩いてみたいとは、前から思っていたことだった。町の中を歩くからお弁当ではなくて途中のホットドッグやかき氷などを約束した。小滝橋で神田川に合流して海までいくとおよそ20㎞になる。端数は寄り道して調整すればいい。

 わが家の夏休みの宿題の常として決行は8月も末になったが、たまたま前日にすこぶる強力な台風がやってきた。しかし当日はうって変わって雲ひとつない快晴のうえ、大雨が地盤を傷めたので総武線、中央線は運休、川底は水がさらってくれたので粗大ゴミが転がっているところなどない。おそらく何年に一度あるいは生涯に一度の美しい川のほとりを歩くことができたのだろう。前日より水量が減ったとはいえ、底のコンクリートを感じさせないくらいの深さはあった。
 恥ずかしながら、このときに歩いて、ぼくは神田川と隅田川の合流点が柳橋であることをはじめて知った。自宅の近くに2軒ほど江戸小紋という小さな表札を出している家があるが、それは妙正寺川が近く、布を晒すのに都合がいいからであることもこのときに知った。落合や早稲田のあたりにも染め物にかかわる家がいくつかあったから気づいたことだった。
 柳橋で隅田川沿いに右折して海にゆくはずだったが変更して左折、両国で橋を渡ってほぼ無人の江戸東京博物館をめぐり、浅草に行くと思いがけずその日はサンバカーニバルだったので気前のいい肌の露出にあずかった。稲荷町まで行ってもういちど雷門に戻り20kmを達成して天丼でゴールとなった。

 「川の地図辞典」を開いて、この川下りのあとを辿ってみると、p269-268から→ p87-86→ p101-100→ p23-22→ p39-38→ p123-122の雷門まで、この本の12ページ分にわたるのを確認して、ちょっとした満足を得る。

 このとき僕は川を知りたいと思うよりも、川をひとつの切り口に東京というまちを縦断することによって身体的に実感したいと思っていたのだが、川とまわりの地形は記憶に深く刻みこまれたらしい。その後、事務所を飯田橋に近い神楽坂に移したとき、自転車通勤のルートは自然に川沿いのみちをとることにした。それなら、きっと往きは下り一方にちがいないと思ったからだ。
しかし、走っているうちに川べりの道は歩行者優先や建物が際まであったりすることがわかった。さりとて表通りはクルマが多くて気持ちよく走れない。川からすこし離れて並走する道に落ち着いた。これは、落合から目白を経て江戸川橋につながる高台の足下を蛇行している。だから片側にはいつも高台が控え、そこへ登る坂道と交差する。

 地形が明確であるところ、構成が把握しやすいまちにいるのは、とて気持ちよいものだ。そして、まちには重層する時間や生活が感じられるほど味がある。この本は、地形や町の構成を把握するのに、そして時間を遡るのにも有能な相談相手になる。つまり、まちを気持ちよく面白くするためのいい道具なのだ。
もしも、この20km歩きの時に「川の地図辞典」を持っていたら、ぼくはどうしていただろうと考える。他の川との合流地点や神田上水にも寄り道をしたかもしれない。そして、隅田川に着いてからは、枝分かれする堀を探しただろう。それにあのころは池波正太郎もまだ読んでいない。もう一度、こんどは上流をすこし省略して、椿山荘の足下の水神社あたりから、花見を兼ねたころにでも歩いてみるか。

投稿者 玉井一匡 : 03:27 AM | コメント (18)

January 09, 2008

川の地図辞典 江戸・東京/23区編

KawanoChizujiten.jpg川の地図辞典 江戸・東京/23区編/菅原健二著/之潮(collegio)刊/3,800円+消費税

 現在の東京23区の白地図に川の位置を描きこんだものと、同じ場所の明治初期の地図をとなり合わせのページにならべた地図帳(アニメーションのように素早くページを繰れば残像を利用して比較しやすい)。それに、川ごとの説明が分かりやすく書かれている川の辞典という構成。だから「川の地図辞典」である。現代の地図は、国土地理院の二万五千分の一に、暗渠になったものも含めて川を分かりやすく書き加え、明治の地図は明治10年代の陸軍測量局によるものを使っている。

 ものごとを知るには、まったく逆の二つの方向がある。ひとつは、自分自身が直接に接する具体的な事柄から疑問をいだき、そこから普遍的な原理に至る方法。もうひとつは、まず普遍的な原理を知り、それを物差しにして具体的なものごとを理解してゆく方法だ。
この分け方で言えば、一見したところこの本は二つ目の方法をとっている。ただし、読者はひとつ目の方法をすでに身につけていることを前提にしているから、じつは二つの方法で攻めようというのだ。さらに、Google Earthの併用も考えているのかもしれない。この一冊で、川という要素を主要なツールとして東京23区の地形全体を表現しているのだ。原理を提供し、読者それぞれが具体的な接点を発見し書き加え肉付けしてゆく。
 ぼくは、小世界をポケットにいれるような、こういう本が大好きだ。たとえば日本野鳥図鑑であれば、鳥によって日本の全体を表現する、日本という世界のミニチュアを一冊の本にしてポケットにいれて運ぶことができるわけだ。広辞苑は持ちあるくのにはちょっと重いけれど、ことばという網で掬い上げた日本のミニチュア。つまり、「川の地図事典」は川という網で掬いとった東京都23区のミニチュアなのだ。

この本が、kai-wai散策の1月3日のエントリーで紹介されると、つぎつぎとコメントが増えていき、1月12日,15:46 現在で100を超えた。エントリーの前日、1月2日のkai-wai散策のエントリーへのコメントで、わきたさんがこの本のことを紹介されたことがそもそものはじまりだった。 
発行元・之潮(コレジオ)の代表の芳賀さんは、「川好きotoko」という名でコメントに加わり、つづいて「川好きonna」さんも登場して、ブログと本の世界がつながるべくしてつながった。それをつなげたのは、川とまちを歩くという現実世界での行動であることがとてもすてきなことだ。

追記
下記のブログで「川の地図辞典」についての「同時多発エントリー」をくわだてましたので、まだでしたらお読みください。
■masaさん:kai-wai散策:「川の地図辞典
■わきたけんいちさん :Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」:「『川の地図辞典』(菅原健二/著)
■M.Niijimaさん :Across the Street Sounds:「川の地図辞典
■じんた堂さん:東京クリップ:「フィールドワーク:尾根を行く川
■光代さん:My Favorite Things:「川の地図辞典」
■AKiさん:aki's STOCKTAKING:川の地図辞典
■IGAさん:MADCONNECTION:川の地図辞典-1

投稿者 玉井一匡 : 10:32 AM | コメント (10)

December 18, 2007

ストリートビュー:Googleマップを歩く

StreetViewSmall.jpgClick to Jump to the Street View

 ジャック・ケルアック「オン・ザロード」は、若者たちがクルマを走らせてアメリカ中を縦横無尽に移動する小説なので、地図を見ながら読むとはるかにおもしろい。だから脇にMacBookをおいてGoogleマップを開いた。すると、画面にあたらしいボタンが増えているのに気づいた。「ストリートビュー」と「渋滞状況」だ。これをクリックすると、Googleはまたしてもぼくの期待していた以上のものを提供してくれる。
地図、衛星写真、地形のどのモードでも、「ストリートビュー」のボタンをクリックすると地図の上にカメラのアイコンが出てくる。それが出ている都市で「ストリートビュー」を見られるということだ。

 この左上の小さな写真(これは、あえて間違ったDakota Houseのままにしてあります)をクリックすると、ところはニューヨーク。セントラルパークウェスト沿いのストリートビューに、かつてジョン・レノン家族が住みジョンが玄関の前で殺された「the Dakota」が見える。
はじめ、ぼくはこの通りのもう少し北のところにあるDakota Houseがジョン・レノン終焉の地だと思ってそこをリンクさせていた。ところが、漂泊のブロガーいのうえさんが、こんなメールをくださった。
「Aのダコタ・ハウスはジョン・レノンとは関係なく Iの ザ・ダコタ(1W 72nd St)が 彼の住居だと思います。いやあ まぎらわしいというかわかりにくいですねえ。1980年の12月はNYに住んで最初に迎えた冬。煌めくばかりのロックフェラーセンターとは裏腹に事件直後は深い悲しみに街が浸されました。」
とあったので、この通りを少し南に下ったところにあるThe Dakotaのストリートビューに跳ぶように変えた。

 ストリートビューの矢印をクリックすればその方向に進み、画面をドラッグすれば左右に方向を変える、そうやってぼくたちは自在に道を移動することができるのだ。

 ぼくは知らなかったけれど、インターネットで調べてみると、アメリカでは5月頃から見られたらしい。もしかすると、日本でももうとっくに見られたのかもしれない。ストリートビューは、こういうカメラで写真を撮ったのだそうだ。

  *  *  *  *
はじめからやるなら、つぎのような手順だ

・Googleマップを開く
・「ストリートビュー」のボタンをクリックする
・カメラのアイコンのある都市を選ぶ
・「ズームイン」すると、こけし型の人間のアイコンが一人立っている
・これをドラッグして行きたい場所に下ろす。Clickすると、そこに立って見る街路の写真が出てくる。(移動する間、このこけし型アイコンの脚は、空を飛んで風になびくようになる)
・画面をドラッグすれば前進後退も自由自在。右折左折もできる。ちょっとなら上を見あげることもできる
・矢印のアイコンをクリックすればその方向に少しずつ移動する。押し続ければ、ずーっと進み続ける。そのとき、地図も一緒にスクロールして、その上をこけしアイコンが移動していく
・「全画面表示」をClickすると、ディスプレイいっぱいに「ストリートビュー」が広がる

これができるのは、現在はアメリカの主要都市だけだが、すぐに世界中に広がるだろう。
そのつぎには、きっと建物の中に入っていけるようになるにちがいない。
まだまだGoogleはおもしろい。

*追記
 wikipediaで調べると、ジョンのすまいはダコタハウスではなく「ザ・ダコタ」The Dakotaだったことがわかる。バーチャルお上りさんたるぼくは、「ダコタハウス」でジョンが殺されたとばかり思い込んでいた。はずかしい!
いのうえさん、ありがとうございました。
いのうえさんは、かつてアメリカ勤務の時代にマンハッタンとニュージャージーのリッジウッドというまちに住んでいらしたことがあって、それについてメールをくださったことがある。そのときにぼくはアメリカ再読というエントリーをした。

*蛇足
 ジョン・レノンが殺されたのはアメリカ時間で12月8日、日本時間の12月8日は真珠湾攻撃が『成功」した日だ。しかし、アメリカ時間でいえば「Remember Pearl Harbour !」は12月7日。ぼくの誕生日は、もちろん日本時間で12月7日なのだ。遠回りの連想ゲームで、自分の誕生日の日付は真珠湾とジョンの死にリンクされている。

投稿者 玉井一匡 : 12:25 PM | コメント (18)

November 25, 2007

アンカレッジ空港の水上機

Click to FlyToAirport

 飛行艇の写真を載せて坂本宏明さんのラジコン飛行艇を紹介したAKiさんのエントリーを見て思い出したことがある。
Google Earthでアンカレッジ空港に行ってみると、その北東の一部あるいは北東のとなりに、面白いものがあると、いつだったか本間さんが教えてくれた。ナスカの地上絵のハチドリような複雑な形をした池があるのだ。この地図をクローズアップしてみると、さまざまな色をしたちいさな飛行機たちが池の周囲に羽を休めているのが見える。水面を飛び立とうとしているやつもいて、いまにも動き出しそうだ。ハチドリの翼のでこぼこのかたちは、水上飛行機のための桟橋のようなものらしい。
Google Earthなら 、61°10'46.44"N 149°58'26.67"W

「紅の翼」でポルコロッソが水上飛行機を着水させていたのは、海に面する小さな漁港のような湾だったと記憶しているけれど、水上機にしてみれば海よりも池の方が波もないから離着水しやすいだろうし、塩分で機体を傷めることも少ない。たしかに、こういう水面の方が水上飛行機には向いている。映画「インソムニア」でアル・パチーノが舞い降りたのも湖だったように思う。大きな水面は、均す必要も雑草を刈る必要もない天然の滑走路なのだと、あらためて気づいた。
AKiさんのエントリーを読むと、飛行艇ということばと水上飛行機ということばが書かれているのだが、どうちがうのだろう。と、思ってwikipediaを開いてみると、さすがに丁寧な説明がある。胴体で直接に水に浮かぶやつを飛行艇、フロートのついているのをフロート水上機といい、それを総称して水上飛行機というのだそうだ。ポルコロッソが乗っていたのはフロート水上機というのだ。(ぼくの記憶をたよりにこう書いたら、コメントでAKiさんが間違いを指摘してくださったので、最後に追記しました。)

英語版のwikipediaには、もっと説明がくわしい。飛行艇はflying boat、フロート機は float planeというようだ。Air Boat, Sea Plane, Amphibious Plane なんていうことばもある。Amphibianが両生類。Amphibiousはクルマで言えば水陸両用車、水上機の場合には車輪が出てきて地上でも離着陸できるやつのことだそうだ。しかし、飛行機にしてみれば車輪を胴体にしまい込むのはふつうのことだから、飛行艇は大部分がAmphibiousなのだろう。

たいていの少年は乗り物が大すきだ。それは、別の世界やべつの場所に行けるからだが、それにもまして、別の世界や状態に移るということそのものがすきなんだ。Amphibiousの飛行機は、水と陸と空という三つの世界を移動するのだから、少年にとっては、たまらない憧れののりものであるのはあたりまえだね。

*追記
秋山さんの指摘によれば「ポルコロッソが乗っているのが飛行艇で、敵役のカーチスがフロート水上機」が正解だそうだ。眠気にまけておこたってしまった裏付け検索をすると、紅の豚の水上機のプラモデルと、そのパッケージの写真があった。なるほど、翼のためのフロートはあるが、機体の本体が直かに水に浮いている。

投稿者 玉井一匡 : 01:34 PM | コメント (4)

October 04, 2007

Z-1グランプリ:直線109m雑巾がけレース

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先日の朝、NHKのテレビを見ていると、かつて朝ドラの主役を演じていた女優が木造の小学校の教室前とおぼしき廊下で雑巾がけをしていた。ひたすら長い一直線の廊下を全力疾走の雑巾がけの半ばにして彼女は力を失って転倒した。あれくらいのことでと、ぼくはその挫折を嗤っていたが、聞けばその廊下は全長109m。ただ走るだけでも僕は息絶えるかもしれないと、すぐさまみずからの軽率を恥じた。
 廊下は1間ほどの幅で、それと同じ長さの土間が、やはり1間の幅で建物の端から端まで続いている。引き違いのガラス戸が教室の両端にあって、その間は腰壁のうえにガラス入りの引き戸。廊下からは、そのガラス越しに教室の中が見える。教室から廊下が見えるという、かつての小学校の廊下の王道だ。それがひたすら一直線だから、登下校時には廊下にあふれる子供たちの豊穣を一望にすることができたのだ。
1.82×60=109.2。尺貫法でいえば60間だ。ひとクラス5間ずつの教室が一学年2教室ずつで、合計12教室がならぶということなのだろう。

 かつて宇和町小学校だった建物が、いまでは移築されて「宇和米博物館」(愛媛県西予市宇和町卯之町二丁目24番地)となっているのだという。このサイトには内外を360°回転して見られる写真があって、廊下の様子がよくわかる。GoogleMapで見れば、山を背後に控えたひたすら一直線がいかにも潔い。
蓮華王院三十三間堂の2倍もあろうかという長さ、サッカーのゴールからゴールまで走るより少し長い。

この廊下を使ったすてきな催しがある。
今年は10月14日に決勝が行われるZ-1グランプリ。Zは、いうまでもなく雑巾の頭文字だ。109mの雑巾がけのタイムレースで、参加者には専用の雑巾と膝当てが支給され、小学生以下・一般シングルスの男女・それにダブルスという4種目。
 賞品として米が贈られるのは、現在の建物の用途からして当然。協賛にはラジオ・テレビの放送局の他にダスキンが名を連ねている。

 これまでの最高記録を聞いて唖然とした。・・・・・18秒38。ただ走るだけでも、ぼくは完走できないかもしれない。この記録は遠く及ばないだろう。レースの様子を記録したビデオがないかと探してみたら、これがみつかった。ふたりずつでこんな具合に行われるのだ。(movie)
ここに行けば、いつでも雑巾がけをすることができるらしい。価値の数量化を、ぼくは気に入らないことが多いけれど、誰もがここでやって時間を計ってみれば、たちどころにZ-1レースの一部を共有する参加者になれる。
記録保持者とこの企画を考えたひとを、ぼくは尊敬したい。

投稿者 玉井一匡 : 11:13 PM | コメント (9)

September 24, 2007

ioraのライブを カフェ杏奴で

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もう一昨日の夜、またしても一斉エントリーに乗り遅れた。
通常の営業をとりやめて、カフェ杏奴でiora(アイオラ)のライブが開かれるドアを開けると、ぼくの顔見知りの一団は、すでに中二階の天井桟敷を占めていた。小学校から高校まで、学校の遠足などでバス移動するときには、いつもなぜか最後尾の席に陣取っていた。
演奏を生で聴くこともデュオの二人に会うことも初めてのことだったが、ぼくは杏奴においてあったCDを1年ほど前に買って聴いていたから音楽は知っているつもりだった。が、ききはじめるとギターの助っ人がひとり加わっただけで電気の力は何も借りていないのに、演奏はCDとは比べようもないくらい厚みと力があって心をさわがす。
どこからも見えるように聴けるようにするために選んだ結果、ステージは入り口のすぐ脇にある。ギンレイ会館地下のポルノ映画館「くらら劇場」の、スクリーンのすぐ横から客が入ってくるという非常識を思い出した。
外を走る車たちがひっきりなしに背景を横切る。ガラス越しに歩行者がのぞき込む。
こういう夾雑物が、演奏のためにつくられた場所にはないたのしさを増幅する。
ioraの音楽は、カフェ杏奴のありかたと近いところにあるのだ。
毎日のように、ここにやってきては作詞をしているそうだから、それも当たり前なのかもしれない。

「今日は、かなり年齢の上のかたもいらっしゃるので、カバー曲を歌います。」と、われわれに配慮をしめして歌ってくれた久保田早紀の「異邦人」を聴いて、彼らの音楽の方向が分かるような気がした。
市場、ざわめき、移動。

アンコールの2曲目、最後の最後に杏奴のママに一曲が贈られた。 「カフェ杏奴」
こんな歌詞ではじまる曲は、シンプルなメロディの繰り返しと、おだやかに漂うような間奏がここちよい。
歌詞に描かれる店の様子とそれぞれの記憶を重ねあわせて、共感の笑いがこぼれる。
思いがけぬ贈り物に涙ぐんでいるママの様子も伝染した。

11時を過ぎた頃に
少し早めのランチタイム
おてんとさまとご一緒に
カフェ杏奴にでかけましょう
カランコロンとドアベルが
鳴ればママさんお出迎え
好きなお席にどうぞどうぞ
地下と1階、中二階
カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴
詩:Momo/iora

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ioraの女声ヴォーカル、「桃ちゃん」には、もうひとつ特筆すべき特技がある。フェルトでいろんなもののミニチュアをつくってしまう。写真は、箱に入ったピザ、直径2cmくらいのサイズにトッピングはきっとサラミだろう。ピザケースの右下にはグリーンの瓶にはいったタバスコもある。切り取った一切れは、チーズが溶けてすこしこぼれようとしているのだろう、台よりもすこし大きい。芸がこまかい。こういうミニチュアが、杏奴の店のあちらこちらにたくさんおいてある。

じつは演奏の間ずっと、ぼくは音楽と胃袋の誘惑に引き裂かれていた。いや、両方の誘惑に身を委ねていたというべきかもしれない。小野寺さんから、少し遅れそうだという電話があったときいてわれわれが浅ましくも期待したとおり、両手にたくさんの料理を抱えて彼女は演奏開始直後に到着していた。そのメニューは、小野寺さんのブログに書かれているが、手作りの塩玉子の月をいれた手づくりの月餅を初めてごちそうになった。そこに写真のない酔鶏(酔っぱらい鶏)、それに椎茸のエビ餡詰めの写真を、ちょっとピンぼけだがぼくの記憶のために加えておきたい。

投稿者 玉井一匡 : 09:16 AM | コメント (8)

September 15, 2007

違うものがたくさん:Psalmライブ 新潟

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 玄関にたくさんの履物が雑然と脱ぎ散らかされている様子が、ぼくは好きらしい。
だからといって、整然としているのがきらいではないし、散らかっている玄関ならどれでもいいというわけではない。人間の生き生きしているざわめきのようなものが残されているのが感じられるのだろう。同じものはひとつもない履物たちがたくさん、さまざまに並んでいる。一組ずつは同じ方向を向いているから、そのひと組ずつが露天で、玄関が市場であるかのようだ。

 8月28日午後6:30平日の雨上がり、母の住む新潟のいえでPsalm(サーム)のライブをひらいた。 家は、50年と少し経った古い家を縮小、曵き家で屋敷林の中に移動して改造した。8畳の正方形が三つL型をなしてならんでいるから、その間の襖を外すとのひとつづきのスペースになる。さらに障子をとりはらえば両側の廊下も、さらに雨に洗われた樹々のみどりも硝子越しに続いて、なかなかすてきなライブスペースに姿を変えた。

  Psalmは25弦の箏とヴォーカル、かりん夕海。子供たちの多くは箏という楽器そのものを目にするのが初めてだし、舞台の高さのない同じ畳の上にいるから、目の前の演奏に少しずつにじり寄っていく。暗くなり始めたしずけさにかすかな弦の響きが浮かぶ中を、歩き始めたばかりのチビが、みんなの前をことばにならない音声をあげながらトコトコと歩いて横断したりする。それも音楽のひとつとして取り込もうとしていた。仕事を終えたご近所の家族、たまたま昼間に立ち寄ってこのことを知った夫妻が母上を伴って、また夜に再訪、前日に娘を連れてアメリカから帰ってきていたぼくの妹、その友人夫妻と多彩な顔ぶれになった。祖母のご近所の方々に、日頃の感謝のしるしに開きたいと夕海が言い出して、となりの杉山さんが広報役を買って出てくださった。そんな具合で、とてもいいライブになった。 (photo by masa)

 Psalmのふたりは、8月15日から北海道の二風谷から天草まで、かりんの運転するステップワゴンを駆って日本を縦断するツアーの途上にある。ライブと、ところによっては映画「もんしぇん」を上映する。
ポリネシアの先住民は空の星を読む伝統航海術を駆使して太平洋を自在にわたった。その航海術と血を受け継ぐ冒険家、ハワイのナイノア・トンプソンとそのチームが、ホクレアという双胴の帆船で世界を一周する航海をしていた。STAR NAVIGATIONというその航海のことを読んで、夕海はツアーをやりたいと思い立った。日本を縦断しながらそれぞれの場所で「うたになろうとしているもの」を見つけ、うたを作りながらライブをしてゆく。そしてそれをリアルタイムにウェブサイトに公開してゆくことでひろく共有する、というのだ。計画は、かなり壮大なものも立てたけれど、現実的なところに落ち着いて、ふたりの発掘とうたづくりと演奏の旅は、いま、その途上にある。
このツアーのために新しい曲をつくり、費用を捻出するためにそのうちの数曲を選んでCDをつくった。
多くの仲間が、仕事の時間の合間や深夜をやりくりして音やデザインやサイトをつくり、思いにすぎなかったものを現実につくりあげた。そうやってこのツアーのサイトPsalm-PsalmやCDができた。サイトの音もデザインも、とても美しい。ただ、サイトの更新が、なかなか人間の移動に追いつかないので、masaさんの写真は一枚だけひと足先にこちらでエントリーしました。

関連サイト
*kai-wai散策:Psalm ライブ@新潟
*Aross the Street Sound:Star Navigation(8)(kai-wai散策の常連のNiijima さんはStar NavigationとPsalmに興味をもち、これまでに何度もエントリーしてくださった)
*mF247:CDの中の一曲「時間を乗せた船」がダウンロードできます。一時総合ランキングで2位になりました。

投稿者 玉井一匡 : 03:03 AM | コメント (13)

July 19, 2007

ヤマカガシ(じつはアオダイショウのチビ)


新潟の、母の家で玄関のチャイムがなった。
「おっ、どうした」ちいさなお客さんだった。
「玉井さん、うちにヘビがいた」
「へえ、つかまえて食うか」
「森に放すんだよ」なんて、いいことをいう。
行ってみると、その子のうちの玄関ポーチの隅に小さなやつが丸まっている。
捕虫網のフレームの一部を直角に曲げて、角に押し付けてその中に追い込もうとしても、頑固に丸まって動こうとしない。網の棒でつつくと、口を開いて一人前に威嚇する。
やがて、5、6センチの球体から40cmほどの長さの曲線に姿を変えて移動して出てきたので、首の後ろをつかまえた。

Yamakagashi1.2.jpg「ほら、よく見るとかわいい顔をしてるよ」
ぼくの左手に巻き付くやつを見せると、子供たちの表情がもっとかわいい。
好奇心とちょっとこわいのとの混じりあいだ。
「さわってごらん」
手を伸ばして、そっと触れる。
「・・・・・・」ことばにならない。
「ヘビと記念写真をとろう」というと、ふたりにはちょっと安堵の表情が浮かんだ。
「さて、逃がしてやろうか」小さな「森」の中に放してやると、するすると草の下をすべってゆく。子供たちにとっては小さな冒険、ヘビにとってこれまでの生涯一番の恐怖の時が終わった。お母さんたちによれば子供たちのお父さんは二人とも、朝に起きた柏崎の地震のために休日の途中で急遽出勤になったという。

 ヤマカガシは、ぼくたちが子供の頃には毒のないヘビだと言われていたのだが、このごろでは毒ヘビとされている。やたらにヘビを怖がるなよと伝えたくて子供たちに触わらせたりしたけれど、そのことを言わなかったなと思い、googleで調べた。
wikipediaによれば、かつて毒がないと思われていたわけは、ヤマカガシは口の奥の歯が毒を出すために、口の中に指を入れたりしないとそれにやられないからで、しかも、ヤマカガシは臆病だからマムシとは違ってむこうから襲うことがない、しかし、毒はなかなか強いのだという。こどもたちに、もうちょっと説明しいなくちゃあならないと思った。

■追記
コメントに「通りすがり」さんからコメントをいただいた。
こいつは、ヤマカガシではなくアオダイショウのチビだということが分かりました。つまり、毒ヘビではないということで、ひと安心。
アオダイショウの幼蛇の写真はここ
ヤマカガシの写真はここ

投稿者 玉井一匡 : 08:23 AM | コメント (16)

July 02, 2007

サヴォア邸 / Villa Savoye


サヴォア邸/写真 宮本和義/文 山名善之/発行 バナナブックス
 バナナブックスから、ラ・トゥーレットにつづいてコルビュジェのサヴォア邸が出た。現代の文化や思想もデザインも、大部分が、このサヴォア邸のつくられた1920〜30年頃の豊穣な時代に生み出されたものをもとにして、以後は、それを洗練させているか、悪く言えばその時代の蓄積を食いつぶしているのだなと思うことがある。建築もその例にもれず、現代のヴォキャブラリーの大部分はコルビュジェの中にあるのではないかと思うが、サヴォア邸にはとりわけその重要なものがある。その意味では、サヴォア邸がコルビュジェのデザインの箱詰めであるように、この本はコルビュジェのデザインの詩集のようなものなのかもしれない。

 もう何十年も前から知っている住宅でありながら、この本を見て読んで、ぼくにはまだ3つの発見があった。 ひとつ目、この住宅の主はこんな大きないえに住む人でありながら、運転手ではなく自分でハンドルを握ることを大切にしていたらしいこと。2つ目はコルビュジェにとって「屋上庭園」というのは大地から持ち上げたものではなくて天から降りてきたものであったらしいこと。3番目に、このいえは住む機械であるとしても草原で草を食む牛のようにふるまう動物だったらしいということだ。電気羊でなく、時計仕掛けの雌牛だろうか。

 1つ目:クルマがピロティの中で方向転換しやすいように一階をU字型にしたことは、平面図を見れば一目瞭然だ。運転手が玄関前でサヴォア氏をおろしたあとでガレージにクルマを入れるのだろうと、なんとなくぼくは思いこんでいた。このピロティにはクルマから見て家の右端から入ってゆき、左回りにまわってもとに戻ることはガレージのクルマの置き方からもわかるし、解説にもそう書いてある。(平面図の、玄関前の車路にいるクルマと、移動方向を示す矢印はぼくが書き込んだ)
 方向を左に90度変えると、クルマの左に玄関ドアがある。運転者がすわるのは左だから、もしも後ろの座席にサヴォア氏がいるなら彼は右側、玄関の反対側にいる。すると、運転手がドアを開けにくるのを待ち、彼が外にでると玄関と自分の間にはクルマがあるということになるが、それはちょっとありえない。
むしろ、サヴォア氏は自分で運転しいえに近い側の座席にすわってピロティの空間の変化を楽しんだあとにクルマを玄関前に置いてすぐ前にある玄関ドアを開いて家に入っていく。あるいはガレージにクルマを入れて、脇のドアからスロープの下からホールの中に入ったのだろう。
1階には使用人の個室が2つとゲストルームがある。当初の計画では、このゲストルームは運転手の住まいだったと解説にもある。自動車と住人のこの関係は、サヴォア氏自身の望んだことだったのだろう。さらにそれは、コルビュジェにとっても歓迎すべきことだったろう。

 2つ目:フランス語のコルビジェ作品集を持っていながら、これまでぼくは気づかなかったことだが、「屋上庭園」とよばれるものは、フランス語では「jardin suspendu」というのだとこの本に書かれている。直訳すれば「吊り庭園」。だとすれば、それは地表を持ち上げたものではなくて天から吊り下げられた庭園なのだ。建物を支える柱は大地から生えているのではなく、むしろ飛行機の車輪のように上から下ろした脚であり、スロープは飛行機のタラップのように下ろされたものなのかもしれない。この庭を包み込んだ住宅は、地上を離れたのではなく、地上に舞い降りたのだ。ここは、パリからクルマで30分、背後にセーヌを見下ろす高台、天から舞い降りるには相応しい台地だ。(google Earth/N48°55′26.47″)

 3つ目:完成後にコルビュジェがアルゼンチンで講演した時に描いたというスケッチがある。それは、樹木の枝にサヴォア邸が実のようになっているようにも見えるし、牧畜のさかんなアルゼンチンのことだから、これは草原で草を食む牛たちも思わせる。「住むための機械」は、無機的で巨大かつ排他的な機械的生物ではなくて、同時に生物的なメカニズムの世界なのだ。しかも、排他的な土地の所有権を主張する所有形式でなく地表を共用する遊牧的な土地の所有形式をこころざしていたのだと、ぼくは読み取りたい。

 20年以上も前にぼくがサヴォア邸を見に行った時には、改修ができていなかったから建物の中に入ることができなかった。にもかかわらず道路の近くに門番小屋はあるが門も塀もなくて、敷地のなかには自由に入ることができたから、ぼくはガラスに顔と両手を押し付けるようにして住宅の中を見た。道路と敷地のあいだは、プライバシーの密度を段階的に変えながら連続しているのだ。
 ちょうど昨日のことだが、成城の古いすてきな家に住む友人のお宅にうかがった。小さな頃からそこで育ったその人の子供時代の、興味深い話をきいた。
 幼稚園のころ、近くに、小さな山が庭にあるうちがあって、その奥にはいったい何があるのかを知りたくて仕方なかったという。塀があるわけでもないから中に入ってゆくこともできたのだが、それはいけないことであると思っていた。ともだちに話すと、行ってみようよという。意を決して、ふたりは探検に乗り込んだ。その家は、1階がピロティになっていて玄関だけがあったはずだ。やがてその家のご夫妻が降りていらしたので、少女はそこに探検に来たわけを一生懸命に話した。そこの主は彼女の話を聞いたあとで二人にお菓子を手渡して、気をつけてお帰りなさいと言ってくれたというのだった。そこは、ほかでもない、丹下健三の住まいだった。
 モダニズム建築の継承者たる丹下にとって、この住宅がサヴォア邸と無関係ではありえなかったはずだ。彼にとっても本来、ピロティは自由に開放された空間であってほしかったにちがいない。さりとて、日本、東京の住宅地という現実の中に置かれた庭の中は、アルゼンチンのスケッチのように自由に出入りするという空間ではない。が、幼いこどもたちがおそらくは手に手をとり勇気をふりしぼってやってくるという微笑ましい振舞いは、きっと丹下にとってみれば、この家とまちとの、いちばんうれしいありかた関わりかたのひとつだったろう。お菓子は、彼女たちの訪問への感謝のしるしだったのだ。
この住宅は丹下のしごとの中でも屈指のものだとぼくは思う。にもかかわらず、これはすでにない。

関連エントリー: aki'sSTOCKTAKING/Villa Savoye

投稿者 玉井一匡 : 03:34 PM | コメント (6)

June 23, 2007

平底船:ナローボート

 いま、masaさんがオクスフォードに滞在して興味深いイギリス便りが送られてくる。その中に、ボートの浮かぶ水路の写真があった。ぼくはイギリスにはたった一度しか行ったことがないけれど、推理小説を読んでいると、水路とそこを行き来する船の描写に出会うことが少なくない。船は平底船という名で書かれている。masaさんの写真は、小説で思い浮かべていた通りの風景だ。
 推理小説では先を急ぐ勢いに負けてしまうから、いくつかの疑問を抱きながらぼくは何も調べないままに通り過ぎて読み続けていた。たとえば船が人力で動いた時代には、水路を上る時は両側の土手の上を人間や馬がロープで引っ張るのだったと思うが、橋と交差するところはどうしたんだろうかという疑問は小説の中に残したままだった。

 masaさんの写真は、その疑問に対する答えのひとつを示してくれた。橋がはね上がるのだ。もうひとつ、土手の上を人が通れるほどの高さの橋をつくるという手もあるはずだ。インタネットで調べてみると、平底船は英語ではnarrow boatというらしいと知ってwikipediaを開いてみた。川が浅いので船の底を平らにしているのだろうと思っていたが、水路が狭いので船の巾を小さくしているということなのだろう。たしかに、水路を人工的につくるなら巾を小さくして、深さで水量を調節する方がつくりやすいにちがいない。橋も短くてすむし、両岸の距離が近いから、心理的にも川が分断することもない。
 スエーデン出身でイギリスで仕事の多かった建築家ラルフ・アースキンが平底船を事務所に改造して製図板を並べていた写真を見て、とてもうらやましく思ったことがある。その船の事務所にあった美しい階段については、AKiさんのブログで「水無瀬の町家」というエントリーで言及されている。かなしいことに日本の都市の川に係留されている船たちが粗大ゴミと化しているさまをぼくは思い浮かべてしまうから、アースキンの事務所も動かない船だろうと思っていた。narrow boatの大方は観光のために動いているのだと思いつつさらに探してみると、ちゃーんとボートの売買のサイトの一部をnarrow boatのカテゴリーが占めているのだ。長さ60ft前後、巾7ftくらいの大きさが大部分で、価格は40,000から80,00ポンド(今日は247円/1ポンド)ほどで売りに出ているものが多い。たとえば冒頭の写真の船は45,000ポンド、このサイトには船の内部やエンジンの写真も用意されている。これを見れば、ボートのおおよそは分かってきた。ここで生活している人もいることだろう。うらやましいことだ。

 ぼくたちの日本では、都市の川の多くは暗渠に埋葬してしまい、その亡骸の上を勝者たるクルマたちが行き来している。川として都市に残されているとしてもコンクリート三面張りの索漠たるものだし、アルミ製の不細工な手すりが胸の高さまでふさいでいる。農村地帯でさえ両岸をコンクリートや鉄板の壁で支える情けないありさまだ。それにひきかえオクスフォードの写真をみれば雍壁はレンガで橋は木製のままで使われている。
 こうした豊かなイギリスのインフラストラクチャーは、アフリカやアジアやアラビアそしてインド、中国でも、そこに長い間生きて来た人たちの犠牲のもとにつくりだした財産をイングランドの島に注ぎ込んだおかげであることは、どうしたってぼくたちの頭と心の中から消えることはない。それでも、これらがそうやって他者の犠牲のもとにつくられたものであればなおさらのこと、車を速くたくさん走らせたいなどというたったひとつの理由で、すでにあるものたちを簡単に壊してしまうといことはしないのだとこの国のひとたちを思う。

投稿者 玉井一匡 : 09:13 AM | コメント (6)

June 10, 2007

路地と火事:神楽坂


この春、たまたまぼくが東京にいないときに神楽坂で火事があった。わざわざ知人が電話をくれて報らせてくれたけれど、けが人もいないというのでそうなんですかと返事するにすぎなかった。
 もどった翌日の昼休みに寄ってみると現場は思いのほか近く、歩いて2、3分。八十代のおばあちゃんの店が火元で、一間ほどのせまい路地に面するその店のほかに周囲の一帯が焼け落ちていた。焼けた椅子やカウンターを引き違いの格子戸ごしに見ると、漂う焦げ臭さで時間の動きを止められたようで、にわかに火事が身近になった。
 ここに立ってみると、そこからもう永久に消えてしまったもの、ぼくたちから失われてしまったものがはっきりと感じられた。ぼくはその店のことを知らなかったからインターネットでしらべて得たわずかな断片が、炭化した店の中でふくらんでひとつになった。かつて芸者だったという87歳のおかみさんの毒舌、飲んだ帰りに食えないほどの焼きおにぎり、客のもたらすざわめき。皮肉なことだが、それらが失くなって初めて、ここが少しだけぼくの場所になったのだ。

 
焼けた一画は2M足らずの石畳の路地に面しているから、日が落ちてからひとりふたりで歩くにはすてきなみちだ。神楽坂にはこういう路地が縦横にあって、かつて料亭だったところや住宅として使われていた建物が、誰でも入りやすいみせにかわったり、若い人たちが手作りで店に変えたりしている。おかげでここ何年か、神楽坂はいいまちとしてテレビや雑誌に取り上げられることが多くなっていた。そのうえに、倉本聰の脚本のテレビドラマ「拝啓父上様」が神楽坂の料亭を舞台に、板前修業の若者を主人公にしてつくられたおかげで、人通りが3倍ほどに増えたようだ。
 古くからの商店街が日本中でことごとくさびれてゆく中で、人通りがふえることは商業的には歓迎すべきことだが、まちを消費してしまおうとする力としてはらたらくこともまちがいない。日常的な人出と、それがもたらす土地の経済価値の上昇は、路地というみちの形式とあいいれない。土地の値上がり→地上げ→建物の高層化と進む。古い住宅を生かしておそらくは安い家賃で魅力的な店を開いているひとたちは、家賃の上昇に耐えきれず、かわりにチェーンの店がはびこって日本中のどこのまちともかわりばえのしないところになってゆく。そうやって、ひとの来る日本のまちは消費されてきたのだ。「拝啓父上様」は、ビルへの建て替えで揺れる古い料亭を題材にしたドラマだが、志とは逆に、この町の消費を早めるにちがいない。
 この火事で、あるひとは・・・だから路地は消防活動の障害だからなくさなければならない、建物を不燃化しなければならない・・・といい、一方では、災難にあった人たちにつけこんで、火事にあった一画を手にいれようと動き回るディベロッパーがいるだろうと思っていたが、一昨日、ひさしぶりに火事の現場にいってみると、もう工事の「お知らせ看板」がでている。火事から2か月ほどしかたっていないのだから、火事は偶然ではないのだろうかと思うほどに手回しがいい。
 ペコちゃん焼きで有名になった不二家神楽坂店など、この界隈でいくつかの商店を経営する平松南さんは「神楽坂まちの手帖」という小冊子の編集長でもある。そのひとが、この火事の火元になったおばあちゃんの、生々しい言葉をブログに書いている「まちづくりエディターの神楽坂定点観測」は、日付を見ると4月5日。火事のあとの間もない時期だ。
 神楽坂の浸食は裏通りの路地に面する一画だけではない。狭義の神楽坂、つまり早稲田通りの一部である神楽坂通りでも計画は着々と進行している。そういう力に抵抗できるのは、自分で土地も建物も持って店を経営する平松さんのような人たちで、受け継がれて来たよさを生かしてまちを活気づけようとしているところに、神楽坂は希望がある。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 AM | コメント (4)

May 21, 2007

新宿文化絵図

ShinjukuBunkaFront.jpg
新宿文化絵図-重ね地図付き新宿まち歩きガイド
新宿区地域文化部文化国際課 編集・発行 1,260円

「新宿区の中央図書館の建物は、新宿区の図書館で一番古くてきたないかもしれないけれど、資料がとても充実しているんですよ」
「そうなんですか、23区の図書館でいちばん陰気で、ボロくて、なんだか入りたくならないとおもっていましたが」
ひさしぶりに寄ったカフェ杏奴で、もっとひさしぶりにChinchiko Papaといっしょになったので、あれこれ新宿のことが話題になった。この本のことは話題になったわけではないが、その日の夕方に本屋に寄ると、入り口の近くに平積みになっていた。副題には「重ね地図付き新宿まち歩きガイド」とある。狭義の新宿ではなく新宿区についての本だ。手に取ってパラパラと中身をのぞいてみると、新宿区はなかなかやるではないか。あまり意識したことはないけれど、ぼくはこれまでの半分以上の年月を新宿区に住むか仕事をするかしてきたし、自転車通勤では毎日のように新宿区を横断するので、ここには少なからぬ愛着がある。
A4版219ページの本体に特別付録(初版限定)「江戸・明治・現代重ね地図」9冊もついてケースに入っているこの本の、腰巻きに書いてある価格を見て驚いた。1260円で、amazonに注文したら送料がかかるという値段は、どうみても普通の値段の半値以下だ。

 本体は2部に分かれ、「第1部 新宿町歩き10コース」9〜162ページと「第2部 新宿 漫華鏡」163〜205ページ、巻末に「新宿ゆかりの精選120人・新宿人物事典」という人名事典と最後に索引も用意されている。
 *第1部には、それぞれのコース順にまちと歴史と人について書かれた文章に写真と図版が豊富に加えられている。
 じつをいえば、はじめぼくはガイドマップがあるのを気づかずに、この本は「コース」といいながら地図を入れないのは勇気あることだといたく感心した。手厚い情報にならされていると、ついついガイドマップがあれば、そのルートに従って歩いてしまう。すると、せっかくの時間と空間と人の織りなす複雑な世界を、ひと続きの線状の理解に閉じ込めてしまう。だからあえてルートマップをなくして読者の自由な想像力に任せようというつもりなのかと、勝手に想像したのだった。しかしそれはぼくの早とちりで、実はれぞれのコースの扉にルートを描き込んだイラストマップがあった。ちょっと、興奮して損をしたような気がした。とはいえ、それでも力作ではある。

 *第2部の 「新宿漫華鏡」は、さまざまな切り口で九人の著者が新宿を書いている。たとえば川本三郎の「シネマの町新宿」、海野弘の「新宿戦後グラフィティ」、交通博物館学芸員の奥原哲志氏による「120年を超える新宿駅の歩み」などがある。

*別冊の「重ね地図」も力作だ。A3の厚手の紙を二つ折りにしてむろん表側は表紙だが内側の右に現代の地図がある。左側は凡例で、トレーシグペーパに印刷した江戸の地図の右端をそれにのりづけしてある。さらに、右ページの現代の地図の右端にはトレペに印刷した明治時代の地図の端を接着してある。つまり、現代の地図の左右に江戸と明治の地図があって、好きな方を折って現代に重ねれば、現代と比べながら見られるというわけだ。
 新宿区のサイトによれば,この本は初版5000部がつくられ区内の一部の書店で販売されているそうだが、ぼくは飯田橋の芳進堂という書店でみつけて買った。皮肉なことに、この本屋の入っているのは江戸城の外堀を埋めるという蛮行によって東京都が作ったテナントビル「ラムラ」なのだ。
重ね地図は、初版だけの特別付録なのだそうですよ。

*追記
新宿区中央図書館の建物をけなしているようだけれど、とかく公共施設は器ばかりに金をかけて中身がないものが多いことを考えれば、これは悪口ではなくてむしろ褒め言葉なのです。新宿区は、地域図書館はきめ細かく配置されているし、新宿御苑の入り口の近くの図書館は、数年前にあたらしく建て替えられた建物で区の出張所などと一緒の建物だが、とてもきもちよくできている。
ONE DAYで最近エントリーされた「図書館に行く!そしてカフェ杏奴でひとやすみ」でも、カフェ杏奴といっしょに新宿区の中央図書館のことが書かれています。このときカフェ杏奴でもOVE DAYとkadoorie-aveさんのことが話題になっていたのでした。

投稿者 玉井一匡 : 01:25 PM | コメント (19)

May 09, 2007

タリアセン・ウェスト:TALIESIN WEST


MADCONNECTIONのエントリーにそそのかされて、Google Earthを開きハーレン ジードルンク(46°58'23.93"N 7°24'46.78"E)を見ると、川のほとりの小高い森の傾斜地にそって階段状に集合住宅をならべてアトリエ5のつくりだした生活環境は、今もとても気持ちよいものであることがよくわかる。周囲は緑濃い森のまま残されている。
 森を迂回する道路の切り通しも集合住宅の敷地の傾斜も、地形を分かりやすく見せるから、まだ実物を見ていないぼくはそれだけで十分に心がときめく。集合住宅は森を切り開いてつくられたが、斜面をたどる階段状の屋根の上は、芝生で覆われている。切り取られた森と芝生の屋根とゆるやかにうねる川はコルビュジェの思想の見事な実現だ。Google Earthで建築の衛星写真が地表にはりつけられてつくり出す二次元半を僕が大好きなのは、文字通り建築が地形に溶け込んでしまうからだ。ここの場合は建築の意図がそこにあったからなおさらなのだ。それを見ているうちに、F.L.ライトのタリアセン・ウェストはまだ見ていないぞと思い出して、Google Earthに乗って行ってみたくなった。タリアセン・ウェストは、こことはまたかたちのちがう関わり方を大地との間につくりあげているはずだ。

「TALIESIN WEST」と書きこむだけで飛んでいく画面( 33°36'17.89"N111°50'46.64"W)は、対角線に沿って斜めに走る道路によって二分されている。その北東側には山並み、 南には大規模な住宅地開発でつくられたらしきまち。斜めに走る道路と見えるのは近づいて見れば川だが、それがどこも同じ幅で定規をつかったような弧を描き、いかにも人工であることがわかる。地表に近づくと、おだやかな傾斜の丘のつらなりを背景に、遊牧民のテントのように散在する建築群。タリアセンウェストだ。・・・・と、これで十分に感動してしまうのも、ハーレンジードルンクと同じように、じつはここにもぼくはまだ行ったことがないからなのかもしれない。それだけに、地表を斜めに傾けて見ると、見る見るうちに背後に丘がふくらんで想像をかたちに変え、そのかたちがあらたな想像を目覚めさせる。川の南側に近づけばタリアセンとは対照的に、それぞれがプールを抱え込んだ家が地表を埋めている。かつて見た写真の、人里離れた砂漠という環境からは、ずいぶん変わってしまったようだ。
 ライト一行がここに来る数年前、彼らはリゾートホテルの計画のためにアリゾナに滞在していたことがある。その間、彼らは砂漠の真ん中に木造の箱の上にテントをのせたような住居群をつくり生活と仕事の拠点とした。それがのちにタリアセンウェストの原型となった。その後、改めて冬のための仕事場としてここにタリアセンを作りはじめた時、ライトはすでに70歳をこえている。といっても、それから20年を越える間、建築家としての活動をつづけたのだから、まだまだぼくたちは若いわけだ。

 アメリカ合衆国が他人の土地を奪ってつくられた国であることに、ライトはひそかな疑問あるいは居心地のわるさを感じつづけていたのだとぼくは思いたい。彼はタリアセンの周囲から掘り出した大きな石を積んでコンクリートを流し込み壁をつくり、それをふたたび大地の一部のようにした。屋根はテントの進化形でありつづけた。木部には、周囲の赤い土と同じ色を塗った。持ち上げた屋根を支える細い支柱はインディアンの槍や羽根飾りのようだ。彼はここを、定住したインディアンの建築にしようとしたのではないか。
F.L.WrightFoundation.jpg かつてライトは、フィリップ・ジョンソンMOMAで企画したインタナショナル・スタイル展への出展を拒んだ。世界中どこにも同じ価値をひろげることをこころざすインタナショナルではなくアメリカを、アメリカ合衆国ではないアメリカをこころざしたからだ。南米のインディオの造形をコンクリートブロックに彫り込んだのもそのためだ。「モーターサイクルダイアリーズ」の若きチェ・ゲバラが、旅をするうちにアルゼンチンという国家から、普遍的な「アメリカ」にアイデンティティを移していったように、ライトはアメリカ合衆国という国家から逸脱した「アメリカ」に自分を結びたかったのではないか。だとすれば、国家をこえる普遍的な世界をめざした「インタナショナル」と、じつはライトは通底していることになる。ただし、彼は「場所の力」をよりどころにし、それを大切にした。そして、チェ・ゲバラの「アメリカ」にはアメリカ合衆国は含まれない。ライトに美術館をつくらせたグゲンハイムは、チリの鉱山で奴隷のようにインディオたちを働かせて財を成したのだと、「モーターサイクルダイアリーズ」で主演したガエル・ガルシア・ベルナルがインタビューで語っていたのが忘れられない。

 

投稿者 玉井一匡 : 08:48 AM | コメント (7)

April 09, 2007

空港にFONはあるか

 本来なら、いまごろぼくは、ヴィエンチャンのDAY INNホテルで眠っているかブログを書いているはずだが、ヘルムート・ヤーンの設計であたらしくつくられた、バンコク空港のエコノミーラウンジというところにいる。午前1:23、東京は3:23。
 試してみたら、7つほどの無線LANがリストに出てきた。もしかしたらFONがないだろうかと思っていたが、あたりまえだがやはりない。それらの中でaotwifiというのだけが無料でつながることがわかったので、ひと仕事とインタネットのためにコンセントを探したがなかなかみつからない。business centerという表示の先をたどったが、みつからないので通りがかった職員に聞いたが知らないという。案内板はあるがまだできていないのかもしれない。
 トランジットの客のためのラウンジでは、この時間はたくさんの人がソファで仮眠している。その中央に、スツールとカウンターをそなえたカフェとばかり思っていたところに近づくと、一席ごとにコンセントが備えられていた。しかし、ここには人がいないけれど、どこかにたくさんの利用者がいるのだろうか、おそろしく遅いうえにアップロードはさらに遅くて、あげくは切れてしまう。まずは文字だけでやってみようと何回か試みて、やっとのことでエントリーできたが、始めてから1時間半はかかったろう。
 成田では、開いてみるとすぐにつながったと思ったら一日500円をクレジットカードで払う仕組みになっている。さもなければ機械付きで公衆電話のような、10分100円のコイン式インターネットコーナーがあった。いまだにケチなことをやっている日本の空港にもあきれたが、つながらないのもこまったものだ。

 8日の午前11時に成田を発ってバンコクで乗り換え、ヴィエンチャンに夜8時ころに着くという予定だった。京成を降りてパスポートのチェックを受けると「期限が切れていますよ」という。まだ切れるはずはないのだがと思いつつ目をこらせば、古いパスポートを持って来てしまったのだった。tacに電話をかけて、事務所から現在のパスポートを持って来てもらった。というと簡単そうだが、なかなかみつからない。結局、引き出しからこぼれ落ちたやつが、引き出しのキャビネットの底に眠っていたのだそうだ。tacが推理小説で鍛えた捜査能力が役立った。それを届けてもらったときにはもう12時を過ぎていた。やむなく夕方16:55発の便にとりかえてもらった。さいわいなことに同行者がなく、ぼくひとりだけだったので、ひとさまを心配させることはなかったのだけれど、先行の吉川さんにはメールを送ってお知らせしたら、携帯に電話をいただいて無事に連絡はすんだ。
 
 しかし・・・

付記(わきたさんの要請に応じて)
本来は、11時に成田を出発して午後にバンコク空港着、それから4時間ほど後にバンコクをでて8時ころにはめでたくホテルにおさまるというのが本来の予定でしたが、出発を遅らせたためにバンコク到着は夜の10時過ぎになってしまう。
 それなのに翌朝7時半の出発だから空港には5時半には行かねばならない。駅前ホテルに泊まるには入国と出国の手続きがいるし空港使用料もとられるし、宿泊代もかかる。それなら、空港内のネットカフェのようなものがあれば、朝まで時間をつぶしてもいいなっと思ったのでした。さいわい、隣の席にはタイ人の中年男子二人連れでしたから相談してみました。
「うーむ、新しい空港だからよくわからない。スチュワーデスに聞くのがいいでしょう」といいます。
そうでなくたって、自分の国に帰って来て空港を出ないでヒマつぶしをするなんてことは、めったにあるものじゃないですよね。
込み入った話だから、日本語のできる人をと、頼みました。航空会社はタイ航空でしたから。
かくかくしかじかの事情である。バンコクの空港は、24時間営業でありやなしや。ありとすれば、そこで朝までインタネットをつかえるビジネスセンターのごときもの、ありや?ということをたずねました。
「うーむ、お眠みにならないわけには行かないでしょう。それに、トランジットでは6時間しかいらっしゃれないと思いますから、一度入国なさってください。向かいに、ノボテルがあります」
この年齢の、まっとうな大人は、そうだろうなあ、しかし、ノボテルとはフランス人の経営する上のクラスのホテルです。そんなところにとまって、5時間ほどで一泊を終えるのは我慢がならない。歩いてみれば安ホテルがあるだろうと考えた。スチュワーデスは、安ホテルを勧めるのは失礼だと思って配慮してくれたのかもしれない。
ややあって、彼女が戻って来た。
「 トランジットは、空港に12時間いらっしゃれるそうです。でも、そういう場所があるかどうかは、分かりませんから、お着きになってからサービスカウンターでお尋ねください」という。
だったら、なんとかなるさとひと安心。ここまでは成田の出来事。

 バンコクの空港につくと、すぐさまサービスカウンターに行って尋ねた。今日は事情の説明を何回することだろう。
「エコノミーラウンジにいらっしゃい。たくさんの人が寝ていますよ」
ぼくがほしいのは、寝るところよりも、無線LANとコンセントなのだ。インターネットには朝までつきあってもらうのだから、有料だってかまわないのだが、新らしいちゃんとした空港はユビキタスなのだということを言いたいから、どこでも無料でつながるものがあってほしかった。
 かたわらの椅子に腰を下ろしてMacBookを開いてみた。すると、いくつかのwi-fiが出て来て、そのうちのひとつが無料でつながった。つながったとなればコンセントがほしい。しかし、古い空港にはコンセントがところどころにあったのだが、ここにはまったくない。「テロリスト」に使われるのをおそれているんだろうか。成田でさえ、ところどころにコンセントがあったのに。
それからしばらく、コンセントをさがして空港の中を上に下に右に左に動き回り、やっとのことでラウンジを発見。安心して、マンゴの生ジュースに129バーツなりの空港値段を支払って、カウンターの前のスツールに腰を下ろした。ぼくは満足感に満たされた。
だが、思うようにはつながらないのだった。

 つながりにくいので疲れて、ぼくも欠航になった便の乗客のように、ソファに横になった。エアコンが強すぎて、寒くてたまらないから、安眠もできない。眠気と寒さをかかえて24時間営業のカフェに移動すると、ぼくの他に客はひとりもいない。おかげで店員はやさしく迎えてくれた。冷えきった身体を、アルコールではなく、ホットチョコレートとチキンパイで温めたのだった。

わきたさん、こういう具合でした。とりあえず、写真なしでアップします。
 

 
 

投稿者 玉井一匡 : 03:14 AM | コメント (23)

April 01, 2007

第五回アースダイビング・阿佐ケ谷住宅へ


またまた遅ればせのアースダイビングのエントリーになってしまった。
 縄文時代には、現在よりも海水の水位が高かったから、今では高台とよばれているところが当時は岬であり、現在は低地というまちは海水の下にひそんでいたのだと、ぼくには新鮮な視点を「アースダイバー」が提供してくれた。ちょうどそのころMacでも使えるようになったgoogle Earthで、地球の立体的な表情を遠くからも近くからも自在に実感できるようになった。
 かつて、"POWERS OF 10"という映像をチャールズ・イームズがつくってみせた。日光浴をする男女を見下ろすところからはじまってカメラをどんどん移動させ銀河系の全体を見るところまで離れてから一転して、どんどんと近づいていき分子の大きさまでクローズアップするのだ。Google Earthのおかげで、そのすてきな映像がいつでもぼくたちの手に入るようになったのだ。
 道を歩きながら地形の成り立ちを思い浮かべ、数千年前の岬を想像し、数百年後にはもう人間のいなくなっているかもしれない地球を思う。空間も時間も、ぼくたちは自在にとびまわることができるので、小さな断片から地球や歴史を考えることができる。
 それを実感すべく始められた「アースダイビング」は、縄文の波打ちぎわをたどることを手はじめに少しずつ川をさかのぼり、3月31日は神田川上流の善福寺川の水源に遠からぬところまでやってきた。このあたり、川の護岸は道路より高く積まれているところがあるけれどコンクリートでなく自然石が積まれているから、さながら愛媛県外泊の集落のように、石垣のかげに身を潜めているような家もある。


川のほとりの見事な桜の下にはホームレスとお揃いのブルーシートに思う存分の混乱がくりひろげられていたが、そこから一歩はずれて足を踏み入れると、空気も光も一変する別世界があった。
 はずかしいことに、iGaさんのエントリー「阿佐ヶ谷テラスハウス」と、それにつづくmasaさんのエントリー「阿佐ヶ谷テラスハウス(1)」まで、阿佐ヶ谷住宅のことをぼくは知らなかった。ここが別世界をつくるのは、ひとつには、いうまでもなくそこがすてきな場所だからだが、さらに、やがてなくなってしまう場所だからでもある。前川國男事務所の設計で1958年につくられたテラスハウスは、コンクリートブロック造二階建ての切妻、4戸ほどを単位として連続させてたほぼ同じ構成の棟を配置したにすぎない。今でいえばむしろ素朴な集合住宅と見える。しかし、高さを低くおさえているうえに隣りの棟との間に広く距離をあけているから公園と道が連続している、あるいは全体がひとつのひろい公園で、その中にテラスハウスを散らしているようだ。公園が庭の一部になっている。

 それぞれの住戸は高さを低くおさえることによって、まわりには広々と明るい空間ができる。家の中が小さければ、その分だけ外は広く豊かになる。家は、壁や屋根に囲われた中だけではなく、ウチとソトの両方を合わせたものが住まいなのだから、たがいに自分のすまいを低くすることによって、めぐりめぐって自分も日当りのいい庭とイエをつくることができるのだから、結局は気持ちよい生活を送ることができるのだ。集合住宅はそのことが実感しやすい。
 しかし、土地や住まいを金額に変えることをなりわいにしているディベロッパーにすれば、これは非効率あるいはビジネスチャンスにほかならない。容積に余裕があるから、分譲されたそれぞれの住戸の持ち主も経済的な負担なしに新しい家に移ることができるだろう。建て替えという消費に誘導する制度ができてしまっている環境では、住人がそう考えるのはしかたないことではある。しかし、ぼくたちの島ではすでに人口の減少が始まっている。大都市に高層の集合住宅をつくって人間を集中させるよりも、こういう住まい方によって人口の減少をむしろ豊かさに転換するという選択肢もあるはずだ。

給水塔の足下に切り妻屋根のテラスハウスのならぶ風景からは、なんだか宮沢賢治の世界が思い出された。ぼくたちのかつて住んでいた世界のどこかにあった懐かしいもののようでもあり、遠い異国の風景のようにも感じられる、人間にとって普遍的な風景ということなのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:32 AM | コメント (8)

March 22, 2007

さくら・3月22日・駒塚橋


 「なんという種類なんでしょう。ソメイヨシノじゃなさそうですね」
 ひとりのお年寄りにたずねられた。
 「さあ、ぼくにはよくわかりませんが、色が白いし房が小さいですしね。」
 「そう」
 そういえば、桜の種類をぼくはろくに知らない。
 しらべてみようと思ったことがない。
 桜は植物というよりも春のできごとのように感じられるからなんだろうか。
 「この樹が、いつもいちばん先に花をつけて、小鳥がつついて花を落としてくれるんですよ。」
 「ほら、あのヒヨのしわざだ」とご老人が指をさした。
 見上げると、ヒヨドリが一羽、枝に止まっている。

 いつもの年のように、神田川が椿山荘に出会う少し手前、駒塚橋、南のたもと西側にある桜は、このあたりの神田川岸の桜並木が数ある中で、一本だけ花を開かせた。通勤途中に、ぼくは自転車をとめて、樹の足許に落ちている花を拾い集めていた。ご老人も、ここを毎年のように楽しんでいらっしゃるようだ。
 去年は雀が桜を落としてくれた。去年、ぼくは毛糸の帽子に桜を入れて頭にのせていったが、今年はすくなかったから毛糸の手袋に入れて事務所に連れていった。去年と同じ、そして先日の桃の花と同じ白い長方形の皿に水を張って浮かべたけれど、白いうつわに白い花では春の華やかさにかける。この皿はもともとは写真の現像につかうもので、厚くて重い。aiさんのお店「藍CRAFT」のような上等なものがないけれど、器を代えてガラスに春をそそぎこんでやることにしよう。

投稿者 玉井一匡 : 11:54 PM | コメント (8)

February 10, 2007

「さくらんぼのしっぽ」

sakuranbonoshippo.jpg

「さくらんぼのしっぽ」/村松 マリ・エマニュエル著/柏書房
 ある文化の中にいるとあたりまえのことが、じつは、外の人間から見ればもっとも興味深いことなのだということは少なくないけれど、何がそれなのかということは、両方の文化を知りものごとを見抜く力のある人でなければ、なかなか気づかない。著者は長年にわたって日本で生活をおくっている。だから、フランスではあたりまえだが日本にとっては当たり前でないことをよく理解し、そのうえでフランスの家庭のお菓子つくりが書かれている。距離と時間を意識した広く透徹する視野があるのだ。 
「さくらんぼのしっぽ」とは、さくらんぼの実のヘタのことだろうとは想像がつくのだが、なぜそれをこの本のタイトルにしたのかは、すぐにはわからない。さくらんぼのしっぽのようにありふれたもの些細なものの背後に、じつはたくさんのことがあるということなのだ、きっと。一見すれば小さなことの中に、家族という身近な歴史の背後に、ゆたかな文化と歴史が織りなされているのだということを、行事やお菓子やという具体的な生活の断片を通じてぼくたちに見せてくれる。

 ケーキをつくるときは、厳密にレシピの通りにやらなきゃならないと、ケーキをつくる人はよく言う。ぼくは料理はするけれどケーキをつくることはしないので、そういうものかと思っていたのだが、この本によればフランスの家庭ではそんな厳密につくりはしないようだ。計量の大さじと小さじでなくスープのスプーンとティースプーンを、計量カップでなくグラスをつかい、強力粉と薄力粉の区別をせず粉をふるいにかけることもしない。バターでなくマーガリンをつかうことが多いという。
「ケーキづくり」をするのではなく、食べて楽しむためにケーキをつくるというわけだ。そうだよなって同感する。ときどきケーキを作ってストレスを発散する、うちの娘に見せたら、レシピの説明が短くて気楽にお菓子をつくろうという気になるよ、たいていは説明が長くてうんざりするけど、こんな本はないとよろこんだ。これまで彼女は、「こどもがつくるたのしいお菓子」という、子供のためのお菓子作りの本を愛用してきた。
 さくらんぼのエピソードはパリコミューンにさかのぼり、ドイツとフランスによるアルザス・ロレーヌの取り合いのおかげで生まれたロマンスがエマニュエルさんをこの世に存在させたこと、エマニュエルさんの叔父上のおかげでコルビュジェがロンシャンの教会を設計することになるいきさつ、etc. そうした家族の歴史と世界の歴史の重なりが楽しいのだ。

 この本は著者が15歳の頃から書きためた料理ノートをもとにしているのだという。(上の写真をクリックすると、そのくだりの書かれたページが開きます)また、この本をつくるときから描くようになったのだという魅力的なイラストも著者の手で描かれた。フランスで知り合った日本人と来日して結婚。日本に住んで15年というときにこの本が書かれ、それからさらに10年ほどが経っている。フランスの家庭でつくられるお菓子の本とされているけれど、そんな枠を軽々と飛び出してしまう。お菓子のつくりかたを書きながら、じつはフランスそのものが書かれている。そして、ぼくたちは、同時にそこから日本を読み取るから、文化の翻訳をした本でもある。なにしろ、フランスで知り合って、のちに結婚した日本人とは翻訳家・村松潔さんなのだ。以前に「HOW BUILDINGS LEARNという本」というエントリーで村松さんのことを書いたことがある。村松さんご家族は、AKiさんの設計されたOMフォルクスハウスにお住みになって約10年。家が生まれたころに、この本もつくられたわけだ。昨年末に出版された村松さん翻訳の「ヒストリー・オブ・ラヴ」という小説は複雑な構成にして、とても美しい物語だ。

■AKiさんが、さっそく、この本と村松さんの家のことをエントリーされた。
aki's STOCKTAKING:さくらんぼのしっぽ

■追記 いま、村松 マリ・エマニュエルさんは、全日空の機内誌「翼の王国」に、「vous aimez les madeleines? マドレーヌはお好き? 」というエッセイとイラストを連載していらっしゃいます。

投稿者 玉井一匡 : 06:10 PM | コメント (21)

January 15, 2007

ワインとパンと雑煮


 年末に「わがやのお雑煮大会」への参加をよびかけたのに応えてたくさんの方がそれぞれのブログでエントリーしてくださった。
 まちには大型店が道の両側を埋めて地元の商店を閉店に追い込み、日本中のどこもかしこも同じ町並みにしてしまうこの時代にあって、雑煮には「場所の力」がいまもって健在であることが確認された。それには、いまでは生活慣習となっている正月が、もとは宗教的な行事であり雑煮がその重要な一部であることが大きな影響を及ぼしているのだろう。
「石川県加賀のシンプル雑煮」のエントリーに「この雑煮は神饌のお下がりを戴く正月の儀式の一部なんでしょうね。」とiGaさんがコメントを書かれたので、僕はカトリックの聖体拝領について触れた。いささか軽卒で乱暴な書き方をしてしまったので、後日その部分をすこし書き変えたのだが、それにはつぎのような経緯があった。

 「わがやのお雑煮大会」におさそいしたkadoorie-aveさんから1月6日にメールをいただいた。三が日あけに締め切りというしごとが3つも入っていたので遅くなったけれど、やっと雑煮エントリーをしたというおしらせだった。だが、そのメールには次のような件りがあった。すこし長くなるけれど、大切なことだと思いkadoorie-aveさんの了解をいただいたので引用する。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それで...あの...。
先程、玉井さんの「石川県加賀のシンプル雑煮」のエントリーを感心しながら拝見していたのですが
コメント欄の「カトリックの聖体拝領は、キリストの血として赤ワインと肉の代わりの種無しパンを食べるわけだから、キリストを食べちゃおうっていうずいぶん野蛮な宗教だと、よく思います。」というところに、少々悲しい気持ちになりました。
私は、その野蛮なカトリック信者です。
「キリストの血として...キリストを食べちゃおうっていう」というのは
すっかり間違いとはいえないのですが、なんだか少々違う。
「好き・嫌い・肌に合わない」ということならば、誰でも好みは自由だから構わないと思いますし、なるほど的を射た指摘だ...と思えることは、批判的な内容であっても
考えるきっかけになるのですが。。。
「野蛮」というのは、なににつけ、相手への無理解と軽蔑の意味を含んでいて、同意できる大多数のお仲間の間では問題がないのでしょうが、それ以外の人々を疎外する、寂しい言葉だと思うのです。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これは抗議というようなものではなかったが、そのとおりだと軽卒を反省してぼくはつぎのように書き替えた。「カトリックの聖体拝領は、キリストの血として赤ワインと肉の代わりの種無しパンを食べるわけだから、キリストが肉体を分け与えることを思うたびに、肉食文化の神であることを実感します」と。
最後の晩餐で、キリストが弟子たちに別れを告げながらワインとパンを与え、わたしの血と肉だといったのを儀式化したのが聖体拝領だ。けっしてぼくはカトリックに否定的なわけではないのに、それをもって「キリストをたべちゃう」「野蛮な宗教」なんていう書きかたをしてしまった。ぼくはカトリック系の幼稚園にゆき、母方の祖父が長崎県の出だったから平戸出身でフランシスなんていう洗礼名をもつ農家出身の学生が身近にいた。井上ひさしによれば、カトリックはじつは異教に対して寛容なのだと書いていたのを読んだことがある。南米や日本での布教にあたっては、既存の神の形式を残したままでキリスト教との共存を認めていた、日本のマリア観音などのように・・・というようなことだった。カトリックのそういう在りかたをぼくはすきなのだ。だからかえって友人のことを荒っぽい調子でいうような感じでこう書いてしまったのだった。

 「一神教の奴らのせいで戦争が起こるんだ」というようなことをいわれることもあって、神経質になってしまったかもしれないと、kadoorie-aveさんはおっしゃってくださった。そうした荒っぽい理解と論理でひとの根源に関わるようなことをことばにすること、さらに否定することこそ、じつは「一神教」であること以上に対立を引き起こすのかもしれない。ぼくの書き方もそのひとつだった。「一神教」を信じる人の意思を尊重することをせず、勝手に「多神教」の神のひとりとして祀り上げてしまうということを、ぼくたちの多神教の国がやった歴史がある。だとすれば、ことは神の数ではない。
 宗教にかぎらす、たがいに異なるもの同士が接することはかならず生じる。だとすれば、それらのあいだを分離するような壁をつくることで問題を避けるのではなく、混在しやすい領域を、その間にもうけて共存をはかることで、解決に近づくことができるのではないだろうか。
kadoorie-aveさんは幼児洗礼をお受けになったから聖体拝領がすでに身についていらっしゃる。そのときの気持についてこう書いていらした。「聖体拝領は、週一回、日常から切り離されてキリストを『思い出す』ための嬉しい『しかけ』です」と。聖体拝領のときの気持ちを、ひとにたずねたことは、これまでぼくは一度もなかった。しかし、そういわれれば分かるような気がする。

それぞれに別々のルーツをもつ人々の共存する家庭という場所にあって、さまざまな形式と歴史をもつ雑煮が、あるいは日を分けあるいは融合しつつ共存していることが分かったのは、なにはともあれ目出たいお雑煮大会であった。

投稿者 玉井一匡 : 08:20 AM | コメント (2)

January 05, 2007

石川県加賀のシンプル雑煮


 昨夜、かきのきのくらさんから、こんなメールをいただいた。ぼくがお願いしたので、お雑煮の写真が添付してある。
「お雑煮の写真ですが、いざ撮ろうかなと思ったら、母が『ネギだけじゃ恥ずかしいから、菊と三つ葉を入れちゃおう』ということで、若干見栄はり石川雑煮です。
少しピンボケで、すいません。」
さらに時をさかのぼる昨日1月4日の昼過ぎ、「わがやのお雑煮大会:三日目に」のエントリーにこんなコメントが書き込まれていた。

「遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
さて、わが実家(石川県加賀)のお雑煮ですが、
これが実にシンプルというかわびしいというか…。
まず、昆布で出汁をとった鍋で餅(丸)を煮ます。
それとは別の鍋でスルメと昆布と醤油で汁を作ります。
あとはそれらをお椀に入れて、
刻みネギを散らすだけ。ただそれだけ。
すうどんならぬ、す雑煮。
なぜ、このような質素な具材なのかは、
いろいろとリサーチしましたが、不明。
飽食の時代に流されるな、というメッセージを噛みしめろ!
という勝手な解釈をしながら美味しくいただきました。
まさに、わが実家に欠かせない、お正月清貧です。」

そもそも、かきのきのくらさんは「おにぎりとおむすび」のエントリーに、石川県のご実家のお雑煮についてのコメントで、「我が家の雑煮バトル大会」に石川県代表として参戦します」と、こんなぐあいに予告された。
「『わが家のお雑煮話し』をすると、
口の悪い友人は『ひょっとして、小さい頃、ビンボーだった?』
と言われるくらい、シンプルというか、とても質素です。」

ということだったから、ぼくは興味津々でレポートを待った。くらさんはブログをつくっていらっしゃらないから、メールが届いたら、このブログにエントリーしようと思っていたのだ。母上のご努力の結果から、三つ葉と菊の花びらをとり、お椀の下に敷かれた南天と松の葉を取り去った状態は容易に想像がつく。焼き物も塗り物も、日本で屈指の産地であり、海産物は豊かであるはずの地なのに何たる質素。どういうわけなのだろう。
母上の「見栄」も微笑ましいが、なにもない雑煮の潔さが、僕にはここちよい。

 追記:1月8日成人の日に、初めて加賀雑煮をつくった。ダシと餅だけで勝負するだけに、加賀雑煮はむずかしい。前日から昆布とスルメを水に冷やかしておいたダシには鰹もアゴもつかわない。ただ、酒は少し入れてわずかに醤油を落とし、最後に青い葱を散らした。
いささかも貧しくはない、ストイックでむしろ気高い雑煮かもしれない。朝早く起きたので、家族が起きるのを待たずにぼくはひとりでつくりひとりで食べた。この雑煮には、その方が相応しい気がしたのだ。
これからも、ときどき挑戦してみたいと思う。

そのあとしばらくしてから、スーパーが開店してすぐに新潟雑煮の材料を買いに行った。東京ではまだつくっていないのだ。それに新潟でも自分ではつくってはいない。小松菜の一把、蒲鉾の一本、鮭の切り身一切れが百円均一になっていた。イクラの小さなパックだけは300円を超えたが、大根はうちにまだあるし、松もあけたあとの雑煮もいいもんだ。餅の上につゆをかけるスタイルにした。すこし、わがやの伝統から逸脱したが、新潟のご近所でもそうやっているところもあるそうだ。

投稿者 玉井一匡 : 08:50 PM | コメント (12)

January 03, 2007

わがやのお雑煮:三日目に


 一昨年の春から新潟市に加わったが、長い間新潟市の郊外の田園地帯だったこのあたりでは、三が日は朝に雑煮をたべて昼飯は抜きということになっている。現在は新潟市亀田早通という。どこまでがそうなのか分からないから、とりあえずは限定しておくのだが、そういうところは少なくないようだ。今朝は、料理を教えている叔母におそわった雑煮だ。油で揚げた餅と、出汁に大根おろしをいれたみぞれ汁。油のくどさをおろしでやわらげる。
教わったといっても、揚げ餅にみぞれ汁ということをきいただけだが、それに二つのコツを教わった。「角餅を揚げると角が割れてふくらんじゃうけれど、丸餅だと真ん中がきれいにふくらむ」「おろしは、ザルで水を切っておくくらいの水っけがちょうどいい」・・・口伝である。そして、叔母は丸餅のパックをくれた。

具は、昨日の雑煮のトッピングの残り、薄焼き玉子の細切り、ゆでたホウレンソウ、かまぼこをつかった。
揚げた餅をお椀に入れて、上に具をのせ、みぞれ汁をかける。残り物の具はすっかり冷えているから、器といっしょに湯通ししてあたためた。大根おろしのむこうに鮮やかな色が透けて見えるようにしてイクラだけを最後に散らす、というつもりだったが、ゆずを底に潜めるのを忘れたので、それも上にのせた。よくばって餅を三つも入れたのでおつゆの水位が餅とくらべて低くなったが、餅をひとつにしておけばおつゆの水面がもう少し広くなって、もっと美しくできたろう。ダシは、アゴダシのパックという手抜きです。これも、叔母がくれたのでした。
去年も一度つくったのだが、娘たちは揚げた餅はとてもうまいけれど油が心配だといいながら、それでも喜んで食べた。ことしの新潟の正月には、娘たちは同行していない。

投稿者 玉井一匡 : 12:20 PM | コメント (30)

January 01, 2007

わがやのお雑煮大会

 雑煮はぼくがつくるつもりだったが、沈丁花の霜よけをつくったあとで買い物をして帰ると、雑煮はすでに母がつくってくれていた。おかげで楽をしたのだが作る過程の写真がなくなった。ご近所や来客に、それぞれのお雑煮についてたずねてみると、あたりまえだが細かいところでは家によって違いがあるようだ。
そうして洗い出した新潟の雑煮の基本形は、餅は焼くのではなく水でゆでること、短冊に切った大根を中心とする具に醤油味の汁が骨格をなす。 ダシは干し貝柱でとった。
 ゆでた餅とおつゆが、うちでは祖父母の時代から別々の器で出されていた。雑煮のおつゆのほかに、きな粉と餡が別々の器にいれて出され、雑煮を食べたあとに餡をかけたり、きな粉をつけたりして食べたからだったのだろう。相当な大食を前提とした形式だ。たいていの男たちは十数個の餅を食べた。父など20個以上も食べたことが自慢だったが、それはなにもうちの家族だけの特性ではなくて、米どころ新潟の意地や勢いに支えられたところもあったろうが、男たちは普通に十数個は食べた。しかも、大きさはいまの市販のものの3〜4倍はあるのだから、いまの餅で換算すれば30〜40個に相当する量を食べていたことになる。

 おつゆというよりも大根の煮物というべきものには、ほかにもさまざまなものを加える。必須は新潟で「塩びき」という新巻鮭を賽の目に切ったもの、それにハサミで細く切ったスルメも加えるので、さらに豊富なダシが出る。植物性材料は銀杏、干し椎茸をいれた。
 これをお椀についで、トッピングを加える。蒲鉾、いりたまごあるいは薄焼き玉子の細切、茹でたほうれん草、ゆでたイクラ(こども言葉ではトトマメと呼んでいた)などをのせるのだが、そういえば赤白黄緑といういろの取り合わせは、前のエントリーの「びゃっけ」の色紙の鮮やかを思い出させる。

 新潟ではおせち料理を正月にはたべない。お年夜(おとしや)とよぶ大晦日に、おせちのような料理を食べて、正月三が日は毎朝雑煮で昼食を抜く。お年夜の必須メニューは鮭の塩引き。なぜか新潟では、塩びきの切り方は普通の切り身とはちょっと違う。三枚におろした半身を縦に長く二分する。背の身を7〜8cmに切って、大きな物であればそれをさらに縦に二分する。こうして切り分けた背の部分が、いちばん上等な部位とされる。格下とされる腹の部分を賽の目に切って雑煮に使ったんだと、作一さんにきいた。いまでは脂ののった部分としてむしろ旨いとされる部位なのだが、むかしの鮭は保存のために今よりもずっと塩からかった。たっぷり塩を詰めた腹はとりわけしょっぱかったからという理由もあるだろう。今では最も人気と価値の上がったマグロのトロが、かつては捨てられたり、ネギマ汁に使われたのと似ているかもしれない。 

追記
みなさんをおさそいするにあたって「影響をおよぼしたであろうご家族の出身地やお住まいの場所についてのご説明をお加えください」と書いておきながら、自分で書き忘れてしまいました。
おにぎりとおむすびというエントリーのコメントでちょっと書きましたが、ぼくの母方の祖父が平戸藩、祖母は水戸藩の出身だった。武士は喰わねど高楊枝で、あまりたべものに執着しなかったのかもしれません。父方の祖父母は新潟の出身でいとこ同士でしたから、血が濃かったのでしょう。うちのお雑煮は新潟風です。


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投稿者 玉井一匡 : 08:20 PM | コメント (43)

あけましておめでとうございます


あけましておめでとうございます。ことしの元旦は、お雑煮大会のエントリーが控えているので、早々の年賀エントリー。
数年前のこと、本屋で見つけた「神々の里の形」という本を開いて、ぼくは唖然としてしまいました。(味岡伸太郎著・山本宏務写真、 この本、絶版になったようで、ぼくが買ったときには初版第一刷で3800円だったのが、amazonで12,000円もしています。)「苟くも民間芸術を談ずるの士は之を知らなければ恥」と柳田国男をして言わしめたと書いてありましたが、この祭りについてぼくはなにも知りませんでした。一月二日におこなわれる、愛知県北設楽郡東栄町古戸の花祭りで使われる衣装、飾り、面。それらの構成。そのどれをとっても、そういっては失礼なのを承知で言えば、これほどのものがこんな小さなまちで伝えられてきたということに奇跡的なできごとのように感じました。

 この年賀状の色とりどりは、祭りの中心の場をつくる「びゃっけ」とよばれる天蓋の写真です。本では見開きの2ページの写真で中央に綴じ代があってスキャンできないので、左の三分の一をスキャンして、さらにPHOTOSHOPでそれを反転したものを右と中央に並べて、3つを合成しました。これは「ひいな」つまりお雛さまが三体つながったもののようです。それが正方形をなすようにつなげて四面を囲んで一種の結界をつくり、そこに神を招くのです。人間と神と共有するMyPlaceというわけです。

 じつは、先日エントリーした「ペラペラダンサー」を見たときにぼくは、形代を、そして次にこの「びゃっけ」を思い出しました。本当は、色紙を切って自分でつくってみようと思っていたのですが時間が切迫してしまい、やむなく本の写真を加工することにして、その中に、「一陽来復」と「丁亥元旦」の文字を包みました。
よい年は、勝手にやってきてはくれそうもないから、力ずくで、今年をいい年にしてしまいましょう。

投稿者 玉井一匡 : 12:25 AM | コメント (8)

December 27, 2006

「わがやのお雑煮大会」へのおさそい


「おにぎりとおむすび」のエントリーで、映画「かもめ食堂」と、「おにぎり」あるいは「おむすび」という呼び方について書いてから、もう1週間以上が経ってしまいました。そこにわきたさんの書き込んで下さったコメントで、地方によって呼び名や形が違うという指摘がありました。そこから、雑煮も地方によってさまざまな材料と形があるという話題に移って行きました。
 お雑煮は行事料理なので今でも地方色が残され、古くからの地名と同じように歴史を読み取ることのできる資料となっています。しかし、現代の社会では、しごとや結婚による移動が増え、それぞれに生まれた場所と生活する場所、さらには親や祖父母の出身地などがお雑煮の形式に反映しつつ混じり合うようになっているのではないでしょうか。今からさらに時が経てば、雑煮そのものの交雑がすすみ、歴史資料としての雑煮の性格が曖昧になるでしょう。
 そこで、アースダイバーの主犯の諸氏と語らい、正月に同時多発エントリーを呼びかけようということになりました。

masaさんが「わがやの雑煮バトル大会」と名付けて下さりましたが、正月早々にはおだやかに過ごすべく、バトルをはずして「わがやのお雑煮大会」とさせていただきました。アースダイビング大会参加者、当ブログにコメントをくださるブロガーにメールをお送りし、それぞれのブログにて「わがやの雑煮」についてエントリーしてくださるよう参加を呼びかけます。さらに、それをお受け取りになった方からも、多くの方に呼びかけて下さるようおねがいします。材料や心構えの準備もあることでしょうから、多少の余裕をもって、本日、これをエントリーします。
上記の趣旨にもとづく企てですから、写真を含め、どのようなお雑煮を召し上がったのかということに加えて、それに影響をおよぼしたであろうご家族の出身地やお住まいの場所についてのご説明をお加えください。
かくして、2007年正月、雑煮についてのブログ横断一大新年会となり、さらに、お雑煮データベースができることを期待しましょう。
 なお、スパムトラックバック対策のため、現在はこのブログのトラックバックはとめてありますが、正月までに再開させます。・・・・・と書いたのに、うまくいかなくて、トラックバックはできないままです。ごめんなさい。

投稿者 玉井一匡 : 02:00 PM | コメント (25)

November 25, 2006

第四回アースダイビング:王子の玉子・むこうじまのもんじゃ-1

EdvgOgiya2.jpg
都電早稲田駅に集合して電車で王子に行き、あたりを巡ったあとで三ノ輪まで都電で移動。音無川づたいに吉原をかすめて向島まで歩いた。
そのルートはMADCONNECTIONに、写真はkai-wai散策に丁寧にエントリーされているが、かつて川は場所と場所を結ぶものだったから、それをたどって歩くと積み重なった思いもかけぬ時間の層をみつけることができる。MADCONNECTIONのエントリーで「扇屋」の木造三階建ての写真を見て、王子という場所の意味を分かっていなかったことをいまさら知ることになったので、ぼくは扇屋に行ったら玉子焼きを買おうと思っていた。
 飛鳥山の周辺をひとしきり巡ったあとで、ここが扇屋だとiGaさんにいわれてぼくは唖然とした。なんとなく、まだ木造三階建ての店があることを思い描いていたらしい。いまは玉子焼きだけを売っているのだという店は、一坪ほどの屋台のようなものだった。
AKiさん、まっつあんのあとに注文した玉子焼きを包むあいだに、というよりもそれをきったけに店のオヤジさんがあれこれと古い話を話を聞かせてくれた。
「木造の建物は10年くらいまえにビルにしました。そこに書いてあるでしょ」と指先を見れば背後にあるテナントビルの前にはたしかに「扇屋ビル」とある。いささか落胆したぼくを、そのあとオヤジさんはもういちど驚かせてくれた。

「じゃあ、この写真のお店はいつ頃まであったんですか」とベアトの写真のプリントアウトを指す。
「もともと、この店は都電通りの向こう側にあって、この場所は庭だったから川越しに庭と神社を見るようになっていたんです。写真を見ますか?」
「ぜひ、お願いします」
玉子焼きは注文のたびにビルの横手を回って奥から取り出すようだが、オヤジさんこんどはアルバムを抱えている。それを開くと、中には店の古い写真やら箸袋やら扇屋の描かれた銅版画なんぞが満載されている。
「こういうのもありますよ」と取り出した和綴じの本が数冊
江戸名所絵図の本物だ。
「写真を撮らせていただいていいですか」とiGaさんがたずねると、もちろんいいよという笑顔
「おーい、masaさん、すごいよ」
「いやあー、これはすごいですね。改めてうかがいますから、そのときにまたゆっくり見せてください」とんで来たmasaさんは興奮の体
「いいですよ」とオヤジさんは相好をくずす。
「この鼻眼鏡を憶えておいてください」と、ひとをなごませずにはおかないmasaの笑顔の力だ。
masaさんはとりあえず記録班と化して写真を数枚。
「江戸時代、音無川はここまではのぼることができたから、お城の女たちの宿下がりのときに、船に乗ってお堀から神田川を下って大川へ出てすこし上ってから音無川をここまで上ってくるんですよ。店の前あたりは浅いから水に入れる。店の中にいて川の中に小判を投げると、それを女たちが水に入って拾うために裾をたくしあげているのを見て楽しんだりしたんです。」
「やなやつだなあ」
「いや、そういう遊びがあったんだ」
「へえー」と聞いていたが、投げるやつは誰なのだろう、貴重な宿下がりのときを割いてまでそんなことをして男をよろこばせてやらなきゃあならないんだとしたら、そいつは殿様だろうか、あとになって疑問がいろいろ湧いてきた。
「お花見のときには『かそう』が許されたんだよ」
「家の相ですか?」
「いや、衣装の仮装」
「武士たちが?」
「庶民が仮装したんです」
「じゃあ、浮世絵にあるんでしょうね。仮装した花見のやつが」
祭りというものは、時間限定・地域限定で日常の生活から離れるものだろう。仮装というのは、きびしい身分精度から解き放たれるということで、当時のひとびとにとっては、ぼくたちの想像以上に、大きなことだったのかもしれない。・・・・・そんな具合に興味深い話がつきないから、ついつい玉子焼きを買おうとして包装を待っていたことをすっかり忘れていた。
「きみたちのおかげで、お客さん10人くらい逃がしたよ」と、先に玉子焼きを手に入れて、ちょっとはなれて待っていた余裕の隊長は大人の発言。お二人はちゃんと箱に入れて包み紙をひもで結んでもらったがぼくたちはプラスチックの箱に入れてビニール袋をもって帰ることになった。しかし、それは盛りだくさんの話がおぎなって余りある。思いはすでに王子にあそびに来たひとたちの水路の道筋にあった。江戸城を出て外堀から江戸川(神田川)を経て柳橋に至り、そこから大川を少しさかのぼって三谷堀に入り、音無川を王子までやってきた一行の道中を、ぼくたちは歩いて逆に下るのだ。

(はじめの玉子焼きの写真は1/2サイズの630円、クリックすると1260円サイズになりますが、これはフォトショップによる合成です。ぼくが大きいサイズを頼んだけれど、iGaさんが半分サイズを注文したところ店先には大ひとつぶんしかありませんでした。オヤジさんがわざわざ奥までとりに行かなくてもすむように、二人で半分ずつわけたのでした。)

日曜日、西友に買い物に行った帰りに自転車を倒してしまい、玉子が4つ割れてしまった。扇屋を思い出して大きな出汁巻き玉子をつくることにした。ワンパック10個をみんな使ってしまおうかと思いながら、何かのために残しておこうなんて考えて、けっきょく6個にした。扇屋と比べるとちょっと甘さと出汁の汁気が少なかったようだ。なにしろ、23日は扇屋の玉子焼きをビニールの袋にいれてバッグで半日持ち歩いていた。帰りがけの電車で「かくれさと苦界行」を開いたらバッグに雨が当たった気配はないのに本が濡れている。さわるとベトベトする。玉子焼きのせいだったのだ。それくらい汁っけが多かった。しかし、ここだけのはなしだが、ぼくの作ったほうがきれいにはできているとひそかに思っているのです。

続く

投稿者 玉井一匡 : 01:57 AM | コメント (41)

September 06, 2006

「もんしぇん」と「一角座」

asahiMonshen0902miniweb.jpg「もんしぇん」を上映している一角座は、とてもいいそして希有な映画館だが仮設建物としてつくられている。だから、もったいないことだが上映が終わると解体されてしまう。そこで、9月2日土曜日、トークショーもあるので写真を撮ってエントリーしておこうと、ぼくは一角座に行くことにしていた。
ちょうどその朝、朝日新聞の都内版に「もんしぇん」の記事が、なかなか丁寧に掲載されていた。 オイこんなのが出ているぞと朝刊を手渡しながら週末の「be」のブルー版を開くと、そこには荒戸源次郎氏のインタビューが出ている。荒戸氏は、ほかでもない、国立博物館の構内という場所に映画館を作ってしまった犯人、いや当人だ。そんなわけでさまざまなことが、この日に重なってしまい、書かなければならないことがたくさんできてエントリーがおそくなってしまった。

荒戸源次郎のインタビューは「逆風満帆」というシリーズで、この日は彼の2回目だが(中)と書かれているから、もう一度掲載されるようだ。たしか2週前の土曜日が一回目だった。宍戸錠の主演でつくったハードボイルドの映画が、日活の口出しで題名をねじ曲げられた。以来、自前の上映館を持たなければ思いどおりのものを世に問うことができないと、仮設の映画館をつくって「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」、「どついたるねん」などを単館で上映した波瀾万丈の映画人生を語る。荒戸源次郎のすごみがよくわかるインタビューだが、どうせなら一角座で「ゲルマニウムの夜」を上映しているうちにこれを掲載しろよと思いながら読んだ。それで客が増えたりしたら「逆風」じゃなくなるかもしれないと考えたのか。

 国立博物館の構内の一角座というところで上映するんですと言っても、普通の大人は博物館の一室にある映画館かと思うし、仮設の映画館だといえば、丸太や鋼管の足場でつくった芝居小屋を思い浮かべるだろう。
しかし、国立博物館左脇の国際児童図書館の向かいにある西門の脇の小高い場所に建つ一角座は、いっこうに仮設には見えない。芝生が広がり樹木に包まれた前庭は、秋の日差しがふりそそぐ。気持ちよい屋外のホワイエのようだから、ここを含めて考えれば、東京でも屈指の映画館ではないか。その入り口の両脇には、荒戸源次郎の宣言が掲げられている。「一角座の由来」と、「映画維新」と題する日本の映画界に対する檄文である。ここには、一角座を「ゲルマニウムの夜」のためにつくったとはあるが、仮設だとは決して書かれていない。

外壁は焼付塗装した鉄板のパネルとガルバリウム鋼板の波板。中に入れば、重量鉄骨の柱と梁の堂々たる構造体に、壁はグラスウールボードをアルミのパンチングメタルで包んだパネルを張りつめている。音響もいいし、グリーンのシートは間隔もゆったりとってあってすこぶる快適だ。仮設建物でありながら、じつは日ごとに契約を更改するようにして、 いつまでも存在することを志しているのかもしれない。
この日のトークショーのゲストは叶精二氏。「高畑勳・宮崎駿作品研究所」を主宰する、高畑・宮崎を論じて右に出る者はないひとだ。10年以上前に「もののけ姫を読み解く」という本を出されたとき、それについての講義に参加して以来、夕海の相談相手のひとりとなってくださり、ときに厳しい批判者でもある。満員の会場で、この日は、短い時間で名前と海について語られた。

どこをもんしぇんの上映場所にしようかとあれこれ悩んだが、いわゆる盛り場でなく、まちと血の通わせられるところで上映したいと、夕海は一角座を望んだが、荒戸氏は業界でも強面で畏敬されているらしい。
「ヤクザってどういうことだろう」と、ある日夕海にたずねられた。「うーん、社会的な規範から逸脱する。でも、みずからに独立した規範を課してそれを徹底的にまもる。」「じゃあ、いいことじゃないの」
「正しいヤクザ」をハードボイルドと読み替えてもいい。
そこは、恐い者知らずの強みで、一角座上映をシグロにお願いした。「ゲルマニウム」の上映のあとに一角座で「もんしぇん」を上映させてほしいと、荒戸氏のために試写をして面談していただいたのだった。ゲルマニウムとは違う方向を向いているかもしれないが、10年以上もの長い間、思い続けてやっとこの映画をつくったということを見込んでくださったのだろう。あるいは、荒戸映画とは種類が違うが、やはり角が生えていると思われたのかもしれない。一角座で「もんしぇん」が上映できることになった。長いと思っていた9月29日までの上映期間は、もう3週間目が終わろうとしている。
以前は、国立博物館の公式ホームページに一角座のことが掲載されていたが、いつのまにかそれがなくなっていた。「もんしぇん」の上映の前に解体されるんじゃないかとひそかに心配したが、それは杞憂におわったものの、かけがえのないこの映画館がいつまでも生き続けるためにも、どうか見に行ってやってください。あるいは、もうこの映画館を見られないのかもしれない。
半券で、来年の2月まで博物館の常設展示を見ることができます。

投稿者 玉井一匡 : 11:57 PM | コメント (6)

July 18, 2006

新潟の田んぼと長屋

 7月14日金曜日、やがて日付も変わろうという深夜、私のところにこんな電話がかかって来た。
「急な話だから笑ってくれていいけれど、これからいっしょに新潟に行きますか? ぼくはまだ事務所にいて、これからうちに帰ってクルマでここにもどってから行くけれど、ウチに泊まるから交通費宿泊費は不要」
「行きます」即座にこたえる。
「ほんとかい。じゃあ、事務所にもどったらまた電話するよ」
1:30になろうかというころになって、電話をよこした男からやっと連絡があった。彼の事務所から私の自宅までは、この時間なら5分もあればおつりが来る。
・・・・・・・・という具合にことははじまったのだが、kai-wai散策「月夜の京島で」のコメントにこの事情をすでに書いたので、ここではそれとは逆の側から書くことにした。もちろん、「私」はmasaさんで、「電話をよこした男」はぼくだ。

土曜日は仕事とご近所ワークだったが、翌日は自由時間ができたものの雨ときどき曇り。近くの田んぼの景色をmasaさんに見せたのだが、あいにくの厚い曇り空でこんな具合だったからふた月ほど前の田植えの作業中の写真を、ぼくはアップロードした。水を張られながらまだ田植えの済んでいない水田は、まるでどこまでも続く池のようだ。農道に並んでいる四角い緑色は、田植機にのせるために四角いパレットにのせられた苗たちだ。田植機で往復して来ると、空になったパレットとこれらを交換する。これほどの広いところに、あまねく水をゆきわたせる技術と労働が何百年も続けられたことを思うたびにぼくは胸を打たれる。なにしろこの一帯は標高1mほどで海から10kmほどのところにある。斜面にしたら1/10,000の勾配ということになるのだから。
そのあとで、新潟市の旧市街、下町(しもまち)といわれる信濃川の下流一帯に侘び錆び建築を探しに行った。予想をはるかにこえるほどのmasa好みの家屋があった。新潟島ともいわれる旧市街は、周囲を海と河に囲まれ、海沿いには高台がある。それに、信濃川河口の一帯は、かつて内陸から水路を経て運ばれて来た米の集積地として栄えた。長屋や町屋の豊富な環境は整っているのだ。川の上流の森が河口の漁業資源をゆたかにするように、新潟では上流の豊かな水田が河口の一帯に低層高密度のまちをつくったのだろう。
ふたつめの写真は、すでに空き家になった二階建て二軒長屋。玄関のわきに張ってあるタグには「新潟市 水洗便所」とあるのが、潮風で風化した表面からはすっかり塗装が剥げおちて、それがとてもうつくしい。そういえば、neonさんが表紙をお描きになった「福祉史を歩く」に、明治中期から後期の日本の県別の人口統計表が掲載されていた。これには、ぼくはいまだに半信半疑なのだが、明治中期には新潟県が日本でもっとも人口が多かったことが記されている。このまちの密度の高さと古い水洗便所のタグのやや誇らしげな表情は、そういう歴史と何かの関係があるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 04:31 PM | コメント (13) | トラックバック

June 17, 2006

まちかど建築写真展とガイドマップ


 いま、目白バ・ロック音楽祭という催しがひらかれているが、その一環として「まちかど建築写真展」が三春堂ギャラリーで開かれている、と書くべきなのだが、ぼくは最終日の昨日になってやっとうかがったので、「開かれていた」としか書けないのが残念だ。
開店まで時間があったので、途中でカフェ杏奴に寄ってひと休みした。こういうのをChinchiko Papaがお作りになったんですよと、ママが見せてくださった「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」は、すでにブログで知っていたが、とても楽しそうなイラストが入っているし道は正確に書かれているいい地図だった。チャイを一杯飲みながら店の地図を楽しんだ。帰りがけにこれも一部といってレジで渡したらママは怪訝そうな面持ち。三春堂ギャラリーでお求めになったほうがChinchiko Papaさんがお喜びになりますよという。そりゃそうだといって自転車に乗った。

 まだ開いたばかりのギャラリーにはChinchiko Papaがひとり。
「この地図どうですか」と、まずはガイドマップをすすめられた。chinchikopapalogの内容の充実ぶりは、ブログを開いてみると多くの人があきれてものがいえないほどなのだが、そのblogに書かれている数々、現実の町、そしてこの写真たち、ガイドマップはそれらをつないで、ひとつの世界を構成する。「ぼくの学生時代からすれば、こういう建物は半分くらいになりました」というChinchiko Papaの口調には、とてもいたましい思いが込められているようだったが、バブルによる破壊の時代を経たことを思えば50%というのはむしろ奇跡的なほどよく残されていると、ぼくには感じられた。きっと、下落合や目白にはまちを愛している人たちが多いのだ。中村彝のアトリエが、ほとんど手を付けられずにそのまま残されているという奇跡的なことがあったのも、住み手個人のおかげであるのはいうまでもないが、まちのそこここに古い家が生きていることも少なからぬ力を及ぼしたはずだ。
「新宿区の教育委員会が保存するべく調査を進めているそうです。しかし、問題は予算で、現在お住まいの方は、アトリエを含む30坪ほど分けて売ってもいいとおっしゃるんだが、できれば全体を買い上げて保存してほしいですよね」
「まずは、第一歩として一部からはじめるのもいいでしょ。一部の土地でも、アプローチできるんですか?」
「となりに公園があるし、狭い路地もつながっているんです」
不要な道路やダムは、いまでも作られているというのに、重要文化財に指定されている「エロシェンコ像」の描かれたアトリエを残せるかどうか分からないのだ。ともあれ、建物たちはまちの中に分散するおかげで、blogと写真展とまちとひとというレイアをひとつにまとめる写真展だった。

*ガイドマップ「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」は、会期後はカフェ杏奴三春堂にて200円で販売します。

投稿者 玉井一匡 : 06:57 PM | コメント (4) | トラックバック

May 28, 2006

ピアニシモな建築たち


いつもそうなんだ、ぐずぐずしているうちに「ピアニシモな建築たち」も、おわりまぢかの時期になってうかがうことになった。松戸での打合せのあと千代田線で一本、根津の駅から不忍通りに出たが葉書をもっていないことに気づく。このあたりだろうと見当をつけて横道を折れたがわからない。masaさんの携帯にかけたが通じないぞと思った途端に目の前にNOMADがあった。ほのくらさが心地よい。ピアニシモを描いた人はすぐにわかった。絵の雰囲気と同じなのだもの。
小さな絵たちがならぶのを前にして腰を下ろしカプチーノを注文、neonさんの話をうかがった。

じつは、ぼくたちがブログで絵をみて文章を読んでいる時から、この個展が始まっていたのだと気づく。そういう世界の広がりかたが、またひとつブログの力なのだ。
お話をうかがっている途中で、息子さんがいらしたと店のひとがつたえる。ごはんをつくるのでかえらなければならないとうかがっていたから、「じゃあ」と言ったのだけれど「もっと児童館で遊んでくるそうです」とneonさんが戻って来た。いえと学校と児童館と、個展をひらいているカフェが結ばれて多次元をつくっている。ブログによって、もっとたくさんのひとたちとつくられたネットワークを加えれば、何次元あるのやら。そんなふうにこまやかに張りめぐらされたつながりのせいなんだろう、初めて入ったカフェの中なのにとても心地よい。
 これに描いているんですと黒い縦長のノートがテーブルに置かれた。開くと、1ページにひとつずつ中央にスケッチが描かれている。細く黒い線。「ロットリングなんていうのじゃなくて、ふつうの細いサインペンです」本のように丁寧に製本された上等なノートに、すべてサインペンで、躊躇いのない線で描かれている潔さ。しかも、ノートの紙の端が全く汚れていない。優柔不断にして本の汚し屋であるぼくには、とてもありえない。これが、スケッチ帳なのだ。「現場でスケッチするんですか?」「いいえ、現場ではしません」「写真をとってくるだけ?」「そうです」
 絵を描いている人たちはスケッチを重ねてゆくものかとおもっていたけれど、そういう描き方からは、このひとはどうも自然に逸脱してしまうようだが、それは、絵を美大で勉強しなかったという自由のせいなのかもしれない。
 この絵たちからぼくに聞こえる音は、そっと放たれるピアニッシモというよりむしろ、演奏のまえの音合わせに解き放たれたフォルティッシモもピアノもある音たちが、勝手にテンデンバラバラにおしゃべりしてた。それらが消え去ろうとして、そして、これからいっしょに音を出そうとしているわずかな瞬間の音たち。ぼくにはそんなふうに感じられた。ここに描かれた建築たちは、このくにがとりわけそうなのだが、この時代の経済と産業のシステムの中で遠からず消えてゆく。にもかかわらず、これから演奏がはじまるんだと言っているようなのだ。

投稿者 玉井一匡 : 03:03 AM | コメント (2) | トラックバック

April 23, 2006

駒ヶ根の桜

  
信州、駒ヶ根に行った。4月20日の朝、厚い雲と雨を覚悟で東京を出発したのに、寝不足気味のぼくは、運転する塚原に申し訳ないが途中から助手席でぐっすりと眠りつづけ、駒ヶ根の少し手前で目を覚ましたころには霧が晴れて、連なる山並みがうつくしい。駒ケ根は、おそらく天竜川の流れがつくった伊那谷の細長い平地にあって東西を山並みにまもられている。
「エッセンシャルタオ」の著者である加島祥造氏とご子息の裕吾氏ご夫妻にお会いするためにだったが、この日になったのは、ちょうど桜が満開でみごろだとうかがったからだ。帰りがけに、教えていただいた駒ヶ根と高遠のさくらを巡った。この日が特別でもあったのかもしれないが、駒ヶ根と高遠は桜のあり方については、対照的だとぼくには思われた。

 雨上がりの青空と満開の桜、しかも雨のあととあって人出も少ないという思いもかけぬ幸運な巡り合わせで、駒ヶ根の桜はあたりの風と光さえ、さくらに染まっているようだった。4、5人が一眼レフを持って写真を撮っていたが、古寺の山門をガレージのようにしてジープタイプの消防ポンプ車が待機してるのがかえってのんびりとして見えた。フロントグリルの消防署のしるしは、ちゃーんと桜印なのだ。
 門の脇には、まるで岩の固まりのような太い幹からじかに枝をのばす枝垂れ桜の古木があって、そのまま、すでに加島祥造氏の水墨画のような姿をしている。ここの桜はそれぞれの木の一本ごとに魅力的だ。もうひとつの桜は、田んぼの中にのこされた墓を覆うようにしてただ一本立っていた。ここにも三脚を構えた人たちが3、4人いたので、ぼくはあぜ道に腹這いになって、枯れ草で人影をかくした。桜の背後には、仙丈ヶ岳だろうか、白い雪が雲と溶けあうようにして手前の山の間から顔を出している。そもそも色の淡い桜は、光のありかたや環境と背景、そしてまわりにいる人間の様子をそのままに吸い込んでしまう。あるいは吸い込まれてしまうのだろうか。
高遠はまちの真ん中にある城跡を埋めつくす桜が遠くから美しいが、近くにゆくと人出や屋台の数が多くて、花よりもむしろにぎわいを楽しむ場所になっていた。人が来てくれなければ観光は成り立たない、しかし人が多すぎれば、その場所のもっているよさを損なってしまう。期間がきわめて短い桜は、短期集中型の日本の観光地の典型だから、ひとにきてもらうことと気持ちよい場所であることを両立できるかというテーマを検証するには、高遠はとてもいいまちだと思った。が、それはあとのことで、駒ヶ根と比べると人出が多すぎることに、やや落胆してしまった。とはいえ、駒ヶ根でも、はじめに寄ったお寺は桜の名所で、観光バスやテレビ局のバスまで来ていたので、ぼくたちは車さえおりなかった。そういうぼくたちも、じつは環境汚染の一部なのだと考えると、文句を言えた筋合いではないのだが。

投稿者 玉井一匡 : 12:20 PM | コメント (3) | トラックバック

April 19, 2006

一輪のハナニラ


 刑部アトリエの前庭には、ヤマブキやシャガやニリンソウ、フッキソウなどもあったのに、うっすらと青い花は取り残されたようでとりわけ印象深かったのだろう、ロワジール別館漂泊のブロガー2Roc写真箱などに写真や文章があった。この季節には、道ばたなどでよく目にするのに僕はこの花の名を知らなかったのだが、おかげでハナニラというのだと知った。ああそうかなんて、記憶のすみにあったのをつまみ上げて思ったのだが、それは誤解で、ぼくの知っていたハナニラは食べられる別物だ。食用のニラを切らずにおくと、まっすぐに延びた茎が先端に小さなネギ坊主のようなつぼみを付ける。この状態のやつを集めてくると、ニンニクの芽のように炒めればニラの葉よりもむしろうまい。と、ぼくは思っている。葉っぱよりも数がすくないから、商品になりにくいのだろうが、中華街などでは束ねて売っていることがある。さらにそのまま放っておくと、そのつぼみの包みをやぶって四方八方に伸ばした手のそれぞれの先に水仙のミニチュアのような花(写真はBotanicalGardenより)をつけるのが愛らしいのだが、切り口から匂うのが難点だ。じゃあ、観賞用のハナニラも、その名にふさわしい匂いがするのだろうかと茎を折ってかじってみた。なあるほどニラの一族にちがいない。
これは最後の晩餐。キリストが「これは私の肉、私の血」だと、弟子たちにパンとワインを振舞ったように。

 とうとう門だけを残して、刑部アトリエはあらかた解体されてしまった。その、大谷石の擁壁の上に咲いていたハナニラなのだ、これは。そういえば、林芙美子記念館の池のまえに立って鯉に餌をやっていらした方が「わたしはこの隣に住んでいるんだ」とおっしゃったことがある。「おさかべさんですか?表札にありましたが」とうかがうと「よくお読みになれましたね。だいたい部という字がついている姓は専門職の帰化人が多いから、きっと先祖は朝鮮渡来の首切り役人だったんだろう」などと言われる。「いや、検事だったんじゃないですか」などと言ったのを思い出した。
咎なくて死す刑部アトリエのために、ぼくはそのハナニラを一輪だけ連れてきた。一輪だけの花があるときに、事務所では愛用の水滴に水を入れて小さな穴に茎を挿す。この水滴は、魚の形をしている。・・・・サカナはキリストのシンボルだったっけ。このあとイエは復活するのだろうか。

投稿者 玉井一匡 : 08:17 PM | コメント (6) | トラックバック

April 17, 2006

刑部アトリエと林邸と四ノ坂 けさ

 東西に長い刑部アトリエは東側から解体が始まり、林芙美子邸と向き合う西よりの棟はまだ残されていたが、今朝からはとうとう丸太の足場をかけてシートを張っている。 このあたりの上下の道をつなぐ坂には、山手通り際の一ノ坂から二ノ坂と名付けられ、林邸と刑部アトリエの間にはさまれているのは四ノ坂、というよりも、むしろふたつの緑ゆたかな家につつまれているというべきだろうが、坂は途中から御影石の階段に変わる。おかげでクルマが通らない。左右の家のありかたといい坂の勾配といい、さまざまな要素がこの坂道をここちよくさせている。みちのたたずまいをつくるという意味では、この西棟の方が、まちにおよぼす影響は大きい。

二つの家には、いずれも屋根におおわれた門がある。数段の階段を上り林邸には和瓦、刑部アトリエには大谷石の門柱にスペイン瓦をのせた門だ。門は、とかく排他的な印象を作り出すが、屋根がかけられると、それがむしろやわらげられて人を迎え入れる気配が生じる。 屋根付きの門には格式を示す意図もあったろうが、この家たちの門の2mそこそこの低い軒高は、むしろ人間的なスケールをつくりだす。しかも、坂道に面しているので階段を設けるから門は道路から退がる。おかげで道の空間はすこしふくらんで、坂道にゆたかな場所ができる。ケヤキはたおやかな枝に若葉をつけ、残りすくない花をつけた桜、ぼってりとした花を開き始めた八重桜、そして林邸には、かつて庭の大部分をしめていたという孟宗竹が塀の背後にきっぱりと立っている。これがどう変えられるのだろうか。
日ごとに切り取られてゆくまちを見たあとの気分を変えたくて、牡丹寺の通称がある薬王院の門前の通りがかりに自転車をとめて開花の様子をのぞいた。一面の牡丹のうち3株ほどが開花しているが、いまにも開きそうに色を浮かべてつぼみをふくらませるものが2、3割ほどあるけれど、そのほかはまだ緑色のつぼみをつけている。カメラを首にかけたお年寄りに声をかけた。「もう一息ですね」「今週末でしょう」といわれる言葉には、開くまでの数日のときをむしろ楽しむ思いがひそんでいるようだった。

投稿者 玉井一匡 : 01:40 PM | コメント (1) | トラックバック

April 13, 2006

刑部人アトリエ 消失

   

月曜日、洋館は足場につつまれながら建っていた。カメラを構えたら電池がない。火曜、水曜は雨だったので電車で来たから前を通らない。今朝、曇りがちだけれど、ひさびさにあたたかい。自転車を走らせるとやがて汗ばんだ。刑部アトリエの前にくると足場の上に顔を出していた家はもうない。工事用のシートの隙間、かつて「いえ」だったものが物体と化して堆く積まれている。割れたスタッコの壁、崩れたスペイン瓦。最後の瞬間を見届けたいともつらいとも思いながら雨にゆだねた。建物が消えると、かつてそこにあったものが何だったかがわかる。ここに生きたひとびと、通り過ぎた人たち、降り積もった時。そして、切り取られたまち。

関連エントリー
MyPlace 「洋館に綱が:刑部人アトリエ」
chinchikopapalog 「いいなぁ、文京区の「目白台公園」

投稿者 玉井一匡 : 11:15 AM | コメント (10) | トラックバック

April 06, 2006

I love カメレオン:Tokyo Jungle


 先日、masaさんを誘惑して、麻布の谷戸と思いがけぬジャングルをめぐったことはkai-wai散策の「麻布ジャングル冒険記」にくわしい。途中、爬虫類の入った水槽をならべた店を見つけた。ぼくは爬虫類は苦手なんだと腰の引けるmasaさんにちょっとごめんなさいを言いながら箱に近づくと・・・・ゲッコーという名前が多い。ゲッコーとはgecko:ヤモリのことだが日本のそれとくらべればずっと大きくて20cmほどもあるけれど、これをいやがってたら南方では暮らせないからヤモリは大丈夫になったんだと、masaさんは気を取りなおす。トカゲにはまぶたがあるがヤモリにはなくて、当たり前だが瞬きをしないんだそうだ。
奥の上の段に1匹だけ、カメレオンがいた。・・・・・・・美しい。masaさんはカメレオンも好きだという。なんだ、けっこう好きなんじゃないか。これはエボシカメレオンというのだがマダガスカルからもらったので、手放すわけにはいかないんだそうだ。部屋に置いた観葉植物にカメレオンをとまらせておいたら面白いいだろうと、ぼくは前からあこがれている。かつて指に掴まらせてみたら、その感触がとてもよかった。

餌はなにをやるんですか?  コウロギをやります。
何匹くらい?  一日に1匹です。
えっ、そんなものですむんだ。何年ぐらい生きるんですか?  10年ぐらい生きますよ。
名前呼んだら来ます?  カメは来ますけど、カメレオンはそこまではしないですね。
おなか空くと、近づいて来たりして?  こっちの方をむいて、舌を伸ばしたりします。
ほかの箱は、床に砂や何かが入れてあるのに、なぜカメレオンには何も入ってなんですか?  カメレオンは水をかけてやるんで、床には何もなくしておかないと、汚ならしくなるんです。
ぼくは10年くらい前にグリーンイグアナを飼ってたんだけど、死んじゃってから、あれよりかわいい奴に会ったことないんだよ。でも、イグアナにかわいいのとそうでないのがいるっていう話をしても、なかなかわかってもらえないんだよね。   そうなんですよ。見てると分かるようになるんですよね。
かわいいなあ。  写真とっていいですよ。ストロボさえつけなければ大丈夫です。
もし、これを売ってもらえるとしたら、いくらくらいなんですか?とmasaさん  3万円くらいです。
へえ、このかわいらしさの割からすれば安いなあ。ワシントン条約はクリアしてるの?  もちろん。
また来ますね。  いつでも寄ってください。

出がけに確認すると、店の名は「TOKYO JUNGLE」とあった。
インターネットでカメレオンをさがすと、こんなサイトがある。
爬虫類の好きな人は、いるもんだと感心した。

投稿者 玉井一匡 : 11:00 PM | コメント (14) | トラックバック

April 04, 2006

目白の馬

 いつもの道を自転車で走っていると、仮にそんなことができたとしてだが、目をつぶっていてもどこにいるのか分かるところがふたつある。いずれも、ぼくにとっては好ましい匂いが漂うのだ。ひとつは神田川沿いの精養軒の工場、もうひとつは高台にある学習院の南向きの斜面、Chinchiko Papalogで知った言葉によればバッケの足元だ。食べ物の香り、生き物のにおい、一方はケーキを焼く香りともうひとつは有り体に言えば馬糞のにおいだ。さらに秋になると、道路には沢山の銀杏の実が落ちる。それを通り過ぎる車たちが踏みつぶして球体を二次元化するときに植物というよりは動物的な匂いに変えてゆく。ガラスを閉じた車には分かるはずもないが、歩行者と自転車には、その匂いがしっかりと記憶に残される。 春には、斜面を背景に咲くサクラが美しい。樹木が多いから、初夏には若葉の青臭いかおり。夏のさなかにも、ぼくは好き好んで日向を走るのだが、ここを通り過ぎるときには、あきらかに空気がかわる。ひんやりとした空気が降り注ぐのを感じるのも楽しみだ。この写真は、ネットフェンスの網目の間にレンズを入れてとったものです。
ここで、先日はタヌキに出くわした。Chinchiko Papaによれば、あのタヌキは学習院の血洗いの池あたりに住む一家らしい。

山手線のトンネルをくぐると、道路際の細長い一画を別にすれば学習院のキャンパスがはじまる。その一画の景色が、すっかり変わってしまった。中層の高級マンションが、まもなく完成する。地上11階地下1階、396戸という、都心では大規模な高級マンションがフェンスのように立ち上がる。「目白ガーデンヒルズ」といいながら、丘の上ではなく丘の足元にたっているから地形を壊しているわけではない。なにしろ斜面は学習院の土地なのだから当たり前のことだが、その豊かなみどりをしっかり借景として取り込んでいる。その分だけ街には崖を構築した。道路際に1mほどの窮屈な歩道を提供しているが、背後の斜面を感じられる隙間は作られていないようだ。
まだ、完成したわけではないから、これからゆっくり観察してゆこうと思うが、せめて馬がクサいなどという文句を言うような住民は住まないようにしておいてほしいものだ。ここは都心にありながら先住民の馬やタヌキが共存しているという、えがたい環境なのだから。

投稿者 玉井一匡 : 07:39 AM | コメント (14) | トラックバック

March 28, 2006

回遊美術館というこころみ

IkebukuroMontparnas.jpg
「洋館に綱が:刑部人アトリエ」のエントリーにChinchiko Papaがトラックバックをしてくださった。そこへ跳んでみると、行き先は「椎名町のみなさん、ありがとう」というエントリーだった。「以前に紹介した新池袋モンパルナス西口まちかど『回遊美術館』が、きょう最終日を迎える。」と書いてあるので、あわててこれをエントリーした。
chinchikopapalogは、毎日のように渾身のエントリーが続くのだが、それだけにちょっと目を離すと、しばらく学校を休んだあとに教室へいった子供のように、なんだか取り残されたような気がしてしまい、ついついChinchiko Papalogに寄りそこなってしまうものだから、ぼくはこの回遊美術館のエントリーを読んでいなかった。池袋西口の、かつて「池袋モンパルナス」と呼ばれ画家などが多く住み、立教大学を中心とする学生街といっしょに魅力的なまちができていたという。それを掘り起こしてみようという催しなのだ。こののChinchiko Papaのエントリーを見ると、いつものように密度が高い。しかも彼のブログが、この地域にあったものをいかに丁寧に掬い上げてきたかを示すように、自身のブログ内へのリンクがすこぶる多い。
回遊美術館というのは、独立した施設としての美術館ではなく、まちのなかの銀行、学校、美術館、画廊、カフェ、地下鉄のコンコースなどで一斉に美術展などの催しをやろうというこころみ、つまりモノでなくデキゴトなのだ。まちをみんな美術館にしてしまおうよというわけだ。

googleを探したら、「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」を開催しますというサイトがあった。この催しは立教大学や豊島区などが協力したイベント。Chinchiko Papaが椎名町のみなさんにありがとうとおっしゃるのは、豊島区の椎名町のひとたちが「池袋・椎名町・目白/アトリエ村散策マップ」というのをつくったが、そこには新宿区にある佐伯祐三や中村彝のアトリエなどがちゃんと掲載されていて、豊島区がなんてケチなことをいわずにそんな枠を踏み出しているからなのだ。それにひきかえ、新宿区の体たらくは自分の区のことさえ・・・・と言わずにいられない。「池袋モンパルナス」ということばは、今になってみるとちょっと気恥ずかしいが、それは大正から昭和にかけての日本の気分を伝えてくれる。トップライトのあるアトリエに小さな寝室がついている家をたくさんつくったというのだから、本気だったのだ。近頃のデザイナーズマンションというものが、デザイナーの住むマンションではなくデザイナーが設計したマンションを意味するのとはそもそも話が違う。

大きな箱モノをドカンとひとつだけつくるよりは、むしろ小さなものを点在させる方が、大きな影響をまちに及ぼすことができると僕は思う。そうすれば、点在するところを移動する間に、訪れたひとはまちと接し、まちに生活するひとと接することができる。
これまで日本では、モノが作られるときの経済効果ばかり考えて、作られたあとの使われ方・デキゴトはろくに考えてこなかったけれど、使う側からの行動がこうやってブログといっしょにひろがれば、面白いことになるかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 02:50 AM | コメント (4) | トラックバック

March 26, 2006

神田川沿いの桜


明治通りから江戸川橋までの神田川の両岸には桜が並ぶ。岸の側には建物があるので存分に枝を広げられないぶん、川のうえには精一杯に両側から枝を伸ばしている。関口芭蕉庵前の駒塚橋のたもとには白い桜が毎年のように一足早く花を咲かせる。少しずつ花を開きはじめた対岸から芭蕉庵を見ると、斜面のしだれ桜が満開に近い。
たまに雪が降ると町の景色が一変して、乱雑をきわめる街並さえ静けさにつつまれるように、さくらは、春にとって長続きのする雪景色のようにまちを変えてしまう。花が咲くと、それまではまだ息をひそめていた新しい季節があたりを満たす。神田川のこのあたりも、桜がはなをつけるこの季節にはすっかり景色が変わる。あすにもそうした時が来そうなこのごろは、川の石の上で亀が日差しをせっせと蓄えている。
「歴史の足跡」というサイトの「歴史を留める東京の風景」というところにある関口芭蕉庵と神田上水についての記述が、地図や広重の江戸百景の絵も添えて丁寧だ。

投稿者 玉井一匡 : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

March 24, 2006

洋館に綱が:刑部人アトリエ


 西武新宿線中井駅の近くには、高台の足下を、地形をなぞるようにしてゆるやかな曲線を描く道が走っている。ぼくは毎日のようにここを自転車で走るのだが、今朝、通り過ぎてから気づいたことがあって自転車を止めた。林芙美子記念館をすぎて2軒目のいえの、大谷石の擁壁に切り込んだ階段の下に、黒と黄色で立ち入り禁止を伝える綱が張ってある。奥に見える玄関ポーチに木の円柱が一対立っているのに目を凝らすと、その柱は螺旋状のリブでおおわれ、ポーチの上のファサードは滑らかな曲線を描き銅の笠木の緑青に縁取られている。

いつかはこうなると思ってはいたが、とうとう始まるのだろうか。南向きの傾斜地に緑濃い大きな区画の住宅がならんでいたこのあたりは、山手通りに近い所から徐々にかわってゆく。よく変わってゆくならいいけれど、区画は小さく、緑は少なく、崩された大谷石の壁の代わりにコンクリートの壁とシャッターが並んで、すっかり排他的で味気ない表情になってゆく。

林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館というエントリーにも書いたことだったが、記念館と、坂をはさんだ隣家、そのつぎのこの家と3軒のならぶ斜面は、とても心地よい道をつくりだす。2軒の洋館は住宅だから、外から見て想像をふくらませるよりしかたないのだが、なかにどんな空間があるのかを考えずにはいられない、時間と記憶をゆたかにたくわえている。上記のエントリーで、林邸の隣人とおっしゃる方にお話をうかがったことを書いた。「母が亡くなって相続税が発生すると私の家も維持できないだろうし、新宿区も今では買い上げるだけの金がない」と言われた。その方が刑部さんとおっしゃったが、林邸の隣の家は画家の刑部人(おさかべじん)の家だったのだと、いのうえさんに教えていただいたことがある。今回、立ち入り禁止の綱の張られた家には、かつて絵画教室の小さな看板がかけられていた。もしかすると、ここは刑部さんの身内のかたの住まいだったのだろうか。・・・・・そう書いたら、すぐに井上さんからメールをいただいた。それによれば、この家がまさしく刑部人の家で、「日本の洋館」(藤森 照信 著、増田 彰久 写真、講談社刊)の表紙の写真はこの家なんだと教えていただいた。だとすると、ぼくが2軒の住宅だと思っていたのは、いずれも刑部邸だったというわけだ。
中井-落合-目白と続くこの一帯には、かつて堤康次郎がつくった落合文化村があったことを、あきれるほど克明かつ愛情を込めてChinchiko Papalogに書かれているが、そこには佐伯祐三中村彝などの画家が住んでいたことも、さまざまな角度から記されている。「文化村」という名称を僕はあまり好きではないけれど、文人画人が住んでつくられた緑ゆたかな新しいまちは、金を操作するだけで巨万の富を築いたひとびとがあたりを見下ろす塔よりは、比較にならないほどいいまちだ。六本木ヒルズの塔をつくり、古くからのコミュニティをこわしたのと同じ「市場原理」が、このまちをさらに踏みにじってゆくのだ。

一目見ておきたいとお思いの方は、今のうちに刑部邸を見にいらしてください。西武新宿線中井駅のすぐ北側、林芙美子記念館もすぐとなり、季節の花がいつもきれいです。

投稿者 玉井一匡 : 02:52 PM | コメント (12) | トラックバック

March 19, 2006

アメリカの原罪

USAloser.jpg
 ワールド・ベースボール・クラシックでアメリカは、なりふりかまわず自分たちに優位な環境とルールをつくりながら2次予選で敗退した。この大会でのアメリカの振舞いはブッシュUSAそのままだった。審判の多くにアメリカ人を選んだ。反米意識が強く大リーガーを揃えた南米チームのならぶグループを避け、メキシコ、日本、韓国のグループを選んだ。そうやってさまざまなアメリカ優位の仕掛けをつくったが、そのことは、かえって相手チームをやる気にさせ、アメリカの選手たちはやる気をそがれていったようだ。
 日本とアメリカのゲームでの誤審に批判的だったニューヨークタイムズは、アメリカの敗退をどう書いているかが気になって、ニューヨークタイムズのサイトを見た。ここでさえ、この期に及んで未練たっぷりな記事を書いている。「もし、メキシコがビジターだったら、彼らがアメリカに2−1で勝っても韓国と一緒に準決勝に進んだのはアメリカだった」と。はじめは、これが何のことか僕には分からなかった。
二次リーグで勝ち負けが同じチームができた場合には、失点率という指標で比較することになっている。失点数をイニング数で割って、それに9を掛けるから、一試合あたりの失点数を示す。ピッチャーの防御率の計算の自責点をチームの失点でおきかえたものだ。日本は17イニング2/3で5失点、アメリカは17イニングで5失点だった。メキシコとの試合では後攻のメキシコが勝ったので、9回裏がなかったけれど、もしメキシコがビジター扱いで9回表の攻撃をしたら、アメリカは18イニングで5失点になるので、失点率が日本より少なくなっていたというのだ。ニューヨークタイムズさえ、もともとアメリカ有利の条件がつくられていたことを批判しない。
 しかし、かつてアメリカの野球は、外国人に対してむしろフェアだと、ぼくは思っていた。

 かつて王がハンク・アーロンのホームラン記録を更新したときに、球場の広さやピッチャーの力が違うということを問題にせず、アメリカは世界記録として評価した。もし、王の記録を台湾や韓国のバッターが破ったとしたら、日本の野球界は素直に評価することはしなかっただろう。野球だけではない。日本は滅多に難民を受け入れないが、アメリカは多くの移民を受け入れてきた。しかし、フェアなアメリカと世界中を自分の国のようにして干渉するアメリカは、実をいえば同じひとつの根から生じたものだとぼくは思う。

それは、国作りにまつわる原罪。アメリカは盗んだ土地の上に国を作ったという事実だ。土地の所有という概念すら持たなかった遊牧民を相手にして協約という一見したところ正当な手続きで、あとからやってきた連中が土地を取り上げた。この行為を正当化するには「本来、土地はだれにでも開放されている。自ら開拓すれば、そこは彼のものだ。」という論理をつくるしかないだろう。
 「だから・・・」というその先の結論で二つに分かれる。ひとつは、外国から来る者に対しては「自由にこの国においで」というフェアな態度として表れることが多いが、他方、アメリカが外に出てゆく時には「ほかの国も我々のようであるべきだ」と、未熟でローカルなルールを他者に押しつけ、ときに軍隊すら投入する。アメリカ国内で開かれはしたが、国際大会という外の場で行われたこの大会で、二つ目の振る舞い方をあらわにしたのだ。自分たちに合うように世界を書き換えるという、いつもながらのスタイル。

アメリカで一番のチームを、これまでワールドチャンピオンと呼んできた。この大会を真の世界一を決める大会だと位置づけたが、アメリカを一番にするために強いチームをつくることに力を注ぐよりも、アメリカ有利のルールをつくりあげようとした。にもかかわらず、それは失敗におわった。ブッシュUSAと同じく、アメリカ基準にすぎないものを世界基準と言いくるめようとしたが失敗、アメリカ嫌いの感情を参加国に残した。アメリカのグループからは日本が、もう一方のグループからはアメリカの大嫌いなキューバが決勝に進むことになった。ぼくは、アメリカが負けたことだけで満足だったが、日本が勝って大満足になった。

投稿者 玉井一匡 : 03:30 PM | コメント (1) | トラックバック

March 15, 2006

真夜中 学習院下でタヌキと


昨夜、といっても午前0時をとうに回った頃だから日付けは今日になっていたのだが、学習院の馬場の下を、自宅めざして自転車を走らせていた。この時間、この道はほとんどクルマも人通りもないし、街灯もないから自転車で走るには快適このうえない。道路の向こうよりに黒っぽい犬が座っている。丸顔をこちらに向けているのを目を凝らして見ると、犬ではない、タヌキだ。ぼくはすぐに自転車を停めて向かいのテニスコートのフェンスに立てかけると、バッグからカメラを取り出した。いつもは切ってあるストロボをセットするものもどかしく、慌てて振り返るともう道路にいない。しかし、格子の扉のむこうに座ってこちらを向いている。格子の間にカメラを入れてズームを目一杯の望遠にしてシャッターを押すと、一瞬ストロボの光がタヌキの瞳孔をオレンジ色にした。ディスプレイを見るとタヌキは入っていない。今度は、画素数を最大にしてもう一度。ディスプレイをみると、また映っていない。

 そのとき、うしろから車のヘッドライトが光った。ちらっと振り返ると、パトカーがやってきて停まった。またカメラを格子の間に入れて構えた。む。狸はいなくなっていた。夜中に、格子の間にカメラを入れている怪しい行為を棚に上げて「おい、お前たちが明るくするからだぞ」と、鬱憤を晴らそうとして振り返ると、パトカーもいなくなっていた。不満をぶつける相手も写真を撮る相手もいない。彼らもタヌキだったのか、またタヌキに会った奴が一人いるよと思ったのか、何も言わずにいなくなった。トリミングをできるように画素数を最大にしたけれど、そのときに広角にするべきだった。望遠にしたから、視界から外れてしまったのだ。液晶ディスプレイは真っ暗でなにも見えないが、ファインダーを見ればよかったのにと、あとになって数々の反省をした。タヌキに化かされたというのもかえっていいか、と思うことにしよう。自転車をまたいで時計を見ると、0:40だった。

 落合のマンションの計画地のあたりにはタヌキがいると、ひところ話題になったけれど、それがこのあたりにもやってきたのだろうか。それとも、このあたりは樹木が多いから、独立の生計を立てているのかもしれない。しかし、人間の生活環境すら壊されてゆく東京のようなまちにタヌキがいるということを自分の目で確認できたのは、とてもうれしいことだった。
 かえりがけ、あるクライアントを思い出した。彼は、夜中に伊豆の山中を車で走っているときにタヌキをはねた。車を降りて見てみると、すでに死んでいる。どうせ死んだのだからと、彼はなきがらを車に乗せてきた。家に帰ると、ご亭主が腕をふるって解体し、タヌキ汁をつくってくれと奥さんに料理を頼んで食べちゃったのだそうだ。タヌキを食おうと思う亭主も亭主だが、そんな要望に応えてタヌキ汁をつくる奥さんも人物だなと、その話を聞いて、ぼくはひどく感心した。後日、親しい獣医さんに話したら、タヌキには寄生虫がいるからあぶないんですよと心配していた。虫がいたとしても、そのときにはもう手遅れだったろうが今も家族そろって元気だ。
 今朝、道路の写真を取り直した。はじめは、格子戸の前の道路にちょこんと座っていた。そのすぐあとに、格子戸の下をくぐって中に入ると右手奥に座って、こちらを見ていたのでした。

追記 060317 / Chinchiko Papaと妾番長さんの書いてくださったコメントに関わることを追記しておこう。このあたりのような河岸段丘の地形を「バッケ」あるいは「ハケ」ということばがあって、それは縄文語あるいはアイヌ語(頭、突端)由来の言葉とされているんだと、chinchikopapalogに神田川流域に残った「バッケ」と、もうひとつ世代で異なる「バッケが原」の位置というエントリーで書かれていて、このことばは「お化け」につながると結ばれている。もし、タヌキが昔からこの辺りに住んでいたのだとすれば、そのことが「ばける」あるいは「ばかす」ということと、何かのつながりがあるのかもしれない。
chinchikopapalogにはもうひとつ、「ハケの下落合」というエントリーに、バッケについての詳しい記述がある。

投稿者 玉井一匡 : 12:00 PM | コメント (13) | トラックバック

March 12, 2006

路地 と 「路地の再生」

先日、わきたさんが東京にいらして佃を歩いたときのこと、ここはすばらしい路地があるんだというmasaさんにさそわれて、すでにみんなから遅れをとっていたのに屋根付きの路地に入っていった。kai-wai散策には、いつものように路地に潜んでいる魅力を呼びさます写真が記憶された。masaさんが書いているように、路地の向かいの超高層のマンションの足元に「路地の再生」という看板があった。それには、ほこらしげにこう書かれている。
「この街に古くから残る風情豊かな路地空間。その空間を未来に残すため敷地内に四本の路地を再生しました。
道草の路地  雨上がりの路地 渡しの路地 雑木林の路地
当マンションは環境共生住宅の認定を受けています。」
これを路地といっていいのか、プリンスタワーホテルの立て札と同じじゃないか、という憤りに近いmasaさんの思いはぼくもおなじだ。しかし、ぼくには純粋な腹立たしさに浸りきることができない。板張りの歩道、いずれは豊かになるであろう植物、水辺の歩道など、それなりに考えてつくられているのはたしかなのだ。再生路地の前にたって看板を見ていたぼくが、やれやれという表情でmasaさんと顔を見合わせたあとで、「もし、おれが頼まれても、こんなふうにいろいろと考えるかもしれないけどね」と言ったのもあながち冗談ではなかった。インターネットで調べると、ここには1万数千本の樹木が植えられ、地元から感謝状を受けたと書かれている。
それでも、しかし、とぼくは思う。

 路地には家の中から光がこぼれる。話し声が聞こえる。何かをつくる機械が音をたてる。いえといえの間にある路地は、両側に住むひとたちの場所、そこを通りがかる人のものだ。
ところが超高層マンションの足元の再生路地と家々のあいだには、ホテルのロビーのような玄関ホールがあって、路地を通る人とのあいだを遮る。再生路地とマンションの入り口は不連続なのだ。かつてあった路地は、決して再生されていない。高層マンションは排他性にもとづいてつくられている。住人以外を排除する。人間の動線もエネルギーの供給ルートも集中するから、それは犯罪のための好条件をつくる。それを防ぐには、超高層マンションでは他者を排除せざるをえないのだ。超高層ビルは地上に谷間をつくるだけではなくコミュニティを分断する。環境共生というが長屋とは、けっして共生などしていない。それとも、まわりのまちは環境ではないというのだろうか。問題は高層であること自体にあるのだ。
地震で電気が止まれば水もなくエレベータも止まり、上り下りもできなくなる。ヨーロッパではすでに、高層の集合住宅があまり作られなくなっているというのに、日本ではまだつくり続け、売れているらしい。「市場原理」のなすがままに、まちが委ねられているのだ。
かつてこの一帯に肩をよせあっていた長屋や路地を一掃して超高層マンションをつくりながら、路地を再生したと誇らしげに宣言する仕組みは何かに似ていないだろうか。空襲で爆弾を撒き散らし、まちを破壊し人を殺しておきながら、ふんだんに支援物資を届けて英雄を気取るアメリカ軍のようではないか。

とはいえ、ひとつむずかしい問題が残されている。一昨年、二十数年ぶりにバンコクに行ったときに、超高層ビルが立ち並びすっかり近代都市になったのをみてぼくは落胆した。飛行機を乗りつぐあいだの8時間ほどの炎天下にひとりでまちを歩き続けて、古い建物のびっしりと立ち並ぶあたりにたどりついて、ぼくはやっと安堵した。
そのそばから、ここに住んでいる人たち、じつは好き好んでここに住んでいるわけではなくて、できるものなら新しい高層の集合住宅に住みたいと思っているのではないかとも考えた。それは、日本でも同じことかもしれない。(左の写真が表、右の写真が裏)
だからこそこの日本で、古い建物の魅力を見つけて、みずからそれを住まいや店として使おうという若い人たちが増えているということに、可能性を感じるのだ。

投稿者 玉井一匡 : 11:30 PM | コメント (17) | トラックバック

March 04, 2006

薬王院の枝垂れ梅 と 落合のみどり

YakuoinShidareume2.jpg
 通勤途中に牡丹の花で知られる落合の薬王院の前を通る。2月28日、道路から見ると参道の奥の山門前にしだれる樹があわい紅色の花をつけていた。桜だったろうかとおもいながら自転車をおりて近づくと、やはり梅だったが淡くて品のいい桃色が春の気配の中に浮かんでいる。枝はゆるやかに下りてゆきそこに花を点在させる姿はとても品がいい。山門から中をうかがえば、そこにも梅が春をつげている。やっとこのとき、もう3月だと気づいた。

高台の尾根を目白通りが走り、その足元を、かつて十三間道路とよばれた新目白通りが並走する。その間にある傾斜地は東西に長く続き、林芙美子記念館などのある西よりの一帯から、東には学習院の馬場などを経て椿山荘のあるあたりまで樹木のゆたかなところが点在して江戸川公園に至る。さらに、神田川と支流の妙正寺川が流れる。無論、高台があり足元を川が流れ斜面は樹木におおわれるという地形がはじめにあって、道路はそのあとにつくられた。この梅のあるあたりでは薬王院、野鳥の森、お留山公園などの緑がゆたかで、そのつらなりの一部に大きな住宅の建つ屋敷林がある。それをディベロッパーが手に入れて低層のマンションを計画しているのに対して、みどりを残そうと周辺の住民たちが決起した。

下落合みどりトラスト基金をつくり、実に2億3000万円をあつめた。新宿区長東京都知事あての要望書を提出、基金を一部として土地を購入し、環境を保全するよう求めた。このあたりに狸が出没することが新聞にも掲載されて話題をあつめたこともある。

にもかかわらず、ディベロッパーは購入価格をつりあげ、新宿区は予算がないといい、業者は説明会で声を荒らげて恫喝さえしたと、chinchikopapalogに書かれている。確認申請はすでに出されている現在、状況は厳しい。今月中にも樹木の伐採がはじまるかもしれないそうだ。

もしも新宿区が本気でここを守りたいと考えているのだとすれば、すべて買い取るか諦めるかの二者択一以外に方法をさぐることできないのだろうか? たとえば区が負担できる以上の費用は借り入れをおこして土地を購入し、建物の計画を縮小して借り入れ分の金額を回収できる規模で森と共存する集合住宅をつくる。集合住宅にとっても周囲にとっても、きもちよい場所がつくられるだろう。当初は、この土地にあった古い邸宅そのものを含めた保存を目指していた。森と古い屋敷を残そうと考える側としてはそういう案は計画の容認でもあって賛成しがたいところだが、時間が過ぎていって計画がなしくずしに進められていきそうなのだとすれば、そういう方法も選択肢のひとつとしてあるのではないかと、このごろは思う。

投稿者 玉井一匡 : 10:50 PM | コメント (6) | トラックバック

March 03, 2006

わきたけんいちというできごと

earthdiningDen8.jpg
 わきたさんの盛岡出張の帰りがけに東京に寄っていただいて、アースダイビングわきた版の下打合せをすることになった。AKi、iGa、masa、わきたさんとその研究者仲間の萩原さんがいらした。初対面だというのに待ち合わせは「江戸東京博物館で」というだけのおおまかな約束に、なにか混乱が起きないかと内心おもしろがっていたのだが、AKi、iGa、tamは一見地階のようなミュージアムショップの前に、wakky、nuts、masaの3人はエレベーターを昇った空中に別れたものの携帯電話のおかげで大過なく集まることができた。(初対面の方々がいらっしゃるので、肖像権に配慮して、クリックしても大きくならない写真にしました。ほんとは、わきたさん、なっちゃんの表情もつたえたいのですが)
摂州から移り住んだひとたちがまちをつくった佃島の路地で椎茸をみつけ、先日、masaさんのkai-wai散策に魅力的な写真たちがあった築地魚河岸の余命数年の短さを思い、AKiさんが内装を設計された三原橋の傅八で作戦会議というルートはiGaさんの提案と資料のおかげで、アースダイビングの助走というおもむきとなった。晴海通りを挟んで建つふたつのモダニズムの建築は、学生時代から気になっていたのだが、土浦亀城の設計によるものだと初めて知った。いや、この日ぼくの第一の命題は「わきたけんいちとは何か」だった。

 はじめは、kai-wai散策へのコメントを読んで興味をおぼえ、wakkykenという名前をクリックした。跳んださきの「大津まち歩記」には、琵琶湖周辺のまちの古いたてものの写真がエントリーされていた。一昨年、ぼくは近江八幡に行ったのだが、そこでは、掘割や古い通りに新しくつくられたものが周囲の古いたてものに合わせるだけの保存でなく、積極的に新しいものをつくりながらとてもうまく解け合っているし、あけすけな観光化をせずに商業的にも成功しているようで、そのことがとてもきもちよかったので、あるときぼくはそんなことをコメントして自分のところに戻ると、丁度わきたさんのコメントが書かれていたので驚いてしまった。それが偶然だったのか、ぼくのコメントを読んだあとの素早い反応だったのかまだうかがったたことはないが、wakkykenはその後ぼくたちの周辺というよりはkai-wai散策の界隈のblogだろうがwakkykenやわきたけんいちの名をあちらこちらで目にするようになった。そして「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」のサイトを運営する環境社会学の研究者で教職にあることも知った。
 興味を持ったblogには、あたかも自分のサイトであるかのように、時と文字と思考をおしまず、すぐさまコメントを書き込んでゆくわきたけんいちは、ぼくにとってみれば、漂泊のブロガーのいのうえさんと同じようにMyPlaceのテーマに共鳴するたのもしい同志だと思われた。
その後もさらにコメントを重ね、おかげでこちらも手強い相手に返事を返さなければならぬと頭をしぼる。それがblogを深化させるようになるのだと思う。

 これまでのわきたけんいちは、さまざまなコメントそのものや、その書き方という証拠物件の累積という存在だった。ふつうのコメントであれば、わきたけんいちは一人のヒトになったかもしれないが、彼はヒトである以上にwakkyken+わきたけんいちというできごととなっていた。それが、この日を境にして一人の男として集積された。その実物は、なんとはなしに思い浮かべていたよりも寸法が大きくて、ヒゲさえたくわえた男だった。けれども彼はとてもひとなつこくて、やさしく、やはり頭の回転の速いひとだった。その男のありかたをぼくたちは歓迎した。これからもよろしく、わきたさん。南部鉄の銀河鉄道を、ありがとうございました。なっちゃんようこそ。

投稿者 玉井一匡 : 06:35 PM | コメント (9) | トラックバック

February 21, 2006

LOVEGARDEN へむかって

 丸の内の「緑のどこでもドア」をあとに、日本橋まで歩いて都営浅草線で一本、曳舟で下車した。待ち合わせの改札口に一眼デジカメを首に下げてうっすらとヒゲを生やした男が、ひとなつっこい笑みをたたえている。
このうねった道は川があったのかな、きっとそうだな、なんてことを話しながらさっそくLOVEGARDENを目指す、と歩き出したがたちまち立ち止まってカメラを構える。レンズの先を見ればペンキの剥げた赤いツバメがコンクリートの塀に残っている。丸善石油のガソリンスタンドだったのだろう。これを意図的に残しているのだとすれば、このまちはたいしたものだぞ。写真を撮り終わると郵便局の配達の赤いバイクが、前を走って行った。でも、いやな顔をしない。masaさんの人徳と郵便局員の人柄だろう。だまって待っていてくれたのだ。あとで写真を見ると、masaさんのむこうに赤いバイクが一台、たしかに停車している。
角をひとつ曲がると、まちはさらにmasaごのみを増す。このあたり、道路は意地でも直角には交わるまいとしているかのようだ。googleマップを開くと案の定、乾燥した地面のひびわれのように、自在に交差していた。長屋が並ぶ路地には、もちろん車は入れない。かつては路地とそこに肩をよせあう長屋しか見えなかっただろうに、いまはその構成が一目瞭然で解き明かされる。となりの一画が取り壊されて駐車場になっているから、裏側からみると全体が一望にできるのだ。これまでの長い時間の中でも、それがわかるのは、このわずかに残された間だけなのかもしれない。そう思うと心はせかされる。

 冬の日は頼りなくて、曇りがちになった空にせかされるようにLOVEGARDENにむかう。当たり前だが、店はあけてあるから扉も開いている。あの扉は正面からは見られない。もちろん、開いていればもっとうれしいのだが、店が開いているのが残念だとも思ってしまう。そう思わせる店が、日本中に何軒あるだろう。日本中の郊外では大型店が建ち並び、どこもかしこも同じように索漠たる街並になってしまい、おかげで古い通りではシャッターがまちを台無しにしている。しかし、古いまちだって、こんなふうに魅力的な店がつくれるのだ。
3人の笑顔に迎えられた。cenさん、yukiりんさんそして、とびきり人なつこくてかわいい看板娘。
「なんさい?」 ゆびを3ぼん。「おじさんは?」と、しつもん。
片手をひらいた。おっと、サバをよんじゃあいけない。去年からはこれだ。「ほんとは、これ」左の人さし指を1本加えた。
 ブログの写真を寄せ集めた想像よりもモノがいっぱいあって、その代わりに思ったより植物が少ないんだ。と思ったが、下に下りる階段がある。少し床が高いところにcenさんの作業カウンター、ステンドグラスのドアの奥がyukiりんのコンピューターがあるにちがいない。なるほど、どこをとってもクローズアップに耐える。作業カウンターの上に「タイニーハウス」「シェルター」がおいてあった。もしかしたら、さっきの電話で並べてくれたんじゃないんですかとたずねると、以前からの座右の書なんだとcenさんは言う。ほんとですか、そうだとすればほんとうにうれしくありがたいことだ。「ホームワーク」まである。
 地下にも、もぐり込んだ。靴をはいたぼくが立って頭の上があと2センチくらいという高さ。床と基礎の間のスペースを利用した地下室だが、立って歩けるかどうかは大変な違いなのだ。作業部屋にしていたが、ホコリがひどいんで上に移したからいまは物置になっている。ここは、このうえなく居心地のいい場所になるぞ。長年使っていなかったのを開けてみたら、水が数十センチたまっていたという痕跡がしっかりと黄色い壁に残されている。それがまた美しい。
 たくさんのものたちに囲まれて、しかし、花の店の常として奥まで冬の空気が自由に出入りする。それでもまたたくまに時は過ぎて、たちまち冬の土曜日は暮れてゆく。こんなに沢山のものたち、その大部分は古くて捨て去られそうなものに手を加えている。それらをいっぱいに詰め込みながら、混乱におちいらず美しくたのしく思わせるのは大したものだ。それはどこからくるんだろう?
すくなくともそのわけのひとつ。この店には、この店の二人には、すでにあるものたちが潜めている魅力とちからを感じとってそれらを表に引き出してやる力と意思があるからだ。masaさんの写真が光の種を見つけ出すちからと通じるものがあることにきづいて、ぼくは納得の一部を手に入れた。それにもうひとつの手には、花かんざしをひと鉢もって、LOVEGARDENをあとに薄暗くなったまちの土曜日の中へ、masaさんにつれられて行った。再開発ですっかりまちがなくなったというところへ。

投稿者 玉井一匡 : 08:29 AM | コメント (13) | トラックバック

February 20, 2006

緑のどこでもドア

 丸の内の工事現場、仮囲いのフェンスの一部に正方形の緑がはめ込んであった。近づいてみるとツゲの苗のような小さなやつがびっしりと鉛直面に植えてあるのに、水平面にあるように枝も葉も平然と整然をまもっている。まだ2年くらいはかかりそうな現場だが、それでも仮設の期間ならこの状態をまもるのだろうかと、感心しているときに気づいた。コートのポケットから携帯電話を取り出すと、緑のランプが点滅して着信があったことを知らせている。この何度かの週末、東京ステーションギャラリーの「前川國男展」と京島のLOVEGARDENに行きたいと思いながら、実現できなかったけれど、気持ちよく晴れた冬の空と残り1週間になったい会期に後押しされて、両方とも行こうかと思い立ったのだが、LOVEGADENは京島の迷路の中にあるから案内するとmasaさんが言ってくださるので、当日になって電話するのは申し訳ないけれど、もし都合がよかったらどうだろうと携帯に電話をかけたのだが4回鳴ったところで電話を切り、彼の都合次第に委ねたのだった。

 あわてて携帯を開くと案の定、masaさんからだった。着信記録でぼくからの電話だと知って、LOVEGARDEN行きを予想して、すでにそちら方面に向かっているという。「ほんとなの?」合わせてくれたのではないかと、ちょっと気になったが素直に話に乗ることにした。なんのつながりもない前川國男展とLOVEGARDENだったけれど、ステーションギャラリーから前川さんの設計された東京海上ビルを見に行ったあと駅に戻る途中、不思議な植物を見ているときに連絡をできたことで、この緑の正方形がガーデニングのお店に行くための「どこでもドア」だったような気分になった。「緑のどこでもドア」は、近寄ってみるとプラスティックの箱を覆った黒いシートを抜けて顔を出した苗たちの集合なのだ。もちろん上に向いて伸びて行きたいのだろうからちょっとかわいそうだが、ソニービルが得意になってディスプレイしていた松の磔よりは罪がないな、などと思いながら日本橋をめざして歩きはじめた。LOVEGADENの最寄り駅曳舟は都営浅草線で一本だ。曳舟とは、考えてみればすてきな地名だ。こどもの頃、遊びの縄張りからすればずっと遠くに「こまつなぎしょうがっこう」というのがあったけれど、大人になってからそれが「駒繋小学校」であることを知ってすっかりうれしくなったことなどを思い出した。

投稿者 玉井一匡 : 06:55 AM | コメント (6) | トラックバック

February 14, 2006

春の兆し

 
今日は新潟でも10℃になるから雪崩に気をつけてと天気予報が伝えていたとおり、自転車で神田川沿いを走る出勤途中の川向こう、江戸川公園に紅白の梅が開いていた。背後には椿山荘に続く高台があって、手前の神田川とのあいだの細長い平地に公園がつくられている。googleマップでみれば、上にあるのは目白台アパートメントである。

だから、対岸から見ればここでは小さな山を感じられる。「さくら切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」といわれるように、神田川沿いの両岸には桜の並木が川を覆うほど存分にのびのびと枝を伸ばして、コンクリート3面張りのどぶ川もどきを忘れさせる季節がやがて来る。
紅白の梅がその先触れをしてくれるだけで、やがてあたりをつつみこむ桜さえ感じさせてくれるのだ。手前の枝に桜が花をかざれば、もう梅は見えなくなるが、よくしたもので、その時にはもう梅は花を終えている。
実を言えば、ぼくは雛祭りがすきだ。なにしろ、うちのお雛さまは去年から飾ってある。

投稿者 玉井一匡 : 11:40 AM | コメント (21) | トラックバック

February 03, 2006

一陽来復・穴八幡


「もしもし。ちょっと質問なんだけど。磁石を100円ショップで買ってきたら置き場所を移すと向きがかわっちゃうんだけど、どうしてなんだろう?」
「そりゃそうだよ、方位をみる磁石もくっつく磁石と同じ磁石だから、近くに鉄のものがあればそっちの方をむいちゃうから、場所を移すると向きが変わることはあるよ。それより、googleマップで大きくして、それで見る方がいいかもしれないよ」
と、言ったのだが、電話の主・類子さんはgoogleのことを知らない。ぼくは大好きなgoogle Mapについて熱心に説明した。
「そうなのか。じつはね、7,8年前に早稲田の穴八幡のお札をもらったんで貼ってみたのよ。そうしたら、うちは営業ってなーんにもしないのにさ、それからは、うまい具合に切れ目なく仕事が来るもんだから、毎年買ってきて貼るようになったの。それが大晦日か節分の夜中の0時に、その年の決められた方向に向けて貼らなきゃいけないっていうんで、今年は磁石を買ってきて正確に貼ろうかってことになったの」

「へえ、うちも貼ろうかな。だったら、もっと早く教えてよ」
「やってごらんなさいよ。うちの商品を置いてもらっていた倉庫の人に教えてあげたのよね。しばらく経ったらうちの商品を置くのを断ってくるじゃない。よく聞いたら、じつはお札を貼ったら大口のお客が増えたんで、うちのなんか置けなくなっちゃったんだって」
テーブルギャラリーの類子さんは、食器の販売、デザインやテーブルコーディネートをやっている。ぼくにとっては食器の店や、紅茶専門店などのクライアントだが、友人でもある。
「ひどい奴だな」
「ひどいよね」
「でも効くんだ」
「そうなのよ」
というわけで、ぎりぎり当日の今朝、ご近所なので穴八幡に寄ってきた。高田馬場、早稲田通りと諏訪通りの三叉路の高台にあって、半島の先端のようなところだから、代々木八幡と同じような地形にある。地名の由来である馬場に近い。かつて馬場だったところは、早稲田通り沿い北側の細長いブロックとして、穴八幡の参道の北西にそのまま残っている。こういうのが、東京でも残っているのを見ると無性にうれしくなる。そういうことを探してみる気にさせるのも、「馬場」という地名がちゃんと残されているからなのだ。
お守りやお札がいろいろとあるけれど、お目当ては「一陽来復御守」といい七百円なり。長蛇の列じゃないかと心配したが、4〜50人が並んでいるくらいだし、窓口には4人のお兄さんがいるのでどんどん進む。ATMより手際がいいぞ。ぼくの前のおばさんが質問をしている。
「夜中の12時に貼らないといけないんですか?」
「そうです。その時間に貼れないとわかっていらっしゃるなら、むしろお守りをお受けにならない方がいいです」と、きっぱり。
「そうなの。じゃあ、一陽来復をひとつ」と、残念そうだ。
類子さんもちょうど節分の日に日本にいられなくて、休日なのに社員に出てきてもらったという話をしていたことやら、貼り直してはいけないと言われてたのに、一度貼ったお守りが落っこちてしまい、心配になって穴八幡に電話をかけてきいたら「一度貼ったら効果に変わりはありません」と言われ、安心して貼り直したなんてことを言ってたのも思い出した。ぼくは、事務所と自宅用にふたつ。一陽来復と書いた紙を円錐形に丸めて、その中になにやら和紙で包んだものが入れてある。それぞれに説明の紙を一枚ずつ。
今年は巳午(みうし)の方角が恵方というので壁にそのまま貼るわけにはゆかない。斜めにしなければならないのだ。tacがCADソフトで作ったのをケント紙にプリント。方位アダプターを作成してくれた。

投稿者 玉井一匡 : 08:40 PM | コメント (10) | トラックバック

February 01, 2006

第3回アースダイビング大会

 第3回目のアースダイビング大会の翌日、自分も住人のひとりである集合住宅の管理組合総会を終えたあと新潟に行き月曜日の夜に帰京しました。と、エントリーの遅くなったことの弁解から始めなければならないのがなさけない。
 みなさんの充実のエントリーにコメントを書きたいがその前に自分のブロを書かなくっちゃとiBookにデジカメのデータを移して写真を見た。写真から、この道中で好ましく感じたものが分かるのは当たり前だが、それと同時に見たくなかったものもよくわかる。写真はどれも風景とまちの小さな部分や、さもなければ小さなモノちいさな建築たちだった。
 大地の下、あるいは現在の時の下に潜んでいるものは、地表がいづらくなったものたち追いやられたものたちなのだから、その痕跡が小さなものであるのは当然のことなのだろう。

  明治神宮の御苑では、枝をすべて失った赤松に藤とおぼしき蔓植物が巻き付いているところがあった。ここは空洞になった幹の一部にモルタルを詰めた樹木医の仕事かと、ひとまわり見て回ったが、近寄って目を凝らすと樹皮も地表にあらわれた根もすべてモルタルだ。と思いながら見ても半信半疑というくらいよくできている。巻きついた藤をまもるために、枯れかけた松の幹をモルタルでくるんでコテで樹皮をつくったのだろうと見当をつけた。リアカーにFRPのボートをのせた庭師の二人連れに出会ったので聞いてみると、金網にモルタルを塗って赤松の幹を作ったのだと、やや得意げに説明してくれた。一本の藤と風景をまもるために費やされた労力と技と愛情を思った。
 菖蒲池は、周囲にきれいに溝を巡らせて池の水位と湿り気をほどよく調節する仕掛けがほどこされているし、菖蒲の一株ごとに新種を作った人の思いを込めた名を板に墨書して立ててある。茅葺のあずまやの屋根には細く目立たない針金を張って、鳥たちに茅を抜かれないようにしているようだった。
 夕方にたどりついて開館時間がわずかしか残されていなかったので、一同が1000円の入館料を惜しんだ根津美術館には、藁縄を結んで形づくった梅の花が咲いていた。植物をまもる冬支度かと、茎にあたるところを指先でさぐると芯は割竹だった。花の少ない冬の庭に添えるいろどりとして庭師のあそびなのだろう。それとも、春になるとここに何かの花が顔を出すよというしるしなんだろうか。そのまわりだけ地表があらわれている雪がうつくしい。
 そんなふうにして丁寧にまもられる都心の池を水源として、水はゆるやかに谷を流れているはずだが、ひとたび明治神宮、根津美術館を出ると、コンクリートとアスファルトに閉じ込められる。ひとびとは自然を神としてうやまい、神社の水は詣でるひとびとを清めるものであったはずだが、たちまち暗渠の排水管に身を堕とす。
 そういうまちの窮屈さをむしろ楽しんでいる小さな黒い家が西麻布にあった。前後を細い道に面し裏の道は2mほど低い。表からは平屋だが裏からは2階建てで下をガレージにして、半透明のプラスティクの引き戸を透かして黄色いポルシェ356(秋山さんによればレプリカ)が見えた。

 菖蒲池について知りたくて明治神宮のサイトを開いてみると、ここには菖蒲はおろか御苑そのものについてさえ何の記述もない。森や地形や菖蒲を見る目的では明治神宮に来ないでほしいと言いたげに「明治天皇さまの御治世」や「教育勅語」あるいは「武道場 至誠館」などが書かれているばかりだ。だとすれば、菖蒲が植えられたのは美しさを愛でるためではなく、「尚武」のためなのだろう。
 今回の行程とその周辺の高台には、明治神宮、東郷神社乃木神社、旧防衛庁がある。明治天皇、東郷平八郎、乃木希典は、いずれも多くの日本人に敬愛された英雄だったことに乗じて、時の政府は日本の伝統を捨てて自然を神とするのではなく神話の神々よりもこの英雄たちを神に祀り上げた。松っつあんこと吉松さんは大社の宮司の子息だから神道に通じておられるが、英雄を神様にした神社は異例なのだと言われる。神社には、菅原道真や平将門のように無念のうちに世を去った人物が、その祟りを鎮めるべく祀られるものであったはずだ。
高い規律を持って戦ったといわれる日露戦争の英雄を神にして利用しようとしたことは、かえってそれ以後の日本の軍部の堕落を招いたのだろう。そのことと、自然の根源としてぼくたちの祖先たちが大切にしてきた水をただ消費し穢すようになったこととは表裏をなしているように思われてならない。

かつて226事件の本拠となり、その後生産技術研究所となった土地には、黒川紀章の設計で美術館がガラスブロックのかたまりをつくっているのは、もちろんデジカメに残っていない。
三島由紀夫
の自刃した市ヶ谷に居を移した防衛庁が売り払った土地には、東京ミッドタウンなる巨大な建物群が作られている。赤坂の桧町公園を囲む谷地を含めた開発は、六本木ヒルズのように周囲の地形と周囲のまちをいためつけているのが、目にするさえ不愉快だ。かつての日本軍が進めた大鑑巨砲主義のあとをたどるようにひたすら規模の大きさを誇り、ワールドトレードセンターに取って代わろうとでもいうのか、とてもカメラを取り出す気にもならない。三島が知ったら、おれは何のために死んだのかと嘆くだろう。
疲労と空腹を抱えながらそろそろ最終地点というところで、数十年ぶりに赤いBMWイセッタをみつけて、さいごに口直し。「イタリア式離婚協奏曲」でマルチェロ・マストロヤンニが乗っているのをうらやましく見たが、amazon.comで検索しても、もう出てこない。
東京のまちは、時とともにますます悪くなってゆくところが多くてつらい。それだけに、地表を潜れば、捨てられたものの中におもしろいこと魅力的なものがみつかる。
地下水脈をたどったわれら一隊は、地階にある玄挽蕎麦 赤坂「ながら」でこの日の最深地点に達し、いい水を欠かせぬ蕎麦をすすり、下戸ならぬ人々は杯を酌み交わし、めでたくダイビングを終えて帰還したのだった。

投稿者 玉井一匡 : 04:30 PM | コメント (21) | トラックバック

January 18, 2006

同時多発 Google Earth


 「栗田さんのblogにGoogle Earth for Macのことが書かれているのを五十嵐さんと一緒に見たら、ひどく面白い。きっときみは大好きだと思うよ」とAkiさんからの電話。さっそく栗田さんのCHRONOFILEを開きGoogle Earthをダウンロードした。
 飛行感覚がたまらないぞ。三次元の山がうしろに去ってゆく。頭の中ではスターウォーズのテーマがとまらない。猫バスの影が地表に映っていそうだ。だれもが楽しくてしかたないらしく、あのひとこのひともblogでGoogle Earthのことを書いている。メールを送ってくる友人もいる。ぼくのiBookはこれが見られないので、週明けまでエントリーできなかった。

 ところどころに不完全が残されているのがかえっていい。地形は三次元の情報であるのに建物は、衛星写真を高低のある地形の上に貼付けてあるにすぎないからマンハッタンが全島グランドゼロになる。だから、ビルを粘土の塊のように表現するモードを選ぶことができる。平べったいマンハッタンにしろのっぺらぼうの3D摩天楼にしろ、どちらも不完全だからこそぼくたちに想像力を求める。それがいいんだ。
 「杉本博司展」を見に行ったときのチケットで展望台ともうひとつ「都市の模型展」というのも見ることができた。それぞれ10m角ほどもある東京とニューヨーク、すこし小さな上海の、いずれも1/10,000の縮尺の模型が展示されていた。森ビルがつくらせたものだ。この模型を見て、ぼくはひどく腹立たしい気分になった。模型は住宅の一軒一軒にいたるまで、壁に写真を貼ってこまかく作られていた。この人たちは、莫大な費用を投じ気の遠くなるような労力を使わせてこの巨大な模型を作らせた。その模型を見ながら東京を六本木ヒルズのような都市に作り替えるべく思いを巡らし莫大な利益を計算する人々を、想像させらたからだ。Google Earthのもとをたどれば軍事情報にたどりつく。もとの情報はもっと精度が高いはずだが、もしもそれを見たらあの模型を見たときと同じような気分になったのだろう。
 Google Earthでは、自分の見たいところにピンを立てておくと、地球のどこからでもまっしぐらにそこに飛んでゆく。そうやってブックマークのように印をつけたところをここでは「My Place」とよぶのだ。ちょっとうれしい気がした。Google Earthは、地球のどのまちも山にも自分の場所としての関心と愛情を持つ想像力をそだてる力を、たしかに持っているとぼくは思いたい。

投稿者 玉井一匡 : 01:42 AM | コメント (4) | トラックバック

December 24, 2005

桑原弘明展 SCOPE

scopecartain.JPG
 ギャラリーに着いたけれど、ドアから2、3mほどのところに黒いカーテンが引いてある。今日は休みなのだろうか?しかし、記名帳が置いてあるぞと思っていると、にこやかに女の人が入ってきて会釈をしながら黒いカーテンの端をすり抜けて行った。そりゃあ暗くしたいのはあたりまえだなと気づいて名前を書いて中に入った。一辺が7、8cmほどの真鍮とおぼしき小さな箱が6つほど、ひとつずつ台の上に載せてある。箱の正面に望遠鏡の接眼レンズのようなものがひとつと、他の面に4つほどのガラスの蓋のついた丸い穴がある。レンズから覗くと、ミニマグライトのような小さなライトを持った人が丸い穴から光を入れてくれる。光を入れる位置と方向を変えると、超広角レンズで見るような箱の中の世界の時刻が変わる。季節が変わる。そして世界が変わるのだ。

 この小さな空間は動かない。視点も視界も固定されている。つくりものなのに、実物がぼくたちにもたらす以上のものを感じさせるのはなぜなんだろうという疑問は帰り道のぼくにつきまとった。
あの黒いカーテンが始まりなのだ。まず、カーテンを引いてギャラリーの中に暗い大きな箱をつくる。その中に8cmの金属の筐。その筐の中に小さな部屋。その奥にもっと小さな窓。窓の外には空がある。空には星が光る。限りない宇宙もこの筐の中にある。暗くすることで、ぼくたちの目はわずかな光も感じ取るようになる。小さくするることで、ぼくたちの注意力のすべてが数センチの範囲に注ぎ込まれ、注意力の密度が高められる。
桑原さんにうかがった話を思い出した。

 見る側と作る側に同じことが起きるのだ。
「やはり実体顕微鏡(両目で見る顕微鏡)もお使いになるんですか」
「ええ、部品をつくるときは実体顕微鏡を使うんですが、それを組み立てるときにはこうやって」
と、桑原さんは片目にレンズを取り付ける動作をしてみせる。昔の時計屋さんのように、眼窩にはめ込むレンズだ。なんと呼ぶのか分からないので、あとで調べると、アイルーペというのだった。
「こういうのもあるでしょ」と、ぼくはサンバイザーのような両目につけるルーペのしぐさをする。
「組み立てるときは、なぜか、片目じゃないとだめなんですよ」
「そうなんですか」
 たとえばICのような小さなものを組み立てるときには顕微鏡で覗きながら作業すると、それに応じた精度で人間の手は動かすことができる。そのことを、ぼくはとても不思議なことだと思っていたが、それと同じことなのだ。筐の中を見る時と同じように、作るときにも小さな範囲に限定すればそこにすべての注意力を集中することができるのだ。ところが組み立てるときには片目のルーペで見ながらでないと駄目だというのは、ちょうど杉本博司がニューヨークの自然史博物館のジオラマを片目で見たというのと同じじゃないか。部分を作る時には事実を両目で見た方がやりやすいけれど、想像力を駆使して世界を作ってゆく時には片目で見るのがいいのだ。液晶ディスプレイで写真を撮るときにも片目で見る方がいいのかもしれないぞ。
 
君好みだよと秋山さんから二度も電話をいただいた。ぼくもみんなに知らせたいが、もう今日で終わる。毎年12月に、このスパンアートギャラリーギャラリー椿とで交互に個展を開いてきたが、来年は今までのものをみんな展示するという。「12月になったら思い出してください」。
「スコープ少年の不思議な旅」をバッグに入れて「来年の手帳に書いておきますよ」といって外に出た。

投稿者 玉井一匡 : 08:08 AM | コメント (4) | トラックバック

December 16, 2005

THE PLACE OF HOUSES

 THE PLACE OF HOUSES
 Charles W. Moore, G. Allen , D. Lyndon , W. Turnbull
 MADCONNECTIONのおかげで「美の巨人たち」のチャールズ・ムーアとシーランチの2回目は見ることができた。見そこなった1回目では、シーランチとムーアについて「あまり有名でない」という解説が加えられたというので、ぼくはちょっと驚いてしまい、この本について書いておこうと思った。このBlogのタイトルMyPlaceは、この本とすくなからぬ関わりがあるから、いずれ書くつもりではいたが、先日、「アースダイビング@下北沢」にトラックバックされた脇田さんのblogでも「場所」と「空間」についてふれられていた。

 ぼくが、「場所」と「空間」を対立概念として意識するようになったのは、いまから30年も前にこの本を読んで、それから数年経ってからのことだ。ムーアはこの本のタイトルとして、SPACEと音を合わせるようにPLACEということばを選び、対立概念としたのではないかと気づいた。だとすれば、近代建築の中心をなすのはなによりもまず空間つまりSPACEだから、この本はまずタイトルがモダニズム批判なのだが、そこはムーアらしく正面からSPACEを批判したわけではなく、本の形式もその道具のひとつとして使っている。 建築の専門家に向けてではなく、自分のイエを建てようとしている人たちに向けて書くという形式をとったのだ。 
 序文には、スタイルブックのような本を作りたかったのだと書いている。住宅はかくあるべしと論じるのではなく、イエのさまざまなあり方を示し、住宅の「スタイル」を具体的に見せる。しかし、スタイルブックだからといって、モノとしての住宅を羅列するのではない。まちのありかた、生活、イエの構成のスタイルを具体的に説明しているのだ。これらは、そこから直接的に何かを学ぼうという実例であるよりは、むしろ根源的なところで共通する意味を読み取る寓話あるいは神話のようなものかもしれない。モダニズムは、普遍と純粋を目指したのに対して、住宅とまちの個別なありかたを具体的に語ったこの本の形式そのものが、実はモダニズムに対する異議申立てである。

 「THE PLACE OF HOUSES」をamazonで検索すれば、「なか見検索」で表紙と目次、本文の一部、索引を見ることができる。内容は、およそ4つの章からなり、それにチェックリストや索引が加えらるという親切な構成だ。
1)Houses of several places
2)The three orders
3)Setting out choices
4)Inflecting the scheme
「places」ということばは、1章目のタイトルに使われる。この章ではアメリカの、性格の異なる3つのまちをとりあげてまちと住宅の関わり方を示す。いいまちにいいイエがつくれられ、いいイエがつくられることでまちがよくなるのだというケーススタディである。
ニューイングランドの古いまちエドガータウン、大地震のあとに意識的にスペイン風の町づくりをしたサンタバーバラ(マイケルジャクソンが住んでいるので有名になった)、そして「美の巨人たち」に取り上げたシーランチはカリフォルニアの海岸の崖の上の別荘地。
これらは、すでに存在するものたち、周囲の自然環境、まち、これまで生きてきた人々、これまでに存在してきたまちのありかたを読み取り、それらを大切にした積み重ねがいいまちをつくった。シーランチでは、はじめの志とは少しずつはなれていった失敗についてもふれている。
1章目でまちとイエについて論じたあと、2章目以下では住宅の中身のスタイルに向かい、ひとつの住宅をつくることに目を転じる、つまり、イエがつくりだすPLACEである。
MOORE.jpg 「空間」は抽象的な概念だから取り替え可能なものであるのに対して、「場所」は、他にないそこだけそれだけの取り替えのきかない具体的なもの、たとえばひとりひとりの命のようなものだ。
 難しいことばをつかうのが好きな建築家たちは「ゲニウスロキ(地霊)」とか「トポス」なんて言葉を新兵器にして、かつてポストモダンを気取った。その追従者たちは過去の貯蔵庫からデザインのネタを取り出してきて不足を補うというぐあいに自分の表現の道具にした。しかし、ムーアは分かりやすいものやありふれたものを駆使して、たのしい気持ちいい場所をつくりだし、それが軽やかにモダニズム批判となったのだ。
 
 たとえばモダニズムに邁進するディベロッパーだって、彼らなりにいい都市、いい住宅、いいオフィスをつくることを目指している。しかしそこでは、すでにあるまちも、すでに住んでいる人たちも、積み重ねられた時間の痕跡も、現実に象徴的に清算してあらたに「現在」を塗り重ねる。それは、ニューヨークであれ上海であれ同じ広さおなじ形の土地であれば置き換えが可能な都市だ。ひとりひとりの命に想像力を及ぼすことなく、兵士の数の減少とその補充を考え、自分たちは命の危険にさらされることのない参謀本部のようなものだ。

 実を言えば、ぼくは厚い英語の本を進んで読み通すほどのことはしない。これを読んだのは、石井さんが翻訳しないかといってるけどどうだと難波が言ったからだった。面白そうだから、そしてなによりムーアの建築が大好きだったから、単行本の翻訳はしたこともなかったのに引き受けることにしたが、ずいぶん長い時間がかってしまった。石井さんはそのころイェールにいて、その間とうとう一度も会わずに翻訳をすすめて本になった。タイトルは「住宅とその世界」と提案したのがそのままつけられたが、本の性格からすればWhole Earth Catalogのような気軽なペーパーバックにしてほしかったがハードカバーの立派なものになって4000円近くになった。その後は再版されずに、絶版になってしまったが、原書はまだ買うことができる。鹿島出版会で担当してくださった編集の京谷さんは翻訳をとてもほめてくださったのだが、いまになって読み返すとアラが目について、できるものならやりなおしてもっと気楽な本にしたいものだ。このあと、やはりムーアの「BODY, MEMORY and ARCHITECTURE」(Kent C. Bloomerとの共著)という本も訳した。これも日本語訳はなくなったが原書はamazonで検索できる。ぼくはたしかそのまま日本語にして「身体 記憶 建築」というようなタイトルを提案したが、やはり立派な装丁で、「建築デザインの基本」なんていうつまらないタイトルになってしまったのに、なぜかこちらは再版された。

投稿者 玉井一匡 : 01:10 PM | コメント (12) | トラックバック

December 10, 2005

かわいい家並み:小さな影

 
 妙正寺川に来る鴨の数が毎年少しずつ増えている。毎朝のように餌をやる人がいるおかげなのだろう。石積みの壁をこわして、代わりに石垣模様の仮枠で打ち込まれたコンクリートの擁壁とコンクリートの川底になったのをぼくは嘆いていたが、苔が生えて古びてきたし擁壁と川底の接線に草が生えてきたおかげで、ぼくの目もすこし慣らされた。そこに朝日を受けた家並みの連なる影が擁壁に落ち水面には快晴の空が映っている風景は、ちょっとみるとかわいい町並みのようだ。
 ほんとうはほぼ同じ間取りなのに表面を少し変えただけの家をならべた、いわゆるミニ開発で、けっしてほめられた家並みではないのだが投影という変換をほどこすとなかなかかわいい町並みになる。ニセモノの石垣も、時間の経過とたくましい植物の発生という変換によってパターンの繰り返しがすこし気にならなくなったし、テカテカのアルミの手摺さえ鳥の糞がついてちょっとましになった。

だからといってお手軽なミニ開発やニセモノの石垣をいいとは言いたくないが、すくなくとも巨大な塔の職住接近とくらべればよほど罪がない。わずかな変換がなされただけでちょっといい風景になるのだから始めにもう少しよく手を加えればよくなるだろうし、これから手を加えることだって木造だからやりやすい。
 犬をつれて朝の散歩をすれば、花に水をやりながらご主人を見送る奥さんや、おぼつかない足取りでリハビリの散歩に行くお年寄りと挨拶をかわすことがこのあたりで多いのも、むしろ小さないえだから外に出やすいせいだ。そうしてすこしでも仲良くなると、家にもいいところをさがしたくなるのもたしかだ。
 大規模な開発や巨大な塔のなかの生活が仮りに気持ちのいいものだとしても、それは周辺の犠牲、あるいは、地形、歴史、思いで、地域社会の破壊という、後戻りのできないたくさんの消費と引き換えにもたらされたものだ。ためしに近くに同じような塔ができれば、すぐに失われる気持ちよさであることを思えば、それは「都市のチカラ」というよりは都市のチカラずくで手にしたというものではないか。

投稿者 玉井一匡 : 10:27 AM | コメント (3) | トラックバック

December 08, 2005

メメント モリ:長い影

 六本木ヒルズの森美術館の入場券で展望台「シティービュー」にも行ける。なにしろ、高台に高いビルが立っているのだから、ここからは東京タワーを眼下に見下ろすほどだ。午後2:40ころには、六本木通りをアメリカ大使館宿舎の近くまでとどくような長く黒い影を落としている。
 なぜ、こんなに高いビルを高台に建てなければならないのか、なぜこんなに大規模な建築を作らなければならないのかという、根源的な疑問が湧いてくる。もうオフィスビルの供給は十分だと言われてから久しいのに、空室を抱えているようでもない。
 「アースダイバー」に書かれているように、縄文期の丘の頂には古墳や墓が多く、それがのちに神社になったのだとすれば、六本木ヒルズの塔も仏塔のようなものだ。仏教寺院の塔、ストゥーパは日本では漢字で卒塔婆となって、墓の周囲に立てられているが、塔というものは、そもそもは釈迦の墓なのだ。
 六本木ヒルズの塔は、ひそかに墓としてつくられたのかもしれないと、ぼくは長い影を見ながら思い始めた。「メメント モリ」ということばを思い出したからだ。

 ぼくがこの言葉をはじめて知ったのは藤原新也の「全東洋街道」だった。「死を忘れるなかれ」という意味だと書かれていたと思う。現代の日本人は、死というものを、人間のであれ食用とする生き物たちのものであれ日常の世界から排除し忘れてしまおうとしているけれど、アジアの多くの国では死が、生きている人々のすぐそばにいるというのだ。しかし、ぼくはこの言葉を自分で直接に調べたことはなかった。googleで検索すると、「山下太郎のラテン語入門」というサイトがあった。ラテン語格言集というところの「Memento mori.」の項目にはこう書かれている。
「『メメントー・モリー。』と発音します。動詞 memini(メミニー) 『覚えている』の命令法が memento で、『覚えていなさい』。moriは、動詞 morior(死ぬ)の不定法の形。」
「死」は、近縁のイタリア語でMORTE、フランス語ではMORTだ。英語にも形容詞としてMORTAL(死すべき)がある。外国人に指摘を受けることは多いだろうに、ラテン語で死を意味する「mori」を会社の名称としてMORI BUILDINGが使い続けるのは意図的だろうが、なぜなのだろう。何かの「死」を葬る塔のつもりなのだろう。これができたおかげで空室が増えて取り壊される小さなビルなのか、もとの姿がすっかり分からなくなってしまった地形とともに消え去った、このまちの記憶なのか、それとも他になにかあるのだろうか。
 いずれにせよ、ぼくは、死とは生の一部分なのだということを忘れずにいたいと思う。

投稿者 玉井一匡 : 09:19 PM | コメント (9) | トラックバック

December 06, 2005

アースダイビング@下北沢


  アースダイビング@下北沢から、もう2週間が経ってしまう。いまさらのエントリーも恥ずかしいが、さりとて書かずにすますわけにはゆかない。
 何度となく近くを通りながら、これまでぼくは代々木八幡の境内にはいったことがなかったが、鳥居をくぐると中沢新一の書いている通り、すぐわきには縦穴住居が復元されている。本殿の賽銭箱の前が集合場所だから、ぼくは100円玉を入れて柏手を打つ。いつも神様には何も祈らない。なにも考えない。ただ耳を澄ますのだ。
振り返ると、むこうに縄文人とおぼしき家族がいる。杉本博司の撮影した自然史博物館のとは比べるべくもないが、縄文人の家族のジオラマである。ガラスの近くに寄って目を凝らすと奥の壁に水彩画が1枚かかっている。この神社のある高台は縄文時代には小さな半島で、頂に環状部落、足下には海の波がある。アースダイバーを読んでいなければこの絵にも気づくことはなかっただろう。

 アースダイバーマップというものを手にしただけでぼくたちの東京の読み取り方をすっかり変えたと、前に書いたが、高さの基準を平均の海水面(とはいうものの、標高ゼロってどういうことだ、海面はつねに移動するし波もあるのにどうやってゼロが分かるんだというのは、昔からのぼくの疑問だった)でなく30m高いところに移すだけで、場所についてのぼくたちの感覚がすっかり変わってしまった。陸の輪郭、言いかえるなら、ぼくたちの島のすがたを2次元で表現したかたちを具体的に体験することができるようになったのだ。現実の海面は時とともに高さを変えるけれど標高30mという海岸線は想像の中にしか存在しないので、かえって変わることがないのだ。しかも仮想の海岸線であるおかげで、そこにはいつでも行ってみることができる。・・・現実に。
さらに、そこは縄文時代の海岸線である。立体を2次元で表すだけでなく、時間さえ2次元であらわしていることになる。だからぼくたちは心を動かされないはずがない。さらに、今回はもっと心と想像力を刺激するものがあった。masaさんのハンドヘルドGPSという魅力的な道具だ。もとは軍事技術だが人工衛星のおかげで自分の立っている場所の平面的な位置と高さをその場で確認してしまう。あとになって移動した軌跡を確認することができる。masaさんは、約束通りにそれをblogに公開した。フィヨルドのように海と接する下北沢界隈の地図に、ぼくたちのたどった軌跡が書き込まれたものは、もっと多くの人を刺激したにちがいない。想像力は、ひとりひとりの内に浸透してゆくだけでなく、外に向かって沢山のひとたちにも広がってゆく。なんとすてきなことだ。

 そういうふうにして、ぼくたちの想像力が刺激されるのは、下北沢のまちのあちらこちらにしたたかに軽やかに生きる小さな店たち、坂やレンガ積みの擁壁、かまぼこ教会、細い路地などがあるからだ。そんな場所に、何十年も前に軍事的な目的で計画された道路を重ねてつくるとすれば、地形も、ひとびとが長い間に積み重ねきた小さな歴史も、すっかり消えてしまう。アメリカのように索漠たる広い国の真似をしようというのはわけが違う。勘違いも甚だしい。日本中の都市に起きている、なにより大きな問題は、大きな道路のまわりに大きな商業施設ができて、古くからのまちがさびれてしまうことだ。自然にできた下北沢の親密なにぎわいをつぶして、日本中のあちらこちらにできている同じ顔をしたまちを、わざわざもうひとつつくるにすぎない。バカとしか言いようがない。逆なんだ。むしろ、下北沢を見習おうというべきなのだ。
公共投資によって経済を刺激しようというのなら、もし、道路に金をかけたいというのなら、量や大きさではなく質を向上させればいい。歩道をひろげ、街路樹を植えればいい。
 道路、ダム、大規模開発、そして大国になりたがること。なんでも大きいほどいいというのは、大変な間違いだと、じつは大部分の人たちが気づいているはずなのに、「国家」を動かす人たちにはまだわからないらしい。木を見て森を見ないということばの意味するところは正しいと思う。しかし同時に、一枚の葉っぱの中に、宇宙のすべてを貫く原理が潜んでいるのだ。

投稿者 玉井一匡 : 08:19 AM | コメント (3) | トラックバック

October 24, 2005

「アースダイバー」とアースダイビング大会

 アースダイバー/中沢新一/講談社 左図はアースダイビングマップ
 中沢新一が「アースダイバー」に持ち込んだ道具は、縄文海進期のEARTH DIVING MAPただひとつなのに、ぼくたちの東京の読み取り方をすっかり変えた。アースダイビング探検隊で、その思いを新たにしたのだが、出だしでぼくは躓いた。タクシーに置き忘れたデジカメの代わりを何にしようかとあれこれ悩んだ末に、kawaさんがblogに書いていたリコーCaplioGXのコストパフォーマンスに抗いがたく注文したのがギリギリで、届くのをまっているうちに集合地点の六本木バーガーインには間にあわずに、ノアビルから合流したのだった。アースダイビング大会の隊員は、原、、松、井、それに。ことごとくわれらの風景あるいは風土を形成する文字だ。力士の醜名ならずとも、日本人の姓は地と分ちがたく結びついている。

 歩いているとゆるやかな傾斜にはなかなか気づかないのに自転車では上り下りに敏感だ。ぼくの自転車通勤ルートは、川沿いの道には上り下りが少ないだろうと考えて、新井薬師から神楽坂までの妙正寺川から神田川にのほとりをなぞっている。できるだけ川のそばを走りたいと始めたが、気持ちよく走りやすいところを探しているうちに、ちょっと離れた高台の足元の道を走るようになった。その高台は南斜面だから緑が多いし、道から川までの平らな土地は、上流から川が運んだ土砂で作ったものだろうと思いながら走るのはきもちいい。縄文時代にはまだこのあたりは海の底だったという想像はたのしさを倍加した。そういう高台のひとつに林芙美子の住んだ家がある。

 探検隊は六本木から緩やかに坂を下り、狸穴をへて白井晟一のノアビルの前を通って東京タワーにのぼり、上空から東京の地形を確認。芝丸山古墳を見たあと、増上寺の大門をくぐって焼きトンの秋田屋に漂着した。縄文地図をみれば、自転車通勤のルートは海岸のおおきな形に添って平行に海底を走っているのだが、探検隊は東京湾に触手のようにのびている岬を上り下りしてあるいた。海と陸地がたがいに食い込むフィヨルドのさまを実感するには、自転車より徒歩がいい。それほどに細かく海と陸が入り組んでいる。いいかえれば、陸地と海の接する波打ち際は、今よりもはるかに長い。ぼくたちが海を好きなのは当たり前なんだ。  東京タワーの上から見下ろすと、高層ビルのおかげで地形はほとんどわからない。ただ、樹木の多いところがあると、あそこは何だろうかと気づく。その多くは、公園でなければ神社、寺、皇室の住まいのどれかだ。モダニズムは「いま」にしか価値を置かないから、古いものに未練を持たない。上から見れば緑があるばかりだが地図をたよりに行ってみると、思いのほか前方後円墳はちゃんと残っているものの、円形の頂は容赦なく平らに削られている。公園にするからといっても、平らである必要はあるまい。おい、元の地形に恨みでもあるのか。広大な土地に巨大な構築物をねじこんでいったアメリカ文化の荒っぽいところをコピーして、変化に満ち緑豊かなこの島に貼付けたのだ。 古墳とプリンスタワーホテルの礼拝堂とおぼしき建物のあいだに、立派な看板があった。「管理責任者東京プリンスホテルパークタワー支配人」なるものによってつくられているのをみてmasaさんと苦笑した。「土地の形質を変更すること」を禁ずるという。アメリカが、大量破壊兵器の所持を他国に禁ずるようなものだ。傷つけられた古墳と裸にされた由緒ある寺と名前だけの王子さま、そして形だけのチャペルでつくられる王国の樹立宣言。やはり、アースダイバーのように泥にまみれてつくらなければいい国はできない。
「アースダイバー」とは、アメリカインディアンの建国神話のひとつ、水の中に潜ってくわえてきたもので国をつくったカイツブリあるいはアビなのだという。中沢ダイバーは、もちろん東京タワーの展望台から地上にダイブしようというのではない。意味の海にのんびり浮かんでいるとみるや、クルリと身をひるがえしては水面を切り裂いて、つぎからつぎへと嘴にくわえて水面に飛び出し、波打ち際に獲物を並べてゆく。それらは、新しくつくられたものではなくむしろありふれたものや古くさいものでさえあるのに、ちょっと並べ方を変えただけで、すっかり意味を変える。
 すでにあるものを壊そうとはしない。ただ、すでにあるものの組み合わせを変え意味を変え価値を変えるのがアースダイバーのやりかた。「縄文海進」さえ、意味の海の底にすでにあったのを見つけてきたものだ。中沢ダイバーは、最後にはこともあろうに天皇制すらくわえて浮上してきた。それを「森、縄文、南方、女性」というカテゴリーに置くと、天皇制は女性天皇の誕生をもって近代天皇制に別れを告げ、グローバリズムに対抗するアジール(あらゆる権力のおよばない避難所)として天皇はこう宣言するのだという。「わたしたちの日本文明は、キノコのように粘菌のように、グローバル文明のつくりだすものを分解し、自然に戻してゆくことをめざしている、多少風変わりな文明です。そしてわたしはそういう国民の意思の象徴なのです」と。

投稿者 玉井一匡 : 01:33 AM | コメント (13) | トラックバック

October 13, 2005

実物googleマップ


 ぼくが子供のころ、電車に座るときには「くつを脱ぎなさい」というのが大切なこどものマナーのひとつだったような気がする。電車子供でも、電車そのものの好きな子は先頭の車両にいって、運転手のうしろから進行方向を見ていた。運転手の動作と運転席の計器のならびかたと線路の続く様子が見たかったのだ。今思えば、ぼくは運転席派よりも客席派に所属していたようだ。客席派は座席にうしろむきにひざまづいて外を見る。「くつを脱ぎなさい」は、隣にすわる客に汚れた靴があたらないようにしなさいということなのだった。マナーその2は「顔をださないように」だ。「電柱にぶつかって顔のなくなった人がいるのよ」という補足条項はおそろしい光景を想像させた。そういう格好をして座るのは子供っぽいぞと、すぐ思うようになってしまうし、小さいときには電車に乗る機会も少なかったから、後ろ向き乗車の機会はさほど多くなかったにちがいない。そして、ふだんとはまったく違う風景を見たり、目の前をすれ違う電車のスピードを実感したり、駅で止まると窓から熱い空気が入り込むのを知った。

 いや、空からの景色の話のつもりだったのだこれは。
おおよそは決まっていたものの急にラオスに行く日が具体化して、12日の11時発で成田を出発した。窓際の席を選んだけれど、隣の2人分の席には人が来ない。天気はいいし実物googleマップにはもってこいの条件が整った。googleマップと「東京の原地形」に「アースダイバー」の知識が加わったから、空からみる日本がさらに新鮮だ。あれはなんだろう、これはどこだろうと思い、インターネットにつなげられないもどかしさを隣の席に座らせて、アクリの板の窓にぴたりと額を押し付けて下を見ていた。せめて、地図がほしい。飛行機のディスプレイにはgoogleマップを写してほしい。
熱中しても、開かない窓から顔を出す心配はないし、となりの席は空いているから「ぼくも外をみたいな」なんてうらやましそうにする子供に「代わってあげるよ」なんて言わなくてもいい。
 そのうちに高度も上がり天候も変わり雲越しのgoogleマップになった。バンコクの空港が近づいて、ふたたび地上が見えてくる。1年前にひさしぶりにバンコクに来たら、高層ビルが林立してすっかり様相変わってしまった。空港のあたりの郊外も、かつては農業地帯だったところが住宅地やおそらく工場などに開発されている。
 河口にできた広い平地に直線的に水路を通し、農地は長い長方形の区画に分けられている。長方形の端に家が建ち背後に農地が長くのびる。そして水路をはさんで背中合わせに農地があり家ー道路ーそしてまた家とくりかえしている。それが、開発される前の農業地帯の構造なのだろう。
 その区画をまるごと住宅地として、ところどころ開発しているのだ。この写真の開発では写真に120戸ほどの住宅がある。短冊の長手方向に道路を2本はしらせ、それを間にしてふたつの住戸の区画が向き合う。少なくとも空から見れば、美しいし興味深い。美しいのは、屋根が土色の、おそらくはセメント瓦で揃えられているし、今のところは、緑のなかにその色がほどよくちりばめられているからだ。極端に細長いのもグランドデザインとしてはかっこ良く感じられる。中央には、遊水池かプールがある。日本の住宅開発とくらべれば、空からはきれいだ。僕が電車を思い出したのは、飛行機の窓から外を見たせいだけではなくて、細長い開発が電車を想像させたからかもしれない。
 とはいえ、地上を想像せずにはいられない。農地の所有形態はどうなっているんだろうか?排水の処理はこんな長くて勾配がとれるのか?これがいっぱいになったら交通渋滞はどーする?いまは雨水を吸収している農地がなくなったらどうなる?等々、疑問と心配はいろいろとわいてくる。いちど、地上から見に行きたい。しかし、写真がぼやけているのがもどかしい。

投稿者 玉井一匡 : 05:35 AM | コメント (2) | トラックバック

October 10, 2005

kai-wai散策と 微かな光

kaiwaisansaku.jpg click Image to jump to 「kai-wai散策」
「kai-wai散策」の写真がとてもいいなとずっと思っていたのだが、先日の「COFFEE こころ」で、いっそうにその思いを深めた。ここは自分の目で何度もみたことのある場所のはずだが、ぼくにはこんなふうに見えたことがない。
 かすかな弱い光のもとで見ると、ものが光を反射しているのではなくて物体が光を放っているように感じられることがある。月が光を反射しているにすぎないと知りながら、ぼくたちは月の光といい月明かりという。何でもいつでもそういうふうに感じられるわけではないけれど、kai-waiの写真にはよくあるのだ。「こころ」の写真は、とりわけそう感じられた。

 水琴窟がつくる音は、かすかでひそやかな音でありながら空間を満たすようにさえ感じられるのもおなじことなんだろう。光が少ないこと、音が小さいことが、むしろぼくたちの感覚を目覚めさせて、ちいさなものにも感じやすくなるのだ。写真のばあいには撮る人と、それを見るがわのぼくたちの感覚が磨かれる。
 masaさんの写真は、もうひとつのかすかなものに対してきめこまかくやさしい。kai-wai散策の共通テーマである、ほろびようとしてるものたち、大きな顔をしているやつらの狭間にひそやかにあるいはたくましく生きているものたちの、おだやかないのちと控えめな自己主張に対してだ。
もしも、まちにおだやかな光や音やいのちや息づかいを感じられるレイアがなくて、コンビニやヨドバシカメラやドンキホーテや自動販売機のようなものだらけになったら、ぼくたちをひどく鈍感にしてしまうだろう。
だからといって、かすかに残された自由を、息をひそめて大切にしなければならない世界には、けっしてしたくないが。

投稿者 玉井一匡 : 12:30 PM | コメント (5) | トラックバック

September 26, 2005

映画 もんしぇん

10年をこえる時をかけてやっとできたが、見てもらわなきゃはじまらない。
Goshoura.jpg 御所浦町:click image to jump up to Google マップ


 いい年をしてと思いながら、ぼくはいまだに飛行機では窓際を選んでしまう。空から地上を見ると実物の地図がよくわかるからだ。広い平野と山の裾が接するところを見れば、緑の海に浮かぶ島のようだが、それもむかしは本当に海だったのだろうと想像して時間を遡る。山の頂から地球の表面は下ってゆき、海の下を通り向かいの島とはつながっていて、ただそこに海の水が載っているだけだと感じられることもある。里山に抱かれたところが心地よい「谷戸」となって集落ができるように、緩やかな斜面に囲われた小さな湾は、もうひとつのしあわせな地形だ。里山は人の住む里と自然の山が接するところだが、入江では海と山の間に集落がある。いずれも、複数の世界が重なった場所が小高い地形によって外界からまもられて小世界がつくられる。
 小さな島の小さな入江を舞台にした「もんしぇん」という映画が、先日、やっと内輪の試写会にたどりついた。音のないビデオや編集途中のものは見たけれど、最終的に編集された映像を、ぼくはまだ見ていない。

 もんしぇんなんてタイトルは何も思い起こさせないと反対する意見も多かった。いまでは、この地方でさえあまり使われることもなくなった言葉だからだが、この地方で「もんしぇん」ということばは「だから」という意味につかわれるのだという。そういえば、長崎県出身の母方の祖父は、東京に住みながら最後まで長崎弁が抜けなかったが「俺が行くしぇん」というぐあいに「しぇん」ということばを「・・から」という意味に使っていた。
 理由と結論を結ぶ接続詞は論理をつくりだすが、だからといって、かならずしも行動を導くわけではない。 世界は両義的あるいは多義的な事象に満ちていて論理はいくつもあるのだが、行動はひとつを選ばねばならない。多義的な小世界をつくる入り江、それが小さな島の中にあるとすればなおさらだ。しかし、多義的であることは不明瞭であることと同じではない。入り江や谷戸は多義的な植生や生物相があるが地形は明快である。だからそこには、ひとつの小世界がかたちづくられる。ぼくたちがこういう地形を理想のひとつとするのは、明快な構成の器に多義性が盛り込まれるからなのだ。何億年か前に両棲類が海から陸に上がったときも、それはきっと入江からだったろう。この島では、恐竜の骨の化石が見つかり、御所浦白亜紀資料館という小さな博物館もある。

 この映画は、上の衛星写真の島、熊本県御所浦、正確には御所浦町の牧島を舞台につくられた。あるいは、この島の小さな入り江がこの映画をつくったというのがふさわしいのかもしれない。
 物語は・・・・身ごもってひとりになった若い女が、故郷の近くの入り江にたどりつく。はるという。
そこには老人ばかりが土人形(どろにんぎょう)をつくりながら屈託なく暮らしている。中にただひとり、ちいという若い女が一緒に住んでいるが、けっして口をきこうとしない。心ならずも迷い込んだはるは、そこを出て行こうと思いながら老人たちに引き止められ、もとよりかれらの作る世界に好奇心をもたずにはいられない。さらにあらたな老人たちも加わる。・・・産む、産まない、帰る、残る、不安、やすらぎ、老い その中ではるは、そこの場所とそこに住む人々にひかれてゆく。

 最終版を見てもいないのに勝手なことを書くのは、この映画の作られる過程を、ぼくは長い間そばにいて見たり脚本を読んだり、この島にも行ったりしてきたから、どういう素材があり何をこころざしているかはわかっているつもりだからなのだ。うちの事務所が彼らの打合せの場所になっていたから、来れば論争がうるさいけれど、しばらく来ないとさみしくなった。そんなわけだから、ぼくには公正な評価をすることはできない。若者たちを応援するけれど、かといって思いもしない褒め言葉を使いはしない。そういう立場で、来年に予定している公開まで、この映画とそれに関わることを、ときどきエントリーしてゆこうと思う。

このブログ内の関連エントリー
mF247/*音楽配信サイト & 脈動変光星
*「もんしぇん」の公開
*もんしぇんの試写会
「もんしぇん」と「一角座」
         *   *   *   *   *   *   *   *
*追記:初めてGoogleマップをご覧になるかたへ

 写真をクリックして、googleマップの画面に移ったら、いろいろと画面を変えることができます。
・右上の「マップ」というボタンをクリックすると、同じところが衛星写真から地図に変わります。
・左に、上が+下がーになっているスライド式のコントロールがありますが、このつまみを上に引くと大きく、下に引くと島は小さくなる代わりに、下端までいっぱいに動かせば地球全体が出てきます。
・位置を変えるには矢印をクリックして東西南北に、どこかの場所をダブルクリックすれば、そこが画面の中心になります。
 まだ、不十分なところが2つあります。今のところ日本とアメリカとイギリスしか細かい地図が用意されていないこと。もうひとつ、地域によって写真のクローズアップの限界が違うことです。大都市ではひとつひとつの建物が認識できるくらいまで近づけますが、たとえば御所浦のようなところだと、あるところから先は写真が見られなくなってしまうのですが、遠からずそれもかわってゆくでしょう。

 インターネットのこういう使いかたは、はじめに構想したひとたちの意図をもっとも表しているもののひとつだと思います。それはきっと、場所についての人間の感じ方考え方を感覚の段階で変えてゆくでしょう。高いところから見た写真では国境線なんか見えない。中央がえらくて地方がそれに従属していると考えることや、ここは自分たちの領土だといって国家が対立していることなどを別の目でみることができる。いますでに東京経由でなければ世界とつながらないという考え方は弱くなりつつあることがもっと進み、それぞれの場所がそれぞれにいいんだという見方が進むだろうと想像すると胸が高まります。じつは大都市と同じように、小さな島の小さな入り江は世界とつながっている。むしろ、世界の本質にずっと近いところにあるのだと。
「日本海とGoogle マップ」も、お読みになってみてください。

投稿者 玉井一匡 : 01:20 AM | コメント (5) | トラックバック

August 26, 2005

日本海とGoogle マップ

 Click to popup.

ぼくは高校や中学のころは地理が嫌いだった。暗記しなきゃならないものだと思っていたからなのだが、ずいぶん後に一転して地図が好きになった。地理というのは暗記するのではなくて想像力を働かせるものなんだと気づいた。
 Google マップは、ぼくたちがこれまで想像力にたよっていたところを絵にしてくれたので、想像力の足りなかった部分を埋めてくれるし、想像力の方は、もっと別のことにつかえるようになるのがうれしい。衛星写真と地図のあいだを、地球上の離れた場所を、瞬時に自在に行き来する。遠くから見ることも近づいてみることもカンタン。そうやって見ているうちに、国境によって切り裂かれ分割された世界が、海と土と緑で蔽われたひとつながりの世界であることが、実感としてわかるようになるのだ。このことを友人の宮前眞理子さんに電話で話したら、「宇宙飛行士が地球を見ると、世界観が変わるっていうけれど、そういうものかもしれないわね」と言った。さらに、海の写真は海底の起伏もわかる。ひとつながりの地表の、低いところに水がたまった部分が海とよばれるにすぎない。価値を数量化して指標にすることをぼくはきらいなんだが、これは、コンピューターの処理速度が向上して、それがある段階を越えたおかげで量の変化が大きな質の変化をもたらしたのだ。

 地図の範囲さえ自在になる。「サテライト」を選んで、画面の中心に日本海を持ってくる。そしてそれを陸地が取り囲むようにすると、ぼくが思っていたものとは日本海がすっかり別のものになる。大陸と細長い島で囲われた池のような海。かつてのひとびとは、この海をこんな風に感じていたにちがいない。隔てるものであると同時にむすぶものではないか。朝鮮半島は、壱岐・対馬を経て行き来するものだから、日本の北にあるような気がしていたけれど、じつは島の全体からすればむしろ西にある。
 この地図を見ているうちに、池のようなこの海を日本海と呼ぶことに固執しなくたっていいだろうという気がしてくる。「日本の海だ」といいつづけるのは大人げない。2002年のワールドカップの招致合戦を繰り広げていたころ、当時参議院議員で招致活動の中心の一人だった釜本は、韓国は委員を買収しているとさえ非難するほど対立した。ブラジルは日本を応援したが、ヨーロッパの委員が提案した共催という結論になった。おかげで交流が劇的に変化した。ワールドカップの開催が友好の「資源」となったのだ。

 かつて、日本と琉球のことを朝鮮では海東(ヘドン)と呼んだそうだ。このことばをはじめて見たときに、友人にたずねると、朝鮮の古称だと説明してくれたと思っていたのだが誤解だったらしい、朝鮮から見て海の東つまり日本と琉球を指すようだ。中国は、例によって中華思想だから邪馬台国が記録されたのが後漢書東夷(東の辺地)伝だったように、自分中心はおたがいさまだったのだ。国際的な関係が確立する時代に、たまたま日本海という名称が認知されて現在に至ったのだろう。
ワールドカップの開催権については、他人に言われて渋々共催に従ったんだが、むしろ、池のように周囲を囲まれる海の名称を、いっしょに考えてみないかとぼくたちが言い出せば、平和のための資源として活用できるだろう。スタジアムの命名権が商売の種になるんだから、海の名前を平和の種にすることもできるだろう。同じことを相手に要求されてから動き出せば、それは争いの種になるだろうけれど。・・・・・Googleマップはそんなところにまで我々をつれてきてくれる。


追記:aki's STOCKTAKINGへすぐにトラックバックされたあと、きみは忘れっぽいから、「環日本海諸国図」にトラックバックしたよという電話も秋山さんからいただいた。Googleマップにはできないが方位を変えられるってことは、とても大きなことだと思うんだ、だからEARTH BROWSERを忘れちゃ行けないと。
両方ともそのとおりなのだ。ぼくは忘れっぽいおかげで、同じことに二度も感動してしまうことがある。しあわせな人だと言ってくれるヤツもいる。aki's STOCKTAKINGにあったのを調べようと思いながら書いていて、調べることを忘れてしまった。たしかに、地図の方向を変えるというのは、立場を変えて地図を見ることができるということだから、とても大きな違いだ。「環日本海諸国図」を見ればよく分かる。地図を180°回転しただけでまったく日本海の意味が変わってしまう。

五十嵐さんがいろいろさがしたローマの建築を上空から見る「ローマの休日」も楽しい。

投稿者 玉井一匡 : 08:25 AM | コメント (4) | トラックバック

July 30, 2005

根津・谷中 界隈探検

この夏でも屈指の暑さの中、Kai-Wai散策のmasaさんに先導されて、aki's STOCKTAKINGのaki氏とその病友Tuk氏とともに4人のおじさん探検隊が根津谷中の界隈に散在する古い長屋や商店を探検した。千代田線根津駅前に集結してさほど歩きもしないのに曙ストアなどを見たあたりで、一同まずはそばを食いたい気分になった。予定通り鷹匠の暖簾をくぐる。初対面に近い顔合わせが多いのに自己紹介もほとんどいらない。blogのおかげだ。 冷たいそばと温かいつゆという鴨せいろの逆説的な食べごこちも手伝って話がはずんだ。

AppleⅡもモールトンの自転車もBe-h@usもBlogも、ぼくは面白いものを見つけるとオルグして仲間をつくってしまうんだと、masaさんに向かってAkiさんが自説を展開する。これはもちろんBlogのときも同じだったよということなんだ。Blogはそれ自体がオルグによるオルグのためのメディアではないか。Akiさんは、モノを通じて世界を見るという、自分の視点を公開するだけでなく、それらをモノと思想のセットにして積み重ね残してゆこうとしている。それが、さまざまにネットワークとして構築されてゆけば、きっと少なからぬ力を持つだろうと僕も思う。この探検をもちかけた相手のmasaさんは、自分の生活圏の周囲を歩き回り写真を撮る。だから、こまかに、そして繰り返すことができるから時とともにまちが変化を強いられる様子もわかる。そこは、東京の中では空襲の被害も少ないところだったので、けっして立派なつくりとはいえない庶民の家が小さな路地に軒を接して並ぶまま残されていた。そのような、いまにも消え去りそうなまちの風景を、彼はBlogという引き出しに残そうとしている。これは、だれでも覗ける引き出しなのだ。まだBlogの野に足を踏み入れていないTuk氏が、来年から引き出しに何をいれるのを楽しみにしよう。
そんなことを話したり考えたりしているうちに、この店が朝の七時半から開けるのはなぜなのか尋ねるのをすっかり忘れてしまった。このあたりのむかしの蕎麦屋は、根津遊郭の帰りの客があさの腹ごしらえをしていたんでね・・・とか、職人が多かったから、昔は出がけにそばを・・・なんていう説明を期待していたのだったが、そとに出ると、いつのまにか日差しはやや横から少しやさしく差していた。近くには、10年ほど前にぼくたちの事務所で設計して、町工場を改装し店と住まいを上下に重ねた「根津くらぶ」がある。ひさしぶりに行ってみると、となりにあったうどん工場が壊されて瓦礫が広がっていた。おかげで、図面でしか見ることのかかった立面があらわになったのは思いがけない発見だったけれど、前提としていた風景がすっかり変わってしまったことに、内心では動揺があったかもしれない。

細い路地には日が射さなくなる頃まで根津と谷中の探検を続けた。masaさんとまちのひとびととのやりとりは、まちに張り巡らした根のひろさと深さを感じさせる。昨日も、古い建物が壊されてゆくんのをなんともしようがないんだという嘆きと憤りを松戸できいた。松戸でもそうだが、川口の知人が相続で立派な構えの大きな商家と土地を手放さざるをえなくなり、買い手は古い建物などなんの未練もなく壊してしまったという。根津・谷中でぼくたちが見てまわった長屋などは立派な造りではないからつぎつぎと壊されて、おそらく10年もすればすっかりなくなってしまい、その後にはマンションが建ってゆくのだろう。昔のいえは、同じような材料をつかいながら、それぞれのまちがそれぞれの表情を持っているのに、新しくなるとどこも同じようなまちになってしまうのはどういうわけでしょうねというmasaさんの疑問は、ぼくも同じだ。きっと、長い時を経るあいだに、そこに生きるひとたちが切実な思いから手を加えてきた結果として生じたまちのありようは、場所のもつ力が人間に影響を与えたからなのではないだろうか。こういう建物を懐かしがるばかりじゃなくて、使えるようにして生かしてやりたいですねなどとmasaさんのblogに書いたのは1、2週間前にすぎない。もちろん丁寧に手を加えられて昔の様子がそのまま残されているたてものを見るのはうれしいのだが、無人になった長屋や住居が残されているのも、過ぎ去った時間がそこで凍結されたようで、解体を近くに控えた風景のあやうさと諦めなんだろうか、特別の思いを抱かせる。masa さんはそこにも惹かれているのかもしれない。
 とはいえ、その後には、すくなくともこれまであったものよりもいいもの、いい場所をつくるということが、すくなくとも越えなければならないハードルだと肝に命じたい。

投稿者 玉井一匡 : 05:13 AM | コメント (2) | トラックバック

July 17, 2005

「宮本常一 写真・日記」展


 「宮本常一 写真・日記」展の最終日の前日、それも19:00までの開場時間もあと1時間ほどというころに会場についたらパーティーをやっていた。新宿御苑の入口近くの古いビル、3階にある小さな会場には、人がいっぱい詰まっていて、となりに立つ人との間には4,50cmほどしかないくらいだ。新宿駅から少なからぬ距離を歩いてきたから、断られたくはなかったし、宮本常一の写真展で排他的になることはあるまいと勝手に決めこんで、だれにともなくちょっと目礼をしただけで許可をえずにもぐり込んだ。「宮本常一 写真・日記集成」という本が写真の会賞を受けたお祝いの会だったらしい。立派な装丁の本が受付に置いてある。

 そんなわけで、立錐の余地もないというくらいの人がいるのに写真を見ているのはぼくの他にはほとんどいないという不思議な状況で写真を見つづけた。それ以前の写真は残されていないからという理由で、すべて昭和30年代から50年代にかけて撮影されたものである。この時代は、ぼくにとっては小学校の後半以降にあたる。すべてモノクロの写真が、すべて同じ大きさで撮影時期の順に淡々と展示され、短い説明がある。
 大部分の写真が、このころの日本はまだこんなだったのかと思わせる。それは、多くが地方のまちであり、その当時すでになくなりかけていたものや風景を撮っているからではある。しかし、古いけれどまだ残されているというものは、それが民俗学者の目を通してすくい上げた風景であればなおさらだが、時間を超越して日本の本質的なものをあらわすと宮本は考えたはずだ。これらは表現のためにではなく、記録として撮られたものだ。しかし、多くの写真がそうであるように、これらも宮本常一を通したある種の抽象の結果なのだ。たとえば昆虫図鑑の絵は、厳密な写実によってある昆虫の個体のありかたを描写したものであるけれど、図鑑の中の絵となった瞬間に、それはある昆虫の種についての抽象になるのだ。
 宮本常一にかかわる本がこのごろ相ついで出版されるのは、われわれが日本という場所、あるいは日本という生き方を見失いかけていることに気づいたからなのだろう。

 念のために書き加えておく。招かれてもいないのにもぐり込んだパーティーの場だったから、中央テーブルに並べられた質素だが豊かな食物や飲物にはいっさいふれませんでした。積極的に探しはしなかったけれど、ひとりくらいは知り合いがいるかと思ったが、だれも見つからないので、とうとう潜入者という資格のままだった。

投稿者 玉井一匡 : 07:32 AM | コメント (3) | トラックバック

May 11, 2005

自由学園明日館で

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 連休はじめの金曜日の夕方、自由学園明日館に行った。
あいだに道路をはさんで、明日館が講堂や婦人之友社などの低層の建物とつくる場所は、かけがえのない瞬間や記憶がぎっしりとつめこまれていながら夕日の光を包みこんでのびやかだった。さまざまな紆余曲折があったけれど、帝国ホテルのような建築の剥製のような形式ではなく、高い塀で囲われることもなく、人の集まる場所としてだれもが利用できるように残された。現在の日本とこの建築の置かれたさまざまな条件を考慮すれば、明日館という建築がそれにこめられたものや自らつくりつづけたものを保存するだけでなく、それがさらに持続されてゆくことになったのは「HOW BUILDINGS LEARN」の最善のありかたのひとつだと思う。
 この日ぼくが明日館に来たのは、前の夜に忘れ物をしたからだった。友人の淺野平八さんの依頼で、彼が教授をつとめる日大生産工学部・建築の学生のためにひらいている「建築の明日セミナー」で話をしたのが前夜のこと。淺野さんが「タリアセン」と名付けられた部屋をとってくださった心遣いがありがたかった。ぼくは、ライトの仕事のうちでタリアセンウェストが何より好きだ。「建築の明日」と名づけたのは、もちろん「明日館」を会場として学生たちをあつめることとは無縁ではないはずだ。
 淺野さんの研究は公民館が専門だが、日本の建築の工法や技術の継承にも力を注いでいる。とくに準備をしてもらわなくても玉井さんのやっていることを話してもらえればいいよと淺野さんは言われたので、ぼくは現在やっていること関心を持っていること、淺野さんの専門となんらかの関係のあることについて話した。

 新潟でつくっているかきの木通りと名づけた小さなまちづくり、ヴィエンチャンの図書館、このblogのタイトルにした「MyPlace」という考えかた、コレクティブハウス、Be-h@us展のことなどだった。「MyPlace」という概念やコレクティブハウスと公民館は重なるところが多いが、Be-h@usと日本の伝統的な工法との関係は重なるところは少ないが、さりとて対立概念でもなく、いわば補完的あるいは共生関係であるとぼくは思う。
 話のあと明日館を出て住宅街を5分ほど歩くと、もう飲食店の建ち並ぶ池袋のまちに着く。若者たちにおじさん2人を加えた団体は中の一軒に場所を移して食事になった。近くの席にやってきた若い人たちとの会話と彼らの思いによって、ぼくはさまざまに勇気づけられた。
 シャッターメーカーに就職の内定した女子学生は卒論に茶室の建具を取り上げたいと言ったが、茶室に限定せずにもっと多くの建具を様々な要素で分析する方がいい、資料はすでに蓄積されているからと淺野さんはアドバイスした。ファイルメーカーで整理して分析したらきっと何かおもしろいことがみつかりそうだとぼくも思い、シャッターはまちの景観をとても悪くしているものだから、これからやれることやってほしいことはいっぱいあると、ぼくは言った。
 別の女子学生は、建築の外縁について卒論を書こうとしているが、本を読んでいてもなかなか進まない。卒業設計にしてもいいだろうかと淺野さんにたずね、きみは大学院でもう少し勉強を続けた方がいいかもしれないと答える。設計ならいつだってやれるんだから、いまのうちに研究をしたほうがいいよ、とぼくは言った。「○にも、それを言ってやってよ」と淺野さんが言う。○君は、一昨年うちの事務所に実習に来てくれた。デザインの力がいい線をいっていると思ったが、それだけに先を急いでるのかもしれない。
 ひとりは数寄屋大工を志して大工塾にゆくといい、ひとりは数寄屋を得意とする工務店に就職するという2人が、ぼくの隣の席に向き合った。アジア各国やヨーロッパをめぐって、修復保存に力をそそぐ文化のありかたと、それをになう職人に惹かれたので、日本の伝統的な建築を受け継ぎ残してゆきたいのだひとりが言い、数寄屋をやれる機会はそんなにあるわけじゃあない、おれはもっと多くのしごとをやりたいとひとりが言った。
「ひとりだけ不動産だっていうんだよ」と淺野さんは男子学生を示した。席がややはなれていたので頭を下げただけだった彼とはじかに会話ができなかったが、まちのもっともおおくの部分をつくっているのはディベロッパーなのだから、不動産会社のふるまいは影響が大きい。由緒正しい三代目下戸のぼくは、酒のある集まりで席を移動してまわることを忘れてしまい、かならずあとになって反省するんだが、もっとよく話をききたかったな・・・・・「飲みゅにてぃ」を大切にする淺野さんの集まりなのに。不十分な飲み手の話をきいてくれてどうもありがとうと思いつつ、ここちよい初夏の夜風をうけながら小さな踏切を吉村順三事務所の前を通り、うちに向かって自転車を走らせた。

投稿者 玉井一匡 : 08:25 AM | コメント (4) | トラックバック

May 05, 2005

東急ハンズの向かいに


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 連休中だからまだクルマの少ない朝、渋谷の東急ハンズに注文したものをとりに寄った。いつもとは風景が違って見える。ハンズの前の坂道をはさんだ向かいに、かつて壁の穴というスパゲティ屋があった。タラコやイクラをスパゲティに使い始めた元祖の店だ。いまは、そこにアウトドア用品のモンベルのビルになっているが、その前の歩道際に若い葉を繁らせた木が1本だけ立っていた。
 ぼくは久しぶりに思い出したことがあったので、受け取った板をクルマにのせたあとでバッグからデジカメを取り出してミカンの木のところに行くと、木の根もとを見た。もしかしたら、ある痕跡がのこっているかもしれないと期待をしたからだ。ガードレールが、二またに分かれた木の幹に食い込んでいる。むしろ、幹がガードレールをくわえ込んでいると言うべきかもしれない。ぼくが見たかったのは、その下なのだ。もう6,7年ほど見ていない。

  
 が、「・・・・・ない」。落胆しつつしゃがんでめがねを取り出し、よーく見ると、それとおぼしきもの。さわってみると柔らかくあたたかい。ちょっとゆびさきでつまんでみると折れた。やはりまだあった。
 30年近く前、壁の穴にタラコのスパゲティを食べに来て、店の前でぼくがそれに気づいた頃には、路肩のガードレールを背にしておかれた箱に土を入れてそこに小さなミカンの木が植えられていた。というよりは、きっとタネがそこに捨てられたのが育ったのだろう。やがて、木はすくすくと成長し、枝と葉は上へ横へとひろがり、根は地球の表面に達した。発泡スチロールの箱の底は、その途中で突き抜け、木は発泡スチロールにの箱には不似合いの大きさになった。30年ほどの時間を経たいま、土の上に出ていた発砲スチロールは折れてなくなり角は丸まり表面は土色に染められた。ちぎって出てきた発泡スチロールは、真っ白だった。あとになって写真を拡大すれば、現物をみるよりもはっきりと分かった。

 こいつをみるたびに、僕はいつもうれしい気持ちになった。渋谷のど真ん中の、歩道とも車道ともつかない道路の縁に、捨てられるはずの発泡スチロールの箱を植木鉢がわりに植物を植えた。だれかに捨てられたミカン、もしかすると店でサラダに使ったレモンだったのかもしれない、そのタネが芽を出す。すくすくと成長し窮屈になって底をやぶって土を探り出す根。やがてミカンは道路に影をおとすほどの大きさになっても、幹の根元には、木の大きさには不似合いで、さながら大人の腰につけられたビニールの浮き輪のように、発泡スチロールの箱がまだしっかりと残っている。道路の舗装工事にも木が残された。渋谷区役所が近いので道路課のひとたちもとおりがかりにこのミカンの木を知っているからだ。近くの幼稚園と小学校に通ったこどもたちが、いまでは働きざかり。想像が、かぎりなくふくらんでゆくのだ。
 
 

投稿者 玉井一匡 : 09:54 AM | コメント (0) | トラックバック

March 22, 2005

ビールのキャップと屋根

vtnbeercap1.jpg
天井に張ってあるは段ボールに、ビールのキャップがついている。ここではただ一つのブランドなのだろう、どこにでもある「ビアラオ」だ。見回せば、あちらこちらに段ボールに食い込んで並んでいる。ヴィエンチャンのモーニングマーケットという大きな公設市場の、中心をちょっとはずれたところに2メートル足らずの低い天井の一画。これは何なの?と訊きたいが言葉が通じない。

通路の向かいの店は英語のメニューもあって、ヨーロッパ人とおぼしき客も少なくないが、そうでない方がおもしろそうだと思ってここに入ったんだからしかたない。親子3人連れのとなりの客は、そばを食べていたらこれを入れるんだと、青い唐辛子のいっぱい入った丼をよこしてくれた。友好的ではあるが英語は通じない。
 二回目のヴィエンチャンに着いた日曜日、初めて一日中ひとりで歩ける自由な時間ができたので、まずはモーニングマーケットに向かった。大きな屋根が3つならんでいる周りに、車がぎっしりとつまっている。昼過ぎになっていたから、まずは腹ごしらえをしたいと店をさがすと、前回に連れて来てもらったときにはナマズや鶏やさいの目に切った血の塊なんかをならべでいたあたりが、大部分は食べさせる店になっている。そこは大きな屋根の下でこの中の正式な場所らしいが、その一角を通り過ぎたあたりは、天井が低くてなんだか落ち着きそうな店だった。段ボールの天井の上には亜鉛鉄板の波板である。断熱材として段ボールを鉄板に固定するのにビールのキャップをつかっているようだ。

 翌日、別の店でそばを食べているときに、鉄板の屋根については別の話を聞いた。昨年の11月にASEANサミットが開かれたときのこと、会議の始まる3日前になって、突然お触れが出た。歩道沿いの店の多くが鉄板の下屋をつけてテーブルを並べていたのだが、その屋根を撤去しろと言う。それにはみんな大ブーイングだったそうだが、なにしろここは一つしか政党がないくらいのところだから、渋々したがったそうだ。ぼくが行ったときには、屋根は折りたたみ式のテントに変わっていた。
 ASEANサミットの時には、そうとう肩に力がはいっていたんだろうが、もうひとつ政府が見栄を張って市民が苦労したことがあった。こちらでは学校や役所では、長い巻きスカートをはくことになっているのだが、サミット中にはヴィエンチャン市内の女性はみんな巻きスカートの着用が義務づけられて、中には、その場で店に連れて行かれ巻きスカートを買わされた人もいたという。

そんな強引なことをやっている割には、まあしょうがないかという雰囲気のようなのが、このまちの不思議なところだ。ここの人たちの生来の陽気なところと、政府の強引なやり方のおかげでいいこともあったからなんじゃないかと思う。かつてここは、ドラッグとセックスの町と言われていたそうだが、いまではまったくそんな面影がない。まちに立っている女も薬はいらないかなんて訊いてくる男もいない。それでも、そばを食べているテーブルの脇に子供がやってきて手を伸ばしてきた。
「観光客が増えるとつい1ドルくらいと思ってやっちゃうんですが、かわいそうだけれど、別の形で助けてやるようにしないといけないんです。公務員の給料が15ドルくらいだったりするから、物乞いをするほうがいいと思ってしまって、そのままはたらこうとしなくなる」と、SVAの川村さんが言う。ビールのキャップのことは聞き忘れた。

投稿者 玉井一匡 : 07:48 AM | コメント (4) | トラックバック

March 09, 2005

魚河岸の吉野屋

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 松戸で、和食の飲食店やビジネスホテルを経営する関宿グループのリーダーである稲葉八郎さんは松戸本町商店会の会長でもあると同時に商店会のホームページの大部分を運営する首謀者でもある。そこに稲葉さんがお書きになったものがひどく面白い。 
 たとえば牛丼の吉野屋がまだチェーン店になる前に魚河岸にあったころの店を中心にして魚河岸の様子がその内側に生活した人ならではの調子で、私的吉野屋論と題して生き生きと書かれている。
 去年、ゲイツインという松戸のビジネスホテルの改修のしごとをしたが、その仕事を依頼してくださった支配人・桜井さんにとっては義兄にあたる。奥さんの兄上なのだ。桜井さんとの多くの打ち合わせのおりに、幾度となく義兄上のエピソードあるいは武勇伝をうかがった。その多くは、再開発という名のもとにどんどんまちが悪くなってゆくことに対する闘いの話で、どれもその通りだとぼくは同感した。
 ビジネスホテルの仕事が終わったあとにお会いすると、ぼくの思い描いた通りの人物で、そのあとでいただいたメールに、このサイトのアドレスが書かれていたのだった。

投稿者 玉井一匡 : 11:56 AM | コメント (0) | トラックバック

February 22, 2005

早稲田商店街の火事

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 かつて「座り続けるおばさん」というエントリーを書いたのだが、いつだったかと探してみると2004年1月25日、ほぼ1年まえのことだった。毎日毎日、寒い雨の日さえ傘をさしてビールケースに腰をかけ、日がな一日座り続けていたおばあちゃんが、しばらく前から姿を見せなくなっていた。なんでそんなことを続けるのか、いずれ話を聞きたいと思っていたのにいつの間にか見なくなったから、ぼくはしばらくこの道を走らなくなった。

 おばあちゃんの家の向かいに、左官や金属板張りの古いファサードの残された4軒の商店が並んでいて、わずかな距離だが古い町並みがあったのだが、数日前に前を通りがかると、そのうちの3軒の2階が、火事で焼けていた。焼ける前の写真を「座り続けるおばさん」のエントリーに添えてあったのを思い出してそれを見ると、ファサードには鉄板の切り文字で「戸塚軒」「西洋(支那)御料理」「喫茶 アイスクリーム」と書かれている。「支那」の文字は、切り文字がはがれて跡だけが残されている。とれてしまったのか、「支那」という表記をきらって外したのか知りたいところだったが、そんなものたちがあとかたもない。
 Click to pop up. 焼け残った様子からは、この1軒がはじめに焼けて、それが両隣に移ったようだ。もう修復することはありえないんだと思うと、なんともやりきれない。きっと、遠からず解体されてしまうのだろう。自分の写真を撮られるのをいやがっていたおばあちゃんのために、かつては場所を書かなかったのだが、そうしているうちにおばあちゃんがいなくなり、建物もなくなってしまう。写真をみれば、うしろには太陽を独り占めしようというように高層のマンションがそびえているのが見える。
 ところは新宿区早稲田1丁目、新目白通りの都電の終点「早稲田駅」の前にある信号の角を早大の反対側に入り、神田川の橋を渡るとすぐ左側。

投稿者 玉井一匡 : 09:11 AM | コメント (2) | トラックバック

January 24, 2005

伊能大図を歩く


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 京葉線で海浜幕張が近づくにつれて、電車の乗客に親子連れや友達同士の数人の子供たちのグループが多いのが気になってきた。1月22日,23日は、全国を巡回してきた伊能大図の上を歩ける最後の機会だ。10:00開場で、9:40くらいに駅に着くから、余裕はあるはずなのに、この人たちはみんな幕張メッセに行くんだろうかと不安になる。こういうときには、いつも同じような不安にかられてしまう。しかし、駅から会場に近づくにつれて彼らとは進む方向がわかれてきた。子供たちの大部分は、ワールドホビーなんとやらの会場へ向かい、ぼくたちの目指す「イベントホール」に入ってゆくのは、おじさんとおばさんが大部分をしめる。開場10分前に「伊能大図アメリカ里帰りフロア展in幕張メッセ」の会場にぼくが着いたときには100人ほどの列ができていた。

 畳ほどの大きさの大図200枚以上を貼り合わせた日本地図を入れるにはバスケットボールコート3つ分ほどの面積を占める。縮尺は1/36,000。ぼくの個人的にかかわりのある東京、新潟、田平、御所浦などを見たあと、まずぼくは日本の4つの島の海岸線を一周した。
 ところによって、山、川、まちなどの書き込みの密度に違いがある。京都大阪周辺では書き込みの密度が高く、江戸はそれにつぎ、日本海側や東北はうすい。文化と歴史の厚みと密度を反映しているのだろうが、上方より江戸の方が密度がうすいのは、軍事的な理由なのだろう。北海道に渡れば海岸線が描かれていないところさえある。測量隊の一行は「御用」と染め抜かれた旗を背中に差していたから行く先々で協力を得られたが蝦夷地まではそのご威光がおよばなかったんだそうだと、事務所にやってきた友人が、教えてくれたとおりだ。

 地図の内側に空白が多いことに、はじめは意外な印象を受けた。しかし、じつは世界の中の日本という「自己」を確立することが必要なこの時期の日本にとっては、知りたかったのは日本の内側のありようよりも、国土の輪郭だったのではないだろうか。他者とは、世界から自己をのぞいたものであると同時に、他者と接して自己が形成されてゆくはずだから、重要なのは海岸線なのだ。
  地図は「地」と「図」で構成される。日本地図と言うとき、日本が「図(ず)」であり、その他は「地(じ)」だが、同時にその地図は世界が「図」で、日本が「地」でもある。もしかすると、伊能忠敬が50才もの年になってから勉強をはじめ、気の遠くなるようなこの試みに取りかかりなしとげることができたのは、それが日本を描くと同時に世界を描くことであると気づきいたからなのかもしれないと思う。

投稿者 玉井一匡 : 08:02 AM | コメント (4) | トラックバック

January 10, 2005

伊能大図の上を歩ける日

inou.jpg 日曜日の午後、事務所に行く途中に通りがかったカフェ杏奴をのぞくと、いのうえさんが帰ろうかと腰を浮かせたところだった。伊能忠敬の地図を武蔵大学で展示していたのを見て来たというはなしを、昨年の末に彼から聞いていたが、そのあと日大の文理学部でも公開されるといわれたのにぼくは行き損なっていた。先日、事務所にたずねて来た高校時代の同級生がやはりその話をした。60mもの大きさの日本地図が床一面に広げてあって、それをビニールでおおってあるから上を歩けるんだと聞いたら、ぼくは行けなかったことをにわかに悔やんだ。

 ぼくたちの高校時代の化学の先生・ケチョンこと伊能敬先生が伊能忠敬の直系だった。画家であるその弟さんの洋氏が、お弟子さんの協力もあって伊能図の全てを模写されたのだという。原図といっても、それ自体が明治初期に陸軍が書き写したものらしいが、全図225枚のうちの207枚がアメリカにあることがわかった。そのコピーをもとに模写されたものを床いっぱいにひろげてその上を歩けるようにするというわけだ。この地図は、原寸大のもの207枚が日本地図センターで販売されている。つなげると実に61×50mの大きさで、価格も実に8,650,000円という壮大さである。
大図の上を歩くことはもうできないのかと探してみたら、最後の機会がもう一度残されていた。「伊能大図アメリカ里帰りフロア展in幕張メッセ」で見られる。1月22,23日/10:00-17:00,23日は15:00まで幕張メッセ・入場無料です。

 いのうえさんは虫眼鏡をもって見に行ったそうだが、幕張メッセなら高いところからも見られるだろうから、双眼鏡も持っていこうと、ぼくは思っている。およそ人間がたのしくあるくことを考えていないまち幕張、そこに、50才をすぎてから日本中を歩いて測量しつくした伊能忠敬という並外れた人物。その人の作った地図を広げてその上を歩けるようにしようという魅力的な企画を日本中に巡回させたこと、その最後の幕引きにに幕張を選んだという何重にも重ねられた逆説あるいは皮肉にも、しかも入場無料であることに、スタンディングオベイションをおくりたい。
そういえば、初めて幕張メッセに行ったのはカナダ・アルバータ州の恐竜展だった。

投稿者 玉井一匡 : 11:35 AM | コメント (2) | トラックバック

January 02, 2005

愛知万博

AaichiExpo.tiff
 kawaさんのブログ「Things that I used to do」で、愛知万博のことがかいてあった。それにコメントを書いているうちに、これはぼくのブログで言っておきたいと思い始めたので、トラックバックしてこのエントリーにつなぐことにした。
 万博なるものは、ぼくは1970年の大阪万博以後は2度と見ていない。それは、どんな器をつくろうともその中につめられた宝物がすてきなものでなければ何の魅力もないということを、大阪万博で教えてもらったからだと思う。万博の建築が、そこに内包されるもので「世界」を語ることができたのはモントリオールのフラードームが最後だったのではないだろうか。いまだにそれに気づかない人たちが、超高層の都市なんかをつくり続けているにちがいない。
 その意味では、kawaさんの言うように愛知万博の器が控えめであるのだとすれば、そのことはむしろ評価したいとぼくは思う。パビリオンをつくることに金をかけるより、パビリオンが土に還ることを探求し伝えるべきだと考えるからだ。
 しかし、「愛、地球博」なんて語呂あわせはいくらなんでも悲しいんじゃないか。洗練からはあまりに遠い。「愛」と書かれたシールを貼っただけでダンボ−ルの中に素敵なおくりものや「愛」などがあるとは、ぼくはどうしても期待できないのです。

投稿者 玉井一匡 : 11:19 PM | コメント (4) | トラックバック

December 29, 2004

ひさしぶりの雪でちょっとうれしいことが・・・

事務所の机の前の窓から久しぶりの雪がみえる。
けさ、cooの散歩にでかけようと外に出ると、寒い朝に、うちの前の道で小学校2,3年生の女の子がひとり立っていた。知らない子だが、顔を合わせたら「おはようございます」といってくれた。
「雪が積もるといいね」というと「うん!」とニコニコした。

 うちのこどもたちは、もうソリを持って公園に連れて行くこともない年になったから、ぼくはちょっとたのしい気分になって、事務所につくとtacにその話をした。「都会のお嬢ちゃんだ」という。富山そだちにとっては、日本海側の冬の3ヶ月ほどの、曇り空に包みこまれ滅多に太陽の出ない時間がいやでたまならないから、雪をよろこぶなんていうのはシロートなのだ。ぼくも新潟ではあまり育っていないからシロートの域を出ない。そうかとおもえば、新潟大学にやってきて、そのまま腰を落ち着けたお医者さんもいる。そういう人は「せいぜい2,3ヶ月の我慢をすれば、あとは海も温泉も30分で行けるし、魚は旨い安い。酒はうまい。東京よりずっといいよ」というのだ。
東京にいる多くのシロートのこどもたちは部屋の中でディスプレイの前に座っているんだから、雪を喜んでいるこどもたちがいれば、やはりぼくはうれしくなってしまう。ことしは同時に、地震の被災地が思いうかんでしまうが。

投稿者 玉井一匡 : 12:33 PM | コメント (0) | トラックバック

December 22, 2004

1/4

  関越道ができる前から何回も東京と新潟の間を行き来しているが、いつのまにか、かならず2カ所のサービスエリアで休むようになった。上里と越後川口である。
たとえば東京から新潟に向かうとき、上里では「けっこう来たな」と思い、川口に着けば「もう少しだ」と思う。逆のときも同じように感じるのだ。あるとき、ふと気づいて調べてみると、上里は東京から75㎞、越後川口は新潟から80㎞弱、全行程が300㎞強だからそれぞれが起点と終点からおよそ4分の1のところにある。同じ1/4を「1/4 しか」とも「1/4も」とも都合のいいように感じるのは生来の能天気のせいだろうが、人間の感覚は、1/4や1/2という量を直感的に感じられるのではないかと思うようになった。方位を4等分して東西南北になり、一年を4つに分けると春夏秋冬、バスケットボールは時間を4つのクウォーターに分ける。1/4は2等分を2回くりかえすだけだから、分かりやすいのは当然のことだが、1/8になると、本質的に違う気がする。

 というのは、分割のはなしだが、数量では、1と2と3はそれぞれにまったく違うのだが、4になるとそれほどの違いはない。たとえば、人間がひとりでいるのと2人いるのではまったく違うし、3人になると、複数の関係性が生じるから、さらにちがう。しかし、それが4人以上になってもそれほどの違いはない。だから、1人称、2人称3人称はあっても4人称はないのだろう。
 同じように、1と1/2と1/4はそれぞれにまったく違うけれど、その先はたいして違わない。やはり1/4は特別な量なのだ。子供のころにすてきなことを思いついた気になったことがある。お菓子を食べるときに、つねに半分ずつ食べていれば、いつまでも、永久に、なくならないじゃないか。しかしちょっとした問題があった。おまんじゅうなんか1/8にしてしまうと、もう少なすぎてあまり食べた気がしないのだ。

 先週末も、上里のサービスエリアに寄った。朝はパン屋にいく。モーニングサービスは、好きなパンを2つとコーヒーで400円。つい、どうせなら高くてできたての熱いやつがいいと選んでしまう。「富良野メロンパン」180円「なんとかソフ(チーズクリームとリンゴが入っている)」180円、コーヒーは40円分だなと、しばし満足しながらカレー入りナン(180円)にも心を残しながら運転席に座り、朝食にとりかかった。コーヒーは、ふつう200円だから、合計560円が160円・28%引き、およそ1/4がサービスということにしよう。

投稿者 玉井一匡 : 01:01 AM | コメント (0)

October 26, 2004

新潟県中越地震-1

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 新潟に母が住んでいるので、いろいろな方が地震を心配してくださる。
家は新潟駅から真南に7キロほど、クルマで約10分の新潟市の郊外の亀田町で、中心に近いわりに周囲には田んぼが広がっている。「亀田のあられ」の亀田製菓があるところで来春は新潟市に合併する。さいわい震源地からは70キロくらいはなれているので、影響はだいぶやわらげられたようだった。
被害は洗面所の壁に張った30センチ角の壁材が1枚落ち、納戸にあった置物がひとつ倒れて壊れたくらいのもので、支障はほとんどなかった。棚の上に置かれた花瓶さえ落ちることもなく無事だった。250キロほど離れた東京でもかなり揺れたにしては、影響が少ない。

 はじめの地震のとき、ぼくは京王線の電車に乗っていたはずだが、まったく気づかなかった。笹塚駅から自転車で自宅に向かう途中、携帯電話にしらせがあったので自転車をとめて母に電話をかけた。 地震の直後にはまだ通じた電話で、母と家の無事は確認できた。しかし、その後は、あちらこちらにかけても「この地方は通話が大変込み合って、かかりにくくなっています」というメッセージしか聞けなくなった。
 *24日の朝、長岡の高田さんにかけた電話が通じた。新潟で一緒に仕事をしている高田事務所は設計施工で住宅を中心にやっている。「建物は大丈夫だがモノが倒れました。電気とガスと水道が通じないので、クルマの中で一晩過ごしました。うちで作ったものは、さいわい瓦が落ちたとか設備が傷んだというくらいのようです」という。
*小千谷に自宅のある宮川さんには23日も24日も携帯電話にかけたが通じない。
*25日朝、新潟市の八幡さんに電話がかかった。「新潟(市内)ではガラスが割れたくらいの被害ですが、長岡では電話も電気も復旧しましたが社員の半数が休んでいます。コンピューターがまだですが」

*25日の夜になって、小千谷の宮川さんから電話が来て、やっと様子がわかった。もしかすると読んでもらえるかもしれないと思って送ったeメールをを、長岡にある会社で見たという。「ありがとうございます。家族は、みんな無事です。」と、いつも通りの明るい口調だ。しかし、状況を聞いているとちっとも明るくない。
「今日は会社に行ってきました。いつもならクルマで20分くらいですが1時間半ほどかかりました。ところどころ通行禁止なんで迂回しなければならないもので。
女房がしごとで遅くなるというので早く帰ったので、うちまで2,3分のところではじめの地震に会いました。家に着いたところで2回目の揺れが来て、立っていられずにしゃがんでしまったら、ちょうど子供が泣きながら外に飛びだしてきました。」
「家の近くにいられたのは不幸中の幸いでしたね」
「私の自宅は無事でしたが、両親の家は桜町というところにあっていちばん被害の多いところなので、家が壊れたのでアーチ型のガレージに住んでいるんです。お金をかければ直せるとは思うけれど、今の家に住むのを気持ち悪がっているし、電気、ガス、水道が通じません。」
 奥さんの実家は小千谷から近いが、もっと山の方にあって守門(すもん)というところにある。8時就寝4時起床という昔ながらの生活をされているのだと、話に聞いていた。
「奥さんの実家は?」
「やはり家はダメで、ガレージ住まいです。電気は来ていて、ガスはもともとプロパンなのでだいじょうぶです。水道も出ますが、水道がなくても山の水が使えるんです」
寸断されると使い物にならない水道や都市ガス、道路とはちがって、ソーラーエネルギー、浄化槽、山の水、自然のエネルギーの独立したシステムは災害にもつよいなと思う。
「知っている人で亡くなった方もあるの?」
「近所の方が2人、亡くなりました」
「四駆のクルマ(ビッグホーン)が新潟の家においてあるから、新潟(市)に行くことがあったら、もっていっていいですよ。中で寝るのにも走るのもいいでしょ。カギはオフクロがもってるから」
「亀田にあるんですか。ありがとうございます」
すこしうれしそうに言ってくれたが、宮川さんの携帯電話の電池を消耗するのが気になって、心配を残しながら電話を切った。

投稿者 玉井一匡 : 08:07 AM | コメント (6) | トラックバック

October 20, 2004

深川萬年橋

 また、台風がやってきた。
 朝、あかるくなるとぼくはルーフバルコニーに様子を見に行った。この前の台風からカメが1匹、そこを歩いているのだ。大雨がふるとすぐに水かさをます妙正寺川が自宅の近くを流れている。10月9日の台風の中、はずんだ声で次女が事務所に電話をかけて来た。「帰りがけに川の水を見に行ったら、川のほとりでカメを見つけたけどどうしようか!」しばらくのあいだウチに逗留させることにした。

 some originの吉田さんから案内をいただいたので、自宅からも近いのもてつだって台風の翌日に「一衣舎秋展」という織物の展示会をのぞきにいった。和服の女の人たちばかりの中にいささか場違いにまぎれこんだ気がしたのに、茶室でお茶までごちそうになった。
そこで、ギャラリー「ゆうど」の夫人と、おそらくそのお嬢さんと同席した。「うちはもう30年以上もカメをかっていて、今年も8つの卵が孵りました。30年目ころから卵を産むようになったんですよ。放っておくと親が卵を食べちゃうから、さがして別のところに置いておくんです」と言われる。カメを飼っていて卵を孵すというひとに直接のはなしを聞けるのは初めてだ。しぜんに、昨日、ウチのむすめがカメを見つけたんですというはなしになっていった。そんなわけで、このカメとの浅からぬ因縁を信じて、当分のあいだウチに置こうと思いはじめた。別れぎわに、「亀を見にいらしてください」と言ってくださった。
 茶室でこんな話をうかがったせいか、広重の江戸百景に、橋の欄干の手前に置かれた手桶の取手にカメのぶら下がった浮世絵があるのを思い浮かべた。亀を買った人は橋の上から川に放してやる。生き物を自由にしてやることで功徳を積むのだ。日本的あるいはアジア的な江戸時代のこの風習は、功徳をつませるためにわざわざカメを捕まえるという逆説もおもしろいが、何も消費せず傷つけずに経済活動が行われる。循環型社会のシンボルのようなものだ。そういうところがぼくは大好きだ。近景にカメと欄干があってその間から富士山が見える。これは小さなこどもの目の高さだ。
題名がわからないからgoogleで探す・・・・江戸百景、放生会、・・・「深川万年橋」
地図をひっぱりだして見ると、池波正太郎の「剣客商売」にときどき出てくる小名木川にかかる橋だ。江戸時代の地図を見ているうちに、前にも同じことを知ってうれしかったのを思い出した。すぐ忘れちゃうのも困ったものだが、そのたびに喜べるのもいいじゃないかと考え直す。江戸では橋詰めでよくカメを売っていたんだというから、万年橋を選んだのは、もちろんその名前に亀の長寿を重ねてのことなんだろう。

 

投稿者 玉井一匡 : 08:34 AM | コメント (10) | トラックバック

July 22, 2004

国境を越える3つの方法

ソフィア・サコラファ 女子やり投げ・元世界記録保持者
 7月21日の夕刊に、国境のことを考えさせる興味深い記事が3つあった。
 曽我さんの夫のジェンキンスさん、縄文遺跡、そしてアテネ・オリンピックの記事だが、もちろんみんな別々の記事である。ジェンキンスさんのことは誰でも知っている話だが、とりわけ縄文遺跡とオリンピックの話には常識を覆えされる快感があった。

 縄文遺跡は津軽の大平山元遺跡である。ここの土器が16,500年前のものだと分かったが、ロシアのアムール川流域から出土した土器が、同じように分析するとやはり16,000年前頃のものであるという。同じ時代に、広い領域にわたって土器が使われるようになったというわけだ。言いかえれば、同じ文化が日本からロシアにおよぶ広い範囲にわたっていたことになる。
 アテネでは、いま47才の元世界記録保持者、女子やり投げ代表として2回のオリンピックに参加したソフィア・サコラファが、テロの可能性をはらんだアテネオリンピックを前にして平和のために何かできないかと考えた。その結果、パレスチナ人としてオリンピックに出ることを考えついて実行に移した。すでにパレスチナの市民権を取りアラファトとも会ったという。平和の祭典を謳いながら、オリンピックは国家の求心力の向上に利用されている状況にあって、ソフィアは国家の境界を突き崩そうとしている。

 ぼくたちは国家や国境というものの枠でものごとを考えてしまいがちだと、これらの記事によって我々の了見のせまさに気付く。ぼくたちが古代を考えるときにも、現在の国や文化圏をそのままに重ねて考えてしまうのだ。自分の国家には固有の文化が昔からあって、自分たちのものが古くすぐれたものであってほしいと思う。しかし、現代の国家、現代の文化圏そして古代の文化圏が、それぞれに全く異なる範囲をもっていたとしてもそれはむしろ自然なことだということに、つい気づかない。
 ソフィア・サコラファの行動は、こういうメッセージを伝える「国籍なんて所詮は人間が決めたことじゃないの。数十年前に強引に作られた国家によって追い出されたパレスチナなんて、その最たるもの。パレスチナをイスラエルやアメリカとおなじアテネのスタジアムにつれてくるわ」と。
 ジェンキンスさんは、戦争という国家公認殺人ゲームの最中に国境を越えて敵の領域に行ってしまった。国境を否定したはずの彼の行為は、並はずれて強固な国境を構築した国家に飛び込む結果になった。そして今ふたたびもうひとつの国境を越えようとしている。

 国境は空間を不連続に分離して国家を限定するものだが、文化は連続的に変化しつながり重なっている。国境や国家は、分離するのものだが、文化はむしろ結ぶものなのだ。国境は力によって作られたものだが、文化はできてくるもの、伝えられるものなのだ。
 建築とは、ウチとソトをつくり領域をつくる。ある種の建築がつくる領域は力が国家と国境をつくることに似ているかもしれない。
だが、ぼくたちにはほかの可能性がある。建築の境界をもっと大きく拡げて、線でなく面にすることができるからだ。境界を連続的、あるいは段階的に変化し重層する空間とすれば、排他的でない境界ができるはずだ。もしかすると、同じように国境を線でなくある幅をもった領域にすることで、国家間の不連続な境界をなくすことができるのではないかという望みを捨てきれない。

投稿者 玉井一匡 : 04:56 PM | コメント (0) | トラックバック

July 12, 2004

殻々工房

karakarafront.JPG
 7月9日から10日にかけて那須の殻々工房(からからこうぼう)体験に参加した。
 LANDshipBe-h@usのシステムを使って、若い野沢さん夫妻がみずからの手で店と家つくりをした。現場の隣にテントを張って那須の寒い夜をしのぎながら、駆体や設備工事はプロにやってもらって、進行に応じてさまざまなかたちで、みずからの手でつくっていった。壁を塗り家具をつくり塗装をして看板をつくり木を植えて、5月の連休のころに開店した。いま、屋上緑化に取りかかっている。

 Be-h@usは集成材の柱梁を金物でつなぐ。その骨組みに屋根、床、壁と断熱材を入れた合板のパネルをはめ込めば、高精度で気密と構造強度にすぐれた躯体ができあがる。システムがシンプルで分かりやすいし、ウェブサイトには部品も作り方も公開されているから、セルフビルドはBe-h@usの得意技のひとつである。
 それにインターネットが結びつくと、世界がとてもひろく豊かになってゆく。インターネットの得意技は、はなれた場所にいる人がひとつの時間と場所を共有できることだ。那須を訪れたとき、すでにぼくたちは野沢さんたちのBlogサイトKARAKARA-FACTORYを去年から見ていたし、お互いのサイトにコメントを書いたりメールをやりとりしていたから、ぼくはすでに殻々工房という場所をちょっとだけ共有していた。はじめて訪れたのに、ぼくは殻々工房を見学するというより参加するという気がした。

 野沢さん夫妻がこの店に「工房」という名を選んだのもいろいろなわけがあったにちがいない。普通の言いかたなら「レストランの一部がギャラリーになっている」ということになるだろう。しかし、ただ食べ物や飲み物を提供するだけの店ではない。食べものをつくり、飲み物をつくり、店をつくり、そして人と人の共有する場所をつくる。ふたりはそうこころざしたのだろう。
 店の軒下に、遠くから見たときには犬小屋と思われる木の箱がある。燻製つくりの箱なのだ。この日のために豚のバラ肉とと合鴨とラムの骨付胸肉の燻製がつくられる過程も見ることができた。手作りの板張りの箱の底に電気コンロを置いて、小さな鋳物のフライパンに木のチップをのせて煙をだす。箱の中に塩をした肉を吊るし、その煙に浸すこと2,3時間。それだけで、とてもうまい燻製がつくられた。この日は豚肉と合鴨とラムだった。今日のメールによれば、このあいだの豚肉がイマイチだったので、肉屋に頼んだらもとのうまい肉になったと書いてある。ぼくは十分にうまいと思っていたのだが、こんどの機会にはもっとうまいベーコンがたべられるわけだ。
smoke1.JPG smoke2.JPG
click the right image to pop up:何度見ても「旨そう」と溜息をつくSmoked合鴨

 「store」は商品を蓄えておいて売るみせだが 「shop」というのはつくって売る店なのだという。ぼくたちのまちのまわりからは、shopがつぎつぎと姿を消していった。storeというカテゴリーで店をつくれば、大きいほど商品構成はゆたかになるし安く売れる。大きければ大きいほどいいというアメリカ型、グローバリズムの世界になってゆく。しかし、ひとが集まる場所である飲食店には、その場で「つくる」要素が多く残されている。だから大きいほどいいという堕落には陥らずに頑張る余地がある。

 まだかまだかと思いながらやっとたどり着く。ここは、ふつうなら店をつくる場所ではないのかもしれない。しかし、軽井沢や清里とおなじように、大小をとりまぜたあらゆるテーマパークの寄せ集めと化した別荘地で自分たちの世界をつくるには、この場所は正しい選択だった。まわりの風景を壊すような過剰な自己主張はしない、大きな看板もつくらないということにしても、周囲に埋没しないですむ。
 殻々工房はとてもよくできている。「ハーフビルド」でこれほどのものが作れるのは、野沢夫妻の生き方、デザイン能力、そしてつくる力が卓越しているからだ。その力によるところがとても大きいから、Be-h@usなら、だれでもこんな風にできるというわけではないだろう。

 野沢夫妻は、この土地に店と家をつくり、料理をつくり、訪れる人たちとともに場所をつくる。BlogサイトKARAKARA-FACTORYには、店ができる前から、訪れない人も共有できる場所をつくった。セルフビルドの建物には、いつまでも完成はない。だからふたりは「工房」となづけたのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:02 AM | コメント (1) | トラックバック

June 21, 2004

カフェ杏奴:こだわりのないということ

AnnneCounterS.jpgClick to PopuP
  林芙美子の住んでいた家のことを書いたぼくのエントリーに「いのうえ」さんという方がコメントをくださった。近くにあるカフェ杏奴という店に時々寄るんだが、いいところだから寄ってみてください、すてきな「ママ」がやっているんだと書いてあった。ちょうどぼくの自転車通勤の途中だから、行ってみようと思いながらなかなか寄れないまま数ヶ月が経った。なにしろ営業時間が午前11:30から午後7:00だから通勤帰宅の時間とみごとに合わない。やっと先々週の土曜日に初めて寄った。

 用事があって昼近くになって出かけたから、珍しいほどの上天気も手伝ってのんびり自転車を走らせた。自転車通勤をしてもう7,8年になるのに、スピードの持続を意識せず、時間も気にせずに自転車を走らせたのは、これまでに記憶がない。そうやってゆっくり乗ると、自転車というのはなんと気持ちのいい楽しいものなんだといまさら気づいて、「カフェ杏奴」に寄ってみようという気になったのだった。

 店はこのうえなく愛想のない外ヅラだが、中にはいると、古い喫茶店ならオイルステインにしそうなところがペンキ塗りにしてあるのがオシャレだ。窓際に席を占めて、パイプをとりだし久しぶりにタバコを吸いながら読書をして1時間半ほども座っていた。この時間にやってくる客の大部分はカレーを一緒に注文するが、ぼくは遅い朝食をすませて来たからブレンドコーヒーだけなのに、コーヒーカップが空になると、氷を浮かせた小ぶりのガラスのピッチャーを「どうぞごゆっくり」といって置いていってくれた。テーブルには一輪ずつ別々の花がガラスに生けてある。高い天井に中二階と半地下があるなかなかひろい空間で、店のあるじ一人だけで何もかもやってしまうからなのかもしれないが、ほどほどに客を放っておいてくれる。みせの大きさと、客に対する接し方の間合いがいいのだ。そのせいなのだろうが、常連の客が多いようだった。

  翌日、ようやく杏奴に行ったことをコメントに書き加えると、いのうえさんがもういちど書いてくださったので、一週あけた土曜日に店に寄った。帰り際に、いのうえさんのコメントのおかげで店に寄ったという顛末をあるじに話すと、「2時間ほどまえにいらして、そのことをお聞きしました」という。「4年前に店を始めたんですが、お金は掛けられなかったから、テントは見積を取っただけでやめてしまったし、店の名前を杏奴にしてブラインドを杏色に替えたくらいで、内装はほとんど前のままなんです」。にもかかわらず、店の手入れと客への配慮が行き届いている。店についてもそんな具合だが、客に対しても近づきすぎず冷たくもなく、淡々としかしにこやかに接しているのだ。そういう「こだわりのなさ」が、この店の「場所」をつくっているのだとわかってくる。

 このごろ、「こだわり」という言葉が肯定的な意味で使われることに、ぼくはいまでも慣れない。というよりもむしろ気に入らない。こだわりを漢字で書けば「拘泥」だろう。もとは、否定的な意味として使われていたことは辞書も証言する。ぼくの持っている1981年版の広辞苑には「こだわる」の項目にこう書かれている。(例文を省略)「1)さわる。さしさわる。さまたげとなる。2)かかわる。かかりあう。拘泥する。3)故障をいいたてる。邪魔する。」と。最新の広辞苑がどう記述しているか、まだぼくは知らない。だから「こだわりの一品」だの「こだわりの住宅」などとテレビのリポーターが言うと、さも難しそうな偉そうな顔をしたシェフや上っ面だけの建築家が思い浮かぶ。そういう番組をどうも信用する気がしない。

 この店とそのあるじのふところの深さ、にもかかわらず、いいかげんにならずアイデンティティをしっかり失わないというありかたは、やさしいものではない。ひとりだけでみせをつくればこそできる細やかな配慮は、ぼくには行きにくいあの営業時間のおかげなのだ。
「店の名前からすると、鴎外と関わりがあるんですか?」と、帰りがけにたずねると
「鴎外のお嬢さんの名前からとったんですが、鴎外とはなんの関係もありません」という。
地図:新宿区下落合4-2-6 大友ビル1階

投稿者 玉井一匡 : 07:29 PM | コメント (12) | トラックバック

June 16, 2004

コレクティブハウジングと生協

seikyouchirasi1.JPG  seikyouchiraasi2.JPG 生協のチラシも増え続ける

 昨日、NPOコレクティブハウジングの宮前さんとべつの話で始まった電話だが、今週の末に京都で生協のひとたちにコレクティブハウジングについて話をするんだということに話が及んだ。
 彼女はコレクティブハウジング社というNPOで広報担当のような立場を担っている理事なので、コレクティブについてのさまざまな取材やら、「コレクティブハウジングって何なんですか?」という素朴な疑問を持っているひとりひとりからの電話の相手までやっている。コレクティブハウジングというものにさまざまな形式がありうるのは当然だが、その基本的な思想を理解してくれる人が、メディアを含めてとても少ないとよく言う。けれども、生協のひとたちは、その根本のところについては分かっている人たちだから、コレクティブハウジングについて理解してもらえるだろうという期待をしているのだ。

 

わが家で参加している生協は、注文した「もの」を毎週水曜日に配達してくる。そのときに次週の注文のためのチラシをごっそりと置いてゆく。その量が時と共に増えて、いまでは新聞の折り込みのチラシを凌駕する勢いである。生協という組織もそれが扱う商品も、この世界の「経済の成長」という病から脱することができないことが読みとられる。
 消費の拡大を食い止めることが、生協の重要な役割のひとつにちがいないとぼくは思うが、それを損なう組織の拡大をなんとかしなきゃあならない。「経済は成長し続けなければならないのか?」という命題は、人間という種が生き残れるかどうかを決する世界共通の問題のはずではないか。コレクティブハウジングについて生協のひとたちに話すなら、そのことを話してほしいと宮前さんに言った。なにもえらそうに批判がましい言い方じゃあなくたって、「これからコレクティブハウジングも同じ問題を抱えるだろうから、一緒に考えてください」という立場で話せばいいんじゃないかと。
 成長とは、経済規模の数量的な拡大と同義語ではないはずだ。しかし、「成長」が生物についての言葉であるのを考えると、いずれ成長には死というものが待ちうけている。もし、経済成長という言葉をつくった人が、成長のあとには必ず訪れる経済の死を見こんでいて、だからいつまでも成長すればいいものじゃないよといいたかったのだとすれば、経済学者もすてたもんじゃない。

投稿者 玉井一匡 : 11:23 AM | コメント (2) | トラックバック

June 10, 2004

クロスクラブ・山口文象邸

 safariでこのエントリーを開き、ちょっと訂正したあとで保存のボタンをクリックした途端に日本語の文字がことごとく「?」に化けた。こうなるからいやいやexplorerを使っていたのに、ひさしぶりに試したおかげですっかり書き直す羽目になった。同じことを書くのもいやだし、いっそのこと書き方をちょっと変えてしまうことにした。
クロスクラブ 中野→久が原
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 5月22日土曜日、中野哲学堂の自宅から久が原のクロスクラブまで、自転車で行くことにした。この日ここで、1:30から集まりがある。
 先日は、リートフェルトの製図板についての議論と探検でわれわれのBlogネットワークが盛り上がったが、リートフェルトと時代を共有するバウハウスに学んだ建築家、山口文象の自邸が「クロスクラブ」である。リートフェルトが終生職人であろうとしたように、山口文象にも職人としての血が流れていた。久が原の、このあたりは、近くに山口文象・RIAの久が原教会や、清家清による住宅もある。大きな区画、広い直線の道路で構成される住宅地で、この町がつくられた時代の近代解釈の結果なのだろう。
 

 中野からおよそ20km、あやしい天気なのに自転車を使ったのはわけがある。Mapionでみると、1/10000で8枚の地図をひたすら縦にならべ最後に1枚だけ東に加えるとクロスクラブにゆけるというのに興味を引かれた。途中14本の鉄道をこえる。東京という都市の筋肉組織の断面を走るようなものだということに興味があったし、途中で雨が降ったところで、どれか近くの電車に乗ってしまえばいいのも気が楽だ。A4にプリントアウトして貼り合わせた地図はひたすら南北に細長い。細長く、ミシュランのガイドブックの幅に合わせて折りたたんでジーンズのお尻のポケットに入れた。なんとか霧雨以上の雨にも遭わずに久が原についた。

 おもての道路から見ると、クロスクラブは棟を奥に偏芯させた大きな切妻の屋根が、1階から始まって2階建ての空間を包んでいる。軒高が低いおかげで、道路からはいささかも大きさを感じさせない。RCとレンガに白い塗装をした壁と屋根は縁を切ってあるが同じ面でそろっているので、ちょっと気づかないことがあるが伝統的な瓦屋根が載っている。棟梁の息子に生まれバウハウスに学んだ山口文象の、伝統とモダンに脚をのせた立場が読みとれる。石垣と軒先をそろえた外泊の集落も思い出す。
 下屋をつくって家を小さく見せたり、平屋のように感じさせるのは、日本の家とりわけ町屋のつくりのたしなみ、美意識の基本だ・・・土蔵を例外として、日本の住宅は平屋、そして小さく感じさせることが原則である。

 いまは、長男であるピアニスト・作曲家の勝敏さんご夫妻と、母上である文象夫人が住んでいらっしゃる。3人の家族で住む住宅としては広すぎるので、それをなんとかして元のようにして生かしていこうという奮闘の結果がクロスクラブである。
 数年前に、あるクライアントが自宅を建て替えて兄弟の集合住宅+パーティー会場にしたいという話があったので、ぼくはクロスクラブに案内した。勝敏さんはオーナーとしての、とても大変な仕事で、なかなか儲かるわけではないなどと話した。それだけが理由ではないがぼくの施主は計画を取りやめた。勝敏さんはまっすぐな人なのだ。
 たまたま子供さんがないおかげで、元の空間と静けさが保たれている。主に2階部分を住宅として利用しながら、1階の居間から中庭につづく部分が、音楽教室、パーティーやコンサート、雑誌の撮影などに利用されている。
中庭から離れを見る 中庭から見た母屋
 白く塗装したレンガの壁の奥にある木製のドアを開く。玄関の階段を数段上ると、グランドピアノのおかれたホールのひかえめな明るさの奥に中庭がある。靴は脱がないからホールと中庭は、ほぼ同じレベルなので、玄関、ホール、中庭へと空間が気持ちよく連続する。この季節には、桜とコブシの大木は、若葉が開放的な屋根のように上空を包み、緑に漉された光がタイル張りの中庭に落ちている。床はコンクリートの平板にタイルを貼ったものを敷いてあるので、日本のコートハウスとしては例外的に広い中庭だが、床面の微妙な変化が空間を単調にしないのだ。

 北側に2階建ての母屋、南側に平屋の離れがある。この土地は南北の両側に道路があるので、離れも間口いっぱい道路に接している。母屋とは独立して道路から出入りできるから、パーティーに使われるときには、ここが控え室になる。
 山口文象の時代には、その一番弟子というべき植田一豊氏がここで新婚時代をすごしたことがある。そこに、実弟でのちに都市住宅をつくった編集者植田実さんが居候していた。
 その植田一豊さんを中心として「でかんしょじいさんの読書会」というが、実は植田さんの独演会の小さなあつまりを月に一度続けてきた。いつのまにか交通の便利さでうちの事務所でやるようになったが、文象氏の命日の来る5月だけはクロスクラブを会場にお借りして、勝敏さんのために音楽をテーマにすることがこのところ恒例になっている。

 山口文象・RIAは、コートハウスをはじめ、多くの都市住宅をつくったがその後は都市の再開発などの仕事が中心になった。山口文象邸は、それひとつを切りとればすぐれた住宅建築だが、RIAが重心を移していった「まち」という視点からみれば閉鎖的で、敷地の大きさを考慮すればなおさらだがまちとの接点が少なすぎる。しかし、住宅からクロスクラブとなって、あつまりの会場としてだれもが利用することができるようになったのは、むしろまちと建築のかかわり方として大きな進化だとぼくは考える。クロスクラブという名は、晩年にクリスチャンになった文象氏だったから十字架を意味するものでもあるが、ひとびとが、あるいはさまざまな世界が交差する場所たらんという意味も込められているのだから。

クロスクラブ 〒146-0085東京都 大田区 久が原4-39-3
     電話:03-3754-9862 fax:03-3751-0496

投稿者 玉井一匡 : 11:45 AM | コメント (0) | トラックバック

May 22, 2004

ミツバチの自由

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 先日、蜂蜜の小さなビンとミツバチの巣の切れ端を持ってうちの娘が事務所に寄った。
 社民党本部の屋上にミツバチの巣をおいて、主に皇居の中のユリの木の蜂蜜を作っている養蜂家がいるというので、友人と一緒に社民党本部の屋上に行ってその人に会ってきたという。2,3ヶ月前のNHKのテレビでもパリのオペラ座で蜂蜜を飼っている人たちのドキュメンタリーを見た。どちらのはなしも、ぼくは意表をつかれた気がした。
社民党本部の屋上からすきなときに皇居に出入りする蜂たちの行動の自由さ。オペラ座で、素人のための養蜂の教室が開かれているというフランスの生活スタイル。そんなことがあるのかという心地よい驚きだった。

投稿者 玉井一匡 : 01:55 PM | コメント (2) | トラックバック

May 21, 2004

水琴窟

 click image to pop up. 千葉県芝山・花の里の水琴窟

 うちの事務所のある飯田橋銀鈴会館の、1階を占めるギンレイホールのオーナー加藤さんは、本職は不動産業だが、数年前に頼まれて赤字だったこの映画館を引き受け、今では黒字になった。ただの不動産屋じゃあおもしろくないといって体の中の虫が騒ぐらしい。バブルで景気のよかったころ、水琴窟に熱中して、自宅に水琴窟をつくり、カラー写真いっぱいの2万5000円もする水琴窟の本まで作ってしまったこともある。

 3年前のことだったが「そういう金の使い道としてはいいでしょ」といいながら、ある人が加藤さんを紹介してくれた。そのころぼくは、事務所の引っ越し先をさがしていたのだが、銀鈴会館の一室を下見に行く予定だった日の前日に、ほかの用で成田の芝山に打合せに行くと、「この近くに飯田橋で映画館を持っている人がいるんですよ」と言われた。「もしかすると、ギンレイホールですか?」という話になって二人ともびっくりしてしまった。部屋は希望した広さの半分ほどしかなかったが、何かの縁だろうと思い、家賃もやすくなることだし、その一を借りることにした。

 それから2年経った去年の春、加藤さんと一緒にその芝山に水琴窟をつくった。設計施工である。初めはもっと本格的なものにするつもりだったが、事情があって大急ぎでつくらねばならなくなった。本体は、水琴窟用に常滑で焼いた素焼きの甕を使う。加藤さんの寄付。音を出す地中の本体は加藤さんの役割で、上屋と、水を落とす仕掛けはぼくが設計した。甕を埋めるときには、水琴窟の第一人者の中野之也さんも指導で参加された。工期と費用を縮めるために使った竹は、地元の真行寺建設の社長の真行寺さんが自分の孟宗の竹林から切り出して、組み立ても自身が鋸を引いた。
 最後に、水を溜めて少しずつ落とすための仕掛けにも太い竹を使い、それに点滴用のバルブで微調整する仕掛けを加えることにした。加藤さんは、その仕掛けに加えて小屋の2面に竹の簾をつくる作業のために、夜を徹して没頭した。何年ぶりの徹夜だったと満足そうだった。
 click image to pop up. 中央に吊った竹筒からすこしずつ水が落ちる
 水琴窟の仕掛けはすこぶるシンプルなものだ。まず、地面に穴を掘って底に穴をあけた甕を逆さに伏せ、下に10センチほどの深さに水が常に溜まるようにする。穴の底にコンクリートを打ち、そこから10センチのところから水が流れ出るようにした。上からわずかな水を流すと甕の穴からぽたりぽたりと水が落ちて、その雫が溜まっている水に落ちる音が甕の内側に反響して心地よい音を出す。前には、加藤さんに連れられて、彼の自宅、成田山新勝寺の庭、鹿島市の公園などに作られた水琴窟を聞かせていただいた。もとは、蹲居の足下などに仕掛けをつくり、手を洗ったひとに不思議を聞かせようとする、庭師の秘かな楽しみだったのだろう。
 
 加藤さんに引き合わせてくれた土井脩二さんとは、短い間にきわめて親しくなったのに、彼は去年の春に末期癌の宣告を受けた。西洋医学は信用しないといって輸血も抗ガン剤も堅く拒否したので、麻酔銃で眠らせて手術してしまえなどとぼくは本気半分で言ったりしたが、医者に言われたとおりおよそ2ヶ月後の5月に亡くなった。
 水琴窟は、彼の生きている間になんとか早く作って聞かせようと、土井さんが心血をそそいだ「花の里」の一画に、短期間で作ることにしたのだった。なんとか間に合ったけれど、彼はすでに外に出ることはできなかった。

投稿者 玉井一匡 : 03:59 PM | コメント (6) | トラックバック

May 02, 2004

季語

saijiki.jpg 草木花 歳時記・朝日新聞

 Blogの更新をしたら、「Blog査察委員会・秋山さん」から電話があった。「これからは、Blogには、季語をいれましょう」ということばは、いつものように半分本気半分冗談だとぼくは受け取ったが、「とれたて」がひとつの売りであるBlogにとっては、季語という概念は無関係ではないなと思った。
 たった一度だけ参加した連句の会でぼくは季語を入れ忘れて素人の恥をさらしてしまったことがある。初心者にとっては、季語や枕詞というものは義務のように思われるから不自由を感じてしまうけれど、俳句や短歌のように17や31と、少ない語数という制限のなかでなにかを伝えようとすれば、季語という約束ごとは、むしろ心強い味方なのだ。
 「歳事記」は、言ってみれば季語のカタログ、言葉を季節というカテゴリーによって整理した辞書である。「花の歳事記」という本があるのをみつけて、2、3年まえに、ぼくは誕生日、母の日、敬老の日、クリスマスに一冊ずつ母に贈ったことがある。季語というカテゴリーで植物を整理した写真による図鑑で、春夏秋冬の4冊に分かれている。写真といっしょに、それを季語として詠んでいる俳句が数首添えられている、とても魅力的な図鑑だ。
 今も昔も桜という花が特別あつかいをされてきたおかげで、ぼくたちは沖縄から北海道までの春を期待したり名残りを楽しんだり、時間と場所の2重の背景を感じとる。桜という花、それを話題にするという文化のおかげで、春という特別の季節をたのしく長く幾重にも楽しむことができる。南北にわたる花のたよりから葉桜までの時間は、きっと3ヶ月間にもなるのではないか。葉は、水羊羹やくず桜を包んで夏になってからまたやってくる。

かくもこまやかな時間と場所の世界を受け継いでいるはずのぼくたちが、定規で州の境界を定めたような国の感覚と文化を、迂闊にも、しかも嬉々としてそのまま受け入れてしまい、今も進行している。あれは、彼らの風土のためのやりかた、一地方の方法なのに。
 どこの国にも、どのまちにも、受け継がれてきた時間と場所と記憶が重層している。それを、全国共通、全世界共通の荒っぽいマニュアルで整理してしまおうとしているのは、とんでもない間違いだと、日本中の都市の郊外いたるところに大型店のならぶ街並みが教えてくれる。
 それどころか、9.11の出来事にもアフガニスタンの子供たちの顔にも、イラクの瓦礫の山にも同じことが書いてある。その荒っぽい時間と場所の感覚で、2000年も昔になくなった国の回復を、力ずくでやってしまったことのツケが世界中に、そしてだれよりもそこに敵と味方として生きなければならない人たちに最も重く回って来ているのだ。

 本の写真を探そうと思ってamazon.comのサイトで「花の歳時記」と検索したら86件もある。ぼくたちがいかに花と季節が好きなのかを実感してびっくりしてしまった。手元に本がないので、どれだったのか定かではない。おそらくこれだろうと見当をつけた「花の歳時記」は発行が2004.4と書いてある。母に電話をかけて確認したら、それとは別物で朝日新聞刊・ 草木花 歳時記という本だと分かった。

投稿者 玉井一匡 : 09:06 AM | コメント (0) | トラックバック

March 18, 2004

さくらの季節

P4060048.jpg
昨春、関口芭蕉庵前の神田川:0406/2003

 ぼくの自転車通勤の道中10km弱は、さくらがさまざまに景色を一変させる。
中野通りを渡り→哲学堂公園の横を抜けて→神田川沿いの道をさくらに包まれて走り→神楽坂から飯田橋の外堀沿いの自転車置き場に着く。このルートはむしろ、無意識のうちにさくらの道を選んだ結果だったのかもしれないと、花の季節には思う。
 中野通りは、両側から桜が道を覆い花のトンネルになるが、神田川では遊歩道の上を包むさくらが両岸から川に向かって枝をのばしている。外堀通りの並木から流れ出した花は堀の斜面をお堀の水面に、さらさらと流れこんでゆくようだ。去年はキャナルカフェのデッキで夜桜を楽しんだ。

 椿山荘の隣に、かつて松尾芭蕉が庵を結んだ関口芭蕉庵がある。そこには文字通り芭蕉の木が数本並んでいるのが、塀越しにうかがわれ、背後には枝垂れ桜があるがまだ開かない。その門の前の橋のたもと、昨春4月のはじめ、神田川の水面に映る空に花びらが浮かび隅田川を目指していた場所が、3月17日の朝に白い桜が2本だけ8分咲きになっていた。たしかに、今年はさくらが早くやってきたらしい。

今春のさくら(昨年と同じ木):0317/2004 click image to pop up

今春の芭蕉庵:0318/2004 click image to pop up
たった一度だけ、友人に誘われてこの関口芭蕉庵で「連句」の会に厚かましくも参加したことがあった。
 大岡信が連句の本を書いたころに、それを読んで興味を持った。インターネットのなかった時代のことだったから、友人と二人で葉書をやりとりして連句をはじめたが時々滞るのだった。その後、友人は本格的に師匠について連句の会に参加していたのだが、その師匠が主宰した連句の会に、玉井さんも来ないかと声を掛けてくれた。芭蕉が住んでいたところだと聞いただけで、こんな時にしか入れまいと勇躍参加したが、ぼくのような自己流初心者は他にはいないと気づいて汗がにじんだのは和室の席に着いてからのことだ。
 これはあまり思い出したくない時間だったはずだが、時を経た今は景色を楽しむほどの余裕もできた。その友人・丹下誓氏は、その後、仕事でマレーシアからヒューストンと海外勤務がつづいたが、この春には、また日本に戻ろうとしている。今はEメールで連句をやっているそうだ。
 ちなみに芭蕉庵の庭は、なにも俳句や連句の会を催さなくたって開館時間ならだれでも無料で見学できる。
昨夏の芭蕉庵:神田川の対岸から click image to pop up

投稿者 玉井一匡 : 11:57 AM | コメント (1) | トラックバック

February 12, 2004

眠る男

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 夜遅い山手線の電車で座席に腰をおろすと、ひとりの男が向いの座席でひたすら眠り続けていた。「眠」のつくりをとって、彼の名をタミオと呼ぶことにしよう。周囲の床には彼のものとおぼしき持ち物たちが散在している。持ち物をつぎつぎとまわりに散らして行ったのだ。黒いバックパック、左右の靴、そして携帯電話。
 興味深い光景だったから、バッグからデジタルカメラを取り出して膝の上に乗せた。ストロボは光を台なしにするから、ぼくはいつも設定をオフにしておく。こんな時に液晶ファインダーが可動だと便利なのだが精一杯広角にしてシャッターを押し、液晶をうえに向けて確認する。それからの彼の行動はさらに興味深いものだった。

 いくつかの駅を過ぎて、おりる前に起こしてやらなきゃだなとぼくは思いはじめた。しかし、そこから彼は半ば眠ったまま活動を始める。靴下を脱ぐと、靴を足でたぐり寄せ素足に靴をはく。立ち上がって片方の靴を取りに行った。携帯電話を確保し、バックパックを回収すると腰をおろしてまたしばし眠りについたあと、なにひとつ残さず、慌てるふうもなく、池袋で降りて行った。見事なものだった。
 この間、ぼくはつぎつぎとシャッターを押すのに熱心で、彼の一連の行動を具体的にはよく憶えていない。あとになって写真を見ながら、タミオの一連の動きを再構成したが、写真の順番から行動を想像するのがなかなかむずかしくてパズルのようだった。


 写真を見ると、もうひとつ興味深いことに気付く。タミオの隣に座る若い男、最後にタミオの座っていた席を代わったふたり連れなどの表情から読み取られるように、周囲の人々は彼の行動を横目で見ながらすこぶる好意的な反応を見せた。ぼくについては言うまでもない。できれば話をしてみたいとさえ思った。

 それには、いくつかの理由が考えられる。 1)電車が空いていたし2)タミオは横になって座席をいっぱい使ったりはしていない、それに3)泥酔して人にからむわけでもない。つまり、周囲の人間は彼によってほとんど迷惑をこうむっていない。
 むしろそれ以上の大きな迷惑は、周囲の床を広く使っていることかもしれない。しかし、ケータイ電話にいたるまで自身の所有物をまき散らし、持ち主は熟睡してしまうのは、それらを危険にさらすことでもある。タミオは公共の場所を占有する前に、むしろ私有物の存在の一部をまわりのひとびとに提供することからはじまっている。ぼくたちは、おそらくそれを感覚的に感じ取って、彼の行為を許容し、むしろ楽しんだのだ。そして、これは期間限定・場所限定という条件付きの、一種のお祭りであることはいうまでもない。
 このごろの若者たちが、電車の中で化粧をしたり道ばたでメシを食べたりすることに、大人は眉をひそめる。ぼくも、どーなってるんだろうと思うのだが、その一方では、「領分」についての感覚の変化としてはちょっと面白いことかもしれないとも思うところがあるのだ。

投稿者 玉井一匡 : 11:33 AM | コメント (4) | トラックバック

January 25, 2004

座り続けるおばさん

 一軒はひどく傾いて、隣家との隙間を三角がふさいでいる。
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 通勤の途中に、6メートルほどの道路の両側に古い商店がならんでいる一画がある。古いファサードたちが向かい合っているから、そこにひとつの世界をつくりだしている。魅力的だが、商業的には繁盛しているわけではない。このままいつまでものこされるとは思われない。
 その中の一軒に、斜めに傾いている家がある。もとは商店だったらしいその家の前に箱を置き、座布団をしいて腰を下ろし、日がな一日おばさんがすわりつづけている。とはいえ、のどかなひなたぼっこなどではなく、楽しんでいる風情はいささかもない。ときに同年輩のふたりで座っている。雨の日や暑い夏には傘を差して雨や日差しをよけながら、それでも朝から日が沈む頃までいる。どこかを見据えているようなまなざしを続け、ぼくが視線をあわせても表情を変えない。なんのために、どういう事情で、そんなふうに座り続けるのかを訊きたくて、いつか声をかけようと、片思いの中学生のように、ぼくは毎日その前を自転車で通った。


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 ただならぬ決意を秘めた気配に、声をかけるには、まず顔を知ってもらってからにしようと思ったのだった。そのあいだ、ぼくはさまざまに事情を想像した。
 たとえば・・・・・バブル時代にこの商店街を地上げしようと、不動産がやってきた。何軒かの家と地主を口説き落としたが、おばさんは思い出の積み重なった家を渡すことに頑として首を縦に振らない。ある日、彼女の留守にディベロッパーの手先がやってきて現場の測量を始めた。おばあちゃんの家のまわりもに勝手に入り込んで測量をしている時に帰って来た。猛烈な勢いで食ってかかったおばあちゃんの剣幕に恐れをなして、一同尻尾を巻いて逃げ帰ったが、以来、彼女はだれも寄せつけまいと、毎日の監視を怠らない。

 他者を排除することによってではなく、多くのひとがさまざまな場所を自分の場所だと思って楽しみ愛することことによって、いいまちやいい場所はできてゆくはずだ。そうでなければ、その状態を安定したものに保つことはできないだろうとぼくは思う。しかし、場合によっては強い意志と排除の姿勢を持たねばならないときもある。だから、なにかわけがあるのだったら、なんとか仲良しになって話をききたかった。
 1年ほど経ったときに、ぼくは自転車をとめておばあさんに近づいた。天気の話などをしても表情を変えない。「この商店街、好きなんですが、ここでなにをしていらっしゃるんですか?」「いろいろ言われるから、何も言わないよ」とにべもない。彼女の姿をとりたかったから「写真をとってもいいですか?」と訊いたが首をふるばかりだ。とりつくしまがない。

 そのうちまた、話してみようとおもって、そのまま立ち去った。ここを通るようになって2年半になるが、今朝はおばあちゃんがいない。向かいのみせもシャッターを下ろしている。何かおこったのだろうかとちょっと心配になった。理由が分かったら書こうと思っていたけれど、ぼくはもうキーボードを叩くことにした。

投稿者 玉井一匡 : 04:02 PM | コメント (0) | トラックバック

November 17, 2003

林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館

hayashihouse1-S.jpg click image to pop up.

 西武新宿線・中井駅の近くに林芙美子の住んでいた家がある。いまでは新宿区立の「林芙美子記念館」となっているが、「放浪記」で流行作家になってこの家をつくり、ついの住まいとした。毎日その前を自転車で通ると、道は高台の足元を縁取るようにして走っているから、大谷石の擁壁とその上の豊かな緑を左手に感じる数10mが心地よい。
山口文象の設計した和風の家も樹木や草花が豊かな庭も別世界をつくっていて、季節ごとに美しい。それというのも、家はいうまでもなく庭の植物たちにも手入れが行き届いているからだ。土曜日など、時間の余裕のあるときに事務所に行く途中でときどき寄ってゆく。

 庭の池に泳ぐ鯉たちのために、水面に餌を散らしている人がいたので、しばらく横に立って見ていたことがあった。「わたしの家はこの隣で、林さんには、むかしうちが土地をお売りしたから、ときどきここにくるんです。この鯉もうちにいたんだが、大江戸線の工事をした時に、うちの池の水が漏れるようになってしまった。しかし、何百mだか基準の距離の限度を越えているので補償の対象にはならないんだそうだ。仕方ないから鯉をここに連れてきた。と、思ったら、こんどは鷺がやってきて食ってしまうようになった。小さいやつはひと呑みにするが、大きい鯉はくちばしで頭を突いて殺してから、おもむろに食ってしまう。」
 暑い季節に縁側に腰を下ろしていると、年配のご婦人が「蚊がいるでしょう」といって団扇を貸してくださったり「資料室はエアコンがあるから涼しいですよ」と教えてくださることもあった。そのひとは林芙美子の姪にあたり、ここに昔住んでいらしたことがあって、定期的に花を生けにみえるそうだ。
 花について家について質問をすれば職員が説明をしてくれる。家の開口部はいつも開け放たれているので、だれかが住んでいるが今はちょっと留守をしているところだというようだ。
 ここが、命のないただの展示物や記念館になっていないのは、今でもこうやって「住んでいる」人たちがいるおかげで、ぼくたちもしばらくの間は少しだけ住人になれるからだ。訪れる人が多くないという逆説もここを居心地よいものにしている。

 この家から3軒は大谷石の擁壁が続き、そのうえに緑がこぼれているが、その隣からはコンクリートの擁壁に、シャッター付きのガレージが続いている。昔は同じように大谷石の擁壁が続いていたに違いないが、おそらくは相続のために土地を売り、それを買ったディベロッパーが売る時には駐車場付きにしたのだろうと勝手な想像をする。相続税と車の力が、街を醜くつまらなくしてゆく。

 坂道をはさんで林芙美子記念館のとなりにある古い家は講談社の「日本の洋館」という本にも掲載されている刑部邸だが、「今はおふくろの名義だけれど、そのうち相続することになると、持っていることはできないだろう」と、鯉に餌をやりながら刑部さんはおっしゃった。だからといって、新宿区にはそれを買い上げる予算もない。
その後、刑部人邸には、子息の心配されたとおりの事態が生じた。
Click to Jump to「洋館に綱が:刑部人アトリエ」

 

投稿者 玉井一匡 : 11:56 AM | コメント (14) | トラックバック

October 28, 2003

自転車通勤

 ぼくは自転車で通勤している。いまは、もっとも気持ちよい季節のひとつだ。中野区の哲学堂の近くから神楽坂まで片道およそ10km、30分弱。自宅の近くを流れる妙正寺川という神田川の支流に沿って通勤ルートを選んだ。川沿いなら上り下りが少ないだろうと、ちょっと楽を考えたからだが、地図を見ると中野区の東端から新宿区と千代田区の境界まで、ちょうど新宿区の北の縁を横断している。

電車でもクルマでも箱の中を移動するが、自転車では、歩くときのようにまちの中を移動する。ぼくとまちの間を隔てるものは、ガラスもエアコンもわがままな乗客もいない、ただ風だけだと、かっこよく言いたいが、車というわがままが走っている。もっとも、車と歩行者からすれば、自転車というわがもの顔が走っているといいたいかもしれない。まちに近づくのには、歩くより自転車のほうがいいこともある。多少の遠回りは苦にならないから、気持ちのよいみちや楽しいみちを選んで走る。事務所を今の神楽坂に移してから2年、往復を重ねるうちに、ぼくのすきな基本ルートができた。川べり、高台の足もと、商店街のせまいみちと、地形も変化に富んでいる。片側3車線の大きくて車の多い道はちょっとだけで通り過ぎる。幅の広い道は、走りにくいだけでなくまちを分断するから、車で走るのさえ、ぼくはすきではない。道路は片側2車線までがまちをつなぐみちだと、ぼくは思う。毎日のように走っているうちに、あちらこちらにすきな場所、ぼくの場所ができてくる。好きになることのはじめは、まずは知ること近づくことだ。

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 その自転車に、昨日からちょっとした変化がある。うしろにキャリアをつけたのだ。おかげで、気持ちよい季節がもっと気持ちよくなった。自転車に30分も乗っていると、降りたあとは冬でも汗がにじんでくる。夏には、背中がNOVAウサギのかたちに濡れていると言われた。背負ったバッグと背負いヒモが背中に密着している部分を汗が濡らすのだ。走っていると、他の部分は風を受けるので汗はすぐに蒸発する。バッグが背中からキャリアに移って、ぼくとまちの間を隔てるものは風だけになった。まちが、もっとぼくの場所になる。

投稿者 玉井一匡 : 02:26 PM | コメント (4) | トラックバック