March 03, 2010

ブンギン島:超高密度の島/インドネシア

 Bungin.jpg
 このひとつ前のエントリーに加嶋裕吾さんが長いコメントを書いてくださったのは、インドネシアの旅行からお帰りになってすぐだったが、そのあとにもっともっと長いメールをくださった。その旅の紀行文で、バリ島の東隣のランボック島から、そのもうひとつ東にあるスンバワ島へ、ことばのほとんど通じない定期バスに揺られる長い長い道中が書かれている。いろいろなことを考えさせられる興味深いものだった。
 そこで、海の上にたくさんの住宅が浮かんでいるのが見えたが、あまり面白そうではなかったと書いていらしたが、念のために僕はGoogleマップで航空写真をみた。そんなことはないよ、ぼくたちにとっては胸ときめくものだった。

加嶋さんの説明によれば、そこはブンギン島(BUNGIN)という人工の島だという。Googleマップの範囲をさらに拡げると、この北東にももうひとつの島が成長しているのに気づいた。 それだけではない。もっと欲張ってさらに北東にゆくと、潟を囲む長い腕のような洲の先端に、やはり同じような家並みの集落ができかかっている。
加嶋さんには、これが面白く感じられないほどに、もっと興味深い世界がバスの旅にあっわけだ。

加嶋さんが引用していらっしゃる「インドネシア文化宮」というブログは、インドネシアの24時間ニューステレビ局『METRO TV(メトロテレビ)』東京支局がプロデュースしているものだが、そこでは、島の中の写真も見ることができる。説明によれば、もともとは珊瑚礁だったところに次々と新しくやってきた男たちが石を積んで島を拡げていき、いまでは人口およそ3000人、350m×250mの大きさになった。夕方から男たちが漁に行って女と、夜には子供と年寄りばかりの島になるのだが、まわりを海に囲われているので近寄れないので安全だから、男たちは安心して漁に専念できるのだそうだ。いまでは本島まで細い道がつくられているが、このほかには道がないので、今でもこの島は安全なのだという。

投稿者 玉井一匡 : 11:05 PM | コメント (0)

February 04, 2010

岩城里江子 Live in Love Garden

RieSmile1S.jpgClick to PopuP

 岩城里江子さんは、これまでデュオでアコーディオンの演奏活動を続けてきたが、昨年からライブ活動を休止して、曲づくりなどに専念するようになってから1年ほどになるので、ひさしぶりのソロライブでの再出発だった。ほかの聴き手たちも同じだろうが、ぼくは里江さんのアコーディオンの演奏とともに笑顔を見に行きたいと思っていた。

 会場のLoveGardenも、昨年は大きく変わった。ぼくは、数年前のkai-wai散策のエントリーでこの店を知ったのだが、じつをいえば京島の地名さえそのときに初めて知ったのだった。kai-wai散策の写真で、ガーデニングショップというカテゴリーを大きく逸脱するような面構えが衝撃的なくらいかっこよかったのでしばらくして行ってみると、長屋や下町らしい商店街が残る街の中に置かれたこの店はなおさら異彩を放っていたし、それでいてまちと馴染んでいるのだった。
昨年、店の主であるcenさんは、みずからコツコツと手を加えはじめて、すっかりその店を変えた。LOVE GARDENは、ガーデニングの腕とそれにかかわるものを売る店から、ひとが集まる場所になろうとしている。
その中に納まるギリギリいっぱいの30人ほどが、この日このライブに詰めかけた。

 里江さんは、久しぶりのライブとあってはじめひどく緊張していたらしい。だれだってそうだろうが、はじめのウォームアップの数曲は客も里江さんもほぐれなかったけれど、やがて彼女は自身からもぼくたちからも緊張をふき飛ばしてしまった。彼女のアコーディオンの身上は、音楽と笑顔になって彼女からこぼれ出す「生きるよろこび」といったものなのだということを、その時にあらためて感じさせられた。
 この充電期間に客演した昨年の秋もそうだった。ルー・タバキン・トリオのライブの前座・・・なんていってごめんなさい、ほかの言葉がわからないんだ・・・としてソロで演奏したのだが、トリオとセッションをやってみないかと突然に声を掛けられての初めてのジャズだというのに、ルー・タバキン・トリオの三人を相手に堂々と即興でわたりあった、両手いっぱいの笑顔とアコーディオンという楽器で。

 演奏が終わってからは、残った10人ほどが車座になって話がはずんだ。話題はおのずからアコーディオンという楽器にあつまる。ぼくたちはアコーディオンのことを知っているようでいて分からないことがたくさんあることに気づく。
11kgもの重さがあることも知らなかったが、笑顔で演奏している里江さんの両腕と腰は、つねに笑みを絶やさないシンクロナイズドスイミングの選手の水中に隠れた足と同じように、密かな忍耐が支えているのだ。
アコーディオンの一部を外して、その中の仕組も見せてくれた。cenさんは電気仕掛けがあることを予想していたそうだが、そこには見事な機械仕掛けがびっしりと詰め込んであって、もちろんICもコンデンサーもない。かつては人手をつかってフイゴから空気を送り出していたパイプオルガンの、演奏家とふいご吹きのしごとをたったひとりでやってしまうのがアコーディオン奏者なのだ。
 彼女のアコーディオンはコバが使っていたものだそうです。ところで、「ふいご」を漢字で書くと「」なのだと知りました。

 このまちには、東京スカイツリー という巨木が生長している。周りにも、大規模なマンションがあちらこちらに作られている。その代わりに、長屋や細くて親密な路地がどんどんなくなってゆく。その一方で、LOVE GARDENや里江さんのような小さくてもつよい力が、コロッケやちくわの天ぷらや豆腐をつくって売る店、鉢植えの植物、それらを買ってゆくたくさんのひとたちが、巨大なモノでなく人間の生活というタネを撒くことによって、都市を血の通った生き物にしてゆくのだ。

■関連エントリー
Rieko Iwaki ノスタルジー♬/LOVEGARDEN
ブルームーンの夜@ラブガーデン/らくん家
あの兄弟の小さいほうは船に乗って世界を駆け巡った/Across the Street Sounds
アコーディオンソロ@京島
ブルームーン@京島/東京クリップ
ルー タバキン @ WUU/kai-wai散策
ルー・タバキン+岩城里江/MyPlace
■アコーディオンとバンドネオンについて
アコーディオンの構造/アコーディオンの部屋
バンドネオンという楽器

投稿者 玉井一匡 : 11:37 PM | コメント (14)

January 25, 2010

初めての相撲:場所と時代と四季

SumoSajiki.jpg弁当セットへClick
 両国駅の改札口に立っていると、どこからか甘い香りがやってくる。振り返れば10mほど後ろの階段を若い力士が降りてくる。香りの源は彼の曲げなのだ。生まれて初めての相撲見物が鬢付け油の香りという、気配からはじまるのは周到な仕掛ではないか。
取り組み開始の8:45を目指していたのに就寝が4:30になったのですこし遅らせて11:30に到着したが、それでも土俵はまだ三段目で観客はほとんどいない。あまりいい席ではないんだよと言いながら叔父がチケットを渡してくれたのだが、そんなことはない。枡席では前から3番目の西側。テレビで見ていると力士が左右に分かれてにらみ合うのを見るのだが、ここから仕切りを見ると一番手前に西方の力士のお尻がある。いつもと違う見え方がむしろ新鮮で興味深く思われて、ぼくは相撲と方位との関わりについて考えていた。

相撲では、初場所、春場所、五月場所・・・・というが、芝居なら正月興行とでもいうだろうに、なぜ「場所」というんだろうということが、前の日に気になりはじめた。スポーツなら「大会」とでもいうところだろう。相撲博物館に行ったらそのことを聞いてみようと思ったが、席について見はじめると、つぎつぎと興味深いことが続き、6時間以上もの間は退屈するひまも博物館にいく余裕もない。
 そうしてみると、テレビというのは取り組み以外の時間を退屈させる能力があるようだ。何十年もテレビを通して相撲を見てきたが、東の横綱は西向きに西の横綱は東向きに土俵入りをすることに初めて気づいた。目の前で見ていると、取り組みの流れには細かいメリハリがある。行司と呼び出しの衣装や作法は徐々に変わってゆく。弁当も旨い、土瓶と湯飲み茶碗もいい、幕下では三回も同体で取り直しという取り組みがあり、結びでは白鵬が把瑠都に負けて座布団が頭の上を飛んでいった。そうしているうちに6時間以上が瞬く間にすぎた。

SumoSandanmeS.jpg そんなわけで、いつのまにかぼくは「場所」についての疑問をすっかり忘れてしまったのだが、取り組みが終わった帰りがけ、屍のように布に覆われた土俵を見ているうちに、それをふと思い出し、「場所」とよぶ理由にも思いあたった。土俵は布に覆われると、先ほどの番狂わせにたくさんの座布団が投げられた熱がすっかり消えさり、いのちも失ったようだった。失ってみて、それまでのいのちが何だったのか分かったと思った。そもそも土俵は、神を呼ぶために四神の色の柱を立てて砂を盛り結界をつくる。塩を撒いて清める。土俵入りを舞う。力比べをする。それらはすべて、この場所の神への捧げものなのだ。だから、相撲の興業は「場所」でなければならないのだ。初めてのパリ巡業でポスターにつかわれた大乃国の土俵入りの写真に加えられた言葉が「きみは神を見たことがあるか」だったと読んだことがある。ぼくはまだ神もこのポスターも見たことはないが、今度、相撲博物館に行くことがあればポスターを見せてもらおうと思う。ちなみに、場所中でなければ博物館は無料だそうだ。
 相撲には、場所のほかに季節と時代があり、茶屋の賑わいは華やかだし、食い物はうまい。しかも今や、モンゴル、韓国、中国、ブルガリアラトビアグルジア、チェコ・・・はるか遠くに拡がった力士たちと世界をともにして、観客は分け隔てない声援を送るのが気持ちいい。両国の駅に降りてから徐々に始まる別世界が、ほんとうに面白かった。隅田川の橋を自分の足で渡れば、もっといいのだろう。

SumoZabutonUFOS.jpgClick to PopuP そういえば、たしか丸谷才一と山崎正和の対談で、相撲というのは室町江戸明治と様々な時代の衣装・風俗が共存していると言っていたのを思い出した。図書館で借りた本だから図書館のサイトで「丸谷才一 山崎正和」で検索するが出てこない。数日後に自分で図書館に行って本棚をさがしてみると「半日の客 一夜の友」という対談集があった。その本の「藝能としての相撲」という章で相撲について語っているのだ。歌舞伎やシェークスピアにも、時代と風俗の混在があるという。衣装のこと以外はすっかり内容を忘れていたから読み返してもすこぶる面白い。山崎正和も、このとき初めて相撲を見たそうだ。そりゃあこの二人の対談がつまらないはずがない。全体が日本文明論だが、15年経った今でも何も変わっていないことが分かる。そばに置いておきたくなったのでamazonで探すと、すでに絶版になっているのか単行本も文庫もマーケットプレイスの古本しかない。
 さっそく単行本で一番安い1円の古本を注文した。手数料は一律340円。

投稿者 玉井一匡 : 01:23 AM | コメント (0)

January 19, 2010

牛の鈴音 

UshiSuzu.jpgClick to Jumpto UshiSuzuWebsite 

 韓国のドキュメンタリー映画「牛の鈴音」を観た。といっても、もう10日以上も経ってしまった。
日本でも年末から公開されているが、韓国では昨年公開されるとドキュメンタリーとしては異例の大ヒットを飛ばした。40歳というおいぼれ牛を使って農業を続ける老夫婦を撮り続けた、すこぶる地味な映画が数多くの韓国人の心を強くゆさぶって、300万人が映画館に足をはこんだ。韓国の人口は約4800万人だから、この割合を日本の人口12800万にあてはめれば、800万人が観たということになる。お金をかけた映画ではないから、純益/制作費の比率では、じつに4300%に達したという。

 わけあって、ぼくはこの映画をできるだけたくさんの人に観てほしいと思い、友人知人にも勧めて特別鑑賞券を買っていただいた。
・・・にもかかわらず、正直にいえば、韓国で300万人動員という現象にふさわしいほどには、ぼくは感動することができなかった。これを見た人たちにたずねても、僕の印象とそれほどにはかけはなれていないようだから、韓国の観客とぼくの受け取り方の違いは、おそらく二つの国の文化的社会的背景に理由があるのだろうと思う。
では韓国のメディアはこの映画についてどう書いているのだろうか、それが知りたくて「中央日報」「朝鮮日報」の日本語サイトを開き「牛の鈴音」と打ち込んで検索した。

 どういうわけだろうか、いずれのサイトでも検索の結果はゼロだった。どちらも取り上げていないのだ。しかしおかげで、この映画とそれに対する観客の受け取りかたについては、なおさら興味がわいてきた。
老人の妻をはじめまわりのだれもがこの牛に農作業は無理だよと言うのに、彼は頑なに耳を貸そうとしない。牛にクルマを引かせて、人間が歩くよりもむしろ遅いくらいゆっくりと山合いの畑にたどりつくと、こんどは鋤を曳かせて土をおこす。牛は40歳、老人は79歳、こどもの頃に不自由になった右足をひきずって歩く。それでも草を牛に食べさせるからと農薬はつかわず、斜面に這いつくばって牛のために草を刈る。

 それほど親密で献身的でありながら、かならずしも牛がかわいいという表情を見せるわけでもない。画面を見ながらぼくも、ジイさん、もういいじゃないかと思い続けた。
そういえば彼は、かくも大切に思いながら牛を名前で呼ぶことがなかったと気づいた。きっと名前をつけなかったのだろう。それは、彼が牛を別の人格とは考えず、あたかも自身の身体の一部であるように思っていたからではないか。同じような理由で畑から離れようとせず、絶えることのない妻の愚痴にも反論しないのだろう。すでに畑も妻も牛と同じように自分の一部と化しているのだ。ぼくたちの愛情は、相手を思いやるところにある。けれども老人の愛情は相手と一体になることにあるのではないか。そして、それに観客は共感したのではないか。
 かつては考えられなかったほどに、日本と韓国の間は近くなった。多くの日本の文化も、おそらくは多くの人間も、朝鮮を通じて日本にやってきたのだろうから日本の文化が韓国と近いことは当然だが、だからといって違いがないわけではない。違いの発見は、むしろ理解への手がかりであることを考えれば、他文化との互いの違いを認めつつ理解しあうというありように近づいているのだとぼくは思いたい。
あの老夫婦と会って話してみたいと、いつのまにかぼくは思うようになったもの。

投稿者 玉井一匡 : 11:24 PM | コメント (0)

December 29, 2009

戦場でワルツを:WALTZ WITH BASHIR

WaltzBasilS.jpg「戦場でワルツを」公式サイトへ

 「おくりびと」がアカデミー賞をもらった直後にインタビューをうけると、監督ははしゃいで語るばかりだったが、主役の本木雅弘は「ぼくは、イスラエルのアニメーションがもらうと思っていました」と答えたのを聞いて興味をもち、その後、映画の内容について知るようになってますますこの映画を見たいと思ってきた。
 1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻のときに起きたパレスティナ難民キャンプでの虐殺を題材にしたドキュメンタリーを、アニメーションという形式でつくったものだ。

 監督のアリ・フォルマンはこのとき19歳、兵士としてレバノンに送られていた。虐殺現場の近くにいたはずだが、友人はしばしばその時の悪夢におそわれるというのに、彼にはレバノン侵攻のことをまったく思い出せない。いまわしい記憶をいつのまにか消してしまったのだ。自分が何を見たのか、何をしていたのかを発掘して事実に向き合うために、彼は戦友をたずねたり医師に相談をしたり、話をきいてまわる。

 多くの日本人もそうだろうが、ぼくはこの虐殺事件をほとんどおぼえていなかった。一方、フォルマンは、あまりに深く記憶を刻まれたために、それを呼び起こすことができなくなった。敵意と憎悪と恐怖の詰めあわせの箱のような状況に、頭の先まですっぽり押しこまれたイスラエルの若者フォルマンが置かれた状況と、無知であるだけのぼくたちは、全く対極にあるけれど、どちらも、どういう状況で何がおこなわれたのかを分からない。それを知りたいという点では僅かに一致するから、フォルマンが事実を発掘してゆくのにぼくたちは同行することができる。
 アニメーションを使うことで画像が抽象化されると、問題がいっそう普遍的なものとしてぼくたちに見えてくる。アウシュビッツを思い、ベトナムのソンミ村や、南京大虐殺英語版wikipedia)を考え、カティンの森を想起させる。
 これらの虐殺は、すべて加害者が外国に行ったときに行われている。それは、けっして偶然ではないのかもしれない。加害者側は、敵を制圧して組織としては圧倒的な優位にありながら、ひとりひとりの兵士は周囲のすべてを「敵」に囲まれている恐怖、他者のものであるべき場所を暴力によって支配していることが不安でたまらない。それが相手を圧倒する火器を手にしたとき、侵入者を残虐な行為に向かわせるのではないだろうか。そう考えると、虐殺という許し難い行為の中にも、人間の行為としてごくかすかではあるが救いを感じとることができる。それでも、ナチのアウシュヴィッツは別格としか思えないが。

 原題の「WALTZ WITH BASHIR」をそのまま日本語にすれば「バシールとワルツを」だ。
バシールとはこの事件の少し前に暗殺されたレバノンのキリスト教系政党であるファランヘ党のリーダー、バシール・ジェマイルのことであることを、映画のあとに調べて知った。1982年8月に大統領に選出され、翌9月に暗殺された。日本語のwikipediaには項目がないが英語版wikipediaにはBachir Gemayelの項目がある。この虐殺は、バシールの殺害によって和平への期待を打ち砕かれたイスラエル軍の絶望と恐怖が、さらに背中を押したと作者は考えているのだろう。

『戦場でワルツを』メーキングDVD上映会が開かれます。
 1月15日 21:00 シネスイッチ銀座。(半券が入場券代わりで無料)

投稿者 玉井一匡 : 02:00 PM | コメント (0)

December 22, 2009

等々力渓谷から九品仏:第7回アースダイビング

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「第7回アースダイビング」は、等々力渓谷を起点に九品仏まで歩き、終点をBe-h@usと合同の忘年会とした。
今回もまた、ルートの提案から資料作成まで五十嵐さんに依存してしまい、その資料を読んで初めて知ったことが多かった。
・・・九品仏浄真寺は、江戸時代に奥沢城跡につくられたこと、その城の周りにめぐらされた堀を埋め立て、今では住宅地に変わっていること・・・いや、堀をつくったのではなく、川がふくらんでできていた池を利用して高台に城を築いたのだろう。
川と時代をさらに溯れば、等々力渓谷の谷沢川とこの九品仏川はつながっていたのも、五十嵐資料で知ったことだ。

 初めて等々力渓谷へ行ったとき、東京にかくも深閑たる渓谷があることに目を瞠ったが、その思いはまた変わらない。しかし、ひとつ、あたりまえだが新たに気づいたことがあった。谷というものは底が深いのではなく、周りが高くてはじめてできるのだということを、実感として気づいた。それも、地形の分かる地図を手にしながら歩いていたから分かったことだ。終着点の九品仏も、いろいろな意味で思いがけない寺だった。

ED7KuhonbutsuS.jpgClick to Jump to GoogleMaP
 九品仏浄真寺は、おもいがけず広い境内に独特の伽藍配置をもつ寺院だった。Googleマップの写真を見れば一目瞭然だが、本堂と向き合って東向きに三つの阿弥陀堂が並んでいる。それぞれの御堂に阿弥陀像が三体ずつならぶので、本堂の西方に阿弥陀さまが9人も勢揃いする。
立て札の説明によれば本堂の建つところが此岸、三つの阿弥陀堂が並ぶ側が彼岸と見立てている。
 三つならぶ阿弥陀堂と本堂の間の庭には桜の大木があって、春にはさぞ美しかろう。
しかし、此岸と彼岸をへだてる空間が、どうにも間が抜けているように思えてならない。
ここは池があるべきだ。池があれば、彼岸と此岸をへだてる。へだてられてこそ浄土の価値がたかまるというものだ。朝には水面が太陽の光を阿弥陀像に反射し、夕べには夕日が阿弥陀像の背後にまわって美しい浄土を現出させただろう。
 これだけの情熱を投じて寺と仏像をつくりながら、ここに池をつくらないということはありえないと思うのだが、インターネットで調べた限りでは、ここに池があったという記述は見つからない。またここに行って質問してみたい。

 三つの御堂は、上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)という、往生のしかたの三つの段階に対応しているという。さらに、それぞれの品に上生・中生・下生という三つの段階があるから、ぜんぶで上品上生から下品下生までの九つの往生のありかた、つまり「九品」になるというわけだ。だからひとつの御堂に三体ずつの阿弥陀仏があって、あわせて九体の阿弥陀像がある。3×3で9を構成するというのは曼荼羅の構成と同じで、とてもわかりやすい。

京都の浄瑠璃寺には、やはり九体の阿弥陀像があると、立て札の説明にある。(九体の阿弥陀像、像をおさめる本堂は国宝)しかし、浄瑠璃寺公式サイトの写真によれば浄瑠璃寺の阿弥陀堂は三棟ではなく、池を前にして一棟に九体の阿弥陀像をおさめている。

■追記:アースダイバー
 アースダイビングは、中沢新一の著書「アースダイバー」にもとづいている。
アメリカインディアンのある部族の国つくり神話に、水中に長い時間潜っているカイツブリが水底から泥を持ち帰り、それによって国をつくったというものがあり、それをアースダイバーとよぶところから本のタイトルにした。
ちなみに、カイツブリは小さな水鳥なのだが、足は大きく平たくて、泳ぐには適している。
指と指の間をつなぐような水かきはないけれど一本一本の指がこんなふうに平べったくできている。しかも、それが身体の一番うしろについているので、歩くにはすこぶる不自由にできているし、水の上でも、きっとのんびり泳ぐよりも潜るのに向いているようだ。だから、歩いているカイツブリって見たことがないのだろう。

■関連エントリー
「谷沢川vs九品仏川」河川争奪戦/MADCONNECTION
JEDI / 7th Earth diving/aki's STOCKTAKING
petit-earthdiving091219(1)/Across the Street Sounds

投稿者 玉井一匡 : 09:58 PM | コメント (2)

November 14, 2009

「Walking the High Line」

WalkingHighLine.jpgWalking the High Line/写真: Joel Sternfeld

 「Walking the High Line」が届いた。
amazonで探して新本もあったが古本を注文した。新本より少し安い程度だし時間がかかるだろうがそれよりも外国の古本屋から届けられるということに興味があったからだが、二週間ほどたってとどいたのをみると、ほとんど新本のようにきれいで、送り状にも「Used-Very Good」と書かれている欄があった。
 外国の本には腰巻きがない代わりに裏表紙に説明が書かれていることが多い。この本の裏表紙の解説は、すこぶる簡潔でわかりやすくて、もう余計な説明を必要としないくらいだから、それを訳しておこう。

*裏表紙の解説

 9月11日の攻撃を受けたあと、2001年のニューヨークにつづいた暗い日々のさなか、ジョエル・スターンフェルドはゲルハルト・シュタイデル(でいいんだろうかGelhart Steidelと書かれている)のもとを訪ねると、すぐにも出したい本があるんだと切り出した。
その2年前からスターンフェルドは、マンハッタンのウェストサイドを南北に走る、使われなくなった高架鉄道High Lineの軌道敷の写真を撮り続けていた。それは「フレンズ・オブ・ハイライン」というグループとの協同の活動で、彼らはHigh Lineを解体からまもり公園として蘇らせようとしていた。その不動産価値に目をつけるものや政治的に利用しようとする連中が、ハイラインを解体して跡地を開発する計画を、当時の混乱に乗じて一気に進めようとしていたからだ。
 スタイデルがスターンフェルドの依頼を引き受けると、わずか6週間後には本ができあがってニューヨークにあった。体裁こそ薄かったけれどその本は、それまで秘密に閉ざされていた鉄道敷に、季節ごとの美しい風景があることを、初めてニューヨーカーの眼に教えたのだった。さながら、ウィリアム・ヘンリー・ジャクソンの1870年代に撮ったイエローストーンの写真が、当時の議会を国立公園の設立へみちびいたように、スターンフェルドの写真はハイラインパークの実現への大きな転換点となった。
この、初めての出版から数年が経ったいま、今度は「ウォーキング・ハイライン」の写真に加えて、鉄道がつくられそれが変容していった現在に至るまでを写真と解説によって編年体でまとめ、あらたな一冊の本としてまとめられた。
    *  *  *  *  *

 ぼくは、本をひらいてまず写真を見たから、ページいっぱいの24枚の写真は公園になる前のものばかりであることに、ちょっとはぐらかされる気がしたのだが、そういうわけだったのだ。その写真のハイラインは、ひどく非現実的な印象だった。・・・・・どれも曇り空で、昼間なのに人影はひとつもない。廃止されたレールの上はいうまでもないが、ビルの窓にも人影がない。曇天だから影や太陽を手がかりに時間を想像することもできない。同じような場所で同じ方向を、季節を変えて撮っている写真があるのに、よく見ないとそれも気づかない。線路のずっと向こうまで、周りのビルに焦点が合っているのだ。

 ニューヨークをよく知る人は、見なれた建築、住みなれたまちに、こんな別世界があったことに驚いたのだろう。マンハッタンをつつむ格子状の街路にブロードウェイだけが曲線を描いてニューヨークのリズムに刺激を与えてきたのだが、このハイライン・パークは、クルマもいない空中の公園をニューヨークにつくり出して、素敵な効果を生むにちがいない。Googleマップができたいまは、ぼくたちはいつでも鳥になってHigh Lineを見下ろすことができるようになったのだ。2010年には、残りの工事が終わるそうだ。

■追記:ひと
*ジョエル・スターンフェルド
・Joel Sternfeldのことを、これまで僕は知らなかったが、こんな写真を撮ってきたひとなのだ。
「American Prospects」をはじめとするたくさんの写真集がある

*スティーヴン・ホール
 ウェブサイトで、この計画のコンペの審査員を見ると建築家スティーヴン・ホールの名前があった。彼にはBridge of Housesという計画案がある。高架線の上に集合住宅を載せるというすてきなものだった。それはHigh LIneを生かす提案だったのだと、今になって知った。

■関連エントリー
High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

投稿者 玉井一匡 : 09:11 AM | コメント (4)

November 03, 2009

RAMLA × ギンレイホール シネマフェスティバル

GinreiPostersS.jpgClick to PopuP
 飯田橋の改札を出て徒歩数十秒の間近にある「飯田橋ラムラ」で、11月1日から11月10日まで「RAMLA*ギンレイホール シネマフェスティバル」 という催しが開かれている。
飯田橋の名画座「ギンレイホール」は創業35年をむかえた。二本立てで二週間上映するから、1年に約60本。35年間で2000本を超えるわけだ。
その2000本以上の映画のポスターとスチール写真を展示している。はじめは、すべてのポスターを壁に展示する予定だったが、会場の面積の限界のためすべてのポスターを壁にかざることはできなくなった。そのかわりにポスターを写真に撮って小さくしたものを1年に48本ずつを年代順にすべてならべた。それを見ると、ひところは日活ロマンポルノばかりを上映していた時代があったこともわかる。
実物は、可能な数をパネルに張って展示して、残りはすべて年度別にファイルに綴じたものを置いてある。写真をインデックスにして、みたいもの探して実物をテーブルの上に運んでみるというわけだ。以前に中野でポスター展を開いたが、データの整理が進んだので、はるかに面白く見やすくなった。

駅からの入り口の前には、映画看板画家の手になる手描きの看板絵がならんでいる。夜には野外映画会が開かれる。以前にギンレイで使われていた古い映写機を置いて、二本の映画が日替わりで交互に上映される。「白い馬」と「赤い風船」である。映写機も屋外のテントの下に置かれているので、映写の様子を間近でみることができる。ときに機械の調整に手間取ったり、カタカタという音が身近に聞こえるアナログが、かえって楽しい。
 なかなか充実した展示になりそうだと思っていたら、NHKが取材に来るという。それが、2日、午後11時台のニュースの天気予報前の枠で、しっかりと取り上げられた。今朝のNHKのラジオのニュースでもこの催しについて伝えたそうだ。

GinreiPosterRed.jpgGinreiPosterWhite.jpg 日本中の都市の郊外には大型の商業施設がつくられ、まちはどこも同じような店で構成されるから、自分がどこにいるのかわからないくらい、似たり寄ったりのまちになってしまう。そうやって、古くからある街がどんどん衰えている。
 こうした商店の現状と同じようなことが映画館の世界でも起きているようだ。いたるところに大型のシネコンがつくられて、古い映画館が閉館に追い込まれてゆく。そのうえ家庭のテレビは大型化してゆく時代にあって、ギンレイホールは、良質でありつつマニアックに偏ることのない演しものを選びながら上映しつづけることで多くの観客を集めているのだ。
 この期間、神楽坂商店街では多くの店が参加して「神楽坂まちとびフェスタ」というイベントがおこなわれている。ギンレイホールの催しは、このイベントの一環として参加しているのだ。神楽坂には、古くからの商店のほかに料亭さえあるが、チェーン店に置き換えられたところが増えてきたが、それでもまだ大型の商業施設の進出は許していない。この商店街もがんばっているのです。

■追記
イベントの詳細:ギンレイホール イベント情報 

*映写機:ギンレイホールの映写室はドアをガラス入りにしてあるので、映写する様子をすぐそばでみることができるのだが、なにさま狭いロビーだから観客席に入るときには席を取るのに慌ただしい。さりとて、帰りには後ろに人が続くから立ち止まることができない。しかも上映中は席についているのだから映写室を見られるわけがない。早めにロビーに行って、前回の上映中に見なければならない。だからそれをのぞいてみる人はあまりいないのだ。
 この野外映画でつかわれる映写機は、ぼくたちがイメージするように、二つのリールをつけてフィルムを巻き取るしかけなのだが、現役の新しい機械はずいぶんやりかたが違う。大きな丸テーブルのような金属製の円盤のうえにフィルムが次々と吐き出されるのだ。

■関連エントリー
映画ポスター・スチール写真展
映画ポスター・スチール写真展:アーク灯の映写機
くらら劇場の映写機
野外ギンレイホールと水琴窟:日比谷公園ガーデニングショー2008


投稿者 玉井一匡 : 08:00 AM | コメント (0)

October 23, 2009

High Line:ニューヨークの高架鉄道あとの再生

HighLineTop.jpg
Click carries to this WebSite.

 つい先日知ったニューヨークの話が、ぼくはうれしくてならない。
と同時に、このコンペの開かれたことを知らなかったのがとても残念でもある。 
マンハッタンのウェストサイド、 ミートパッキング地区から北へ10番街と11番街 の間の西34丁目まで、1930年に貨物輸送用の高架鉄道がつくられた。それが1980年を最後につかわれなくなり、軌道には雑草が生い茂りすっかり荒れはてた。それはそれで、とても魅力的な侘び錆びの風景なのだが、土地の地主たちがその解体と土地の返還を求め、ジュリアーニが市長だったときに解体が決定された。
それを、近隣の住民たち ( Friends of the High Line ) が立ち上がって保存運動をおこし市を動かして公園にするという計画を実現させた。今年の6月にそのうちの1/3ほどがいちおうできあがった。デザインはコンペによって選ばれた。

HighLineMapS.jpg 「いちおう」とが書いたのは、High Lineにはたくさんの植物があってつねに成長したり枯れたりし続けるからでもあるけれど、ここから見えるニューヨークの風景もHigh Lineの一部なのだろうと思うからだ。だとすれば、まちはいつも変化をつづけるのだから、これが完成することは永久にないのだ。
 住民たちがみずから立ち上がってこういうことを実現できるのは、アメリカのほんとうのいいところだ。自分たちが直接に社会をつくっているという意識が強いのだ。ケヴィン・ベーコンデヴィッド・ボウイまで運動に参加したというのもニューヨークらしいではないか。ぼくたちだって、ウェブサイトから申し込んで会費を支払えば、すぐにメンバーになることができる。周囲の店で割引などの特典を受けられるのだが、それより、滅多に行けるわけではなくてもちょっとした仲間になれるというわけだ。

 これと対照的なものとしてワールドトレードセンターが思い浮かぶ。むこうは、世界一の高さを誇示しながら島の先端に屹立して、歩いて近づくという気にはなれないという気分を発散していた。まわりと競争し相手を蹴落とし、世界で一番になるというアメリカ合衆国のひとつの側面のシンボルのようだった。だからテロの標的になったのかもしれない。けれどもHigh Lineがつくられるに至った経過は、WTCと対極にあるようだ。
HighLineBook.jpg 一方が競争における勝利を誇るなら、こちらは協力を実らせたものだ。WTCが「周りよりも自分が・・」という主張であれば、High Lineはまわりのまちをすてきにするためのインフラストラクチャーだ。むこうが、ピカピカdであるなら、こちらは古びたコンクリートや錆びた鉄骨の上を走るレールの間を雑草が埋め尽くす線路だった。
 WTCはアメリカの絶頂のときにつくられたが、High Lineの鉄道がつくられたのは1930年の大恐慌の時代だったし再生の決まったのが2002年、9.11の翌年という時期だったというのも対照的だ。おそらく、このプロジェクトは、9.11から立ち直ろうという思いも後押ししたのだろう。

 それに、南端にある起点が「meat packing district」だというのも興味深い。1900年代に、250もの屠畜場がひしめく「250 slaughterhouses and packing plants」としてはじまったというんだから、かつては港からここまで牛や豚を満載した貨車が、鳴き声と匂いをニューヨークの街に充満させながらひっきりなしに往復していたわけだ。もしかしたら、この細長い公園の上で牛や豚を飼うことになるかもしれないぞなんて想像もひろがる。
行ってみたいところだが、代わりにとりあえずぼくはamazonをさがしてみた。「Walking the High Line」/Joel Sternfeld, Adam Gopnik, John Stilgoe 著 という本を見つけて、ちょっと高いけれど注文した。ロンドンの古本屋から8〜10日でおくられてくるそうだ。

■High Lineのウェブサイトから
High Lineの地図
プロジェクトの紹介/スライドショー
来訪者による写真 /スライドショー

■関連エントリー
「Walking the High Line」/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 07:30 AM | コメント (4)

October 12, 2009

中村俊輔 スコットランドからの喝采

Shunsuke.jpgマーティン・グレイグ 著/田澤 耕 訳 /東本 貢司 監修/集英社
 numberの書評でみつけた。グラスゴー出身のイギリス人である著者が本人の独占インタビューをせずに徹底的に周辺取材をし、日本人読者のためにではなくセルティックのサポーターのために書いた本だから、日本語への翻訳も当初は予定されていなかったというので読みたくなった。中村俊輔のプレーと態度が、セルティックを愛する人たちにどのように受けいれられたのかが、チーム関係者、選手、ファン、友人の言葉によって書かれているのだ。
 原題の「THE ZEN OF NAKAMURA」は、おそらく中村俊輔を通じて見た日本文化観を示しているのだろうが、ぼくたちからは、セルティックファンの俊輔観を通じて、スコットランドのひとびとについても知ることができる。

 2006年11月20日に俊輔の成功させた一本のキックに、冒頭から53ページをついやしている。チャンピオンズリーグマンチェスター・ユナイテッドを破りグループリーグを突破してベスト16へみちびいたフリーキックを、世界中のセルティックファンがどこでどんなふうにして見たかを発掘する。トロントにはじまり、シチリア→ロンドン→ナッシュヴィル→ラスヴェガス→オンタリオ→リオデジャネイロ→ヨハネスブルグ→埼玉→そして、あの試合の行われた地元のグラスゴーに戻ってくる。
 当時世界で一番強いと考えられていたし、結果としてこの大会で優勝したチームの、やはり世界で1,2のゴールキーパーを相手に、ほかのだれの力も借りずにフリーキックを成功させたことも、それがチームを初めてのベスト16を決定づけたこともぼくたちは知っていた。
しかし、セルティックのサポーターたちがどんな風に、そしてどれほどこのフリーキックをよろこんだかを知ることで、ぼくたちはこのゴールと俊輔の意味がわかる。それだけでなく、スコットランドの人たちについて理解することができる。よろこびを露わにすることのなかった俊輔に彼らが謙虚を読み取ってくれる。それによってぼくたちの方も彼らのことを知るのだ。

 NBAにも同じ「セルティック」という名称のチームがある。ボストンには、同じケルト人のアイルランドからの移民が多いからだ。かつてwikipediaのないとき、「セルト」というのは「ケルト」のことなのだと、気づくまでずいぶん時間がかかった。ボストンがアメリカの独立戦争に点火したのも、アイルランドのイングランドに対する強い反抗心があったからだろう。イギリスは、サッカーでは4つの国に分かれているようなもので、得か損かわからないがナショナルチームが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つに分かれていることも、イギリス本国さえUnited Kingdom(連合王国)のようなものなんだということを実感させる。古いものを残そうという意志がヨーロッパに強いのも、そういう根が深いからなのだろう。
 日本が、どこもかしこも同じようなまちになってしまうのはまったくつまらないことだが、大国が強引に力で併合したわけでもなさそうなのにユーゴスラビアのように反目して人は殺し合い、都市を破壊しあう。それは、もっとつらいことだ。

俊輔の決めたフリーキックの映像:2006年チャンピオズンリーグでマンチェスターUtd.相手の二本

投稿者 玉井一匡 : 08:39 AM | コメント (0)

July 07, 2009

田辺一鶴一門会/松戸「席亭・宇」

Ikkaku0705-1S.jpgclick to PopuP
 ときは平成二十一年七月の五日、ヒゲの講談師田辺一鶴一門による講談の会が開かれた。ところは松戸の「席亭 宇」、料理屋の二階の宴会場として使われてきた和室三部屋、八畳間ふたつと十畳をぶっ通しにしたが、客は露地に見たてた廊下にところせましとあふれた。

 といっても、食い物屋の二階で気まぐれに開く古典芸能の夕べというわけじゃあない。この夜から、この場所を茶会やら仲間の集まりのために貸し出すのだが、ひと月おきに田辺一鶴一門の定席として一門会を開こうという船出。天丼と穴子丼を売り物にする「関宿屋本店」の二階を「席亭 宇」と改めてのこけら落としなのだ。この日は、一門の田辺星之助一乃(かずの)一邑(いちゆう)(出演順)に加えて、ゲストとして若い一龍齋貞鏡(ていきょう)を迎えた。一鶴師匠ははじめとトリの両方で高座に上がり、はじめに客に配った「童話しりとり」で講談の「修羅場」の入門指導の大サービス。
八畳の茶室のためにつくられている庭を舞台の袖に使ったから、弟子たちの高座となれば横の椅子から腰を浮かせて顔をのぞかせ、ついつい自ら仕草も出てしまうという風情に師匠の情があらわれる・・・というのが上の写真だ。弟子たちとゲストはそれぞれに芸風を披露して師匠はもちろん最後に十八番の「東京オリンピック」と「妖怪大戦争」。開会式の入場行進の参加国に、水木しげるの妖怪づくしの「修羅場」を一気呵成、立て板に水と披露して、今年八十の歳をものともしないところを見せた。

 6時から始まる会の前、3時半ころにmasaさんといっしょに会場につくと、師匠はもう二階にいらしてると聞いて階段を上がっていった。さすが高座のある日となればブッとんだ服装の師匠を見て胸が騒いだ。masaさんはカメラを持つ手がウズウズしているだろうから、紹介して写真を撮らせていただいていいでしょうかとうかがうと、いとも簡単にいいよとおっしゃる。ぼくはただ写真をとるmasaさんと撮られる師匠を見ているだけで樂しかったのだろう、気がついたら自分でとった写真は一枚もない。けれど、Kai-Wai 散策には、それはすてきな一枚がある。masaさんもディスプレイを見て大喜びしていた。

Ikkaku0705-2S.jpgclick to PopuP なにさま初めてのこととあって主催者側も勝手がわからないところに、一鶴師匠があちらこちらに声をかけてくださったおかげで朝日・読売・毎日新聞の千葉版に大きな写真入りで掲載されたうえにNHKでも話題にとりあげたから、60人ほどしか入れないところにたくさんのお客さんがいらっしゃるかもしれないと、一階の店にプロジェクターを置いてパブリックビューイングもやろうということになった。日韓ワールドカップの職安通りの様子を思い出させる。予定では、貞鏡さんのあとで中入りをとるはずだったのに、師匠は雰囲気が切れない方がいいからと中入りを取りやめて続けることになった。

 半分は畳に座布団という席のお客さんだったから休憩をとればいいのにと心配していたが、あとになって落語と講談の違いについて考えてみると、一鶴さんの考えも分かるような気がした。落語にとって「間」が重要であるなら講談にとってはとりわけ一鶴師匠の講談にとっては「勢い」で勝負するのだ。講談に出囃子がないのは、それ自身の持つ勢いというリズムや音楽性とぶつからないようにという計算なのではないか。講談の華は、一気呵成、ときには息継ぎもなしで攻めるところにあるのだろう。それを「修羅場」というのだということは、この席亭のための改装にかかわって一鶴さんや星之助さんとお話しているうちに初めて知ったことだ。
 松戸について、関宿については、もっと書くことがあるから、それは別のエントリーにしよう。

■修羅場:iPhoneの「大辞林」の「修羅場」の項目には二番目にこう書いてある。
「② 芝居や講釈などで、激しい戦いの場面。[講談では「しらば」「ひらば」という]」
■関宿屋:あるじの稲葉八朗さん手書きのイラストも含めて、すべて自作の公式ホームページで店の様子がよくわかります。
本店は天ぷらを中心とする料理屋で、となりには弟さんが腕をふるう「そば処 関やど」があります。ここもうまい。
■ゲイツイン ギャラリー 宇:交差点をはさんだ道路の筋向かいにある「ゲイツイン ギャラリー 宇」は、「席亭 宇」と対をなすアートギャラリー。
かつて鰻屋の店だったのを数年前に改装したから、大きく「宇」と書かれた鰻屋当時の看板をそのまま残すことにしてギャラリーの名称にも「宇」を加えた。
きもちのよいカフェではうまいコーヒーと焼き菓子もありますから、こちらにも寄ってみてください。

投稿者 玉井一匡 : 07:55 AM | コメント (6)

January 30, 2009

クルド人のまち:イランに暮らす国なき民

KurdTown.jpg「クルド人のまち」/写真・文 松浦範子/新泉社/2,415円 

「クルディスタンを訪ねて」につづく、松浦範子さんのクルドの本ができた。
前作の舞台はトルコだったが、これはイラン。ふたつの本の違いは国のほかにもうひとつ、そのタイトルにこめられていると、読み終わって気づいた。
「クルディスタンを訪ねて」では、著者と友人は別の目的で写真を撮るためにトルコを訪れ、たまたまクルド人たちの住む地に行く。まっとうな知的好奇心に満ちた旅行者として、二人の日本人女性は、日常生活をいとなむ人たちのできるだけ近くに視線を寄せて異文化を見ようとしていたが、ある出来事によって、そうした旅行者の好奇心が生活者の思いとはかけ離れたところにあったことに気づかされる。
 クルド人たちが古くから生きてきた場所が複数の国に切り分けられ、そのひとつであるトルコという国家の中で生きるのがどういうことであるかを感じ取った。以来、彼女はクルディスタンについてできるだけ深く知り、それを伝えようと踏み込むことのできるぎりぎりのところにゆき写真を撮り続ける。あの本の表題が「訪ねて」という動詞だったのは、初めて訪ねたときの行動で知ったことを深く受け止めて、それが後の行動を決めたからだ。

 この本のタイトルは名詞だ。「まち」だ。「町」は、制度として行政区画としてのニュアンスが大きいが、「まち」は、そこに生活するひとりひとりの人間や積み重ねられた歴史、文化、といったものの堆積があるように感じる。意識的に「クルド人のまち」と名づけたのだろう。イランでは、トルコのクルド人よりもアイデンティティを表に出せるだけの歴史があり、生活のスタイルも生活する場所も受け継がれのこされているらしい。

Mahabad.jpg 表題にまちという名詞を選んだわけが、おそらくもうひとつある。
「クルディスタンを訪ねて」に、イランでクルド人が独立国家を樹立したことがあったと書かれていた。それがどんなものだったのか気になっていたのだが、この本でその疑問が解けた。

第二次大戦直後の1946年、わずか11ヶ月とはいえクルドの国、「マハバド(Mahabad)共和国」が存在していたのだ。その共和国の大統領となったガジ・ムハンマドの秘書として近くで時間をともにした彼の甥ホマヨーン氏に松浦さんは会う。共和国が倒されたときにガジが従容として敗北を受け容れる話に、ホマヨーン自身の松浦さんに対する接し方に、短命だった共和国の記憶が清冽によみがえる。クルド人が、文化や生活としてだけでなく国を持ったことがある徴(しるし)として、国をつくるもとになるはずの「まち」ということばを、松浦さんは選んだのだろう。

 この本が出たら、読んだあとに松浦さんに会おうと岩城さんmasaさんと話していたので、秋山さん五十嵐さんにも声をかけて、先日、神楽坂のキイトス茶房に集まった。
いろいろ聞こうと思っていたことがあったのに、ぼくはいろいろ忘れてしまった。
しかし、クルドの文化はペルシャと共通するところが多いのだと松浦さんはおっしゃる。いまもイランにはコルデスタンという州の名称が残されている。トルコとくらべればイランのクルド人には、自分たちの文化を表現する自由がある。それは、共有する文化的背景があるからなのだ。

 クルドのために立ち上がるべきだと言われることがあるけれど、それはちがうように思うと彼女は言う。たしかに、かつてひどい仕打ちを受けたユダヤ人たちが、ガザにおいてパレスティナ人にとった行動を見れば、もしもクルド人が物理的な力で自分たちの国家を作り上げたとしても、それはまたいつかは暴力となって返ってくる、絶えざる応酬がつづくだろうと思う。
世界中、そういう苦しみがつづいているのだ。だとすれば、ほかのみちがどこかにあるのではないかとぼくは夢想する。たとえば、複数の国に分けられたクルド人はふたつずつの国籍を持ち、自由に複数のクルド分配国家を移動できる特権を与えるというようなことはできないだろうか・・・などと。

投稿者 玉井一匡 : 11:31 PM | コメント (10)

January 25, 2009

知られざる豊かな国キューバ

cuba1s.jpg
 「知られざる豊かな国キューバ」という催しを、当日の土曜日になって中野区の掲示板で知った。今年は、キューバ革命50周年チェ・ゲバラ生誕80周年だ。
 キューバについてのぼくのさまざまな知識は、時間も場所もあちらこちらに点在しているので、ひとつに結ぶとその像はぼやけてしまう。40年以上も前に心動かされたフィデル・カストロやチェ・ゲバラへの共感と敬愛。 娘や友人などがキューバに行ってきたときに聞いた、具体的だが断片的な話。 キューバ危機とアメリカのキューバ侵攻作戦。ヘミングウェイ、「老人と海」。野球やバレーボールチームの躍動と力強さ。「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」のひとびとと音楽の魅力。ボートで脱出してカリブ海を渡る人たち。都市でも進められる有機農業。

 いまのキューバはどうなのかを知りたくてぼくはこの催しに行くことにした。
現在、世界中が陥っている経済危機は、きっとアメリカ史上最低の大統領が、ぼくたちの国の首相などの協力でもたらしたこの状況だが、いずれいつかは来る必然的なものでもあった。
成長させ続けなければならないという経済の構造が、資源も廃棄物の捨て場も有限な、地球という場所につくられている事実をあわせれば、いつまでもこのまま続けるわけにはいかないという答えが出てくるのだ。
 すると、ソ連の崩壊とアメリカによる経済封鎖で危機を先取りしたキューバが、うまくやっていければ、これから目指すべきモデルになるのではないかという期待がぼくにはあるのだ。

第一部 講演とパネルディスカッション、第二部 ダンスと音楽という構成の、第一部だけにぼくは参加した。パネラーは、写真家でカーニバル評論家という白根全、ジャーナリスト・NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表の工藤律子キューバの有機農業などをよく知る長野農業大学の吉田太郎ゲバラについての著作の多い戸井十月の4氏。

冒頭に駐日キューバ大使が話した。儀礼的な挨拶を予想していたぼくには、さすがカストロの大使と思わせる饒舌と情熱。白根氏は、キューバの人々のカーニバルにかける熱さについて写真を背景に、工藤氏はキューバの生活は楽じゃないんだということを具体的な日常生活から、吉田氏は統計や歴史の視点からやはりキューバの困難や矛盾を話した。おかげで、やや会場が沈んだ。
そこで戸井十月が登場。フィデルとゲバラの志の高さを語り、いろいろ問題を抱えているけれど、それでもこうやってみんなキューバを応援しようという気持にさせる魅力があるんだという発言で会場に元気をとりもどした。(この会場では、カストロとは言わずフィデルと言った。弟のラウルと区別するためなのだ・・・と思っていたら、キューバではカストロのことをファーストネームで呼ぶらしい)こうして振り返ると、この四人による構成はよくできていたのだ。

 カストロの個人崇拝はないし肖像などもほとんど掲げられていない、ゲバラの壁画があるだけだとキューバに行った人たちは言う。まっとうな社会主義なら個人崇拝を否定するのは当然のことなのに、北朝鮮はもちろんソ連中国をはじめとする社会主義諸国はあのざまだから、キューバのありようは稀なことなのだ。
教育と医療はもっとも重要なことだとしてとくに力を注いで顕著な成果を上げ、いずれも無料で受けられるが、国内には受けた教育を生かす場が少ないし、ソ連の崩壊とアメリカによる封鎖がもたらす物資不足で、とても苦しい生活をしている。優秀な医師たちを南米をはじめ各国に医師たちを派遣して、なんとか外貨を獲ている。物資の足りない生活をしながら国民がかろうじて耐えてきたのは、カストロをはじめ幹部が特権的な生活をしていないからだろう。
 物質的な満足よりも精神的な満足が大切だと言われても、国民の我慢にも限界があると工藤氏はいう。だが、物質と精神という対立概念だけではない。べつの切り口をみれば、他者より優位に立つことに価値を置く立場と、他者と分かち合うことに価値を見出す立場・・・つまり競争と共生という対立概念がある。フィデルやゲバラは、物質であれ精神であれ、他者より優位に立つことによってではなく、他者とよろこびを分かち合うことで満足を得られる世界をつくろうと出発し、それを持続してきたのだ。

Che.jpg「チェ 28歳の革命」・「チェ 39歳別れの手紙」を監督したスティーブン・ソダーバーグは、戸井氏によれば、はじめゲバラのことをほとんど知らなかったし、さまざまな障害もあった。しかし、ブッシュがあまりにひどいので、この映画を作らなければならないと思うようになったという。だとすれば、この映画ができたのはブッシュのおかげというわけだ。経済封鎖も、むしろキューバを持続させ結束させる効果があっただろう。
 イラク戦争や金持ち優遇政策にしても、じつは現代の世界の経済システムがいかにひどいものであるかという本性をあきらかにするという役割を果たした。オバマの登場も、ブッシュがいたからこそ実現したのだろうし、ブッシュのおかげで多くの人間の生命を失い、あるいは苦しい生活を強いられることになったが、それによってカストロやゲバラが目指したものの価値に気づくことになれば、結果として人類が救われることになるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:55 PM | コメント (4)

January 04, 2009

遅配エントリー:年末玉ノ井ダイブ

TamanoiDivMasaS.jpgClick to PopuP
 年末の、kai-wai散策の「JED-iPhoner's@東向島」というエントリーでつかわれた写真の大きなサイズのデータがmasaさんから送られてきた。ぼくだけが、このエントリーをしそびれたので、みなさんの写真と対になるやつを年明け早々に書いておくことにしよう。

 左の写真は、kai-wai散策のその写真をmasaさんが撮っているところだ。
こんな鋭角の三角形の、いまでは空き地になっている敷地には、かつてどんな建物があったのだろうかと思いながら、デジカメを低く構えてmasaさんをパースペクティブの土地に載せて撮った。Googleマップで見ると、航空写真には、まだ三角形の建物が残っている。じゃあストリートビューをと思ったが、残念ながらこちらではもう空き地になっていた。
 iGaさんのMADCONNECTIONの「放課後...みたいで...」の写真では二人のオヤジがなにやら一心に眺めているが、彼らの身体が邪魔をして肝心のものが見えない。右の写真を見れば、オヤジたちの興味をひいたものが何なのか分かります。

TamanoiDivCafeS.jpg 隅田川の水面をなめていっそう冷え切った北風が吹きぬけるまちを、おだやかな陽の光をあびているとはいえオヤジが五人、せまい商店街や路地を歩いているとすっかり身体が冷え切って、ひとやすみしようということになったが、下戸のぼくとmasaさんにはさいわいなことに、まだ日が射しているからアルコールではなく珈琲屋になった。その店内でiPhoneをつかって撮った記念写真を、秋山さんが「JEDI @玉ノ井」というエントリーで、怪しい写真に加工してエントリーした。ここは不思議な店だった。古いレンガ塀に囲われ田店の入り口の前には小さなお稲荷さんの社、その背後にはウィンドウサーフィンのボードが横たえられている。中に入ってみれば、小さくてすこぶるふつうだがやや古めかしい喫茶店だった。全員ホットコーヒーを飲んで心身を温めたあとに、もうひと歩きして冒頭の記念写真となったのだ。

その後、東向島から東武伊勢崎線に乗って隅田川を渡り浅草で下車、浅草寺裏のプロのための注連飾り市を覗く。4つめの写真は、車中で少年のごとく一心にデジイチのディスプレイを見る環境社会学者のほほえましい姿である。(画像の一部に不穏当な表現がありましたので改正いたしました)この座席の向かいの様子が、「MacBook」なるエントリーの一部に加えられた。
おじさんたちは体内に液体燃料を注入すべくホッピー通りに繰り出したのだが、ぼくは歯医者さんに行かねばならなかった。治療中の仮歯のとれちゃったのを処置するために、年末の週末に診察時間のあとなのに時間をとってくださったのだった。

投稿者 玉井一匡 : 12:30 PM | コメント (11)

November 08, 2008

「彼らの居場所」と「クルディスタンを訪ねて」

KurdCardS.jpgClick to PopuP 

 ふた月も前のことだがアコーディオン奏者の岩城里江子さんからメールをいただいた。友人の写真家が新宿で個展をやっているので時間があったら見てほしい。国を持たない民族クルディスタンを撮り続けている写真家です。明日が最終日なのだが・・・とあった。masaさんと一緒に見に行ったら、玉井にも見せたいといわれたのだという。岩城さん自身のブログ「う・らくんち」に、この写真展についてのエントリーがあった。

 写真展は「彼らの居場所」というタイトルの、トルコのクルド人たちの生活を撮ったものだった。
 女たち子供たちの写真の多くは、こちらを見つめている笑顔が生きる喜びだけからから生じたものではなく、さまざまな悲しみや憤りを包む勁さのあらわれのようだった。
 彼らがイラクやトルコに住む少数民族として弾圧されていることや、かつて難民として受け入れを求めるクルド人を日本政府が強制送還したことを知ってはいた。しかし、イラクやアフガンへのアメリカ侵攻のかげに隠されて、どういう人たちがどんなところにどんな風に生きているのかという具体的なありかたを、これまでぼくは何も知らなかった。知らないということに気づいてさえいなかった。この写真展はそれを気づかせてくれた。
 写真展のタイトルは、このブログのタイトル「MyPlace」と重なる。しかも、佐藤真が監督したエドワードサイードについてのドキュメンタリー映画「OUT OF PLACE」とも関わる。

KurdVisit.jpg 会場には松浦範子さん自身がいらしたので、じかに話をうかがうことができた。じつは、ほんとうに伝えたいことを撮った写真は見せることができないのだという。そこに生活している人たちに迷惑がおよぶからだ。いつまでも会場で話をうかがうわけにはゆかないから、会場に置かれていた本を後日あらためて読んだ。
「クルディスタンを訪ねて」(文・写真 松浦範子/新泉社)
は松浦さんが文章を書き写真を撮った本だ。
 クルディスタンとはクルド人のくに・・・「彼らの居場所」だ。「アフガニスタン」がアフガン人の国であるなら「クルディスタン」はクルド人の国であるはずだ。しかし、クルディスタンは文化を共有するひとびとの集まる「くに」ではあるけれど、制度としての「国家」ではなく国土も持たない。クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアなどの数カ国に分かれて生き、「くに」は思いとして存在するだけだ。いや、クルド人が数カ国に分散して生きているという言い方は正しくない。彼らははるか昔から遊牧民として広大な草原を自分たちの居場所として生きてきたにもかかわらず、あとから来た「先進国」がそこに国境線を引いて、クルド人の生きてきた場所を勝手にいくつかの国に切り分けてしまい、そこに生きる人たちも切り離されてしまったのだ。同じように、現実の人間の生活と無関係に国境線を引いてしまった結果、内戦が生じているところが、世界中のいたるところにある。

 これはただの旅行記ではない。だが、みずから旅をしてさまざまな人やさまざまな出来事にふれ、それらをみずからのうちに肉体化し熟成して印画紙に残し文章にする。その意味では、たしかに旅行記である。はじめ別の目的でトルコを訪れたときに、クルド人の多い東部を訪れる。そのとき、著者はクルド人たちが差別や弾圧を受けている事実を知る。以来、カメラをかかえてクルド人の住むまちを何度もおとずれ、ときに小さなホテル、ときに友人のすまいに泊めてもらう。その家の娘たちの部屋に寝起きして、彼女たちの日常を共にする。女たちや家族のなかに堆積しているトルコ支配の残したきずを記憶に写し取ってきた。
 報道のために来たのかと追及をうける。軍に連行される。観光のために来たのだと言い続ける。みずから戦いの場に行くことはないが、命をかけて独立を勝ち取ろうとする人たちのあることを身近にする。政府によるクルド弾圧の話をしてくれる人たち、宿を提供してくれる人たちがいる。
文章と写真は対応していない。それは、受け容れてくれたクルドのひとびとにおよぼす影響を最小限にとどめようとする配慮からなのだろう。

 はじめに写真展を知らせるメールを読んで、ぼくは大石芳野さんの写真を思った。「クルディスタンを訪ねて」を手にしてみると、腰巻きには、すでに大石さんの推薦文が書かれていた。いずれも、戦いに家族を傷つけられる女たち、こどもたちを撮っている。大石さんは多くの国で、主にこどもたちに眼を向けているが、松浦さんはトルコのクルド人たち、それも女たちに重心が置かれているように思う。

 クルド人たちが自分の国家をもつことは、どうすれば実現できるのだろうかと、ぼくも考えずにはいられない。しかし、ユーゴスラビアやアイルランド、パレスティナ、つぎつぎと悲惨な歴史が思い浮かび、「麦の穂をゆらす風」で見たアイルランドの、肉親やかつての同志と戦わねばならない辛さをぼくは思い出す。
 クルディスタンの実現は可能なのかという思いに、松浦さんは立ち止まることもあるにちがいない。彼らに武器をとって戦うべきだとはいえない。言いたくない。なにをしてあげられるのかと自問するだろう。しかし、この写真や旅行記が、彼らの状況やひとりひとりの人間として生きかたをつたえて、遠くに住む人がそれを知り、思いを分かちあっていてくれる・・・すくなくとも、そう思えることだけでも大きな支えになるだろう。
 たしかなことは、世界中を切り刻んで山分けしようとしたことに対する逃れようのない責任が、西欧先進国にあるということだ。そして、ぼくたちの国家も同じことをしようとした歴史がある。

■追記(2008.11.12)
 松浦さんの2冊目の本が、近々刊行されるそうです。イランのイラク国境近くのクルディスタンを描いたものです。
「クルド人のまち」イランに暮らす国なき民:写真・文 松浦範子/新泉社刊/2300円

投稿者 玉井一匡 : 06:21 PM | コメント (10)

October 27, 2008

iPhoneのGoogle Earthは、まるで飛行機の窓のようだ

iGEframeS.jpgClick to PopuP

iPhone向けのGoogle Earthができたと、MADCONNECTIONのエントリーで見た。しかも無料だという。
以前にダウンロードしたEARTHSCAPEというソフトは有料だったが、開いてみるとあまりに反応が鈍いのを待ちきれなくて、2,3回見たもののぼくはもう開きさえしなくなった。
さっそくiPhone向けのGoogle Earthをダウンロードして開いてみると、すこぶる反応がはやい。データ圧縮の技術がさぞかし優れているのだろう。EARTHSCAPEと較べると、全く使いごこちが違うのだ。もっとも、EARTHSCAPEはGoogle Earthのデータを利用してやっているのだろうから、Googleが自分でつくるソフトと環境を相手にしては、そもそもかなうはずもない。
しかし、このGoogle Earthには、視線の角度を変えるツールがみつからない。
ないはずはないから、あちらこちらさわってみるが変化がない。設定の問題でもない。
これではGoogleマップと同じではないか!どこかに必ずあるはずだ。・・・

iGoogleEarthS.jpgClick to PopuP
 昼飯を食べながら、バルセロナが前半で5点をもぎ取った土曜日のスペインサッカーのビデオを見ていた。
そのうちに、テーブルに置いたiPhoneでバルセロナのスタジアムCAMP NOU:カンプノウを探したくなった。
やはり、地形が立体にならない。と思ってiPhoneを手に取ってかざした。

すると、向こうに山並みが見えるではないか。立体になったのだ。
iPhoneを水平におくと、二次元の航空写真、立てると地平線が見える。
画面を飛行機の窓にしたように、その向きと画面の向きが一致する。
重力感知力という、いまのところiPhoneにしかない能力をしっかり利用している。
すてきなのだ。頭がいいのだ。しかも、おどろくほど反応が早い。
Google Earthでは、見る感覚と操作方法が一致しているからMacよりiPhoneの方が操作性がいい。
バルサのサッカーにもまいってしまったが、ぼくはまたGoogle Earthにも感動してしまった。もちろんiPhoneにもだが。

投稿者 玉井一匡 : 03:41 PM | コメント (6)

September 19, 2008

ナローボートのマリーナ

NarrowboatMarinaS.jpgClick to Jump to GoogleMap

 モールトン屋敷のあたりをGoogleマップで散策を続けると、いろいろなものが見つかる。モールトン屋敷の南側の川沿いの工場はモールトン家の家業のゴム製造工場だったのだろうと秋山さんがコメントされたが、そこから南東に1.5kmほどのところに、水路の一部が膨らんだように寄り添う池がある。モールトン家の前に流れるのはBradford Riverとあるから川だが、これは運河だ。岸の近くに碇泊している細長い船たち。ナローボート(narrow boat)ではないか!
 池には、桟橋に舳先を寄せてたくさんのボートが身を浮かべて、揺れる水に身をまかせてのんびりとしているようだ。サムネイルをクリックすると「Marina at Widbrook Nr Trowbridge」と書かれた写真が見られる。たしかにマリーナなのだ。アンカレッジの水上飛行機たちを思い出した。こういうのを見つけると胸が高鳴りつつ、自分がボートや水上機になったつもりか、のんびりした気分になる。

 このcanalをたどって南西に移動してみてください。こんな仕掛けがある。これは水位の差を調整するためにつくられた「Lock」というものだと知ったのは、kai-wai散策の川と船についてのすてきなエントリーのひとつオックスフォード便り(11)だった。
さらに西に追ってゆくと、運河と川が交差している。 川と道路の上をこえるcanalのための石積の立体交差だ。 

 canalとは、水そのものの利用もしくは船の移動のために人工的につくった水路だとWikipediaには定義されている。これは後者だろうが、産業革命以前につくられたcanalは、鉄道や自動車が発達したのちには、大量輸送の役割を果たすことはなくなったはずだ。にもかかわらずnarrow boatはたのしみのための船として、ここではcanalやlockという仕掛けをしっかりと活かしている。
 この豊かさは、かつてイギリスが世界を経済力で支配していた時代に、外国からすいあげたもので蓄えられたはずだ。アフリカで、インドで清朝中国で、さらに中東諸国で、現在の世界に満ちている争いの多くは、この国をはじめとする西欧の国々がまき散らしたものだ。・・・しかし、その結果として築き上げたものを、この国の人たちや西欧はけっしておろそかに消費してしまうことがないようだ。ヨーロッパの川は、多くの国を経て海にいたるので、勝手にそれをいじるわけにはゆかないということもあるのだろう。ヨーロッパ中に水路のネットワークが巡らされているので、カヌーでヨーロッパをめぐることができるのだという話をきいたことがある。canalは、単独では成り立たない大きなシステムをつくる重要な一部なのだ。miniやモールトンの自転車も、それに道路を加えた大きなネットワークをつくっているのだ。

 それにひきかえぼくたちのくにの近代は、うつくしく豊かな山や川や海を持ちながら、入り江や湾を埋め、わずかな距離を縮めるためとして橋をかけ山を穿ち、あまり必要のないダムをつくり、とりかえしのつかない無駄な土木工事を続けてしまった。さきごろ川辺川のダムの計画を中止するとした熊本県の決断は、方向を変えてくれるのかもしれない。せっかく費用をかけるなら、役に立つことに使えばいいだけのことではないか。

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投稿者 玉井一匡 : 07:50 AM | コメント (8)

September 11, 2008

アレックス・モールトン屋敷

MoultonEmblem.jpgClick to Jump to MoultonSite

 モールトンの自転車の正面についているエンブレムを見ると、「Alex Moulton」の文字の上に立派な館のレリーフがある。これは、自転車を設計したアレックス・モールトン博士のすまいであり、モールトン自転車の本拠地でもある。

 このごろは、とくに外国の小説を読むとき、物語の背景を理解するためにGoogleマップをひらき、舞台として登場する場所を見て想像力を広げるようになった。ディック・フランシスの競馬シリーズの新作を読みはじめたがこの前に読んだときにはまだGoogleマップなんてものは世の中になかったんだなと感慨にひたりつつイングランドの郊外の、競馬の厩舎や馬場がたくさんあるまちニューマーケットを上空から眺めているうちに、アレックスモールトンの屋敷もこんなところにあるのだろうかと思って「Holt Road,Bradford on Avon」と打ち込んで検索した。
 Holt Roadはすぐに見つかったが道路沿いを探してもモールトン屋敷はなかなかみつからない。この道を中心にして捜索の範囲を拡げてあたりを巡っているうちに、航空写真を精一杯拡大してたどっていくと、やっと見つけた。

 三つの切妻が連続した屋根と二つの切妻の連続をつくってそれを直角に交差させるという形式の屋根、テラスのかたち、いずれもモールトンのエンブレムに使われているモールトン屋敷の絵とピッタリ符合する。屋根の影が地面に落ちているのを見れば、エンブレムと同じであることが分かる。工場としては、かつて馬小屋や納屋などに使われていた離れを使っているようだ。かつて、松任谷正隆が司会をするテレビの番組カーグラなんとかというやつでモールトンが紹介されたことがあった。工場では、アムステルダムのオリンピックで優勝したというジイさまが、一本ずつスポークを組み立てていた。

 間違いない。ここがアレックスモールトンの屋敷だ。会社の本社でもあるのだろう。聞きしにまさる、いい家だ。

AlexMoultonPrfile.tiff  アレックス・モールトンに、まだなじみのないかたのために付け加えておこう。モールトン卿は、自転車をつくる前に、あのminiのための独創的なサスペンションを設計して会社を起こし製造した人だ。といっても、曾祖父はグッドイヤーと提携し、家業はゴムにかかわるものの製造を受け継いでいる。モールトンと共同開発した自転車を製造しているのがブリジストンであるのも、ゴムと自転車をつくるという共通項でつながりがあったのかもしれない。(ブリジストン モールトン)

 miniというクルマをつくるにあたって、設計者アレック・イシゴニスはあの小さなボディの中に最大の居住空間と可能な限りの性能を盛り込むための、ありとあらゆる方法をつくした。
 大部分の部品はあたらしく開発するのではなく、既存のものを利用して、そのレイアウトによって最大の居住スペースを捻出したのだ。モーリスマイナーに使われていた既存のエンジンを横に向けておきボンネットを短くした。変速機は、そのエンジンの下に潜り込ませた。FFにしてフロアシャフトをなくし、運転席のドアをえぐって薄くするためにガラスは引き違いにした。座席の背を立てて客室の長さを食わないようにした。だからハンドルは大分上を向いていた。そして、タイアが室内に膨らまないように、あんな小さなタイアをつかった。それは、車体の重心を低くして安定をもたらす結果も生んだ。そういうあたまの使い方が、ぼくは大好きだ。
 小さなタイアは道路のデコボコからの振動を拾いやすい。それを吸収するために円錐形の小さなゴムの塊でつくられたモールトンのサスペンションは、miniの奇跡を実現するために大きな貢献をしたのだ。

 スエズ動乱で運河をつかえず石油はが急騰したときに、モールトンはガソリンのいらない乗り物として自転車をつくり、miniのトランクに入るように小さく分割できる自転車をつくった。楽にタイヤを回せるように小さいタイアをつけた。が、小さな車輪が道路のデコボコを拾いやすいのはクルマとおなじことだ。
 だから、モールトンは自転車にゴムのサスペンションをつけた。

 モールトンの家が聞きしにまさる、いい家だと書いたが、それは、この敷地内の庭や建物がいいということにとどまらない。この屋敷を含めた周りの環境、それをつくりだすシステムがすてきだということなのだということが、Googleマップでこのあたりを散策してみるとわかってくる。

■参照
アレックス・モールトン/Wikipedia
Alex Moulton/英語版 Wikipedia

■関連エントリー
Alex Moulton AM-5/aki's STOCKTAKING
自転車通勤/MyPlace

投稿者 玉井一匡 : 11:19 PM | コメント (5)

August 11, 2008

東京新聞:TOKYOどんぶらこ 中井

SumuTokypTokyoshinb2S.jpgClick to PopuP
 iGaさんが東京新聞の紙面をわざわざスキャンしたのをメール添付で送ってくださった。カフェ杏奴と林芙美子記念館にかかわる記事だった。
落合界隈のなかなか力の入ったイラスト地図と、そこに描かれている店やみどころについて取材した記事「界隈ルポ」、さらに、関川夏央が林芙美子とその住まいについて書いたゴシップ的文章「『庶民』がつくった古里」という三つ。
 このことは、前日に通りかかって立ち話をしたカフェ杏奴のママに聞いていたが、落合のまちのことを掲載するというので取材に来たけれど、その後は連絡がないから、どんなふうに掲載されるのかされないのか分からないということだった。iGaさんが東京新聞の読者だから、こいつは教えなきゃと思っていたところだ。
 あとになって新聞も見せてもらうと、一面をつかってこれらをレイアウトした紙面は、予想以上に充実している。イラストにはカフェ杏奴が大きく描かれているし、カップもLOVEGARDEN製であることが判別できるほどの精度で描かれている。「界隈ルポ」を見れば、店の内部の写真も掲載されているではないか。

Click to PopuP
 関川によれば、林芙美子の死んだときに葬儀委員長をつとめた川端康成は、林芙美子は自身の文学的生命のためにひどいことをしたことがあるが許してやってくれと、通夜の挨拶で言ったという。
ところが、正式の儀式が終わったあとに近所のおかみさんたちが100円の香典をもって続々と弔問に駆けつけて参列者を驚かせたそうだ。文士仲間にどういう迷惑をかけたのかは「出版界、とくに女性作家で、彼女のわがままや意地悪に悩まされなかったものはまれだった」としか書かれていないけれど、文士に嫌われたとしてもおかみさんたちに愛されたのだとすれば、すくなくともその逆よりはずっといいじゃないかとぼくは思う。
 「古里をもたない」と放浪記に書いた林は拘束としての古里から自由だったように、モラルという古里からも自由に生き恋愛をしたが、こうして支持してくれた「庶民」の存在とこの家によって自身の「古里」をつくったと関川は言い、林芙美子がつくりあげた家に見られる「『庶民の力量』にただ感嘆するのみであった。」と続けているが、それは日本がかつて持っていた文化の力であり、その文化は庶民に支えられていたということなのだ。しかし、その力量と眼力はいまやことごとくブランドの吸引力に吸い込まれて、うしなわれてしまおうとしている。

■追記
 この新聞のおかげですてきなことがあったと、杏奴ママが教えてくれた。
 新聞が出たあと、店に女の人から電話がかかってきた。
「店の名からすると鴎外の娘の杏奴と何かのご縁があるんでしょうか」とたずねられた。
かつてぼくが同じ質問をしたときと同じように
鴎外の小説が好きだがとりわけ縁があるわけではないけれど、杏奴という名前が好きなので使わせてもらったと答えたのだろう。
「じつは私の母は鴎外の次女・杏奴なので、新聞を見てご縁があるのかと思い電話をかけてみたくなったのです」
いずれ、いちど店を訪ねてみたいと言って電話を切ったという。
・有名な話だが、森鴎外は自分の子供たちにすべてヨーロッパ風の名前をつけた
 長男・於菟、長女・茉莉、次女・杏奴、次男・不律、三男・類

■関連エントリー
1)カフェ杏奴:こだわりのないということ
2)「住む」夏号・小さな平屋
3)林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館

 

投稿者 玉井一匡 : 01:49 AM | コメント (6)

June 23, 2008

ゲリラガーデニング:Guerrilla Gardening

GuerrillaGardening5S.jpgClick to PopuP
 イギリスにGuerrilla Gardeningという活動をしているやつらがいると聞いた。
近頃ではゲリラという言葉が使われることさえめっきり少なくなったので、ぼくは言葉だけで深い好感と共感をいだいてしまった。昨今、マスコミが反政府ゲリラと呼ぶことも記憶にない。たいていは武装勢力といい、テロリストと呼び、それだけで暴力的で反社会的・犯罪的な存在であるように感じさせようとしている。かつて、ゲバラやカストロやホーチミンのように、ヒーローに使われたことばが犯罪者のためのものに置きかえられるようなった。
 それは、かつてのヒトラーとはちがって権力者の力の行使が巧妙になったからでもあり、直接にはかかわりのない市民を巻き添えにすることに、ゲリラが潔癖でなくなったからでもある。おそらくはマスコミが現在の権力者の流す情報を鵜呑みにするようになった怠慢のせいでもあるんだろう。
では、このゲリラガーデニングとははどういう行為なのか。

GuerrillaGardeningS.jpgClickToJumpToThisSite
 Googleで「Gardening Guerrilla」を検索してみると Guerrilla Gardening.ORGというサイトがある。
イギリスで活動している、すこぶる平和的なゲリラなのだ。放置されている公共用地を、夜陰に乗じて勝手に草を取ったり植栽したりしてしまうという。このサイトには、さまざまな活動(彼らはMissionと呼んでいるようだ)が報告されている。文章に加えて「BEFORE」と「AFTER」の写真もある。もちろん、このサイトからコミュニティへ(Community)への登録申し込み(Enlist)もできる。

 冒頭の「Welcome」は、こんなふうに書かれている。・・・なんといってもゲリラだ。戦闘的な文章にしておいた。
「このブログは、ロンドン周辺でわれらが企てた非合法の造園行為を記録すべく始めたものだ。
だが、それが見る間に拡がり深まりを見せるようになった現在、このサイトは公共空間をないがしろにする怠慢に戦いを挑むための武器庫(arsenal)と化した。のみならず、いまや世界中のゲリラガーデナーの集結する場となった。
 諸君!  同志として誓いをたてこの広場に集い、園芸戦の第一線から届けられる熱い報らせを分かち合おうではないか。」
・・・アーセナルはサッカーのクラブチーム・アーセナルFCが本拠地としているロンドン北部の地名であることは知っていたが、それが「武器庫」を意味することをぼくは知らなかった。
アーセナルのサッカーが攻撃的な人材が豊富なわけだ。

 たとえば、現在のところ一番はじめに書かれているMissionの例を見ると、冒頭に二つのデータがかかれている。行動の形式と場所、決行の年月日だ。
Maintanance Mission : Albert Embankment
Guerrilla Gardening:saturday31May 08
ここでは、ひとつひとつの行動をMissionと呼んでいる。テムズ川をはさんで国会議事堂の向かいの道路にある植え込みが雑草に覆われていて、いずれは植え込みそのものがつぶされてしまうのは必定というありさまだった。時は昼間とあって、役所の工事担当者に見えるようグリーンのつなぎを身につけて草刈りをしたら、すぐに見つけられてしまった。が、さいわいなことに彼女は彼らのシンパだったので、むしろトウモロコシとひまわりの種を寄付してくれることになった。・・・なんてことが書いてある。

 日本でも植え込みの管理をすべき自治体がろくに手入れをしないところがある。そんなことなら、その前に住む住民に依頼して植物の手入れをしてもらうことにすればいいものを、見るにみかねてその前にある店が自分で植栽をしていると、ある日、やってきたひとびとが違法行為であるとして植栽を撤去してしまったと聞いたことがある。ゲリラは、そうですかといって撤去されたら、また植えてしまえばいいのだ。植物はいつのまにか伸びるものだ。
 道路のアスファルトの割れ目、排水溝のコンクリートとアスファルトの隙間に花をつける三時花(サンジカ)なども、植物自身が行うゲリラ戦の一形態だとぼくは思う。
ゲリラ活動をまじめに考えれば、植えた植物のその後の手入れはどうするのだ、やたらにはびこるような植物はまずいだろう、なんてことも心配しなければならないところはあるが、こいつは面白い活動だ。国・都道府県・市町村の公共事業は必要か否かに関わりなく、むしろ金を使うこと自体を、隠れたしかし第一の動機としているものが少なくないのは周知の事実だ。それがおよぼすマイナスの効果に戦いを挑み、あちらこちらでまちを気持ちよいものにするためのさまざまな戦い方が、ガーデニングにかぎらず、たくさんあるのではないかと考えさせてくれる。

■参考のために
GuerrillaGardeningBook.jpg「ON GUERRILLA GARDENING」という本がある。Guerrilla Gardening.ORGに紹介されているのをぼくはまだ見てもいないが、副題に「境界なきガーデニングのハンドブック」という副題があって内容は容易に想像される。Guerrilla Gardening.ORGでつくったものだ。

・ゲリラ:Wikipediaによれば、ゲリラの語源はスペイン語だと書かれている。フランス語のGguerreからきているのだとぼくは思っていたのだが。
・レジスタンス:じゃあ、Wikipediaでは「レジスタンス」をどう書いているのだろうかと気になった。電気抵抗などから始まって、「レジスタンス運動」についてはすこぶるあっさり3行ほどですませている。じゃあ、フランス語版ならくわしいだろうと思って、「他の言語」から「Francais」を選んでみたが、「Conflit politique et résistance」は2行にしかならない。英語でもそうなのだ。どういうわけなんだろうか。

投稿者 玉井一匡 : 02:27 AM | コメント (21)

June 02, 2008

カフェ杏奴 の LOVE GARDEN カップ

CafeAnneLGcupS.jpgClick to Jump Kai-Wai散策
カフェ杏奴に行った。
「お砂糖入りのチャイですね」
「もちろん」
しばらくしてLOVEGARDENのカップが登場。デジカメが故障したので携帯電話を取り出す。
「時差ボケ東京をならべますか?」
「いや、チャイをこぼすといけないから、これだけ」
「時差ボケ」は、PHOTOSHOPで追加しよう。
案の定、ソーサーにはチャイがこぼれた。たっぷりとカップに注がれているからでもあり、早く飲みたいばかりにいそいでしまうからでもある。
めずらしくカフェ杏奴は満員に近い盛況で、新しいお客さんがくるたびに「少しお待たせしますが、よろしいですか?」と念を押している。牡丹で名高い薬王院施餓鬼が行われたからだそうだ。
Chinchiko-Papaが先客で、いのうえさん、それにカークさんも現れた。もちろん、この3人は施餓鬼とはなんの関係もない。
masaさんのサイン入りの「時差ボケ東京」が話題の中心なのは言うまでもない。カークさんは「こういうのは、今までになかったよね、木村伊兵衛賞じゃないの」なんて言ってしまった。もし、本当にそうなったらすばらしい。
 ぼくたちが本を脇に置くと、隣のテーブルについていたお客さんが「それ、よろしいですか」とおっしゃるので、どうぞどうぞと手渡した。いのうえさんたちが「先生」とよぶこのひとは、国家の定義によれば「後期高齢者」と呼ばれるだろうが深紅のTシャツを身につけて、1/3ほどの年齢の女のひとと一緒だ。

 興味深げに本を開きながら二人の会話が進んでいるので、しばらくしてぼくは説明を加えてあげたくなってテーブルを移動した。
「メガネがないんでよく見えないけれど、止まっているのはこれだな」
と、ページを開いて指でさしておっしゃる。
「われわれは、こういう風にまちをみているんだなあ」
先生は、masaさんが聞いたら涙を流しそうな反応を返された。お年寄りも子供も、女も男も、面白いと思ってみられる写真。コーヒーを飲み忘れてしまいそうだったから、コーヒー冷えますよと余計なお節介までしてしまった。

 ここはかもめ食堂みたいですねとカークさんに言われて、ぼくははじめてそう気づいた。店の外で記念撮影をしたあと、うれしそうに店に入ってきた若いご婦人の二人連れがあった。ママに話している会話が流れてくる。ふたりは姉妹で、妹さんの名前が「杏奴」なのだが、いままで同じ名前の人に会ったことが一度もないのに、インターネットで「カフェ杏奴」という名を見つけた。それがうれしくて、横浜から来たんですという。ぼくも、初めてこの店に来たときのことを思い出した。
 鹿児島の出身だときいたから「カフェ杏奴のイラストを描いた小野寺さんという人の仲間の『かごしま食楽彩菜』というブログが、鹿児島の食べ物のことを書いていらっしゃるのですが、いつもとてもおいしそうなんですよ」と言ってブログ名のメモを書いてあげた。「ONE DAY」「お江戸から芝朝緑豆」を加えたのは言うまでもない。しまった、「レイコさんの食卓から」だった。

最後に、KARAKARA-FACTORYの野澤さんと杏奴ノオトで交信した。今のノオトはmasaさんが寄付したもので、それまではいわゆる大学ノートだったが、かのモールスキンをプレゼントしたのでちょっと緊張を求められるのだろうか、だれもが丁寧に書くようになったようだ。帰りがけ、中井の駅の近くの花屋でブライダルベールひと鉢が500円というお買い得をレジにもっていったら、日曜ですからこれをサービスといって、店の主が淡い黄色のバラを5本くれた。バラの方がずっと高そうだ。といっても、あるじは見目麗しい女主人ではない。むしろむさ苦しい男子だったと言わねばならない。


■カークさん(山田馨さん)の写真展が開かれます
 カークさんは、4月にカフェ杏奴で開かれたioraのライブの写真をいのうえさんに届けるため、この日、杏奴にいらしたのでした。
上にもリンクしてありますが、カークさんのブログを開くと、どんな写真を撮っていらっしゃるか見ることができます。
 ・期 間 :6月30日から7月5日まで(日曜休館)
 ・会 場 :銀座のギャラリー「ツープラス」/ここは、以前にneonさんの個展も開かれたところです。
 ・ウェブサイト:詳しくはこちらをお開きください

■関連エントリー
「ONE DAY」:つながるつながる・ひろがるひろがる「レイコさんの食卓」

投稿者 玉井一匡 : 07:49 AM | コメント (33)

May 23, 2008

来た来た・・・「時差ボケ東京」だって

JisabokeTokyo.jpgClick to Jump 「時差ボケ東京」/村田賢比古/3,600円
ずいぶん待たせてくれたが、とうとうmasaさんの写真集ができた。22日の午後にできるときいていたから、どうしたろうと気になっていた。
そういえば、kai-wai散策に何か書いてあるんじゃないかと思って開いてみると、案の定。  出ているではないか。「masa」でなく、「村田賢比古」になっている。

 なにやら仕掛けのある写真なんだと聞いていたが、歩いている人間だけにピントが合っていて、背景も前景も、人間と同じくらいの距離にあるものもボケていて、杉本博司のサヴォア邸のようだ。が、画像の後処理は一切やっていないという。・・・なるほど・・・マネをされる危険を防ぐために、経済的な危険の大きい自費出版に踏み切ったのも納得する。
と、夜半に書きかけているうちに眠ってしまった。

朝になって、寝ボケ眼でもう一度写真を見る。背景から人間たちが湧いて出てきたように見える。どうやって撮ったのか、まだ、ぼくにはわからない。本人に聞こうとも思わない。とても楽しい不思議な写真だが、なぜなのだろう?

エントリーの中で、masaさんは「海馬」について書いている。ぼくたちは外界を見ているとき、意識を向けているものしか見えないし聞こえない、記憶に残らない。ふつうに写真をとったように何もかも公平に見ているわけではない。この本(海馬)には、海馬はぼくたちの脳に入ってくる情報の取捨選択を、つまり情報の編集と加工をするのだということも書かれていた。表紙の写真は、ぼくたちの脳の中を撮ったようなものだ。脳の中を見ているわけだ。

はやく他のページもみたい!品不足を心配しなきゃならないかもしれないぞ、masaさん。コメントを書けないようにしているのもいい。ぼくたち、自分のブログで、急いで書きたくなってしまうから、自動的に同時多発エントリーになってしまうもの。

投稿者 玉井一匡 : 01:50 AM | コメント (4)

April 18, 2008

伊東屋のアイコン:クリップと月球儀

GemClipS.jpgClick to PopuP

 鉛筆、消しゴム、パステル、定規、ハサミ・・・たくさんの種類の文具がMacの中に置き換えられるようになって二十有余年。そうしてMacを愛しているにもかかわらず、ぼくたちは自分の手で書いたり切ったりする道具のことを大好きだと、いまも想いつづけている。そういう時代にあって文具をあつかう店の「看板」として何を選ぶかというのは、当事者にとってはなかなか大変な、はたからすればとても興味深いことだ。伊東屋は、それにジェムクリップを選んだらしいと、つい最近になって気づいた。

 先日、銀座の伊東屋に行ったとき、スワンタッチといっしょに、もうひとつ買ったのが赤い大きなジェムクリップだった。ひとつ350円は、クリップとしてはとても高いかもしれない。しかし、ぼくはネクタイピンとして使おうと思ったから、そう考えればとても安いということになる。かつて、クロムメッキのジェムクリップの大きいやつをタイピンにしていたことがあるのだけれど、ほどよい大きさのやつがない。これでも少し小さいしバネが強すぎるけれど、伊東屋のアイコンでもあるから、間に合わせでやっているとは思わせないところがある。

MoonGlobeS.jpgClick to PopuP
 うちの事務所には小物の文具をいれておく3段の小さな引き出しがある。ぼくはそれを「書く」「切る」「つなぐ」の3種類に分類した。ほんとうはもうひとつ「測る」の引き出しがほしいのだが、測った結果はぼくのメモリーのどこかに書き込むわけだから、それは「書く」に入れることにする。そうすれば、おおかたの文具はこの3つの分類のどれかにおさまるのだ。ふつうのジェムクリップは、「つなぐ」のひきだしに入れてある。
文具屋のアイコンを決めるにあたって、伊東屋は「つなぐ」ということを大切にしたいと考えたのだろう。それは、とてもすてきなことだと思う。しかし、ぼくの個人的な思い出としては月球儀が伊東屋のアイコンで、ぼくを伊東屋につないでくれるのだ。

 ぼくたちの学生だった時代、宇宙船によって月の裏側が見えるようになったので月は大きな関心の対象だった。だからだろう、銀座伊東屋の地球儀を置いてあるコーナーに「月球儀」というのが置かれるようになった。それにはひとつ、地球儀とはちがうところがあった。固定する軸がなくプラスティック製の円筒の上にスイカのように載せられているだけだった。
もちろん、それを手に取って見たのだが、ぼくは手に汗をかく質なので、ツルリと手から離れて地球の引力に負けた。拾い上げると、当然のように大きくひびが入っている。たしか2万円以上だったから、持ち合わせなどあるはずもないけれど、レジの近くに年配の男の人がいたので、それを持っていって謝った。
 すると、「固定していないので気をつけてくださいということを表示していなかったのは私どもの手落ちです。けっこうです。」と言ってくれた。以来、ぼくは伊東屋に恩を感じ続けている。だから、ぼくにとって個人的な伊東屋のアイコンは、いつまでも月球儀なのだ。先日、その置き場を見てみると、あのときと同じコーナーに、やはりプラスティックの低い円筒の台に月球儀は載っていた。しかし、いまでも、落とさないようにという注意書きはない。

 ぼくは一年のうち350日前後をジーンズですごすのだが、それにワイシャツとネクタイといういでたちが好きなのだ。
しかし、扇情的な口紅のような赤い色のクリップは、どのネクタイに合うだろうと考えると、なかなかむずかしい。

投稿者 玉井一匡 : 11:12 AM | コメント (7)

March 30, 2008

「住む。」 春号:「ひと と いえ と まち と」

Sumu2008S.jpgClick to PopuPSumuSpring2008.jpg

 先週末に、「住む。」2008年 春号が届いた。
「住む。」のタイトルは動詞である。丁寧に句点までつけてある。いうまでもないが、動詞をタイトルとして選んだのは、住宅を器そのものでなく、そこに容れられているものの側から、その器とのかかわりを考えるという立場をとろうとしているからだろう。器の中味つまり人間の生活についてなら、建築やデザインについての専門知識がなくても、意識をもって生活する人ならだれでも参加できる。
「住む。」2008年 春号の特集は「収納・自在に考える」だ。器と生活のあいだにあるモノたちといっしょにどう暮らすかということだが、小特集「こどもたちに」の一部として「ひと と いえ と まち と」という絵本形式のものを掲載してくださった。この小特集は、生活と器の間にいるこどもたちと一緒にどう暮らすかということなのかもしれない。
 以前に、ぼくたちは「かきの木通り」という20戸に満たないほどのちいさなまちづくりの計画をした。その土地には、かつて畑や庭と住宅が一軒あった。そこに新しい住人が住むようになってから、今年で4年ほどになる。8戸のいえが生活をはじめた段階で管理組合が発足したときに、ぼくは「かきの木通りのこどもたちへ」という絵本形式のものをつくって、それぞれのいえにお渡しした。いえという器にこもらずに、もっとひろく生活することを考えようということを伝えようとしたのだった。
 「住む。」の「ひと と いえ と まち と」は、その文章の一部を変えてあらたにプロのイラストレーターの手による絵が加えられた。それによって、普遍的な内容を持つ、ずっと素敵な絵本になった。

 かきの木通りでは、法的な拘束力のある制度をつかって具体的なルールをつくり建物などのありかたに制限をもうけた。それぞれのいえは少し制限をうけるところもあるけれど、それによって、まちはむしろ住みごこちがよくなる。まちがよくなれば、めぐりめぐって自分のいえも気持ちよく住むことができる。ちいさなコミュニティのよさのひとつは、たがいによく知っているので、そういうことを実感しやすいことだ。
 とはいえ、自分の外にある規則を守ることを求められると、ぼく自身そうだが、その範囲でできるだけ多くのものを手に入れないと損をするような気分になりがちだ。だとすれば、法的な力のない約束ごとがあれば、かえって自発的にそれに沿った暮らし方をえらぶという気持ちになるのではないか。
 建物の中だけが自分のいえではないし、敷地の中だけが自分の場所ではない、もっとひろく自分の場所があると考えた方が、じつはもっとゆたかに気持ちよく暮らすことができる。そういうまちをつくって育ててゆくということを、このまちに住む子供たちに約束する、という絵本をつくろうと思った。このブログのテーマにしているMyPlaceの考え方を絵本にしたものでもある。「ひと と いえ と まち と」は、aki's STOCKTAKINGに紹介して下さったように、つぎのような章立てで構成されている。
 ・曲がりかどには樹が
 ・小道のすきまには草花が
 ・いえといえの間には
 ・古いレンガの塀
 ・このまちのまわりには
 ・きみのいる場所

 Sumu2006AkiFrt.jpgCnfort2007-10.jpg「住む。」2006年 秋号は「小屋の贅沢」という特集だったので、「小屋新聞」というコーナーの1ページで「タイニー・ハウス」について書いて欲しいと注文された。ぼくは「タイニーハウス・ゲーム」というタイトルで、小さいいえだからこそ素敵なことがあるということを書いたのだが、そのときに編集長の山田さんから「かきの木通りのこどもたちへ」のように子供のために書くという形式にしたらいいのではないかと提案された。「かきの木通りのこどもたちへ」は、住民のためにつくったものだから、それまで、ほかの人には見せたことがなかったのだが、こんなものがあるんだと山田さんにお見せしたことがあったからだ。

 もうひとつ、「コンフォルト」の2007年10月号に、かきの木通りのことを取り上げていただいた。「うちの庭は隣の庭」というタイトルで、こちらは具体的に、かきの木通りの状況を写真で伝えてくださった。
 このごろでは、いなかでも珍しいことだが、天気のいい日には子供たちが外に出てきて歩行者のための遊歩道で遊んでいる。どこかのお父さんがよそのうちのボウズを呼び捨てにしている。ヘビがいたよなんてことを知らせるために、よその子たちが呼び鈴をならしてやってくる。レンガの塀を見て生活したいからといって北向きにいえを建てたひとがいる。まちは、以前からそこにあったモノたちやこどもたちやのおかげで、徐々に自在につながってきているようだ。
 「住む。」と「コンフォルト」という、別の時期に発行された別の雑誌がブログによってひとつにつながって、「かきの木通り」のありかたとMyPlaceという考えかたが分かりやすくなるのだとすれば、これはインターネットらしいことだなと、楽しくなった。

KakiFront.jpg「かきの木通りのこどもたちへ」は、ここに住むおとなたちが、子供たちに気持ちのよいまちを残すことを約束するという形式の絵本だ。「ひと と いえ と まち と」との形式の大きなちがいは、イラストでなく生活をはじめて間もない頃の写真を使っていることだ。それに対応する文章を見開きで向き合わせるというレイアウトで、末尾にあげた7つの項目と見開きのマップで構成されている。「住む。」の「ひと と いえ と まち と」は、実物の本で読んでいただくことができるが、(お買い得の充実号です)「かきの木通りのこどもたちへ」は他に読むすべがないので、目次に見開きのページをリンクさせて、見ることができるようにしました。見なおすとあちらこちらに直したいところもあるのだが、資料としてそのままにしておきます。
 ・大通りの曲がり角には木が立っている
 ・いえのあいだには小道がある
 ・かきの木通りのいえにはには塀がない
 ・かきの木通りのまちにはレンガの塀がある
 ・かきの木通りには鳥たちがやってくる
 ・かきの木通りの西側にはひろい道がある
 ・早通のまわりには海のように田んぼがつづいている
 ・地図
 ・きみたちに誓うこと ・約束
 ・わたしの場所・あなたの場所

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投稿者 玉井一匡 : 05:30 PM | コメント (14)

March 10, 2008

Hopper's Places' Place

AnneHopperS.jpgClick to PopuP
日曜日の閉店間際のカフェ杏奴に寄った。
nOzさんがメールを下さった。「僕らはきのう、杏奴にこっそり本を置いてきました。もちろんママさんには了解を得てあるから、ホントにこっそりではないんだけれど。」というので、その「杏奴でニヤリ作戦」の首尾を、そしてその本を見たかったからだ。平日には営業時間に行くのがなかなか難しくて、土曜日の事務所への行き帰りか日曜日になってしまう。それが、日曜の閉店間際になった。
「いま、いのうえさんがお帰りになったところです」
いのうえさんとはすれ違いが多いのだ。
窓際の席についてMacBookを開いたらつながって、ちゃーんとKARAKARA-factoryが見られる。
「コメントを書いたらnOzさんよろこぶよ」と言ったが
「いままで、休みの時にネットカフェでブログを読むだけで、キーボードで入力できないからコメントも書いたことがないんです」
ぼくがタイピストになって口述筆記で、KARAKARA-factoryにコメントを書きこんだ。
「へーえ、じゃあ今、これをむこうで読めるんですね」
という感動がぼくにも伝染する。

nOzさんのHOPPER'S PLACESという本は、エドワード・ホッパーの絵描いた風景画とそれを描いた場所を同じ視点から撮った写真を並列してあって比較しながら見られるのがとても楽しい。AKIさんも注文して、もう届いたそうだが、ぼくもほしくなってしまった。いのうえさんの本はハードカバーでこれはペーパーバックスの第二版らしい。カフェ杏奴の空気には、ホッパーの描くアメリカの、都会でない風景が合うようだ。
「今とむかし廣重名所江戸百景帖」(暮らしの手帖刊)という本をぼくも持っている。広重の描いた江戸と現在の、といっても今ではもう20年ほど経ってしまいいたのだが、それを見ると東京は、すっかりしかもつまらない方向に変わってしまっている。大都市と小さなまちの違いはあるにしても、大量消費をぼくたちに植え付けたはずのアメリカは、東京とくらべればむかしと変わらない風景を残している。

 杏奴ママが画面をのぞき込んでいるところをMacBookがPHOTO BOOTHで撮った。
「まさかあの写真を載せるんじゃないでしょうね」
「もちろん、のせますよ」と言ったのだが
Photoshopですこし加工しておこう

投稿者 玉井一匡 : 01:00 PM | コメント (6)

February 17, 2008

ラオスの路上で乾杯

LaosKajima1S.jpgClick to PopuP

「写真は昨晩、タクシー運転手やセタパレスの従業員の女性と知り合い、地元の飲み屋でしたたかビアラオを飲みました。ちょうど中国の正月でセタパレスの先の広場では屋台が出て、かなり大きなセレモニーでした。」と、メールにあった。
このところ一日おきくらいに写真入りのメールがラオスから届く。おそらくはじめの一日目だけ日本からホテルに予約を入れておいて、あとは行き先もホテルも乗り物も、気分と様子によってなりゆきにゆだねる。奥さんもいっしょなので日本で余計な心配をする人もいない気ままな旅。
 到着した日の夕方に、もうタクシーの運転手たちとすっかり意気投合してこんなぐあいなのだ。サッカーが得意ならボールひとつあればどこの国に行ってもすぐに仲良くなれるとか、楽器があればたちどころに友達だなんていうが、ビールで乾杯すればもう仲間というのも、呑めない人間にしれみればうらやましい。でも、だれでも持っているものがある。

 ラオスはよさそうなので行ってみたいのだが、どうだろうかと相談を受けた。年末に東京にいらしたときにMacの画面でぼくの撮った写真をお見せして、あれやこれや、ひとは穏やかでメシはうまい、単なる経済指標では貧しい国ということになっているそうだが、むしろゆたかな生活だとぼくは思うというような話をした。それで、やはり行きたいということになった。後日、コンピューターを持って行ったほうがいいだろうかというメールをいただいたので、ぼくはいつも持って行ってメールのチェックをしたりブログに書き込んだり読んだりするんだと返信した。その結果、上の写真のような具合になり、その様子が翌日にはぼくのところに送られてきたというわけだ。

 南国では、どこでも食いものやのテーブルが屋外にまでふくらんでいる。高級な店では、それが庭のテラスであるし、安くて気楽な店では道路であり、メコンに張り出したデッキであるという違いはあれ、食って呑んでという楽しさが、外にこぼれだしているから、通りがかりの人間もそれを分かち合うことができる。もちろん、こういう店にはエアコンなんかないけれど、木蔭がある。そこに、おだやかでひとなつっこいラオスのひとたちがいて盛り上がっていれば、こちらに「おお、やってますね」となかよくする気さえあればいいのだ。それに、こちらはグループではないから、むこうも声をかけてくれる。
 それでも、道ばたの店じゃ店員だって客だって、英語なんか通じないだろうにどうやったんだろうかと気になった。しかし、メールにはセタパレスにつとめる女の人がいたと書いてある。セタパレスというのは、ビエンチャンで一番の高級で気もちのいいホテルだ。そういうところで働いているひとなら、英語くらいは話してくれるだろうし、タクシーの運転手も少しはしゃべってくれるというわけだろう。
 旅の主人公、加嶋さんがはじめの一日だけ予約されたホテルは、そのセタパレスのすぐ近くのDAY INNという、小さくてきもちのいいホテルだ。ぼくは、そのホテルの前で道路の側溝に落ちたことがある。

LaosJiroS.jpgClick to PopuP
 メールには、奥さんがこんなことも書き加えてくださった。「こんにちは。昨日は、マーケットでかえるの唐揚げを食べて、夜は川村さんの事務所近くの飲み屋さんでジロウを食べました。(ラオス名物ジロウをご存知ですか?念のため申しますが、こうろぎです。)どちらもなかなか美味でした。塚原さんには内緒にしてください。でも、それからメコン沿いの屋台でラオスすき焼きを食べました。こちらもおいしかったです!ラオス料理は私たちにとても合いますね。好き勝手ばかりしています。ではまたご報告します。」
 ぼくもカエルは日本で食べたことがあるが、コオロギはまだ食べたことはない。一日目にして、ふたりはラオスを握ってしまったようだ。加嶋さんは長野県の駒ヶ根の住人だから、蜂の子なんぞで鍛えてあって、コオロギごときに臆することがないんだろう。信州もラオスも海がない。虫だって爬虫類だってわけへだてなくうまそうに見えちゃうのもあたりまえだ。もともとそういう厳しい暮らしをしていた人たちのところに、米軍はたくさんの爆弾を落としていった。北爆でラオスに落とされた爆弾はベトナム以上だったと言われている。
ほかの昆虫も食べるそうだが、たいていは唐揚げにするんだという。小エビや沢ガニを唐揚げにするようなものだろう。小型の甲殻類を食べるときの、世界共通の王道なのかもしれない。日本には、佃煮という手がもうひとつあるが。

beerlao-lager.jpgClick to JumP 上の写真の届いた翌日、加嶋夫妻は、もうビエンチャンを出発してルアンパバンに飛んだ。ちょうど旧正月にぶつかったので、DAY INNでは翌日の部屋が取れなかったので行ってしまうことにしたようだ。行きはバスで、帰りは飛行機にするという予定だったが、やはり旧正月とあってバスも混んでいるのだろう、行きは飛行機になったらしい。だから、このメールはルアンパバンから送られた。したたかにビアラオを飲んだというあとでは、さすがにホテルに戻ってメールを書くわけには行かなかったのだろう。
ビアラオとは、ラオスで唯一のビールのブランドの名だ。残念ながらぼくには分からないが、うまいビールだとみんなが言う、メコンに沈む夕日を見ながらのビアラオは格別なんだと。ビールを飲まなくても、メコンに沈む夕日は格別ではある。ビエンチャンのところで、メコンは大きく西に折れているので、対岸というより下流の水面に日が沈んでいく。

 旅がはじまって数日して、ブログに書いてもいいだろうかと書いたら、まったくかまわないと返事をいただいたので、タイムラグのあるエントリーになったけれど、書きたいことが沢山あってきりがない。

■追記 0218'08:今朝届いたメールでジロウの写真が送られてきたので、さっそく写真を追加しました。

投稿者 玉井一匡 : 08:34 AM | コメント (31)

February 11, 2008

オン・ザ・ロード

OnTheRoad.jpg「オン・ザ・ロード」/ジャック・ケルアック著/青山南訳/河出書房新社/2800円

 ぼくは手に汗をかくたちなのですぐに本を汚してしまう。持ち歩くときに表紙が、読む間にはページの下と縦の端がよごれる。だから、読んでいるあいだは表紙の上からもう一枚カバーをかける。単行本は大きさも厚さもまちまちだからA3のコピー用紙をつかう。せっかくなら読んでいる本のデザインを持ってたいから表紙をA3の紙にコピーする。白黒コピーだからその上に色鉛筆で記号のように色を加える。あるいはamazonから取り込んだ表紙の写真をカラーでプリントする。
 「オン・ザ・ロード」の装丁はうつくしい。ターコイズブルーの一歩手前の明るいブルーにタイトルと著者・翻訳者の名前があるだけのシンプルな表紙カバーでつつまれている。さらに藤原新也の写真の腰巻きが加わる。色だけの表紙をきれいにプリントすることはできないからA3の白紙をカバーにしていたが、もの足りなくて外してしまった。

 若者が主人公のこの小説は、かつて「路上」というタイトルだった。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」とともに、学生時代の旧友であるような気がする。高校までぼくは地理という学科がきらいで、地理的な概念というものにもあまり興味をもたず、今にしてみればずいぶん損をしたものだが、そういう地理嫌いをすっかり洗い流してくれた。

 復員兵を支援する制度で大学に行き文学を志す若者サル・パラダイスが、友人ディーン・モリアーティーと一緒に何度も旅に出て、1950年前後のアメリカを縦横無尽に走り回る。ニュージャージー、ニューヨーク、シカゴ、デンバー、サンフランシスコ、ニューオリンズ、メキシコシティ。ドラッグを人間にしたようなディーンと二人で、狂気に駆られるようにクルマにムチを入れ、自分とクルマの限度を超えてもなお酷使する。ときに自分の車、あるいは友人に借りたクルマ、陸送を引き受けたキャディラック、盗んだ車。前に読んだときにはディーンの強烈な毒も元気の素になったが、今度は、おいおい、そこまでやるのかと心配になる。40年近くも経てば、こちらは大人になってしまう。ちなみに、アレン・ギンズバーグが、カーロ・マルクスという名前で登場している。

 その間にぼくたちもいろいろなことが見えるようになった。AKIさんにお借りした「パソコン創世記・第三の神話」を読みはじめると、このON THE ROADについて触れているところがあった。パーソナルコンピューターの草創期は、サル・パラダイスことジャック・ケルアックたちがアメリカ中を走り続けていた頃とちょうど重なっているのだ。可能性の限界までクルマを走らせ、ホーボーや黒人、メキシコ人たちの世界に飛び込むことで日常の枠の外、感性と身体の限界のむこうに何があるかを知ろうとしていたビートジェネレーションの若者は、コンピューターに人間の能力を拡大してくれる能力を夢見る若者と、世界を共有していたのだろう。ボブ・ディランが「ON THE ROAD」から大きな影響を受け、スティーブ・ジョブズがボブ・ディランの大のファンだというのも、そんなつながりがあるのかもしれない。

Click to PopuP この新訳では、巻頭に見開きでアメリカの地図が加えられてずいぶん親切になったのだが、ぼくはもっとくわしい地図を見ながら読むために地図を一枚コピーしてたたみ栞にして、さらにMacでGoogleマップを開いていた。
すいぶん読み進んでから、A3の紙に地図をプリントアウトして表紙カバーにすればいいじゃないかと思いついた。
Googleマップのアメリカが画面の左右いっぱいに入る大きさにしてプリントアウトした。彼らの移動の拠点のひとつデンバーの下に「ON THE ROAD Jack Querouac Tamai Kazoumasa」と打ち込んでぼくの名前もケルアックのようにフランス風のスペルにして、やっと満足すべき表紙カバーができた、と眺めていたら著者のスペルが間違っている。紙ももったいないからもうこれでいいことにした。

 この本の映画化権をF.コッポラが手に入れて、脚本を二度書かせたが気に入らない。で、「モーターサイクルダイアリーズ」の脚本家に依頼しているそうだ。どこをどんなふうに切り取るべきか難しいのだと著者の後書きにあるが、そりゃあそうだろうな。
インターネットの網を、自分たち自身が走り回っているようなものだから、それを2時間ほどのフィルムにまとめるのは容易なことじゃないだろう。

投稿者 玉井一匡 : 02:23 AM | コメント (8)

January 17, 2008

「20km歩き」と「川の地図辞典」

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 前回のエントリーを書いている途中で、なぜか後半部分が消えてしまった。それを書き直すと、ちょっと長くなりすぎたので別にエントリーすることにします。

 次女が小学生のとき、夏休みの宿題に20キロ歩きというのがあった。どこでもいいから20km歩いて、そのレポートを提出するというものだ。何回かに分けて歩いてもいいのだが、ちょうどいい機会だから、ぼくは娘を誘導して近所を流れる妙正寺川づたいに海まで下ることにした。海まで歩いてみたいとは、前から思っていたことだった。町の中を歩くからお弁当ではなくて途中のホットドッグやかき氷などを約束した。小滝橋で神田川に合流して海までいくとおよそ20㎞になる。端数は寄り道して調整すればいい。

 わが家の夏休みの宿題の常として決行は8月も末になったが、たまたま前日にすこぶる強力な台風がやってきた。しかし当日はうって変わって雲ひとつない快晴のうえ、大雨が地盤を傷めたので総武線、中央線は運休、川底は水がさらってくれたので粗大ゴミが転がっているところなどない。おそらく何年に一度あるいは生涯に一度の美しい川のほとりを歩くことができたのだろう。前日より水量が減ったとはいえ、底のコンクリートを感じさせないくらいの深さはあった。
 恥ずかしながら、このときに歩いて、ぼくは神田川と隅田川の合流点が柳橋であることをはじめて知った。自宅の近くに2軒ほど江戸小紋という小さな表札を出している家があるが、それは妙正寺川が近く、布を晒すのに都合がいいからであることもこのときに知った。落合や早稲田のあたりにも染め物にかかわる家がいくつかあったから気づいたことだった。
 柳橋で隅田川沿いに右折して海にゆくはずだったが変更して左折、両国で橋を渡ってほぼ無人の江戸東京博物館をめぐり、浅草に行くと思いがけずその日はサンバカーニバルだったので気前のいい肌の露出にあずかった。稲荷町まで行ってもういちど雷門に戻り20kmを達成して天丼でゴールとなった。

 「川の地図辞典」を開いて、この川下りのあとを辿ってみると、p269-268から→ p87-86→ p101-100→ p23-22→ p39-38→ p123-122の雷門まで、この本の12ページ分にわたるのを確認して、ちょっとした満足を得る。

 このとき僕は川を知りたいと思うよりも、川をひとつの切り口に東京というまちを縦断することによって身体的に実感したいと思っていたのだが、川とまわりの地形は記憶に深く刻みこまれたらしい。その後、事務所を飯田橋に近い神楽坂に移したとき、自転車通勤のルートは自然に川沿いのみちをとることにした。それなら、きっと往きは下り一方にちがいないと思ったからだ。
しかし、走っているうちに川べりの道は歩行者優先や建物が際まであったりすることがわかった。さりとて表通りはクルマが多くて気持ちよく走れない。川からすこし離れて並走する道に落ち着いた。これは、落合から目白を経て江戸川橋につながる高台の足下を蛇行している。だから片側にはいつも高台が控え、そこへ登る坂道と交差する。

 地形が明確であるところ、構成が把握しやすいまちにいるのは、とて気持ちよいものだ。そして、まちには重層する時間や生活が感じられるほど味がある。この本は、地形や町の構成を把握するのに、そして時間を遡るのにも有能な相談相手になる。つまり、まちを気持ちよく面白くするためのいい道具なのだ。
もしも、この20km歩きの時に「川の地図辞典」を持っていたら、ぼくはどうしていただろうと考える。他の川との合流地点や神田上水にも寄り道をしたかもしれない。そして、隅田川に着いてからは、枝分かれする堀を探しただろう。それにあのころは池波正太郎もまだ読んでいない。もう一度、こんどは上流をすこし省略して、椿山荘の足下の水神社あたりから、花見を兼ねたころにでも歩いてみるか。

投稿者 玉井一匡 : 03:27 AM | コメント (18)

January 09, 2008

川の地図辞典 江戸・東京/23区編

KawanoChizujiten.jpg川の地図辞典 江戸・東京/23区編/菅原健二著/之潮(collegio)刊/3,800円+消費税

 現在の東京23区の白地図に川の位置を描きこんだものと、同じ場所の明治初期の地図をとなり合わせのページにならべた地図帳(アニメーションのように素早くページを繰れば残像を利用して比較しやすい)。それに、川ごとの説明が分かりやすく書かれている川の辞典という構成。だから「川の地図辞典」である。現代の地図は、国土地理院の二万五千分の一に、暗渠になったものも含めて川を分かりやすく書き加え、明治の地図は明治10年代の陸軍測量局によるものを使っている。

 ものごとを知るには、まったく逆の二つの方向がある。ひとつは、自分自身が直接に接する具体的な事柄から疑問をいだき、そこから普遍的な原理に至る方法。もうひとつは、まず普遍的な原理を知り、それを物差しにして具体的なものごとを理解してゆく方法だ。
この分け方で言えば、一見したところこの本は二つ目の方法をとっている。ただし、読者はひとつ目の方法をすでに身につけていることを前提にしているから、じつは二つの方法で攻めようというのだ。さらに、Google Earthの併用も考えているのかもしれない。この一冊で、川という要素を主要なツールとして東京23区の地形全体を表現しているのだ。原理を提供し、読者それぞれが具体的な接点を発見し書き加え肉付けしてゆく。
 ぼくは、小世界をポケットにいれるような、こういう本が大好きだ。たとえば日本野鳥図鑑であれば、鳥によって日本の全体を表現する、日本という世界のミニチュアを一冊の本にしてポケットにいれて運ぶことができるわけだ。広辞苑は持ちあるくのにはちょっと重いけれど、ことばという網で掬い上げた日本のミニチュア。つまり、「川の地図事典」は川という網で掬いとった東京都23区のミニチュアなのだ。

この本が、kai-wai散策の1月3日のエントリーで紹介されると、つぎつぎとコメントが増えていき、1月12日,15:46 現在で100を超えた。エントリーの前日、1月2日のkai-wai散策のエントリーへのコメントで、わきたさんがこの本のことを紹介されたことがそもそものはじまりだった。 
発行元・之潮(コレジオ)の代表の芳賀さんは、「川好きotoko」という名でコメントに加わり、つづいて「川好きonna」さんも登場して、ブログと本の世界がつながるべくしてつながった。それをつなげたのは、川とまちを歩くという現実世界での行動であることがとてもすてきなことだ。

追記
下記のブログで「川の地図辞典」についての「同時多発エントリー」をくわだてましたので、まだでしたらお読みください。
■masaさん:kai-wai散策:「川の地図辞典
■わきたけんいちさん :Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」:「『川の地図辞典』(菅原健二/著)
■M.Niijimaさん :Across the Street Sounds:「川の地図辞典
■じんた堂さん:東京クリップ:「フィールドワーク:尾根を行く川
■光代さん:My Favorite Things:「川の地図辞典」
■AKiさん:aki's STOCKTAKING:川の地図辞典
■IGAさん:MADCONNECTION:川の地図辞典-1

投稿者 玉井一匡 : 10:32 AM | コメント (10)

December 18, 2007

ストリートビュー:Googleマップを歩く

StreetViewSmall.jpgClick to Jump to the Street View

 ジャック・ケルアック「オン・ザロード」は、若者たちがクルマを走らせてアメリカ中を縦横無尽に移動する小説なので、地図を見ながら読むとはるかにおもしろい。だから脇にMacBookをおいてGoogleマップを開いた。すると、画面にあたらしいボタンが増えているのに気づいた。「ストリートビュー」と「渋滞状況」だ。これをクリックすると、Googleはまたしてもぼくの期待していた以上のものを提供してくれる。
地図、衛星写真、地形のどのモードでも、「ストリートビュー」のボタンをクリックすると地図の上にカメラのアイコンが出てくる。それが出ている都市で「ストリートビュー」を見られるということだ。

 この左上の小さな写真(これは、あえて間違ったDakota Houseのままにしてあります)をクリックすると、ところはニューヨーク。セントラルパークウェスト沿いのストリートビューに、かつてジョン・レノン家族が住みジョンが玄関の前で殺された「the Dakota」が見える。
はじめ、ぼくはこの通りのもう少し北のところにあるDakota Houseがジョン・レノン終焉の地だと思ってそこをリンクさせていた。ところが、漂泊のブロガーいのうえさんが、こんなメールをくださった。
「Aのダコタ・ハウスはジョン・レノンとは関係なく Iの ザ・ダコタ(1W 72nd St)が 彼の住居だと思います。いやあ まぎらわしいというかわかりにくいですねえ。1980年の12月はNYに住んで最初に迎えた冬。煌めくばかりのロックフェラーセンターとは裏腹に事件直後は深い悲しみに街が浸されました。」
とあったので、この通りを少し南に下ったところにあるThe Dakotaのストリートビューに跳ぶように変えた。

 ストリートビューの矢印をクリックすればその方向に進み、画面をドラッグすれば左右に方向を変える、そうやってぼくたちは自在に道を移動することができるのだ。

 ぼくは知らなかったけれど、インターネットで調べてみると、アメリカでは5月頃から見られたらしい。もしかすると、日本でももうとっくに見られたのかもしれない。ストリートビューは、こういうカメラで写真を撮ったのだそうだ。

  *  *  *  *
はじめからやるなら、つぎのような手順だ

・Googleマップを開く
・「ストリートビュー」のボタンをクリックする
・カメラのアイコンのある都市を選ぶ
・「ズームイン」すると、こけし型の人間のアイコンが一人立っている
・これをドラッグして行きたい場所に下ろす。Clickすると、そこに立って見る街路の写真が出てくる。(移動する間、このこけし型アイコンの脚は、空を飛んで風になびくようになる)
・画面をドラッグすれば前進後退も自由自在。右折左折もできる。ちょっとなら上を見あげることもできる
・矢印のアイコンをクリックすればその方向に少しずつ移動する。押し続ければ、ずーっと進み続ける。そのとき、地図も一緒にスクロールして、その上をこけしアイコンが移動していく
・「全画面表示」をClickすると、ディスプレイいっぱいに「ストリートビュー」が広がる

これができるのは、現在はアメリカの主要都市だけだが、すぐに世界中に広がるだろう。
そのつぎには、きっと建物の中に入っていけるようになるにちがいない。
まだまだGoogleはおもしろい。

*追記
 wikipediaで調べると、ジョンのすまいはダコタハウスではなく「ザ・ダコタ」The Dakotaだったことがわかる。バーチャルお上りさんたるぼくは、「ダコタハウス」でジョンが殺されたとばかり思い込んでいた。はずかしい!
いのうえさん、ありがとうございました。
いのうえさんは、かつてアメリカ勤務の時代にマンハッタンとニュージャージーのリッジウッドというまちに住んでいらしたことがあって、それについてメールをくださったことがある。そのときにぼくはアメリカ再読というエントリーをした。

*蛇足
 ジョン・レノンが殺されたのはアメリカ時間で12月8日、日本時間の12月8日は真珠湾攻撃が『成功」した日だ。しかし、アメリカ時間でいえば「Remember Pearl Harbour !」は12月7日。ぼくの誕生日は、もちろん日本時間で12月7日なのだ。遠回りの連想ゲームで、自分の誕生日の日付は真珠湾とジョンの死にリンクされている。

投稿者 玉井一匡 : 12:25 PM | コメント (18)

November 25, 2007

アンカレッジ空港の水上機

Click to FlyToAirport

 飛行艇の写真を載せて坂本宏明さんのラジコン飛行艇を紹介したAKiさんのエントリーを見て思い出したことがある。
Google Earthでアンカレッジ空港に行ってみると、その北東の一部あるいは北東のとなりに、面白いものがあると、いつだったか本間さんが教えてくれた。ナスカの地上絵のハチドリような複雑な形をした池があるのだ。この地図をクローズアップしてみると、さまざまな色をしたちいさな飛行機たちが池の周囲に羽を休めているのが見える。水面を飛び立とうとしているやつもいて、いまにも動き出しそうだ。ハチドリの翼のでこぼこのかたちは、水上飛行機のための桟橋のようなものらしい。
Google Earthなら 、61°10'46.44"N 149°58'26.67"W

「紅の翼」でポルコロッソが水上飛行機を着水させていたのは、海に面する小さな漁港のような湾だったと記憶しているけれど、水上機にしてみれば海よりも池の方が波もないから離着水しやすいだろうし、塩分で機体を傷めることも少ない。たしかに、こういう水面の方が水上飛行機には向いている。映画「インソムニア」でアル・パチーノが舞い降りたのも湖だったように思う。大きな水面は、均す必要も雑草を刈る必要もない天然の滑走路なのだと、あらためて気づいた。
AKiさんのエントリーを読むと、飛行艇ということばと水上飛行機ということばが書かれているのだが、どうちがうのだろう。と、思ってwikipediaを開いてみると、さすがに丁寧な説明がある。胴体で直接に水に浮かぶやつを飛行艇、フロートのついているのをフロート水上機といい、それを総称して水上飛行機というのだそうだ。ポルコロッソが乗っていたのはフロート水上機というのだ。(ぼくの記憶をたよりにこう書いたら、コメントでAKiさんが間違いを指摘してくださったので、最後に追記しました。)

英語版のwikipediaには、もっと説明がくわしい。飛行艇はflying boat、フロート機は float planeというようだ。Air Boat, Sea Plane, Amphibious Plane なんていうことばもある。Amphibianが両生類。Amphibiousはクルマで言えば水陸両用車、水上機の場合には車輪が出てきて地上でも離着陸できるやつのことだそうだ。しかし、飛行機にしてみれば車輪を胴体にしまい込むのはふつうのことだから、飛行艇は大部分がAmphibiousなのだろう。

たいていの少年は乗り物が大すきだ。それは、別の世界やべつの場所に行けるからだが、それにもまして、別の世界や状態に移るということそのものがすきなんだ。Amphibiousの飛行機は、水と陸と空という三つの世界を移動するのだから、少年にとっては、たまらない憧れののりものであるのはあたりまえだね。

*追記
秋山さんの指摘によれば「ポルコロッソが乗っているのが飛行艇で、敵役のカーチスがフロート水上機」が正解だそうだ。眠気にまけておこたってしまった裏付け検索をすると、紅の豚の水上機のプラモデルと、そのパッケージの写真があった。なるほど、翼のためのフロートはあるが、機体の本体が直かに水に浮いている。

投稿者 玉井一匡 : 01:34 PM | コメント (4)

October 04, 2007

Z-1グランプリ:直線109m雑巾がけレース

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先日の朝、NHKのテレビを見ていると、かつて朝ドラの主役を演じていた女優が木造の小学校の教室前とおぼしき廊下で雑巾がけをしていた。ひたすら長い一直線の廊下を全力疾走の雑巾がけの半ばにして彼女は力を失って転倒した。あれくらいのことでと、ぼくはその挫折を嗤っていたが、聞けばその廊下は全長109m。ただ走るだけでも僕は息絶えるかもしれないと、すぐさまみずからの軽率を恥じた。
 廊下は1間ほどの幅で、それと同じ長さの土間が、やはり1間の幅で建物の端から端まで続いている。引き違いのガラス戸が教室の両端にあって、その間は腰壁のうえにガラス入りの引き戸。廊下からは、そのガラス越しに教室の中が見える。教室から廊下が見えるという、かつての小学校の廊下の王道だ。それがひたすら一直線だから、登下校時には廊下にあふれる子供たちの豊穣を一望にすることができたのだ。
1.82×60=109.2。尺貫法でいえば60間だ。ひとクラス5間ずつの教室が一学年2教室ずつで、合計12教室がならぶということなのだろう。

 かつて宇和町小学校だった建物が、いまでは移築されて「宇和米博物館」(愛媛県西予市宇和町卯之町二丁目24番地)となっているのだという。このサイトには内外を360°回転して見られる写真があって、廊下の様子がよくわかる。GoogleMapで見れば、山を背後に控えたひたすら一直線がいかにも潔い。
蓮華王院三十三間堂の2倍もあろうかという長さ、サッカーのゴールからゴールまで走るより少し長い。

この廊下を使ったすてきな催しがある。
今年は10月14日に決勝が行われるZ-1グランプリ。Zは、いうまでもなく雑巾の頭文字だ。109mの雑巾がけのタイムレースで、参加者には専用の雑巾と膝当てが支給され、小学生以下・一般シングルスの男女・それにダブルスという4種目。
 賞品として米が贈られるのは、現在の建物の用途からして当然。協賛にはラジオ・テレビの放送局の他にダスキンが名を連ねている。

 これまでの最高記録を聞いて唖然とした。・・・・・18秒38。ただ走るだけでも、ぼくは完走できないかもしれない。この記録は遠く及ばないだろう。レースの様子を記録したビデオがないかと探してみたら、これがみつかった。ふたりずつでこんな具合に行われるのだ。(movie)
ここに行けば、いつでも雑巾がけをすることができるらしい。価値の数量化を、ぼくは気に入らないことが多いけれど、誰もがここでやって時間を計ってみれば、たちどころにZ-1レースの一部を共有する参加者になれる。
記録保持者とこの企画を考えたひとを、ぼくは尊敬したい。

投稿者 玉井一匡 : 11:13 PM | コメント (9)

September 24, 2007

ioraのライブを カフェ杏奴で

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もう一昨日の夜、またしても一斉エントリーに乗り遅れた。
通常の営業をとりやめて、カフェ杏奴でiora(アイオラ)のライブが開かれるドアを開けると、ぼくの顔見知りの一団は、すでに中二階の天井桟敷を占めていた。小学校から高校まで、学校の遠足などでバス移動するときには、いつもなぜか最後尾の席に陣取っていた。
演奏を生で聴くこともデュオの二人に会うことも初めてのことだったが、ぼくは杏奴においてあったCDを1年ほど前に買って聴いていたから音楽は知っているつもりだった。が、ききはじめるとギターの助っ人がひとり加わっただけで電気の力は何も借りていないのに、演奏はCDとは比べようもないくらい厚みと力があって心をさわがす。
どこからも見えるように聴けるようにするために選んだ結果、ステージは入り口のすぐ脇にある。ギンレイ会館地下のポルノ映画館「くらら劇場」の、スクリーンのすぐ横から客が入ってくるという非常識を思い出した。
外を走る車たちがひっきりなしに背景を横切る。ガラス越しに歩行者がのぞき込む。
こういう夾雑物が、演奏のためにつくられた場所にはないたのしさを増幅する。
ioraの音楽は、カフェ杏奴のありかたと近いところにあるのだ。
毎日のように、ここにやってきては作詞をしているそうだから、それも当たり前なのかもしれない。

「今日は、かなり年齢の上のかたもいらっしゃるので、カバー曲を歌います。」と、われわれに配慮をしめして歌ってくれた久保田早紀の「異邦人」を聴いて、彼らの音楽の方向が分かるような気がした。
市場、ざわめき、移動。

アンコールの2曲目、最後の最後に杏奴のママに一曲が贈られた。 「カフェ杏奴」
こんな歌詞ではじまる曲は、シンプルなメロディの繰り返しと、おだやかに漂うような間奏がここちよい。
歌詞に描かれる店の様子とそれぞれの記憶を重ねあわせて、共感の笑いがこぼれる。
思いがけぬ贈り物に涙ぐんでいるママの様子も伝染した。

11時を過ぎた頃に
少し早めのランチタイム
おてんとさまとご一緒に
カフェ杏奴にでかけましょう
カランコロンとドアベルが
鳴ればママさんお出迎え
好きなお席にどうぞどうぞ
地下と1階、中二階
カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴、カフェ杏奴
詩:Momo/iora

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ioraの女声ヴォーカル、「桃ちゃん」には、もうひとつ特筆すべき特技がある。フェルトでいろんなもののミニチュアをつくってしまう。写真は、箱に入ったピザ、直径2cmくらいのサイズにトッピングはきっとサラミだろう。ピザケースの右下にはグリーンの瓶にはいったタバスコもある。切り取った一切れは、チーズが溶けてすこしこぼれようとしているのだろう、台よりもすこし大きい。芸がこまかい。こういうミニチュアが、杏奴の店のあちらこちらにたくさんおいてある。

じつは演奏の間ずっと、ぼくは音楽と胃袋の誘惑に引き裂かれていた。いや、両方の誘惑に身を委ねていたというべきかもしれない。小野寺さんから、少し遅れそうだという電話があったときいてわれわれが浅ましくも期待したとおり、両手にたくさんの料理を抱えて彼女は演奏開始直後に到着していた。そのメニューは、小野寺さんのブログに書かれているが、手作りの塩玉子の月をいれた手づくりの月餅を初めてごちそうになった。そこに写真のない酔鶏(酔っぱらい鶏)、それに椎茸のエビ餡詰めの写真を、ちょっとピンぼけだがぼくの記憶のために加えておきたい。

投稿者 玉井一匡 : 09:16 AM | コメント (8)

September 15, 2007

違うものがたくさん:Psalmライブ 新潟

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 玄関にたくさんの履物が雑然と脱ぎ散らかされている様子が、ぼくは好きらしい。
だからといって、整然としているのがきらいではないし、散らかっている玄関ならどれでもいいというわけではない。人間の生き生きしているざわめきのようなものが残されているのが感じられるのだろう。同じものはひとつもない履物たちがたくさん、さまざまに並んでいる。一組ずつは同じ方向を向いているから、そのひと組ずつが露天で、玄関が市場であるかのようだ。

 8月28日午後6:30平日の雨上がり、母の住む新潟のいえでPsalm(サーム)のライブをひらいた。 家は、50年と少し経った古い家を縮小、曵き家で屋敷林の中に移動して改造した。8畳の正方形が三つL型をなしてならんでいるから、その間の襖を外すとのひとつづきのスペースになる。さらに障子をとりはらえば両側の廊下も、さらに雨に洗われた樹々のみどりも硝子越しに続いて、なかなかすてきなライブスペースに姿を変えた。

  Psalmは25弦の箏とヴォーカル、かりん夕海。子供たちの多くは箏という楽器そのものを目にするのが初めてだし、舞台の高さのない同じ畳の上にいるから、目の前の演奏に少しずつにじり寄っていく。暗くなり始めたしずけさにかすかな弦の響きが浮かぶ中を、歩き始めたばかりのチビが、みんなの前をことばにならない音声をあげながらトコトコと歩いて横断したりする。それも音楽のひとつとして取り込もうとしていた。仕事を終えたご近所の家族、たまたま昼間に立ち寄ってこのことを知った夫妻が母上を伴って、また夜に再訪、前日に娘を連れてアメリカから帰ってきていたぼくの妹、その友人夫妻と多彩な顔ぶれになった。祖母のご近所の方々に、日頃の感謝のしるしに開きたいと夕海が言い出して、となりの杉山さんが広報役を買って出てくださった。そんな具合で、とてもいいライブになった。 (photo by masa)

 Psalmのふたりは、8月15日から北海道の二風谷から天草まで、かりんの運転するステップワゴンを駆って日本を縦断するツアーの途上にある。ライブと、ところによっては映画「もんしぇん」を上映する。
ポリネシアの先住民は空の星を読む伝統航海術を駆使して太平洋を自在にわたった。その航海術と血を受け継ぐ冒険家、ハワイのナイノア・トンプソンとそのチームが、ホクレアという双胴の帆船で世界を一周する航海をしていた。STAR NAVIGATIONというその航海のことを読んで、夕海はツアーをやりたいと思い立った。日本を縦断しながらそれぞれの場所で「うたになろうとしているもの」を見つけ、うたを作りながらライブをしてゆく。そしてそれをリアルタイムにウェブサイトに公開してゆくことでひろく共有する、というのだ。計画は、かなり壮大なものも立てたけれど、現実的なところに落ち着いて、ふたりの発掘とうたづくりと演奏の旅は、いま、その途上にある。
このツアーのために新しい曲をつくり、費用を捻出するためにそのうちの数曲を選んでCDをつくった。
多くの仲間が、仕事の時間の合間や深夜をやりくりして音やデザインやサイトをつくり、思いにすぎなかったものを現実につくりあげた。そうやってこのツアーのサイトPsalm-PsalmやCDができた。サイトの音もデザインも、とても美しい。ただ、サイトの更新が、なかなか人間の移動に追いつかないので、masaさんの写真は一枚だけひと足先にこちらでエントリーしました。

関連サイト
*kai-wai散策:Psalm ライブ@新潟
*Aross the Street Sound:Star Navigation(8)(kai-wai散策の常連のNiijima さんはStar NavigationとPsalmに興味をもち、これまでに何度もエントリーしてくださった)
*mF247:CDの中の一曲「時間を乗せた船」がダウンロードできます。一時総合ランキングで2位になりました。

投稿者 玉井一匡 : 03:03 AM | コメント (13)

July 19, 2007

ヤマカガシ(じつはアオダイショウのチビ)


新潟の、母の家で玄関のチャイムがなった。
「おっ、どうした」ちいさなお客さんだった。
「玉井さん、うちにヘビがいた」
「へえ、つかまえて食うか」
「森に放すんだよ」なんて、いいことをいう。
行ってみると、その子のうちの玄関ポーチの隅に小さなやつが丸まっている。
捕虫網のフレームの一部を直角に曲げて、角に押し付けてその中に追い込もうとしても、頑固に丸まって動こうとしない。網の棒でつつくと、口を開いて一人前に威嚇する。
やがて、5、6センチの球体から40cmほどの長さの曲線に姿を変えて移動して出てきたので、首の後ろをつかまえた。

Yamakagashi1.2.jpg「ほら、よく見るとかわいい顔をしてるよ」
ぼくの左手に巻き付くやつを見せると、子供たちの表情がもっとかわいい。
好奇心とちょっとこわいのとの混じりあいだ。
「さわってごらん」
手を伸ばして、そっと触れる。
「・・・・・・」ことばにならない。
「ヘビと記念写真をとろう」というと、ふたりにはちょっと安堵の表情が浮かんだ。
「さて、逃がしてやろうか」小さな「森」の中に放してやると、するすると草の下をすべってゆく。子供たちにとっては小さな冒険、ヘビにとってこれまでの生涯一番の恐怖の時が終わった。お母さんたちによれば子供たちのお父さんは二人とも、朝に起きた柏崎の地震のために休日の途中で急遽出勤になったという。

 ヤマカガシは、ぼくたちが子供の頃には毒のないヘビだと言われていたのだが、このごろでは毒ヘビとされている。やたらにヘビを怖がるなよと伝えたくて子供たちに触わらせたりしたけれど、そのことを言わなかったなと思い、googleで調べた。
wikipediaによれば、かつて毒がないと思われていたわけは、ヤマカガシは口の奥の歯が毒を出すために、口の中に指を入れたりしないとそれにやられないからで、しかも、ヤマカガシは臆病だからマムシとは違ってむこうから襲うことがない、しかし、毒はなかなか強いのだという。こどもたちに、もうちょっと説明しいなくちゃあならないと思った。

■追記
コメントに「通りすがり」さんからコメントをいただいた。
こいつは、ヤマカガシではなくアオダイショウのチビだということが分かりました。つまり、毒ヘビではないということで、ひと安心。
アオダイショウの幼蛇の写真はここ
ヤマカガシの写真はここ

投稿者 玉井一匡 : 08:23 AM | コメント (16)

July 02, 2007

サヴォア邸 / Villa Savoye


サヴォア邸/写真 宮本和義/文 山名善之/発行 バナナブックス
 バナナブックスから、ラ・トゥーレットにつづいてコルビュジェのサヴォア邸が出た。現代の文化や思想もデザインも、大部分が、このサヴォア邸のつくられた1920〜30年頃の豊穣な時代に生み出されたものをもとにして、以後は、それを洗練させているか、悪く言えばその時代の蓄積を食いつぶしているのだなと思うことがある。建築もその例にもれず、現代のヴォキャブラリーの大部分はコルビュジェの中にあるのではないかと思うが、サヴォア邸にはとりわけその重要なものがある。その意味では、サヴォア邸がコルビュジェのデザインの箱詰めであるように、この本はコルビュジェのデザインの詩集のようなものなのかもしれない。

 もう何十年も前から知っている住宅でありながら、この本を見て読んで、ぼくにはまだ3つの発見があった。 ひとつ目、この住宅の主はこんな大きないえに住む人でありながら、運転手ではなく自分でハンドルを握ることを大切にしていたらしいこと。2つ目はコルビュジェにとって「屋上庭園」というのは大地から持ち上げたものではなくて天から降りてきたものであったらしいこと。3番目に、このいえは住む機械であるとしても草原で草を食む牛のようにふるまう動物だったらしいということだ。電気羊でなく、時計仕掛けの雌牛だろうか。

 1つ目:クルマがピロティの中で方向転換しやすいように一階をU字型にしたことは、平面図を見れば一目瞭然だ。運転手が玄関前でサヴォア氏をおろしたあとでガレージにクルマを入れるのだろうと、なんとなくぼくは思いこんでいた。このピロティにはクルマから見て家の右端から入ってゆき、左回りにまわってもとに戻ることはガレージのクルマの置き方からもわかるし、解説にもそう書いてある。(平面図の、玄関前の車路にいるクルマと、移動方向を示す矢印はぼくが書き込んだ)
 方向を左に90度変えると、クルマの左に玄関ドアがある。運転者がすわるのは左だから、もしも後ろの座席にサヴォア氏がいるなら彼は右側、玄関の反対側にいる。すると、運転手がドアを開けにくるのを待ち、彼が外にでると玄関と自分の間にはクルマがあるということになるが、それはちょっとありえない。
むしろ、サヴォア氏は自分で運転しいえに近い側の座席にすわってピロティの空間の変化を楽しんだあとにクルマを玄関前に置いてすぐ前にある玄関ドアを開いて家に入っていく。あるいはガレージにクルマを入れて、脇のドアからスロープの下からホールの中に入ったのだろう。
1階には使用人の個室が2つとゲストルームがある。当初の計画では、このゲストルームは運転手の住まいだったと解説にもある。自動車と住人のこの関係は、サヴォア氏自身の望んだことだったのだろう。さらにそれは、コルビュジェにとっても歓迎すべきことだったろう。

 2つ目:フランス語のコルビジェ作品集を持っていながら、これまでぼくは気づかなかったことだが、「屋上庭園」とよばれるものは、フランス語では「jardin suspendu」というのだとこの本に書かれている。直訳すれば「吊り庭園」。だとすれば、それは地表を持ち上げたものではなくて天から吊り下げられた庭園なのだ。建物を支える柱は大地から生えているのではなく、むしろ飛行機の車輪のように上から下ろした脚であり、スロープは飛行機のタラップのように下ろされたものなのかもしれない。この庭を包み込んだ住宅は、地上を離れたのではなく、地上に舞い降りたのだ。ここは、パリからクルマで30分、背後にセーヌを見下ろす高台、天から舞い降りるには相応しい台地だ。(google Earth/N48°55′26.47″)

 3つ目:完成後にコルビュジェがアルゼンチンで講演した時に描いたというスケッチがある。それは、樹木の枝にサヴォア邸が実のようになっているようにも見えるし、牧畜のさかんなアルゼンチンのことだから、これは草原で草を食む牛たちも思わせる。「住むための機械」は、無機的で巨大かつ排他的な機械的生物ではなくて、同時に生物的なメカニズムの世界なのだ。しかも、排他的な土地の所有権を主張する所有形式でなく地表を共用する遊牧的な土地の所有形式をこころざしていたのだと、ぼくは読み取りたい。

 20年以上も前にぼくがサヴォア邸を見に行った時には、改修ができていなかったから建物の中に入ることができなかった。にもかかわらず道路の近くに門番小屋はあるが門も塀もなくて、敷地のなかには自由に入ることができたから、ぼくはガラスに顔と両手を押し付けるようにして住宅の中を見た。道路と敷地のあいだは、プライバシーの密度を段階的に変えながら連続しているのだ。
 ちょうど昨日のことだが、成城の古いすてきな家に住む友人のお宅にうかがった。小さな頃からそこで育ったその人の子供時代の、興味深い話をきいた。
 幼稚園のころ、近くに、小さな山が庭にあるうちがあって、その奥にはいったい何があるのかを知りたくて仕方なかったという。塀があるわけでもないから中に入ってゆくこともできたのだが、それはいけないことであると思っていた。ともだちに話すと、行ってみようよという。意を決して、ふたりは探検に乗り込んだ。その家は、1階がピロティになっていて玄関だけがあったはずだ。やがてその家のご夫妻が降りていらしたので、少女はそこに探検に来たわけを一生懸命に話した。そこの主は彼女の話を聞いたあとで二人にお菓子を手渡して、気をつけてお帰りなさいと言ってくれたというのだった。そこは、ほかでもない、丹下健三の住まいだった。
 モダニズム建築の継承者たる丹下にとって、この住宅がサヴォア邸と無関係ではありえなかったはずだ。彼にとっても本来、ピロティは自由に開放された空間であってほしかったにちがいない。さりとて、日本、東京の住宅地という現実の中に置かれた庭の中は、アルゼンチンのスケッチのように自由に出入りするという空間ではない。が、幼いこどもたちがおそらくは手に手をとり勇気をふりしぼってやってくるという微笑ましい振舞いは、きっと丹下にとってみれば、この家とまちとの、いちばんうれしいありかた関わりかたのひとつだったろう。お菓子は、彼女たちの訪問への感謝のしるしだったのだ。
この住宅は丹下のしごとの中でも屈指のものだとぼくは思う。にもかかわらず、これはすでにない。

関連エントリー: aki'sSTOCKTAKING/Villa Savoye

投稿者 玉井一匡 : 03:34 PM | コメント (6)

June 23, 2007

平底船:ナローボート

 いま、masaさんがオクスフォードに滞在して興味深いイギリス便りが送られてくる。その中に、ボートの浮かぶ水路の写真があった。ぼくはイギリスにはたった一度しか行ったことがないけれど、推理小説を読んでいると、水路とそこを行き来する船の描写に出会うことが少なくない。船は平底船という名で書かれている。masaさんの写真は、小説で思い浮かべていた通りの風景だ。
 推理小説では先を急ぐ勢いに負けてしまうから、いくつかの疑問を抱きながらぼくは何も調べないままに通り過ぎて読み続けていた。たとえば船が人力で動いた時代には、水路を上る時は両側の土手の上を人間や馬がロープで引っ張るのだったと思うが、橋と交差するところはどうしたんだろうかという疑問は小説の中に残したままだった。

 masaさんの写真は、その疑問に対する答えのひとつを示してくれた。橋がはね上がるのだ。もうひとつ、土手の上を人が通れるほどの高さの橋をつくるという手もあるはずだ。インタネットで調べてみると、平底船は英語ではnarrow boatというらしいと知ってwikipediaを開いてみた。川が浅いので船の底を平らにしているのだろうと思っていたが、水路が狭いので船の巾を小さくしているということなのだろう。たしかに、水路を人工的につくるなら巾を小さくして、深さで水量を調節する方がつくりやすいにちがいない。橋も短くてすむし、両岸の距離が近いから、心理的にも川が分断することもない。
 スエーデン出身でイギリスで仕事の多かった建築家ラルフ・アースキンが平底船を事務所に改造して製図板を並べていた写真を見て、とてもうらやましく思ったことがある。その船の事務所にあった美しい階段については、AKiさんのブログで「水無瀬の町家」というエントリーで言及されている。かなしいことに日本の都市の川に係留されている船たちが粗大ゴミと化しているさまをぼくは思い浮かべてしまうから、アースキンの事務所も動かない船だろうと思っていた。narrow boatの大方は観光のために動いているのだと思いつつさらに探してみると、ちゃーんとボートの売買のサイトの一部をnarrow boatのカテゴリーが占めているのだ。長さ60ft前後、巾7ftくらいの大きさが大部分で、価格は40,000から80,00ポンド(今日は247円/1ポンド)ほどで売りに出ているものが多い。たとえば冒頭の写真の船は45,000ポンド、このサイトには船の内部やエンジンの写真も用意されている。これを見れば、ボートのおおよそは分かってきた。ここで生活している人もいることだろう。うらやましいことだ。

 ぼくたちの日本では、都市の川の多くは暗渠に埋葬してしまい、その亡骸の上を勝者たるクルマたちが行き来している。川として都市に残されているとしてもコンクリート三面張りの索漠たるものだし、アルミ製の不細工な手すりが胸の高さまでふさいでいる。農村地帯でさえ両岸をコンクリートや鉄板の壁で支える情けないありさまだ。それにひきかえオクスフォードの写真をみれば雍壁はレンガで橋は木製のままで使われている。
 こうした豊かなイギリスのインフラストラクチャーは、アフリカやアジアやアラビアそしてインド、中国でも、そこに長い間生きて来た人たちの犠牲のもとにつくりだした財産をイングランドの島に注ぎ込んだおかげであることは、どうしたってぼくたちの頭と心の中から消えることはない。それでも、これらがそうやって他者の犠牲のもとにつくられたものであればなおさらのこと、車を速くたくさん走らせたいなどというたったひとつの理由で、すでにあるものたちを簡単に壊してしまうといことはしないのだとこの国のひとたちを思う。

投稿者 玉井一匡 : 09:13 AM | コメント (6)

June 10, 2007

路地と火事:神楽坂


この春、たまたまぼくが東京にいないときに神楽坂で火事があった。わざわざ知人が電話をくれて報らせてくれたけれど、けが人もいないというのでそうなんですかと返事するにすぎなかった。
 もどった翌日の昼休みに寄ってみると現場は思いのほか近く、歩いて2、3分。八十代のおばあちゃんの店が火元で、一間ほどのせまい路地に面するその店のほかに周囲の一帯が焼け落ちていた。焼けた椅子やカウンターを引き違いの格子戸ごしに見ると、漂う焦げ臭さで時間の動きを止められたようで、にわかに火事が身近になった。
 ここに立ってみると、そこからもう永久に消えてしまったもの、ぼくたちから失われてしまったものがはっきりと感じられた。ぼくはその店のことを知らなかったからインターネットでしらべて得たわずかな断片が、炭化した店の中でふくらんでひとつになった。かつて芸者だったという87歳のおかみさんの毒舌、飲んだ帰りに食えないほどの焼きおにぎり、客のもたらすざわめき。皮肉なことだが、それらが失くなって初めて、ここが少しだけぼくの場所になったのだ。

 
焼けた一画は2M足らずの石畳の路地に面しているから、日が落ちてからひとりふたりで歩くにはすてきなみちだ。神楽坂にはこういう路地が縦横にあって、かつて料亭だったところや住宅として使われていた建物が、誰でも入りやすいみせにかわったり、若い人たちが手作りで店に変えたりしている。おかげでここ何年か、神楽坂はいいまちとしてテレビや雑誌に取り上げられることが多くなっていた。そのうえに、倉本聰の脚本のテレビドラマ「拝啓父上様」が神楽坂の料亭を舞台に、板前修業の若者を主人公にしてつくられたおかげで、人通りが3倍ほどに増えたようだ。
 古くからの商店街が日本中でことごとくさびれてゆく中で、人通りがふえることは商業的には歓迎すべきことだが、まちを消費してしまおうとする力としてはらたらくこともまちがいない。日常的な人出と、それがもたらす土地の経済価値の上昇は、路地というみちの形式とあいいれない。土地の値上がり→地上げ→建物の高層化と進む。古い住宅を生かしておそらくは安い家賃で魅力的な店を開いているひとたちは、家賃の上昇に耐えきれず、かわりにチェーンの店がはびこって日本中のどこのまちともかわりばえのしないところになってゆく。そうやって、ひとの来る日本のまちは消費されてきたのだ。「拝啓父上様」は、ビルへの建て替えで揺れる古い料亭を題材にしたドラマだが、志とは逆に、この町の消費を早めるにちがいない。
 この火事で、あるひとは・・・だから路地は消防活動の障害だからなくさなければならない、建物を不燃化しなければならない・・・といい、一方では、災難にあった人たちにつけこんで、火事にあった一画を手にいれようと動き回るディベロッパーがいるだろうと思っていたが、一昨日、ひさしぶりに火事の現場にいってみると、もう工事の「お知らせ看板」がでている。火事から2か月ほどしかたっていないのだから、火事は偶然ではないのだろうかと思うほどに手回しがいい。
 ペコちゃん焼きで有名になった不二家神楽坂店など、この界隈でいくつかの商店を経営する平松南さんは「神楽坂まちの手帖」という小冊子の編集長でもある。そのひとが、この火事の火元になったおばあちゃんの、生々しい言葉をブログに書いている「まちづくりエディターの神楽坂定点観測」は、日付を見ると4月5日。火事のあとの間もない時期だ。
 神楽坂の浸食は裏通りの路地に面する一画だけではない。狭義の神楽坂、つまり早稲田通りの一部である神楽坂通りでも計画は着々と進行している。そういう力に抵抗できるのは、自分で土地も建物も持って店を経営する平松さんのような人たちで、受け継がれて来たよさを生かしてまちを活気づけようとしているところに、神楽坂は希望がある。

投稿者 玉井一匡 : 08:30 AM | コメント (4)

May 21, 2007

新宿文化絵図

ShinjukuBunkaFront.jpg
新宿文化絵図-重ね地図付き新宿まち歩きガイド
新宿区地域文化部文化国際課 編集・発行 1,260円

「新宿区の中央図書館の建物は、新宿区の図書館で一番古くてきたないかもしれないけれど、資料がとても充実しているんですよ」
「そうなんですか、23区の図書館でいちばん陰気で、ボロくて、なんだか入りたくならないとおもっていましたが」
ひさしぶりに寄ったカフェ杏奴で、もっとひさしぶりにChinchiko Papaといっしょになったので、あれこれ新宿のことが話題になった。この本のことは話題になったわけではないが、その日の夕方に本屋に寄ると、入り口の近くに平積みになっていた。副題には「重ね地図付き新宿まち歩きガイド」とある。狭義の新宿ではなく新宿区についての本だ。手に取ってパラパラと中身をのぞいてみると、新宿区はなかなかやるではないか。あまり意識したことはないけれど、ぼくはこれまでの半分以上の年月を新宿区に住むか仕事をするかしてきたし、自転車通勤では毎日のように新宿区を横断するので、ここには少なからぬ愛着がある。
A4版219ページの本体に特別付録(初版限定)「江戸・明治・現代重ね地図」9冊もついてケースに入っているこの本の、腰巻きに書いてある価格を見て驚いた。1260円で、amazonに注文したら送料がかかるという値段は、どうみても普通の値段の半値以下だ。

 本体は2部に分かれ、「第1部 新宿町歩き10コース」9〜162ページと「第2部 新宿 漫華鏡」163〜205ページ、巻末に「新宿ゆかりの精選120人・新宿人物事典」という人名事典と最後に索引も用意されている。
 *第1部には、それぞれのコース順にまちと歴史と人について書かれた文章に写真と図版が豊富に加えられている。
 じつをいえば、はじめぼくはガイドマップがあるのを気づかずに、この本は「コース」といいながら地図を入れないのは勇気あることだといたく感心した。手厚い情報にならされていると、ついついガイドマップがあれば、そのルートに従って歩いてしまう。すると、せっかくの時間と空間と人の織りなす複雑な世界を、ひと続きの線状の理解に閉じ込めてしまう。だからあえてルートマップをなくして読者の自由な想像力に任せようというつもりなのかと、勝手に想像したのだった。しかしそれはぼくの早とちりで、実はれぞれのコースの扉にルートを描き込んだイラストマップがあった。ちょっと、興奮して損をしたような気がした。とはいえ、それでも力作ではある。

 *第2部の 「新宿漫華鏡」は、さまざまな切り口で九人の著者が新宿を書いている。たとえば川本三郎の「シネマの町新宿」、海野弘の「新宿戦後グラフィティ」、交通博物館学芸員の奥原哲志氏による「120年を超える新宿駅の歩み」などがある。

*別冊の「重ね地図」も力作だ。A3の厚手の紙を二つ折りにしてむろん表側は表紙だが内側の右に現代の地図がある。左側は凡例で、トレーシグペーパに印刷した江戸の地図の右端をそれにのりづけしてある。さらに、右ページの現代の地図の右端にはトレペに印刷した明治時代の地図の端を接着してある。つまり、現代の地図の左右に江戸と明治の地図があって、好きな方を折って現代に重ねれば、現代と比べながら見られるというわけだ。
 新宿区のサイトによれば,この本は初版5000部がつくられ区内の一部の書店で販売されているそうだが、ぼくは飯田橋の芳進堂という書店でみつけて買った。皮肉なことに、この本屋の入っているのは江戸城の外堀を埋めるという蛮行によって東京都が作ったテナントビル「ラムラ」なのだ。
重ね地図は、初版だけの特別付録なのだそうですよ。

*追記
新宿区中央図書館の建物をけなしているようだけれど、とかく公共施設は器ばかりに金をかけて中身がないものが多いことを考えれば、これは悪口ではなくてむしろ褒め言葉なのです。新宿区は、地域図書館はきめ細かく配置されているし、新宿御苑の入り口の近くの図書館は、数年前にあたらしく建て替えられた建物で区の出張所などと一緒の建物だが、とてもきもちよくできている。
ONE DAYで最近エントリーされた「図書館に行く!そしてカフェ杏奴でひとやすみ」でも、カフェ杏奴といっしょに新宿区の中央図書館のことが書かれています。このときカフェ杏奴でもOVE DAYとkadoorie-aveさんのことが話題になっていたのでした。

投稿者 玉井一匡 : 01:25 PM | コメント (19)

May 09, 2007

タリアセン・ウェスト:TALIESIN WEST


MADCONNECTIONのエントリーにそそのかされて、Google Earthを開きハーレン ジードルンク(46°58'23.93"N 7°24'46.78"E)を見ると、川のほとりの小高い森の傾斜地にそって階段状に集合住宅をならべてアトリエ5のつくりだした生活環境は、今もとても気持ちよいものであることがよくわかる。周囲は緑濃い森のまま残されている。
 森を迂回する道路の切り通しも集合住宅の敷地の傾斜も、地形を分かりやすく見せるから、まだ実物を見ていないぼくはそれだけで十分に心がときめく。集合住宅は森を切り開いてつくられたが、斜面をたどる階段状の屋根の上は、芝生で覆われている。切り取られた森と芝生の屋根とゆるやかにうねる川はコルビュジェの思想の見事な実現だ。Google Earthで建築の衛星写真が地表にはりつけられてつくり出す二次元半を僕が大好きなのは、文字通り建築が地形に溶け込んでしまうからだ。ここの場合は建築の意図がそこにあったからなおさらなのだ。それを見ているうちに、F.L.ライトのタリアセン・ウェストはまだ見ていないぞと思い出して、Google Earthに乗って行ってみたくなった。タリアセン・ウェストは、こことはまたかたちのちがう関わり方を大地との間につくりあげているはずだ。

「TALIESIN WEST」と書きこむだけで飛んでいく画面( 33°36'17.89"N111°50'46.64"W)は、対角線に沿って斜めに走る道路によって二分されている。その北東側には山並み、 南には大規模な住宅地開発でつくられたらしきまち。斜めに走る道路と見えるのは近づいて見れば川だが、それがどこも同じ幅で定規をつかったような弧を描き、いかにも人工であることがわかる。地表に近づくと、おだやかな傾斜の丘のつらなりを背景に、遊牧民のテントのように散在する建築群。タリアセンウェストだ。・・・・と、これで十分に感動してしまうのも、ハーレンジードルンクと同じように、じつはここにもぼくはまだ行ったことがないからなのかもしれない。それだけに、地表を斜めに傾けて見ると、見る見るうちに背後に丘がふくらんで想像をかたちに変え、そのかたちがあらたな想像を目覚めさせる。川の南側に近づけばタリアセンとは対照的に、それぞれがプールを抱え込んだ家が地表を埋めている。かつて見た写真の、人里離れた砂漠という環境からは、ずいぶん変わってしまったようだ。
 ライト一行がここに来る数年前、彼らはリゾートホテルの計画のためにアリゾナに滞在していたことがある。その間、彼らは砂漠の真ん中に木造の箱の上にテントをのせたような住居群をつくり生活と仕事の拠点とした。それがのちにタリアセンウェストの原型となった。その後、改めて冬のための仕事場としてここにタリアセンを作りはじめた時、ライトはすでに70歳をこえている。といっても、それから20年を越える間、建築家としての活動をつづけたのだから、まだまだぼくたちは若いわけだ。

 アメリカ合衆国が他人の土地を奪ってつくられた国であることに、ライトはひそかな疑問あるいは居心地のわるさを感じつづけていたのだとぼくは思いたい。彼はタリアセンの周囲から掘り出した大きな石を積んでコンクリートを流し込み壁をつくり、それをふたたび大地の一部のようにした。屋根はテントの進化形でありつづけた。木部には、周囲の赤い土と同じ色を塗った。持ち上げた屋根を支える細い支柱はインディアンの槍や羽根飾りのようだ。彼はここを、定住したインディアンの建築にしようとしたのではないか。
F.L.WrightFoundation.jpg かつてライトは、フィリップ・ジョンソンMOMAで企画したインタナショナル・スタイル展への出展を拒んだ。世界中どこにも同じ価値をひろげることをこころざすインタナショナルではなくアメリカを、アメリカ合衆国ではないアメリカをこころざしたからだ。南米のインディオの造形をコンクリートブロックに彫り込んだのもそのためだ。「モーターサイクルダイアリーズ」の若きチェ・ゲバラが、旅をするうちにアルゼンチンという国家から、普遍的な「アメリカ」にアイデンティティを移していったように、ライトはアメリカ合衆国という国家から逸脱した「アメリカ」に自分を結びたかったのではないか。だとすれば、国家をこえる普遍的な世界をめざした「インタナショナル」と、じつはライトは通底していることになる。ただし、彼は「場所の力」をよりどころにし、それを大切にした。そして、チェ・ゲバラの「アメリカ」にはアメリカ合衆国は含まれない。ライトに美術館をつくらせたグゲンハイムは、チリの鉱山で奴隷のようにインディオたちを働かせて財を成したのだと、「モーターサイクルダイアリーズ」で主演したガエル・ガルシア・ベルナルがインタビューで語っていたのが忘れられない。

 

投稿者 玉井一匡 : 08:48 AM | コメント (6)

April 09, 2007

空港にFONはあるか

 本来なら、いまごろぼくは、ヴィエンチャンのDAY INNホテルで眠っているかブログを書いているはずだが、ヘルムート・ヤーンの設計であたらしくつくられた、バンコク空港のエコノミーラウンジというところにいる。午前1:23、東京は3:23。
 試してみたら、7つほどの無線LANがリストに出てきた。もしかしたらFONがないだろうかと思っていたが、あたりまえだがやはりない。それらの中でaotwifiというのだけが無料でつながることがわかったので、ひと仕事とインタネットのためにコンセントを探したがなかなかみつからない。business centerという表示の先をたどったが、みつからないので通りがかった職員に聞いたが知らないという。案内板はあるがまだできていないのかもしれない。
 トランジットの客のためのラウンジでは、この時間はたくさんの人がソファで仮眠している。その中央に、スツールとカウンターをそなえたカフェとばかり思っていたところに近づくと、一席ごとにコンセントが備えられていた。しかし、ここには人がいないけれど、どこかにたくさんの利用者がいるのだろうか、おそろしく遅いうえにアップロードはさらに遅くて、あげくは切れてしまう。まずは文字だけでやってみようと何回か試みて、やっとのことでエントリーできたが、始めてから1時間半はかかったろう。
 成田では、開いてみるとすぐにつながったと思ったら一日500円をクレジットカードで払う仕組みになっている。さもなければ機械付きで公衆電話のような、10分100円のコイン式インターネットコーナーがあった。いまだにケチなことをやっている日本の空港にもあきれたが、つながらないのもこまったものだ。

 8日の午前11時に成田を発ってバンコクで乗り換え、ヴィエンチャンに夜8時ころに着くという予定だった。京成を降りてパスポートのチェックを受けると「期限が切れていますよ」という。まだ切れるはずはないのだがと思いつつ目をこらせば、古いパスポートを持って来てしまったのだった。tacに電話をかけて、事務所から現在のパスポートを持って来てもらった。というと簡単そうだが、なかなかみつからない。結局、引き出しからこぼれ落ちたやつが、引き出しのキャビネットの底に眠っていたのだそうだ。tacが推理小説で鍛えた捜査能力が役立った。それを届けてもらったときにはもう12時を過ぎていた。やむなく夕方16:55発の便にとりかえてもらった。さいわいなことに同行者がなく、ぼくひとりだけだったので、ひとさまを心配させることはなかったのだけれど、先行の吉川さんにはメールを送ってお知らせしたら、携帯に電話をいただいて無事に連絡はすんだ。
 
 しかし・・・

付記(わきたさんの要請に応じて)
本来は、11時に成田を出発して午後にバンコク空港着、それから4時間ほど後にバンコクをでて8時ころにはめでたくホテルにおさまるというのが本来の予定でしたが、出発を遅らせたためにバンコク到着は夜の10時過ぎになってしまう。
 それなのに翌朝7時半の出発だから空港には5時半には行かねばならない。駅前ホテルに泊まるには入国と出国の手続きがいるし空港使用料もとられるし、宿泊代もかかる。それなら、空港内のネットカフェのようなものがあれば、朝まで時間をつぶしてもいいなっと思ったのでした。さいわい、隣の席にはタイ人の中年男子二人連れでしたから相談してみました。
「うーむ、新しい空港だからよくわからない。スチュワーデスに聞くのがいいでしょう」といいます。
そうでなくたって、自分の国に帰って来て空港を出ないでヒマつぶしをするなんてことは、めったにあるものじゃないですよね。
込み入った話だから、日本語のできる人をと、頼みました。航空会社はタイ航空でしたから。
かくかくしかじかの事情である。バンコクの空港は、24時間営業でありやなしや。ありとすれば、そこで朝までインタネットをつかえるビジネスセンターのごときもの、ありや?ということをたずねました。
「うーむ、お眠みにならないわけには行かないでしょう。それに、トランジットでは6時間しかいらっしゃれないと思いますから、一度入国なさってください。向かいに、ノボテルがあります」
この年齢の、まっとうな大人は、そうだろうなあ、しかし、ノボテルとはフランス人の経営する上のクラスのホテルです。そんなところにとまって、5時間ほどで一泊を終えるのは我慢がならない。歩いてみれば安ホテルがあるだろうと考えた。スチュワーデスは、安ホテルを勧めるのは失礼だと思って配慮してくれたのかもしれない。
ややあって、彼女が戻って来た。
「 トランジットは、空港に12時間いらっしゃれるそうです。でも、そういう場所があるかどうかは、分かりませんから、お着きになってからサービスカウンターでお尋ねください」という。
だったら、なんとかなるさとひと安心。ここまでは成田の出来事。

 バンコクの空港につくと、すぐさまサービスカウンターに行って尋ねた。今日は事情の説明を何回することだろう。
「エコノミーラウンジにいらっしゃい。たくさんの人が寝ていますよ」
ぼくがほしいのは、寝るところよりも、無線LANとコンセントなのだ。インターネットには朝までつきあってもらうのだから、有料だってかまわないのだが、新らしいちゃんとした空港はユビキタスなのだということを言いたいから、どこでも無料でつながるものがあってほしかった。
 かたわらの椅子に腰を下ろしてMacBookを開いてみた。すると、いくつかのwi-fiが出て来て、そのうちのひとつが無料でつながった。つながったとなればコンセントがほしい。しかし、古い空港にはコンセントがところどころにあったのだが、ここにはまったくない。「テロリスト」に使われるのをおそれているんだろうか。成田でさえ、ところどころにコンセントがあったのに。
それからしばらく、コンセントをさがして空港の中を上に下に右に左に動き回り、やっとのことでラウンジを発見。安心して、マンゴの生ジュースに129バーツなりの空港値段を支払って、カウンターの前のスツールに腰を下ろした。ぼくは満足感に満たされた。
だが、思うようにはつながらないのだった。

 つながりにくいので疲れて、ぼくも欠航になった便の乗客のように、ソファに横になった。エアコンが強すぎて、寒くてたまらないから、安眠もできない。眠気と寒さをかかえて24時間営業のカフェに移動すると、ぼくの他に客はひとりもいない。おかげで店員はやさしく迎えてくれた。冷えきった身体を、アルコールではなく、ホットチョコレートとチキンパイで温めたのだった。

わきたさん、こういう具合でした。とりあえず、写真なしでアップします。
 

 
 

投稿者 玉井一匡 : 03:14 AM | コメント (23)

April 01, 2007

第五回アースダイビング・阿佐ケ谷住宅へ


またまた遅ればせのアースダイビングのエントリーになってしまった。
 縄文時代には、現在よりも海水の水位が高かったから、今では高台とよばれているところが当時は岬であり、現在は低地というまちは海水の下にひそんでいたのだと、ぼくには新鮮な視点を「アースダイバー」が提供してくれた。ちょうどそのころMacでも使えるようになったgoogle Earthで、地球の立体的な表情を遠くからも近くからも自在に実感できるようになった。
 かつて、"POWERS OF 10"という映像をチャールズ・イームズがつくってみせた。日光浴をする男女を見下ろすところからはじまってカメラをどんどん移動させ銀河系の全体を見るところまで離れてから一転して、どんどんと近づいていき分子の大きさまでクローズアップするのだ。Google Earthのおかげで、そのすてきな映像がいつでもぼくたちの手に入るようになったのだ。
 道を歩きながら地形の成り立ちを思い浮かべ、数千年前の岬を想像し、数百年後にはもう人間のいなくなっているかもしれない地球を思う。空間も時間も、ぼくたちは自在にとびまわることができるので、小さな断片から地球や歴史を考えることができる。
 それを実感すべく始められた「アースダイビング」は、縄文の波打ちぎわをたどることを手はじめに少しずつ川をさかのぼり、3月31日は神田川上流の善福寺川の水源に遠からぬところまでやってきた。このあたり、川の護岸は道路より高く積まれているところがあるけれどコンクリートでなく自然石が積まれているから、さながら愛媛県外泊の集落のように、石垣のかげに身を潜めているような家もある。


川のほとりの見事な桜の下にはホームレスとお揃いのブルーシートに思う存分の混乱がくりひろげられていたが、そこから一歩はずれて足を踏み入れると、空気も光も一変する別世界があった。
 はずかしいことに、iGaさんのエントリー「阿佐ヶ谷テラスハウス」と、それにつづくmasaさんのエントリー「阿佐ヶ谷テラスハウス(1)」まで、阿佐ヶ谷住宅のことをぼくは知らなかった。ここが別世界をつくるのは、ひとつには、いうまでもなくそこがすてきな場所だからだが、さらに、やがてなくなってしまう場所だからでもある。前川國男事務所の設計で1958年につくられたテラスハウスは、コンクリートブロック造二階建ての切妻、4戸ほどを単位として連続させてたほぼ同じ構成の棟を配置したにすぎない。今でいえばむしろ素朴な集合住宅と見える。しかし、高さを低くおさえているうえに隣りの棟との間に広く距離をあけているから公園と道が連続している、あるいは全体がひとつのひろい公園で、その中にテラスハウスを散らしているようだ。公園が庭の一部になっている。

 それぞれの住戸は高さを低くおさえることによって、まわりには広々と明るい空間ができる。家の中が小さければ、その分だけ外は広く豊かになる。家は、壁や屋根に囲われた中だけではなく、ウチとソトの両方を合わせたものが住まいなのだから、たがいに自分のすまいを低くすることによって、めぐりめぐって自分も日当りのいい庭とイエをつくることができるのだから、結局は気持ちよい生活を送ることができるのだ。集合住宅はそのことが実感しやすい。
 しかし、土地や住まいを金額に変えることをなりわいにしているディベロッパーにすれば、これは非効率あるいはビジネスチャンスにほかならない。容積に余裕があるから、分譲されたそれぞれの住戸の持ち主も経済的な負担なしに新しい家に移ることができるだろう。建て替えという消費に誘導する制度ができてしまっている環境では、住人がそう考えるのはしかたないことではある。しかし、ぼくたちの島ではすでに人口の減少が始まっている。大都市に高層の集合住宅をつくって人間を集中させるよりも、こういう住まい方によって人口の減少をむしろ豊かさに転換するという選択肢もあるはずだ。

給水塔の足下に切り妻屋根のテラスハウスのならぶ風景からは、なんだか宮沢賢治の世界が思い出された。ぼくたちのかつて住んでいた世界のどこかにあった懐かしいもののようでもあり、遠い異国の風景のようにも感じられる、人間にとって普遍的な風景ということなのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 11:32 AM | コメント (8)

March 22, 2007

さくら・3月22日・駒塚橋


 「なんという種類なんでしょう。ソメイヨシノじゃなさそうですね」
 ひとりのお年寄りにたずねられた。
 「さあ、ぼくにはよくわかりませんが、色が白いし房が小さいですしね。」
 「そう」
 そういえば、桜の種類をぼくはろくに知らない。
 しらべてみようと思ったことがない。
 桜は植物というよりも春のできごとのように感じられるからなんだろうか。
 「この樹が、いつもいちばん先に花をつけて、小鳥がつついて花を落としてくれるんですよ。」
 「ほら、あのヒヨのしわざだ」とご老人が指をさした。
 見上げると、ヒヨドリが一羽、枝に止まっている。

 いつもの年のように、神田川が椿山荘に出会う少し手前、駒塚橋、南のたもと西側にある桜は、このあたりの神田川岸の桜並木が数ある中で、一本だけ花を開かせた。通勤途中に、ぼくは自転車をとめて、樹の足許に落ちている花を拾い集めていた。ご老人も、ここを毎年のように楽しんでいらっしゃるようだ。
 去年は雀が桜を落としてくれた。去年、ぼくは毛糸の帽子に桜を入れて頭にのせていったが、今年はすくなかったから毛糸の手袋に入れて事務所に連れていった。去年と同じ、そして先日の桃の花と同じ白い長方形の皿に水を張って浮かべたけれど、白いうつわに白い花では春の華やかさにかける。この皿はもともとは写真の現像につかうもので、厚くて重い。aiさんのお店「藍CRAFT」のような上等なものがないけれど、器を代えてガラスに春をそそぎこんでやることにしよう。

投稿者 玉井一匡 : 11:54 PM | コメント (8)

February 10, 2007

「さくらんぼのしっぽ」

sakuranbonoshippo.jpg

「さくらんぼのしっぽ」/村松 マリ・エマニュエル著/柏書房
 ある文化の中にいるとあたりまえのことが、じつは、外の人間から見ればもっとも興味深いことなのだということは少なくないけれど、何がそれなのかということは、両方の文化を知りものごとを見抜く力のある人でなければ、なかなか気づかない。著者は長年にわたって日本で生活をおくっている。だから、フランスではあたりまえだが日本にとっては当たり前でないことをよく理解し、そのうえでフランスの家庭のお菓子つくりが書かれている。距離と時間を意識した広く透徹する視野があるのだ。 
「さくらんぼのしっぽ」とは、さくらんぼの実のヘタのことだろうとは想像がつくのだが、なぜそれをこの本のタイトルにしたのかは、すぐにはわからない。さくらんぼのしっぽのようにありふれたもの些細なものの背後に、じつはたくさんのことがあるということなのだ、きっと。一見すれば小さなことの中に、家族という身近な歴史の背後に、ゆたかな文化と歴史が織りなされているのだということを、行事やお菓子やという具体的な生活の断片を通じてぼくたちに見せてくれる。

 ケーキをつくるときは、厳密にレシピの通りにやらなきゃならないと、ケーキをつくる人はよく言う。ぼくは料理はするけれどケーキをつくることはしないので、そういうものかと思っていたのだが、この本によればフランスの家庭ではそんな厳密につくりはしないようだ。計量の大さじと小さじでなくスープのスプーンとティースプーンを、計量カップでなくグラスをつかい、強力粉と薄力粉の区別をせず粉をふるいにかけることもしない。バターでなくマーガリンをつかうことが多いという。
「ケーキづくり」をするのではなく、食べて楽しむためにケーキをつくるというわけだ。そうだよなって同感する。ときどきケーキを作ってストレスを発散する、うちの娘に見せたら、レシピの説明が短くて気楽にお菓子をつくろうという気になるよ、たいていは説明が長くてうんざりするけど、こんな本はないとよろこんだ。これまで彼女は、「こどもがつくるたのしいお菓子」という、子供のためのお菓子作りの本を愛用してきた。
 さくらんぼのエピソードはパリコミューンにさかのぼり、ドイツとフランスによるアルザス・ロレーヌの取り合いのおかげで生まれたロマンスがエマニュエルさんをこの世に存在させたこと、エマニュエルさんの叔父上のおかげでコルビュジェがロンシャンの教会を設計することになるいきさつ、etc. そうした家族の歴史と世界の歴史の重なりが楽しいのだ。

 この本は著者が15歳の頃から書きためた料理ノートをもとにしているのだという。(上の写真をクリックすると、そのくだりの書かれたページが開きます)また、この本をつくるときから描くようになったのだという魅力的なイラストも著者の手で描かれた。フランスで知り合った日本人と来日して結婚。日本に住んで15年というときにこの本が書かれ、それからさらに10年ほどが経っている。フランスの家庭でつくられるお菓子の本とされているけれど、そんな枠を軽々と飛び出してしまう。お菓子のつくりかたを書きながら、じつはフランスそのものが書かれている。そして、ぼくたちは、同時にそこから日本を読み取るから、文化の翻訳をした本でもある。なにしろ、フランスで知り合って、のちに結婚した日本人とは翻訳家・村松潔さんなのだ。以前に「HOW BUILDINGS LEARNという本」というエントリーで村松さんのことを書いたことがある。村松さんご家族は、AKiさんの設計されたOMフォルクスハウスにお住みになって約10年。家が生まれたころに、この本もつくられたわけだ。昨年末に出版された村松さん翻訳の「ヒストリー・オブ・ラヴ」という小説は複雑な構成にして、とても美しい物語だ。

■AKiさんが、さっそく、この本と村松さんの家のことをエントリーされた。
aki's STOCKTAKING:さくらんぼのしっぽ

■追記 いま、村松 マリ・エマニュエルさんは、全日空の機内誌「翼の王国」に、「vous aimez les madeleines? マドレーヌはお好き? 」というエッセイとイラストを連載していらっしゃいます。

投稿者 玉井一匡 : 06:10 PM | コメント (21)

January 15, 2007

ワインとパンと雑煮


 年末に「わがやのお雑煮大会」への参加をよびかけたのに応えてたくさんの方がそれぞれのブログでエントリーしてくださった。
 まちには大型店が道の両側を埋めて地元の商店を閉店に追い込み、日本中のどこもかしこも同じ町並みにしてしまうこの時代にあって、雑煮には「場所の力」がいまもって健在であることが確認された。それには、いまでは生活慣習となっている正月が、もとは宗教的な行事であり雑煮がその重要な一部であることが大きな影響を及ぼしているのだろう。
「石川県加賀のシンプル雑煮」のエントリーに「この雑煮は神饌のお下がりを戴く正月の儀式の一部なんでしょうね。」とiGaさんがコメントを書かれたので、僕はカトリックの聖体拝領について触れた。いささか軽卒で乱暴な書き方をしてしまったので、後日その部分をすこし書き変えたのだが、それにはつぎのような経緯があった。

 「わがやのお雑煮大会」におさそいしたkadoorie-aveさんから1月6日にメールをいただいた。三が日あけに締め切りというしごとが3つも入っていたので遅くなったけれど、やっと雑煮エントリーをしたというおしらせだった。だが、そのメールには次のような件りがあった。すこし長くなるけれど、大切なことだと思いkadoorie-aveさんの了解をいただいたので引用する。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それで...あの...。
先程、玉井さんの「石川県加賀のシンプル雑煮」のエントリーを感心しながら拝見していたのですが
コメント欄の「カトリックの聖体拝領は、キリストの血として赤ワインと肉の代わりの種無しパンを食べるわけだから、キリストを食べちゃおうっていうずいぶん野蛮な宗教だと、よく思います。」というところに、少々悲しい気持ちになりました。
私は、その野蛮なカトリック信者です。
「キリストの血として...キリストを食べちゃおうっていう」というのは
すっかり間違いとはいえないのですが、なんだか少々違う。
「好き・嫌い・肌に合わない」ということならば、誰でも好みは自由だから構わないと思いますし、なるほど的を射た指摘だ...と思えることは、批判的な内容であっても
考えるきっかけになるのですが。。。
「野蛮」というのは、なににつけ、相手への無理解と軽蔑の意味を含んでいて、同意できる大多数のお仲間の間では問題がないのでしょうが、それ以外の人々を疎外する、寂しい言葉だと思うのです。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これは抗議というようなものではなかったが、そのとおりだと軽卒を反省してぼくはつぎのように書き替えた。「カトリックの聖体拝領は、キリストの血として赤ワインと肉の代わりの種無しパンを食べるわけだから、キリストが肉体を分け与えることを思うたびに、肉食文化の神であることを実感します」と。
最後の晩餐で、キリストが弟子たちに別れを告げながらワインとパンを与え、わたしの血と肉だといったのを儀式化したのが聖体拝領だ。けっしてぼくはカトリックに否定的なわけではないのに、それをもって「キリストをたべちゃう」「野蛮な宗教」なんていう書きかたをしてしまった。ぼくはカトリック系の幼稚園にゆき、母方の祖父が長崎県の出だったから平戸出身でフランシスなんていう洗礼名をもつ農家出身の学生が身近にいた。井上ひさしによれば、カトリックはじつは異教に対して寛容なのだと書いていたのを読んだことがある。南米や日本での布教にあたっては、既存の神の形式を残したままでキリスト教との共存を認めていた、日本のマリア観音などのように・・・というようなことだった。カトリックのそういう在りかたをぼくはすきなのだ。だからかえって友人のことを荒っぽい調子でいうような感じでこう書いてしまったのだった。

 「一神教の奴らのせいで戦争が起こるんだ」というようなことをいわれることもあって、神経質になってしまったかもしれないと、kadoorie-aveさんはおっしゃってくださった。そうした荒っぽい理解と論理でひとの根源に関わるようなことをことばにすること、さらに否定することこそ、じつは「一神教」であること以上に対立を引き起こすのかもしれない。ぼくの書き方もそのひとつだった。「一神教」を信じる人の意思を尊重することをせず、勝手に「多神教」の神のひとりとして祀り上げてしまうということを、ぼくたちの多神教の国がやった歴史がある。だとすれば、ことは神の数ではない。
 宗教にかぎらす、たがいに異なるもの同士が接することはかならず生じる。だとすれば、それらのあいだを分離するような壁をつくることで問題を避けるのではなく、混在しやすい領域を、その間にもうけて共存をはかることで、解決に近づくことができるのではないだろうか。
kadoorie-aveさんは幼児洗礼をお受けになったから聖体拝領がすでに身についていらっしゃる。そのときの気持についてこう書いていらした。「聖体拝領は、週一回、日常から切り離されてキリストを『思い出す』ための嬉しい『しかけ』です」と。聖体拝領のときの気持ちを、ひとにたずねたことは、これまでぼくは一度もなかった。しかし、そういわれれば分かるような気がする。

それぞれに別々のルーツをもつ人々の共存する家庭という場所にあって、さまざまな形式と歴史をもつ雑煮が、あるいは日を分けあるいは融合しつつ共存していることが分かったのは、なにはともあれ目出たいお雑煮大会であった。

投稿者 玉井一匡 : 08:20 AM | コメント (2)

January 05, 2007

石川県加賀のシンプル雑煮


 昨夜、かきのきのくらさんから、こんなメールをいただいた。ぼくがお願いしたので、お雑煮の写真が添付してある。
「お雑煮の写真ですが、いざ撮ろうかなと思ったら、母が『ネギだけじゃ恥ずかしいから、菊と三つ葉を入れちゃおう』ということで、若干見栄はり石川雑煮です。
少しピンボケで、すいません。」
さらに時をさかのぼる昨日1月4日の昼過ぎ、「わがやのお雑煮大会:三日目に」のエントリーにこんなコメントが書き込まれていた。

「遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
さて、わが実家(石川県加賀)のお雑煮ですが、
これが実にシンプルというかわびしいというか…。
まず、昆布で出汁をとった鍋で餅(丸)を煮ます。
それとは別の鍋でスルメと昆布と醤油で汁を作ります。
あとはそれらをお椀に入れて、
刻みネギを散らすだけ。ただそれだけ。
すうどんならぬ、す雑煮。
なぜ、このような質素な具材なのかは、
いろいろとリサーチしましたが、不明。
飽食の時代に流されるな、というメッセージを噛みしめろ!
という勝手な解釈をしながら美味しくいただきました。
まさに、わが実家に欠かせない、お正月清貧です。」

そもそも、かきのきのくらさんは「おにぎりとおむすび」のエントリーに、石川県のご実家のお雑煮についてのコメントで、「我が家の雑煮バトル大会」に石川県代表として参戦します」と、こんなぐあいに予告された。
「『わが家のお雑煮話し』をすると、
口の悪い友人は『ひょっとして、小さい頃、ビンボーだった?』
と言われるくらい、シンプルというか、とても質素です。」

ということだったから、ぼくは興味津々でレポートを待った。くらさんはブログをつくっていらっしゃらないから、メールが届いたら、このブログにエントリーしようと思っていたのだ。母上のご努力の結果から、三つ葉と菊の花びらをとり、お椀の下に敷かれた南天と松の葉を取り去った状態は容易に想像がつく。焼き物も塗り物も、日本で屈指の産地であり、海産物は豊かであるはずの地なのに何たる質素。どういうわけなのだろう。
母上の「見栄」も微笑ましいが、なにもない雑煮の潔さが、僕にはここちよい。

 追記:1月8日成人の日に、初めて加賀雑煮をつくった。ダシと餅だけで勝負するだけに、加賀雑煮はむずかしい。前日から昆布とスルメを水に冷やかしておいたダシには鰹もアゴもつかわない。ただ、酒は少し入れてわずかに醤油を落とし、最後に青い葱を散らした。
いささかも貧しくはない、ストイックでむしろ気高い雑煮かもしれない。朝早く起きたので、家族が起きるのを待たずにぼくはひとりでつくりひとりで食べた。この雑煮には、その方が相応しい気がしたのだ。
これからも、ときどき挑戦してみたいと思う。

そのあとしばらくしてから、スーパーが開店してすぐに新潟雑煮の材料を買いに行った。東京ではまだつくっていないのだ。それに新潟でも自分ではつくってはいない。小松菜の一把、蒲鉾の一本、鮭の切り身一切れが百円均一になっていた。イクラの小さなパックだけは300円を超えたが、大根はうちにまだあるし、松もあけたあとの雑煮もいいもんだ。餅の上につゆをかけるスタイルにした。すこし、わがやの伝統から逸脱したが、新潟のご近所でもそうやっているところもあるそうだ。

投稿者 玉井一匡 : 08:50 PM | コメント (13)

January 03, 2007

わがやのお雑煮:三日目に


 一昨年の春から新潟市に加わったが、長い間新潟市の郊外の田園地帯だったこのあたりでは、三が日は朝に雑煮をたべて昼飯は抜きということになっている。現在は新潟市亀田早通という。どこまでがそうなのか分からないから、とりあえずは限定しておくのだが、そういうところは少なくないようだ。今朝は、料理を教えている叔母におそわった雑煮だ。油で揚げた餅と、出汁に大根おろしをいれたみぞれ汁。油のくどさをおろしでやわらげる。
教わったといっても、揚げ餅にみぞれ汁ということをきいただけだが、それに二つのコツを教わった。「角餅を揚げると角が割れてふくらんじゃうけれど、丸餅だと真ん中がきれいにふくらむ」「おろしは、ザルで水を切っておくくらいの水っけがちょうどいい」・・・口伝である。そして、叔母は丸餅のパックをくれた。

具は、昨日の雑煮のトッピングの残り、薄焼き玉子の細切り、ゆでたホウレンソウ、かまぼこをつかった。
揚げた餅をお椀に入れて、上に具をのせ、みぞれ汁をかける。残り物の具はすっかり冷えているから、器といっしょに湯通ししてあたためた。大根おろしのむこうに鮮やかな色が透けて見えるようにしてイクラだけを最後に散らす、というつもりだったが、ゆずを底に潜めるのを忘れたので、それも上にのせた。よくばって餅を三つも入れたのでおつゆの水位が餅とくらべて低くなったが、餅をひとつにしておけばおつゆの水面がもう少し広くなって、もっと美しくできたろう。ダシは、アゴダシのパックという手抜きです。これも、叔母がくれたのでした。
去年も一度つくったのだが、娘たちは揚げた餅はとてもうまいけれど油が心配だといいながら、それでも喜んで食べた。ことしの新潟の正月には、娘たちは同行していない。

投稿者 玉井一匡 : 12:20 PM | コメント (30)

January 01, 2007

わがやのお雑煮大会

 雑煮はぼくがつくるつもりだったが、沈丁花の霜よけをつくったあとで買い物をして帰ると、雑煮はすでに母がつくってくれていた。おかげで楽をしたのだが作る過程の写真がなくなった。ご近所や来客に、それぞれのお雑煮についてたずねてみると、あたりまえだが細かいところでは家によって違いがあるようだ。
そうして洗い出した新潟の雑煮の基本形は、餅は焼くのではなく水でゆでること、短冊に切った大根を中心とする具に醤油味の汁が骨格をなす。 ダシは干し貝柱でとった。
 ゆでた餅とおつゆが、うちでは祖父母の時代から別々の器で出されていた。雑煮のおつゆのほかに、きな粉と餡が別々の器にいれて出され、雑煮を食べたあとに餡をかけたり、きな粉をつけたりして食べたからだったのだろう。相当な大食を前提とした形式だ。たいていの男たちは十数個の餅を食べた。父など20個以上も食べたことが自慢だったが、それはなにもうちの家族だけの特性ではなくて、米どころ新潟の意地や勢いに支えられたところもあったろうが、男たちは普通に十数個は食べた。しかも、大きさはいまの市販のものの3〜4倍はあるのだから、いまの餅で換算すれば30〜40個に相当する量を食べていたことになる。

 おつゆというよりも大根の煮物というべきものには、ほかにもさまざまなものを加える。必須は新潟で「塩びき」という新巻鮭を賽の目に切ったもの、それにハサミで細く切ったスルメも加えるので、さらに豊富なダシが出る。植物性材料は銀杏、干し椎茸をいれた。
 これをお椀についで、トッピングを加える。蒲鉾、いりたまごあるいは薄焼き玉子の細切、茹でたほうれん草、ゆでたイクラ(こども言葉ではトトマメと呼んでいた)などをのせるのだが、そういえば赤白黄緑といういろの取り合わせは、前のエントリーの「びゃっけ」の色紙の鮮やかを思い出させる。

 新潟ではおせち料理を正月にはたべない。お年夜(おとしや)とよぶ大晦日に、おせちのような料理を食べて、正月三が日は毎朝雑煮で昼食を抜く。お年夜の必須メニューは鮭の塩引き。なぜか新潟では、塩びきの切り方は普通の切り身とはちょっと違う。三枚におろした半身を縦に長く二分する。背の身を7〜8cmに切って、大きな物であればそれをさらに縦に二分する。こうして切り分けた背の部分が、いちばん上等な部位とされる。格下とされる腹の部分を賽の目に切って雑煮に使ったんだと、作一さんにきいた。いまでは脂ののった部分としてむしろ旨いとされる部位なのだが、むかしの鮭は保存のために今よりもずっと塩からかった。たっぷり塩を詰めた腹はとりわけしょっぱかったからという理由もあるだろう。今では最も人気と価値の上がったマグロのトロが、かつては捨てられたり、ネギマ汁に使われたのと似ているかもしれない。 

追記
みなさんをおさそいするにあたって「影響をおよぼしたであろうご家族の出身地やお住まいの場所についてのご説明をお加えください」と書いておきながら、自分で書き忘れてしまいました。
おにぎりとおむすびというエントリーのコメントでちょっと書きましたが、ぼくの母方の祖父が平戸藩、祖母は水戸藩の出身だった。武士は喰わねど高楊枝で、あまりたべものに執着しなかったのかもしれません。父方の祖父母は新潟の出身でいとこ同士でしたから、血が濃かったのでしょう。うちのお雑煮は新潟風です。


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投稿者 玉井一匡 : 08:20 PM | コメント (43)

あけましておめでとうございます


あけましておめでとうございます。ことしの元旦は、お雑煮大会のエントリーが控えているので、早々の年賀エントリー。
数年前のこと、本屋で見つけた「神々の里の形」という本を開いて、ぼくは唖然としてしまいました。(味岡伸太郎著・山本宏務写真、 この本、絶版になったようで、ぼくが買ったときには初版第一刷で3800円だったのが、amazonで12,000円もしています。)「苟くも民間芸術を談ずるの士は之を知らなければ恥」と柳田国男をして言わしめたと書いてありましたが、この祭りについてぼくはなにも知りませんでした。一月二日におこなわれる、愛知県北設楽郡東栄町古戸の花祭りで使われる衣装、飾り、面。それらの構成。そのどれをとっても、そういっては失礼なのを承知で言えば、これほどのものがこんな小さなまちで伝えられてきたということに奇跡的なできごとのように感じました。

 この年賀状の色とりどりは、祭りの中心の場をつくる「びゃっけ」とよばれる天蓋の写真です。本では見開きの2ページの写真で中央に綴じ代があってスキャンできないので、左の三分の一をスキャンして、さらにPHOTOSHOPでそれを反転したものを右と中央に並べて、3つを合成しました。これは「ひいな」つまりお雛さまが三体つながったもののようです。それが正方形をなすようにつなげて四面を囲んで一種の結界をつくり、そこに神を招くのです。人間と神と共有するMyPlaceというわけです。

 じつは、先日エントリーした「ペラペラダンサー」を見たときにぼくは、形代を、そして次にこの「びゃっけ」を思い出しました。本当は、色紙を切って自分でつくってみようと思っていたのですが時間が切迫してしまい、やむなく本の写真を加工することにして、その中に、「一陽来復」と「丁亥元旦」の文字を包みました。
よい年は、勝手にやってきてはくれそうもないから、力ずくで、今年をいい年にしてしまいましょう。

投稿者 玉井一匡 : 12:25 AM | コメント (8)

December 27, 2006

「わがやのお雑煮大会」へのおさそい


「おにぎりとおむすび」のエントリーで、映画「かもめ食堂」と、「おにぎり」あるいは「おむすび」という呼び方について書いてから、もう1週間以上が経ってしまいました。そこにわきたさんの書き込んで下さったコメントで、地方によって呼び名や形が違うという指摘がありました。そこから、雑煮も地方によってさまざまな材料と形があるという話題に移って行きました。
 お雑煮は行事料理なので今でも地方色が残され、古くからの地名と同じように歴史を読み取ることのできる資料となっています。しかし、現代の社会では、しごとや結婚による移動が増え、それぞれに生まれた場所と生活する場所、さらには親や祖父母の出身地などがお雑煮の形式に反映しつつ混じり合うようになっているのではないでしょうか。今からさらに時が経てば、雑煮そのものの交雑がすすみ、歴史資料としての雑煮の性格が曖昧になるでしょう。
 そこで、アースダイバーの主犯の諸氏と語らい、正月に同時多発エントリーを呼びかけようということになりました。

masaさんが「わがやの雑煮バトル大会」と名付けて下さりましたが、正月早々にはおだやかに過ごすべく、バトルをはずして「わがやのお雑煮大会」とさせていただきました。アースダイビング大会参加者、当ブログにコメントをくださるブロガーにメールをお送りし、それぞれのブログにて「わがやの雑煮」についてエントリーしてくださるよう参加を呼びかけます。さらに、それをお受け取りになった方からも、多くの方に呼びかけて下さるようおねがいします。材料や心構えの準備もあることでしょうから、多少の余裕をもって、本日、これをエントリーします。
上記の趣旨にもとづく企てですから、写真を含め、どのようなお雑煮を召し上がったのかということに加えて、それに影響をおよぼしたであろうご家族の出身地やお住まいの場所についてのご説明をお加えください。
かくして、2007年正月、雑煮についてのブログ横断一大新年会となり、さらに、お雑煮データベースができることを期待しましょう。
 なお、スパムトラックバック対策のため、現在はこのブログのトラックバックはとめてありますが、正月までに再開させます。・・・・・と書いたのに、うまくいかなくて、トラックバックはできないままです。ごめんなさい。

投稿者 玉井一匡 : 02:00 PM | コメント (25)

November 25, 2006

第四回アースダイビング:王子の玉子・むこうじまのもんじゃ-1

EdvgOgiya2.jpg
都電早稲田駅に集合して電車で王子に行き、あたりを巡ったあとで三ノ輪まで都電で移動。音無川づたいに吉原をかすめて向島まで歩いた。
そのルートはMADCONNECTIONに、写真はkai-wai散策に丁寧にエントリーされているが、かつて川は場所と場所を結ぶものだったから、それをたどって歩くと積み重なった思いもかけぬ時間の層をみつけることができる。MADCONNECTIONのエントリーで「扇屋」の木造三階建ての写真を見て、王子という場所の意味を分かっていなかったことをいまさら知ることになったので、ぼくは扇屋に行ったら玉子焼きを買おうと思っていた。
 飛鳥山の周辺をひとしきり巡ったあとで、ここが扇屋だとiGaさんにいわれてぼくは唖然とした。なんとなく、まだ木造三階建ての店があることを思い描いていたらしい。いまは玉子焼きだけを売っているのだという店は、一坪ほどの屋台のようなものだった。
AKiさん、まっつあんのあとに注文した玉子焼きを包むあいだに、というよりもそれをきったけに店のオヤジさんがあれこれと古い話を話を聞かせてくれた。
「木造の建物は10年くらいまえにビルにしました。そこに書いてあるでしょ」と指先を見れば背後にあるテナントビルの前にはたしかに「扇屋ビル」とある。いささか落胆したぼくを、そのあとオヤジさんはもういちど驚かせてくれた。

「じゃあ、この写真のお店はいつ頃まであったんですか」とベアトの写真のプリントアウトを指す。
「もともと、この店は都電通りの向こう側にあって、この場所は庭だったから川越しに庭と神社を見るようになっていたんです。写真を見ますか?」
「ぜひ、お願いします」
玉子焼きは注文のたびにビルの横手を回って奥から取り出すようだが、オヤジさんこんどはアルバムを抱えている。それを開くと、中には店の古い写真やら箸袋やら扇屋の描かれた銅版画なんぞが満載されている。
「こういうのもありますよ」と取り出した和綴じの本が数冊
江戸名所絵図の本物だ。
「写真を撮らせていただいていいですか」とiGaさんがたずねると、もちろんいいよという笑顔
「おーい、masaさん、すごいよ」
「いやあー、これはすごいですね。改めてうかがいますから、そのときにまたゆっくり見せてください」とんで来たmasaさんは興奮の体
「いいですよ」とオヤジさんは相好をくずす。
「この鼻眼鏡を憶えておいてください」と、ひとをなごませずにはおかないmasaの笑顔の力だ。
masaさんはとりあえず記録班と化して写真を数枚。
「江戸時代、音無川はここまではのぼることができたから、お城の女たちの宿下がりのときに、船に乗ってお堀から神田川を下って大川へ出てすこし上ってから音無川をここまで上ってくるんですよ。店の前あたりは浅いから水に入れる。店の中にいて川の中に小判を投げると、それを女たちが水に入って拾うために裾をたくしあげているのを見て楽しんだりしたんです。」
「やなやつだなあ」
「いや、そういう遊びがあったんだ」
「へえー」と聞いていたが、投げるやつは誰なのだろう、貴重な宿下がりのときを割いてまでそんなことをして男をよろこばせてやらなきゃあならないんだとしたら、そいつは殿様だろうか、あとになって疑問がいろいろ湧いてきた。
「お花見のときには『かそう』が許されたんだよ」
「家の相ですか?」
「いや、衣装の仮装」
「武士たちが?」
「庶民が仮装したんです」
「じゃあ、浮世絵にあるんでしょうね。仮装した花見のやつが」
祭りというものは、時間限定・地域限定で日常の生活から離れるものだろう。仮装というのは、きびしい身分精度から解き放たれるということで、当時のひとびとにとっては、ぼくたちの想像以上に、大きなことだったのかもしれない。・・・・・そんな具合に興味深い話がつきないから、ついつい玉子焼きを買おうとして包装を待っていたことをすっかり忘れていた。
「きみたちのおかげで、お客さん10人くらい逃がしたよ」と、先に玉子焼きを手に入れて、ちょっとはなれて待っていた余裕の隊長は大人の発言。お二人はちゃんと箱に入れて包み紙をひもで結んでもらったがぼくたちはプラスチックの箱に入れてビニール袋をもって帰ることになった。しかし、それは盛りだくさんの話がおぎなって余りある。思いはすでに王子にあそびに来たひとたちの水路の道筋にあった。江戸城を出て外堀から江戸川(神田川)を経て柳橋に至り、そこから大川を少しさかのぼって三谷堀に入り、音無川を王子までやってきた一行の道中を、ぼくたちは歩いて逆に下るのだ。

(はじめの玉子焼きの写真は1/2サイズの630円、クリックすると1260円サイズになりますが、これはフォトショップによる合成です。ぼくが大きいサイズを頼んだけれど、iGaさんが半分サイズを注文したところ店先には大ひとつぶんしかありませんでした。オヤジさんがわざわざ奥までとりに行かなくてもすむように、二人で半分ずつわけたのでした。)

日曜日、西友に買い物に行った帰りに自転車を倒してしまい、玉子が4つ割れてしまった。扇屋を思い出して大きな出汁巻き玉子をつくることにした。ワンパック10個をみんな使ってしまおうかと思いながら、何かのために残しておこうなんて考えて、けっきょく6個にした。扇屋と比べるとちょっと甘さと出汁の汁気が少なかったようだ。なにしろ、23日は扇屋の玉子焼きをビニールの袋にいれてバッグで半日持ち歩いていた。帰りがけの電車で「かくれさと苦界行」を開いたらバッグに雨が当たった気配はないのに本が濡れている。さわるとベトベトする。玉子焼きのせいだったのだ。それくらい汁っけが多かった。しかし、ここだけのはなしだが、ぼくの作ったほうがきれいにはできているとひそかに思っているのです。

続く

投稿者 玉井一匡 : 01:57 AM | コメント (41)

September 06, 2006

「もんしぇん」と「一角座」

asahiMonshen0902miniweb.jpg「もんしぇん」を上映している一角座は、とてもいいそして希有な映画館だが仮設建物としてつくられている。だから、もったいないことだが上映が終わると解体されてしまう。そこで、9月2日土曜日、トークショーもあるので写真を撮ってエントリーしておこうと、ぼくは一角座に行くことにしていた。
ちょうどその朝、朝日新聞の都内版に「もんしぇん」の記事が、なかなか丁寧に掲載されていた。 オイこんなのが出ているぞと朝刊を手渡しながら週末の「be」のブルー版を開くと、そこには荒戸源次郎氏のインタビューが出ている。荒戸氏は、ほかでもない、国立博物館の構内という場所に映画館を作ってしまった犯人、いや当人だ。そんなわけでさまざまなことが、この日に重なってしまい、書かなければならないことがたくさんできてエントリーがおそくなってしまった。

荒戸源次郎のインタビューは「逆風満帆」というシリーズで、この日は彼の2回目だが(中)と書かれているから、もう一度掲載されるようだ。たしか2週前の土曜日が一回目だった。宍戸錠の主演でつくったハードボイルドの映画が、日活の口出しで題名をねじ曲げられた。以来、自前の上映館を持たなければ思いどおりのものを世に問うことができないと、仮設の映画館をつくって「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」、「どついたるねん」などを単館で上映した波瀾万丈の映画人生を語る。荒戸源次郎のすごみがよくわかるインタビューだが、どうせなら一角座で「ゲルマニウムの夜」を上映しているうちにこれを掲載しろよと思いながら読んだ。それで客が増えたりしたら「逆風」じゃなくなるかもしれないと考えたのか。

 国立博物館の構内の一角座というところで上映するんですと言っても、普通の大人は博物館の一室にある映画館かと思うし、仮設の映画館だといえば、丸太や鋼管の足場でつくった芝居小屋を思い浮かべるだろう。
しかし、国立博物館左脇の国際児童図書館の向かいにある西門の脇の小高い場所に建つ一角座は、いっこうに仮設には見えない。芝生が広がり樹木に包まれた前庭は、秋の日差しがふりそそぐ。気持ちよい屋外のホワイエのようだから、ここを含めて考えれば、東京でも屈指の映画館ではないか。その入り口の両脇には、荒戸源次郎の宣言が掲げられている。「一角座の由来」と、「映画維新」と題する日本の映画界に対する檄文である。ここには、一角座を「ゲルマニウムの夜」のためにつくったとはあるが、仮設だとは決して書かれていない。

外壁は焼付塗装した鉄板のパネルとガルバリウム鋼板の波板。中に入れば、重量鉄骨の柱と梁の堂々たる構造体に、壁はグラスウールボードをアルミのパンチングメタルで包んだパネルを張りつめている。音響もいいし、グリーンのシートは間隔もゆったりとってあってすこぶる快適だ。仮設建物でありながら、じつは日ごとに契約を更改するようにして、 いつまでも存在することを志しているのかもしれない。
この日のトークショーのゲストは叶精二氏。「高畑勳・宮崎駿作品研究所」を主宰する、高畑・宮崎を論じて右に出る者はないひとだ。10年以上前に「もののけ姫を読み解く」という本を出されたとき、それについての講義に参加して以来、夕海の相談相手のひとりとなってくださり、ときに厳しい批判者でもある。満員の会場で、この日は、短い時間で名前と海について語られた。

どこをもんしぇんの上映場所にしようかとあれこれ悩んだが、いわゆる盛り場でなく、まちと血の通わせられるところで上映したいと、夕海は一角座を望んだが、荒戸氏は業界でも強面で畏敬されているらしい。
「ヤクザってどういうことだろう」と、ある日夕海にたずねられた。「うーん、社会的な規範から逸脱する。でも、みずからに独立した規範を課してそれを徹底的にまもる。」「じゃあ、いいことじゃないの」
「正しいヤクザ」をハードボイルドと読み替えてもいい。
そこは、恐い者知らずの強みで、一角座上映をシグロにお願いした。「ゲルマニウム」の上映のあとに一角座で「もんしぇん」を上映させてほしいと、荒戸氏のために試写をして面談していただいたのだった。ゲルマニウムとは違う方向を向いているかもしれないが、10年以上もの長い間、思い続けてやっとこの映画をつくったということを見込んでくださったのだろう。あるいは、荒戸映画とは種類が違うが、やはり角が生えていると思われたのかもしれない。一角座で「もんしぇん」が上映できることになった。長いと思っていた9月29日までの上映期間は、もう3週間目が終わろうとしている。
以前は、国立博物館の公式ホームページに一角座のことが掲載されていたが、いつのまにかそれがなくなっていた。「もんしぇん」の上映の前に解体されるんじゃないかとひそかに心配したが、それは杞憂におわったものの、かけがえのないこの映画館がいつまでも生き続けるためにも、どうか見に行ってやってください。あるいは、もうこの映画館を見られないのかもしれない。
半券で、来年の2月まで博物館の常設展示を見ることができます。

投稿者 玉井一匡 : 11:57 PM | コメント (6)

July 18, 2006

新潟の田んぼと長屋

 7月14日金曜日、やがて日付も変わろうという深夜、私のところにこんな電話がかかって来た。
「急な話だから笑ってくれていいけれど、これからいっしょに新潟に行きますか? ぼくはまだ事務所にいて、これからうちに帰ってクルマでここにもどってから行くけれど、ウチに泊まるから交通費宿泊費は不要」
「行きます」即座にこたえる。
「ほんとかい。じゃあ、事務所にもどったらまた電話するよ」
1:30になろうかというころになって、電話をよこした男からやっと連絡があった。彼の事務所から私の自宅までは、この時間なら5分もあればおつりが来る。
・・・・・・・・という具合にことははじまったのだが、kai-wai散策「月夜の京島で」のコメントにこの事情をすでに書いたので、ここではそれとは逆の側から書くことにした。もちろん、「私」はmasaさんで、「電話をよこした男」はぼくだ。

土曜日は仕事とご近所ワークだったが、翌日は自由時間ができたものの雨ときどき曇り。近くの田んぼの景色をmasaさんに見せたのだが、あいにくの厚い曇り空でこんな具合だったからふた月ほど前の田植えの作業中の写真を、ぼくはアップロードした。水を張られながらまだ田植えの済んでいない水田は、まるでどこまでも続く池のようだ。農道に並んでいる四角い緑色は、田植機にのせるために四角いパレットにのせられた苗たちだ。田植機で往復して来ると、空になったパレットとこれらを交換する。これほどの広いところに、あまねく水をゆきわたせる技術と労働が何百年も続けられたことを思うたびにぼくは胸を打たれる。なにしろこの一帯は標高1mほどで海から10kmほどのところにある。斜面にしたら1/10,000の勾配ということになるのだから。
そのあとで、新潟市の旧市街、下町(しもまち)といわれる信濃川の下流一帯に侘び錆び建築を探しに行った。予想をはるかにこえるほどのmasa好みの家屋があった。新潟島ともいわれる旧市街は、周囲を海と河に囲まれ、海沿いには高台がある。それに、信濃川河口の一帯は、かつて内陸から水路を経て運ばれて来た米の集積地として栄えた。長屋や町屋の豊富な環境は整っているのだ。川の上流の森が河口の漁業資源をゆたかにするように、新潟では上流の豊かな水田が河口の一帯に低層高密度のまちをつくったのだろう。
ふたつめの写真は、すでに空き家になった二階建て二軒長屋。玄関のわきに張ってあるタグには「新潟市 水洗便所」とあるのが、潮風で風化した表面からはすっかり塗装が剥げおちて、それがとてもうつくしい。そういえば、neonさんが表紙をお描きになった「福祉史を歩く」に、明治中期から後期の日本の県別の人口統計表が掲載されていた。これには、ぼくはいまだに半信半疑なのだが、明治中期には新潟県が日本でもっとも人口が多かったことが記されている。このまちの密度の高さと古い水洗便所のタグのやや誇らしげな表情は、そういう歴史と何かの関係があるのかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 04:31 PM | コメント (13) | トラックバック

June 17, 2006

まちかど建築写真展とガイドマップ


 いま、目白バ・ロック音楽祭という催しがひらかれているが、その一環として「まちかど建築写真展」が三春堂ギャラリーで開かれている、と書くべきなのだが、ぼくは最終日の昨日になってやっとうかがったので、「開かれていた」としか書けないのが残念だ。
開店まで時間があったので、途中でカフェ杏奴に寄ってひと休みした。こういうのをChinchiko Papaがお作りになったんですよと、ママが見せてくださった「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」は、すでにブログで知っていたが、とても楽しそうなイラストが入っているし道は正確に書かれているいい地図だった。チャイを一杯飲みながら店の地図を楽しんだ。帰りがけにこれも一部といってレジで渡したらママは怪訝そうな面持ち。三春堂ギャラリーでお求めになったほうがChinchiko Papaさんがお喜びになりますよという。そりゃそうだといって自転車に乗った。

 まだ開いたばかりのギャラリーにはChinchiko Papaがひとり。
「この地図どうですか」と、まずはガイドマップをすすめられた。chinchikopapalogの内容の充実ぶりは、ブログを開いてみると多くの人があきれてものがいえないほどなのだが、そのblogに書かれている数々、現実の町、そしてこの写真たち、ガイドマップはそれらをつないで、ひとつの世界を構成する。「ぼくの学生時代からすれば、こういう建物は半分くらいになりました」というChinchiko Papaの口調には、とてもいたましい思いが込められているようだったが、バブルによる破壊の時代を経たことを思えば50%というのはむしろ奇跡的なほどよく残されていると、ぼくには感じられた。きっと、下落合や目白にはまちを愛している人たちが多いのだ。中村彝のアトリエが、ほとんど手を付けられずにそのまま残されているという奇跡的なことがあったのも、住み手個人のおかげであるのはいうまでもないが、まちのそこここに古い家が生きていることも少なからぬ力を及ぼしたはずだ。
「新宿区の教育委員会が保存するべく調査を進めているそうです。しかし、問題は予算で、現在お住まいの方は、アトリエを含む30坪ほど分けて売ってもいいとおっしゃるんだが、できれば全体を買い上げて保存してほしいですよね」
「まずは、第一歩として一部からはじめるのもいいでしょ。一部の土地でも、アプローチできるんですか?」
「となりに公園があるし、狭い路地もつながっているんです」
不要な道路やダムは、いまでも作られているというのに、重要文化財に指定されている「エロシェンコ像」の描かれたアトリエを残せるかどうか分からないのだ。ともあれ、建物たちはまちの中に分散するおかげで、blogと写真展とまちとひとというレイアをひとつにまとめる写真展だった。

*ガイドマップ「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」は、会期後はカフェ杏奴三春堂にて200円で販売します。

投稿者 玉井一匡 : 06:57 PM | コメント (4) | トラックバック

May 28, 2006

ピアニシモな建築たち


いつもそうなんだ、ぐずぐずしているうちに「ピアニシモな建築たち」も、おわりまぢかの時期になってうかがうことになった。松戸での打合せのあと千代田線で一本、根津の駅から不忍通りに出たが葉書をもっていないことに気づく。このあたりだろうと見当をつけて横道を折れたがわからない。masaさんの携帯にかけたが通じないぞと思った途端に目の前にNOMADがあった。ほのくらさが心地よい。ピアニシモを描いた人はすぐにわかった。絵の雰囲気と同じなのだもの。
小さな絵たちがならぶのを前にして腰を下ろしカプチーノを注文、neonさんの話をうかがった。

じつは、ぼくたちがブログで絵をみて文章を読んでいる時から、この個展が始まっていたのだと気づく。そういう世界の広がりかたが、またひとつブログの力なのだ。
お話をうかがっている途中で、息子さんがいらしたと店のひとがつたえる。ごはんをつくるのでかえらなければならないとうかがっていたから、「じゃあ」と言ったのだけれど「もっと児童館で遊んでくるそうです」とneonさんが戻って来た。いえと学校と児童館と、個展をひらいているカフェが結ばれて多次元をつくっている。ブログによって、もっとたくさんのひとたちとつくられたネットワークを加えれば、何次元あるのやら。そんなふうにこまやかに張りめぐらされたつながりのせいなんだろう、初めて入ったカフェの中なのにとても心地よい。
 これに描いているんですと黒い縦長のノートがテーブルに置かれた。開くと、1ページにひとつずつ中央にスケッチが描かれている。細く黒い線。「ロットリングなんていうのじゃなくて、ふつうの細いサインペンです」本のように丁寧に製本された上等なノートに、すべてサインペンで、躊躇いのない線で描かれている潔さ。しかも、ノートの紙の端が全く汚れていない。優柔不断にして本の汚し屋であるぼくには、とてもありえない。これが、スケッチ帳なのだ。「現場でスケッチするんですか?」「いいえ、現場ではしません」「写真をとってくるだけ?」「そうです」
 絵を描いている人たちはスケッチを重ねてゆくものかとおもっていたけれど、そういう描き方からは、このひとはどうも自然に逸脱してしまうようだが、それは、絵を美大で勉強しなかったという自由のせいなのかもしれない。
 この絵たちからぼくに聞こえる音は、そっと放たれるピアニッシモというよりむしろ、演奏のまえの音合わせに解き放たれたフォルティッシモもピアノもある音たちが、勝手にテンデンバラバラにおしゃべりしてた。それらが消え去ろうとして、そして、これからいっしょに音を出そうとしているわずかな瞬間の音たち。ぼくにはそんなふうに感じられた。ここに描かれた建築たちは、このくにがとりわけそうなのだが、この時代の経済と産業のシステムの中で遠からず消えてゆく。にもかかわらず、これから演奏がはじまるんだと言っているようなのだ。

投稿者 玉井一匡 : 03:03 AM | コメント (2) | トラックバック

April 23, 2006

駒ヶ根の桜

  
信州、駒ヶ根に行った。4月20日の朝、厚い雲と雨を覚悟で東京を出発したのに、寝不足気味のぼくは、運転する塚原に申し訳ないが途中から助手席でぐっすりと眠りつづけ、駒ヶ根の少し手前で目を覚ましたころには霧が晴れて、連なる山並みがうつくしい。駒ケ根は、おそらく天竜川の流れがつくった伊那谷の細長い平地にあって東西を山並みにまもられている。
「エッセンシャルタオ」の著者である加島祥造氏とご子息の裕吾氏ご夫妻にお会いするためにだったが、この日になったのは、ちょうど桜が満開でみごろだとうかがったからだ。帰りがけに、教えていただいた駒ヶ根と高遠のさくらを巡った。この日が特別でもあったのかもしれないが、駒ヶ根と高遠は桜のあり方については、対照的だとぼくには思われた。

 雨上がりの青空と満開の桜、しかも雨のあととあって人出も少ないという思いもかけぬ幸運な巡り合わせで、駒ヶ根の桜はあたりの風と光さえ、さくらに染まっているようだった。4、5人が一眼レフを持って写真を撮っていたが、古寺の山門をガレージのようにしてジープタイプの消防ポンプ車が待機してるのがかえってのんびりとして見えた。フロントグリルの消防署のしるしは、ちゃーんと桜印なのだ。
 門の脇には、まるで岩の固まりのような太い幹からじかに枝をのばす枝垂れ桜の古木があって、そのまま、すでに加島祥造氏の水墨画のような姿をしている。ここの桜はそれぞれの木の一本ごとに魅力的だ。もうひとつの桜は、田んぼの中にのこされた墓を覆うようにしてただ一本立っていた。ここにも三脚を構えた人たちが3、4人いたので、ぼくはあぜ道に腹這いになって、枯れ草で人影をかくした。桜の背後には、仙丈ヶ岳だろうか、白い雪が雲と溶けあうようにして手前の山の間から顔を出している。そもそも色の淡い桜は、光のありかたや環境と背景、そしてまわりにいる人間の様子をそのままに吸い込んでしまう。あるいは吸い込まれてしまうのだろうか。
高遠はまちの真ん中にある城跡を埋めつくす桜が遠くから美しいが、近くにゆくと人出や屋台の数が多くて、花よりもむしろにぎわいを楽しむ場所になっていた。人が来てくれなければ観光は成り立たない、しかし人が多すぎれば、その場所のもっているよさを損なってしまう。期間がきわめて短い桜は、短期集中型の日本の観光地の典型だから、ひとにきてもらうことと気持ちよい場所であることを両立できるかというテーマを検証するには、高遠はとてもいいまちだと思った。が、それはあとのことで、駒ヶ根と比べると人出が多すぎることに、やや落胆してしまった。とはいえ、駒ヶ根でも、はじめに寄ったお寺は桜の名所で、観光バスやテレビ局のバスまで来ていたので、ぼくたちは車さえおりなかった。そういうぼくたちも、じつは環境汚染の一部なのだと考えると、文句を言えた筋合いではないのだが。

投稿者 玉井一匡 : 12:20 PM | コメント (3) | トラックバック

April 19, 2006

一輪のハナニラ


 刑部アトリエの前庭には、ヤマブキやシャガやニリンソウ、フッキソウなどもあったのに、うっすらと青い花は取り残されたようでとりわけ印象深かったのだろう、ロワジール別館漂泊のブロガー2Roc写真箱などに写真や文章があった。この季節には、道ばたなどでよく目にするのに僕はこの花の名を知らなかったのだが、おかげでハナニラというのだと知った。ああそうかなんて、記憶のすみにあったのをつまみ上げて思ったのだが、それは誤解で、ぼくの知っていたハナニラは食べられる別物だ。食用のニラを切らずにおくと、まっすぐに延びた茎が先端に小さなネギ坊主のようなつぼみを付ける。この状態のやつを集めてくると、ニンニクの芽のように炒めればニラの葉よりもむしろうまい。と、ぼくは思っている。葉っぱよりも数がすくないから、商品になりにくいのだろうが、中華街などでは束ねて売っていることがある。さらにそのまま放っておくと、そのつぼみの包みをやぶって四方八方に伸ばした手のそれぞれの先に水仙のミニチュアのような花(写真はBotanicalGardenより)をつけるのが愛らしいのだが、切り口から匂うのが難点だ。じゃあ、観賞用のハナニラも、その名にふさわしい匂いがするのだろうかと茎を折ってかじってみた。なあるほどニラの一族にちがいない。
これは最後の晩餐。キリストが「これは私の肉、私の血」だと、弟子たちにパンとワインを振舞ったように。

 とうとう門だけを残して、刑部アトリエはあらかた解体されてしまった。その、大谷石の擁壁の上に咲いていたハナニラなのだ、これは。そういえば、林芙美子記念館の池のまえに立って鯉に餌をやっていらした方が「わたしはこの隣に住んでいるんだ」とおっしゃったことがある。「おさかべさんですか?表札にありましたが」とうかがうと「よくお読みになれましたね。だいたい部という字がついている姓は専門職の帰化人が多いから、きっと先祖は朝鮮渡来の首切り役人だったんだろう」などと言われる。「いや、検事だったんじゃないですか」などと言ったのを思い出した。
咎なくて死す刑部アトリエのために、ぼくはそのハナニラを一輪だけ連れてきた。一輪だけの花があるときに、事務所では愛用の水滴に水を入れて小さな穴に茎を挿す。この水滴は、魚の形をしている。・・・・サカナはキリストのシンボルだったっけ。このあとイエは復活するのだろうか。

投稿者 玉井一匡 : 08:17 PM | コメント (6) | トラックバック

April 17, 2006

刑部アトリエと林邸と四ノ坂 けさ

 東西に長い刑部アトリエは東側から解体が始まり、林芙美子邸と向き合う西よりの棟はまだ残されていたが、今朝からはとうとう丸太の足場をかけてシートを張っている。 このあたりの上下の道をつなぐ坂には、山手通り際の一ノ坂から二ノ坂と名付けられ、林邸と刑部アトリエの間にはさまれているのは四ノ坂、というよりも、むしろふたつの緑ゆたかな家につつまれているというべきだろうが、坂は途中から御影石の階段に変わる。おかげでクルマが通らない。左右の家のありかたといい坂の勾配といい、さまざまな要素がこの坂道をここちよくさせている。みちのたたずまいをつくるという意味では、この西棟の方が、まちにおよぼす影響は大きい。

二つの家には、いずれも屋根におおわれた門がある。数段の階段を上り林邸には和瓦、刑部アトリエには大谷石の門柱にスペイン瓦をのせた門だ。門は、とかく排他的な印象を作り出すが、屋根がかけられると、それがむしろやわらげられて人を迎え入れる気配が生じる。 屋根付きの門には格式を示す意図もあったろうが、この家たちの門の2mそこそこの低い軒高は、むしろ人間的なスケールをつくりだす。しかも、坂道に面しているので階段を設けるから門は道路から退がる。おかげで道の空間はすこしふくらんで、坂道にゆたかな場所ができる。ケヤキはたおやかな枝に若葉をつけ、残りすくない花をつけた桜、ぼってりとした花を開き始めた八重桜、そして林邸には、かつて庭の大部分をしめていたという孟宗竹が塀の背後にきっぱりと立っている。これがどう変えられるのだろうか。
日ごとに切り取られてゆくまちを見たあとの気分を変えたくて、牡丹寺の通称がある薬王院の門前の通りがかりに自転車をとめて開花の様子をのぞいた。一面の牡丹のうち3株ほどが開花しているが、いまにも開きそうに色を浮かべてつぼみをふくらませるものが2、3割ほどあるけれど、そのほかはまだ緑色のつぼみをつけている。カメラを首にかけたお年寄りに声をかけた。「もう一息ですね」「今週末でしょう」といわれる言葉には、開くまでの数日のときをむしろ楽しむ思いがひそんでいるようだった。

投稿者 玉井一匡 : 01:40 PM | コメント (1) | トラックバック

April 13, 2006

刑部人アトリエ 消失

   

月曜日、洋館は足場につつまれながら建っていた。カメラを構えたら電池がない。火曜、水曜は雨だったので電車で来たから前を通らない。今朝、曇りがちだけれど、ひさびさにあたたかい。自転車を走らせるとやがて汗ばんだ。刑部アトリエの前にくると足場の上に顔を出していた家はもうない。工事用のシートの隙間、かつて「いえ」だったものが物体と化して堆く積まれている。割れたスタッコの壁、崩れたスペイン瓦。最後の瞬間を見届けたいともつらいとも思いながら雨にゆだねた。建物が消えると、かつてそこにあったものが何だったかがわかる。ここに生きたひとびと、通り過ぎた人たち、降り積もった時。そして、切り取られたまち。

関連エントリー
MyPlace 「洋館に綱が:刑部人アトリエ」
chinchikopapalog 「いいなぁ、文京区の「目白台公園」

投稿者 玉井一匡 : 11:15 AM | コメント (10) | トラックバック

April 06, 2006

I love カメレオン:Tokyo Jungle


 先日、masaさんを誘惑して、麻布の谷戸と思いがけぬジャングルをめぐったことはkai-wai散策の「麻布ジャングル冒険記」にくわしい。途中、爬虫類の入った水槽をならべた店を見つけた。ぼくは爬虫類は苦手なんだと腰の引けるmasaさんにちょっとごめんなさいを言いながら箱に近づくと・・・・ゲッコーという名前が多い。ゲッコーとはgecko:ヤモリのことだが日本のそれとくらべればずっと大きくて20cmほどもあるけれど、これをいやがってたら南方では暮らせないからヤモリは大丈夫になったんだと、masaさんは気を取りなおす。トカゲにはまぶたがあるがヤモリにはなくて、当たり前だが瞬きをしないんだそうだ。
奥の上の段に1匹だけ、カメレオンがいた。・・・・・・・美しい。masaさんはカメレオンも好きだという。なんだ、けっこう好きなんじゃないか。これはエボシカメレオンというのだがマダガスカルからもらったので、手放すわけにはいかないんだそうだ。部屋に置いた観葉植物にカメレオンをとまらせておいたら面白いいだろうと、ぼくは前からあこがれている。かつて指に掴まらせてみたら、その感触がとてもよかった。

餌はなにをやるんですか?  コウロギをやります。
何匹くらい?  一日に1匹です。
えっ、そんなものですむんだ。何年ぐらい生きるんですか?  10年ぐらい生きますよ。
名前呼んだら来ます?  カメは来ますけど、カメレオンはそこまではしないですね。
おなか空くと、近づいて来たりして?  こっちの方をむいて、舌を伸ばしたりします。
ほかの箱は、床に砂や何かが入れてあるのに、なぜカメレオンには何も入ってなんですか?  カメレオンは水をかけてやるんで、床には何もなくしておかないと、汚ならしくなるんです。
ぼくは10年くらい前にグリーンイグアナを飼ってたんだけど、死んじゃってから、あれよりかわいい奴に会ったことないんだよ。でも、イグアナにかわいいのとそうでないのがいるっていう話をしても、なかなかわかってもらえないんだよね。   そうなんですよ。見てると分かるようになるんですよね。
かわいいなあ。  写真とっていいですよ。ストロボさえつけなければ大丈夫です。
もし、これを売ってもらえるとしたら、いくらくらいなんですか?とmasaさん  3万円くらいです。
へえ、このかわいらしさの割からすれば安いなあ。ワシントン条約はクリアしてるの?  もちろん。
また来ますね。  いつでも寄ってください。

出がけに確認すると、店の名は「TOKYO JUNGLE」とあった。
インターネットでカメレオンをさがすと、こんなサイトがある。
爬虫類の好きな人は、いるもんだと感心した。

投稿者 玉井一匡 : 11:00 PM | コメント (14) | トラックバック

April 04, 2006

目白の馬

 いつもの道を自転車で走っていると、仮にそんなことができたとしてだが、目をつぶっていてもどこにいるのか分かるところがふたつある。いずれも、ぼくにとっては好ましい匂いが漂うのだ。ひとつは神田川沿いの精養軒の工場、もうひとつは高台にある学習院の南向きの斜面、Chinchiko Papalogで知った言葉によればバッケの足元だ。食べ物の香り、生き物のにおい、一方はケーキを焼く香りともうひとつは有り体に言えば馬糞のにおいだ。さらに秋になると、道路には沢山の銀杏の実が落ちる。それを通り過ぎる車たちが踏みつぶして球体を二次元化するときに植物というよりは動物的な匂いに変えてゆく。ガラスを閉じた車には分かるはずもないが、歩行者と自転車には、その匂いがしっかりと記憶に残される。 春には、斜面を背景に咲くサクラが美しい。樹木が多いから、初夏には若葉の青臭いかおり。夏のさなかにも、ぼくは好き好んで日向を走るのだが、ここを通り過ぎるときには、あきらかに空気がかわる。ひんやりとした空気が降り注ぐのを感じるのも楽しみだ。この写真は、ネットフェンスの網目の間にレンズを入れてとったものです。
ここで、先日はタヌキに出くわした。Chinchiko Papaによれば、あのタヌキは学習院の血洗いの池あたりに住む一家らしい。

山手線のトンネルをくぐると、道路際の細長い一画を別にすれば学習院のキャンパスがはじまる。その一画の景色が、すっかり変わってしまった。中層の高級マンションが、まもなく完成する。地上11階地下1階、396戸という、都心では大規模な高級マンションがフェンスのように立ち上がる。「目白ガーデンヒルズ」といいながら、丘の上ではなく丘の足元にたっているから地形を壊しているわけではない。なにしろ斜面は学習院の土地なのだから当たり前のことだが、その豊かなみどりをしっかり借景として取り込んでいる。その分だけ街には崖を構築した。道路際に1mほどの窮屈な歩道を提供しているが、背後の斜面を感じられる隙間は作られていないようだ。
まだ、完成したわけではないから、これからゆっくり観察してゆこうと思うが、せめて馬がクサいなどという文句を言うような住民は住まないようにしておいてほしいものだ。ここは都心にありながら先住民の馬やタヌキが共存しているという、えがたい環境なのだから。

投稿者 玉井一匡 : 07:39 AM | コメント (14) | トラックバック

March 28, 2006

回遊美術館というこころみ

IkebukuroMontparnas.jpg
「洋館に綱が:刑部人アトリエ」のエントリーにChinchiko Papaがトラックバックをしてくださった。そこへ跳んでみると、行き先は「椎名町のみなさん、ありがとう」というエントリーだった。「以前に紹介した新池袋モンパルナス西口まちかど『回遊美術館』が、きょう最終日を迎える。」と書いてあるので、あわててこれをエントリーした。
chinchikopapalogは、毎日のように渾身のエントリーが続くのだが、それだけにちょっと目を離すと、しばらく学校を休んだあとに教室へいった子供のように、なんだか取り残されたような気がしてしまい、ついついChinchiko Papalogに寄りそこなってしまうものだから、ぼくはこの回遊美術館のエントリーを読んでいなかった。池袋西口の、かつて「池袋モンパルナス」と呼ばれ画家などが多く住み、立教大学を中心とする学生街といっしょに魅力的なまちができていたという。それを掘り起こしてみようという催しなのだ。こののChinchiko Papaのエントリーを見ると、いつものように密度が高い。しかも彼のブログが、この地域にあったものをいかに丁寧に掬い上げてきたかを示すように、自身のブログ内へのリンクがすこぶる多い。
回遊美術館というのは、独立した施設としての美術館ではなく、まちのなかの銀行、学校、美術館、画廊、カフェ、地下鉄のコンコースなどで一斉に美術展などの催しをやろうというこころみ、つまりモノでなくデキゴトなのだ。まちをみんな美術館にしてしまおうよというわけだ。

googleを探したら、「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」を開催しますというサイトがあった。この催しは立教大学や豊島区などが協力したイベント。Chinchiko Papaが椎名町のみなさんにありがとうとおっしゃるのは、豊島区の椎名町のひとたちが「池袋・椎名町・目白/アトリエ村散策マップ」というのをつくったが、そこには新宿区にある佐伯祐三や中村彝のアトリエなどがちゃんと掲載されていて、豊島区がなんてケチなことをいわずにそんな枠を踏み出しているからなのだ。それにひきかえ、新宿区の体たらくは自分の区のことさえ・・・・と言わずにいられない。「池袋モンパルナス」ということばは、今になってみるとちょっと気恥ずかしいが、それは大正から昭和にかけての日本の気分を伝えてくれる。トップライトのあるアトリエに小さな寝室がついている家をたくさんつくったというのだから、本気だったのだ。近頃のデザイナーズマンションというものが、デザイナーの住むマンションではなくデザイナーが設計したマンションを意味するのとはそもそも話が違う。

大きな箱モノをドカンとひとつだけつくるよりは、むしろ小さなものを点在させる方が、大きな影響をまちに及ぼすことができると僕は思う。そうすれば、点在するところを移動する間に、訪れたひとはまちと接し、まちに生活するひとと接することができる。
これまで日本では、モノが作られるときの経済効果ばかり考えて、作られたあとの使われ方・デキゴトはろくに考えてこなかったけれど、使う側からの行動がこうやってブログといっしょにひろがれば、面白いことになるかもしれない。

投稿者 玉井一匡 : 02:50 AM | コメント (4) | トラックバック

March 26, 2006

神田川沿いの桜


明治通りから江戸川橋までの神田川の両岸には桜が並ぶ。岸の側には建物があるので存分に枝を広げられないぶん、川のうえには精一杯に両側から枝を伸ばしている。関口芭蕉庵前の駒塚橋のたもとには白い桜が毎年のように一足早く花を咲かせる。少しずつ花を開きはじめた対岸から芭蕉庵を見ると、斜面のしだれ桜が満開に近い。
たまに雪が降ると町の景色が一変して、乱雑をきわめる街並さえ静けさにつつまれるように、さくらは、春にとって長続きのする雪景色のようにまちを変えてしまう。花が咲くと、それまではまだ息をひそめていた新しい季節があたりを満たす。神田川のこのあたりも、桜がはなをつけるこの季節にはすっかり景色が変わる。あすにもそうした時が来そうなこのごろは、川の石の上で亀が日差しをせっせと蓄えている。
「歴史の足跡」というサイトの「歴史を留める東京の風景」というところにある関口芭蕉庵と神田上水についての記述が、地図や広重の江戸百景の絵も添えて丁寧だ。

投稿者 玉井一匡 : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

March 24, 2006

洋館に綱が:刑部人アトリエ


 西武新宿線中井駅の近くには、高台の足下を、地形をなぞるようにしてゆるやかな曲線を描く道が走っている。ぼくは毎日のようにここを自転車で走るのだが、今朝、通り過ぎてから気づいたことがあって自転車を止めた。林芙美子記念館をすぎて2軒目のいえの、大谷石の擁壁に切り込んだ階段の下に、黒と黄色で立ち入り禁止を伝える綱が張ってある。奥に見える玄関ポーチに木の円柱が一対立っているのに目を凝らすと、その柱は螺旋状のリブでおおわれ、ポーチの上のファサードは滑らかな曲線を描き銅の笠木の緑青に縁取られている。

いつかはこうなると思ってはいたが、とうとう始まるのだろうか。南向きの傾斜地に緑濃い大きな区画の住宅がならんでいたこのあたりは、山手通りに近い所から徐々にかわってゆく。よく変わってゆくならいいけれど、区画は小さく、緑は少なく、崩された大谷石の壁の代わりにコンクリートの壁とシャッターが並んで、すっかり排他的で味気ない表情になってゆく。

林芙美子の住んでいた家:林芙美子記念館というエントリーにも書いたことだったが、記念館と、坂をはさんだ隣家、そのつぎのこの家と3軒のならぶ斜面は、とても心地よい道をつくりだす。2軒の洋館は住宅だから、外から見て想像をふくらませるよりしかたないのだが、なかにどんな空間があるのかを考えずにはいられない、時間と記憶をゆたかにたくわえている。上記のエントリーで、林邸の隣人とおっしゃる方にお話をうかがったことを書いた。「母が亡くなって相続税が発生すると私の家も維持できないだろうし、新宿区も今では買い上げるだけの金がない」と言われた。その方が刑部さんとおっしゃったが、林邸の隣の家は画家の刑部人(おさかべじん)の家だったのだと、いのうえさんに教えていただいたことがある。今回、立ち入り禁止の綱の張られた家には、かつて絵画教室の小さな看板がかけられていた。もしかすると、ここは刑部さんの身内のかたの住まいだったのだろうか。・・・・・そう書いたら、すぐに井上さんからメールをいただいた。それによれば、この家がまさしく刑部人の家で、「日本の洋館」(藤森 照信 著、増田 彰久 写真、講談社刊)の表紙の写真はこの家なんだと教えていただいた。だとすると、ぼくが2軒の住宅だと思っていたのは、いずれも刑部邸だったというわけだ。
中井-落合-目白と続くこの一帯には、かつて堤康次郎がつくった落合文化村があったことを、あきれるほど克明かつ愛情を込めてChinchiko Papalogに書かれているが、そこには佐伯祐三中村彝などの画家が住んでいたことも、さまざまな角度から記されている。「文化村」という名称を僕はあまり好きではないけれど、文人画人が住んでつくられた緑ゆたかな新しいまちは、金を操作するだけで巨万の富を築いたひとびとがあたりを見下ろす塔よりは、比較にならないほどいいまちだ。六本木ヒルズの塔をつくり、古くからのコミュニティをこわしたのと同じ「市場原理」が、このまちをさらに踏みにじってゆくのだ。

一目見ておきたいとお思いの方は、今のうちに刑部邸を見にいらしてください。西武新宿線中井駅のすぐ北側、林芙美子記念館もすぐとなり、季節の花がいつもきれいです。

投稿者 玉井一匡 : 02:52 PM | コメント (12) | トラックバック

March 19, 2006

アメリカの原罪

USAloser.jpg
 ワールド・ベースボール・クラシックでアメリカは、なりふりかまわず自分たちに優位な環境とルールをつくりながら2次予選で敗退した。この大会でのアメリカの振舞いはブッシュUSAそのままだった。審判の多くにアメリカ人を選んだ。反米意識が強く大リーガーを揃えた南米チームのならぶグループを避け、メキシコ、日本、韓国のグループを選んだ。そうやってさまざまなアメリカ優位の仕掛けをつくったが、そのことは、かえって相手チームをやる気にさせ、アメリカの選手たちはやる気をそがれていったようだ。
 日本とアメリカのゲームでの誤審に批判的だったニューヨークタイムズは、アメリカの敗退をどう書いているかが気になって、ニューヨークタイムズのサイトを見た。ここでさえ、この期に及んで未練たっぷりな記事を書いている。「もし、メキシコがビジターだったら、彼らがアメリカに2−1で勝っても韓国と一緒に準決勝に進んだのはアメリカだった」と。はじめは、これが何のことか僕には分からなかった。
二次リーグで勝ち負けが同じチームができた場合には、失点率という指標で比較することになっている。失点数をイニング数で割って、それに9を掛けるから、一試合あたりの失点数を示す。ピッチャーの防御率の計算の自責点をチームの失点でおきかえたものだ。日本は17イニング2/3で5失点、アメリカは17イニングで5失点だった。メキシコとの試合では後攻のメキシコが勝ったので、9回裏がなかったけれど、もしメキシコがビジター扱いで9回表の攻撃をしたら、アメリカは18イニングで5失点になるので、失点率が日本より少なくなっていたというのだ。ニューヨークタイムズさえ、もともとアメリカ有利の条件がつくられていたことを批判しない。
 しかし、かつてアメリカの野球は、外国人に対してむしろフェアだと、ぼくは思っていた。

 かつて王がハンク・アーロンのホームラン記録を更新したときに、球場の広さやピッチャーの力が違うということを問題にせず、アメリカは世界記録として評価した。もし、王の記録を台湾や韓国のバッターが破ったとしたら、日本の野球界は素直に評価することはしなかっただろう。野球だけではない。日本は滅多に難民を受け入れないが、アメリカは多くの移民を受け入れてきた。しかし、フェアなアメリカと世界中を自分の国のようにして干渉するアメリカは、実をいえば同じひとつの根から生じたものだとぼくは思う。

それは、国作りにまつわる原罪。アメリカは盗んだ土地の上に国を作ったという事実だ。土地の所有という概念すら持たなかった遊牧民を相手にして協約という一見したところ正当な手続きで、あとからやってきた連中が土地を取り上げた。この行為を正当化するには「本来、土地はだれにでも開放されている。自ら開拓すれば、そこは彼のものだ。」という論理をつくるしかないだろう。
 「だから・・・」というその先の結論で二つに分かれる。ひとつは、外国から来る者に対しては「自由にこの国においで」というフェアな態度として表れることが多いが、他方、アメリカが外に出てゆく時には「ほかの国も我々のようであるべきだ」と、未熟でローカルなルールを他者に押しつけ、ときに軍隊すら投入する。アメリカ国内で開かれはしたが、国際大会という外の場で行われたこの大会で、二つ目の振る舞い方をあらわにしたのだ。自分たちに合うように世界を書き換えるという、いつもながらのスタイル。

アメリカで一番のチームを、これまでワールドチャンピオンと呼んできた。この大会を真の世界一を決める大会だと位置づけたが、アメリカを一番にするために強いチームをつくることに力を注ぐよりも、アメリカ有利のルールをつくりあげようとした。にもかかわらず、それは失敗におわった。ブッシュUSAと同じく、アメリカ基準にすぎないものを世界基準と言いくるめようとしたが失敗、アメリカ嫌いの感情を参加国に残した。アメリカのグループからは日本が、もう一方のグループからはアメリカの大嫌いなキューバが決勝に進むことになった。ぼくは、アメリカが負けたことだけで満足だったが、日本が勝って大満足になった。

投稿者 玉井一匡 : 03:30 PM | コメント (1) | トラックバック

March 15, 2006

真夜中 学習院下でタヌキと


昨夜、といっても午前0時をとうに回った頃だから日付けは今日になっていたのだが、学習院の馬場の下を、自宅めざして自転車を走らせていた。この時間、この道はほとんどクルマも人通りもないし、街灯もないから自転車で走るには快適このうえない。道路の向こうよりに黒っぽい犬が座っている。丸顔をこちらに向けているのを目を凝らして見ると、犬ではない、タヌキだ。ぼくはすぐに自転車を停めて向かいのテニスコートのフェンスに立てかけると、バッグからカメラを取り出した。いつもは切ってあるストロボをセットするものもどかしく、慌てて振り返るともう道路にいない。しかし、格子の扉のむこうに座ってこちらを向いている。格子の間にカメラを入れてズームを目一杯の望遠にしてシャッターを押すと、一瞬ストロボの光がタヌキの瞳孔をオレンジ色にした。ディスプレイを見るとタヌキは入っていない。今度は、画素数を最大にしてもう一度。ディスプレイをみると、また映っていない。

 そのとき、うしろから車のヘッドライトが光った。ちらっと振り返ると、パトカーがやってきて停まった。またカメラを格子の間に入れて構えた。む。狸はいなくなっていた。夜中に、格子の間にカメラを入れている怪しい行為を棚に上げて「おい、お前たちが明るくするからだぞ」と、鬱憤を晴らそうとして振り返ると、パトカーもいなくなっていた。不満をぶつける相手も写真を撮る相手もいない。彼らもタヌキだったのか、またタヌキに会った奴が一人いるよと思ったのか、何も言わずにいなくなった。トリミングをできるように画素数を最大にしたけれど、そのときに広角にするべきだった。望遠にしたから、視界から外れてしまったのだ。液晶ディスプレイは真っ暗でなにも見えないが、ファインダーを見ればよかったのにと、あとになって数々の反省をした。タヌキに化かされたというのもかえっていいか、と思うことにしよう。自転車をまたいで時計を見ると、0:40だった。

 落合のマンションの計画地のあたりにはタヌキがいると、ひところ話題になったけれど、それがこのあたりにもやってきたのだろうか。それとも、このあたりは樹木が多いから、独立の生計を立てているのかもしれない。しかし、人間の生活環境すら壊されてゆく東京のようなまちにタヌキがいるということを自分の目で確認できたのは、とてもうれしいことだった。
 かえりがけ、あるクライアントを思い出した。彼は、夜中に伊豆の山中を車で走っているときにタヌキをはねた。車を降りて見てみると、すでに死んでいる。どうせ死んだのだからと、彼はなきがらを車に乗せてきた。家に帰ると、ご亭主が腕をふるって解体し、タヌキ汁をつくってくれと奥さんに料理を頼んで食べちゃったのだそうだ。タヌキを食おうと思う亭主も亭主だが、そんな要望に応えてタヌキ汁をつくる奥さんも人物だなと、その話を聞いて、ぼくはひどく感心した。後日、親しい獣医さんに話したら、タヌキには寄生虫がいるからあぶないんですよと心配していた。虫がいたとしても、そのときにはもう手遅れだったろうが今も家族そろって元気だ。
 今朝、道路の写真を取り直した。はじめは、格子戸の前の道路にちょこんと座っていた。そのすぐあとに、格子戸の下をくぐって中に入ると右手奥に座って、こちらを見ていたのでした。

追記 060317 / Chinchiko Papaと妾番長さんの書いてくださったコメントに関わることを追記しておこう。このあたりのような河岸段丘の地形を「バッケ」あるいは「ハケ」ということばがあって、それは縄文語あるいはアイヌ語(頭、突端)由来の言葉とされているんだと、chinchikopapalogに神田川流域に残った「バッケ」と、もうひとつ世代で異なる「バッケが原」の位置というエントリーで書かれていて、このことばは「お化け」につながると結ばれている。もし、タヌキが昔からこの辺りに住んでいたのだとすれば、そのことが「ばける」あるいは「ばかす」ということと、何かのつながりがあるのかもしれない。
chinchikopapalogにはもうひとつ、「ハケの下落合」というエントリーに、バッケについての詳しい記述がある。

投稿者 玉井一匡 : 12:00 PM | コメント (13) | トラックバック

March 12, 2006

路地 と 「路地の再生」

先日、わきたさんが東京にいらして佃を歩いたときのこと、ここはすばらしい路地があるんだというmasaさんにさそわれて、すでにみんなから遅れをとっていたのに屋根付きの路地に入っていった。kai-wai散策には、いつものように路地に潜んでいる魅力を呼びさます写真が記憶された。masaさんが書いているように、路地の向かいの超高層のマンションの足元に「路地の再生」という看板があった。それには、ほこらしげにこう書かれている。
「この街に古くから残る風情豊かな路地空間。その空間を未来に残すため敷地内に四本の路地を再生しました。
道草の路地  雨上がりの路地 渡しの路地 雑木林の路地
当マンションは環境共生住宅の認定を受けています。」
これを路地といっていいのか、プリンスタワーホテルの立て札と同じじゃないか、という憤りに近いmasaさんの思いはぼくもおなじだ。しかし、ぼくには純粋な腹立たしさに浸りきることができない。板張りの歩道、いずれは豊かになるであろう植物、水辺の歩道など、それなりに考えてつくられているのはたしかなのだ。再生路地の前にたって看板を見ていたぼくが、やれやれという表情でmasaさんと顔を見合わせたあとで、「もし、おれが頼まれても、こんなふうにいろいろと考えるかもしれないけどね」と言ったのもあながち冗談ではなかった。インターネットで調べると、ここには1万数千本の樹木が植えられ、地元から感謝状を受けたと書かれている。
それでも、しかし、とぼくは思う。

 路地には家の中から光がこぼれる。話し声が聞こえる。何かをつくる機械が音をたてる。いえといえの間にある路地は、両側に住むひとたちの場所、そこを通りがかる人のものだ。
ところが超高層マンションの足元の再生路地と家々のあいだには、ホテルのロビーのような玄関ホールがあって、路地を通る人とのあいだを遮る。再生路地とマンションの入り口は不連続なのだ。かつてあった路地は、決して再生されていない。高層マンションは排他性にもとづいてつくられている。住人以外を排除する。人間の動線もエネルギーの供給ルートも集中するから、それは犯罪のための好条件をつくる。それを防ぐには、超高層マンションでは他者を排除せざるをえないのだ。超高層ビルは地上に谷間をつくるだけではなくコミュニティを分断する。環境共生というが長屋とは、けっして共生などしていない。それとも、まわりのまちは環境ではないというのだろうか。問題は高層であること自体にあるのだ。
地震で電気が止まれば水もなくエレベータも止まり、上り下りもできなくなる。ヨーロッパではすでに、高層の集合住宅があまり作られなくなっているというのに、日本ではまだつくり続け、売れているらしい。「市場原理」のなすがままに、まちが委ねられているのだ。
かつてこの一帯に肩をよせあっていた長屋や路地を一掃して超高層マンションをつくりながら、路地を再生したと誇らしげに宣言する仕組みは何かに似ていないだろうか。空襲で爆弾を撒き散らし、まちを破壊し人を殺しておきながら、ふんだんに支援物資を届けて英雄を気取るアメリカ軍のようではないか。

とはいえ、ひとつむずかしい問題が残されている。一昨年、二十数年ぶりにバンコクに行ったときに、超高層ビルが立ち並びすっかり近代都市になったのをみてぼくは落胆した。飛行機を乗りつぐあいだの8時間ほどの炎天下にひとりでまちを歩き続けて、古い建物のびっしりと立ち並ぶあたりにたどりついて、ぼくはやっと安堵した。
そのそばから、ここに住んでいる人たち、じつは好き好んでここに住んでいるわけではなくて、できるものなら新しい高層の集合住宅に住みたいと思っているのではないかとも考えた。それは、日本でも同じことかもしれない。(左の写真が表、右の写真が裏)
だからこそこの日本で、古い建物の魅力を見つけて、みずからそれを住まいや店として使おうという若い人たちが増えているということに、可能性を感じるのだ。

投稿者 玉井一匡 : 11:30 PM | コメント (17) | トラックバック

March 04, 2006

薬王院の枝垂れ梅 と 落合のみどり

YakuoinShidareume2.jpg
 通勤途中に牡丹の花で知られる落合の薬王院の前を通る。2月28日、道路から見ると参道の奥の山門前にしだれる樹があわい紅色の花をつけていた。桜だったろうかとおもいながら自転車をおりて近づくと、やはり梅だったが淡くて品のいい桃色が春の気配の中に浮かんでいる。枝はゆるやかに下りてゆきそこに花を点在させる姿はとても品がいい。山門から中をうかがえば、そこにも梅が春をつげている。やっとこのとき、もう3月だと気づいた。

高台の尾根を目白通りが走り、その足元を、かつて十三間道路とよばれた新目白通りが並走する。その間にある傾斜地は東西に長く続き、林芙美子記念館などのある西よりの一帯から、東には学習院の馬場などを経て椿山荘のあるあたりまで樹木のゆたかなところが点在して江戸川公園に至る。さらに、神田川と支流の妙正寺川が流れる。無論、高台があり足元を川が流れ斜面は樹木におおわれるという地形がはじめにあって、道路はそのあとにつくられた。この梅のあるあたりでは薬王院、野鳥の森、お留山公園などの緑がゆたかで、そのつらなりの一部に大きな住宅の建つ屋敷林がある。それをディベロッパーが手に入れて低層のマンションを計画しているのに対して、みどりを残そうと周辺の住民たちが決起した。

下落合みどりトラスト基金をつくり、実に2億3000万円をあつめた。新宿区長東京都知事あての要望書を提出、基金を一部として土地を購入し、環境を保全するよう求めた。このあたりに狸が出没することが新聞にも掲載されて話題をあつめたこともある。

にもかかわらず、ディベロッパーは購入価格をつりあげ、新宿区は予算がないといい、業者は説明会で声を荒らげて恫喝さえしたと、chinchikopapalogに書かれている。確認申請はすでに出されている現在、状況は厳しい。今月中にも樹木の伐採がはじまるかもしれないそうだ。

もしも新宿区が本気でここを守りたいと考えているのだとすれば、すべて買い取るか諦めるかの二者択一以外に方法をさぐることできないのだろうか? たとえば区が負担できる以上の費用は借り入れをおこして土地を購入し、建物の計画を縮小して借り入れ分の金額を回収できる規模で森と共存する集合住宅をつくる。集合住宅にとっても周囲にとっても、きもちよい場所がつくられるだろう。当初は、この土地にあった古い邸宅そのものを含めた保存を目指していた。森と古い屋敷を残そうと考える側としてはそういう案は計画の容認でもあって賛成しがたいところだが、時間が過ぎていって計画がなしくずしに進められていきそうなのだとすれば、そういう方法も選択肢のひとつとしてあるのではないかと、このごろは思う。

投稿者 玉井一匡 : 10:50 PM | コメント (6) | トラックバック

March 03, 2006

わきたけんいちというできごと

earthdiningDen8.jpg
 わきたさんの盛岡出張の帰りがけに東京に寄っていただいて、アースダイビングわきた版の下打合せをすることになった。AKi、iGa、masa、わきたさんとその研究者仲間の萩原さんがいらした。初対面だというのに待ち合わせは「江戸東京博物館で」というだけのおおまかな約束に、なにか混乱が起きないかと内心おもしろがっていたのだが、AKi、iGa、tamは一見地階のようなミュージアムショップの前に、wakky、nuts、masaの3人はエレベーターを昇った空中に別れたものの携帯電話のおかげで大過なく集まることができた。(初対面の方々がいらっしゃるので、肖像権に配慮して、クリックしても大きくならない写真にしました。ほんとは、わきたさん、なっちゃんの表情もつたえたいのですが)
摂州から移り住んだひとたちがまちをつくった佃島の路地で椎茸をみつけ、先日、masaさんのkai-wai散策に魅力的な写真たちがあった築地魚河岸の余命数年の短さを思い、AKiさんが内装を設計された三原橋の傅八で作戦会議というルートはiGaさんの提案と資料のおかげで、アースダイビングの助走というおもむきとなった。晴海通りを挟んで建つふたつのモダニズムの建築は、学生時代から気になっていたのだが、土浦亀城の設計によるものだと初めて知った。いや、この日ぼくの第一の命題は「わきたけんいちとは何か」だった。

 はじめは、kai-wai散策へのコメントを読んで興味をおぼえ、wakkykenという名前をクリックした。跳んださきの「大津まち歩記」には、琵琶湖周辺のまちの古いたてものの写真がエントリーされていた。一昨年、ぼくは近江八幡に行ったのだが、そこでは、掘割や古い通りに新しくつくられたものが周囲の古いたてものに合わせるだけの保存でなく、積極的に新しいものをつくりながらとてもうまく解け合っているし、あけすけな観光化をせずに商業的にも成功しているようで、そのことがとてもきもちよかったので、あるときぼくはそんなことをコメントして自分のところに戻ると、丁度わきたさんのコメントが書かれていたので驚いてしまった。それが偶然だったのか、ぼくのコメントを読んだあとの素早い反応だったのかまだうかがったたことはないが、wakkykenはその後ぼくたちの周辺というよりはkai-wai散策の界隈のblogだろうがwakkykenやわきたけんいちの名をあちらこちらで目にするようになった。そして「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」のサイトを運営する環境社会学の研究者で教職にあることも知った。
 興味を持ったblogには、あたかも自分のサイトであるかのように、時と文字と思考をおしまず、すぐさまコメントを書き込んでゆくわきたけんいちは、ぼくにとってみれば、漂泊のブロガーのいのうえさんと同じようにMyPlaceのテーマに共鳴するたのもしい同志だと思われた。
その後もさらにコメントを重ね、おかげでこちらも手強い相手に返事を返さなければならぬと頭をしぼる。それがblogを深化させるようになるのだと思う。

 これまでのわきたけんいちは、さまざまなコメントそのものや、その書き方という証拠物件の累積という存在だった。ふつうのコメントであれば、わきたけんいちは一人のヒトになったかもしれないが、彼はヒトである以上にwakkyken+わきたけんいちというできごととなっていた。それが、この日を境にして一人の男として集積された。その実物は、なんとはなしに思い浮かべていたよりも寸法が大きくて、ヒゲさえたくわえた男だった。けれども彼はとてもひとなつこくて、やさしく、やはり頭の回転の速いひとだった。その男のありかたをぼくたちは歓迎した。これからもよろしく、わきたさん。南部鉄の銀河鉄道を、ありがとうございました。なっちゃんようこそ。

投稿者 玉井一匡 : 06:35 PM | コメント (9) | トラックバック

February 21, 2006

LOVEGARDEN へむかって

 丸の内の「緑のどこでもドア」をあとに、日本橋まで歩いて都営浅草線で一本、曳舟で下車した。待ち合わせの改札口に一眼デジカメを首に下げてうっすらとヒゲを生やした男が、ひとなつっこい笑みをたたえている。
このうねった道は川があったのかな、きっとそうだな、なんてことを話しながらさっそくLOVEGARDENを目指す、と歩き出したがたちまち立ち止まってカメラを構える。レンズの先を見ればペンキの剥げた赤いツバメがコンクリートの塀に残っている。丸善石油のガソリンスタンドだったのだろう。これを意図的に残しているのだとすれば、このまちはたいしたものだぞ。写真を撮り終わると郵便局の配達の赤いバイクが、前を走って行った。でも、いやな顔をしない。masaさんの人徳と郵便局員の人柄だろう。だまって待っていてくれたのだ。あとで写真を見ると、masaさんのむこうに赤いバイクが一台、たしかに停車している。
角をひとつ曲がると、まちはさらにmasaごのみを増す。このあたり、道路は意地でも直角には交わるまいとしているかのようだ。googleマップを開くと案の定、乾燥した地面のひびわれのように、自在に交差していた。長屋が並ぶ路地には、もちろん車は入れない。かつては路地とそこに肩をよせあう長屋しか見えなかっただろうに、いまはその構成が一目瞭然で解き明かされる。となりの一画が取り壊されて駐車場になっているから、裏側からみると全体が一望にできるのだ。これまでの長い時間の中でも、それがわかるのは、このわずかに残された間だけなのかもしれない。そう思うと心はせかされる。

 冬の日は頼りなくて、曇りがちになった空にせかされるようにLOVEGARDENにむかう。当たり前だが、店はあけてあるから扉も開いている。あの扉は正面からは見られない。もちろん、開いていればもっとうれしいのだが、店が開いているのが残念だとも思ってしまう。そう思わせる店が、日本中に何軒あるだろう。日本中の郊外では大型店が建ち並び、どこもかしこも同じように索漠たる街並になってしまい、おかげで古い通りではシャッターがまちを台無しにしている。しかし、古いまちだって、こんなふうに魅力的な店がつくれるのだ。
3人の笑顔に迎えられた。cenさん、yukiりんさんそして、とびきり人なつこくてかわいい看板娘。
「なんさい?」 ゆびを3ぼん。「おじさんは?」と、しつもん。
片手をひらいた。おっと、サバをよんじゃあいけない。去年からはこれだ。「ほんとは、これ」左の人さし指を1本加えた。
 ブログの写真を寄せ集めた想像よりもモノがいっぱいあって、その代わりに思ったより植物が少ないんだ。と思ったが、下に下りる階段がある。少し床が高いところにcenさんの作業カウンター、ステンドグラスのドアの奥がyukiりんのコンピューターがあるにちがいない。なるほど、どこをとってもクローズアップに耐える。作業カウンターの上に「タイニーハウス」「シェルター」がおいてあった。もしかしたら、さっきの電話で並べてくれたんじゃないんですかとたずねると、以前からの座右の書なんだとcenさんは言う。ほんとですか、そうだとすればほんとうにうれしくありがたいことだ。「ホームワーク」まである。
 地下にも、もぐり込んだ。靴をはいたぼくが立って頭の上があと2センチくらいという高さ。床と基礎の間のスペースを利用した地下室だが、立って歩けるかどうかは大変な違いなのだ。作業部屋にしていたが、ホコリがひどいんで上に移したからいまは物置になっている。ここは、このうえなく居心地のいい場所になるぞ。長年使っていなかったのを開けてみたら、水が数十センチたまっていたという痕跡がしっかりと黄色い壁に残されている。それがまた美しい。
 たくさんのものたちに囲まれて、しかし、花の店の常として奥まで冬の空気が自由に出入りする。それでもまたたくまに時は過ぎて、たちまち冬の土曜日は暮れてゆく。こんなに沢山のものたち、その大部分は古くて捨て去られそうなものに手を加えている。それらをいっぱいに詰め込みながら、混乱におちいらず美しくたのしく思わせるのは大したものだ。それはどこからくるんだろう?
すくなくともそのわけのひとつ。この店には、この店の二人には、すでにあるものたちが潜めている魅力とちからを感じとってそれらを表に引き出してやる力と意思があるからだ。masaさんの写真が光の種を見つけ出すちからと通じるものがあることにきづいて、ぼくは納得の一部を手に入れた。それにもうひとつの手には、花かんざしをひと鉢もって、LOVEGARDENをあとに薄暗くなったまちの土曜日の中へ、masaさんにつれられて行った。再開発ですっかりまちがなくなったというところへ。

投稿者 玉井一匡 : 08:29 AM | コメント (13) | トラックバック

February 20, 2006

緑のどこでもドア

 丸の内の工事現場、仮囲いのフェンスの一部に正方形の緑がはめ込んであった。近づいてみるとツゲの苗のような小さなやつがびっしりと鉛直面に植えてあるのに、水平面にあるように枝も葉も平然と整然をまもっている。まだ2年くらいはかかりそうな現場だが、それでも仮設の期間ならこの状態をまもるのだろうかと、感心しているときに気づいた。コートのポケットから携帯電話を取り出すと、緑のランプが点滅して着信があったことを知らせている。この何度かの週末、東京ステーションギャラリーの「前川國男展」と京島のLOVEGARDENに行きたいと思いながら、実現できなかったけれど、気持ちよく晴れた冬の空と残り1週間になったい会期に後押しされて、両方とも行こうかと思い立ったのだが、LOVEGADENは京島の迷路の中にあるから案内するとmasaさんが言ってくださるので、当日になって電話するのは申し訳ないけれど、もし都合がよかったらどうだろうと携帯に電話をかけたのだが4回鳴ったところで電話を切り、彼の都合次第に委ねたのだった。

 あわてて携帯を開くと案の定、masaさんからだった。着信記録でぼくからの電話だと知って、LOVEGARDEN行きを予想して、すでにそちら方面に向かっているという。「ほんとなの?」合わせてくれたのではないかと、ちょっと気になったが素直に話に乗ることにした。なんのつながりもない前川國男展とLOVEGARDENだったけれど、ステーションギャラリーから前川さんの設計された東京海上ビルを見に行ったあと駅に戻る途中、不思議な植物を見ているときに連絡をできたことで、この緑の正方形がガーデニングのお店に行くための「どこでもドア」だったような気分になった。「緑のどこでもドア」は、近寄ってみるとプラスティックの箱を覆った黒いシートを抜けて顔を出した苗たちの集合なのだ。もちろん上に向いて伸びて行きたいのだろうからちょっとかわいそうだが、ソニービルが得意になってディスプレイしていた松の磔よりは罪がないな、などと思いながら日本橋をめざして歩きはじめた。LOVEGADENの最寄り駅曳舟は都営浅草線で一本だ。曳舟とは、考えてみればすてきな地名だ。こどもの頃、遊びの縄張りからすればずっと遠くに「こまつなぎしょうがっこう」というのがあったけれど、大人になってからそれが「駒繋小学校」であることを知ってすっかりうれしくなったことなどを思い出した。

投稿者 玉井一匡 : 06:55 AM | コメント (6) | トラックバック

February 14, 2006

春の兆し

 
今日は新潟でも10℃になるから雪崩に気をつけてと天気予報が伝えていたとおり、自転車で神田川沿いを走る出勤途中の川向こう、江戸川公園に紅白の梅が開いていた。背後には椿山荘に続く高台があって、手前の神田川とのあいだの細長い平地に公園がつくられている。googleマップでみれば、上にあるのは目白台アパートメントである。

だから、対岸から見ればここでは小さな山を感じられる。「さくら切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」といわれるように、神田川沿いの両岸には桜の並木が川を覆うほど存分にのびのびと枝を伸ばして、コンクリート3面張りのどぶ川もどきを忘れさせる季節がやがて来る。
紅白の梅がその先触れをしてくれるだけで、やがてあたりをつつみこむ桜さえ感じさせてくれるのだ。手前の枝に桜が花をかざれば、もう梅は見えなくなるが、よくしたもので、その時にはもう梅は花を終えている。
実を言えば、ぼくは雛祭りがすきだ。なにしろ、うちのお雛さまは去年から飾ってある。

投稿者 玉井一匡 : 11:40 AM | コメント (21) | トラックバック

February 03, 2006

一陽来復・穴八幡


「もしもし。ちょっと質問なんだけど。磁石を100円ショップで買ってきたら置き場所を移すと向きがかわっちゃうんだけど、どうしてなんだろう?」
「そりゃそうだよ、方位をみる磁石もくっつく磁石と同じ磁石だから、近くに鉄のものがあればそっちの方をむいちゃうから、場所を移すると向きが変わることはあるよ。それより、googleマップで大きくして、それで見る方がいいかもしれないよ」
と、言ったのだが、電話の主・類子さんはgoogleのことを知らない。ぼくは大好きなgoogle Mapについて熱心に説明した。
「そうなのか。じつはね、7,8年前に早稲田の穴八幡のお札をもらったんで貼ってみたのよ。そうしたら、うちは営業ってなーんにもしないのにさ、それからは、うまい具合に切れ目なく仕事が来るもんだから、毎年買ってきて貼るようになったの。それが大晦日か節分の夜中の0時に、その年の決められた方向に向けて貼らなきゃいけないっていうんで、今年は磁石を買ってきて正確に貼ろうかってことになったの」

「へえ、うちも貼ろうかな。だったら、もっと早く教えてよ」
「やってごらんなさいよ。うちの商品を置いてもらっていた倉庫の人に教えてあげたのよね。しばらく経ったらうちの商品を置くのを断ってくるじゃない。よく聞いたら、じつはお札を貼ったら大口のお客が増えたんで、うちのなんか置けなくなっちゃったんだって」
テーブルギャラリーの類子さんは、食器の販売、デザインやテーブルコーディネートをやっている。ぼくにとっては食器の店や、紅茶専門店などのクライアントだが、友人でもある。
「ひどい奴だな」
「ひどいよね」
「でも効くんだ」
「そうなのよ」
というわけで、ぎりぎり当日の今朝、ご近所なので穴八幡に寄ってきた。高田馬場、早稲田通りと諏訪通りの三叉路の高台にあって、半島の先端のようなところだから、代々木八幡と同じような地形にある。地名の由来である馬場に近い。かつて馬場だったところは、早稲田通り沿い北側の細長いブロックとして、穴八幡の参道の北西にそのまま残っている。こういうのが、東京でも残っているのを見ると無性にうれしくなる。そういうことを探してみる気にさせるのも、「馬場」という地名がちゃんと残されているからなのだ。
お守りやお札がいろいろとあるけれど、お目当ては「一陽来復御守」といい七百円なり。長蛇の列じゃないかと心配したが、4〜50人が並んでいるくらいだし、窓口には4人のお兄さんがいるのでどんどん進む。ATMより手際がいいぞ。ぼくの前のおばさんが質問をしている。
「夜中の12時に貼らないといけないんですか?」
「そうです。その時間に貼れないとわかっていらっしゃるなら、むしろお守りをお受けにならない方がいいです」と、きっぱり。
「そうなの。じゃあ、一陽来復をひとつ」と、残念そうだ。
類子さんもちょうど節分の日に日本にいられなくて、休日なのに社員に出てきてもらったという話をしていたことやら、貼り直してはいけないと言われてたのに、一度貼ったお守りが落っこちてしまい、心配になって穴八幡に電話をかけてきいたら「一度貼ったら効果に変わりはありません」と言われ、安心して貼り直したなんてことを言ってたのも思い出した。ぼくは、事務所と自宅用にふたつ。一陽来復と書いた紙を円錐形に丸めて、その中になにやら和紙で包んだものが入れてある。それぞれに説明の紙を一枚ずつ。
今年は巳午(みうし)の方角が恵方というので壁にそのまま貼るわけにはゆかない。斜めにしなければならないのだ。tacがCADソフトで作ったのをケント紙にプリント。方位アダプターを作成してくれた。

投稿者 玉井一匡 : 08:40 PM | コメント (10) | トラックバック

February 01, 2006

第3回アースダイビング大会

 第3回目のアースダイビング大会の翌日、自分も住人のひとりである集合住宅の管理組合総会を終えたあと新潟に行き月曜日の夜に帰京しました。と、エントリーの遅くなったことの弁解から始めなければならないのがなさけない。
 みなさんの充実のエントリーにコメントを書きたいがその前に自分のブロを書かなくっちゃとiBookにデジカメのデータを移して写真を見た。写真から、この道中で好ましく感じたものが分かるのは当たり前だが、それと同時に見たくなかったものもよくわかる。写真はどれも風景とまちの小さな部分や、さもなければ小さなモノちいさな建築たちだった。
 大地の下、あるいは現在の時の下に潜んでいるものは、地表がいづらくなったものたち追いやられたものたちなのだから、その痕跡が小さなものであるのは当然のことなのだろう。

  明治神宮の御苑では、枝をすべて失った赤松に藤とおぼしき蔓植物が巻き付いているところがあった。ここは空洞になった幹の一部にモルタルを詰めた樹木医の仕事かと、ひとまわり見て回ったが、近寄って目を凝らすと樹皮も地表にあらわれた根もすべてモルタルだ。と思いながら見ても半信半疑というくらいよくできている。巻きついた藤をまもるために、枯れかけた松の幹をモルタルでくるんでコテで樹皮をつくったのだろうと見当をつけた。リアカーにFRPのボートをのせた庭師の二人連れに出会ったので聞いてみると、金網にモルタルを塗って赤松の幹を作ったのだと、やや得意げに説明してくれた。一本の藤と風景をまもるために費やされた労力と技と愛情を思った。
 菖蒲池は、周囲にきれいに溝を巡らせて池の水位と湿り気をほどよく調節する仕掛けがほどこされているし、菖蒲の一株ごとに新種を作った人の思いを込めた名を板に墨書して立ててある。茅葺のあずまやの屋根には細く目立たない針金を張って、鳥たちに茅を抜かれないようにしているようだった。
 夕方にたどりついて開館時間がわずかしか残されていなかったので、一同が1000円の入館料を惜しんだ根津美術館には、藁縄を結んで形づくった梅の花が咲いていた。植物をまもる冬支度かと、茎にあたるところを指先でさぐると芯は割竹だった。花の少ない冬の庭に添えるいろどりとして庭師のあそびなのだろう。それとも、春になるとここに何かの花が顔を出すよというしるしなんだろうか。そのまわりだけ地表があらわれている雪がうつくしい。
 そんなふうにして丁寧にまもられる都心の池を水源として、水はゆるやかに谷を流れているはずだが、ひとたび明治神宮、根津美術館を出ると、コンクリートとアスファルトに閉じ込められる。ひとびとは自然を神としてうやまい、神社の水は詣でるひとびとを清めるものであったはずだが、たちまち暗渠の排水管に身を堕とす。
 そういうまちの窮屈さをむしろ楽しんでいる小さな黒い家が西麻布にあった。前後を細い道に面し裏の道は2mほど低い。表からは平屋だが裏からは2階建てで下をガレージにして、半透明のプラスティクの引き戸を透かして黄色いポルシェ356(秋山さんによればレプリカ)が見えた。

 菖蒲池について知りたくて明治神宮のサイトを開いてみると、ここには菖蒲はおろか御苑そのものについてさえ何の記述もない。森や地形や菖蒲を見る目的では明治神宮に来ないでほしいと言いたげに「明治天皇さまの御治世」や「教育勅語」あるいは「武道場 至誠館」などが書かれているばかりだ。だとすれば、菖蒲が植えられたのは美しさを愛でるためではなく、「尚武」のためなのだろう。
 今回の行程とその周辺の高台には、明治神宮、東郷神社乃木神社、旧防衛庁がある。明治天皇、東郷平八郎、乃木希典は、いずれも多くの日本人に敬愛された英雄だったことに乗じて、時の政府は日本の伝統を